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2010年10月

2010年10月27日 (水)

暁の明星 宵の流星 #118

もう時間も深夜を過ぎ、話はやっと昂老人(こうろうじん)とリシュオン王子の話に移っていた。

「それでは、南の国が今、積極的にキイを捕らえようと必死になってるって事ですね」
シータがリシュオンの説明を受けてそう言った。
「そのようです。…多分、もうお分かりかと思いますが、かなりの数の南の兵士がこの北の国に流れ込んでいます。
北の第一王子が、セド王国の宝に目が眩み、南の宰相の口車に乗って、癒着している事は、隠しようもない事実。
多分、今行方をくらましている彼は、南の宰相の所でしょう。
……北の王宮としては、第一王子の目を何とか覚ましたい。あのような王子でも、第一王位継承者という思いもあるようですね。…ですが、今の王宮には、彼を止められるほどの金と兵力がない…。
考えあぐねて、北の姫の嫁ぎ先である我が国に、内密に助けを求めた、という現状で」
リシュオンの話に、キイがあからさまに苦い顔をした。
「…北の王は、人民を苦しめる結果を招いた、このような王子を厳罰に処さないおつもりなのか?
自分の国を他国に売るような王子だぞ。
それなのに第一王位継承者、という事で、そのような甘い考えを…。
まさか、このような人間を、ミンガン王は自分の跡を継がせようと思っておられるのか?」
周りを圧倒させるような王者の風格に、皆は思わず息を呑み、彼に見惚れた。

隣のアムイは、キイがこのように他国ではあるが、国家内情について、はっきりと自分の意見を言う姿を初めて見た気がして驚いた。
聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)時代でも、どこか世間を斜めに見て、周りを茶化している風情だったし、とんでもない事をやらかして破門された後だって、その時を気の向くまま。政治なんて興味ない、世間などどこ吹く風よ、というキイだった。
賊党を叩きのめす理由だって、大そうな大義名分があるわけでもなく、ただ、その土地の女にほだされ不憫に思ったか、相手が絡んできて目障りだったから、というくらいだ。
国の情勢とか、政治とか、もちろんその国の王侯貴族が何をしてようが、無頓着な態度しか見た事がなかったアムイは、このようなキイを見て、彼について何でもわかっていると自負していたものが、根本から崩れていく感覚に陥った。
確かに、互いは分かり過ぎるほど分かり合える。だが、それは感情面で発揮される、という事が、アムイはこの時はっきりと、思い知らされたのである。魂は同じでも、別の肉を持って生まれれば、結局は別人…。彼が何を考え、思いあぐねているのか、それは本人しか計り知れない事なのだと、アムイは今更ながら身に染みた。
…だからこそ、幼い頃からの、水面下で互いにひとつに戻りたい激しい衝動と焦燥は、もしかしたら、別人であるという事実を消したい為だったのではないか、とまで思わせる。
…それにしても、キイはずるい。隠し事をしても無駄だぞ、とか自分には言うくせに、言ってる本人は、隠してる事ばかりじゃないか。
自分は一体、この長い年月、キイやこの世界の何を見てきたのだろうか…。
アムイは自身の事も含め、あらゆる事を考え直さなければならない時期だと自覚した。

そのようなアムイの気持ちに気づいているのかいないのか、キイはそのまま話を進めた。
「…確かに、この国は長子崇拝の傾向があるのは否めない。中には実力主義の国家もあるというのに、だ。
一国に立つ、君主が糞なら、国の安泰も望めまい。
……この北の国も、何ゆえこのような財政難に陥ったのか。
国民(くにたみ)あっての国家ぞ。その民を金のために売るような、そんな人間に将来この国を立て直す事ができるというのか。
……東の現状だって、王はご存知の筈。
あれはいろんな州村、民族がひしめき合っているせいで、他国がなかなか介入できないが、北は違うぞ。
…このままだと、何かのきっかけで一気に北は南に占領される」
キイの迫力に、リシュオンは身が引き締まる思いだった。
この方は、真に君主の貫禄がある…。セドの王家の血を引く話は聞いてはいたが、実際の本人を目の当たりにして、リシュオンは納得した。
「その事は、王も弟君であるシャイエイ王子も危惧されております。…ただ、危惧されておられても…。だから、我が国に相談なされたのでしょうが、今の北の王家は…特にミンガン王はかなり弱られています。持病をお持ちで、寝たり起きたりの状態。聡明と思われる第二王子のシャイエイ殿も、温和で優しすぎる性格のため、繊細なところがおありになり、ウツになりやすく、政務がきちんと出来ない事がしばしば。……利己的で我儘な所はあれ、第一王子の行動力を頼りにしていた事が大きい。だからこそ、このような状態に陥ったと思いますが」
「…優しいだけでは、今の情勢を乗り越えられぬ。国を治めるのも難しいだろう。
かといって、力のみで支配するのも俺は感心せぬが、…それにしても…」
キイは目を細め、深い溜息をした。
「……まぁ、まだ年端もいかぬ小さな姫を他国に嫁に出し、その嫁ぎ先に助けを求めるのは仕方がないだろう。
ただ、その嫁ぎ先に西の国を選んだのは、賢明だと思うがね」
「…アイリン姫は、我が国が大事にお守りいたします。…ただ、あの方は本当に純粋な方ゆえ、この件は一切知らせないよう命じてます。
…あの方が女性でなく、また長子であれば、きっと立派な君主になられたでしょうに。柔に見えて、なかなかの芯の強さをお持ちの方です。しかも聡明。本当に惜しいと思います」
その言葉にキイは嬉しそうに口をほころばした。
「そうか。アイリン姫はそのようなお方か。…リシュオンの話だと、オーンの姫巫女の座を蹴ってまで嫁入りしたという潔さ。神のお飾りでなく、俗世に身を投じようとするとは、なかなかの肝だ、はっはっは!」
アムイは思わず咳払いして、キイの脇を肘で小突いた。
キイの皮肉混じりな愉快な物言いに、周りはちょっと不思議そうな顔をしている。
確かにキイがセド王家の血を引く事は明確になっていたが、彼の母親が実はオーンの姫巫女だったとは、意外と知られていない。
それを知っているのは、王族名簿をよく見た人間か、その時の当事者くらいだ。彼が禁忌を犯した末に生まれた事実は、調べればすぐにわかる事でもあったが、神の禁忌に関わる内容なので、知った人間は災いや神国オーンを恐れてか、皆口を閉ざす者が多かった。そのために噂はあまり立たなかったのだ。
という事はつまり、神国オーンの天空飛来大聖堂(てんくうひらいだいせいどう)の最高責任者である、サーディオ最高天司長(さいこうてんしちょう)の姉君である元姫巫女がキイの母親で、その二人の末の妹の子であるアイリンとは従兄妹(いとこ)同士という事だ。
アムイは複雑そうな溜息をついて、肩を落とした。
この事については、キイの気持ちが手に取るようにわかっていたからだ。

キイ自身、オーンの最高天司長である叔父のサーディオとは、あのセドに攻め入った時に姿を見ただけで、全く会った事も話した事もない。
亡くなった育ての親、前聖天師長(ぜんしょうてんしちょう)竜虎(りゅうこ)から、たまに彼の話を聞いたくらいだ。
キイとしては、母の弟であるその叔父には、複雑な思いや苛つきを持っていたであろう。
(あいつは俺を殺そうとしたんだからね!)
苦々しくそう呟く、キイの姿は何度も見かけた。
その苦々しさは、いつしかオーンが崇める絶対神にも向けられる。
神と叔父に、悪態をついている姿は、まるで親に反抗している子供のようでもあったが…。
で、自分の従兄妹が、神の庇護の元には行かず(ここは叔父が巫女にと彼女を所望していた、という事を踏まえて)、乱世である、この俗世を選択した事に、爽快感を感じているらしかった。
…キイの叔父である、サーディオ最高天司長の真意はわからない。沈黙を守っているという事は、今でもキイを禁忌の末の罪の子という認識なのだろうか。天と通じているというキイが、絶対神の教えに反抗している、というのも、面白い話なのだけど。


「まあ、そういう経緯での。わしも王家に呼ばれ、リシュオン様とお会いし、双方協力する事になったのじゃ。
確かに、今のモウラ家は…、わしでも頼りなく感じるしのう」
昂老人が居心地悪そうにもぞもぞと足を組み替えた。
「それで…どうするおつもりなんですか?老師」
興味深そうにシータが身を乗り出した。…キイを聖天風来寺に連れて行く件はどうなったのか。彼は気がかりだった。
「とにかく、南の軍隊が北に入り込んでいる元の原因、【宵の流星】をこの国から敏速に出し、東の国に戻す事。
行方不明の第一王子を、説得し…いや、叶わねば無理にでも連れ戻す事。
南との癒着を断ち切り、今後は西に援助を頼む事…などなど。
それが、王宮と我らの協議の結果じゃ」
「という事は一秒でも早く、俺はこの国を出なくちゃならねぇ。東の聖天風来寺に、とにかく戻らねばなるまいな」
キイは長い睫を伏せて、こう呟いた。わかりきっている事だ。
今更な話ではあるが、自分の存在の影響力が、かなり表立っている事に、キイは本格的に覚悟した。


さあ、もう後には戻れないぞ、【宵の流星】。
キイの瞳が険しくなった。
彼の心に、育ての親である竜虎の言葉が甦る。

《お前は流星。この暗く、動乱が続く大地に、光を降り撒く流星よ。
お前の成すべき事を思い出せ。やるべき事を悟れ。
天に聞き、魂(たま)に聞き、大地に導かれ宿命なるものと通じ合え。
そのためにお前は生まれた。思い出してごらん、我が子よ》


キイの感情の波が変化した事に、隣のアムイは敏感に察知した。
(キイ…?)
それに影響されただろうか。何故かアムイの脳裏に、突然亡き竜虎との対話が甦ってきたのだ。


《アムイよ。お前にこの剣を授けよう》
それは自分が、キイの破壊行為の責任を取らされ、本人と共に破門を言い渡されたその夜の事だった。
聖天風来寺を出るため、荷造りをしていたアムイの元に、ふらりと竜虎がやって来て、いきなり剣を差し出したのだ。
アムイは面食らった。キイはその時、用足しに行ったのか、部屋にはいなかった。まるで、キイがいないのを見計らって現れた感じだった。だがそれ以上に、アムイが驚いたのは、竜虎から手渡された剣であった。
《りゅ…竜虎様、これは…》
アムイの手が震えた。なぜならばその剣は、竜虎が大事に持っていた名剣のひとつ、“影艶・明星(かげつや・めいせい)の剣”という立派なものだった。その名剣は、彼が昔、何の縁(えにし)かわからないが、どこかの高名な神職者から譲られたものと、言われていた。そしてその剣には、堂々と、聖天風来寺の紋、“風神天”が柄に刻まれていた。
《これはこの先、お前の役に立つ。お前ならこれを使いこなせる》
《し、しかし…。何ゆえ俺に、こんな大事なものを…》
アムイは竜虎の申し出に躊躇した。キイならいざ知らず、何故、自分なんかに…。
竜虎は戸惑うアムイをしばし見つめていたが、ふっと慈愛に満ちた優しい目をした。
《これでキイを守れ》
アムイの目が大きく見開かれた。
《確かにキイは、牢獄行き同然の所業を犯した罰で破門した。このような形で袂を別つのは残念だが、あれでも子供の頃から育てた愚息。こういう処分を下したとしても、私はまだ奴の事が可愛いらしい》
そう言うと、竜虎はニヤッとした。
《あんな不埒者より、お前の方がこの剣にふさわしい。まあ、将来キイに何かあった時は、きっとこれがお前を支えてくれるだろう》
《竜虎様…》
竜虎は無理やり押し付けるようにして、剣をアムイの手に握らせた。
《アムイよ、頼んだぞ》
剣の重みと、竜虎の言葉の重さで、アムイは息があがりそうだった。だが、ずっしりとした剣を身に感じて、アムイは覚悟を決めた。
《わかりました、竜虎様。大切に扱います》
その言葉を聞いた竜虎は、目尻を下げて、機嫌よくうんうんと頷いた。
そして彼は最後にこう言ったのだ。

