暁の明星 宵の流星 #117
西の国・第四王子、リシュオンは、さっきからどうしても一人の男に目が吸い寄せられてしまっていた。耳ではちゃんとサクヤ達の説明を聞いてはいる。だが、どうしても目は圧倒的なこの男の存在に惹きつけられてしまう。
【暁の明星】に初めて会った時に感じた、高貴なオーラにも驚いたが、彼は本当にその上をいく。
その場に天神が舞い降りてきたような、神々しささえ感じさせられる。
これが【宵の流星】……。
しかも【暁の明星】と対になると、彼らの存在が益々互いに際立つのに驚く。
まるで陰と陽。
月と太陽。
昼と夜。
清純と妖艶。
剛と柔。
真偽の程はわからぬが、リシュオンの目にはこう映った。
「ということで、乱闘になってしまって…」
いけない、いけない。
リシュオンは、サクヤの声で我に返った。目の前の男の姿に気を取られないよう、ちゃんと話に集中しなければ。
サクヤは一通り、ユナの人達の話を終えると、ほっと溜息をついた。
「…ユナの民…」
キイはサクヤの話を聞いてから、何か思い当たるような顔で呟いた。
「ユナ人?そういう民族が東の国にいるの?聞いた事ないけど…」
イェンランが不思議そうな顔を向けて、サクヤに問いかけた。
「ああ。知らなくて無理もないと思うよ。
…数多い東の国の民族の中で、ユナほど閉鎖的で、世間に表立って出てくる事がほとんどないからね。他国の人が知っていたら、その方が驚く」
サクヤは目の前のキイとアムイに、同意を求めるかのように目線を二人に走らせた。
アムイは先程、自分が遭遇した南の将校の話を終えてから、ずっと押し黙ったまま、現在サクヤの説明を聞いていた。
その無表情な様子は、まるで昔の人を寄せ付けなかった頃の彼に戻ってしまったかのようだった。
サクヤの胸が、ズキン、と痛んだ。
無反応なアムイの様子を敏感に感じていたキイが、慌てて代わりにサクヤに頷いた。
「ユナは東も東の果ての果て…の島を統べてる民族だからなー。
でも、そんな彼らが何だってまた…こんな北の国に?
しかも長候補が直々になんて…」
「あ、あの…だからそれは…」
キイの言葉に、サクヤは言い淀んだ。ちらり、とアムイの方を見るが、彼はずっと腕組みをして目を閉じている。
「どうした、サク?」
「ええ、と、その…」
言い難そうに口ごもるサクヤに、キイは眉根を寄せた。
「俺を殺しに来たんだよ」
突然、沈黙していたアムイが口を開いた。
一同が一斉にアムイの方を見た。
「…仇を取りに来た、と」
「仇?…これはまた、どうして…」
昂老人(こうろうじん)が、興味丸出しの顔で身を乗り出した。
しばし沈黙の後、おもむろにアムイははっきり言った。
「俺がユナの女性を陵辱し、殺害したって」
一瞬、皆は呆気に取られた。
「…て、本当に?お前、本当にそんな非道な事をしたのか?」
「…ア、アムイって…。そんな大胆な事、できるの?」
キイとイェンランが二人同時に口を開き、思わず重複した事に、二人は赤くなって顔を見合わせた。
「なワケないだろう?…はっきり言って、身に覚えがないんだ」
アムイは深く溜息をつくと、そのまま腕を組み直し、再び目を閉じた。
「もぉー。…アムイがそんな事する人間ではない事は、アンタだってわかってるでしょ?」
シータがキイを軽く睨んで、口を尖らせた。
「そんな事はもちろんわかってるさ。…ただ、俺が知りたいのは、どうしてアムイが閉鎖的なユナと、そういうトラブルを起こしたのかって事だ。
元々表に出てこない民族。…それが何故、お前と関わりを持ったのか。
教えろよ、アムイ」
キイは微動だにしないアムイの肩に手を置いた。
アムイはじっと口を閉ざしていた。だが、ゆっくりと目を開けると、昔を思い出しているような表情をして話し始めた。
「…話せば…長くなるから、簡単に言うけど…。四年くらい前か…」
「俺とお前が離れ離れだった時期?」
「うん、そう。…キイが行方知れずになって、しかも“気”も感じなくなり、絶望から自暴自棄になっていた時期があって…」
あの頃の事は、聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)時代と同様、本当は皆に話したくない。
今思い出しても、若気の至りとしても、かなりのハチャメチャぶりだった。我ながら呆れるくらいで、本当はキイに言えない事も、二つ三つはある。実はこの頃、東で暴れていた実態が、【暁の明星】武勇伝となって、尾鰭がついて全土に広まったのは皮肉な事だ。
