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2010年5月15日 (土)

暁の明星 宵の流星 #86

「ぐわぁああああっ!!!」

ゴウは突然の激しい痛みにのたうち回った。
「サクヤ!!てめぇ!」

サクヤは元々左利きだった。それを幼い頃、不便だといって母が右に変えさせた。
だから本当はどちらも使えるのだ。その事をゴウは知らなかった。
それでサクヤが左手に隠し持っている凶器を油断して見落としたのだ。

サクヤの口元が震えた。
「誰が…誰がお前なんかと!人を人とも思わない…お前と!
こんなところもう嫌だ!!オレは強くなる!強くなってお前達を潰してやる!」
そう言いながら、サクヤはさっと寝台から飛び降りた。
「サク…!!待て!」
「オレだって心はあるんだ!お前のおもちゃじゃねぇ!!」
そう吐き捨てると勢いよくゴウの部屋を走り去った。
「誰か!誰か来い!!サクが逃げやがった!!サクヤ!!!」
後ろでゴウ親分の叫ぶ声がする。
この騒ぎを聞きつけて、手下供がすぐに駆けつけてくるだろう。
だが、サクヤは無我夢中にアジトから出ることしか頭になかった。
とにかく…とにかく此処から早く脱出しなければ。

突然自分の耳に懐かしい声が飛び込んできた。
「サク!!」
はっとしてサクヤはその声を振り返った。
「ミギ姐さん!!」
彼女は少し膨れたお腹を押さえるようにして、ある部屋の扉の方に立っていた。
「サクヤ、こっちよ…!!ここからすぐに外に出られる」
彼女はそう言って、その扉に誘導するようにサクヤを手招きした。
そこは通常は鍵が掛かっている特別な部屋だった。
何者かにここを襲撃された場合に備えて作られた、シェルター兼脱出用の出口に繋がっている部屋だ。
ミギは急いでサクヤをそこに押し込め、自分も入ると内から鍵を掛けた。

「これで当分、お前が脱出するまでの時間稼ぎになる…。ここの鍵は、あと親分しか持っていないからね。
さぁ、サク…。こっちからすぐに表に出られる。ここから早く出るのよ」
ミギはサクヤの両腕を掴んで涙を浮かべてそう言った。
「姐さん…」
「ああ、可哀想に…。お前が心配だったんだよ…。
お前はこんな所にいちゃいけない。こんな所で人生を潰しちゃいけない…。
いつも思っていた…」
そう言うと、ミギはサクヤの手に、チケットのような紙束を握らせた。
「これは?姐さん」
「これは今、南に来ているゲウラの武道一団の仮入団証よ。これを持って北の国境に急いで。
彼らは全大陸を定期的に回って、筋のいい人間を募集している武道団なの。
仮入団証だけど、これを取るには一応テストがあって、合格した者が手にできる。
だからこれさえ持っていれば、簡単にそこに入れるわ。しかも通門証なしでこの国も出られるのよ!
彼らは今週中にゲウラに戻るらしいので、何とかきっかけを作ってお前に渡そうと思ってた。
…渡せてよかった…。その一団の中に入ってしまえば、あいつらは追ってこれないからね。
いや、私がそうさせないから、大丈夫よ」
サクヤは嬉しくて涙が込み上げてきた。
自分の事を、ここまで考えてくれてたとは…。
「姐さん!一緒にここから出よう!姐さんをオレ、置いていけない…」
「駄目よ、サクヤ。…私は身重だし、お前の足手まといになる。
…この国は最近兵の目も厳しいから…お前一人なら何とかこの国を出ることができる。
…お前は頭のいい子だ。絶対に生き延びる事ができるわ!
…強くなるのよ、サクヤ」
「姐さん、でも…」
ミギは安心させるように笑った。
「私の事は大丈夫。
何せ大事な跡取りを身篭っているんだから、奴らも何もしないよ。
……ガイアが命を掛けて手に入れてくれた証書…確かにお前に渡したからね…」
その言葉にサクヤは驚いた。
「ガイア兄貴が!?」
「そうだよ…!だからお前はこの機会を無駄にしちゃいけない。
私達の気持ちを無駄にしないで。
…強くおなり、サク。力だけでないよ。心も強く…。
痛みを知っている人間は、他の人間の痛みもわかる。
辛い事があっても、笑って乗り越える強さをお持ち。
そうすれば必ず道は開ける。人はどう思って生きるか…生き抜くかが大事なんだよ」
ミギは脱出用の小さな扉を開けた。そうして自分が護身用に持っていた短剣をサクヤに持たせた。
「さあ、サクヤ!この先に新しいお前が待っている。新しい出会いが待っている。
…お前と…心から信頼し、寄り添える相手が待っているかもしれない。
自分の思うとおりに…生き抜きなさい」
そうやってミギは微笑んだが、頬には涙が光っていた。
サクヤも涙で目が霞んだ。そして力強く頷くと、サクヤは外に飛び出した。


