暁の明星 宵の流星 #79
ミカは居ても立ってもいられなくて、夜明けを待たずしてセインと共にセドを出た。
逸る心を抑えつつ、彼女はこの目で、この手で愛しい男の生存を確認したかった。
そして…そして確認できたら…。
セインは自分が見た肝心な詳しい事を、彼女には教えなかった。
自分がくらった衝撃を、彼女にも味わせてやりたかったのである。
王子が姫巫女以外の別の女と子供を作っていたなんて知ったら…。
彼は笑いが込み上げてくるのを、必死で堪えていた。
アマトは昼食を終えて、ふらりと森に散歩に来ていた。
午後からは授業もないし、子供達は遊びに行ってしまった。
彼は少し考え事をしたくてここまで歩いて来た。
そしていつものお気に入りの場所で、ゆっくりと物思いに耽るのが好きだった。
彼は大きな木の下に腰を下ろした。
目前には小さな湖が日の光を反射し、きらきらと輝いていた。
その場所は、あの互いの愛を確認した、島での二人の秘密の場所に少し似ていた。
自分は罪悪も不安も抱えていたが、今、とても幸せだった。
だが最近、その幸せが続いているのに、恐れを感じている自分がいるのに気が付いた。
大罪を犯し、神を冒涜し、周りを…特に愛する我が子を傷つけたまま…。
このような自分に、いつまでもこの幸せが続かないのではないか、いや本当はこんな幸せ、自分は許されないのではないか…。アマトはずっと苦しんでいた。
あれからキイは、ぎこちなさは残るにしても、普段と変わらぬ態度でいてくれた。
幼い我が子ながら、彼の精神力には敬服する。
…これもきっとアムイのためだろう…。
ちらりといけない考えが浮かんだ。…私は…本当はあの時、死んだ方がよかったのではないか…。
しかしすぐに頭を振った。いや、それは逃げ、だ。
苦しくても、寿命ある限り、生を全うしなくてはならない。
そうでなければ、アムイも生まれなかった。キイを支える人間が生まれなかった。
「これも…全て、天の意なのか…?」
アマトは憂いた表情で、ずっと湖の水面を眺めていた。
ミカは息を呑んだ。
町に向かう森の中、彼女は偶然にも遠目であったが、愛しい人の姿を目に捉えたのだ。
「あ…、ああ…!アマト様…」
小声で彼女は彼の名を呼んだ。目には涙が浮かんでいる。
確かに確かにあの姿は…太陽の王子…。
彼は木の下に座り、あの物憂げな瞳で湖を見つめている。
彼女は馬からそっと降りると、彼に近づこうと草木を掻き分けようとした。
早く…早くあの人の傍に行きたい…。そして本当に現実か、直接彼に触れたい…。
そう思った彼女の動きが止まった。
彼の傍に一人の女が近づいてきた。
(誰…?)
静まった湖畔に、二人の会話が響いてくる。
二人の死角になっているミカにも、話し声は充分届いていた。
「やっぱりここにいたのね!」
息を切らしてネイチェルは彼の傍にやって来た。
「…あれ…。どうしたの君。今日はもう診療所は休み…?」
アマトは彼女を迎えるために立ち上がった。
ネイチェルは笑った。
「うん。…ちょっと早めにあがらせてもらったの…」
何か歯切れが悪い。そういう時は彼女はだいたい何か隠しているのだ。
「何かおかしいなぁ」
「えっ!そう?」
アマトは愛しそうに彼女を見つめた。彼女は何年経っても相変わらず綺麗だ。
ミカは凍りついた。…何?私は今、何を見ているの…?
