暁の明星 宵の流星 #51
この山奥の森は、自分が子供の頃過ごした場所だ。
正規の道以外の道なら、よくわかっている。
とにかく早く、足場がよくなる麓まで下りなくては。
アーシュラは注意深く、且つ急いで細い道を下っていった。
しばらくすると、視界が少し開けてきて、この山を流れる川の音が聞こえてきた。
この川が流れる谷沿いを下れば、すぐに麓だ。
ただ、その道の隣で横たわる谷は深い。
神経を集中させながらアーシュラは馬を促した。
彼はちらりとキイの様子を見た。
キイは穏やかな表情で眠りについている。
あの三年前の彼のいきなりの行動に、その場にいた者は凍りついた。
その時はまだ、彼は意識を封じ込めただけで、肉体は普通に生きていた。
気持ちのない、人間。
まるで生きた人形。
目を開き、普通に生活できていても、彼の心はその場になかった。
アーシュラが後悔したのと同じように、彼を自分の激情でそこまで追い詰めてしまった事に、ザイゼムもまた激しい後悔を感じていた。
ただ、彼はそれを他の者に見せたくなかった。
その後悔を消し去りたくて、皆の前では何事もなかったように、また尊大に振舞った。
わざと「これでこいつは自分の物になった」と言った。
だが、本当の心の奥底では、彼をこのような状態になってしまった事に、自分を責め続けていた。
アーシュラは、そのザイゼムの気持ちが手に取るようにわかっていた。
昔から…幼いときから彼の傍にいたのだ。敬愛しているのだ。
アーシュラにわからないはずもない。
ザイゼムも自分と同じように、キイの美しさや、彼の生まれや宿命だけではなく、キイ自身に惹かれているのを知っている。キイの奔放さ、頭の回転のよさ、無骨さを振舞いながら、実は繊細だったり…。くるくると、まるで川の流れの水面のように、多彩な顔を持つ彼を、二人はこよなく愛しているのだ。
彼らは人形のようなキイなど、望んではなかった…。
はやる気持ちを抑えザイゼムは屋敷に戻って、内部が騒然としているのに慌てた。
「何事か!?」
キイに何かあったのか?ザイゼムは背筋が凍る思いだった。
「あ、ああ…陛下!」
ルランが転がるようにザイゼムの前に飛び出てきた。
「ルラン!どうした?何があった!」
「陛下……よ、宵の君が」
まさかキイが…。ザイゼムは青ざめた。
「キイがどうした!?何かあったか!!」
「アーシュラ様に…」
(アーシュラ!?)
「アーシュラ様が宵の君を屋敷から連れ出しました!申し訳ございません!
僕、僕…アーシュラ様をお止めできなかった…」
「何っ!?」
自分の足元に崩れ落ちているルランの肩を掴み、顔を上に向かせる。
「アーシュラがキイを連れ出した?」
「申し訳ありません陛下…。キイ様が一時息が止まってしまって…。必死に回復させたアーシュラ様が、暁の元へ連れて行く…と」
泣きながら言ったルランの言葉にザイゼムは唸った。
アーシュラめ!
あれほど私が次はない、と釘をさしていたのに!
