暁の明星 宵の流星 #94
その10.目覚め
長く、深い眠りから、今、目覚める時が来た。
心の奥底で埋もれしものの、再び起き上がる力を感じよ。
それはずっと…誰もが待ち焦がれた目覚めの時。
その晩は珍しく月が昇っていた。まるで王冠のような月… 。
凌雲山(りょううんざん)にある、ゼムカ族の隠れ家から、灯りが少しずつ消えていく。
ここは元々、ザイゼム王の生母…すなわち、アーシュラの母の持ち物であった。
今は、麓のザイゼムの父親の屋敷と周辺には民が控え、ここには王と、お付きの者、護衛数十人…そして、王の大切な人間が居た。
「…それでは…後はお願いします…陛下」
ルランはザイゼム王にゆっくりと頭を下げた。
その表情は、少々暗い。
ルランは自分が全く成長していないのに、心の中で苦笑した。
宵の君が心を閉じてから…三年以上は経つというのに…。
もう諦めているはずだったのに…。
やはり、こうして自ら、宵の君を陛下にお渡しするのが…自分にとって、こんなに苦しい事とは…。
寝台の上には、まるで人形のように横たわる、半裸の美しい姿があった。
その傍で寝台に腰掛けるようにして、ザイゼムが自ら絞ったタオルで、彼の身体を拭いていた。
「うん。ご苦労だった、ルラン。…ゆっくりお休み」
ザイゼムの声は、普段よりもとても優しく、ルランの耳をくすぐる。
一瞬、狂おしいほどの羨望が、彼の心に沸き起こった。
だが、ぐっとルランはそれを堪えた。
「お休みなさいませ、陛下」
ルランはそっと扉を閉じた。途端に涙が込み上げてくる。
キイが意識を封じてから、こうしてザイゼムは毎晩、彼の元を離れない。
ザイゼムが緊急でキイの傍に居られない時以外は、この三年…ずっと…。
我が陛下は毎夜、自分の寝床に宵の君を寝かせ、たまにああして自ら彼の身体を清める。
それからは、他の者に決して触れさせないよう、誰かに奪われないよう、つきっきりで共に就寝するのだ。
まるで親のように、夫婦のように、恋人のように…、慈しみながら彼と寝所を共にする。
それがルランには寂しく、辛かった。何故なら…。
王の寝所に呼ばれるのは、3年前まではいつもルランだった。
まだその時の彼は幼くて、大人の付き合いが充分にできなかったが、宵の君が来られる前は、あの逞しくも広い胸に抱かれて眠るのはいつも彼だった。その時、ザイゼムはいつもルランの耳元で、囁いてくれたのだ。
《お前が16になったら…私を受け入れるか?》
男も女も見境がない、奔放で絶倫、という噂のザイゼムだが、意外と紳士的であった。
いや、もちろん若いときはかなり羽目を外してはいたが、今現在大人の彼には、プライドもあるのだろう。
夜伽に関しては決して無理強いはしなかった。
実はそれが、ザイゼムが他の権力者と違う所だった。
豪傑で冷淡、気ままで自由奔放、厭きっぽい、という世間の噂を持ってしても、夜の彼は大人の包容力で相手を魅了した。
そのギャップに触れた者は、皆、彼の虜になるほどであった。
今まで誰にも本気になった事がない…。それは周知の事実であり、何人も相手を変えてきた事からわかる。
だからこそ尚更、誰もがこの気まぐれな王の、真実の唯一人になる事を切望した。
もちろん、ルランだってそうだ。
だが4年前、【宵の流星】を連れてきてから、王は変わった。
最初の一年は普段通りだったが、いつも近くで彼を見ているルランには、ザイゼム王の変化がはっきりとわかっていた。
宵の君を見る眼差し。かける声すらも。もちろん彼に対する態度も。
ルランは自分の部屋に帰ってから、声を殺して泣いた。
今まで、ずっと我慢していたのが、ここにきて溢れ出した。
ルランは辛かった。
王を心から愛している。この気持ちは真実だ。
待ち焦がれていた、あの約束の年齢を、もうすでに越えていた。
もう自分の事は忘れられているだろう…。
この事実も悲しかったが、それ以上に彼を苦しくさせたのは、その宵の君だった。
(宵の君を憎めればよかったのに…!!)