《お前は明星。この暗く、動乱が続く大地に、夜明けを知らせる明星よ。
お前の成すべき事を思い出せるよう、やるべき事を悟れるよう、私は天に祈ろう。
地に聞き、魂(たま)に聞き、天空に導かれ宿命なるものと通じ合えるようにと。
そのためにお前は生まれてきたという事を、思い出せるようにとな…。我が子よ》

「では、色々と検討した結果、遅くても明後日の明け方までには、ここを出るという事で、皆さん大丈夫ですね?」
リシュオンの言葉で、アムイは我に返った。
「ええ。いつでもここを出られるよう、支度だけはできていますけど…」
シータが答えた。
「ただ、ここから東に入るには、山脈越えという、難関が待っています。そのための準備もあれこれ必要となるでしょうし、その上、王子が申し出てくださったように、キイを警護していただけるのなら、大人数での移動には、体力も気力も必要でしょう。…ですから、今から少しでも兵の方に休養を取っていただくためにも、このくらいの時間は必要かと…。本当は一秒でも早く出たい所なんですけど」
「シータの言うとおりじゃ。北と東の国境に横たわる、あの細長い山脈はのぉー。あれさえ越えればすぐに東なのじゃが」
「シャン山脈でしょ」
昂老人の話を聞いて、嫌そうにイェンランは言った。
そう、西から北に入る時、裏を抜けるために、この山脈を越えた時の辛さを思い出したのだ。
シャン山脈は、西の国から、ゲウラ中立国の国境をなぞり、なんと東との海岸線手前まで伸びている、超長い、まるで壁のような山脈であった。
「…確かに今は、正攻法で東に抜けるには危険すぎる。特に国境の門なんか、すでに彼らの目が光っているでしょうし、それに…」
リシュオンは言い淀んだ。
「それに?」
「ええ。自分達は海からこの国に入ったのですが…。それだからこそわかったのです。
海から東に抜けようと思いましたが、どうも厳しそうだということに。
驚きましたよ。東の荒波州(あらなみしゅう)の海軍が、お忍びでこの北の開港に来ている」
「荒波!」
キイは驚きの声を出した。
「なんてぇ事だ。東の荒くれ者も、北に入国しているっつーのかよ…。それって、まさかのまさか…だよなぁ?」
キイはちらりとりシュオンを窺った。
いつの間にかキイの言葉使いが、王者の風格から、普段のならず者風に戻っていた。アムイは何だかほっとして、湧き上がる笑いを噛み殺した。
「まさかも何も、もちろん【宵の流星】目当てだそうですよ」
「あちゃー」
あっさりしたリシュオンの答えに、キイは頭を抱えた。
「かーっ!っめんどくせっ!南の他に東かよ。…これじゃ、北のモウラは生きた心地がしねぇだろな」
「という事は、やはりキイの素性を知って…との事だろうか」
アムイの問いに、リシュオンは生真面目な顔で答えた。
「では、この話をお聞きにならなかったのですか?…つい最近、消失とされていた最後の王族名簿が出てきて公表された話を」
「王族名簿が…!?」
アムイとキイは同時に叫んだ。
「ええ。…荒波のアベル提督の今の愛妾が、東の国にその名簿を大公開したという話ですよ。そのためにキイ殿の素性が明らかになり、セド王国の宝と共に、世間は異常な盛り上がりになっているという…」
キイは頭をぶんぶんと振った。
「いや。その話は届いてなかった。…じゃ、結局東に戻ったとしても、騒ぎの最中に身を投じる事になるのか…」
「今以上、気が許せないわけだな…」
アムイはぼそっと呟くと、またもやじっと目を閉じ、腕を組んだ。
そしてしばらく何か思案すると、おもむろに目を開け、こう提案した。
「俺達にかえって警護はいらないのではないか?」
「アムイ?」
皆、一斉にアムイに注目した。
「キイはご覧のとおり、第九位以上の“気”を封じられているため、並みの人間と同じで、戦うのが厳しい状態でもある。動けない事はないが、多分、逃げる事で精一杯ではないかと思う。…そのようなキイを護ってもらうのはありがたい事と思う。しかしかえって、目立つのではないか?とにかくひっそりと小人数で移動した方が、いいような気がする。…それに、これ以上関係ない人間を巻き込んでは…」
「それもそうかもな」
すぐさま、キイは同意した。
「…俺達なんかと関わっていたら、命がいくつあっても足りないかもよ。やって来るお客さん方は、かなーり本気らしいしな」
「ちょっと待ってください、それも一理あるかと思いますが…。相手はかなりの多勢ですよ?もし、戦いになったら?軍隊と個人で戦うのなんて、無謀すぎる…」
リシュオンは顔をしかめた。
「だからこそ人数を少なくして、小回りをきかせ、分散させた方がいいような気がするんだ。かえって大勢で移動する方が…。
…とにかく俺達の最終目的地は、聖天風来寺までだし。ここからなら、国境を越えればそう遠くない筈だ」
そしてアムイは続いてきっぱりと言った。
「東に行くには、俺達だけで何とかなるだろう。そうすればすぐにでもここを出発できるし、リシュオンは第一王子探索の件だってすぐに取り掛かれるじゃないか。それに…」
本心はもうこれ以上、自分達のために、他人を巻き込みたくなかった。そう、特に…。

「それにできれば関係ない人間は、無法地帯の東になんか連れて行きたくない。…だから、イェン、君の身の振り方を考えたいんだ」
アムイの言葉に、イェンランの表情が硬くなった。
彼女の様子を目に捉えながら、アムイは立て続けにこう言った。
「それとサクヤはここに残ってくれ。お前は俺達と行動しなくていいから。時間をずらし、落ち着いたら聖天風来寺に入門できるよう、爺さんに頼むつもりだ」
その言葉に、サクヤだけでなく仲間達は驚いた。
「何で、兄貴?!どうせ聖天風来寺に行くのなら、一緒に行ってもいいじゃないか!」
先ほど説明している時でも、物静かだったサクヤが、初めて声を荒げた。
(嫌だ。兄貴の傍を離れるなんて…)
何とも言えない焦燥感が、サクヤを襲った。
「何でオレだけ、ここに残らなくちゃいけないんだよ!それじゃあオレ、兄貴を護(まも)ることなんてできないだろう?…今までは兄貴の言う事を聞いて別行動を取った事もあるけど、今まで以上に厳しい状況なら、尚更一緒に…」
「護る?」
アムイの冷たい声が、サクヤの言葉を遮った。
「…悪いが、お前は足手まといなんだよ。…まだ腕も半人前で、気術も習得していないんじゃ、話にならない。
聖天風来寺で修行してから来い。話はそれから聞いてやる。
だからといって、一緒についてくるのだけは、もう勘弁してくれ。迷惑だ」
「兄貴…」
呆然としているサクヤの耳に、アムイの容赦ない言葉は続く。
「だから兄貴なんて呼ぶなと、いつも言っているだろう?
俺はお前を弟子として迎え入れたつもりも、、護ってもらおうともこれっぽちも思っていない!」
ぴしゃりと言い放つアムイに、サクヤは抗議しようと口を開いた。だが、あの初めて会ったとき同様、人を寄せ付けない緊迫した態度に、サクヤは言葉を呑み込んだ。(兄貴…?何で…)
「ねぇ、アムイそこまで言わなくても…」
その二人の様子を、シータとイェンランはハラハラしながら窺い、キイはじっと何やら考えながら黙って見ていた。

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2010年10月24日 (日)

暁の明星 宵の流星 #117

西の国・第四王子、リシュオンは、さっきからどうしても一人の男に目が吸い寄せられてしまっていた。耳ではちゃんとサクヤ達の説明を聞いてはいる。だが、どうしても目は圧倒的なこの男の存在に惹きつけられてしまう。
【暁の明星】に初めて会った時に感じた、高貴なオーラにも驚いたが、彼は本当にその上をいく。
その場に天神が舞い降りてきたような、神々しささえ感じさせられる。

これが【宵の流星】……。

しかも【暁の明星】と対になると、彼らの存在が益々互いに際立つのに驚く。
まるで陰と陽。
月と太陽。
昼と夜。
清純と妖艶。
剛と柔。

真偽の程はわからぬが、リシュオンの目にはこう映った。

「ということで、乱闘になってしまって…」

いけない、いけない。
リシュオンは、サクヤの声で我に返った。目の前の男の姿に気を取られないよう、ちゃんと話に集中しなければ。

サクヤは一通り、ユナの人達の話を終えると、ほっと溜息をついた。
「…ユナの民…」
キイはサクヤの話を聞いてから、何か思い当たるような顔で呟いた。
「ユナ人?そういう民族が東の国にいるの?聞いた事ないけど…」
イェンランが不思議そうな顔を向けて、サクヤに問いかけた。
「ああ。知らなくて無理もないと思うよ。
…数多い東の国の民族の中で、ユナほど閉鎖的で、世間に表立って出てくる事がほとんどないからね。他国の人が知っていたら、その方が驚く」
サクヤは目の前のキイとアムイに、同意を求めるかのように目線を二人に走らせた。
アムイは先程、自分が遭遇した南の将校の話を終えてから、ずっと押し黙ったまま、現在サクヤの説明を聞いていた。
その無表情な様子は、まるで昔の人を寄せ付けなかった頃の彼に戻ってしまったかのようだった。
サクヤの胸が、ズキン、と痛んだ。
無反応なアムイの様子を敏感に感じていたキイが、慌てて代わりにサクヤに頷いた。
「ユナは東も東の果ての果て…の島を統べてる民族だからなー。
でも、そんな彼らが何だってまた…こんな北の国に?
しかも長候補が直々になんて…」
「あ、あの…だからそれは…」
キイの言葉に、サクヤは言い淀んだ。ちらり、とアムイの方を見るが、彼はずっと腕組みをして目を閉じている。
「どうした、サク?」
「ええ、と、その…」
言い難そうに口ごもるサクヤに、キイは眉根を寄せた。
「俺を殺しに来たんだよ」
突然、沈黙していたアムイが口を開いた。
一同が一斉にアムイの方を見た。
「…仇を取りに来た、と」
「仇?…これはまた、どうして…」
昂老人(こうろうじん)が、興味丸出しの顔で身を乗り出した。
しばし沈黙の後、おもむろにアムイははっきり言った。
「俺がユナの女性を陵辱し、殺害したって」
一瞬、皆は呆気に取られた。
「…て、本当に?お前、本当にそんな非道な事をしたのか?」
「…ア、アムイって…。そんな大胆な事、できるの?」
キイとイェンランが二人同時に口を開き、思わず重複した事に、二人は赤くなって顔を見合わせた。
「なワケないだろう?…はっきり言って、身に覚えがないんだ」
アムイは深く溜息をつくと、そのまま腕を組み直し、再び目を閉じた。
「もぉー。…アムイがそんな事する人間ではない事は、アンタだってわかってるでしょ?」
シータがキイを軽く睨んで、口を尖らせた。
「そんな事はもちろんわかってるさ。…ただ、俺が知りたいのは、どうしてアムイが閉鎖的なユナと、そういうトラブルを起こしたのかって事だ。
元々表に出てこない民族。…それが何故、お前と関わりを持ったのか。
教えろよ、アムイ」
キイは微動だにしないアムイの肩に手を置いた。
アムイはじっと口を閉ざしていた。だが、ゆっくりと目を開けると、昔を思い出しているような表情をして話し始めた。
「…話せば…長くなるから、簡単に言うけど…。四年くらい前か…」
「俺とお前が離れ離れだった時期?」
「うん、そう。…キイが行方知れずになって、しかも“気”も感じなくなり、絶望から自暴自棄になっていた時期があって…」
あの頃の事は、聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)時代と同様、本当は皆に話したくない。
今思い出しても、若気の至りとしても、かなりのハチャメチャぶりだった。我ながら呆れるくらいで、本当はキイに言えない事も、二つ三つはある。実はこの頃、東で暴れていた実態が、【暁の明星】武勇伝となって、尾鰭がついて全土に広まったのは皮肉な事だ。
しかも前後の見境なく酔っ払い、その後知らない女性と初体験してしまったのもこの頃で、もうどうにでもなれ状態でもあった。
虹玉とはわからなかったけど、何かに呼ばれる感覚が芽生えるまで、アムイの乱れた生活は続いた。
ユナの人間達と関わったのもその頃で、実はアムイが冷静に戻るきっかけとなった出来事だった。
彼らと離れたひと月後、虹玉の呼び声を感じることができた。この時彼ら…いや、彼女に出会わなければ、微かな呼び声にも反応できなかっただろう。まぁ、それ以前のアムイは唯一無二のキイを失って、それほど荒れ果てていたという事だ。
諸々の細かい経緯は話さずに、アムイはかいつまんで説明した。
…ユナ族との邂逅を。