しかも前後の見境なく酔っ払い、その後知らない女性と初体験してしまったのもこの頃で、もうどうにでもなれ状態でもあった。
虹玉とはわからなかったけど、何かに呼ばれる感覚が芽生えるまで、アムイの乱れた生活は続いた。
ユナの人間達と関わったのもその頃で、実はアムイが冷静に戻るきっかけとなった出来事だった。
彼らと離れたひと月後、虹玉の呼び声を感じることができた。この時彼ら…いや、彼女に出会わなければ、微かな呼び声にも反応できなかっただろう。まぁ、それ以前のアムイは唯一無二のキイを失って、それほど荒れ果てていたという事だ。
諸々の細かい経緯は話さずに、アムイはかいつまんで説明した。
…ユナ族との邂逅を。
「つまり、だ。自暴自棄で、陸に上がっていた東の海賊どもと争いになって、断崖から海に突き落とされた…と。
お前、一体何やらかしたの?というか、東の海賊ていどに負けるなんて、どういう状態だったんだよ」
キイの容赦ない突っ込みに、アムイは黙るしかなかった。
……言えない。
分別もつかないほど酒を飲まされて、しかもレイプ寸前だったとは、キイには絶対に言えない。
切れた自分は大立ち回りして、しかも相手の股間を潰し、逃亡。怒り狂った連中に追い掛け回されて崖に追い詰められ、もみ合って海に落ちたとは…。
……どうしてもキイが怖くて言えない。
「ま、俺もちょっと酔っていて、素面(しらふ)じゃなかったから…。で、気がついたら、見知らぬ入り江に漂着していた」
「入り江?」
キイがそれ以上深く追求しなかった事に、ほっとしながらもアムイは続けた。
「大型の船が一隻は入れるくらいの…小さな入り江で、すぐに洞窟に繋がっていた。
海からでないと、行き来が出来ないって感じで、陸からは絶対見つからないような場所だった。
どうしてこんな所に?と思ったが、その時自分はかなりの大怪我をしていて、洞窟の手前で再び気を失って…。
その次に気がついたら、寝台の上だった」
「秘密の入り江って事か。それがユナ族の?」
「ああ。…意識がはっきりしてから知ったんだ。
そこはユナ族の秘密の砦だったんだよ」
アムイはまた、瞼を閉じた。青くどこまでも続く水平線が目に浮かぶ。濃い色合いの北の海とは違う、優しい青い色の東の海。南に近づくと、海はまた、淡いエメラルドグリーンに色を変えていく。意外に広い東の海岸線は、このように方角によって海の色の変化を楽しむ事ができるのだった。
その入り江の洞窟を抜けると、砦を囲んだ小さな村があった。
その村も山の窪みにあるようで、海の反対側には切り立った崖がそびえている。つまり表立った出入り口は、入り江だけで、どう考えても船以外で出入りできない場所だ。
このようなひっそりした場所が、東の海岸にあるのに面食らったが、そこに住んでいる人間が、閉鎖的なユナ人と知って更にアムイは驚いた。
ユナの人々は東の果ての島を総ていて、大陸にはその姿を現さない、というのが通説だからだ。
それが何故この大陸に、このような砦を作り、ユナ人の一部がひっそり暮らしているのか?
……それは本来、よそ者には知られてはならない事実だったのだ。
だが、大怪我をして倒れていたよそ者のアムイを見つけ、救って看護してくれたのが…ユナの女性、ロータスであった。
彼女は長の後妻の連れ子であって、長候補である異父弟のガラムの世話役であった。
ちょうど、彼女の夫達が島内からこの砦の勤務を任されたため、この村にいたのだ。
夫達の任務は一年。小さな子供がいるロータスは、島に行ったり来たりしているという。
アムイがここに来た頃、ガラムも姉に会いに、この砦に社会勉強のため滞在していた。
夫も子もいるロータスだが、若いときに結婚したらしく、まだ24歳と若々しく美しい女性だった。
明るい茶色の長い髪。草原のように清々しい緑色の瞳。
柔らかな雰囲気なのに、はきはきとした性格。…キイが女だったら、こんな感じなのかな、と、アムイは朦朧とした頭で思った。
女は苦手だけど、キイにどこか一部でも感じが似ている女性には、無意識に受け入れてしまうのだ、と自覚したのが彼女が初めてだった。
彼女は気さくで、明るく驕らないさっぱりした姉御肌の女性で、人を寄せ付けない手負いの獣のようなアムイを心から看護してくれた。
…それが、このユナ族の世界では、ダブーに近い状況だと後から知ることになるのだが…。
彼女が何故、そこまで自分によくしてくれたのか…。元々の性格もあったかもしれない。だが、アムイが彼女に慣れた頃、彼女はこっそりと彼に告白した。
《何故って…?そうねぇ。…言っていい?誰にも…特に主人達には言わないでくれる?