ルランはシーツに顔を埋めた。
(あの方を嫌いになれれば…。自分はもっと楽だったに違いない…)
前にも仲間に言われた事がある…。
《陛下の寵愛を独り占めにしている人間に、嫉妬とかないの?》
もちろんないと言ったら嘘になる。事実、さっきも嫉妬と羨望でおかしくなりそうだった。
だが…。
(陛下が宵の君を心から愛しているのがわかる…!だからこそ辛い…。
あの様な陛下は初めてだ…。
もし、もし宵の君を失ったら…一体陛下はどうなられるのだろうか?)
その事を考えるとルランは居た堪れなくなる。
今は、己の嫉妬よりも、愛する王の胸の内を思って、むせび泣いた。
「痩せたな…キイ」
ザイゼムは思わず呟いた。
キイの身体を拭き終わると、ザイゼムはいつものように彼の隣に身体を横たえた。
彼は顔を横に向け、うつ伏せになっている。真っ白で傷一つない、美しい背中が露になっている。
ザイゼムは優しく彼に触れながら、その背中にそっと口付けを落としていく。
(…全く反応なし…か…)
当初、キイが意識を封印したばかりの時は、普通に生活はできていた。
ただ、心だけが無かった。
だが、どんどん意識が沈んでいき…肉体までも機能を閉じていくのに、ザイゼムは恐怖を感じた。
このまま…このままずっと意識がなくなり、身体も動かなくなり…もう、自分の元に戻らないのではないか、という恐れ。
だからこうして毎晩、彼の反応を知るために、そして外からの刺激で意識の沈みを少しでも止まらせたくて、ずっとキイに触れてきた。
最初は触れる度、体が本能的にピクリと反応して、彼を少し安心させた。
だが…今月に入ってからは、全く彼の肉体は死んだように動かない。
ザイゼムはいたたまれなくなって、キイをいきなり上向かせると、自分の腕の中に抱きかかえた。
キイの、甘い花の香りがザイゼムを包む。
ザイゼムはキイの柔らかな髪に顔を埋めた。
何度か彼を、自分のものにしようと思ったことがある。
だけどそれは自分のプライドが許さなかった。
同意無い者に無理強いするのも、それ以上に意識の無い者に、そんな事は絶対したくなかった。
だが、どうしても愛おしさが溢れて、こうして毎晩彼に触れている。
彼の意識を引き戻したくて、毎夜耳元で彼に呼びかけるように、ザイゼムは自嘲気味に声に出した。
「こうして私は毎晩お前を好き勝手触ってるんだぞ…。嫌なら早くこちらの世界に戻って来い。
プライドの高いお前のことだ。こんな事をされて、烈火のごとく怒るに違いない」
だが、キイはピクとも動かない。微かな息遣いだけが、ザイゼムの胸元をくすぐる。
激しい後悔…。
ザイゼムは苦悶し、涙が零れそうになるのをぐっと堪えた。
「初めてお前を見たとき、衝撃を受けたぞ」
ザイゼムは彼に囁くというよりも、まるで独り言のように呟いた。
あの日はアーシュラと共に、彼の姿を確認するため、東の国にお忍びで来ていた。
ずっと自分が捜し求めていた背徳の王子。
証拠はなかったが、そのために彼に近づき、探るために、大事な弟をわざわざ聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)まで修行をさせたくらいだ。
しかも有能な弟は、しっかり彼と親しくなって、逐一自分に報告してくれていた。
最初は大陸の宝としての、彼の存在にわくわくしていた。大陸をも揺るがすセドの秘宝。その鍵を握る、生き残った王子。
アーシュラの語るキイの様子に、己の野望を刺激されていたのは確かであった。
しかしこの堅物な弟が、心なしか頬を染めながら、キイの話をする度に、いずれかは実物に会いたいと思うようになっていた。
今のところ、このような詳しい情報は、自分以上に持っている人間はいないだろう。
【宵の流星】がセド王国最後の秘宝を握る鍵だという事は…。
今のうちに彼を手に入れなければならない。
そう思って、東の国に来て、いきなり【恒星の双璧】の戦う場面に出くわした。
(あれがキイです、陛下!あの、長い髪の方…)
ザイゼムはアーシュラが説明する前から、肩までの髪を緩やかに一つに結んでいる、背の高い男にすでに目を奪われていた。
動きがまるで、猫科の猛獣のようだ…。優美で野性的。機敏で隙がない。
それに見ろ、あの力強い目。人を射抜くに充分だ。
(あれが、あれが本当に宵なのか?)
