暁の明星 宵の流星 #114
《ああ、アムイ。あなたはここで死んではいけないの。あなたはまだ若い。早くここから出て行くのよ》
《いいのか?こんな事をして。掟を破るなんて、本当に大丈夫なのか?》
《いいのよ。私のことなら心配しないで。もしこの事が知れても、ユナ族は女である私を殺しはしないわ。
だから大丈夫、私の事など気にしてはだめよ。あなたはここで人生を終えてはいけない。そんな気がするの》
《…でも、ロータス…。もし、掟を破り、よそ者を逃がしたなんてわかったら、死罪はないにしろ君はどうなるんだ…?》
《……そうね…。もしばれたとしても、その時は…》
「さあ、暁、俺と戦え。ロータスのために」
(ロータス!)
アムイの脳裏に、明るい茶色の髪、緑色の澄んだ瞳の女性が鮮やかに浮かんだ。
まるで花のようなロータス…。
「本当に…」
やっと絞り出たアムイの声はかすれていた。
「ロータスは殺されたのか…?」
その言葉にガラムは再び憤った。
「まだそんな事を言うのか!!」
ガラムは泣きながら首を振った。
「……姉さんをいいように弄んだのはお前じゃないか!姉さんが、よそ者のお前に特別な感情を持っていたのはわかっていた。
貴様はそれを利用したんだ!自分が助かりたいがために!
…ああ…姉さん…!夫も子もいるのに…!なんでよそ者なんかに情けをかけたんだ。
その報いがこれだ。
姉さんはお前がいなくなるあの夜、あの部屋で乱暴されて…」
ガラムはそれ以上言えなかった。当時の悲惨な情景が生々しく甦る。
もうすぐ12歳になろうとするガラムにとって、衝撃的な現実だった。
《来てはなりません!ジース・ガラム》
滅多に取り乱さないセツカが珍しく動揺し、咄嗟に子供の自分を抱きしめ、視界を塞いだ。
だがすでに遅く、ガラムの瞳には、脳裏には、悲惨な状況が焼きついていた。
あの優しくて、綺麗で、いつも穏やかに微笑んでいた、たった一人の姉の変わり果てた姿。
乱れた着衣、見るからに陵辱された跡。首を絞められたと思われる痣。
そして致命傷は、心臓に深く突き刺さった姉自身の護身用の剣。
彼女を染めた真っ赤な血が、この部屋で起きた惨状を物語っていた。
「まさかそんな…」
「俺はお前が処刑を恐れて砦から逃げるために、姉さんを脅し、ひどい目に合わせて殺した末、鍵を奪って外に出たとしか考えられない!お前だって知っているだろう?ユナの男が希少な女を殺すわけがない。理由だってない。
なら一体誰が姉さんを殺した?お前しかいないだろう?
それとも何?お前の他に誰かよそ者が忍び込んでいたっていうのかよ!!」
アムイは眩暈がしそうになった。
あの時、自分がユナの砦から出た後、そのような事になっていたとは。
「信じてくれ、本当に俺は知らないんだ。彼女がそんな目にあっていたなんて…」
「とにかくガラムを離せ、暁。そして剣を抜け!お前が犯人であろうとなかろうと、俺はお前と決着つけなくてはならん」
レツの異常なまでの気迫が、アムイの背中越しに伝わってくる。
「レツ、待ってよ!アムイはこの俺がこの手で…」
「ジース・ガラム!」
レツは毅然と叫んだ。
「ロータスのため、誰が暁を討ち取っても文句はない筈。お前でも俺でも。
誰が本人を殺ろうが、…本人の大事なものを奪おうが」
冷酷なその言葉に、アムイは凍りついた。
「レツ…」
ガラムは唇を噛んだ。レツは自分の姉の夫。いくら自分が長の子といえ、義理の兄には違いない。まだ長候補でしかない立場の自分は、15の成人式を迎えたとはいえ、事実上はまだ未成年と同じ。兄などの年長者の言葉を尊重するのが通説だ。
「…レツ=カルアツヤ…。どうしても俺と戦う気なのか」
アムイは唸った。
前回はロータスが止めに入って、互いに勝敗がつかなかった。事実、ユナでもトップを誇る猛者。当時のアムイでは、まだ手に負えなかった相手だったかもしれない。だが、今は。
アムイの様子を、背後からじっと窺っていたレツは、いきなり思わぬ事を訊いて来た。
