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2010年10月 8日 (金)

暁の明星 宵の流星 #116

すでに日は沈み、秋の到来を告げる虫の音が寺の庭に響き渡る頃。
「遅いわねー。二人ともどうしちゃったのかしら。…もう夕飯終わっちゃうわよ」
シータがぼそっと呟いた。
長いテーブルに向かい合って、シータとイェンランが夕食を取っていた。
「…何かあったのかな…。一応、馬で行ったのよね?
まさか…敵に見つかったなんて…」
不安げに言うイェンランの頭上から、低い声がした。
「もしそうだとしても、あの二人なら大丈夫だろう」
イェンランはびくっとして声の方を振り仰いだ。
食事を終え、盆を片手に持ったキイとばちっと目が合う。
イェンランは口の中が乾いて、懸命に唾を飲み込もうとするが、上手くいかない。
「そうでしょうけど、ちょっと遅すぎない?アタシ、様子見てこようかしら」
そう言うと、シータは最後のおかずを口に放り込み、急いでお茶を啜ると、慌てて立ち上がった。
「おいおい、シータ。お前らしくねぇな。かえって下手な動きしない方がいいんじゃねぇの?」
「そうなんだけど…。何か、ね、胸騒ぎがするの。アンタはどうよ?何か感じない?」
キイはちらりとイェンランの方を見た。その仕草に、シータはあ!という顔をした。
「…俺はアムイ達を信じてるさ。きっともうすぐ戻ってくる」
「そ、そうよね。アタシったら、本当にらしくないわね」
シータはにっこりと笑顔を作ると、食器を片付け始めた。
心配そうに曇るイェンランの顔を、シータは覗き込みながら、
「じゃ、アタシ、先にあがるわね。ちょっと調べ物してくるわ。
…お嬢、そんな顔しないで。キイの言うとおり、アイツらなら大丈夫でしょ」
と言って、彼女の頭を指で小突いた。
「そうよね。…きっともうすぐ帰ってくるよね」
「そうそう。だって今までだって、何かあってもケロッとしてたじゃない、いつも。
いやぁねー、アタシも歳かしら。最近心配症みたいで」
「やっと認めたじゃん。歳」
からかう様なキイの科白に、シータはキッと本人を睨みつけた。
「うわ、怖」
小声で言いながら舌を出すキイに、シータはため息をついた。
「とにかく、先に行くわ。お嬢も変に考え込まない!じゃね」
彼はひらひらと手を振ると、盆を片付けるために、その場をさっさと立ち去ってしまった。
(ええ?行っちゃうの!?)
あっけなく去ってしまったシータに、イェンランは慌てた。
何せ、キイと二人きりでこの場に取り残されたのだ。
気まずい空気が、彼女の周囲に漂った。だが、それはイェンランだけのようだ。
一方のキイは、目を細め、シータの後姿をただ無言で見送っていた。ああしてシータをからかってはいたが、彼がこの後、こっそりとアムイ達の様子を窺いに行くであろう事はわかっていた。
シータに言われなくても、確かにキイも胸騒ぎ覚えていた。
だが、むやみやたらにそれを表に出して、いたずらにイェンランを不安がらせていい筈がない。
ふと気がつくと、居心地が悪そうな小さな背中に気がついた。
キイはふ、と笑うとこう言った。
「なぁ、お嬢ちゃん。この後何もなかったら、俺とちょっと散歩しねぇ?」
突然の申し出に、イェンランは心臓が口から出そうなほどに動揺した。
そのガチガチの様子に、キイは苦笑した。
「……今夜は珍しく…月が出てるし。これから月見と洒落こもう」
キイは彼女の返事を待たずに、そう言いながらウィンクすると、盆を片付けに立ち去ってしまった。
イェンランは固まったまま、じっとキイが去った方向を見ていた。
胸が早鐘のように鳴っている。
でも、彼女とていつまでも逃げているわけにはいかないのは分かっている。
イェンランは唾をごくりと飲み込むと、覚悟を決めたように大きな深呼吸をした。

