暁の明星 宵の流星 #80
珍しい赤い月が先程まで夜を照らしていたのに、今はまったく見えなくなってしまった。
この胸騒ぎはどうした事だろう。
大聖堂の外に広がる天空の庭で、サーディオ聖剛天司(せいごうてんし)は暗い空を仰いでいた。
何かとても大切で、大きなものを無くしてしまった様な、そんな感覚がさっきからしていた。
「サーディオ様」
突然背後から呼ばれ、彼は振り向いた。
「クラレンス銀翼天司(ぎんよくてんし)」
彼の後ろには、クラレンスが立っていた。
「………なかなか調査の成果が表れなくて、真に申し訳ありません」
「いや、君はとてもよくやってくれた…。かえって申し訳ないのは、私だ」
サーディオは微笑んだ。
彼にはこの長い間、個人の件でいろいろと飛び回ってもらった…。
もちろん大聖堂での務めの合間に…。
「色々当たってみたのですがね…。…あの太陽の王子を守っていたラムウ、とかいう男にも探りを入れてみたのですが、結局無駄に終わってしまいました…」
「本当にすまない。私も色々考えたんだ。これは自分の個人的感情が走り過ぎてるのではないか、と」
サーディオの横顔を見ながら、クラレンスは言った。
「いえ、これは個人的な事を越えておりますよ、聖剛天司。…セド王国は絶対に何か隠している。
この何年かでの僕の見解です。…今までは外側から攻めて来ましたが…、やはりここは思い切って、王家内を調べてみようと思っています」
「王家内?」
「ええ。なかなかよいツテを見つけました。…必ず、真実に近づいてみせますよ」
そう言って、不敵に笑うクラレンスに、サーディオは少し危険なものを感じ、こう釘を刺した。
「…それはありがたいが、くれぐれも神の御前で恥ずかしくない行動を頼むぞ」
クラレンスはうやうやしく頭を下げた。
「もちろん…。この銀翼の異名にかけて…」
弔いの儀式を済ませたネイチェルの遺体を傍に、アマトはずっと頭を抱えていた。
…セド王家の紋章…。
私は心の支えを失ってしまった。
私の月光を失ってしまった…。
今、彼女は棺の代わりに寝台に寝かされ、白い布で全身を覆われていた。
近くにたくさんの蝋燭が灯っている。
「アマト様」
ラムウが隣で彼の名を呼んだ。ずっとあれからラムウはアマトの傍から離れない。
「私の気が緩んでいたからだ…。今まで幸せすぎて、きっと浮かれていたに違いない…・。
自分は大罪を犯しているんだ。その事を肝に銘じてなければならなかった」
「アマト様」
アマトは疲れた顔をして、窓に視線を移した。
一夜明けて、外は朝から雨が降っていた。
まるでネイチェルを弔うように空が泣いていた。
「出ましょう、アマト様。すぐにここから。…私は王家が我々の事に、気づいたとしか思えないのです」
「そうだな…。私もそうさっきから思っていた。……完全に私が生存しているのも…キイと共にいるのも、多分…」
アマトはそこまで言って、はっとした。
「キイ…。子供達は…」
彼は妻を殺害されたショックで、他の事に頭が回っていなかった。
「…ええ、ずっとハルが二人に付き添ってますよ…。あの子達にも可哀想な事を…」
アマトは急に胸騒ぎを覚えた。
「ラムウ、ちょっと様子を見てくる…」
さっと彼は立ち上がると、足早に子供部屋へと急いだ。
「キイ!アムイ!」
アマトは子供達の名を呼びながら、部屋に入った。
「!?」
子供部屋には誰もいなかった。
「キイ!アムイ!?どこにいるんだ!?」
アマトは嫌な汗が出た。とにかく必死で二人の姿を捜す。が、どこにも姿が見当たらない。
「アマト様!」
ラムウが慌てて子供部屋に入ってきた。
「ラムウ!子供達の姿がないんだ!どこにも…」