あの彼のとろける様な眼差し…。あんな目をして女を見ている彼を…見た事なんて…ない。
「ここって本当にあの場所に似てるわね!」
突然ネイチェルが言った。
「うん。…ここに来ると、思い出すよね…」
「何を?」
ネイチェルは意地悪く言った。アマトはちょっと赤くなった。
「ふふ。嘘よ!忘れるものですか…。私達が互いの気持ちを確認した場所を」
そう言うと彼女はアマトの手を取り、指を絡ませ、きつく握り締めた。
「もうすぐ西へ行くのね、私達…」
「うん、明後日にはここを発つ事になるだろう…。これで少しは皆も落ち着く」
「子供達もね…」
しばらく沈黙した後、ネイチェルは意を決したように彼に言った。
「あのね、アマト…」
「何だい?」
突然彼女の声が、緊張したのにアマトは気づいた。
「またこんな大事な時に…。皆にはまた迷惑かけちゃうかもしれないのだけど」
「うん?」
「実はその…」
「何だよ、らしくないなぁ。はっきり言いなよ」
ネイチェルは思い切って口にした。
「…できたの…」
「えっ!?」
赤くなって俯いてる彼女を、アマトは覗き込むように引き寄せた。
「できた…って、その、もしかして…」
「今日診察してもらったの…。三ヶ月ですって…」
アマトは震えた。アムイ以来、自然に任せてはいたが、妊娠する兆候はなかった。
事情を抱えて各地を移動していた事もあって、無理に作ろうとは思ってなかったが、それでもなかなかできなかったので、二人は諦めていた。それが…。
「二人目ができた?」
アマトの声は喜びで裏返っている。
「ええ」ネイチェルは恥ずかしそうに呟いた。
アマトは嬉しさのあまり、彼女を強く抱きしめた。
「苦しいわよ!アマト!」
「あ、ああ!ごめんよ、ネイチェル…」
そう言ってアマトは彼女を抱く手を緩めた。
でも喜びは隠し切れない。
「…嬉しい?今こんな大変な時だけど…。またつわりで皆に迷惑かけるかもしれないけど…」
「何を言っているんだよ。迷惑なんかじゃないさ!…私は嬉しいよ。本当に幸せだ」
「キイ様は…。どう思われるかしら…。最近益々大人びてしまって、私…」
「…喜んでくれるよ。アムイだって、自分の弟か妹が生まれるんだ。きっと可愛がってくれるよ」
「そうかしら…」
「そうだよ、奥さん」
アマトはそう言って優しく彼女を引き寄せると、甘くも熱い口付けを彼女と交わした。
その激しさに、彼女は待ったをかけた。
「誰かに見られたら」
「誰も来ない」
そうやってまた再び彼は彼女の唇を奪った。
ミカは信じられなかった。
今、自分の耳で聞いた事、今、自分の目に映っている事。
(二人目…?)
(子供達…?)
(…奥さん…?)
彼女の頭の中はぐちゃぐちゃだった。
そして二人の幸せそうな抱擁を見せ付けられ、彼女は気を失いそうだった。
嘘…。どうしてアマト様が…。
あの人は私と寝た時、はっきり言っていたではないか…。
もうこれ以上、誰ともそういう事はしたくない。
子供を作りたくない…。
あれは嘘だったのか…。
それよりも相手の女だった。
ミカは女の顔に覚えはなかった。
だが…
(ネイチェル)
この名前に聞き覚えがあった。
あれは…あれは…姫巫女と一緒にいたという……もう一人の…。
「…相手の女性は、聖職者だったそうですよ…」
いつの間にかセインが自分の後ろにいて、耳元でそう囁いた。
「僕、あの後いろいろ探ってみたんです…。いや、驚いたなぁ。
聖職者とまた通じてしまうなんて…。しかも子供まで作ってしまうなんて。
僕にはそんな恐ろしい事、できないですね…。
さすが姫巫女を陵辱し、無理やり子を成した、大罪人だ」
そうやってセインはやっと理解した。ラムウの心の闇を。
あの高潔で敬虔なオーン信徒である彼が、こんな事、耐え切れるはずがないのだ。
命より大事な王子が、二度も禁忌を犯すなんて事…。
ミカは憎悪が沸き起こってくるのを抑えられなかった。
それは相手の女に?それとも愛しい男に対して?
……汚らわしい……。
彼女はじっと自分の手を見た。
微かに震えている。
本当だったら自分は、何もなければ、ああして彼の愛を独り占めにしていたはずだ。
嫌いな男に無理やり奪われて、子供を作らされる事もなかった。
やっとの思いで授かった、彼と私の可愛い赤ちゃんは…血の塊となって流れてしまった…。
その苦しみ。その悲しみ。…その狂気。
なのにどうしてそんな風に幸せそうにしているの…。
なのにどうして他の女があの人の子供を産むの…。
どうして聖職者だったくせにあの人と…!