ザイゼムはいきり立ち、ルランを強引に立たせた。
「アーシュラはどっちの方に行った?」
「屋敷の…左側の方かと…。僕、追いかける事ができませんでした…。だって…」
“だって、彼の気持ちが痛いほどわかる”という後の言葉をルランは飲み込んだ。
ザイゼムは泣きじゃくるルランをちらりと横目で眺めると、自分を護衛していた戦士達に大声で叫んだ。
「アーシュラを追う!全員ついて来い!」
そして俯くルランの片腕を掴むと、
「お前も来い!責任を取れ」
と乱暴に彼を引っ張った。
(左か…きっと谷沿いの道で麓まで行く気だな、奴は)
ザイゼムは恐ろしい形相で護衛を引き連れ、まるで嵐のような勢いでアーシュラとキイを追った。
谷沿いの道は、下る途中で徐々に広くなる。
少しは馬を引くのを早くしてもよさそうだ。
アーシュラが一息ついた時だった。
木々がいきなりざわめき始めた。アーシュラは警戒した。
左手の鬱蒼とした森から大きなざわめきと共に多勢の人間が滑り降りてきた。
ザイゼム達だった。
アーシュラは舌打ちをした。くそ、こんなに早く。
ザイゼムは彼がこの道で行くであろう事をすぐさま察知して、近道をしてきたのだ。
屋敷のある高台から森を直接滑るように下ってきたのだ。
「アーシュラ」
ザイゼムの声は怒りに震えていた。
アーシュラはキイを庇うように馬の前に出た。
「お前、俺の信用を無にしたな!」
アーシュラはきゅっと唇を噛み。ザイゼムを見据えた。
「もう次はない、と警告した。それを知っての行動なのか!」
ザイゼムは後ろにいる戦士が、じりじりとキイが乗った馬に回り込む気配を感じながら続けた。
「おい、アーシュラ、何とか言え!この私をお前は裏切ったと考えていいのか、返事しろ!」
アーシュラは今までと違う鋭い目で自分の敬愛する男を睨みつけた。
「……俺は…俺はキイを連れて行きます…。早くこうするべきだった!
手遅れになる前に!」
そう言いながら彼はゆっくりと背にある剣を抜こうと構えた。
その様子に、ザイゼムはアーシュラの覚悟を知った。
言い知れぬ怒りと哀しみが、ザイゼムの全身を支配した。
「お前…。この私を討つ、というのか。この私を!」
アーシュラは苦悶した。
と、その時戦士の一人が彼が庇っている馬の後ろ側に近づく事に成功し、キイの身体に手をかけた。
アーシュラは素早くそれを察知して、構えた手を途中でやめ、その戦士を思いっきりぶん殴った。
わっとアーシュラを囲むように戦士達が集まってきた。
彼は急いで馬からキイを降ろすと、自分の腕に抱きかかえ、後ずさりした。
その様子に目を細め、ザイゼムは二人の前にゆっくりと進んだ。
「アーシュラ」
ザイゼムの声は恐ろしいほどに辺りを震え上がらせた。
「アーシュラ。キイをよこせ。それは私のものだ。いくらお前でも、そのような狼藉、許せない」
ザイゼムはじりじりとアーシュラを追い詰め、二人に手を伸ばそうとした。
アーシュラはそれを避け、キイを抱き上げると反対側に逃げようとした。
が、ザイゼムもそれをすぐに追った。アーシュラの肩を掴み、自分の前に引き倒した。
アーシュラはキイを庇いながら、その場に転がった。
「アーシュラ!もう諦めろ!お前は私には勝てない!」
ザイゼムはぎゅっとキイを抱きしめて離そうとしないアーシュラを苛々と見下ろした。
「その手を離すんだ!」
それでも彼はキイを抱きしめる力を緩めない。
ザイゼムの言葉に、ただ黙って首を振るだけだ。
その様子にザイゼムは怒りの頂点に達した。
彼はアーシュラの肩を鷲掴みにすると、身体を自分の方へ向けようとした。
「アーシュラ!いい加減にしろ!キイは私のものだ!お前の好き勝手はさせない!」
アーシュラの気持ちも、もう頂点に達していた。
わかっていた。自分はザイゼムに敵わないという事は。
だからもう、ここまできたら彼にすがるしかなかった。
願いを請うしかなかった。
アーシュラの目から悔しさと悲しみの涙が一筋流れた。
「違う…」
「何?」
「違う、キイは貴方のものなんかじゃない。もちろん…俺のものでも」
「アーシュラ…」
彼は自分の敬愛する男を見上げ、震える唇で訴えた。
「キイは、誰のものではない!キイはキイ自身のものだ!