自分の声が上ずるのがわかった。多分勘の良い弟の事だ、自分が彼に興味を抱いたのに気付いただろう。
この様に想像を絶するほどの美しさを持っているとは思わなかった。
噂ではかなりの美男子、しかも強い、とだけで、【宵の流星】を詳細に語られる事がなかった。
このような人間離れした美しさなら、もっとそれが話題になっても良いはずなのに…。
事実、【宵の流星】の噂は、【暁の明星】と共に色々東では言われていた。
とにかく、二人並ぶと見栄えが半端ではない。
それ故に、物騒な東では、二人りはいつも自分達の姿を晒すような事はしなかった。
長いフード付のマントに身を包み、普段はその姿がわからないようにしていた。
余計なトラブルに見舞われたくないからだ。
ま、それはキイがいるからであって、片方のアムイは彼と離れた後、無頓着にそのままの姿で旅していたが。
だから戦いの時に度々見えるその姿に、誰もが驚き、かえって脅威を感じたようだ。
しかもこのような若造に…こてんぱんにやられるなぞ、荒くれ者達は認めたくなかった。
なので二人の事を、2メートル以上の大男だとか、屈強な猛者だとか(これは嘘ではないが)とにかく強面の怪物のように、ある事ない事、話を広げたのだった。その反面、かなりの若い美男子、という噂も入り乱れ、二人については数々の武勇伝と共に、あらゆる情報が脚色され、世間に浸透していった。
ザイゼムはすでにアーシュラから、容姿の美しさは聞いていた。
だが、ここまでとは思わなかった。
何だ?この男は…。世の中に、こんな人間がいるのだろうか…??
そして何故かキイは敵に討ち取られ、相手方の手に渡りそうになった。
アーシュラに言われなくとも、自分は彼を救おうと思った。今がチャンスだ。
長年追い求めていたものを、自分の手にするチャンス…。
それ以上に彼をもっと間近に見たかった。傍に置きたかった。
そして本人と接するうちに、容姿だけでない、彼の内面にも魅了されていった。
こんな思いは人生で初めてだった。
自分は今まで色々な所に旅し、様々な人間と出会ってきた。
もちろん、その過程で、恋もしたし、愛人もたくさんつくった。
だが、彼との出会いは、今までの自分を覆すほどの衝撃だった。
自分がここまで…一人の人間に入れ込むなど…。今まで考えられなかったのだ。
「なぁ、キイよ。お前は本当に存在が罪な男だ。
きっとお前は私と同じ、自由奔放な反面、内に激しい物を持っている。
…私達は似た物同士…、多分人の愛し方もよく似ているだろう…」
ザイゼムはキイを抱く手に力を込めた。
「…お前が本気で人を愛すると、どうなるのかが見てみたい…。
いや、もうすでにお前にはそういう大切な人間がいるのか…?」
そこまで言って、ザイゼムは首を振った。
「考えたくもないな…。自分がどうにかなってしまう」
多分それはきっと自分ではない。
もっと時間があれば…。
そう思って、ザイゼムはふっと笑った。
「馬鹿だな、私は…」
狂おしいほどの思い。
この世の中にどれだけ、身も心も全て、深く、満足に愛し合い、一つになれるような相手が存在するのだろうか。
互いに惹かれ合い、想い合い、愛し合える相手など、本当はそんなに簡単には見つからないものだ。
こんなに思い焦がれても、成就するとは限らない。それが多いのが世の常。
もし思いが通じても、それを昇華するのもまた至難の技。
それが人間なのだ。
だからこそ、面白くもあり、自分の成長にも繋がる。
障害が大きければ大きいほど、燃えるというではないか…。
それでも人は恋焦がれる時があるのだ。
自分にとって、唯一の人間との愛の交歓。
永遠の愛の関係…。
まるでもう一人の自分を求めてるかのような、切なさの果ての至福の喜び…。
こういう人間にもし出会ってしまったら、人はどうするのだろう。
きっと陰陽のごとく一つに重なりたいと、一つに戻りたいと願うのではないか?