どうして…どうして…どうして!!!
ふらりと彼女は歩き出した。
「ミカ様?」
「…セイン…。すぐにセドに戻って、この事をシロンに伝えて…」
「……はい」
「…キイが見つかったって…。あんなに捜していた子供が見つかったって」
セインは薄笑いを浮かべて、踵を返し、馬に乗って去って行った。
ミカは決心した。私が神に代わって裁きを下そう…。
汚らわしい、罪の子が生まれてくる前に………・。
彼女は空ろな目をして、ゆっくりと馬に戻り、近くの木にその馬をつなげた。
そして愛する男と憎い女が連れ立って家に帰る姿を、そっと彼女は気づかれないように後を追った。
「えっ!赤ちゃん?」
アムイは驚いて母親に駆け寄った。
「ほんと?本当に赤ちゃん?おれにきょうだいができるの?」
アムイは喜びで興奮している。
二人は帰ってから食堂に皆が集まっている時に、恐る恐る告白したのだ。
意外とあっさりと皆に受け入れられ、二人はほっとした。
複雑な表情をしていたのはキイだけだったが、アムイがあまりにも喜んでいるので、そのうち彼も笑顔になった。
「ねぇ、母さん、弟?妹?どっちなの?」
「あのね、アムイ。まだ判らないのよ、どっちかなんて…」
「ええー?そうなの?つまんないなぁ」
「どっちでもいいじゃん。元気に生まれれば」
キイが笑ってアムイの頭をくしゃっとした。
彼のその言葉にアマトは胸が一杯になった。
生まれてくれば…キイにとっても兄弟だ…。
アマトは彼の気持ちが少しでも和らいでくれるよう、祈った。
「いや、これで我々も西での新しい生活が待っているし…。いいことづくし、ですな」
ハルは笑って皆にお茶を運んできた。
「そうだね…。これで落ち着いた生活ができるな…」
アマトはゆっくりと息を吐いた。ふと、ラムウの事が気になって、彼の姿に視線を向けた。
ラムウは微かに口元に笑みを浮かべていた。アマトはほっとした反面、何か嫌な予感がした。
「ラムウ…?どうかした?」
アマトはその何か、を確かめたくて、彼の傍に近寄った。
「何も?いかがされましたか?アマト様?」
逆にアマトが問われてしまった。
「そう…?ならいいのだけど…」
アマトの心配そうな顔に、ラムウは微笑んだ。
「アマト様…おめでとうございます…。
…私の様子がおかしいと思われたのなら、それは多分、頭痛のせいですよ」
「頭痛?ラムウ、大丈夫なの?」
ネイチェルが心配して駆け寄ろうとした所を、ラムウは手で制した。
「きっと今頃遠征の疲れが出たのでしょう…。大丈夫です。少し早めに休ませていただければ…」
「いや、もう部屋に戻った方がいい。頭痛を軽く見てはいけないよ」
そうアマトは言うと、ラムウを部屋に戻るよう促した。
ラムウは皆に詫びて、重い足取りで食堂を後にした。
もうすでに外は暗くなっていた。
ラムウはズキズキする頭を片手で支えながら、ぼんやりと窓の外を眺めた。
窓の外では赤い月がラムウを見下ろしていた。
「…珍しい…月が赤い…」
ラムウはぽつりと呟いた。
その途端、激しい痛みが彼の頭を襲った。
「う…く、くそ…」
彼は壁に片手を付いて、よろよろと自分の部屋に向かった。
頭もそうだったが、彼の心にもその“痛み”が暴れていた。
あの時以来の痛みだった…。いや、それ以上の激痛かもしれない。
だが、アマトの手前、何とか堪える事ができた。
できたが…。
ラムウの全身に、今、黒い渦が、あの時と同じどす黒い闇が駆け巡っていた。
(子供が出来た!)
ラムウの黒い渦は出口を求めて暴れているようだった。
(また、罪の子が出来た!)