「つまり、だ。自暴自棄で、陸に上がっていた東の海賊どもと争いになって、断崖から海に突き落とされた…と。
お前、一体何やらかしたの?というか、東の海賊ていどに負けるなんて、どういう状態だったんだよ」
キイの容赦ない突っ込みに、アムイは黙るしかなかった。
……言えない。
分別もつかないほど酒を飲まされて、しかもレイプ寸前だったとは、キイには絶対に言えない。
切れた自分は大立ち回りして、しかも相手の股間を潰し、逃亡。怒り狂った連中に追い掛け回されて崖に追い詰められ、もみ合って海に落ちたとは…。
……どうしてもキイが怖くて言えない。
「ま、俺もちょっと酔っていて、素面(しらふ)じゃなかったから…。で、気がついたら、見知らぬ入り江に漂着していた」
「入り江?」
キイがそれ以上深く追求しなかった事に、ほっとしながらもアムイは続けた。
「大型の船が一隻は入れるくらいの…小さな入り江で、すぐに洞窟に繋がっていた。
海からでないと、行き来が出来ないって感じで、陸からは絶対見つからないような場所だった。
どうしてこんな所に?と思ったが、その時自分はかなりの大怪我をしていて、洞窟の手前で再び気を失って…。
その次に気がついたら、寝台の上だった」
「秘密の入り江って事か。それがユナ族の?」
「ああ。…意識がはっきりしてから知ったんだ。
そこはユナ族の秘密の砦だったんだよ」
アムイはまた、瞼を閉じた。青くどこまでも続く水平線が目に浮かぶ。濃い色合いの北の海とは違う、優しい青い色の東の海。南に近づくと、海はまた、淡いエメラルドグリーンに色を変えていく。意外に広い東の海岸線は、このように方角によって海の色の変化を楽しむ事ができるのだった。
その入り江の洞窟を抜けると、砦を囲んだ小さな村があった。
その村も山の窪みにあるようで、海の反対側には切り立った崖がそびえている。つまり表立った出入り口は、入り江だけで、どう考えても船以外で出入りできない場所だ。
このようなひっそりした場所が、東の海岸にあるのに面食らったが、そこに住んでいる人間が、閉鎖的なユナ人と知って更にアムイは驚いた。
ユナの人々は東の果ての島を総ていて、大陸にはその姿を現さない、というのが通説だからだ。
それが何故この大陸に、このような砦を作り、ユナ人の一部がひっそり暮らしているのか?
……それは本来、よそ者には知られてはならない事実だったのだ。

だが、大怪我をして倒れていたよそ者のアムイを見つけ、救って看護してくれたのが…ユナの女性、ロータスであった。
彼女は長の後妻の連れ子であって、長候補である異父弟のガラムの世話役であった。
ちょうど、彼女の夫達が島内からこの砦の勤務を任されたため、この村にいたのだ。
夫達の任務は一年。小さな子供がいるロータスは、島に行ったり来たりしているという。
アムイがここに来た頃、ガラムも姉に会いに、この砦に社会勉強のため滞在していた。
夫も子もいるロータスだが、若いときに結婚したらしく、まだ24歳と若々しく美しい女性だった。
明るい茶色の長い髪。草原のように清々しい緑色の瞳。
柔らかな雰囲気なのに、はきはきとした性格。…キイが女だったら、こんな感じなのかな、と、アムイは朦朧とした頭で思った。
女は苦手だけど、キイにどこか一部でも感じが似ている女性には、無意識に受け入れてしまうのだ、と自覚したのが彼女が初めてだった。
彼女は気さくで、明るく驕らないさっぱりした姉御肌の女性で、人を寄せ付けない手負いの獣のようなアムイを心から看護してくれた。
…それが、このユナ族の世界では、ダブーに近い状況だと後から知ることになるのだが…。
彼女が何故、そこまで自分によくしてくれたのか…。元々の性格もあったかもしれない。だが、アムイが彼女に慣れた頃、彼女はこっそりと彼に告白した。

《何故って…?そうねぇ。…言っていい?誰にも…特に主人達には言わないでくれる?
…実はね、アムイって、似てるのよ》
《似てる?誰に?》
ロータスは仏頂面なアムイにくすっと笑うと、厳かにこう言ったのだ。
《…ふふ。初恋の人に》
《は?》
《本当に似てるのよねぇ…。小さい頃、その人の姿絵を見てから、ずっと憧れてて。
長の方(おさのかた)に我儘言ってその絵を貰ったくらい…。だから本人に偶然会った時、心臓が飛び出しそうだったわー。
まさか本当に本物に会えると思ってなかったから…。
アムイは本当にその方によく似ているわ…。
顔立ちもだけど、ちょっとした表情とか、仕草とか。初めてアムイを見た時、あの方が時間を止めて再び現れたのかと思ったくらいよ》
うっとりと彼女は宙を仰いだ。その頃の事を思い出しているようだ。
何故かアムイは自分じゃないのに、恥ずかしくて居た堪れなくなった。
《それっていつの話よ?…俺、そんなにそいつと似てるわけ?》
ロータスは思わせ振りな笑みを浮かべると、自分の棚から箱を出してきた。
《アムイには特別に見せてあげる!本当に似てるから、びっくりするわよ?
長の方との約束で、本当は誰にも見せちゃいけないのだけど》
そう彼女は箱から小さな額に入った絵を取り出した。
掌よりも一回り大きなその絵には、一人の若者の姿が描かれていた。
黒い髪に…黒い瞳…で、剣を持ち、優しく微笑んでいる。
アムイは言葉を失った。
描かれた剣についていた小さな装飾品に、真っ先に目を奪われ、おそるおそるその人間の顔を見る。
間違う筈もない。
(父さん…)
描かれていたのは、自分の父親の若い頃の姿だった。
でも、何故、彼女が…いや、ユナ人がセドの王子の肖像画を?
《…今は無くなってしまったけど…。セド王国の太陽の王子様なのよ》
それからアムイは茫然自失ながら、彼女の、アマト王子と出会った時の話を聞いて、もっと驚いたのだ。
……父、アマトは、自分がまだ子供の頃、この民族の長に会いに、島を訪れていたこと…。
一体何故…。
この歳になって、このような形で父親の話を聞くなんて。アムイには思ってもみなかった事だった。

もちろん、この事は他の人間には詳しく話せない。
だが、後でキイにはその事を伝えなければならない。
アムイは彼女のきらきらした瞳を思い出し、胸が苦しくなった。

「で、簡単に言えば、そのガラムという長候補の姉が、お前を救ってくれて、ユナの砦から逃がしてくれた、っていうワケだ。
…で、彼女はその直後、何者かに乱暴され殺された。
それがよそ者で、最後に会っていたであろうお前が犯人と思われた…。そんな事でいいか?」
キイはアムイの話を簡潔にまとめてこう言った。
「…それで、そのガラムという奴と共に来ている、他の二人はどんな?」
キイの言葉に、今度はサクヤが口を開いた。
「一人は長の側近だと言っていました。…セツカ、という人で、柔和な感じですが、かなりの使い手みたいです。
それからもう一人が…。その…、ガラムの義兄という男で…」
「レツ=カルアツヤ…。ロータスの二番目の夫だろう?ユナの英雄だ」
サクヤの言葉を受けて、アムイが説明した。
彼の、無愛想な顔が脳裏に浮かぶ。初めて会った時から、アムイには敵意剥き出しの目をしていた男。
「二番目の夫…?」
イェンランは不思議そうに呟いた。“二度目”と聴き間違えたのではないかと、一瞬思った。
サクヤは、思わずアムイの顔を見た。彼もまた、ユナの結婚形態を知っていたのだ。
いや、知っていて当然だろう、とサクヤは思い直した。ユナ人に助けられ、しばしの間、共に過ごしたという事は、このくらいの事は知っていて当然だった。
「ああ…。ユナ人は一妻多夫制だからな」
アムイの言葉に、イェンランは目を丸くした。
「一妻…多夫?という事は、妻一人に多数の夫…っていうこと?」
「ほぉ、この大陸には珍しい。王侯貴族に多い、一夫多妻が廃れぬこの時代にのぉ」
昂老人も興味津々だ。
「…確かに子孫を増やす、という事を重点に考えれば、効率は悪いでしょうね。だけど女性が少ないこの大陸ならば、そのような制度が増えても私は驚きませんけど…」
リシュオンが言った。彼は口元に手を伸ばし、ちょっと考え込むと、再び口を開いた。
「そもそも大勢の男が一人の女を共有するのは、子種が争い過ぎて殺しあうので、子供が生まれにくい、という説も聞いた事もあります。ですが、その一方で、生まれた子は共通の子として大事に育てるために、子供の生存率がすこぶるいい。急激に増やす、というよりも、確実に、一番強い因子を持つ子供を儲け、協力して育てる…。個人の繋がりよりも、多勢の繋がり。強いて言えばその民族の強固なまでの団結力は、半端ないかもしれません。
まあ、その民族以外にも、未開の地にそういう制度の村とか少なからずあります。大体がそういう形態を取るのは、互いに財産を守り、生きていくための手段として、貧困の多い所に多く見られのですが。つまり、男ひとりでは女や子どもを養うのが難しい…という」
「へぇ、さすが博識と名高い西の国の王子様だ。よく知ってるねぇ」
ピュウっと口笛を吹いて、キイは感心したように言った。
「キイさんはリシュオン王子の事、ご存知なんですか?」
サクヤは驚いてキイを見た。
自分達は前に王子に会ったから、彼の人と成りは知っていた。でも、その時にはキイはいなかった。
「知ってるも何も、西の第四王子といえば、若くして外大陸を渡ったという事で、有名だろ?」
「有名なんて、そんな…」
リシュオンは赤くなって手を振った。
「まぁまぁ。謙遜しなくても。
とにかくユナはかなりの閉鎖的な民族だろ?多分女が少なくなった故、一族の女を守るためにも、そうなっていったのだろうな。…ある意味、女を守護してると言えばそうだ。でも、その反面、女の方はかなり拘束されるに同じかもしれないね」
サクヤはさっきからリシュオン王子にも負けず劣らずな、キイのさりげない博識ぶりには感心していた。
この方は姿形だけではない、深い知性を感じさせる…。確かに、シータの言うように、普段は乱暴でガサツな態度を取っている。なのにそれが嫌味にならず、かえって親しみを持たせる要因になっていた。粗野と言われる彼の事を愚鈍に感じないのは、このようにさりげなく見え隠れする聡明さが大きい、とサクヤは思った。
その印象はサクヤだけでなく、初対面のリシュオンにも、嫌というほど伝わっていた。…噂の【宵の流星】…。彼ほど完璧な人間はいないのではないか?こんな人間、広い世界を見聞きしてきたリシュオンでさえ、今までお目にかかったことはない。
その彼を、遠くで目を輝かせて見つめているイェンランには、実は初めから気がついていた。
覚悟はしていたとはいえ、リシュオンにとってかなりの打撃だった。それなのに、相手の男に妬みも何も感じない。リシュオンはキイに会ったた瞬間、簡単に敗北を認めてしまったのだ。我ながら情けない事なのだが、相手が彼では太刀打ちできる自信がない。
さすが、東を統一していた、神の子孫と言われるセド王家の生き残り。将来神王と呼ばれても異論はないほどの存在感の持ち主。
世が世なら、東の国の王となる人物であろう…。各国の要人が、セドのお宝以上に彼に魅力を感じている気持ちがわかる。


