暁の明星 宵の流星 #58
オーンは南に一番近い、東の孤島にある。
一年中、暖かで穏やかな気候。爽やかに駆け抜ける潮風。
楽園と呼ばれるにはふさわしい。
島の入り江には、オーン信徒が生活している村がある。
そこから数キロ、緑を抜けると、天に一番高いとされる山があり、その頂点に天空飛来大聖堂がある。
そこは絶対神に全てを捧げた聖職者が集う神聖なる場所。
その最高位はふたつあり、神事を担う最高天空代理司長(さいこうてんくうだいりしちょう)、通称・最高天司長(さいこうてんしちょう)という男性の神官と、姫巫女(ひめみこ)と呼ばれる神の声を聞く巫女だ。
「姫巫女様!そろそろ日が暮れます。何か上に羽織るものを…」
ひとりの若い女官が、大聖堂の外れにある巫女達が住まう神殿から、庭を散策していたふたつの人影に向かって叫んだ。色とりどりの美しい花が咲き乱れる、この世の楽園とまで謳われる庭で時を過ごしていた、巫女の最高位である、姫巫女のラスターベルは、その声にゆっくりと振り向いた。
大陸一、美しいと謳われた、美の化身がそこにあった。
長い亜麻色の緩やかで絹糸のような髪。陰影を作るほどの長く濃い黒い睫毛に優しく煌く琥珀色の瞳。
女神の再来とまで囁かれた彼女は、齢5歳の時に能力を認められ、ずっとここで育ってきた。
たまに神事だ、感謝祭だ、と、行事くらいしか彼女は皆の目の前に現れないが、この姿を一度見たら忘れられるはずもない。
それほどまでに、彼女は美しかった。
「大丈夫よ。まだ風は暖かいわ」
鈴の音を転がすような美声で彼女は答えた。
「姫巫女様。そろそろ神殿に戻りましょう。今日は色んなことがありましたね」
彼女の隣にいた、戦士の格好をした女性が促した。
短い髪は明るい赤茶色。瞳は大地の土色をしている。
はきはきと話す声が小気味いい。
「ネイチェル天司(てんし)、まだいいじゃないの」
ラスターベルはやんわりと言った。
ネイチェル天司(天空代理司の略)は異名を月光天司(げっこうてんし)といった。
女性を象徴する月の名を神官より受けた。
彼女の家は代々武道の家柄であり、何人もの名将を生んできた家柄の娘だ。
なので剣の腕は幼少の頃から親に叩き込まれている。しかも母親は敬虔なオーン信徒だった。
その母のたっての希望で、彼女は14歳の時聖職者になった。しかもオーン最高位である姫巫女の護衛官長に。
10代の頃からネイチェルは、ラスターベルを敬愛し、ずっと守ってきた。
ラスターベルも自分より年下の彼女を頼り、全ての信用を委ねていた。
二人はどこに行くにも一緒だった。
光の巫女と、それを守る月光天司。
ラスターベルとはまた違った美しさを持つ彼女とふたり、天空の聖女と周りは羨望の眼差しで見ていた。
「それよりも姫巫女様、弟君のサーディオ様の聖剛天空代理司(せいごうてんくうだいりし)のご就任、おめでとうございます」
「ありがとう。これもネイチェルのお陰ね。貴方の指導が良かったから、弟が聖戦士となれたのですもの」
聖戦士とは神の戦士。宗教戦争は終わったにしろ、この動乱の世。大聖堂を守る者達が必要であった。
剣も武術も気術も全てを完璧にこなす事ができなければ、聖戦士の長、聖剛天司にはなれない。
この位に就くには並大抵のない実績と実力を有するのだ。
将来、最高位の神官にもなり得る程のポジションだった。
それに若干19歳で、ラスターベルの弟であるサーディオ天司が就任した。
周囲はさすがに姫巫女の弟君、と彼を讃えた。
もちろん将来の最高天空代理司長候補としての期待の声も高かった。
「いえ、サーディオ様に実力がなければ、ここまでなりませんでしたよ」
ネイチェルは彼の剣の専属指導者であった。
「それよりも本当なの?この感謝祭が終わったら…貴女、ここを出るって」
「…はい。姫巫女様には私の次の者をお願いしてあります。……これは長年の夢だったので…」
ネイチェルは言い難そうに答えた。
「長年の夢…。ここを降りて、大陸の医療奉仕に従事する…って事よね」
ネイチェルは母の願いを聞いたが、本当は医術に興味があった。
なので密かに医術を学んでいた。自分が聖職者になり、初めて慰問した先の内情を知って愕然としてから、彼女はいつも自分が何かできないか、問いかけていた。
この動乱で、東の国には難民が増えた。
いつの世も、犠牲になるのはか弱い女子供だ。
ネイチェルは若いながらも一本芯の通った、向上心の高い女性であった。
「寂しいわ、ネイチェル…」
ラスターベルは哀しげに溜息をついた。今まで何をするにも一緒。
姉妹のように、親友のように…。
二人は黙って歩き出した。
気が付くと辺り一面が夕焼けに染まっていた。
「ねえ、どう思う?ネイチェル。セドの王子…アマト=セドナダ」
食事中にいきなりこう切り出されて、ネイチェルは思わずスプーンを落としてしまった。
「あら、どうしたの?ネイチェルらしくもない」
ラスターベルは目を丸くした。そんなに動揺することかしら?