実のところ、ラムウはずっと考えないようにしていたのだ。目を瞑っていたのだ。
二人が夫婦だという事を。寝所を共にしている事を。
罪の子であるアムイは、かろうじてアマトにそっくりだった…。
それだから、彼は何とか正気でいられた。
何とか闇を心の底に押し込めた。
…だが、子供が出来た事を告白され、二人がそういう関係だった事を、再び思い起こされたのだ。
二人は夫婦で…それは当たり前のように…交わり…。
その証が子供なのだ。
ラムウはその現実を、また目の前に突きつけられたのだ。
彼は脂汗を掻きながら、よろよろと進んだ。
もう…駄目かもしれない…。
ラムウの心に住む、もう一人の自分がそう言った。
もう、限界かもしれない。…これ以上は…耐え切れない…かもしれない。
彼はぼやけた視線を、何となく前方に向けた。
朦朧とする意識の中、肌を突き刺すような痛みと共に、視線を感じたからだ。
暗い廊下の果てに、女がひとり立っていた。
ラムウは目を凝らした。
その顔に、見覚えがあった。
女はラムウを見ると、ニヤリ、と笑った。
しばらく互いに目を合わせていたが、ラムウの方が先にすっと女から目を離した。
そして彼は何事もなかったかのように、自分の部屋に戻って行った。
皆と歓談していた途中、ネイチェルは気分が悪くなった。
「大丈夫か?ネイチェル」
心配してアマトは彼女の顔を覗き込んだ。
「うん…。始まったみたい…。ちょっと行って来るわね…」
「一緒に行こうか?」
アマトの言葉に、ネイチェルは首を振った。
「大丈夫よ、すぐ戻るから…」
そう言って彼女は微笑んで、食堂から出て行った。
「ねぇ、父さん…。母さん戻ってこないね」
アムイが心配そうにアマトに呟いた。
「ああ…」
確かにあれからかなり時間が経っている。彼女に何かあったのだろうか?
やはりあの時、自分もついて行けばよかった…。
アマトは居ても立っても居られなくなって、椅子から立ち上がった。
「ちょっと母さんを見てくるな…」
そう言って、アムイの頭を撫でると、アマトは彼女の様子を見に行った。
アマトを見送ってから、アムイはどうしても落ち着かなくて、そっと彼も父親の後を追った。
暗い廊下は苦手だった。
でも、父さんが気を利かしたのか、今は所々に灯りが灯っている。
その光をたどって、アムイは親のいる場所へと急いだ。
アムイが突き当たりの廊下を、右に曲がろうとした時だった。
「ネイチェル!!」
父親の只ならぬ叫び声が廊下に響いた。
「父さん…?」
アムイは声の方へと急いだ。
「ネイチェル?ネイチェル!誰だ!誰がやったんだ!!」
アムイは廊下の中央で、父が跪いているのを発見した。
「ネイチェル・・・ああ、しっかりしろ!今誰か呼んでくる!」
父は人を抱き起こしているようだった。まさか…?
「母さん?母さんがどうかしたの?」
アムイは二人に近づこうとした。
「来るな!アムイ!」
突然アマトの怒声が飛んだ。
「父さん…?」
こんな父親の声を、今まで彼は聞いた事もなかった。
「こっちへ来るんじゃない!子供が見てはだめだ!!」
父は半分自分の方に顔を向けて、また叫んだ。
「何で…?母さんがどうかしたの…?」
アムイはやはり気になって、数歩近くに寄ろうとして、何かに滑った。
びっくりした彼は急いで足を戻し、その後父の顔を見てまた驚いた。
父さんが泣いている…。
アマトは泣きながら、抱き起こしていた母らしき人間の身体に、懸命に自分の上着を巻き付けていた。
「今すぐ戻るから…。すぐに呼んでくるから…。しっかりしていてくれ…」
その後、彼女を床に横たわせた彼は、勢いよく立ち上がりその場を駆け出そうとした。
「父さん?」
「アムイ、お前は向こうへ行ってなさい!」
もの凄い剣幕でアマトはアムイにそう叫び、皆のいる食堂の方向に走って行った。
だが、アムイは父に言われた通りにはできなかった。
「アムイ…・。お願い、ここに来て。お前に言いたい事があるの…」
か細い声で、母が自分を呼んだからだ。
アムイはふらふらと、横たわる人間に近づいていった。
あれ…?母さん……。何で…何で…真っ赤なの?