「ロータスにはレツ以外に四人の夫がいた。彼らは全て血の繋がった兄弟で…。つまり、ロータスは一人の男に嫁いだのではなく、一つの“家”に嫁いだと言っていた」
「ああ…、“父性一妻多夫”ね。兄弟が一人の妻を娶る、というやつだ。なるべく自分の血を受けた子孫を残そうとするには、一番多いだろうね。ま、他の国にだって制度ではないが、兄嫁が寡婦になればその弟が娶る、というのはよくある話」
アムイの話に、キイは付け加えた。
「…と言う事は…あの…」
その話を黙って聞いていたイェンランが、言い難そうにおずおずと口を開いた。
「何だい?お嬢ちゃん」
「その、ロータスっていう人…。ううん、ユナの女の人は…男の人達に大事にされているという印象なんだけど、…幸せなのかな?」
彼女の素朴な質問に、この場の男衆は興味深そうに耳を傾けた。
「どうしてそう思うんだい?お嬢ちゃん。…ハーレムの逆パターンと、単純に思えない?」
キイはわざとそういう下世話な話を振った。たった一人の女性である、彼女の思うところを聞いてみたかったのだ。
「…だって…。女は男と違うもん。男の人と違い、身体の構造上、女の身体は誰でも受け入れられるけど、…その分、気に入った相手以外の男とするのは…苦痛以外何もないと思うの。…家に嫁ぐ、と言う事は、その兄弟全てに愛情を注がなくてはならないって事よね?もし、その中に自分が生理的に受け付けない人がいても、妻として相手しなければならないの?……結婚という形を取っているけど…何か、桜花楼(おうかろう)と似ているかも…」
彼女は桜花楼に連れて行かれ、世話役に言われた事を思い出していた。

《この桜花楼は普通の娼館とは違います。いいですか?ここは選ばれた女を大事に保護するお役目もあるのです。
確かに金を取り、複数の殿方の相手をさせています。でもそれは、男なら誰でもいい、というわけではありません。
他とは違い、高額なお金を要求する事で、男性の質を上げています。確かに中には、非人道的な殿方もおられます。でも、それでも何かあった場合、桜花楼は商品である女を守りします。それだけはこのゲウラ国、国政委員会でも必ず守るよう、仰せつかっています。
ですから、その事を肝に銘じ、お客様である殿方に心から奉仕なさい。お客様に請われれば、どのような方でもお相手し、ご奉仕するのが桜花の女です。お相手を選ぶ権利は女にはありません。ですが、上に上り詰めれば、自分を望んでくれたお相手の中であれば、自ら選べる事だってできるのです。最高級娼婦になれば、高貴な身分の方に見初められる事だって…。
実際に、ここの上級娼婦、【夜桜(やざくら)】で、一国の王の側室となった方もおられたんですよ。
お客様も色々な目的で、ここに来られる方もいるかと思います。
それでもどんな殿方にも愛情を持ってご奉仕する事。それが偽りの愛でもかまいません。
そうして殿方に可愛がっていただければ、生きるための基本的な事は保障されます。
いいですか?イェンラン。ここで頑張れば、寝食の不安も、外敵からも守られ、女は安定した生活ができるのですから…》

「もちろん中には、大勢の男性に傅(かしず)かれ、思いのままにこの制度を楽しんでる人もいると思う。
でも、全てがそうできるわけないと思うの。
男の人にも色んなタイプがあるように、女も様々なタイプがいるから…。
私みたいに…男の人が苦手な女には…きついかも」
最後の言葉は消え入りそうな小さな声だった。だけど、しんと静まったこの部屋では、皆の耳には確実に届いていた。
キイは切ない顔をした。彼女の苦しみを思うと、自分の母親の哀しげな波動を、どうしても思い出してしまうのだ。
「…ロータスは…彼女なりに、いい妻と母をこなしていたよ。それがユナの女だって。家族の、一族の存続のために女がいるのだと、彼女は俺に誇らしげにそう言っていた。…確かに中には夫婦間、兄弟間で上手くいかない家庭もあるらしいが、ロータスは子供の頃からこの慣習で過ごしてきたし、ユナの女としての自覚があるから、幸せだって。…ただ…」
アムイは言い淀んだ。
「ただ?」
「いや…、何でもない」
アムイはそれからまた、黙ってしまった。しばし沈黙が部屋を漂う。
「とにかく、ユナ人の事はわかった。…サクヤ、続きを話してくれ」
痺れを切らしたキイがしょうがない、という風に口火を切った。
「あ、はい。…それから何とかして逃げようとしたのですが…」

サクヤは南の傭兵であるへヴン=リースの話に移っていった。
だが、アムイの心は、あの頃のロータスの哀しげな瞳に占領されていた。

《仕方がないの。それでも私は幸せなのよ。
…ユナの女は…この制度になってから、家庭を守り維持するためには、平等に夫達に愛を注がなければならないと、本能でわかっているから。
それでも中には一人の男を愛し過ぎて、家庭を崩壊した女も…知っている。そして彼女たちがどういう運命を辿っていったのかも。
私は幸せな方なのよ。……このような結婚生活でも、夫達は優しいし、二人の子供は可愛いし、夫達は皆、自分達の子として慈しんで育ててくれるし…。それに…それに…》
彼女の明るい緑色の瞳が灰色に曇り、涙が浮かんだ。
《…私は幸せなのよ。…心から愛する男だって…こうして近くにいる…》
まるで自分に言い聞かせているような切ない言葉。…自分に言い聞かせているなんて、彼女はそういう所もキイを思い出させた。

(ロータス…。何でだ?どうして君は殺されたんだ…。しかも酷い扱いで。
一体誰がそんな惨い事を…)
アムイが今、ユナの女性の事を考えているだろうなと、イェンランは気づいていた。
一体、アムイとその殺された彼女の間に、何があったというのだろうか…。
イェンランはじっと宙を睨み続けているアムイに、何故か目が離せないでいた。

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2010年10月19日 (火)

ちょっとお知らせです

更新が遅れております

このような状態のブログにご訪問くださる方々には、ほんっとうに頭が上がりません

実は先日、高熱出しまして休みが全て潰れてしまったのをきっかけに、

パソコンの調子も悪くなり、現在調整中でございます。

具合が悪くとも、動かなければならないのは、どこのお母さんも同じですが

その上に役員行事が怒涛のようにやってきて、(しかも仕事は休めませぬ)

熱は下がれども、現在、体調不良のまま日々過ごしております…。

早く調子を戻しまして、小説の続きを書きたい、今日この頃であります。

秋ドラマも観たいのが多いのに、なかなか消化できず(ぐ、ぐやじいい…)

恒例のドラマ感想ブログも更新できずじまい(苦笑)

某俳優のオタなのに、ついていくのに精一杯…。
(なのでやはり、そちらの方のブログも放置状態)

このような状況ですが、自作小説の方はのろのろと進めておりますので、

どうか見捨てないでくださいまし…(涙)

と、つい、愚痴のようになってしまい、(冒頭から暗くてスミマセン…)

本当に申し訳ございません。

当初、毎日更新が、後半からは週一の更新となり、それでも遊びに来ていただいてる方々には

本当に感謝しきれません。


実はこれからが本当の正念場で、リアルで書き下ろしの恐怖を味わっております。

話もグタグタの暗さが加速し、第11章から、かなり長く展開しそうです。
(なるべく簡潔に、を念頭においているのに…自分の限界が…)

もっと章を増やした方がよかったかもしれません。

それでも話の頭から、好きに書かかせてもらっている、というのは本当に幸せです。

こんな自己満足な実験的作品に、お付き合いしていただける方が少しでもいてくださる事が、

自分にとって、本当に信じられないし、嬉しいです。

…内容は…その、ともかく…(だらだらだらだら…


それに平行して、現在は次回作のプロットを脳内作成中。
(ただの妄想癖、ともいふ)

現代物(恋愛・ミステリー)、近未来物(ホラー)、未来物(スペースファンタジー?時空物←あっ!ネタバレ)

現在の候補はこの3つ。

ただいま、この物語と同時進行で妄想中です。


ちなみにこの物語(宵と暁さん)のスピンオフ、と最終続編も書く予定です。
(懲りないですねぇ。いつになったら、終わるのでしょうか…


頭の中の妄想…それらを現実に形にしていく作業の、なんという大変な事か。


小説を書かれている方々には本当に尊敬の念を感じます。


初めて自分で小説なるものを書いてみて、身に染みました…。

それでも書きたい物がある限り、精進しないと、と思っています。

なかなか上達しませんが。

読んでくださる方、こんな話にお付き合いくださる方、

本当に本当にありがとうございます!


…次回の更新…今しばらく、お待ちください…。

それから、このココログですと、なかなか設定をあげるに限界を感じております。
裏話、設定書、…を、もうひとつ違う場所での作成を考えています。
そのときは必ずお知らせいたします。

という事情で、更新が少し遅れます。

どうかよろしくお願いいたします。

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2010年10月 8日 (金)

暁の明星 宵の流星 #116

すでに日は沈み、秋の到来を告げる虫の音が寺の庭に響き渡る頃。
「遅いわねー。二人ともどうしちゃったのかしら。…もう夕飯終わっちゃうわよ」
シータがぼそっと呟いた。
長いテーブルに向かい合って、シータとイェンランが夕食を取っていた。
「…何かあったのかな…。一応、馬で行ったのよね?
まさか…敵に見つかったなんて…」
不安げに言うイェンランの頭上から、低い声がした。
「もしそうだとしても、あの二人なら大丈夫だろう」
イェンランはびくっとして声の方を振り仰いだ。
食事を終え、盆を片手に持ったキイとばちっと目が合う。
イェンランは口の中が乾いて、懸命に唾を飲み込もうとするが、上手くいかない。
「そうでしょうけど、ちょっと遅すぎない?アタシ、様子見てこようかしら」
そう言うと、シータは最後のおかずを口に放り込み、急いでお茶を啜ると、慌てて立ち上がった。
「おいおい、シータ。お前らしくねぇな。かえって下手な動きしない方がいいんじゃねぇの?」
「そうなんだけど…。何か、ね、胸騒ぎがするの。アンタはどうよ?何か感じない?」
キイはちらりとイェンランの方を見た。その仕草に、シータはあ!という顔をした。
「…俺はアムイ達を信じてるさ。きっともうすぐ戻ってくる」
「そ、そうよね。アタシったら、本当にらしくないわね」
シータはにっこりと笑顔を作ると、食器を片付け始めた。
心配そうに曇るイェンランの顔を、シータは覗き込みながら、
「じゃ、アタシ、先にあがるわね。ちょっと調べ物してくるわ。
…お嬢、そんな顔しないで。キイの言うとおり、アイツらなら大丈夫でしょ」
と言って、彼女の頭を指で小突いた。
「そうよね。…きっともうすぐ帰ってくるよね」
「そうそう。だって今までだって、何かあってもケロッとしてたじゃない、いつも。
いやぁねー、アタシも歳かしら。最近心配症みたいで」
「やっと認めたじゃん。歳」
からかう様なキイの科白に、シータはキッと本人を睨みつけた。
「うわ、怖」
小声で言いながら舌を出すキイに、シータはため息をついた。
「とにかく、先に行くわ。お嬢も変に考え込まない!じゃね」
彼はひらひらと手を振ると、盆を片付けるために、その場をさっさと立ち去ってしまった。
(ええ?行っちゃうの!?)
あっけなく去ってしまったシータに、イェンランは慌てた。
何せ、キイと二人きりでこの場に取り残されたのだ。
気まずい空気が、彼女の周囲に漂った。だが、それはイェンランだけのようだ。
一方のキイは、目を細め、シータの後姿をただ無言で見送っていた。ああしてシータをからかってはいたが、彼がこの後、こっそりとアムイ達の様子を窺いに行くであろう事はわかっていた。
シータに言われなくても、確かにキイも胸騒ぎ覚えていた。
だが、むやみやたらにそれを表に出して、いたずらにイェンランを不安がらせていい筈がない。
ふと気がつくと、居心地が悪そうな小さな背中に気がついた。
キイはふ、と笑うとこう言った。
「なぁ、お嬢ちゃん。この後何もなかったら、俺とちょっと散歩しねぇ?」
突然の申し出に、イェンランは心臓が口から出そうなほどに動揺した。
そのガチガチの様子に、キイは苦笑した。
「……今夜は珍しく…月が出てるし。これから月見と洒落こもう」
キイは彼女の返事を待たずに、そう言いながらウィンクすると、盆を片付けに立ち去ってしまった。
イェンランは固まったまま、じっとキイが去った方向を見ていた。
胸が早鐘のように鳴っている。
でも、彼女とていつまでも逃げているわけにはいかないのは分かっている。
イェンランは唾をごくりと飲み込むと、覚悟を決めたように大きな深呼吸をした。