強くなる!強くなるよ姐さん…!!
オレは負けない。こんな闇、自分でなぎ払い、前に進んでやる!!
この思いを自分で超えてやる!!


そしてサクヤは国境近くに辿り着くと、ミギから貰ったその短剣で、長い、鎖のような黒髪を切り落とした。
奴らと繋ぐ、あの重い髪がばらばらと地面に落ちていく度に、サクヤの身も心も軽くなっていく気がした。


姐さんありがとう。
強くなって、そして…身も心も強くなったら…必ず迎えに行くから…!!
そして奴らを…!!


そうして自分はこの十年、この思いを抱えて生きてきたのだ。
なのに、その人生の恩人である彼女が…自分のせいで死んだなんて…。

「ミギ姐さんはどうして死んだ。オレが出た後、一体何があったんだ」
イゴールは喉元に突きつけられた刃先を意識しながら、苦しそうに語りだした。
「く…。お前が逃走して、アジトは大騒ぎだったさ…。
特に親父殿は気も狂わんばかりで…。
おい、ちっとはその刃物、加減してくれよ」
「うるさい。早く喋れよ。もっと突きつけようか?」
イゴールは冷や汗を掻きながら、話を続けた。
「お、俺達が全員、親父殿と一緒にお前を追って、外に出ようとしたとき…。
ミギの奴、出入り口を塞がるように立ちやがってさ…」


(ミギ!!何してるお前…。早くそこをどけ!!)
血だらけになっている右目に、布を巻きつけながらゴウが叫んだ。
(サクヤを追うんだね…?)
(それがどうした!!)
ミギは涙を流しながら言い放った。
(ここは通さないよ!!)
(何っ!?)
ゴウは頭に血が昇った。
(サクだけじゃねぇ…お前まで…。この俺の邪魔をするとは…。
いい度胸じゃねぇか!)
掴み掛かろうとするゴウ達を牽制するように、ミギは小さな黒い物体を指に挟み、高々とその手を上げた。
(何だそれは…)
(わかるよね、ゴウ。これは町の爆薬職人が作る…小型の爆弾だよ。
こんなに小さくても、このアジトが半壊するくらいの威力があるんだ。下手な事すると、こいつを爆発させる)
ニヤリ、とミギが笑った。手下達は動揺して半歩下がった。
(お前…それ…いつの間に…)
(あんた達が殺したあの人が、何かのためにと私にくれた物だよ。
私はこの時を待ってたんだからね…!!)
(ミギ…)
(もうサクヤを追うのは止めな!あの子を自由にしてやって!
あの子は…あの子だけはあんたのいいようにはさせない。…私の命にかえても)
ゴウは引きつった笑いを浮かべながらミギにじりじりと近寄った。
(ミギ…機嫌直せ。今なら間に合う。お前は大事な身体じゃねぇか…。
母親は子供を守るものなんだろ…?お前は下手な事できやしねぇよ)
突然ミギが狂ったように笑い出した。
(何それ!?オメデタイ男!!他人を人扱いしないくせに…。
自分の子供は可愛いのね。
…だからこそあんたに報復してあげる。
あんたも私達と同じ思いを味合わせてあげる。
あんたの大事なものを奪ってやるのよ!!)
そしてミギはその小さな黒い爆弾を顔の近くに持ってきた。
(よせ…ミギ…)
(これで…サクヤはここを出られる…。私もこれで…やっと楽になれる…。
あの人の傍に…行く事が出来る…)
ミギは涙をこぼしながら呟いた。
(赤ちゃんごめんね…。あんたには罪はない。
だけどこの悪魔の血を引いているんだ…。
母さんとあっちに行こうね…。あの人もきっとわかってくれる。
だって優しい人だもの)
(ミギ!!)
ミギはその黒い物体を口に放り込み、奥歯で思いっきり噛んだ。
張り裂けるような爆音と共にアジトの半分が吹っ飛んだ。
慌てて身を守ったゴウ達も、命はあったがかなりダメージを受け、動けなかった。
無事だった子分達が負傷した者を助け、しばらくはゴズモル組は活動ができなかったのだ。


