暁の明星 宵の流星 #90
アムイへの仕打ちは彼女だけではなかった。
…あのフユトの兄達が、二人の生まれを調べ、それを材料にアムイを攻撃してきたのだ。
「父さんが、大罪人?」
「よせよ、ソウ。まだチビだから話したって意味なんかわからないさ」
小さいアムイは、もうすでに思春期を迎えていたキイの従兄弟だというセドの王子達に呼び止められ、とんでもない話を聞かされた。
「どういう事?なんでおれの父さんが罪人なの?」
その後に暴かれた二人の生まれの秘密。
…キイは震えた。こんな形で自分達の出生がわかってしまったなんて…!!
それ以来、アムイは事ある毎に、彼らに父親を貶められ、蔑まれた。
アムイにとって、それは自分がいたぶられるよりも致命的だった。
自分の父親が犯した、その大罪によって、アムイは暗い闇に放り込まれた。
それは愛する父親が蔑まれる事以上に、愛するキイに父が生まれの苦しみを背負わした事に対する憤りもあった。
まだ子供だったから…大人の行為はよくわからない。
それでも自分の父親が、キイの母親にした事を、その従兄弟達はご丁寧にも面白おかしく教えてくれたのだ。
そのいきさつが多少違っていたとしても、結果的に変えようのない事実なのだから。
アムイはそのショックと同時に、ミカのエスカレートしていく異常な行動にも翻弄されていった。
無垢で小さなアムイは身も心もボロボロだった。
そしてキイも、その自分の生まれの詳細を知り、愕然とした。
それはキイがミカに直接、もうアムイと関わらないよう直訴しに行った日だった。
ミカは無表情のまま、キイの話を聞いていた。が、目に怒りが表れているのをキイは見て取った。
「ねぇ?キイ。私は貴方の伯母よ。この国の神王大妃よ?
私に向かって、その様に指図できると思っているの?」
キイだって子供だが馬鹿じゃない。この王族が自分を必要としている事実を把握していた。
あれほど将来自分を神王に立てたがる理由。
自分だってアムイと同じ大罪人の子なのに、異常に優遇されている理由…。
つい先日、新たな気術者を伴って、マダキとかいう胡散臭い賢者衆の一人だという男がやって来た。
そいつは自分を舐めるようにして見て言ったのだ。
(キイ様。覚えておられぬと思うが、私は貴方様を赤子の頃からよく知っておりますぞ。
何とも立派にお育ちになられた!
これからはこの私の選出した気術者が、貴方様を診ますからご安心を。
今日はその責任者となるティアンという者は来れませんでしたが、彼は百蘭(びゃくらん)よりも数倍素晴らしい気術者であります。
貴方様はあの“気”を磨き、全コントロールする術を身につけなければなりませんぞ…)
こいつらの狙いは俺のこの力だ。
キイはそれでもまだ彼らが、アムイの持つ力に気がついていない事に安堵していた。
この事が知れたら…アムイもコイツらにいいようにされてしまう。
「なら俺はシロンに直訴する!俺をいいように使っていいと条件出す」
「貴方って…。初めから思っていたけど、本当に子供らしかぬ口をきくのね。
可愛げが無いわよ、そういう子供は。本当に目障り」
ミカの目が光った。
「お前ごときに何ができるのかしら?いいわ。決めたわ」
いきなりそう言うと、彼女はキイの手を掴み、恐ろしいほどの力で彼を引っ張って部屋を出た。
「な、何すんだよ!」
突然の事で、キイは動揺した。気が付くと、自分の部屋まで連れて来られていた。
ミカは勢いよくキイを部屋の中へと突き飛ばした。
「痛っ!」
キイは床に転がった。「貴様…!」
睨みつけるキイを冷ややかな目で見下ろしながら、ミカは言った。
「…ソウ王子達から聞いたんでしょ?私にご丁寧に報告に来たわよ、あの子達。
貴方達の生まれの経緯…。此処に来たら教えてあげるって言ったでしょう?」
キイはぐっと言葉に詰まった。
あいつら…!!アムイにあんな事言いやがって…!