「お前と【宵の流星】はどういう関係だ?」
その言葉にアムイは血の気が引いた。
「……」
「お前にとって、【宵の流星】はよほど大事な男らしい。…答えがないのが、その証拠と見た」
レツはアムイの反応を探るように見ながら、言葉を続ける。
「知っているか?いや、彼はお前の相棒だ。知らないわけがないだろう?」
「何が…言いたいんだ…」
「我々もこの間まで知らなかったよ。お前の相棒が…セド王国の最後の王子だったなんて」
アムイは目を細めた。とっくにキイの素性は、ユナ族に知られているとアムイは思っていた。そう、何故ならユナは…。
だからレツの言葉が意外だった。
彼らも最近知ったのか…。キイが、罪人とはいえセドナダ家の血を引く王子の子だという事を。
「我々は彼にも用がある。本当にセドの王子かどうか、直に確かめたいのだ」
「……そう…か…」
この様子では、彼らは自分とキイの関係を知らないようだ。これも“金環”と同様、キイにきつく口止めされていた自分の真実だった。
まあ、素性を知っていた昂老人が、簡単に自分の事を仲間達に明かしてしまったのは、不可抗力だったかもしれない。だが不思議な事に、その件については、キイはまったく意に介していない様子だった。
「宵の君に会うまでは、お前の命は取らぬ。今のところはな。
だから安心して俺と戦え。死の一歩手前で止めといてやる!」
そう言うなり、レツはアムイをガラムからもの凄い力で引き剥がした。
「レツ!」
その反動でガラムは地面に尻餅をつき、アムイはかろうじて踏みとどまって、急いで体勢を整えた。
「来い!天下に名を馳せる【暁の明星】。その名が本物か、この俺が確かめてやる!」
レツはアムイに向き直ると、大きく剣を構え、大声で叫んだ。
アムイは反射的に懐から剣を抜くと、レツに刃先を向けた。
ザッ!!!
最初に動いたのはレツだった。彼は素早く剣を回転させると、そのままアムイに突っ込んで来た。
アムイはそれを瞬時に避けていく。どう見てもレツの身体に合った大型の剣と、自分が持っている護身用の短い剣では、完全に分が悪かった。やはりここは気術を使うか…。
だが、レツは気術を習得していない戦士の特徴で、見事なまでの波動防結界を駆使する事ができる。
アムイは彼の大きい剣を避けながらも、ずっと考えていた。こうなれば、奴の懐に入って…。
「逃げてばかりでどうした!その異名は偽物か!?
暁だと?明星だと?最高武人と貴人のみに与えられる、天体の異名が恥ずかしいわ!!」
アムイはレツの罵りに一瞬の隙を見つけ、猛スピードで彼の懐に飛び込んだ。
「!!」
アムイは目にも留まらない速さで、レツの胸倉を掴み、喉元に剣の切っ先を突きつけた。
「この…!」
レツは空いた手でアムイの肩を掴み、引き剥がそうとする。その反動を利用してアムイは、足を軽々と振り上げ、レツの胸に強烈に蹴り入れた。
ガツッ!!
ザザザザッー!!!
二人は弾かれるように草むらに転がった。
「前より結構やるじゃないか!無駄に歳を重ねてないって事か」
レツは蹴られた胸を軽く叩きながら、のろのろと起き上がった。
アムイもまたすぐに身を翻し、剣を構える。
「だがその剣で、俺の刃(やいば)を受ける事ができるか?」
普段無口なユナの英雄は、戦いどきには雄弁であった。
「そんなもの、やってみなければわからない!」
「勇ましい。口だけでない事を祈る」
カキーン!!
二つの金属音が闇夜に重なり、響き合った。
それを合図に二人の真剣勝負が始まった。
「レツ…アムイ…」
ガラムはただ、二人の鬼気迫る激突に息を呑んで見守るしかなかった。
それだけ二人の間には、凄まじい緊張感が張り詰めていた。
緊迫した空気が、剣が交わり肉打つ音を、薄暗い周辺に伝えていった。
その音は、セツカと、彼に囚われている将校の耳にも届いていた。
「おい、何かおっぱじめやがったぞ。ありゃ止めなくていいのか?