「姐さん…。姐さんが自分で…」
「だからお前は逃げられたんだよ。ミギのお陰でな」
イゴールはちらっとサクヤが動揺しているのを見て取った。
「お陰で俺もとばっちり受けて、2ヶ月も不自由な生活を送ったんだ。
ミギはお前を逃がそうと…爆弾を噛み砕いたのさ。
お陰で親父殿は片足を失くし思うように動けず、しかもお前さんが潰した右目のせいで、片方も使いすぎて悪くなっちまって、ほとんど最近は見えねぇ…。それでも親父殿は相変わらず怖いが、ま、俺様が次の頭領だ。
今は俺がいないと組も回らないのさ」
得意げにイゴールは言った。だが、サクヤはミギの話にショックを受け、他は頭になかった。
サクヤの手がわなないた。
「ああ、姐さん…そんな…」
姐さんはそこまで…そこまで覚悟していたのか…。自分を送り出してから、最初からそうしようと…。
サクヤが動揺し、隙が出来たのをイゴールが見逃すはずがなかった。
突きつけられていたナイフを勢いよく払い除けると、サクヤの胸倉を掴み、引き起こしながら横に投げ飛ばした。
大きな音と共に、サクヤは椅子に突っ込んだ。
「くそ!」
よろめきながら、立ち上がろうとサクヤは腕に力を入れた。
不覚だった。奴に隙を見せてしまったなんて…!
「やってくれたなぁ、サク」
イゴールはニヤッと笑うとサクヤに掴み掛かって行った。
大男に組み敷かれようとして、サクヤはもがき、抵抗した。
サクヤだってもうあの頃の子供じゃない。この十年、色々と修羅場をくぐって来た。
体力も腕力も、昔と比べ物にならないくらい鍛え上げてある。
喧嘩慣れだってしているのだ。あの【暁の明星】と共にいたのだ。
簡単にやられるサクヤではない。

二人の激しい乱闘は続く。サクヤの蹴りがイゴールの腹に入った。
「ぐぅ!!」
血反吐を吐きながらも、イゴールはサクヤのふくらはぎを鷲掴み、思いっきりねじ上げる。
「うぁあああ!!」
サクヤはそのあまりにもの痛みに思わず声を上げた。
転がるサクヤに、イゴールは荒い息を吐きながら、無慈悲にもそのねじ上げた所を自分の足で踏みつけた。
「ぐわぁ!!」
鋭い痛みが全身に広がる。
その様子に満足したか、イゴールはサクヤを見下ろし、せせら笑った。
「…へ…へへ…。いい格好だな、サク。
だがさすがにお前…あの【暁の明星】にくっついてるだけあって…。えらく強いじゃんか…」
形勢は逆転したが、イゴールがサクヤにかなりやられているのは、一目瞭然だった。
息も絶え絶えだ。
だが、イゴールは反撃できた嬉しさからか、サクヤをいたぶる為に、途切れた息で話し始めた。
「冥土の土産にお前にいい事を教えてやるよ」
サクヤは痛みに耐えながら、イゴールを睨み付けた。
「ミギとガイアはできてたんだよ」