以来、彼らのアムイへの虐めはあからさまになっていった。
それよりも辛いのは、二人が父を同じにした兄弟だったという事が、アムイに知られた事だった。
その父親がアマトだとキイが知らない頃、アムイは散々聞かされていたのだ。
キイがどれだけ父親をよく思っていない事を。アムイも自分と共に憤ってくれていた…。
その人間が、実は自分の敬愛する父親と知って…アムイはどんな気持ちで…。
だがその事以外に、キイには引っかかっていた事があった。
あの兄王子達の言っていたこと…。
(お前の親父はとんでもない事をやらかしたのさ。神を冒涜したんだ。ぼ・う・と・く!わかるか?
お前の親父は神聖なる巫女だったキイの母親を暴行してキイを産ませたんだ。
本当は死にも値する大罪なのが、神の血を引く王家の人間だという事で、追放されただけですんだんだぜ)
(ぼ…うこう?)
(おい、わかるわけないじゃん。まだ子供がどうしたらできるかもわからないチビに)
あれって…あれってどういう事だ…?
母さんは…まさか無理やりに…。…俺は…俺は愛し合って出来た子でない以上に…その…。
そのキイの表情を黙って伺っていたミカは、ふっと笑うとおもむろに話し始めた。
「あんたなんか、その力を持って生まれなければ何も意味なんてないのよ」
キイの目が見開かれた。
「お前の父親…。アマト様は…お前の母親なんて愛してなどこれっぽっちもなかった。
本当は私と結婚するはずだったのに…。
それが国のため、大陸の平和のために…自ら大罪を犯したのよ。
オーン最高位だったお前の母親と無理にでも通じて、神の力を持つ子を作る為にね!」
キイの顔から血の気が引いていった。
「じゃ、じゃあ、あいつらが言っていた事は…。その、アマトが俺の母を…」
「そうよ。そうでなければ死ぬまで純潔を守らなければならない巫女と、子供なんて作れるわけないじゃない」
キイは眩暈がした。
あの、生まれる前の記憶が彼の中でいきなり溢れ出した。
あそこに行きたくない…。こわい…こわいよ…!!
(貴方のした事は、私を地獄に突き落としたと同じ。
王国のため?大陸のため?そんなの私は望んでなどいなかった!)
(貴方は私を穢したのよ!私をただの女にした!
私はもう、神の声が、天の声が聞こえない!)
(貴方は私に恐怖をくれただけ。今更言い訳したって、この事実は…。
貴方が私にした大罪は消す事はできないのよ!!)
憎しみの感情が、激しい感情が、負のエネルギーが自分を引っ張っていく、あの感覚。
こわい…!!キイの小さな意識が感じた恐怖。
混沌とした渦が、眼下に見え、怒りと、悲しみと、そして恐怖と…。
そしてどうしようもない苦しんでいるふたつの波動…が渦巻き、自分をいたぶる…!!!
「やめろ!!キイにそんな話をするな!!」
いつの間にか来ていたのか、アムイが泣きながらキイに飛びついた。
「アムイ…!」
ミカは唇を噛んだ。キイを庇うように抱きつく姿が彼女の狂気を増大させた。
「こちらに来なさい、アムイ」
凍るような声だった。アムイは一瞬ビクッとなったが、キッとミカを睨み付けた。
アムイの一番大事なものはキイだった。その彼を追い詰める相手は誰だろうがアムイは許せない。
「お前は私よりも…その巫女の子供を選ぶ…というのね…?」
ミカの声は尋常では無かった。
「おれのキイにひどい事言わないで…!おれの…おれの…」
そのアムイの様子にミカは憎悪で我を忘れた。
「ああ…!ああ嫌だ…!!何でお前達は生まれてきたのよ!
何で私の赤ちゃんは死んでしまったの…?」
ミカの鬼気迫る形相に、二人は凍りついた。
「アムイ…。お前に本当の事を教えてあげる。
お前は大罪人の子であると同時に汚らわしい女の血が混じっているの。
お前の母親は、キイの母親と同じ神に仕える聖職者だったのよ!
それがどんな事だかわかる?
お前の母親は神に操を捧げたくせに、あの方に色目を使って再び罪を犯させたのよ。
お前を作ったという…罪の子を作ったという恥ずべき事をね」
アムイの体が硬直した。
おれが…罪の子?
「そうよ。お前は生まれてきてはいけない人間なのに、どうして私の赤ちゃんだけ生まれてこなかったの?