お前さんの言う、無意味な争いじゃないのかね?」
「あれは無意味ではありません。少なくとも…片方には」
「は?よくわからないが、それなら俺だって無意味に戦ってるわけじゃないよ。
これでも上官命令だからね。…その任務を妨害する者は、たとえ友人、肉親でも容赦しない。
そう叩き込まれてるんだ。俺ら兵士はね」
将校の言葉にセツカの顔が曇った。
「……そうですね。人にはそれぞれ、戦う理由がある。それがどんなものであれ…」
「ならさ、もういい加減、俺を解放してくれよ。お前、華奢に見えてすげえ力」
将校は肩をすくめて見せた。セツカはため息をつく。
「駄目ですよ。そんな事したら早速邪魔しに行くんでしょう」
「はは!わかってるじゃないか。……だが俺はお前達が、暁とどんな因縁があろうが知ったこっちゃないがね。
あれは俺が連れて行く。……【恒星の双璧】の片割れ。あれを手に入れればもう片方もおのずと手に入る。
…だろ?」
一瞬セツカが息を呑み、動揺したのが将校に伝わった。
彼はにやっと笑うと、いつの間にか作っていたのか、下げていた右手の掌を開き、灰色の“気”の塊を出現させた。
「!!」
セツカは目を見開いた。
「時間稼ぎご苦労さん。おかげでいつもよりは硬く凝固する事ができた。
鋼鉄よりも硬い、この“鉱石の気”の塊を受けて、お前さん耐えられるかい?」
将校は意地悪くそう言うと、その塊を宙に放った。
それはめらめらと灰色に煙(けぶ)り、ごつごつとした隕石のようだった。
手に納まるくらいの大きさのそれは、遠目で見ているセツカにも、かなり熱くなっているだろう事が容易に想像つく。
塊はきゅるきゅると高速に回転を始めると、セツカめがけて飛んで来た。
「く!」
塊を避けるため、セツカは男を手放さなければならなかった。
セツカは将校を勢いよく突き飛ばすと、機敏に身体を回転させ、飛んで来た“気”の塊を持っていた棒で弾いた。
ガゴッと鈍い音がして、塊は将校の元へと戻っていく。受けた細い棒はビリビリと振るえ、当てた所には焦げた跡がくっきりとでき、そこから灰色の煙が立ち昇っていた。
「へー!お前さんの武器、並の棒じゃないな。この俺の石塊を受けてその程度で済むなんて」
セツカは片膝をついた体勢で、きっと将校を睨み上げた。
「面白い!なかなかの使い手と見た。だがこの俺を止められるかな?
悪いがこの石塊は俺の思うとおりに動いてくれるんでね。そう、自分の手を煩わせずに相手にダメージを与えることができる」
南の将校は口元に笑みを浮かべると、再びその“気”の塊をセツカにけしかけた。その塊はまるで意思を持つもののように、勇猛果敢に突進していく。
セツカは棒を高速回転させ、その塊を弾く。が、塊は弾かれても回転しながらいったん停止し、再びセツカに襲い掛かる。
が、セツカはその塊を上手く避けながら、将校に近寄ると、塊の攻撃の隙を見て攻撃をしかけた。
その敏捷な動きに、将校も絶句した。
彼は仕方なく自分の剣で、セツカの見事な攻撃をかわさなくてはならなかった。
「…凄い。お前、本当に何者なんだ?それだけの腕前、我が軍の上官にもいやしない」
彼の驚き混じりの感嘆した様子に、セツカは初めて余裕の微笑を見せた。
「ユナ族の長をお守りする、一番兵の私を見くびってもらっては、痛い目にあいますよ」
アムイとレツ、セツカと将校。
両者の激しい戦いが、町外れの森の中で繰り返された。
その戦闘は激しさを極め、いつの間にかその二組の攻防がひとつになっていた。
文字通りの乱闘。
目の当たりにしていたがラムもとうとう我慢できなくなり、自分も参戦しようと剣を持つ手に力を入れた。
「お、俺だって!」
ガラムは意気込んだ。
「俺だってユナを統べる長の息子!目の前の戦いを、指くわえて見ているなんてできない!!」
彼は剣を構え、戦いの中に身を躍らせようとした。
が、その時だった。
カッと眩しい光が周辺を襲い、
次の瞬間、轟音と共に彼らが戦っている中心で爆発が起こった。
グワァァァ…ン!!