サクヤの目が大きく見開かれた。
その様子にニヤッと笑い、面白そうに話を続ける。
「…お前と親しくした事で、ガイアの奴、責任取らされて指詰めてさ…追い出されたのは知ってるだろ?
だけど、この話には続きがあるんだ。
親父殿も奴にはえらく稼がせて貰っていたからな、口で。
だから命取る事だけは勘弁してやったのにあの野郎…。親父殿の情けを袖にしやがった…」
サクヤは驚いたが、何となく判っていたような気がする。
ミギ姐さんがあの時、ガイア兄貴の名前を口にしたときの…声色で…。
「それでどうしたんだよ…」
イゴールはニヤニヤしながらサクヤを見ている。
「…ガイアはミギを連れて逃げようとしたんだよ。ガイアの奴、ミギをわざわざさらいに来やがった。
それを俺が見つけて親父殿に引き渡してやったのさ」
(ガイア兄貴…)サクヤは胸が詰まった。
「…ガイアの奴…ミギとそういう仲かと思って調べたら…。
驚いたねぇ。奴はミギの実家の使用人だったんだよ。まぁ、執事みたいなもんか…。
ずっと大切にお守りしていたお姫様だったんだと」
サクヤの脳裏に、あの時のガイアの言葉がこだました。


(…サクヤ。…その子を好きだったんだな。守ってやりたかったんだな…。
その辛さ…、俺もよくわかる…。俺も…自分の無力さに…いつも情けなく思っている)

(…俺はどうしようもない…。それでも諦める事はできない…。
好きだと、愛している気持ちを、どうしても止められない相手というのは、世の中に一体どのくらいあるものか…。
傍にいて、守ってやりたい相手…。お前のように、俺も決意すればよかったのか…)

「奴はミギを追って、まんまと俺達の組織に潜り込んだのさ。
…それで親父殿の目を盗んでは、なるべくミギの傍にいたようだったぜ。
……ミギもずっとガイアに惚れてたらしくてさ…。その事を知った親父殿の怒りったらもう…」
サクヤは喉が震えた。ガイアと、ミギの気持ちを思うといたたまれない。
だが、容赦ないイゴールの話は続く。
「それからが面白かったぜぇ。親父殿が切れるとどうしようもないの、お前だって知ってるよな?
ガイアの奴を締め上げて、皆で動けないようにしてさ…。その目の前で親父殿がミギを犯し続けたのさ。泣き叫ぶミギの声と抵抗する姿から目を逸らさないよう、俺たちががっちり奴を抑えてよ…。
見せしめだよ。
ガイアにはこの女は自分のモノだっていう事と、ミギにはその姿を惚れた相手に見られる屈辱…。
そしてその男が少しずつ身体の一部を切り取られていく所を見せられるという…」
「な…に…?」
サクヤの背中に悪寒が走った。
「最初は手だっけかなぁ…?その次は耳?
…ははは、ガイアの奴。結構しぶとくてさ。
いつ目を潰してくれと言うか、俺達待ってたんだがなぁ。
悶絶しながらも目だけはミギから離そうとしなかった。
余程惚れ込んでたんかねぇ…。
そのうち出血が酷くなって、奴はあっけなく逝っちまったがな」

サクヤは頭がぐらついた。
…何だ…?こいつらは…。
一体何を…言っているんだ…?
こいつらは…何をしたんだ…!?


サクヤの右目から一粒の涙がこぼれた。


ガイア兄貴はずっとミギ姐さんを愛していた…。
彼女を…彼女をどんな思いで…今まで見つめていたんだろうか…。
自分の素性を隠してまで…兄貴はミギ姐さんの傍にいて…守りたかったんだ…。
そして姐さんも……。
二人は愛し合っていた…。だけどそれは誰にも悟られてはならず…。

それなのに…こいつらは…。
二人になんていう仕打ちを…!
しかもそれを見て楽しんでいるなんて…!!