外に出ると、爽やかな風が心地よく吹いていた。夏が短い北の国は、秋が来るのが早い。かなり気候も涼しくなって、過ごしやすくなっている。
なるほど。キイの言っていたとおり、今夜は珍しく綺麗な月が闇夜に浮かんでいた。
もうすぐ満月になるであろう、中途半端な丸さの月は、黄金色に輝き、寺院の風情ある庭を幻想的に照らしている。
この場がまるで、別世界のようだった。
軽やかな虫の音が、耳に心地よく響く。
このように癒される空間にいる筈なのに、イェンランの心はかなり落ち着かなかった。
それは、この美しい景色の中に見事に溶け込んでいる、目の前の男のせいなのは、考えようもない事実だ。
どうしたらいいか躊躇していたイェンランに、前を歩いていたキイが、立ち止まり、ゆっくりと彼女の方を振り向いた。
イェンランは身体が緊張で強張るのを感じた。
キイは彼女のその様子を分かっていて、この世のものとも思えないほどの優しい、甘い声で話しかけた。
「俺のこと、怖い?」
イェンランは目を見開いた。
「…お嬢ちゃんとこうやって話すの、三年ぶりだよな。まさか、こうしてまた会えるとは思ってなかった」
「…」
“私も”と言いたいのに、どうしても言葉が出てこない。
「アムイ達から、君の事は聞いた。嬉しかったよ、俺」

あの、夢にまでも見た、慈愛に満ちた眼差し。そしてほのかに香る花の香り。
イェンランの胸は潰れそうだった。
ずっと。ずっと彼に会いたいたがめに、ここまで来た。
女として生まれたことを呪いながらも、男に嫌悪感を持ちながらも、恐ろしい目にあっても。
ただ、この瞳を再び見たいために、この優しい声をまた聞きたいために…。
イェンランはこの時、はっきりと悟った。
自分はずっと、彼に逢いたかったのだ。
彼の存在を近くに感じたかった。
こうして再会して、彼女ははっきりと自覚した。
……自分はこの男を純粋に求めている…。

初めて会った時に感じていた、この心の疼きは、やはり、恋だったのだ。

これは幻想だと、子供の時に感じた淡い気持ちと、イェンランはずっと思ってきた。
なぜならば、男に欲望の対象にされ続け、生々しい男という生き物に嫌悪を感じていた自分には、理解しづらい感情だったからだ。
だから自分が女という生き物である事を意識したくもなかったし、肉としての欲望は、男のものだけと思っていたくらいだ。
それでも頭の片隅で、これでいいのか、という不安もあった。女と生まれたからには、いつかは子供を授かってみたい。でも、それをするには、男と交わらなければならない。だから、その行為自体嫌な自分には、無理かもしれないという絶望感さえあった。
桜花楼(おうかろう)で、意に沿わずに男を相手していた日々は、本当に地獄のようでもあった。
…あの時のキイの《生きろ》という言葉と、虹の玉がなければ、きっと耐えられなかった。
「俺はお嬢ちゃんに謝らなければならない」
美しい顔を曇らせて、いきなりキイは言った。
その顔を呆然と眺めながら、イェンランはぼんやりと思っていた。
自分は彼に会って、確認したかったのだ。自分がこのような状態で、キイに会って自分がどう感じるのか、確かめたかった。この燻る様な感情が何なのかを。

私はこの男に身も心も惹かれている。

再会して消えてしまうような幻の感情ではなかった。いや、益々彼の存在が、はっきりと色濃く自分の中で大きくなっている。
イェンランは、生まれて初めて、女が男を求める気持ちがわかったような気がした。
これもまた、皆が言ってるような、キイの持つフェロモンのせいなのかもしれないが。

「……君に結果的には酷な事を言ってしまったのかも知れないね」
キイの言葉が急に耳に入ってきて、イェンランは我に返った。
「え?今、なんて言ったの?」
かすれた声が、彼女の喉から出た。
キイは微笑んだ。だが、瞳は哀しげだった。
それがイェンランの心にひっかかり、彼女は不思議そうに小首をかしげた。
その仕草があまりにも愛らしくて、キイは思わずほのぼのとする。
初めて出会った時は、まだ幼さの残る、小さな女の子、という感じだった。
当時15歳と聞いたけれど、元々彼女は小柄だったから、尚更そう思ったのかもしれない。
今はあれから背も伸び、身体つきも大人びた。だが、時折見せる仕草や表情には、まだあどけなさが残る。
キイは、当時の彼女の、涙に濡れたきらきらする瞳を思い出していた。
「…だからね」
あの、宵闇のような深い声で、キイは改まって言い直した。
「俺は…今考えると、君に酷な選択を押し付けてしまったのではないか、と、後悔しているんだ」
「酷…?」
きょとん、としてイェンランはキイを見上げた。
自分よりもずっと背が高い。だけど、威圧感を感じないのは、キイの柔らかで穏やかな物腰と風情のお陰だろう。
「……。君自身の事をよくも知りもしないで、簡単に“どんな事をしても生き延びろ”と」
彼女の目が益々大きく見開かれた。

《生きろ、お嬢ちゃん。
どんな事をしてでも生き延びろ。
それが今現在、自分の意に沿わない場所だとしても。
厳しくても、苦しくても、生きていればきっと希望は見えてくる。
この世に生まれて、意味のない人間なんていない》

自分が生きよう、と決意した、あの時の言葉が甦った。

「え…?どうして…」
「アムイやシータから聞いたよ。お嬢ちゃんの…心の闇。
俺は結果的に、君に一番心に傷をつけてしまう結果を…」
「キイ!」
「ごめんな、お嬢ちゃん。あの時は、君が生き延びるにはこれしか方法がないと思っていたんだ。
どんな事をしてても生きろ…なんて奇麗事を言って、無理やり君を桜花楼に返してしまった。
…それは意に沿わない相手に身体を差し出せって…言っていると同じなのに。
…辛かっただろう?君の気持ちを考えると……本当に…申し訳ない…」
キイは頭を下げた。イェンランは彼のその態度に慌てた。
「待って!あの時はそれ以外、選択肢はなかったんだもの!
キイに会わなければ…桜花楼に戻らなければ、私は本当にあそこで野垂れ死んでた。
私、キイがそんな事で後悔して欲しくない。
辛くなかった、と言えば嘘だけど、私は後悔してないもの。
…それがなければ、きっと私は今、こうなっていない…」
それは正直な気持ちだった。
キイにそう言われ、一度逃げ出した桜花楼に戻り、その世界が恐れと嫌悪の毎日だったとしても。
初めて男に触れられたときの恐怖。痛み、気色悪さ。何度逃げ出そうと思った事か。
地獄だと思えば、本当にそうだった。
だが、それでキイを悪く思った事も、憎んだ事もなかった。辛い日々だったけど、色々な人間との出会いだってあった。桜花の女の中でも、最高級と呼ばれる女性たちの芯の強さ、美しさも目の当たりできた。特に、桜花楼に行かなければ、当時妹のように可愛がってくれたヒヲリ姐さんとも出会えなかった。
今思えば、苦しみ以上に、桜花楼は自分にとって修行の場だったのかもしれない。
それよりも自分は、キイが自分のためと言いながら虹の玉を渡したのは、結局はアムイのためだった、という事の方がショックだっだ。
虹の玉が、キイが求めていた本当の人間は…アムイ。自分はもしかしたら利用されただけではないかと。
でもそれも、アムイ達と旅をし、アムイの事情がわかってくるにつれて、それでよかった、と最近思い始めていた。
それは、最初会った時よりも、本当はアムイがいい奴だと徐々にわかってきた事も大きかった。
というよりも、今では身内のように彼に親しみを感じているほどだ。
だから、キイとアムイがようやく再会できたのにも、自分の事のように嬉しかった。
…二人の間には、他人が入り込めない、深い絆がある…。
それはイェンラン自身、どうあがいても崩せないものである事は、よくわかっていた。

「それから、もうひとつ」
キイが人差し指を立てて、ちょっとすまなそうな顔で言った。
「…結局は、君を利用した…。どうしても俺は、虹の玉を外に出さなければならなかった。
お守り…という気持ちには嘘はないけど、君が…玉を持っていてくれれば、いつかアムイを呼んでくれると。
だから、君を励ますような事を言いながら、本当はそれが目的だった。だけど、別に君を騙そうとかそんな事は思ってなくて」
「キイ…!」
「いや、言い訳かもしれないが、あの状況ではそれしか方法なくて…」
「いいの!もう、いいの……って、そんな…利用したとか、そんな風に罪悪感持つなんて、誰かから私の事、何か聞いたんでしょ?」
キイは言葉に詰まった。その顔で、すぐにわかってしまった。
「…シータでしょ。まったく、おしゃべりなんだから!」
気恥ずかしさも手伝って、イェンランは思わず赤くなって、頬を膨らませた。
「いや、かえってすまない。…でも、な、お嬢ちゃん。シータの奴、おせっかいだけど、本当に情が深いイイ奴なんだ。お嬢ちゃんの事、本当の妹みたいに思ってるみたいなんだよ。責めないでやってくれ」
ちょっと気まずそうにキイは弁明した。
それが、主人に許しを請う犬のような顔だったので、思わず彼女の心の中に笑いが込み上げて来た。
そのお陰なのか、イェンランはキイへの緊張感が溶け出していくのを感じていた。
「そんな顔しないで。私だってシータの事、よくわかってるもん。 
ねぇ、キイ。犬猿の仲って言われてるけど、本当は仲良しなんでしょ?シータと」
打ち解けたような柔らかな表情をやっと見られて、キイは内心ほっとした。
「仲良し?まさか!そんな事はないね。…犬猿の仲は本当だもん、俺ら」
キイはわざと悪ぶって答えた。それがまるで10代の少年が粋がっているようで、イェンランは可笑しくて吹き出した。
「何だよ、笑わなくてもいいじゃないか」
ふてくされたような顔で口を尖らすキイは、本当に、東に名を馳せるあの【宵の流星】とは信じられない。
「キイって私よりもうんと大人なのに、こうしてると子供みたい」
「随分だなーお嬢ちゃん」
キイは目尻を下げて笑った。

ああ、あの最初に見た、優しい笑顔。笑うとちょっと垂れ目になって、大人の男の人なのに、ほんっとうに可愛い…。
って!!