…実はね、アムイって、似てるのよ》
《似てる?誰に?》
ロータスは仏頂面なアムイにくすっと笑うと、厳かにこう言ったのだ。
《…ふふ。初恋の人に》
《は?》
《本当に似てるのよねぇ…。小さい頃、その人の姿絵を見てから、ずっと憧れてて。
長の方(おさのかた)に我儘言ってその絵を貰ったくらい…。だから本人に偶然会った時、心臓が飛び出しそうだったわー。
まさか本当に本物に会えると思ってなかったから…。
アムイは本当にその方によく似ているわ…。
顔立ちもだけど、ちょっとした表情とか、仕草とか。初めてアムイを見た時、あの方が時間を止めて再び現れたのかと思ったくらいよ》
うっとりと彼女は宙を仰いだ。その頃の事を思い出しているようだ。
何故かアムイは自分じゃないのに、恥ずかしくて居た堪れなくなった。
《それっていつの話よ?…俺、そんなにそいつと似てるわけ?》
ロータスは思わせ振りな笑みを浮かべると、自分の棚から箱を出してきた。
《アムイには特別に見せてあげる!本当に似てるから、びっくりするわよ?
長の方との約束で、本当は誰にも見せちゃいけないのだけど》
そう彼女は箱から小さな額に入った絵を取り出した。
掌よりも一回り大きなその絵には、一人の若者の姿が描かれていた。
黒い髪に…黒い瞳…で、剣を持ち、優しく微笑んでいる。
アムイは言葉を失った。
描かれた剣についていた小さな装飾品に、真っ先に目を奪われ、おそるおそるその人間の顔を見る。
間違う筈もない。
(父さん…)
描かれていたのは、自分の父親の若い頃の姿だった。
でも、何故、彼女が…いや、ユナ人がセドの王子の肖像画を?
《…今は無くなってしまったけど…。セド王国の太陽の王子様なのよ》
それからアムイは茫然自失ながら、彼女の、アマト王子と出会った時の話を聞いて、もっと驚いたのだ。
……父、アマトは、自分がまだ子供の頃、この民族の長に会いに、島を訪れていたこと…。
一体何故…。
この歳になって、このような形で父親の話を聞くなんて。アムイには思ってもみなかった事だった。
もちろん、この事は他の人間には詳しく話せない。
だが、後でキイにはその事を伝えなければならない。
アムイは彼女のきらきらした瞳を思い出し、胸が苦しくなった。
「で、簡単に言えば、そのガラムという長候補の姉が、お前を救ってくれて、ユナの砦から逃がしてくれた、っていうワケだ。
…で、彼女はその直後、何者かに乱暴され殺された。
それがよそ者で、最後に会っていたであろうお前が犯人と思われた…。そんな事でいいか?」
キイはアムイの話を簡潔にまとめてこう言った。
「…それで、そのガラムという奴と共に来ている、他の二人はどんな?」
キイの言葉に、今度はサクヤが口を開いた。
「一人は長の側近だと言っていました。…セツカ、という人で、柔和な感じですが、かなりの使い手みたいです。
それからもう一人が…。その…、ガラムの義兄という男で…」
「レツ=カルアツヤ…。ロータスの二番目の夫だろう?ユナの英雄だ」
サクヤの言葉を受けて、アムイが説明した。
彼の、無愛想な顔が脳裏に浮かぶ。初めて会った時から、アムイには敵意剥き出しの目をしていた男。
「二番目の夫…?」
イェンランは不思議そうに呟いた。“二度目”と聴き間違えたのではないかと、一瞬思った。
サクヤは、思わずアムイの顔を見た。彼もまた、ユナの結婚形態を知っていたのだ。
いや、知っていて当然だろう、とサクヤは思い直した。ユナ人に助けられ、しばしの間、共に過ごしたという事は、このくらいの事は知っていて当然だった。
「ああ…。ユナ人は一妻多夫制だからな」
アムイの言葉に、イェンランは目を丸くした。
「一妻…多夫?という事は、妻一人に多数の夫…っていうこと?」
「ほぉ、この大陸には珍しい。王侯貴族に多い、一夫多妻が廃れぬこの時代にのぉ」
昂老人も興味津々だ。
「…確かに子孫を増やす、という事を重点に考えれば、効率は悪いでしょうね。だけど女性が少ないこの大陸ならば、そのような制度が増えても私は驚きませんけど…」
リシュオンが言った。彼は口元に手を伸ばし、ちょっと考え込むと、再び口を開いた。