どんなに無念だったろう。どんなに辛かったろう。
それでも兄貴は姐さんから目を離さなかった…。
多分…自分の命が尽きるまで…。
きっと互いに、片方の最後の命の火が消えるまで…目で思いを伝え合っていたのかもしれない。
ミギ姐さん…。姐さんもどんな思いで、愛する人間が無残になっていく姿を見させられたんだろう。
想像を絶するほどの地獄の苦しみだったに違いない。

…なのに…あの二人はまるで実の親のように…自分によくしてくれた。
オレに新しい世界を開いてくれた…。命を懸けて…。


「まさかそれでミギにガキが出来ちまったのには驚いたな。
今までなかなか出来なかったのによ。
ま、それで親父殿も機嫌が直っちまって。
流れちゃ大変だってあんなにいたわってやったのになぁ」


ああ…。姐さん…。
天は何ていう皮肉で過酷な事を、彼女に与えたのか…。
彼女が体調を崩し、ずっと臥せっていたのは…このせいだったのか…。
そしてその間…どんな気持ちだったのだろう…。
苦しかったよね…。
悔しかったよね…。


サクヤのの心の奥底から、あの時と同じ、どす黒い怒りが湧いてきた。
その黒い怒りは全身を駆け巡り、身体に呼応する。
握った拳に力が入り、震えが止まらない…。

「…の…外道…」
サクヤのわななく唇から、搾り出されたような低い声が出た。
まるで、自分の声ではないようだった。
「何だ?何か言ったか?」
イゴールはせせら笑っている。

「この外道…!お前らは人間じゃねぇ…!!」
サクヤの怒りが噴出した。
その怒りは足の痛みを忘れさせ、自分のふくらはぎを踏みつけていたイゴールの足を、もう片方の自由になる足で、怒りに任せ思いっきり蹴り飛ばした。
突然の事と、ちょっとした油断を突いた事で、イゴールは勢いよく後方にすっ飛んだ。
「くそぉ!舐めた真似を…。   !!」
体勢を整えようとして起き上がったイゴールの目に飛び込んできたのは、今まで見た事もないサクヤの怒りの形相だった。
サクヤはすぐに自分の体制を整え、イゴールに挑んで行った。
よく皆に小さいと言われるサクヤだが、周りが大きい男ばかりでそう見えるだけだ。
一応彼は大陸では平均より少し背が低いくらいで本当はすごく小柄、という訳でもない。
長年鍛えた結果、背は少し低いが筋肉質で、意外とがっしりと逞しい体つきになっていた。
それでもやはり、イゴールはサクヤより一回り以上でかい。
一見、サクヤに不利なように見える。…だが…。

サクヤはずっとアムイと戦ってきた。
いつしか彼は、アムイと合わせようとして懸命についていった結果、かなり身体能力のスピードが上がっていたのだ。
しかも今は怒りで我を忘れている。足の痛みも飛んでいるくらいだ。
「ぐぁ!!」
イゴールはまたサクヤの勢いのある拳を受けて、後方に飛ばされた。
体勢を整えようとしても、サクヤがそれを許さない。
圧倒的で、しかも容赦ない速さで、サクヤはイゴールを叩きのめしていく。
あの、屈強な大男であるイゴールに泣きが入った。
「や、やめてくれ…、た、たすけ……ガフッ!!」
イゴールの顔は半分以上変形し、腫れ上がり、血だらけで、目も半分見えなくなっていた。
体中に裂傷がサクヤの手によって刻まれ、イゴールは転がりながら蹲(うずくま)った。
見るからに半殺し状態だ。
サクヤは泣いていた。
イゴールを殴り、蹴りながら、行き場のない怒りと悲しみを、目の前の相手にぶつけていた。
床に転がっていたナイフを拾うと、サクヤは唸るような声で、イゴールに言った。
「お前達は人を何だと思ってるんだ…。
か弱い者をいたぶり、嬲(なぶ)り、簡単に殺して…。
人の心の痛みを何とも感じねぇ!!お前らは悪魔だ。どうしようもない鬼畜だ。
……ぶっ殺してやる……。
お前もガイア兄貴にしたと同じ思いを味合わせてやるよ…」
サクヤはイゴールに近づくと、ナイフを顔にちらつかせた。
「さぁ、イゴールよ?何処から切り取ってやろうか!
耳か?それとも鼻がいいか?」
「ひ…ひぃぃ…」
イゴールは恐怖のあまり頭を抱え込んだ。
サクヤは笑った。だが、目からはどんどん涙が溢れてくる。
「鬼畜な野郎でも怖いんだ!ははは…。
わかるだろう?お前達は沢山の人をこうやって恐怖に突き落としてきた…。
それを笑っていたんだろ?面白かったんだろ!?」
サクヤの顔が苦悶し、歪んだ。
「ゆ…許してくれ…サク…た、頼む…」
「許せ?
はっ!馬鹿言うな!!お前もそう言われてきて情かけた事なんてあったかよ。
…今こそ…お前らに無残にもやられた人達の恨み…思い知らせてやる!!」