「…いえ、その…突然その名前が出たもので…」
「私に求婚したから?」
ネイチェルは苦笑いした。冗談にも程がある、と思っていたが彼の黒い瞳は真剣だった。
当のラスターベルは完全に冗談と受け取っているようだ。
それもそのはず、こんな馬鹿げた申し出、今まで聞いた事もない。
「……でも、綺麗な目をしていたわよね…アマト王子」
(それにあの声もね…)
呟くように言ったラスターベルの言葉をついで、ネイチェルも心の中で呟いた。
あの宵闇のような低くて甘い声は、なかなか忘れられるわけがない。
彼は突然、供を連れて大聖堂に現れた。
神官と何やら話をしていたようだ。神官達は皆苦い顔をしていた。
丁度明日からの感謝祭について、神官と打ち合わせをしようと巫女達も大聖堂に集まっていた。
神に仕える聖女の巫女達も、セドの太陽と噂される本人を目の当たりして、深い感嘆の溜息をついた。
白い肌に黒いビロードのような髪。黒い瞳は物憂げで、ちょっと影の入った風情が何とも艶かしい印象を与えている。そして、あの声。世の女性を全て虜にしてしまうほどの破壊力があった。
彼はつかつかといきなり姫巫女ラスターベルの前に進んだ。
神官の慌てた顔が彼の後ろで見え隠れした。
「姫巫女殿ですね。はじめまして、セド王国のアマト=セドナダです。
突然だが、無礼を許されよ。どうか私と結婚して欲しい」
その言葉に一同固まった。
が、次の瞬間、何の冗談かと失笑が沸いた。
だが彼は真剣だった。間近で見ていたネイチェルだけはわかった。
「何のご冗談でしょう、セドの王子様。感謝祭での何かの催し?」
ラスターベルは瞳に笑いを浮かべて、この美しい王子を見やった。
彼は苦悶の表情で、また何か言おうと口を開いた。
が、その時後ろにいた神官が慌てて王子を引っ張った。
「王子、その件はこちらで…」
神官が強く引っ張ったせいか、彼の剣に付いているセド王家の紋章が刻まれた装飾品が、勢いよく落ちた。
ネイチェルは咄嗟にその小さな装飾品を拾った。
「あ、申し訳ない…」
その時初めて二人は目を合わせた。
ネイチェルは不思議な感覚に陥った。
「いえ…。どうぞ、王子」
ネイチェルがそれを彼の手に渡した時、微かに二人の手が触れ合った。
その瞬間、びくっとして二人は手を引っ込めた。
(何…?今の)
ネイチェルもそうだったが、アマトの方も不思議な顔をして自分を見ていた。
そうこうしている内に、アマトは急き立てられるように、神官に連れて行かれてしまった。
あの時、確かに二人の間に電流のような物が流れた。
この感覚は一体何だったのだろうか…。
アマトもまた、赤みがかった茶色の髪の女性の瞳を見たとき、何か衝撃を感じた。
よくわからないが、彼はその時、自分は将来後悔するかもしれない、と一瞬思った。
初めて合わせた互いの瞳。敏感な者が見たらわかったかもしれない。
確かに二人の間に火花が散った。
…それは本人たちにはよくわからない現象だったが、紛れもない事実だった。
「当たり前じゃないか、アマト。その様な話、直に大聖堂に持っていけば、断られるに決まっている!」
その日の夜半、セド城に戻ったアマトに、タカトが言った。
「では、どうしろと?まさか相手の了承もなく、力づくで…なんて考えてないよな?」
「考えてるよ」
当たり前のように言うタカトに、アマトは凍りついた。
「……なぁ、アマト。我々はもうこの手段しかないんだよ。この間も泣いて頼んだだろう?