外に出ると、爽やかな風が心地よく吹いていた。夏が短い北の国は、秋が来るのが早い。かなり気候も涼しくなって、過ごしやすくなっている。
なるほど。キイの言っていたとおり、今夜は珍しく綺麗な月が闇夜に浮かんでいた。
もうすぐ満月になるであろう、中途半端な丸さの月は、黄金色に輝き、寺院の風情ある庭を幻想的に照らしている。
この場がまるで、別世界のようだった。
軽やかな虫の音が、耳に心地よく響く。
このように癒される空間にいる筈なのに、イェンランの心はかなり落ち着かなかった。
それは、この美しい景色の中に見事に溶け込んでいる、目の前の男のせいなのは、考えようもない事実だ。
どうしたらいいか躊躇していたイェンランに、前を歩いていたキイが、立ち止まり、ゆっくりと彼女の方を振り向いた。
イェンランは身体が緊張で強張るのを感じた。
キイは彼女のその様子を分かっていて、この世のものとも思えないほどの優しい、甘い声で話しかけた。
「俺のこと、怖い?」
イェンランは目を見開いた。
「…お嬢ちゃんとこうやって話すの、三年ぶりだよな。まさか、こうしてまた会えるとは思ってなかった」
「…」
“私も”と言いたいのに、どうしても言葉が出てこない。
「アムイ達から、君の事は聞いた。嬉しかったよ、俺」

あの、夢にまでも見た、慈愛に満ちた眼差し。そしてほのかに香る花の香り。
イェンランの胸は潰れそうだった。
ずっと。ずっと彼に会いたいたがめに、ここまで来た。
女として生まれたことを呪いながらも、男に嫌悪感を持ちながらも、恐ろしい目にあっても。
ただ、この瞳を再び見たいために、この優しい声をまた聞きたいために…。
イェンランはこの時、はっきりと悟った。
自分はずっと、彼に逢いたかったのだ。
彼の存在を近くに感じたかった。
こうして再会して、彼女ははっきりと自覚した。
……自分はこの男を純粋に求めている…。

初めて会った時に感じていた、この心の疼きは、やはり、恋だったのだ。

これは幻想だと、子供の時に感じた淡い気持ちと、イェンランはずっと思ってきた。
なぜならば、男に欲望の対象にされ続け、生々しい男という生き物に嫌悪を感じていた自分には、理解しづらい感情だったからだ。
だから自分が女という生き物である事を意識したくもなかったし、肉としての欲望は、男のものだけと思っていたくらいだ。
それでも頭の片隅で、これでいいのか、という不安もあった。女と生まれたからには、いつかは子供を授かってみたい。でも、それをするには、男と交わらなければならない。だから、その行為自体嫌な自分には、無理かもしれないという絶望感さえあった。
桜花楼(おうかろう)で、意に沿わずに男を相手していた日々は、本当に地獄のようでもあった。
…あの時のキイの《生きろ》という言葉と、虹の玉がなければ、きっと耐えられなかった。
「俺はお嬢ちゃんに謝らなければならない」
美しい顔を曇らせて、いきなりキイは言った。
その顔を呆然と眺めながら、イェンランはぼんやりと思っていた。
自分は彼に会って、確認したかったのだ。自分がこのような状態で、キイに会って自分がどう感じるのか、確かめたかった。この燻る様な感情が何なのかを。

私はこの男に身も心も惹かれている。

再会して消えてしまうような幻の感情ではなかった。いや、益々彼の存在が、はっきりと色濃く自分の中で大きくなっている。
イェンランは、生まれて初めて、女が男を求める気持ちがわかったような気がした。
これもまた、皆が言ってるような、キイの持つフェロモンのせいなのかもしれないが。