思わず見とれていたのに気がついたイェンランは、慌てて気持ちを正そうと懸命になった。
こんな気持ちは、初めてだった。こんな風に一人の男に翻弄される自分が信じられない。
ドキドキと高鳴る胸を気にしないようにと、イェンランは一生懸命、平静を保とうとする。なのに…。
「ああ、よかった。お嬢ちゃんの笑った顔が見れて」
ところがキイは嬉しそうに言いながら、心底、安堵した無防備な笑顔を見せた。
イェンランのせっかくの懸命な努力もどこかに消えてしまう。
…そんな事言われたら、せっかくのポーカーフェイスが無駄になっちゃうじゃないの!!
思わず身体の力が抜けそうになる自分に舌打ちする。
ああ、これって…。
今までどれだけの男と女が、彼に心を奪われてきたのか。イェンランは身を持って知る事になったのである。
「それでね、お嬢ちゃん」
突然キイは真剣な眼差しで彼女を見つめた。
イェンランの胸がどきりとする。
「アムイから話がいってると思うけど…。
今後の事について、ちょっとお嬢ちゃんと話したいんだ」

そうだった…。
目の前のキイに舞い上がっていて、大事な事を忘れていた。
これからの自分をどうするか。
アムイも、キイも…シータだってサクヤだって、はっきり言わないにしろ(アムイには直接言われけど)、気にしてくれているのはよくわかっていた。
イェンランだって馬鹿ではない。今までアムイ達と、ただ何も考えずに同行していたわけでもない。
…ただ、現実に向き合う勇気が、少し足りなかっただけ。
「お嬢ちゃん、君もこの現状をわかっていると思うんだけど、これからどんな事が起こるかわからない。…俺がいる限り」
「キイ…」
「お嬢ちゃんが、追いかけてきてくれて、ほんっとうに嬉しい。だけど…」
苦悶の顔で、キイはイェンランに言った。
「危険よね…。わかってるわ、キイ」
イェンランは俯いた。
自分が、もっと強かったら。
そうしたらキイの、皆の足手まといになんかならないのに。
「昂じいいちゃんが戻ったら、君の身の振り方を相談しようと思っている。…それで、いい?」
イェンランは返事ができなかった。
予想はしていた。
キイがセドの王子と世間に広まり、益々大勢から狙われている状況を知った時から。
アムイが刺客に命を狙われているという事を知った時から。
こういう風に言われる事は覚悟していたのだ。だけど…。
「キイ…わ、私…」
イェンランはやっとの思いで、口を開いた。

と、その時、庭がやけに騒がしくなった。
「…何だ?」
数人という人間の声や足音ではない、数十人という団体の足音、声、馬の蹄。
それでも団体は声を落としているのか、闇夜を引き裂くほどの大騒ぎではなかったが、とにかく大勢の人間が、この寺院の裏庭にやってきたのは確かだ。
キイとイェンランは緊張し、その方向を警戒した。
「キイ!キイ!」
シータの抑えた声が、庭から外に続く裏門から聞こえてくる。
二人は嫌な予感がして、互いに顔を見合わせた。
「どうしたんだ?シータ!これは一体…」
シータの方へ向かいながら、目を凝らしたキイは、現れた数名の人影を見て、ぎょっとした。
「アムイ!」
その声にイェンランも慌ててキイの後を追った。
裏門の近くでは、団体の騎馬隊が待機していた。そこから数名、人影が庭に入って来る。
月の明かりに照らされて、その人間達がぼんやりと見える。その中の一人の姿を見て、イェンランは驚いた。
「アムイ!どうしたの、その頭!」
アムイは額を布でぐるぐるに巻かれ、所々血糊が飛散していた。
「たいした事ない」
「…って…。そんな風に私には見えないわよ…。それ」
イェンランは身震いした。これって、かなり出血があったんではなかろうか。それでもアムイ達クラスの武人には、こういう怪我は日常茶飯事なのか。だとしたら、確かに余計な心配かもしれないけど…。
「……オレのせいで…」
「まだそんな馬鹿な事言ってると、殴るぞ」
サクヤの言葉に、アムイは冷たく言い放った。
二人の間にある、ピリピリとした空気に不穏なものを感じて、イェンランは眉をしかめた。
「…しかし途中で月が現れた時には、焦ったわい。まぁ、かなり相手を引き離していたから、大丈夫だと思うがの」
「そうですね。闇夜の方が相手に見られなくていいですが…。でも、月明かりのおかげで迷わずここに着きましたから」
アムイの後ろにいる、大小の人影を見て、益々彼女は驚いた。
「お爺さん!それに…まさか…リシュオン王子!?」
「イェンラン!」
リシュオンの青い瞳がぱぁっと輝く。そして心底ほっとした顔になった。
その様子を傍から見ていたシータは、軽く咳払いすると、皆に言った。
「とにかく皆さん、中に入りましょうよ。
…西の方々は、馬を隠す場所をお教えしますから、その後、指示する部屋で待機していてください。
さ、老師も王子も、早くこちらに…」
彼の指示にりシュオンは頷くと、一番の従者にそのように指示をした。
その後、すぐさまアムイ達は屋敷に入り、応接間に一同集まった。

「アムイ、傷を見せろ」
部屋に入るなり、キイはアムイの顔を両手で挟んで自分の方に引き寄せた。
「だからたいした事は…」
「とにかく見せろ」
有無を言わせない迫力でキイは言うと、おもむろに傷を縛っていた布を取り始めた。
「……出血の割には…傷は浅いな」
「だから言ったろうって、大丈夫だよ」
現れた傷を丁寧に診るキイに、アムイはぞんざいに言った。
「これ、誰にやられたよ」
キイの目がきつくなった。
「……」
「アムイ?」
その様子に、サクヤはとても居た堪れなかった。震える声でアムイの代わりに言う。
「…オレのために…兄貴、オレを庇って受けた傷なんです!オレのせいで…、オレが力不足で…」
「サクヤ!」
毅然としてアムイはサクヤの言葉を遮った。
「兄貴…」
「言ったろう?これ以上言ったら殴ると」
「おい、アムイ…」
キイはアムイの剣幕に唖然とした。
「……」
サクヤは下を向き、きゅっと唇を噛み締めると、静かに近くの床に腰を下ろした。
キイは溜息をついた。一体、何があったんだ。
「とにかく、手当てさせろ。…さすがに上手く避けたせいで、この程度ですんでるなぁ。
これなら、傷跡も目立たないように塞がるぞ」
そう言うと、キイはアムイの額に右手を置いた。ポゥッと淡い光がアムイの額を包む。
イェンランは、初めて出会った時、キイが痛む足を手当てしてくれた時を思い出していた。
不思議な癒しの力。【宵の流星】が神秘的なのは、この力のせいもあるかもしれない。
みるみる傷口が塞ぎ、綺麗になっていくのを、周囲の人間は息を呑んで見守っていた。
特にりシュオン王子は、お驚きの眼(まなこ)で興味深く二人を凝視している。
「これで、いいだろ?」
「すまない、キイ」
アムイはほうっと溜息をついた。
「とにかく一体何があったんだよ。説明してくれ…、と」
その時、やっとキイは、自分たちをじっと見つめる複数の眼差しに気がついた。
「これはこれは…。挨拶もしねぇで…」
キイは気まずそうに周囲を見渡しながら頭をかいた。
「本当にお主はアムイの事となると、他の事に目がいかぬのう」
呆れた様子で昂老人(こうろうじん)はキイに言った。
「とりあえず、何がどうしたのか、順を追って話してくれます?皆さん。
とにかくそこら辺に座って」
人数分のお茶を、イェンランと共に運んできたシータが皆を促し、各々それに従った。
アムイ、キイはその場に胡坐をかき、昂老人とリシュオンは近くにあった座椅子に腰を下ろした。そのリシュオンの後方に、彼の従者二人が床に正座する。サクヤは先ほどから、皆から少し離れた所に、静かに膝を抱えていた。
それぞれにお茶を配り終えたシータとイェンランは、サクヤの近くに腰を下ろした。何だかさっきから、アムイとサクヤの二人の空気がおかしい。何となく二人は、落ち込んでいるサクヤの傍にいたかったのだ。
「それでは…アムイ達から説明してもらおうかの。
リシュオン様と共に、北の王宮からここに戻る途中、まさか主(ぬし)たちと遭遇するとは思わなんだ。
しかも何人にも追われて、危ないところじゃったぞ。
あやつらは何者じゃ。かなりの腕前と見る。しかも随分殺気立ってたじゃないか」
「奴らは…」
アムイとサクヤは皆に、町で何があったかを、互いに説明し始めた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「待たせたな、姫胡蝶」
先程まで、南の兵士とユナ族の人間達と相見(あいまみ)えていた、東の荒波州(あらなみしゅう)提督アベルは、その場から少し離れた所で待たせていた馬車に、そう言いながら乗り込んだ。
「どうだ?何か見えたか」
アベルは【姫胡蝶】…カァラの返事を待たずにいきなり本題に入った。
まったく情緒がない男よ、とカァラは思った。今宵は滅多に顔を出さない月が、輝きを放っているというのに。彼は小さく溜息をついた。
「そうだね…。暁の血の波動が、はっきりと残ってる。…すぐに彼らの居場所、わかるよ」
「そうか」
アベルは嬉しそうに笑った。
「でも、安心しちゃ駄目だよ。…鼻が利くのは俺だけじゃないようだ」
カァラの言葉に、アベルは片眉を跳ね上げた。
「いや、俺の場合は目が利く、だけどね」
カァラはくすっと笑った。
「どういう事だい?」
「…一人、気術使いの将校がいただろう?あいつはかなりの使い手だよ。
暁の“金環の気”の特徴を、もう嗅ぎ分けられる。そのうち奴も彼らの居場所を突き止めるだろうね」
「南の…気術将校、ミカエル少将か。確かにかなりの逸材だな。
…あの王者の“気”、“金環”の持ち主をことごとく葬ってきた、兵(つわもの)か…。
お前の父親と同じくらいのレベル?」
「方向性が違う。彼は“鉱石の気”を自在に操れるほどの力量がある。
だが父は他人(ひと)の第九位以上の“気”を取り込み糧にし、それを操る。
本人は一応、“気”の習得はしていたようだけど、ほとんどが他人(ひと)様の“気”だからなぁ。
生粋の気術士と、吸気士はまったく別だよ、アベル」
カァラの瞳が意地悪く輝いた。
「…ま、そういう事なら、ミカエル少将よりも早く宵の君を手に入れなければな…。協力してくれるだろ?カァラ」
アベルの言葉に、カァラはちょっと小首を傾げた。
「カァラ?」
「ねぇ、アベル。彼らの居場所は教えるけど、まず、手始めに俺一人で宵の君に会ってみたい。
……色々、彼と話したい事があるんだ。宵を手に入れるのはその後でもいい?」
アベルは何か言いたそうな顔で、カァラを見た。だが、ニヤッと笑うと、こう返事した。
「…いいよ。何か思うところがあるんだろう?
お前が【宵の流星】の素性を大々的に公表した事にも驚いたが、何か特別な感情を彼らに持っているように思える。
まぁ、そのお陰で俺達は知り合ったわけだしな。
…本心はかなり妬けるんだが、俺を裏切らないと約束してくれるなら…お前の好きにしていい」
カァラは喜び満面の顔で、目の前のアベルに抱きついた。
「ありがと!アベル。そういうアベルが大好きだ。……いつか、アベルが大陸を手に入れたいと言うのなら、俺、力になるからね」
アベルはカァラを膝に抱えると、柔らかな髪に口付けた。
「まったく…。冷淡でまかり通っているこの俺が、お前には敵わないとは。惚れた弱みとはこういうものか」
カァラは喉の奥で、猫のように喉を鳴らした。
「で、どの方向に行けばいい?もう見えてるんだろう?」
アベルはカァラの顔を覗き込んだ。
「…このこと、ユナの人達には教えなくていいの?」
カァラは目線を外に向けた。馬車の窓から、満月になり損なっている黄色い月がほのかに見える。
漏れる月明かりに照らされたカァラの美しい顔に、アベルは感嘆の溜息を漏らした。
そこら辺の女よりも、いや、選りすぐりの女が集められた桜花楼の頂点、【夜桜】(※最高級娼婦)よりも、男であるカァラの方が艶やかで美しい、と思う。…言葉使いは男のままであるが。だがそれがかえって、どちらかというと男の方が好きなアベルのツボにはまった。
アベルは彼の濡れた唇をぺろりと舌で舐めると、真面目な顔でこう言った。
「彼らの目的は【暁の明星】さ。…彼らがどうしても暁を殺りたいと言ってきたんだ…。
【宵の流星】あるところ、必ず相方の暁は傍にいる筈。
なるほど、確かに今の宵は暁の手に戻った。その邪魔な暁を彼らが消してくれるのなら、助かるじゃないか。
ま、我々と利害が一致した、っていう所だが、さっきのように大騒ぎになっても今は困る。
彼らだって南の少将殿と一緒で鼻くらい利くだろうよ。その証拠に俺と接見した後、早々とここから立ち去っていったぞ」
カァラはふぅん、と鼻を鳴らした。
「…東の国の中で、特に閉鎖的なユナ人…か」
「何か見たのか?」
「…そんな都合よく何でも見えるわけじゃないよ。いちいち色んなことで力を使っていたら疲れる。
…波動を合わせるのだって結構大変なんだ。
でも…」
「ん?」
「いや、何でもない」
カァラはにっこり笑って、アベルに軽くキスをした。
…閉鎖的なユナの一族…。
何か胡散臭い。彼らが何か大事なことを隠しているような気がしてならない。だけど。
本来、傍観者の立場でいたいカァラは、あえてこれ以上、彼らの事情に首を突っ込むのも面倒だった。
まぁ、元々【暁の明星】がいそうな場所まで連れて行く、という約束だけだ。それも叶えた形になったのだから、ユナ人も文句はないだろう。
「ま、そのうち暁が邪魔になった時には、彼らに奴をくれてやればいい。
…同じ東の国民(くにたみ)だ。喜んで我らの味方になってくれるだろうよ」
アベルは、カァラの瞳を覗き込み、続けてこう言った。