ザイゼムの中で、様々な考えや感情が通り過ぎていく。
腕の中で愛しい者の息遣いを感じるたびに安堵しながら。
…早く、何とか彼を救わなければ…。
ザイゼムは、再び北天星寺院(ほくてんせいじいん)に訪れようと決意していた。
はるか彼方にあるキイの意識は、ザイゼムの微かな波動で、目が覚めた。
だが、意識は深い海の中に漂ってるみたいに、思うように動けない。
己がひとつになりたい、自分にとっての唯一人の人間…。
その波動でキイの心は揺さぶられた。
…もし、その人間に会えていたら…??
キイは自嘲した。
もちろん一つになろうとする。それはもう自然の摂理さ。
離されたものは一つに戻ろうとする。
その思いは半端じゃないぞ。
だが、きっとお前は知らない。
それがもし、できないとしたら…?
それが許されないとしたら…?
したくても無理だとしたら…?
その絶望も半端じゃないぞ。きっと己の人生を呪うぞ。
しかもその本人を目の前にしてみろ。
もう笑うしかないじゃないか。
キイは漂いながら、ザイゼムに悪態をつくと、ちょっと気分が落ち着いた。
我ながら子供っぽいと苦笑しながら。
そうこうしているうちに、キイは子供の泣き声に気が付いた。
これは自分の意識の海の記憶だ。外の刺激ではない。
ふわりと自分はその方向に気を向けた。
(ああ…アムイ…)
そこには愛する自分の片割れが、子供の姿で泣いていた。
あれは…そうだ、俺が一国を滅ぼした後、意識のなかったアムイが初めて目が覚めた時の…。
あの時、聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)の一室で、自分は衝撃を受けたのだ。
…泣いているのに…アムイの目からは涙が出ていなかった。
目を赤く腫らして、痛々しくて、悲痛な声だけが身を切られるようで。
だからなのか?
彼の分まで涙が止まらない。どんどん溢れてくる涙。
なのにアムイの目には…。
その日以来、アムイの涙をキイは見ていない。
それ以上に辛かったのは、彼の恐怖だった。
(怖い!怖いよ、キイ!眠れない。目を瞑ったら、黒い物が追いかけてくる!
助けて、キイ!!)
あの時の一部を封印したにも拘らず、アムイは毎晩、見えない恐怖に脅かされ、半狂乱となった。
その都度自分は彼を抱きしめる。
泣きながら彼を抱きしめるのだ。
そうしないとアムイは夜、眠れなかった。
その時、キイは己に宿る、母から譲り受けられた癒しの力に気付いたのだ。
(返して…)
子供の頃の自分が…いや、今の自分も心で叫んでいる。
(返して、俺のアムイを。あの本来のアムイを…!!)
キイの苦悩は幾つもの山を越えながら、ここまで来たのだ。
そして己自身を閉じ込めた今は、ただ、あの愛する懐かしい手が、自分を引き上げる事だけを、ずっと、ずっと待ち望んでいた。
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