「……君に結果的には酷な事を言ってしまったのかも知れないね」
キイの言葉が急に耳に入ってきて、イェンランは我に返った。
「え?今、なんて言ったの?」
かすれた声が、彼女の喉から出た。
キイは微笑んだ。だが、瞳は哀しげだった。
それがイェンランの心にひっかかり、彼女は不思議そうに小首をかしげた。
その仕草があまりにも愛らしくて、キイは思わずほのぼのとする。
初めて出会った時は、まだ幼さの残る、小さな女の子、という感じだった。
当時15歳と聞いたけれど、元々彼女は小柄だったから、尚更そう思ったのかもしれない。
今はあれから背も伸び、身体つきも大人びた。だが、時折見せる仕草や表情には、まだあどけなさが残る。
キイは、当時の彼女の、涙に濡れたきらきらする瞳を思い出していた。
「…だからね」
あの、宵闇のような深い声で、キイは改まって言い直した。
「俺は…今考えると、君に酷な選択を押し付けてしまったのではないか、と、後悔しているんだ」
「酷…?」
きょとん、としてイェンランはキイを見上げた。
自分よりもずっと背が高い。だけど、威圧感を感じないのは、キイの柔らかで穏やかな物腰と風情のお陰だろう。
「……。君自身の事をよくも知りもしないで、簡単に“どんな事をしても生き延びろ”と」
彼女の目が益々大きく見開かれた。

《生きろ、お嬢ちゃん。
どんな事をしてでも生き延びろ。
それが今現在、自分の意に沿わない場所だとしても。
厳しくても、苦しくても、生きていればきっと希望は見えてくる。
この世に生まれて、意味のない人間なんていない》

自分が生きよう、と決意した、あの時の言葉が甦った。

「え…?どうして…」
「アムイやシータから聞いたよ。お嬢ちゃんの…心の闇。
俺は結果的に、君に一番心に傷をつけてしまう結果を…」
「キイ!」
「ごめんな、お嬢ちゃん。あの時は、君が生き延びるにはこれしか方法がないと思っていたんだ。
どんな事をしてても生きろ…なんて奇麗事を言って、無理やり君を桜花楼に返してしまった。
…それは意に沿わない相手に身体を差し出せって…言っていると同じなのに。
…辛かっただろう?君の気持ちを考えると……本当に…申し訳ない…」
キイは頭を下げた。イェンランは彼のその態度に慌てた。
「待って!あの時はそれ以外、選択肢はなかったんだもの!
キイに会わなければ…桜花楼に戻らなければ、私は本当にあそこで野垂れ死んでた。
私、キイがそんな事で後悔して欲しくない。
辛くなかった、と言えば嘘だけど、私は後悔してないもの。
…それがなければ、きっと私は今、こうなっていない…」
それは正直な気持ちだった。
キイにそう言われ、一度逃げ出した桜花楼に戻り、その世界が恐れと嫌悪の毎日だったとしても。
初めて男に触れられたときの恐怖。痛み、気色悪さ。何度逃げ出そうと思った事か。
地獄だと思えば、本当にそうだった。
だが、それでキイを悪く思った事も、憎んだ事もなかった。辛い日々だったけど、色々な人間との出会いだってあった。桜花の女の中でも、最高級と呼ばれる女性たちの芯の強さ、美しさも目の当たりできた。特に、桜花楼に行かなければ、当時妹のように可愛がってくれたヒヲリ姐さんとも出会えなかった。
今思えば、苦しみ以上に、桜花楼は自分にとって修行の場だったのかもしれない。
それよりも自分は、キイが自分のためと言いながら虹の玉を渡したのは、結局はアムイのためだった、という事の方がショックだっだ。
虹の玉が、キイが求めていた本当の人間は…アムイ。自分はもしかしたら利用されただけではないかと。
でもそれも、アムイ達と旅をし、アムイの事情がわかってくるにつれて、それでよかった、と最近思い始めていた。
それは、最初会った時よりも、本当はアムイがいい奴だと徐々にわかってきた事も大きかった。
というよりも、今では身内のように彼に親しみを感じているほどだ。
だから、キイとアムイがようやく再会できたのにも、自分の事のように嬉しかった。
…二人の間には、他人が入り込めない、深い絆がある…。
それはイェンラン自身、どうあがいても崩せないものである事は、よくわかっていた。