と、言いかけて、ラムウを見てぎょっとした。
「ハル!」
ラムウはぐったりしたハルを抱えていた。かなり多勢に殴られた形跡があった。
「ア…アマト様…!」
ハルは息も絶え絶えで、一生懸命に声を出した。
「どうかしたんだ?ハル!こ、子供達は…」
「……つ、連れて行かれてしまいました…。セドの…者達に…」
恐れていた事が現実となってしまった。
アマトは眩暈がした。己の迂闊さに、今回ばかりは後悔どころではなかった。
「アマト様…」
「…ラムウ…。子供達を…取り戻さなければ…」
「ですがこうなってしまったら、アマト様の身に危険が…」
「私はどうなってもいい!子供達をセドには渡せない!」
アマトはそう言って屋敷を出ようとした。が、ラムウはそれを引き止めた。
「落ち着いてください!アマト様!…このまま行ってもセドには敵わない。何か策を考えてから行動致しましょう。いいですね?どうか冷静になってください…」
「しかし」
「セドはキイ様が目当てです。酷い事をするはずがない…」
そのラムウの言葉に半分納得したものの、もう半分には言い知れぬ不安が纏わり付いていた。
…アムイ…。
キイには酷い事はしないだろう。セドには彼は利用価値がある。…だが…。
アムイには何もない。彼らがあの子に酷い仕打ちをしないとは限らない…。
アマトはがっくりとその場に崩れ落ちた。
キイとアムイは馬車の中にいた。二人はぴったりと寄り添っていた。
馬車の中には、ミカとお付きの者が同乗している。
「…本当に後からアマト達は来るの?」
キイが用心深そうにミカに言った。
「もちろんよ」
彼女は優しい笑みを見せた。
「…キイ…」
隣のアムイがポツリと不安げに呼んだ。
「アムイ」
キイはぎゅっとアムイの小さな体を抱きしめた。
その二人の様子を見ているミカの思惑は表情に全く出ていない。
「…さっきも言ったでしょう?…私はキイの伯母さんだって…」
「本当…?」
アムイが小さな声で呟いた。
アムイの黒い瞳を見つめ、ミカは益々謎めいた表情で言った。
「ええ。私達はね、すぐに貴方のお父さんから連絡を受けて、急いでやって来たのよ。
こんな事になってしまって…。子供達が心配だから、預かってくれないか、と」
日が昇ると共に、急遽この地にやって来たセドの人間達と合流したミカは、しばらく様子を伺った後、屋敷に侵入した。彼らは殺された人間の事に気を取られているのか、意外と簡単に侵入できた。
その時、丁度用があって子供部屋から出てきたハルを拉致し、痛めつけ、違う部屋に押し込んだ。
最初はキイだけを連れ出そうと考えていた。
二人は布団の中で泣き疲れて寝ていた。
キイは見知らぬ人間が部屋に入ったのをすぐに察知し、飛び起きた。
子供相手は、女のミカが怪しまれずに済むだろう、という事で、彼女がひとりで部屋に入ったのだ。
成長したキイを見て、彼女は素直に美しい、と思った。アマト様の面影があるようで、彼はやはり母親である巫女の方に似ているのだろう。かえって彼が、アマトの子だという実感が湧かなかった。
彼女は馬車の中で説明した同じ事をキイに話した。当たり前だが、彼は渋った。
「何で今頃伯母さん…なんて。アマトは何も教えてくれなかったぞ」
「あら、貴方は自分の生まれを知っているの?」
ミカはカマをかけてみた。キイが赤くなった。
「アマトから聞いてない?あの人って自分の事は子供に何も説明していないのね」
「だからなんだよ」
「じゃ、アマトが自分の父親だって事は知っているのね。では、お母さんのこと、知ってる?」
キイが固まった。「ううん…」
キイは親の間にある感情は知っていたが、自分の生まれの状況は全く知らなかった。