貴方も、俺も、誰もキイの意思を邪魔する権利なんかない!」
「お前…、まだそんな事を」
ザイゼムもここまできたらもう引っ込みはつかなかった。
「いい加減この手を離せ!キイは誰にも渡さない!」
その言葉に絶望した彼は力の限りザイゼムの手を払い除けながら叫んだ。
「兄さん!」
アーシュラは抵抗しながらも、彼を見上げ万感の思いを込めて言った。
「兄さん、お願いだ!主従の関係でなく、同母の弟としてお願いする!」
その言葉にザイゼムの手は止まった。
「頼む、兄さん。もうこれ以上…キイの事で兄さんといがみ合いたくない」
奔放だった母親は、よく父である王と喧嘩していた。
思春期を迎えて、かなり早熟だったザイゼムは、その喧嘩の内容もみんなわかっていた。
だから母親が若い男と駆け落ちした事についても、父親には悪かったが、心の中で拍手した。
ザイゼムは若い自分の母と、何かと気が合った。まるで親友のように。
だが自分も男だ。父の気持ちも悲しいほどよくわかるので、二人の事情に関しては傍観していた。
だからあの奔放でまだまだ若くて美しい母は、気軽な口調で気兼ねなく自分の息子に告白したのだ。
(ザイゼム、私、できちゃった)
(はぁ!?)
(ごめんね、ザイ。だから私、彼とここを出て行くから)
おい。思春期の息子に、そんな爆弾落としていいのか?
相手は自分の剣の師範でもある一級戦士だ。
当人より若い男と、いつの間に、母さん…。
(ということで!後のことは頼むわね)
(母さん、待ってよ!父さんはどうするつもり!?)
(あら、あの人は私がいなくても、沢山慰めてくれるお相手がいるから大丈夫でしょ?
でもね、彼は私がいないとだめなのよ。私じゃないと生きていけないんですって)
(……)
(あなたには迷惑かけて悪いと思うわ。でも、わかってくれるわよね?私の気持ち。
ずっと…苦しかったのよ、私)
(母さん…)
(もし将来、私達に何かあったら、この子お願いね。頼れるのはあなたしかいないんだもの)
お腹に手を当てながら幸せそうに自分にそう言うと、悪びれもなくゼムカを出て行った自分の母。
そして母が男と出て行ったのを知って、怒るどころか追いもしなかった父。
だが、それは父が無関心だったのではなく、あまりの落胆で何する事も出来なかったのを、息子は知っていた。
男の方が弱い生き物かもしれない。
まだ自分は子供の範疇だったが、何となく、女は心が決まると変わり身が早いものという事を学んだ。
それでも何故か母さんは、新しい夫との愛の巣に、父さんとの思い出の地を選んだ。
そして父さんは引退してその近くに居を構え、ずっと母さんの面影を追っている。
我が両親ながら二人の思いはよくわからない。
異母のきょうだいより、同母・同親のきょうだいの絆は、特に王家では強い。
それはザイゼムも例外ではない。
アーシュラに対する気持ちは、他の異母弟達とは違った。
ザイゼムはひとりで一生懸命生きてきた自分の弟を思うと胸が苦しくなった。
いつまでも自分の傍に置いていようと思った。
彼に教育を受けさせ、自分で手取り足取り剣を教え、いつも何かと連れ回した。
キイが目的だったが、天下の聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)で修業もさせた。
大人になり、自分の思い通りの男に育ってからは、互いに主従関係を貫いていたが、アーシュラは皆も黙認する、ザイゼム王の一番の近しい男であった。
自分がアーシュラに肩入れしている事を、現役だった父王は知っていて何も言わなかった。
王は子供のアーシュラを連れてきた時、彼を一瞥しただけで、関わろうともしなかった。
ザイゼムは父親の気持ちがよくわかる。
愛した女が自分以外の男と通じてできた子供を正視する事ができなかったのだ。
今こうして対峙してはいるが、ザイゼムが彼を可愛くないわけがない。
何故ならアーシュラは自分が育てたも同じなのだから。
だが、それとこれは別の問題なのだ。
「お前が同母の弟だとしても、これは別の話だ。
お前と対するのは私とて遺憾に思う。
今ならまだ間に合うぞ、アーシュラ。さぁ、キイをこちらによこせ」
ザイゼムは声を少し和らげて再び手を伸ばした。
「兄さん、お、俺は…」
アーシュラは絶望の目で彼を見上げた。
と、その時だった。
キイの容態が急変した。
彼は苦しそうに浅い息を何回も繰り返し、そのまま小さく喉を動かすと、ピタリ、と静かになった。
そしてみるみる顔から血の気が失せていく。
ほのかに赤みが差していた唇が一気に青白く変色していく。
「キイ!」
「どけ!アーシュラ!キイを貸せ!!」
キイの容態に動揺したアーシュラの隙をついて、ザイゼムはキイの身体を彼から奪い取った。
そして素早く北天星寺院(ほくてんせいじいん)から分けて貰った薬瓶の蓋を開け、薬を自分の口に含み、キイの唇を指で微かに開かせると、口移しでそれを流し込んだ。
ドクン!