「それから、もうひとつ」
キイが人差し指を立てて、ちょっとすまなそうな顔で言った。
「…結局は、君を利用した…。どうしても俺は、虹の玉を外に出さなければならなかった。
お守り…という気持ちには嘘はないけど、君が…玉を持っていてくれれば、いつかアムイを呼んでくれると。
だから、君を励ますような事を言いながら、本当はそれが目的だった。だけど、別に君を騙そうとかそんな事は思ってなくて」
「キイ…!」
「いや、言い訳かもしれないが、あの状況ではそれしか方法なくて…」
「いいの!もう、いいの……って、そんな…利用したとか、そんな風に罪悪感持つなんて、誰かから私の事、何か聞いたんでしょ?」
キイは言葉に詰まった。その顔で、すぐにわかってしまった。
「…シータでしょ。まったく、おしゃべりなんだから!」
気恥ずかしさも手伝って、イェンランは思わず赤くなって、頬を膨らませた。
「いや、かえってすまない。…でも、な、お嬢ちゃん。シータの奴、おせっかいだけど、本当に情が深いイイ奴なんだ。お嬢ちゃんの事、本当の妹みたいに思ってるみたいなんだよ。責めないでやってくれ」
ちょっと気まずそうにキイは弁明した。
それが、主人に許しを請う犬のような顔だったので、思わず彼女の心の中に笑いが込み上げて来た。
そのお陰なのか、イェンランはキイへの緊張感が溶け出していくのを感じていた。
「そんな顔しないで。私だってシータの事、よくわかってるもん。 
ねぇ、キイ。犬猿の仲って言われてるけど、本当は仲良しなんでしょ?シータと」
打ち解けたような柔らかな表情をやっと見られて、キイは内心ほっとした。
「仲良し?まさか!そんな事はないね。…犬猿の仲は本当だもん、俺ら」
キイはわざと悪ぶって答えた。それがまるで10代の少年が粋がっているようで、イェンランは可笑しくて吹き出した。
「何だよ、笑わなくてもいいじゃないか」
ふてくされたような顔で口を尖らすキイは、本当に、東に名を馳せるあの【宵の流星】とは信じられない。
「キイって私よりもうんと大人なのに、こうしてると子供みたい」
「随分だなーお嬢ちゃん」
キイは目尻を下げて笑った。

ああ、あの最初に見た、優しい笑顔。笑うとちょっと垂れ目になって、大人の男の人なのに、ほんっとうに可愛い…。
って!!

思わず見とれていたのに気がついたイェンランは、慌てて気持ちを正そうと懸命になった。
こんな気持ちは、初めてだった。こんな風に一人の男に翻弄される自分が信じられない。
ドキドキと高鳴る胸を気にしないようにと、イェンランは一生懸命、平静を保とうとする。なのに…。
「ああ、よかった。お嬢ちゃんの笑った顔が見れて」
ところがキイは嬉しそうに言いながら、心底、安堵した無防備な笑顔を見せた。
イェンランのせっかくの懸命な努力もどこかに消えてしまう。
…そんな事言われたら、せっかくのポーカーフェイスが無駄になっちゃうじゃないの!!
思わず身体の力が抜けそうになる自分に舌打ちする。
ああ、これって…。
今までどれだけの男と女が、彼に心を奪われてきたのか。イェンランは身を持って知る事になったのである。
「それでね、お嬢ちゃん」
突然キイは真剣な眼差しで彼女を見つめた。
イェンランの胸がどきりとする。
「アムイから話がいってると思うけど…。
今後の事について、ちょっとお嬢ちゃんと話したいんだ」

そうだった…。
目の前のキイに舞い上がっていて、大事な事を忘れていた。
これからの自分をどうするか。
アムイも、キイも…シータだってサクヤだって、はっきり言わないにしろ(アムイには直接言われけど)、気にしてくれているのはよくわかっていた。
イェンランだって馬鹿ではない。今までアムイ達と、ただ何も考えずに同行していたわけでもない。
…ただ、現実に向き合う勇気が、少し足りなかっただけ。
「お嬢ちゃん、君もこの現状をわかっていると思うんだけど、これからどんな事が起こるかわからない。…俺がいる限り」
「キイ…」
「お嬢ちゃんが、追いかけてきてくれて、ほんっとうに嬉しい。だけど…」
苦悶の顔で、キイはイェンランに言った。
「危険よね…。わかってるわ、キイ」
イェンランは俯いた。
自分が、もっと強かったら。
そうしたらキイの、皆の足手まといになんかならないのに。
「昂じいいちゃんが戻ったら、君の身の振り方を相談しようと思っている。…それで、いい?」
イェンランは返事ができなかった。
予想はしていた。
キイがセドの王子と世間に広まり、益々大勢から狙われている状況を知った時から。
アムイが刺客に命を狙われているという事を知った時から。
こういう風に言われる事は覚悟していたのだ。だけど…。
「キイ…わ、私…」
イェンランはやっとの思いで、口を開いた。