その爆風で、戦闘中の4人は四方に吹き飛ばされた。
「な、何事だ?」
飛ばされた4人と近くにいたガラムは、呆然と爆音がした場所を見つめた。
そこは無残に焼けただられ、焦げた木々がなぎ倒されて、大量の煙に混じり、小さな残火がちろちろと燃えていた。
何者かに爆弾を投下させられたに違いなかった。
「もーいい加減にそこまでにしな!」
突然、からかうような男の声が、彼方から響いた。
五人は一斉にその声の方向に目を走らせる。
揺らめく残火に照らされ、この場に近づく人影があった。
一人ではない。
「サクヤ!」
ガラムは驚いて叫んだ。
皆の目に、痛めつけられ、背後の男に拘束されたサクヤの姿が飛び込んできた。
背の高い男に、サクヤは喉元に小型の鎌の刃を突きつけられ、しかも背後で後ろ手にされていた。
「ごめん…兄貴」
悔しそうに呟くサクヤの後ろで、男がくっくと笑った。
男は細身でかなり背が高かった。背が高いとされるアムイより、一つ半くらい頭が上だった。
やせ気味に見えるが、それは縦に長いためにそう見えるだけで、むき出された上腕の筋肉の盛り上がりが、男が一般人でない事を物語っていた。短く刈られた赤毛の天辺は、鶏冠のような黄色い毛がつんつんと立っている。耳にはたくさんのピアスをし、むき出しになっている胸元には、双翼の竜の刺青が大胆に彫られていた。見るからに堅気ではない。大きめで切れ上がった猫のような琥珀色の目と薄い唇。とんがった鼻。人を小馬鹿にしたような表情。残忍さと胡散臭さがにじみ出ていた。
「ンなくだらねぇ戦い、止めちまえや!」
「おい!くだらないとは随分な言い草だなぁ、へヴン=リース!まったくいつもながら手荒なこって。
ま、たかが傭兵の身分じゃ、そう感じるのも無理ないか」
「言ってくれるねぇ、気術将校さん。いや、気術兵選抜隊長ミカエル少将」
南の将校、ミカエル少将の言葉に、双翼竜の刺青をした男、ヘヴンはにやりとした。
「ヘヴン…・リース?」
アムイの顔が強張った。その名、その顔、その声。アムイには思い出したくもない男…の一人だった。
「さぁーて!このかわい子ちゃんはだーれのお仲間かな?この子を痛めつけられたくなかったら、俺様から早く奪ってみせてよ」
からかうようなその声。人をいたぶって楽しむ残忍なタイプなのは一目瞭然だ。
ヘヴンはぐいっとサクヤの頬に、鎌の刃先で傷をつけた。
「!!」
ポタッと赤い血が滴り落ちる。
「サクヤ!」
ガラムが駆けつけようと走ろうとしたが、それをいつの間に傍に来ていたのか、セツカががしっと彼の身体を捕まえた。
「離せ、セツカ!」
「ジース!私は貴方の方が大切です。貴方を危険から守るのも私の役目。
彼を助けるのは貴方の役ではない」
「セツカ!!」
暴れるがラムを、セツカは微動だにせず抱えた。
「サクヤ逃げろ!!」ガラムは叫んだ。「逃げてくれよ!!」
「ほら!泣き喚けよ、かわい子ちゃん!泣いて俺に情けを請え!俺は見目のいい奴が怯え戦く姿が好きなんだ」
ぎゅっとヘヴンはサクヤを掴む手に力を込めた。その痛みにサクヤは叫びそうになった。が、ぐっとそれを堪える。その悶絶の表情を抑えようとするサクヤに、ヘヴンはむっとした。
「ふん、意外と強情なんだな。もっと可愛がらなきゃ駄目か。ほら、叫べよ!叫んで仲間に助けを求めろよ!」
執拗にヘヴンはサクヤの腕を捻り上げ、喉をもう片方の腕で締め上げた。
「ぐあぁっ!!」
激しい痛みにサクヤの目に火花が散った。だが、そんな事で音を上げるサクヤではなかった。
途切れる息の中、サクヤは声を振り絞った。
「…るな」
「何?」
「オレを馬鹿にするな…!!」
サクヤはそう言い捨てると、渾身の力を込めて身体をよじり、思い切りヘヴンの右脛を片足で蹴り飛ばした。
「ぐっ!」
捕まえた獲物に反撃されるとは思いもしなかったヘヴンは、油断していたのか、モロにサクヤの蹴りを受け、顔を歪めた。
その瞬間、ヘヴンの手が緩んだ。
それをサクヤが見逃す筈がない。
紐で後ろ手に縛られながらも、サクヤは思い切り自身の身体を揺さぶり、ヘヴンの腕から逃れようとした。
「この…!」
サクヤの動きに翻弄され、思わず手を離してしまったヘヴンに、サクヤは半身を翻し、再び彼めがけて蹴りを食らわそうと足を振り上げた。しかし、ヘヴンの方が体勢を整えるのが早かった。
「生意気な!!」
ヘヴンは向かってくるサクヤに、素早く小型の鎌を振り下ろした。
速い。
どう見ても、サクヤの眉間に鎌の刃先が当たる方が先だ。
(避けられない!?)