どうしてあの穢れた女が、私のアマト様の子供を宿し、産めるのよ。
…巫女との時は私も諦めた。
だってあの方はあの巫女を愛してなかったもの。
大陸のためという大義名分があったもの…!!でも!」
彼女の脳裏に、あの時目撃した二人の仲睦ましい姿が現れる。
アマトの愛に溢れる眼差し…。それは自分でなくあの女に注がれて…。
ミカの両目から涙が溢れてくる。口元は憎しみでわなないている。
「何故お前の母親はあの方の傍で、罪の子を生むのよ。…それも、ひとりだけでなく…二人目もなんて!!」
もう彼女は目の前の子供の事などは考えていなかった。
このような大人の事情、子供達には理解できる範疇でない。
が、子供には詳しい事はわからなくとも、発せられる言葉が凶器となり、心を殺していく。
そして大人になって意味を解して、その時の事を理解するのだ。
「だから天罰がお前の母親に下ったのよ。神様がお怒りになったの。
だから罪の子もろとも切り刻まれたのだわ!神の刃(やいば)で!!」
二人はぞっとした。この目の前の女性が放つ狂気の闇に。
「ねえ、知っている?………女はね…・。月に一度、血を流すのよ。
命になり損ねた塊を吐き出すために………」
その声はまるで地獄の底から響いてくるようだった。
「その度に私がどんな思いだったか…。お前達にはわからない…。
もう私は二度と望めない…あの方との…愛の結晶」
そう呟くと、ミカはもの凄い力でアムイの身体を掴み、キイから引き剥がした。
「アムイ!!」
「キイ!」
キイはアムイに手を伸ばそうとしたが、それをミカに遮られた。
「この子は私のものよ、キイ。もう誰にも渡さないんだから…!
お前達のお父さんが私の元に来るまで、アムイは私の傍にいなきゃいけないの。
私の傍で一緒にお父さんを待ちましょう?ね?」
ミカはすでに正気を欠いていた。言っている事が混同し、ちぐはぐになっていく。
「…お父さんが帰ってきたら、やっとこれで親子三人楽しく暮らせるわ。
お母さんね、変な夢見ちゃった…。お前が生まれないで流れてしまったなんて…。
可笑しいわよね?お前はちゃんとお母さんの所にいるっていうのに」
「お、伯母さん…?」
アムイは奥歯の震えが止まらなかった。…大人がこんなに怖いなんて…初めての事だった。
「伯母さん…?何を言っているの?この子ったら!」
ミカの笑う顔が不気味に見える。
彼女は嫌がるアムイを引きずりながら、部屋を出て行き、勢いよく扉を閉じて外鍵を掛けた。
「キイ!!」
アムイの悲鳴がキイの耳を突き刺す。
「アムイ!!」
キイは青くなって閉じられた扉に突進した。だが、扉はびくとも動かない。
「ここから出せ!!アムイをどうするんだ!?おいっ!!…アムイっ!!!」
キイの叫びを受けて、扉の向こうでミカの笑い声が聞こえた。
「おほほほ…!うるさいからお前はここに閉じ込めてあげます。
私とアムイの邪魔をした罰よ、キイ。お前にはもう二度とアムイは逢わせない。
そうねぇ、お前のために結成された気術者チームが、城に来る頃には出してあげる。
いつになるかわからないけど…!」
その傍で、アムイの悲痛な声がする。
「キイ!キイ!!」
「アムイ!」
キイは懸命に取っ手を引くが、ガチャガチャと音を立てるばかりでびくともしない。
「さ、アムイ、お母さんと一緒にお部屋に戻りましょう。
今日もお母さんと一緒に寝ましょうね。お前は大きくなったのにまだまだ甘えん坊ね。
…本当にお父さんにそっくりだこと…」
「嫌だ!!お願いキイを出して!伯母さんキイに逢わせて!キイと離れるのなんて嫌だ!!」
ミカの息を吸う音が扉越しに聞こえた。
バシッ!!
キイは固まった。扉の向こうで殴られる音がする。
「ア、アムイ!?」
それも一度だけでない、何度もその音が繰り返される。その度にアムイの悲鳴が上がる。
「やめろ!!やめてくれ!!アムイ!」
自分の見えない所で繰り広げられてる地獄絵図。キイは目の前が真っ暗になった。
信じられない。信じたくない。アムイにこんな事を平気でする大人がいるなんて。
「頼む…!やめろ…やめてくれ…。俺のアムイを傷つけないで…」
キイの目に涙が溢れた。
「俺の…?」
扉の向こうでミカの憤怒した声が響いた。
「何を言うの?キイ。アムイは私のものだって言ってるでしょう?