と、その時、庭がやけに騒がしくなった。
「…何だ?」
数人という人間の声や足音ではない、数十人という団体の足音、声、馬の蹄。
それでも団体は声を落としているのか、闇夜を引き裂くほどの大騒ぎではなかったが、とにかく大勢の人間が、この寺院の裏庭にやってきたのは確かだ。
キイとイェンランは緊張し、その方向を警戒した。
「キイ!キイ!」
シータの抑えた声が、庭から外に続く裏門から聞こえてくる。
二人は嫌な予感がして、互いに顔を見合わせた。
「どうしたんだ?シータ!これは一体…」
シータの方へ向かいながら、目を凝らしたキイは、現れた数名の人影を見て、ぎょっとした。
「アムイ!」
その声にイェンランも慌ててキイの後を追った。
裏門の近くでは、団体の騎馬隊が待機していた。そこから数名、人影が庭に入って来る。
月の明かりに照らされて、その人間達がぼんやりと見える。その中の一人の姿を見て、イェンランは驚いた。
「アムイ!どうしたの、その頭!」
アムイは額を布でぐるぐるに巻かれ、所々血糊が飛散していた。
「たいした事ない」
「…って…。そんな風に私には見えないわよ…。それ」
イェンランは身震いした。これって、かなり出血があったんではなかろうか。それでもアムイ達クラスの武人には、こういう怪我は日常茶飯事なのか。だとしたら、確かに余計な心配かもしれないけど…。
「……オレのせいで…」
「まだそんな馬鹿な事言ってると、殴るぞ」
サクヤの言葉に、アムイは冷たく言い放った。
二人の間にある、ピリピリとした空気に不穏なものを感じて、イェンランは眉をしかめた。
「…しかし途中で月が現れた時には、焦ったわい。まぁ、かなり相手を引き離していたから、大丈夫だと思うがの」
「そうですね。闇夜の方が相手に見られなくていいですが…。でも、月明かりのおかげで迷わずここに着きましたから」
アムイの後ろにいる、大小の人影を見て、益々彼女は驚いた。
「お爺さん!それに…まさか…リシュオン王子!?」
「イェンラン!」
リシュオンの青い瞳がぱぁっと輝く。そして心底ほっとした顔になった。
その様子を傍から見ていたシータは、軽く咳払いすると、皆に言った。
「とにかく皆さん、中に入りましょうよ。
…西の方々は、馬を隠す場所をお教えしますから、その後、指示する部屋で待機していてください。
さ、老師も王子も、早くこちらに…」
彼の指示にりシュオンは頷くと、一番の従者にそのように指示をした。
その後、すぐさまアムイ達は屋敷に入り、応接間に一同集まった。