サクヤは焦ったが、もう遅い。目の前に刃が迫ってくる。
「サクヤ!!」ガラムは思わず手で顔を覆った。
サクヤも反射的にぎゅっと目を瞑った。
あわや切られる!と思った瞬間、大きな力がサクヤを後方に押しやった。
ザシュッ!!
「!!?」
肉を切る音に驚いて、瞬間的にサクヤは目を開けた。
その彼の目に真っ先に飛び込んできたのは、真っ赤な血飛沫だった。
「え…?」
それはどう見ても自分のではない。
唖然と前方を見ると、自分を庇うようにして盾になった、大きい背中が目に入った。
「兄貴!!」
サクヤは真っ青になった。
自分を押し退け、代わりに刃先を受けたのは、アムイだったのだ。
サクヤを庇うように立つアムイの額はぱっくりと切られ、そこから血が滴り落ちていた。
「う、嘘だろ?兄貴…!!」
アムイは流れる血を振り払うと、止血のために強く左手で額を抑えた。
ショックのあまり、サクヤは足元から震えが昇ってきた。
サクヤの記憶では、共に行動してきたこの一年以上、今まで【暁の明星】が、敵の刃(やいば)で頭から上の領域を侵された事実はない。それが自分の代わりに傷を受けた…。サクヤは自分の身体から全身の血が引いていく感覚に飲み込まれた。
「兄貴っ!!兄貴、血が…!」
前方の敵を睨みつけながらも、アムイは取り乱すサクヤに、落ち着くようにと手で制した。
「気にするな!大した事はない」
だが、アムイの声は微かだが震えていた。それは怒りのためであった。
アムイのその行動に、周囲は驚き、息を呑んでその様子を凝視した。
特に驚いたのは、誰あろう、傷をつけた当の本人ヘヴン=リースだった。
「おい、マジかよ…!」
ヘヴンは信じられない、と言った表情で、アムイの血で染まった額を見つめた。
だがその顔は、みるみると面白そうな表情に変わっていく。そして突然、笑い出した。
「あはははっ…!!お前がキイの他に身を挺して守る人間がいたとは!」
ヘヴンを睨むアムイの目が、ますます色濃く怒りで燻った。
その目に気づき、ヘヴンは益々面白がった。
「アムイよぉ。お前、昔と比べて随分いい顔するようになったじゃんか!昔は俺が何したって、表情すら変えないつまんねぇ奴だったのに!」
サクヤはヘヴンの科白を呆然として聞いていた。まるで、昔馴染みのような…。
「それがどうした、ヘヴン」
「いや、これは思わぬ収穫。…そいつ、やっぱりお前の仲間か。いつも人を寄せつかねぇ奴がまさかと思ってたけどな。
しかもそいつを守るために簡単に身を投じ、自ら刃(やいば)を身体で受けるとはね!
…お前が【宵の流星】以外の人間に我を忘れる所、はっきり見せてもらったぜ」
アムイの顔色が一瞬変わった。ヘヴンがそれを見逃すはずがない。
彼は自分の心の中がどんどん愉快になってくるのを抑え切れなかった。
「会いたかったぜぇ、アムイ。お前のその顔、俺は一度たりとも忘れたことなかった」
わざとらしく猫撫で声を出すヘヴンに、アムイは苦々しく呟いた。
「心にもない事を言うな。お前が会いたかったのはキイの方だろう?
お前は昔……キイの親衛隊の一人だったんだから…!」
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