自分の母が、どのような立場の人間だったのかも。
「…戻ったら教えてあげる。それに貴方は元々私達と暮らしていたのだし。ね、だから一緒に…」
「でも…。俺、アムイと離れる事はできないんだ…。アムイも一緒って事?」
「アムイ…?」
「あれ?アマトから話があったんだったら、知っているでしょ?…アマトと死んだネイチェルの…」
「え?ああ、そうね。知っているわよ、もちろん」
ミカはあの汚らわしい女との間に、もう一人子供がいたのを思い出した。
その時、布団の中が動いた。
キイははっとしてミカに懇願した。
「お願い。俺がアマトの子だって、アムイは知らないんだ。兄弟だって事…アムイには知らせないで」
「…そう…わかったわ」
もぞもぞと布団が動き、小さな黒い頭が外に出た。
「…キイ?」
アムイは泣き腫らした目を擦りながら、布団から体を起こした。
ミカは息を呑んだ。
あの、汚らわしい、あの女が生んだ…汚らわしい罪の子…。
だが、彼女の目の前に現れた子供は、自分の愛する男に似ていた。
黒い髪も、黒い瞳も。優しげな顔立ちも。
ミカはアマトと歳が離れていたので、彼の小さい頃は知らない。が、アマトの幼い頃はきっとこんな感じだったのでは、と充分想像できたほどだった。
ミカの何かが疼いた。
「……アムイ?私、キイの伯母さんなの。貴方のお父さんに頼まれて、迎えに来たのよ」
そうして二人は、父の故郷に連れて行かれた。
それは二人が初めて経験する地獄の始まりでもあった。
特にアムイに降りかかる恐怖は、彼の人生を、彼自身を変えてしまうほどのものだった。
セドの王家の中で、アマトにはラムウ達の様に、ずっと彼を守ってくれる者達がいた。
だが、この二人には…特にアムイには誰も守る者はいない。
この純真無垢な子供に待ち受ける地獄のような日々。
キイの温かな腕の中で、アムイははまだ知る由も無かった。
「……あ…クラレンス…」
一人の女が、人目を気にしながら城の裏手にやって来た。
「ユリカ殿」
フードを目深に被った背の高い男が、女を迎えるために木陰から姿を現した。
女は潤んだ目で、男に駆け寄った。
「ああ…クラレンス…会いたかったわ…」
男はゆっくりとフードを外した。縮れた長い黒髪がふわりと舞った。
彼女は男の美貌に溜息を付いた。
異国の、背徳感のある、甘いマスクの男。このセドに商用で来ていると言っていた。
彼とはひと月前、珍しく町に出た時、暴漢に襲われそうになった所を助けられた。
それ以来、彼の魅力に取り付かれた彼女は、こうして何度も秘密に逢瀬を重ねていた。
「…美しいユリカ殿…。僕の頼みを聞いてくれて嬉しいですよ…」
彼は口の端に笑みを浮かべ、彼女を抱きしめた。
「いいの…。貴方のためなら、何でもするわ…。だからお願い…このまま…」
「貴方のご主人に…摂政のシロン殿に気づかれたら…きっと僕は殺される」
「大丈夫…あの人は私よりも政治の方が大事なのよ」
「…で、あれ、持ってきてくれました?」
いきなりクラレンスは彼女をせかした。
「え?ええ…。もちろんよ…」
と、彼女は彼から離れ、震える手で懐から紫の布に包まれた薄い板のような物を取り出し、彼に渡した。
彼は丁重にそれを受け取ると、布を取り、中身を確認した。
それは手に持てるくらいの石の板であった。…門外不出の王家の系図である。
クラレンスはニヤリ、と笑った。
「ね…?これで私の気持ちが真剣だって…わかったでしょう?」
ユリカは半分、このような恐ろしい事をしたという罪の意識を隠して、震えながら彼に言った。
「…本当に…貴女が僕のためにここまでしてくれるとは…。貴女の僕への愛は確かな物なのですね」