「アムイ、傷を見せろ」
部屋に入るなり、キイはアムイの顔を両手で挟んで自分の方に引き寄せた。
「だからたいした事は…」
「とにかく見せろ」
有無を言わせない迫力でキイは言うと、おもむろに傷を縛っていた布を取り始めた。
「……出血の割には…傷は浅いな」
「だから言ったろうって、大丈夫だよ」
現れた傷を丁寧に診るキイに、アムイはぞんざいに言った。
「これ、誰にやられたよ」
キイの目がきつくなった。
「……」
「アムイ?」
その様子に、サクヤはとても居た堪れなかった。震える声でアムイの代わりに言う。
「…オレのために…兄貴、オレを庇って受けた傷なんです!オレのせいで…、オレが力不足で…」
「サクヤ!」
毅然としてアムイはサクヤの言葉を遮った。
「兄貴…」
「言ったろう?これ以上言ったら殴ると」
「おい、アムイ…」
キイはアムイの剣幕に唖然とした。
「……」
サクヤは下を向き、きゅっと唇を噛み締めると、静かに近くの床に腰を下ろした。
キイは溜息をついた。一体、何があったんだ。
「とにかく、手当てさせろ。…さすがに上手く避けたせいで、この程度ですんでるなぁ。
これなら、傷跡も目立たないように塞がるぞ」
そう言うと、キイはアムイの額に右手を置いた。ポゥッと淡い光がアムイの額を包む。
イェンランは、初めて出会った時、キイが痛む足を手当てしてくれた時を思い出していた。
不思議な癒しの力。【宵の流星】が神秘的なのは、この力のせいもあるかもしれない。
みるみる傷口が塞ぎ、綺麗になっていくのを、周囲の人間は息を呑んで見守っていた。
特にりシュオン王子は、お驚きの眼(まなこ)で興味深く二人を凝視している。
「これで、いいだろ?」
「すまない、キイ」
アムイはほうっと溜息をついた。
「とにかく一体何があったんだよ。説明してくれ…、と」
その時、やっとキイは、自分たちをじっと見つめる複数の眼差しに気がついた。
「これはこれは…。挨拶もしねぇで…」
キイは気まずそうに周囲を見渡しながら頭をかいた。
「本当にお主はアムイの事となると、他の事に目がいかぬのう」
呆れた様子で昂老人(こうろうじん)はキイに言った。
「とりあえず、何がどうしたのか、順を追って話してくれます?皆さん。
とにかくそこら辺に座って」
人数分のお茶を、イェンランと共に運んできたシータが皆を促し、各々それに従った。
アムイ、キイはその場に胡坐をかき、昂老人とリシュオンは近くにあった座椅子に腰を下ろした。そのリシュオンの後方に、彼の従者二人が床に正座する。サクヤは先ほどから、皆から少し離れた所に、静かに膝を抱えていた。
それぞれにお茶を配り終えたシータとイェンランは、サクヤの近くに腰を下ろした。何だかさっきから、アムイとサクヤの二人の空気がおかしい。何となく二人は、落ち込んでいるサクヤの傍にいたかったのだ。
「それでは…アムイ達から説明してもらおうかの。
リシュオン様と共に、北の王宮からここに戻る途中、まさか主(ぬし)たちと遭遇するとは思わなんだ。
しかも何人にも追われて、危ないところじゃったぞ。
あやつらは何者じゃ。かなりの腕前と見る。しかも随分殺気立ってたじゃないか」
「奴らは…」
アムイとサクヤは皆に、町で何があったかを、互いに説明し始めた。