「で、愛しの【姫胡蝶】。どちらの方向に馬車を向かわせればいいのかい?指示してくれ」


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2010年10月 2日 (土)

暁の明星 宵の流星 #115

「別にキイに惚れていた訳じゃねぇよ。宵を異常に崇拝していたのはヒックだろ。
俺は奴に頼まれて一緒につるんでただけだ。…ヒックの奴、よほど腕に自信がなかったと見える」
ヘヴンは喉元でくっくっと笑った。
「俺はどちらかというと、お前の方に興味あったけどなぁ。
いつも無表情で何を考えてるのかわからない。
キイ以外の人間には興味ないし、わざと遠ざけている。
聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)にいたあの頃が一番酷かったよな。
この俺がお前にあんなに傷をつけてやっても、泣くどころか怒りもしねぇ。
いつも冷めた目をしやがってよ。…それに比べりゃ随分と人間らしくなってきたじゃないか」
ヘヴンは今まで見たこともない、アムイのぎらぎらと燃える目に釘付けになった。胸が異常なまでに高揚してくる。
ああ!あの綺麗な顔をもっと崩してみたい!
いつも取り澄ましていたこいつの、怒り、叫び、取り乱して苦痛に歪み、泣き濡れ、俺に許しを請う…そんな顔が見たい。
何度、その姿を想像し、夢にまで見た事だろうか。
まるで目の前に、追い求めていた獲物がやっと現れた獣のような目つきで、ヘヴンはアムイを眺めた。赤い舌がちろりと上唇をなぞる。その仕草にアムイはぞっとした。

「何だよ、知り合いか?」
ミカエル少将がヘヴンに声をかけた。
「いやいや、知り合いも何も、なぁ?アムイ」
その言葉に、アムイは露骨に嫌な顔をした。ヘヴンはぞくぞくした。
「いいねぇ。10年経てばこういう顔もできるんだ。…やはりキイ様の努力の賜物って感じか」
「……」
「麗しの宵様は、昔からお前を何とか並の人間にしようと、それはもう、傍から見ていても涙ぐましい努力をされてたからなぁ。
なるべく自分のお仲間と接するようにお膳立てしたり、なるべく会話に入らせようとしたりね。
だが、聖天風来寺を途中で追い出されちまったから、お前が普通の人間に成長していたのは知らなかったぜ。
あの頃のお前、本当に感情のない人形のようだったから」
神経を逆なでするような、からかった言い方だった。
「…反論はしない…。だが、それがどうした」
アムイは言いにくそうに呟いた。できれば昔の自分を思い出したくない。
生きているのに、まるでずっと霧の中にいたような感覚。夜、目を閉じるとあの日の悪夢が襲ってくる。恐ろしくて眠れない。だからこそ隣にキイがいなければ、きっと耐えられなかった。その反動で、昼間の自分は他人の存在を考えたくなかったのだ。
幼い自分を守るために、記憶を箱に閉じ込め、封印していたとしても、恐怖の感情だけは完全に封印できたわけではなかった。
月の異名を持つ母を亡くしてから、アムイは夜、怯えるようになってしまった。
一体自分は何に怯えていたのか、まったく思い出せないのだ。だが、とにかくキイの存在が自分にとって救いだった。
キイが共にいてくれたことで、徐々に自分を取り戻す事ができた。完全とまではいかなくても。
夜の恐怖が、キイのお陰で薄らいでいくと同時に、昼間の自分も人間らしさを取り戻していった。
ただ、それは肝心の闇の箱を抱えたままであったから、完全に立ち直っていたわけではなかったけれど。
表面は普通に人として感情を出し、会話し、行動できるようになったが、心の奥底では他人を異常に拒否する人間になってしまっていた。キイ以外の人間を、決して自分の懐に入らせない。そう、この間までは…。

アムイはヘヴンを睨み続けながらも、サクヤを拘束していた紐を剣で切った。
両手が自由になったサクヤは、躊躇なく自らシャツの袖を引き破り、歯で端を噛んで裂くと、アムイの額の傷を抑えるように頭にぎゅっと巻き締めた。そのスムーズな二人の動作に、ヘヴンは興味深そうに言った。
「ふぅん。お前ら随分と仲良しさんなんだな。妬けちゃうねぇ」
アムイはその言葉に凍りつく。なんだかとっても嫌な予感がするは自分の思い過ごしだろうか。
自分の知っているヘヴン=リースは、とにかく同期の中でも一番残忍で、血を見て興奮を覚える男だった。
当時、キイの崇拝者達に幾度となく自分は狙われ、襲われた。
その度にアムイは、彼にナイフで傷をつけられた。
人と関わりたくなかったアムイは、最初のうちはされるがままだったが、執拗なまでの攻撃に、やっと腰を上げ、何の感情もなく相手をやっつける、というパターンだった。だから当時は生傷が絶えなくて、どれだけキイは神経をすり減らした事であろうか。それに耐え切れなくなったキイが爆発するまで、アムイは彼らに執拗に苛められていたのだ。
その後、ヘヴンは同期でもかなりの使い手だった相手を非公式に手合わせをし、半殺し状態にしたために、聖天風来寺でも余程のことがないと実行されないという、破門を突きつけられた。破門後のヘヴンの行方は知らない。だが、この風貌ならば、彼がその後、堅気な道を歩いていたとは到底思えない。ただ現在は、ミカエルとの会話で明かされたとおり、ヘヴンが南の国の傭兵をしているというのは事実だ。
ヘヴン=リースという男は、今でもアムイにとって、できれば会いたくない人間の一人だった。

「いい時に再会できて嬉しいってことよ、暁。お前の名が世に広まるにつれて、俺様の胸は切ないほど掻き毟られたなぁ」
ヘヴンは持っていた鎌を器用に腰に括り付けると、両手で懐から数十個ものの細身のナイフを取り出し、カードのように広げて見せた。
「途中で破門されちまった俺には気術は習得できなかったが、その代わりいろんな武器を使いこなせる。例えば」
ヘヴンは片手で多数のナイフを掲げると、いきなり見事な手さばきで、アムイ達めがけて投げつけた。
「特にこういう飛び道具にね」
アムイとサクヤは咄嗟に身を翻すと、ナイフを上手くかわす。
間髪いれずにもう片方の手からナイフが放たれる。二人は向かってくる凶器を、全て剣で払い落とした。
「やるじゃん」
ヘヴンは笑った。「そうこなくちゃ、叩き甲斐がないっていうもんさ!」
彼は再び鎌を出すと、嬉々としてアムイ達に飛び掛っていった。

「結局は自分が手を出したかっただけか」
傍から眺めていたミカエルは、呆れたように呟いた。
こうなりゃ傭兵のヘヴンに任せてもいいが、奴は筋金入りのサディストだ。
大事な要人を滅茶苦茶にされては困る。ま、しばらく見物して後から制止すればいいか。
ミカエル少将は腕を組み、アムイ達の様子を眺めることにした。

突然現れた伏兵に、唖然としたのはガラム達だった。
完全に横から餌を奪われた獣のような気分だ。
これからどうするか、再び参戦するか、思い巡らしているレツに、セツカがガラムを伴いながらやってきた。
「レツ、どうします?私は別に貴方の行動を咎める気も、邪魔をする気もありません。
ですが私としては、宵の君にお会いできるまでは、暁に手を出さない所存です。
彼が犯人かどうかは、今の時点でははっきりしていない。
ならば、私はロータスの仇とは思うことより、宵の君への足掛かりとしてアムイに接しますから」
「セツカ!」
淡々と言うセツカに、思わずガラムは声をあげる。
「ジース・ガラム。冷静におなりなさい。私は今でも、確証のない仇討ちには賛成していないのですよ。
それは貴方の父君である長のお気持ちと同じです」
ガラムは不服そうに口を歪めた。
「しかし、我らの目的のひとつが、宵の君に会う事だということは、他国には知られてはまずいだろうな。
今や東の国では、あのセド王国の最後の王子という事実で、宵の君の事がどこもかしこも大騒ぎだ。
どのくらいの権力者が、彼を狙っているかははっきり言って予測できん。
慎重に行動し、【暁の明星】の方に用があると思わせた方がいい」
レツの抑揚のない声を、セツカは何か感じ取りながら聞いていた。
「…よそ者のアムイ以外、姉さんを殺すわけないじゃないか…。ユナの民は、あんな残酷なことしないよ…。 
あの状況からどう考えても、奴しかいないじゃん。アムイじゃなきゃ誰が殺したんだ…。
セツカは身内がやったとでも思ってるの?一族の人間を疑うの?」
最後はほぼ泣きそうな声だった。セツカは俯くがラムを複雑な思いで見つめると、優しく頭に手を置いた。
「ジース。私も長も、貴方が個人的な感情より、もっと客観的に、冷静に物事を見る人間であって欲しい、と思っているだけですよ」
セツカは自分が仕える長、ガラムの父でもあるダンの気持ちを考えると、それ以上言えなかった。
ガラムが異母兄である他の二人の長候補と、長の座を争う時まで三年ある。
ユナは実力主義でもある。彼らを統べる頂点に立つリーダーも、全て兼ね備える人間でなければならないのだ。現在の長の血筋から、次の長が決まるわけだが、年齢序列で選ばれないところは、東の要だったセド王国と一緒であった。ただ、ユナの方は長の意向よりも、もっと客観的に選ばれるため、末の候補者が18歳になった時に、あらゆる事で候補者を競わせ、各有力者が審議して決める、という完全に実力で選ばれるシステムだった。だから長には次の長を誰にするか選べる権利がほとんどないだけあって、この末に生まれたガラムに期待を寄せている長のダンは、陰ながら息子の成長を見守るしかなかった。…もちろんダンは、前妻との間に生まれた息子も可愛い。が、後妻が産んだガラムは、中身が自分によく似ていた。しかも外見が寵愛する後妻に似ている事もあり、ダンは贔屓目だとわかっていても、できれば彼に跡をついで欲しかった。それは他の人間の手前、表には出さない分、側近であるセツカには、痛いほどわかっていた。だから、ついガラムに自覚を持って欲しくて、セツカは口煩くなってしまうのだ。
今回の件は、全てがあの、キイ=ルファイ・【宵の流星】が、セドナダ家の王子である、と東全土に公表された事がきっかけだった。
ガラムはロータスの事件当時、何度もアムイを追いかけようとして、引き止められてきた。それでも彼は、成人を迎えてから、それを理由にアムイを捜すためにユナを出る事を懇願していた。だが、仇討ちなどの理由で、長の許可が下りるわけがない。
その中でのセンセーショナルなセド王家の生き残りの公表。
【宵の流星】が恒星の双璧として、【暁の明星】と共に東に名を馳せていた事から、キイに会う、という名目で彼はやっとユナから出ることを許されたわけだ。
「とにかく、様子を見ましょう」
セツカはガラムとレツの顔を見渡し、同意を促した。だが。
「いやだ…」
「ジース?」
「やっとアムイの奴を見つけたんだ!俺、このチャンスを逃したくないっ!」
ガラムはそう叫ぶと、なりふりかまわずアムイの方へと駆け出した。
「いけません、ジース・ガラム!」
慌てたセツカはレツと共に、アムイとヘヴンが激しく戦いの火花を散らす場所へと、ガラムの後を追った。