…アムイ。お前まで私に逆らうのね…。あなたのお父さんと同じように私から去っていくの?
許さない。そんな事許すもんですか!
お前は私の傍にいるの!そうしなければアマト様は私の手に入らない」
最後は泣き声になっていった。
「あの女!!アマト様をたぶらかしたあの汚らわしい女!!そうよ、お前の母親よ!!
聖職者だったくせに!神に背いたばかりか、お前のような罪の子まで生んで…」
「母さんの悪口を言うな!!」
アムイの震える声が飛んだ。
「おれの母さんはそんな人じゃない!綺麗で強くて優しくて…。おれの母さんは…」
「ア、アムイやめろ…それ以上言ってはだめだ…」
キイの恐れは的中した。
「あの女の味方をするなんて…許さない…。
お前にはもっと厳しい罰が必要かもしれないわね?アムイ。
あの女の名前を言えなくさせてやる。
お前の身体からあの女の汚らわしい血を浄化してくれる」
アムイの悲鳴があがった。
キイは見えてなかったが、ミカはアムイの頭髪を掴み、引きずったのだ。
「アムイ!?」
「来るのよアムイ!さあ、私と」
アムイの悲鳴が段々と遠くなっていく。キイはその場に崩れ落ちた。
あんな狂った人間に、アムイが何をされるかが恐ろしかった。
(助けて!誰か俺のアムイを助けて!!)
キイは全身が震えて、涙が止まらなかった。この時ほど、自分の父親を恨んだ事はなかった。
此処の今までの話からだと、全ての元凶は自分達の父親ではないか。
神を冒涜する所業をしていながら、生き延びている父親ではないか。
大罪を犯し、自分達のような罪の子をこの世に送り出し、その事が他人に狂気を呼び寄せているんじゃないのか?
しかもアムイがこのような残酷な目に合ってるというのに、肝心のアマトは何故来ない?
キイのアマトへの憤りは益々膨れ上がっていったのだ。
それだけでない。
自分が生まれたのは…。この地に神の力を呼び込むため。
この忌まわしい力を手にする為に、それだけのために母を陵辱し、無理やり自分を生ませ…!!
キイは頭を抱えた。
ならば俺の存在意味は?
この地に存在する己の意味とは何なのだ?
この力だけなのか?この力だけが自分の存在理由だとしたら…。
この力を持たない自分には何も意味がないのでは?この地に降りる理由がないのでは?
それは心の奥底で、ずっとくすぶっていた疑問だった。
キイは呆然と宙を見つめた。
俺がこの地に留まろうとしたのは、アムイがいたからだ。
アムイが俺の手を取ってくれたからだ。アムイの存在が俺の存在理由なのだ。
ああ、だけど。
親に心から望まれず愛されずに生まれる子は、何も自分だけではない。
だが、キイは自分の生まれた経緯の真実を知ってかなりショックを受けた。
ならば俺は存在自体が罪悪なのだ。
この忌まわしい力と共に。神を冒涜し、欺き、神の宝を盗んだ罪人の子供。
自分は愛し合ってできた子供じゃなかったのは…薄々わかっていたが、まさかこんな残酷な事で自分が生まれたとは…。
(お母さん…!!ごめんね。俺が生まれたばかりに…。
だからお母さんは死んだんだ。神の怒りを受けて。
俺は生まれてくるべきじゃなかった…。最初から罪悪だったんだ)
キイは灯りも点けない真っ暗な部屋で、ひとりずっと泣いていた。
連れて行かれたアムイが心配で心配で、だけどどうする事もできない無力な自分を呪いながら。
キイの中で様々な思いと感情と考えが交差し、泣き続けたお陰で、少し冷静に考える事ができるようになってきた。
そう父親を恨んだとしても、アムイと共にアマトやネイチェル達と過ごした時間は、今までの中で一番幸せだった事をキイは思い出した。
当のアマトだって…。自分の父親と知らなかった頃は、凄く気に入っていた。
いつも真剣に子供の自分の話を聞いてくれた。様々な事を教えてくれた。
自分に触れる手に愛情を感じる事だってあった。でも…。
そしてネイチェル。彼女だって深い愛情で自分を包んでくれていたのもわかっていた。
(キイ様。…これから長い人生で、お辛い事があると思いますが、ネイチェルの話をよく聞いてくださいね?