「そもそも大勢の男が一人の女を共有するのは、子種が争い過ぎて殺しあうので、子供が生まれにくい、という説も聞いた事もあります。ですが、その一方で、生まれた子は共通の子として大事に育てるために、子供の生存率がすこぶるいい。急激に増やす、というよりも、確実に、一番強い因子を持つ子供を儲け、協力して育てる…。個人の繋がりよりも、多勢の繋がり。強いて言えばその民族の強固なまでの団結力は、半端ないかもしれません。
まあ、その民族以外にも、未開の地にそういう制度の村とか少なからずあります。大体がそういう形態を取るのは、互いに財産を守り、生きていくための手段として、貧困の多い所に多く見られのですが。つまり、男ひとりでは女や子どもを養うのが難しい…という」
「へぇ、さすが博識と名高い西の国の王子様だ。よく知ってるねぇ」
ピュウっと口笛を吹いて、キイは感心したように言った。
「キイさんはリシュオン王子の事、ご存知なんですか?」
サクヤは驚いてキイを見た。
自分達は前に王子に会ったから、彼の人と成りは知っていた。でも、その時にはキイはいなかった。
「知ってるも何も、西の第四王子といえば、若くして外大陸を渡ったという事で、有名だろ?」
「有名なんて、そんな…」
リシュオンは赤くなって手を振った。
「まぁまぁ。謙遜しなくても。
とにかくユナはかなりの閉鎖的な民族だろ?多分女が少なくなった故、一族の女を守るためにも、そうなっていったのだろうな。…ある意味、女を守護してると言えばそうだ。でも、その反面、女の方はかなり拘束されるに同じかもしれないね」
サクヤはさっきからリシュオン王子にも負けず劣らずな、キイのさりげない博識ぶりには感心していた。
この方は姿形だけではない、深い知性を感じさせる…。確かに、シータの言うように、普段は乱暴でガサツな態度を取っている。なのにそれが嫌味にならず、かえって親しみを持たせる要因になっていた。粗野と言われる彼の事を愚鈍に感じないのは、このようにさりげなく見え隠れする聡明さが大きい、とサクヤは思った。
その印象はサクヤだけでなく、初対面のリシュオンにも、嫌というほど伝わっていた。…噂の【宵の流星】…。彼ほど完璧な人間はいないのではないか?こんな人間、広い世界を見聞きしてきたリシュオンでさえ、今までお目にかかったことはない。
その彼を、遠くで目を輝かせて見つめているイェンランには、実は初めから気がついていた。
覚悟はしていたとはいえ、リシュオンにとってかなりの打撃だった。それなのに、相手の男に妬みも何も感じない。リシュオンはキイに会ったた瞬間、簡単に敗北を認めてしまったのだ。我ながら情けない事なのだが、相手が彼では太刀打ちできる自信がない。
さすが、東を統一していた、神の子孫と言われるセド王家の生き残り。将来神王と呼ばれても異論はないほどの存在感の持ち主。
世が世なら、東の国の王となる人物であろう…。各国の要人が、セドのお宝以上に彼に魅力を感じている気持ちがわかる。
「ロータスにはレツ以外に四人の夫がいた。彼らは全て血の繋がった兄弟で…。つまり、ロータスは一人の男に嫁いだのではなく、一つの“家”に嫁いだと言っていた」
「ああ…、“父性一妻多夫”ね。兄弟が一人の妻を娶る、というやつだ。なるべく自分の血を受けた子孫を残そうとするには、一番多いだろうね。ま、他の国にだって制度ではないが、兄嫁が寡婦になればその弟が娶る、というのはよくある話」
アムイの話に、キイは付け加えた。
「…と言う事は…あの…」
その話を黙って聞いていたイェンランが、言い難そうにおずおずと口を開いた。
「何だい?お嬢ちゃん」
「その、ロータスっていう人…。ううん、ユナの女の人は…男の人達に大事にされているという印象なんだけど、…幸せなのかな?」
彼女の素朴な質問に、この場の男衆は興味深そうに耳を傾けた。
「どうしてそう思うんだい?お嬢ちゃん。…ハーレムの逆パターンと、単純に思えない?」
キイはわざとそういう下世話な話を振った。たった一人の女性である、彼女の思うところを聞いてみたかったのだ。
「…だって…。女は男と違うもん。男の人と違い、身体の構造上、女の身体は誰でも受け入れられるけど、…その分、気に入った相手以外の男とするのは…苦痛以外何もないと思うの。…家に嫁ぐ、と言う事は、その兄弟全てに愛情を注がなくてはならないって事よね?もし、その中に自分が生理的に受け付けない人がいても、妻として相手しなければならないの?……結婚という形を取っているけど…何か、桜花楼(おうかろう)と似ているかも…」