やはりその人間は母だった。
アムイは呆然とした。
彼女が横たわるその周りが、血で真っ赤に染まっていたからだ。
そして横たわる母の白い手も、真っ赤に染まって、力なくアムイを手招きしている。
「か、あ…さん?」
母は全身の力を振り絞るように、アムイに言った。
「お願い…よ、アムイ…。キイ様の…傍…を離れないでね…」
「母さん!!」
アムイははっとして彼女の傍に駆け寄り、床に手を付いた。
「…キイ様…を…お守りし…てあげて…ね」
母の声はどんどん小さくなっていく。
「母さん?何?どんどん声が…声が聞こえなくなっていくよ…?」
彼女は手招きしていた血まみれた手を、アムイの手に重ねた。
「キイ様の存在…お前が…守…るのよ……・・・・・」
最後はほとんど聞こえなかった。
「いやだ!母さん!!目を閉じないで!!」
蒼白となった母の顔が、一瞬ピクッと動いたかと思うと、ゆっくりと目を閉じていく。
重ねた手には、もう力がなかった。
「母さん?母さん!!」
アムイは泣き叫んだ。
その悲痛な声は廊下中こだまし、駆けつけたアマト達に、彼女がこの世から去った事を悟らせた。
取り乱しているアムイに、キイがもの凄い勢いで駆けつけ、抱きしめた。
「アムイ!」
アムイは母の亡骸にすがりついて離れない。
「アムイ!!」
キイも泣きながらアムイを力強く引っ張った。
アムイはやっと、そこでキイが来てくれたのに気が付いた。
「キイ…」アムイはキイの身体をぎゅっと掴んだ。
「キイ、助けて…母さんを…助けて…」
「アムイ!」
うわ言のように繰り返す、アムイの声に、皆はどうする事もできなかった。
その騒ぎを聞きつけて、ラムウが頭を抑えながら皆の所にやって来た。
「一体、どうされと…。!!」
ラムウはこの惨状を見て、言葉を失った。
「ラムウ…」
アマトは呆然と涙を流しながら、ラムウを振り返った。
「誰が…。一体…誰が…」
ラムウはふらふらと、ネイチェルの死体に近寄った。
「これは…酷い…」
ラムウは絶句した。
おびただしい血。彼女はかなり抵抗した後があった。
特に…特にお腹の部分を庇っていたようだ。
ラムウは目をそらした。
…彼女を襲った人間は、彼女の下腹部中心に刃を突き立てていた。
まるでそこに、新たな命が宿っている事を知っていたかのように…。
きっといつもの彼女であったら、ここまではやられはしなかっただろう。
月光という名まで貰った、剣の達人だったのだから…。
ハルは子供達の無事を考えて、二人をその場から子供部屋にと連れ出した。
「今晩はハルがずっといますからね…」
泣き崩れている二人を、ハルは優しく布団に入れた。
そして声もなく、自分も泣いた。
二人の子の受けた衝撃を思い、そしてアマトの気持ちを思い、…ネイチェルの無念を思って、彼は声を殺して涙を流し続けた。
アマトは後悔していた。あの時、自分が一緒について行ってあげていたら…。
彼は空ろな目をして、愛する妻の亡骸を抱いた。身体はすでに冷たくなっていた。
何気なくアマトは、彼女の握られた左手の拳に目をやった。
彼ははっとした。彼女が抵抗した時に、何かを掴んだような形跡だった。
アマトは力を込めてゆっくりと彼女の指を開かせた。
カツーン…。
何かが彼女の手から落ちた。
その物体を見て、アマトは凍りついた。
セド王家の…紋章…。
王家の者が必ず剣につけている、セド王家の紋章が刻まれた小さな装飾品……。
まさか、でもまさか…!!
アマトの背に、冷たい物が流れ落ちていった。
ラムウはその彼の様子を、目を細めて見ていた。
何だろう…?さっきまでの頭痛がまるでなかったかのように治まっている。
あの女の大量の血を見てから、嘘のように気分がすっきりとしていた…。
ラムウは無表情のまま、窓の外に目を移した。
あの赤い月は、どこにもいなくなっていた。
闇夜を照らす月光は、こうして存在を消された。
闇を照らしてくれるものはもう何処にも存在しない。
月光を失いし彼らに、これから闇の手が忍び寄る。
暗闇は、ぱっくりと地獄への扉を開き、彼らを手招きしていた。
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