サクヤはそう泣き叫びながらナイフを振り上げた。

ガシッ!
「!!」

いきなりその手を誰かが掴んだ。

「止めろ…」

聞き覚えのある声がサクヤの耳元で聞こえた。
「サクヤ、もう止めろ。…これ以上お前が手を汚す事はない…」
「あ…兄貴…!」

それはアムイだった。

彼はいつの間にか、サクヤを追って、ここまで来ていたのだ。
この時サクヤは気が付いた。イゴールを倒すのに夢中になっていてわからなかったが、あそこまで乱闘していたのに手下供が一向にやって来なかった。
ふと横を見ると、開け放たれた扉の向こうで、十人程いた子分達が転がっていた。
アムイのその声でサクヤは、激しい衝動が身体から抜けていくのを感じた。
だが、それでもこの辛さ、悔しさ、悲しみは納まらない。
「でも、でも兄貴…!!」
「これ以上やったら、お前はこいつらと同じになっちまう…。
もういいじゃないか…。こいつはもう普通の生活は出来ないだろう。
不自由な身体で、惨めに苦しみながら生きていく方が…よっぽど辛い」
サクヤの手からナイフが落ちた。
「お前は強い。…こいつらなんかより、もうお前の方が強くなったんだ…。
……力も…心も…お前の方が上だ」
サクヤは号泣した。
身体を振るわせ、なりふり構わず。
関わった人達の顔が脳裏に現れては消えていく。
こんなに涌いてくるのかと思うほどに、涙が止まらない。
そんな状態のサクヤを、しばらくアムイはじっと黙って見つめていた。
そして泣き崩れているサクヤの肩にそっと手をかけると、深い、今まで聞いた事のないような優しい声で囁いた。
「サクヤ、帰ろう…。お前の仲間の所へ…」

二人がゴズモルの屋敷から出た時には、もうすでに夜が明けて来ていた。
うっすらとした朝もやの中、痛む左足を庇うように、サクヤはアムイに肩を借りて歩いていた。
本当は背に担ごうとした所を、サクヤが大丈夫と言って嫌がったのだ。
十数センチも差がある二人は寄り添い、もたつきながらもゆっくりと皆のいる宿に歩を進めている。
アムイは担いだ方が早いのに、とちらりと思いながらも、涙を流しながら、ぽつりぽつりと今までの事を説明するサクヤの話に真剣に耳を傾けていた。

まあ、いいか…。こうしてゆっくりと行けば、こいつも気持ちが落ち着くだろう…。

サクヤは嬉しかった。
自分の話を、黙って、そして時折相槌を打ちながらも、聞いてくれているアムイ。
……あの兄貴が…自分を心配して…追いかけてきてくれた…。
それだけでも驚く事なのに、今、優しく自分の心を受け止めてくれている。