どんなに辛くても、どんなに意に沿わない場所にいようとも…。この世に生きる理由が必ずあるのです…。
厳しくても、苦しくても、生きていればきっと希望は見えてくる。
この世に生まれて、意味のない人間なんていない…。
だからどんな事がキイ様に起きようとも、決して絶望してはいけないのですよ…)
生きる…理由…。
それはキイが求めている答えのひとつだった。
ネイチェルの言うように、この世に生まれて意味のない人間がいないのなら、自分が存在する意味も必ずあるのだろうか…。
だが今はアムイがこの地で生きる理由だった。俺からアムイを奪ったら、きっとこの世にいられない。
…だからネイチェル、お願いだ…!アムイを守って。アムイを…。
蹲るキイに、母の思いの篭った虹の玉が手首で煌いた。
虹の玉は一生懸命、キイを慰めていた。そして虹の玉、母の思いは決して父を悪く言わない。
それがキイには辛かった。母の気持ちを思って悲しかった。
とにかくここから出なくては…。
冷静になったキイは懸命に頭を働かせた。早く出てアムイを救わなければ。
それに…このままアムイと逢えなくなると、自分のあの力が暴走する恐れもあった。
絶対にここから出てやる…。どんな手を使っても。
キイはそう決意しながら自分で自分をきつく抱きしめた。
「あ…ああ、ごめん、ごめんなさいアムイ。
痛くしてごめんなさい…!だってお前が悪いのよ。
私のいう事を聞いてくれれば…!私から離れなければ…。ああ…」
アムイはミカの涙で気が付いた。
自分はあの後、彼女の部屋に連れて行かれ…、そして気を失うほどに折檻された。
体が痛い。重い。…動けない…。アムイは空ろな目で、彼女を見た。
寝台の上に自分は寝かされていた。そのすぐ傍でミカは泣いている。
まるでさっきの鬼のような彼女の表情は無かった。…そう、いつも彼女は自分を傷つけた後、こうやって人が変わったように泣くのだ。
こうなると、ミカはまるで十代の少女のようになる。
アムイはそういう状態の彼女の中に、悲しい、狂おしい、どうしようもない闇を見て、同情、同調してしまうのだ。
「私を許してね。許して、アマト様。ミカは貴方を好きなの。ただ好きなだけなの…」
そして決まって、その時の彼女はいつの間にかアムイをアマトと混同している。
ミカはアムイにつけた傷を唇で辿りながら、ポロポロと涙を流し続けている。
「だから嫌わないで。ミカをもう捨てないで。私をひとりにしないで…」
再び気を失っていたらしい、次に目が覚めた時にはミカの姿はなかった。
暗闇が恐ろしい。もう安心して眠れない。
アムイは涙が込み上げてきた。
辛くて、悲しくて、怖くて、痛くて。それは自分の心だけではない。
キイの、そして伯母の、その苦しい心の闇が、感情が、小さなアムイの心に圧し掛かっていた。
初めて知る、人の心の闇。無垢なアムイに容赦なく襲ってくる、負の感情。
今まで…母がこの世に存在していた時には知らなかった、感じた事のない、この“人の負”の部分。
アムイは嗚咽した。
母が生きていた頃、父とキイと、そして皆と、何も知らず幸せに暮らしていた日々を思い出して。
(母さん…父さん…キイ)
アムイは最初の頃、幾度となく父に助けを求めていた。
だが、今はそれができなくなっていた…。
(お前の父親は大罪人。お前は罪の子)
その事実が幼いアムイに暗くて冷たい影を落としていた。
近くでアムイの泣き声がする。
だがその声は彼女には届かない。夕闇の中、ひとり庭に出ている。
ただ、呆然とその場に立ち、ミカの心は一つの事柄しかない。
彼女はひたすら彼を待っていた。
彼の大事にしているものを、彼女は奪ってやった。
だからこそ、彼が自分を頼って、ここに来ることを、彼女は望んだ。
(アマト様…。貴方の大切なものは私の手の中。……今度こそ…私は貴方と離れない…)
運命の日は音も立てずにやってきた。
この日はアムイとキイにとって、地獄からの解放と共に、これから生きていくための試練を与えられた日となった。
それは神の怒りか。それとも天の意なのか。
それを知るには…まだ二人は幼過ぎた。
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