「そうよ!ね?嘘じゃないでしょ?私、貴方のためなら何でもできるって…。ね、だから…」
ユリカは彼に抱擁をねだった。
クラレンスは半分笑いを噛み締めながら、彼女をかき抱いた。
そして彼女の耳元に、甘い声で囁く。
「嬉しいですよ、ユリカ。ご褒美にまた貴女を天国に連れて行ってあげますよ…。何度でもね」
女はうっとりして彼に身を委ねる。
「貴女のお陰で、こうして僕の知りたかった事が、全てわかったのだから…。
お礼に快楽を与えてあげるのは、礼儀、というものでしょ?」
そう言って彼は彼女の唇を激しく貪った。女の甘い吐息が微かに響く。
銀翼の天司、クラレンスはこうしてオーンに爆弾を持ち帰る。
このクラレンス。
彼は神官となった数年後、禁忌を犯したことが公となり、オーンを追放される。
だが、罪人として囚われた彼は再び王家の系図を持ち出し、ある東の州に逃げ出す事になる。
その話をゼムカ族王、若き日のザイゼムが知るのは、まだずっと先の事だ。
ひとしきりの嵐が過ぎ、クラレンスはおもむろに身なりを整えた。
まだ余韻で朦朧としている彼女に、彼は言った。
「もう少し、こうして貴女といたいのですが、どうしてもすぐ故郷に戻らないといけない…。
また、お会いしましょう、ユリカ様」
もちろんそんな事は嘘だ。もうこの女には用はない。
彼がフードを被って、その場から去ろうとした時だった。
「…それ、何に使うんですか?」
クラレンスは立ち止まった。
「…君は…ずっとここにいたのかい?随分、気配を消すのが上手いね」
彼の目の前に、セインが立っていた。
「…ここ、何回か、お見かけしましたよ。一応、僕、ここの護衛もしてるのでね」
セインは思わせぶりに笑った。
「ふぅん。で?」
「…貴方の目的…。何故そんなにこの城の、第五王子の事を調べてるのかな…と。10年前の、あの忌まわしい出来事を詳しく調べてるのか、興味がある」
クラレンスはじっと彼の目を見た。そしてすっと彼の傍に近づいて、自分の顔を近づけた。
「……君…、何か知ってそう…だね?」
セインはじっとクラレンスを見返した。
「…貴方が知りたがった…王家の秘密。それを貴方はどこに持っていくつもりです?」
一呼吸置いて、彼は続けた。
「当ててみましょうか…。それは大聖堂…ではないですか?」
「……だとしたら?」
「この真実を大聖堂が知ったら…どうなりますかね?」
「それは当たり前さ。神の声を聞く姫巫女を穢し…神の力を手に入れたんだ。
怒り狂うに決まっているさ。
君、それを聞いて僕を脅す…?無理だよ。その前にその口を封じるから」
セインはいきなりクラレンスの顔を引き寄せ、唇を奪った。
「な…?」
「これは約束の印ですよ。…かえっていい事を聞いた。
この話、生き証人として僕を大聖堂に連れて行ってください…。
その方が信憑性あるでしょ…」
ずっとセインは考えていたのだ。
自分の事。
ラムウの事。
そして彼はクラレンスと共に爆弾を抱え、オーンに向かった。
それこそ、彼の愛する男への贈り物でもあった。
(ラムウ様…。僕が長い苦しみから貴方を解放してあげます。
…貴方が囚われている神への思いと、王子への思い…。
その二つを、僕が解放してあげる…)
セインはまるで、夢の中にいるようだった。
愛する男への想いがもう限界に来ていた。
セインがラムウの何を解放しようとしているのかは、それは彼しかわからない。
ただ、セド王国が神の力を手にするため、姫巫女を陵辱し子を生ませた事が、十年の年月の末、やっと日の目を見る事になるのは事実である。
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