ひとしきり話した後、今まで何も話さなかったアムイが口を開いた。
「…お前は凄いな…」
「え…?」
いきなり何を言うのかと、サクヤは驚いた。
「…俺にはお前から、兄貴って呼ばれる資格はないよ」
「何を言ってるんですか…」
「…俺は…恥ずかしい」
「兄貴?」
「…お前は…心が強い。…あれだけの思いをして…苦しんで…。
だけどそれを超えていこうとする精神力を持っている。
前に進もうとする気持ちがある。
…ずっとお前が誰かに似てると思ったら、キイに似てるんだな…。
だから俺は…」
アムイは視線を落とした。
「それに引き換え俺は酷い臆病者だ…。
もう何年も…。殻に引き篭もり…。
力だけ強くても、心も強くなければ、本当に強いとは言えないんだ。
……過去の恐怖と向き合って、戦う気力もない腰抜け…。
お前を見て、痛切に感じたよ」
そしてアムイは羨ましかった。
サクヤの解放の涙を。
自分は泣く事が出来ない。涙と共に感情を出す事ができない…。
実は、その恐れも自分の根底にある事に気が付いたのだ。
「兄貴…そんなこと…」
「おい、兄貴って言うなよ。前から言ってるだろ?」
アムイがふっと笑った。サクヤは目を丸くした。
(兄貴が…笑った…)
悲しげではあったが、それはサクヤが初めて見るアムイの微笑だった。
ああ…。この人はこんなに優しく笑うのか…。
サクヤは初めての事に、小さな感動を覚えた。

「俺は…」
「え?」
突然アムイがサクヤを見た。
「…お前に感謝しなくちゃいけない…サクヤ」
「ええ?」
何を言い出すんだろう、とサクヤはびっくりしてアムイを見上げた。
「お前…。どうして自分がセド人だって言わなかったんだ?」
「だって…。言えなかったよ…。兄貴の素性知ってしまって…。
兄貴がそれで苦しんでるって…判ってたから…」
アムイは前を向き、遠い目をした。
「……ああ、そうだな…。
でも…俺は…お前のお陰で決心がついた。
…自分の過去を…闇の箱を開ける…!」
「兄貴!」
「ふっ…。だから兄貴って言うなって…。
俺はお前にそう呼ばれる資格はないんだから…」
そういうとアムイは暗い目をした。
「……」
あの、いつもの暗い…沈んだ瞳だった。
「お前があんなに懸命に自分の運命と戦っていたんだ。
俺も戦わなきゃ…。それが想像以上に苦しい事でも…。
……お前を不幸に落し入れた、18年前の国の壊滅…。
どうして滅んだが、俺はきっと知っている…。
俺の闇の箱に…自分で封印した記憶に…真実が多分詰まっている。
キイも俺の事を思って、口を閉ざしていた当時のこと。
……もしかしたら…お前は俺を憎むかもしれない…。
お前の…セドの人達の幸せを一夜にして奪ったのだから。
でも、でも、もう開けなくてはならないだろう…。
真実を…。あの日、何があったのかを…」

サクヤはいたたまれなくなって、思わず俯いた。
…この人の…硬い殻に覆われた、本当の姿を垣間見たような気がしたのだ。
それはきっと…自分が想像する以上に純粋で優しくて…傷つきやすくて…。


再び込み上げてきそうな涙を、サクヤは無理やり押し込めた。
こんな事で泣いたら、この人に迷惑をかける。
…自分は…何があってもこの人についていこう。…何を聞いても、傍にいよう…。
サクヤはそう決心した。今まで以上に。


そうしているうちに、皆のいる宿が見えてきた。
宿に着く間、二人はずっと無言だった。
無言だったが、二人の間に流れる空気は、今までと少し違っていた。
そしてアムイも、自分が少しずつ変わっていく手応えを感じていたのだ。

ところが、宿では予想外の出来事が待っていたのだ。
帰ってきた二人は驚いた。

……何故なら、宿には傷ついたアーシュラが担ぎ込まれていたからだった。

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