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「待たせたな、姫胡蝶」
先程まで、南の兵士とユナ族の人間達と相見(あいまみ)えていた、東の荒波州(あらなみしゅう)提督アベルは、その場から少し離れた所で待たせていた馬車に、そう言いながら乗り込んだ。
「どうだ?何か見えたか」
アベルは【姫胡蝶】…カァラの返事を待たずにいきなり本題に入った。
まったく情緒がない男よ、とカァラは思った。今宵は滅多に顔を出さない月が、輝きを放っているというのに。彼は小さく溜息をついた。
「そうだね…。暁の血の波動が、はっきりと残ってる。…すぐに彼らの居場所、わかるよ」
「そうか」
アベルは嬉しそうに笑った。
「でも、安心しちゃ駄目だよ。…鼻が利くのは俺だけじゃないようだ」
カァラの言葉に、アベルは片眉を跳ね上げた。
「いや、俺の場合は目が利く、だけどね」
カァラはくすっと笑った。
「どういう事だい?」
「…一人、気術使いの将校がいただろう?あいつはかなりの使い手だよ。
暁の“金環の気”の特徴を、もう嗅ぎ分けられる。そのうち奴も彼らの居場所を突き止めるだろうね」
「南の…気術将校、ミカエル少将か。確かにかなりの逸材だな。
…あの王者の“気”、“金環”の持ち主をことごとく葬ってきた、兵(つわもの)か…。
お前の父親と同じくらいのレベル?」
「方向性が違う。彼は“鉱石の気”を自在に操れるほどの力量がある。
だが父は他人(ひと)の第九位以上の“気”を取り込み糧にし、それを操る。
本人は一応、“気”の習得はしていたようだけど、ほとんどが他人(ひと)様の“気”だからなぁ。
生粋の気術士と、吸気士はまったく別だよ、アベル」
カァラの瞳が意地悪く輝いた。
「…ま、そういう事なら、ミカエル少将よりも早く宵の君を手に入れなければな…。協力してくれるだろ?カァラ」
アベルの言葉に、カァラはちょっと小首を傾げた。
「カァラ?」
「ねぇ、アベル。彼らの居場所は教えるけど、まず、手始めに俺一人で宵の君に会ってみたい。
……色々、彼と話したい事があるんだ。宵を手に入れるのはその後でもいい?」
アベルは何か言いたそうな顔で、カァラを見た。だが、ニヤッと笑うと、こう返事した。
「…いいよ。何か思うところがあるんだろう?
お前が【宵の流星】の素性を大々的に公表した事にも驚いたが、何か特別な感情を彼らに持っているように思える。
まぁ、そのお陰で俺達は知り合ったわけだしな。
…本心はかなり妬けるんだが、俺を裏切らないと約束してくれるなら…お前の好きにしていい」
カァラは喜び満面の顔で、目の前のアベルに抱きついた。
「ありがと!アベル。そういうアベルが大好きだ。……いつか、アベルが大陸を手に入れたいと言うのなら、俺、力になるからね」
アベルはカァラを膝に抱えると、柔らかな髪に口付けた。
「まったく…。冷淡でまかり通っているこの俺が、お前には敵わないとは。惚れた弱みとはこういうものか」
カァラは喉の奥で、猫のように喉を鳴らした。
「で、どの方向に行けばいい?もう見えてるんだろう?」
アベルはカァラの顔を覗き込んだ。
「…このこと、ユナの人達には教えなくていいの?」
カァラは目線を外に向けた。馬車の窓から、満月になり損なっている黄色い月がほのかに見える。
漏れる月明かりに照らされたカァラの美しい顔に、アベルは感嘆の溜息を漏らした。
そこら辺の女よりも、いや、選りすぐりの女が集められた桜花楼の頂点、【夜桜】(※最高級娼婦)よりも、男であるカァラの方が艶やかで美しい、と思う。…言葉使いは男のままであるが。だがそれがかえって、どちらかというと男の方が好きなアベルのツボにはまった。
アベルは彼の濡れた唇をぺろりと舌で舐めると、真面目な顔でこう言った。
「彼らの目的は【暁の明星】さ。…彼らがどうしても暁を殺りたいと言ってきたんだ…。
【宵の流星】あるところ、必ず相方の暁は傍にいる筈。
なるほど、確かに今の宵は暁の手に戻った。その邪魔な暁を彼らが消してくれるのなら、助かるじゃないか。
ま、我々と利害が一致した、っていう所だが、さっきのように大騒ぎになっても今は困る。
彼らだって南の少将殿と一緒で鼻くらい利くだろうよ。その証拠に俺と接見した後、早々とここから立ち去っていったぞ」
カァラはふぅん、と鼻を鳴らした。
「…東の国の中で、特に閉鎖的なユナ人…か」
「何か見たのか?」
「…そんな都合よく何でも見えるわけじゃないよ。いちいち色んなことで力を使っていたら疲れる。
…波動を合わせるのだって結構大変なんだ。
でも…」
「ん?」
「いや、何でもない」
カァラはにっこり笑って、アベルに軽くキスをした。
…閉鎖的なユナの一族…。
何か胡散臭い。彼らが何か大事なことを隠しているような気がしてならない。だけど。
本来、傍観者の立場でいたいカァラは、あえてこれ以上、彼らの事情に首を突っ込むのも面倒だった。
まぁ、元々【暁の明星】がいそうな場所まで連れて行く、という約束だけだ。それも叶えた形になったのだから、ユナ人も文句はないだろう。
「ま、そのうち暁が邪魔になった時には、彼らに奴をくれてやればいい。
…同じ東の国民(くにたみ)だ。喜んで我らの味方になってくれるだろうよ」
アベルは、カァラの瞳を覗き込み、続けてこう言った。

「で、愛しの【姫胡蝶】。どちらの方向に馬車を向かわせればいいのかい?指示してくれ」


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