セドの存続、国の安泰…しいてはお前の言う、大陸の平定のため、巫女との子供が必要なんだよ!」
アマトは唸った。
今まで自分に対して尊大だった彼が、父王崩御のショックで錯乱し、この自分に初めてすがってきたのだ。
「お前は次代の王として、何をするべきか、いつも皆に言っていただろう?覚悟を決めてくれよ。お前しか適任がいないんだ。……他の兄弟達は身体も精神も弱い。いつフジト兄上のように床に伏すかもわからない。
私が本当は国のため、この身を捧げても良かったのだが……。
知っている通り、私は父上のお供で先の戦に出た時、足に後遺症が残るほどの大怪我をした。
今でも歩くのに困難をきたしている、遠出なんかもうできやしない。
……だからこそ、こうしてお前にすがっているんだ。
兄弟の中で、お前しか健康で、全てを兼ね備えた王子はいない。
巫女殿だって、そういうお前なら喜んで子供を作ってくれるかもしれん。
お前しかいないんだよ、アマト。セドの国を守るため、大陸の平和のため、神の力が、お前の力が必要なのだ」
タカトはそう泣きながら、アマトの足元にすがりついた。
こんな彼を見るのは父王が亡くなった以来だった。
アマトは元来、情に脆かった。どちらかというと、自己犠牲的なところがあった。
困っている者、助けを請う者を、見捨てる事ができない性格だった。
タカトはそれをよく知っていた。だから彼はアマトのそこに付け入ろうと思ったのだ。
「タカト…お前はそこまで…国の事を考えていたのか…」
「そうだよ、アマト。私だって、神王の子だ。国の事を考えないわけがない。
このような不自由な身体だが、国にいて、国を守る事はできる。
お前と巫女の子が神王になるまで、私がこの国を守るから…」
アマトは苦渋の表情で目を伏せた。
覚悟をしないとならない気がしてきた。
「…姫巫女が大聖堂から出れるのは、感謝祭での行事くらいだ。
しかも今年は姫巫女が、隣の島に慰問に行く、というじゃないか。
こんな機会、もうないかもしれぬ。なぁアマト、時間がないんだ。
…既成事実を作ってしまえばいいんだよ。
理由なんか後から説明して、時間をかけて説得すればいい。
きっと神の申し子、本当の事を知れば判ってくださる。慈悲深い方に決まっているからな」
アマトはその日のうちに、ここを出る決心を固めた。
いくら国のため、平和のため、これは死罪に当たる大罪を犯すも同じ事。
アマトはそれが判らぬほど、愚かではなかった。
だから彼が覚悟を決めた時、今まで自分に誠実に仕えてくれた者達を呼び集めた。
「私はこれから、神を背く事と同じ事をする。
…今までこんな私に仕えてくれてありがとう。いくら国のためという大義名分があれど、どんな結果になるやもしれぬ。お前達に迷惑をかけられない。後の事は城の者にお願いしてきた。
…もう、私の事は忘れてくれ…」
暗い瞳の王子に、皆は驚き、むせび泣いた。皆、王子を愛していた。
「いいえ、王子。我々はアマト様以外、誰にも仕える気はありません。我々をお供に、どうか王子と共に」
総勢20数名あまりの気持ちは全員同じだった。
「それは…いけない。お前達まで巻き込む事なんてできない」
アマトは躊躇した。
が、供の者達の決意も固かった。
アマトは苦しいながらも、皆に感謝した。
「…ところで王子、ラムウ様にはこの事を…」
子供の頃から自分の子守をしてくれていた、ハルがアマトに囁いた。
「言うな。彼には言わない方がいい」
アマトは辛そうに目を瞑った。
「しかし…」
「いいんだ。ラムウは敬虔なオーンの信徒。この事が知れたら絶対に悲しむ。
彼にはここで、私の護衛の任を解く。セドの大切な将軍を道連れにはできない」
セド王国将軍、ラムウ=メイは敬虔なオーン信徒であり、アマト王子の絶対な守護者であった。
アマトが10歳の時に、5歳年上のラムウは彼専門の護衛を任された。
その時からラムウはこの利発で美しい王子を敬い、自分が彼を守る事に誇りを持っていた。
彼はこの腐ったセド王家の中で、唯一の希望の星だった。
未来の神王…。名実共にラムウの切望した理想の君主。
自分が“鳳凰の気”を修得するために聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)に短期で修行に向かった時以外は、彼はアマトの側を離れなかった。高貴高潔。見目麗しく、男らしく。武将としても男としても、ラムウは他の、いや敵方さえも羨望を集める男だった。
その影のように仕える彼を、他の王子達は脅威に思い、疎んじていたのは明白である。
だからこそ、アマトをこのような状況に追い込むために、ラムウを彼から離す必要があった。
アマトが苦渋の選択をした半月前、ラムウはいきなりガイの町を強化するよう申し付けられた。
それは神王直々の命令だった。
「まことに神王様が?」
ラムウはいぶかしんだ。神王はずっと床に伏せているはずだ。
「ガイはセドの防波堤。国境近い町。人手不足の今、お主程の適任はいないのだ。
これは王家皆の意向、神王様も了承済み、との事なのだ。頼む、ラムウ」
ラムウは王子を残していくのに気持ちが揺らいだが、神王命令は断れなかった。
彼は何年ぶりかでアマトの側を離れた。
まさかそのすぐ後に、神王は崩御し、愛する王子がこのような状況に追い立てられるとは、露ほども思っていなかった…。
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