ザイゼムの体に彼の鼓動が伝わった。
先程まで真っ白だった彼の顔に紅が差していく。
ザイゼムは冷や汗を掻きながら、キイの口元に耳を寄せ、彼の息吹を確認した。
ほっとした安堵の空気がその場を包んだ。
「アーシュラ、お前のした事は、キイの命を脅かす事も同じだ」
心が落ち着いたザイゼムは、睨みつけながらアーシュラを責めた。
「もし長い道中今の様な事があったら、お前はこのままキイを見殺しにするつもりだったのか!?」
「……」
アーシュラは苦しそうに唇を噛んだ。
「ルラン、キイを連れて帰る!支度をしろ!!」
ザイゼムは後ろで呆然と立っているルランに命じた。
そして次にアーシュラに振り向くと、周りの戦士にこう命じた。
「ア-シュラ護衛隊長を王に背いた罪で捕り押さえろ!
反逆は大罪。刑が決まるまで幽閉する!!」
その言葉にアーシュラは蒼白となった。
王の命令は絶対だ。戦士達は自分の上官を追い詰めなければならなかった。
護衛戦士達はじりじりとアーシュラを囲んでいく。
その様子に彼は意を決したように立ち上がると、一目散に戦士に背を向け走り出した。
「アーシュラ!!」
ザイゼムは叫んだ。
戦士達は彼を慌てて追った。
アーシュラはとにかく必死に走った。追いかけてくる自分の部下達の手から。
「アーシュラ様!」
ひとりの戦士が叫んだ。
「お願いです!大人しく捕まってください!」
「アーシュラ様!そちらは崖です!」
悲痛な声がアーシュラの耳に届く。
だが、彼はあえて無視した。
「アーシュラ様!」
アーシュラの目の前に、大きく口を開ける谷底が現れた。
「もう逃げられません!どうか、どうか大人しく…」
戦士がじりじりと彼を追い詰めていく。
彼は風が吹き上げてくる谷底を眺めた。
その下にはきらきらと輝く川の姿が見える。
「アーシュラ様…?」
彼は戦士達を一瞥し、悲痛な表情を浮かべると、自ら谷に身を投じた。
「アーシュラ様ーっ!!」
その話を聞いて、ザイゼムは唸った。
「この高さでは、いくらアーシュラ様でも…」
「馬鹿な奴だ!!」
ザイゼムは苦悶の表情で拳を地面に叩き付けた。
「アーシュラ、あいつは大馬鹿野郎だ!!」
そしてザイゼムは小さく震える手で自分の額を押さえた。
私が育てた私の愛する弟…。
彼が自分の元から去る日が来るとは思ってもみなかった。
ゼムカの王は、自分の大事な人間をひとり失ってしまったのだ。
自分の愛する男と引き換えに。
もうすでに、山には夕闇が迫ってきていた。
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