彼女は桜花楼に連れて行かれ、世話役に言われた事を思い出していた。
《この桜花楼は普通の娼館とは違います。いいですか?ここは選ばれた女を大事に保護するお役目もあるのです。
確かに金を取り、複数の殿方の相手をさせています。でもそれは、男なら誰でもいい、というわけではありません。
他とは違い、高額なお金を要求する事で、男性の質を上げています。確かに中には、非人道的な殿方もおられます。でも、それでも何かあった場合、桜花楼は商品である女を守りします。それだけはこのゲウラ国、国政委員会でも必ず守るよう、仰せつかっています。
ですから、その事を肝に銘じ、お客様である殿方に心から奉仕なさい。お客様に請われれば、どのような方でもお相手し、ご奉仕するのが桜花の女です。お相手を選ぶ権利は女にはありません。ですが、上に上り詰めれば、自分を望んでくれたお相手の中であれば、自ら選べる事だってできるのです。最高級娼婦になれば、高貴な身分の方に見初められる事だって…。
実際に、ここの上級娼婦、【夜桜(やざくら)】で、一国の王の側室となった方もおられたんですよ。
お客様も色々な目的で、ここに来られる方もいるかと思います。
それでもどんな殿方にも愛情を持ってご奉仕する事。それが偽りの愛でもかまいません。
そうして殿方に可愛がっていただければ、生きるための基本的な事は保障されます。
いいですか?イェンラン。ここで頑張れば、寝食の不安も、外敵からも守られ、女は安定した生活ができるのですから…》
「もちろん中には、大勢の男性に傅(かしず)かれ、思いのままにこの制度を楽しんでる人もいると思う。
でも、全てがそうできるわけないと思うの。
男の人にも色んなタイプがあるように、女も様々なタイプがいるから…。
私みたいに…男の人が苦手な女には…きついかも」
最後の言葉は消え入りそうな小さな声だった。だけど、しんと静まったこの部屋では、皆の耳には確実に届いていた。
キイは切ない顔をした。彼女の苦しみを思うと、自分の母親の哀しげな波動を、どうしても思い出してしまうのだ。
「…ロータスは…彼女なりに、いい妻と母をこなしていたよ。それがユナの女だって。家族の、一族の存続のために女がいるのだと、彼女は俺に誇らしげにそう言っていた。…確かに中には夫婦間、兄弟間で上手くいかない家庭もあるらしいが、ロータスは子供の頃からこの慣習で過ごしてきたし、ユナの女としての自覚があるから、幸せだって。…ただ…」
アムイは言い淀んだ。
「ただ?」
「いや…、何でもない」
アムイはそれからまた、黙ってしまった。しばし沈黙が部屋を漂う。
「とにかく、ユナ人の事はわかった。…サクヤ、続きを話してくれ」
痺れを切らしたキイがしょうがない、という風に口火を切った。
「あ、はい。…それから何とかして逃げようとしたのですが…」
サクヤは南の傭兵であるへヴン=リースの話に移っていった。
だが、アムイの心は、あの頃のロータスの哀しげな瞳に占領されていた。
《仕方がないの。それでも私は幸せなのよ。
…ユナの女は…この制度になってから、家庭を守り維持するためには、平等に夫達に愛を注がなければならないと、本能でわかっているから。
それでも中には一人の男を愛し過ぎて、家庭を崩壊した女も…知っている。そして彼女たちがどういう運命を辿っていったのかも。
私は幸せな方なのよ。……このような結婚生活でも、夫達は優しいし、二人の子供は可愛いし、夫達は皆、自分達の子として慈しんで育ててくれるし…。それに…それに…》
彼女の明るい緑色の瞳が灰色に曇り、涙が浮かんだ。
《…私は幸せなのよ。…心から愛する男だって…こうして近くにいる…》
まるで自分に言い聞かせているような切ない言葉。…自分に言い聞かせているなんて、彼女はそういう所もキイを思い出させた。
(ロータス…。何でだ?どうして君は殺されたんだ…。しかも酷い扱いで。
一体誰がそんな惨い事を…)
アムイが今、ユナの女性の事を考えているだろうなと、イェンランは気づいていた。
一体、アムイとその殺された彼女の間に、何があったというのだろうか…。
イェンランはじっと宙を睨み続けているアムイに、何故か目が離せないでいた。
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