ガキーン!!
ヘヴンの鎌の刃先がアムイの剣に引っかかる。アムイはその相手の力を利用して、上手く刃先の攻撃をかわしていく。
その無駄のない動きに、ヘヴンは舌を巻いた。
「だてに名が有名になったわけじゃないんだなぁ、アムイ。ここまでやるとは俺も思わなかった。
お前が有名になったのは、キイの力が大きいからだって、ずっと思っていたんだよ」
ヘヴンは切りつけるためにアムイににじり寄りながらそう言った。
「俺だってただ単にキイに守られていたわけじゃない。だてに四年も一人でやってきていない。
…あの頃の俺とは違うんだ」
「確かに。今の方が数段いいぜ。人形みたいなよりは、ある程度抵抗してくれた方がやりがいがある」
ヘヴンは空いている方の手から、細かい棘がある弾を取り出し、アムイに放った。
「!!」
咄嗟にアムイは避けようと身体を屈めた。その隙をついてヘヴンは鎌をアムイめがけて振り下ろした。
「兄貴!」
二人の後方に回り込んでいたサクヤがいきなり突進し、ヘヴンに勢いよく体当たりした。
「うわ!」意表を突かれよろめいたヘヴンは、アムイをやり損ない、カッと頭に血が昇った。
「邪魔しやがって!!お前の方から血祭りに上げてやろうか!!」
叫びながらヘヴンは、サクヤの腹に拳を叩きつける。
「ぐっ!!」
サクヤは血反吐を吐きながら後方にすっ飛んだ。
「動けなくしてやる!!」
切れたヘヴンは執拗なまでにサクヤを追いかけ、倒れたサクヤの髪を引っ掴み、張り手を食らわした。
「よせ!!」
それを目の当たりにしたアムイは背筋が凍った。今までにない感情が、アムイを突き動かし、珍しく“恐れ”という感情が、己を支配した。…それはあの時…闇の箱に記憶を封じた時と同様の感覚だった。
アムイは何かに突き動かされたかの様に、無我夢中にヘヴンに掴みかかって行った。
「お前の相手は俺だろう!!こいつに手を出すな!!」
アムイの取り乱した様子に、ヘヴンは我に返った。そしてアムイの拳を避けながら、ニヤリと笑った。
「へー…。やっぱりなぁ…」
その呟きにアムイは冷や汗が出た。アムイはヘヴンを蹴り飛ばし、サクヤの身体をヘヴンからもぎ取り抱えると、彼の攻撃を避けるためになるべく遠くに移動した。
「この馬鹿っ!!」
思わずアムイは怒鳴っていた。
「戦っている最中に勝手に入ってくる奴がいるか!!」
「ごめん、兄貴…。だってオレ…」
だが会話に割り込むような形で、二人の元にあっという間にヘヴンが迫ってきた。
「逃がすかよ!」
ヘヴンが鎌を振り上げた瞬間、アムイは彼を振り仰いだ。その目は赤く染まっている。
「!!」
ヘヴンは息を呑んだ。
アムイの全身から赤い“気”が立ち昇っている。
思わず振り下ろす鎌の刃の勢いがそがれた。
(来る!波動攻撃!)
ヘヴンは咄嗟に自分の身を守ろうと身構えた。

グワァァァーン!!!

赤い光はヘヴンの身体をかすめ、すり抜け、後方の木にぶち当たった。
「くそうっ!!」
ヘヴンは素早く体勢を整えると、アムイ達を目で捜した。
(どこ行きやがった?)
ヘヴンの視界から二人の姿がない。
「おい、何やってんだヘヴン!!暁が北の方に逃げたぞ!」
遠くでミカエルの叫ぶ声が聞こえる。
「畜生!アムイめ!!」
ヘヴンは突風のような速さで北の方向へと、アムイ達を追い始めた。
「逃がすなよ!」
後ろでミカエルの怒鳴り声がする。
そしてそのミカエルの後方には、ガラムが必死になって追いつこうとする姿があった。
「おい、ヘヴンどけ!波動攻撃をかけないと、奴に逃げられる!」
痺れを切らしたミカエルが叫ぶ。その次の瞬間、灰色の光線がヘヴンの頭上をぎりぎりに走り抜けていった。

遥か彼方、豆粒ほどのアムイ達二人に、その光が当たるかと思われた。
だが次の瞬間、アムイ達の方向から巨大な向かい風が吹いてきた。
「!?」
二人を追っていた男達は、突然の暴風に面食らった。
強い風が彼らの追跡をまるで拒むかのように吹き荒れる。
最後尾で追ってきたユナの人間達も、吹き飛ばされないようにと、近くの木々に掴まった。
「何だ!?この風は!!」ヘヴンは叫んだ。
「これは…まさか…鳳凰…」ミカエルは吹き飛ばされまいと、足に力を入れる。
それだけでも視界が悪くなる一方だというのに、突然、雷鳴が轟いた。
「!?」
その場にいた人間達は驚いた。雷鳴と共に、大粒の雨が降ってきたのだ。彼らの一帯は物凄い暴風雨に見舞われた。
それは誰かが故意に仕掛けたとしか思えない嵐だった。
なぜなら、その雷雨は、ヘヴン達のいる場所だけに起こっていたからだ。 
(こ…こんな芸当ができるのは…まさか…)
ミカエルは唸った。これは“鳳凰の気”(風)と“水竜の気”(水)を融合させ、雷を呼んだ雷雲の術。
これを使いこなすのは並大抵の術者ではない。賢者の中でも大賢者クラス。そう、噂に聞いた事がある。気術者最高峰…の大賢者の得意技だが…。まさか…そんな馬鹿な。

その様子にアムイ達も唖然とした。
自分達の場所よりも少し戻った場所が、信じられないほどの暴風雨となっている。
「兄貴…これって…」
「これが噂の雷雲の術…?」
アムイは記憶の糸を手繰り寄せる。このように九位の“気”を合わせ、違う力に変化させる術は、賢者クラスの人間が得意とするものだ。…という事は…。

「何をぼーっとしとるんじゃ、アムイ!早くこっちに来るんじゃ!!」
突然、背後から喝を入れられ、二人は飛び上がった。
「ご老人!」
「やっぱり爺さん、あんたか!!」
二人は弾かれるように声の方に走った。
少し走った先に、小人数ではあるが、どこかの王国の騎馬隊が二人を待っていた。
(紋章を隠しているが、よく見ると北の軍隊ではない…。一体どこの…)
アムイがいぶかしんだその時、先頭の馬上から再び声が飛んだ。
「もうわしも限界じゃ!早く誰かの馬に跨れ!お前たちの馬まで連れて行くぞ!」
昂老人(こうろうじん)の言葉通り、追っ手を翻弄させている雷雨が収まり、徐々に晴れて、風の力も弱まっていく。
アムイとサクヤは走るスピードを速めた。
「アムイ!サクヤ!早くこちらへ!」
騎馬隊の中から、二頭、アムイ達を迎えに走ってくる馬があった。
その先頭の馬を操る人物を見て、アムイは驚きの声をあげた。
「リシュオン王子!!」

それは西の国ルジャンの第四王子、リシュオン=ラ・ルジャングだった。
「何故貴方が…」
「いいから早く乗って!」
アムイはリシュオンの差し出された手を掴んで、軽々と彼の後ろに跨った。
もちろんサクヤも、彼の後からついて来た兵士の馬に拾われた。
「詳しい話はあとで」
リシュオンはそう囁くと、華麗に馬を操り森を駆け抜ける。それに従い、騎馬隊も一斉に彼の馬を追う。
それはあっという間の出来事で、嵐が収まった跡地には、呆然と佇む人間達だけが取り残された。


「昂極大法師(こうきょくだいほうし)…。まさかあの法師が絡んでいるのか?まさかな…」
嵐が過ぎ去った後、しばらくしてからミカエル少将は呟いた。
もし、大法師が暁側に絡んでいるとしたら…。これは我がティアン宰相殿には厄介なことだ。
「ちっ!逃がしちまったか」
ヘヴンは忌々しそうに大地を踏み鳴らした。

「大丈夫ですか、ジース」
セツカが身なりを整えながらガラムの傍に近づいた。
ガラムは立ち上がりながら、しょんぼりと頷いた。
「怪我がなくてよかった。
しかし、初めて見たが、あれが大賢者の術、雷雲か。噂以上に凄まじい」
レツもガラムの傍に寄った。
「悔しい、俺。アムイを取り逃がしてしまった…」
「ジース・ガラム…あなたはまだ…」
セツカが眉をしかめた。
「俺もガラムと同じ気持ちだ、セツカ。今回は逃がしてしまったが、この辺りにいる事がわかっただけでも良いではないか。
次は絶対見つけ出す。そして…」
「俺がアムイをヤルんだよ」
いきなりレツの言葉を遮ったのは、ヘヴンだった。
「お前ら勝手なことすんじゃねーぞ!アムイはこの俺のモンだ。お前らよりずーっと昔から奴の血を見るのが好きなんだからな!
この俺の邪魔しやがったら、ただじゃおかねぇ!」
この男、よほどアムイに逃げられたのが頭にきているらしい。ヘヴンの剣幕に、ガラム以外のユナの男達は、呆れて肩をすくめた。


「これはこれは、なかなか面白いものを見せていただいた」
突然、男の声と共に、パンパンと拍手する音が森の奥から聞こえてきた。
皆が驚いてその方向に目をやると、ぼうっと灯りが近づいて、数人の護衛を従えた一人の若い男が姿を現した。
「…アベル=ジン提督」
レツが男を見て呟いた。
「アベル=ジン?東の荒波州(あらなみしゅう)の提督か!」
いつの間にか皆の傍にやって来ていたミカエルが言った。
「何故あんたがここに…」
いぶかしむミカエルにセツカが言った。
「彼が我々をここまで連れてきてくださったのですよ」
「へぇ、そうなの?じゃあ、あんた達、東の人間かい?」
「そうですね」
あっさりと言うセツカの横顔を、ミカエルはじっと見る。
「そちらは南の将校とお見受けする。先ほどの貴方の気術、素晴らしい腕前だ」
アベルは金色の髪をかき上げながら、ミカエル少将に近づいた。
「いや…あんなの大した事ないでしょう。まんまとお目当てに逃げられてしまったし」
「それでも最高レベルですよ、貴方の“鉱石の気”は。
さすが南のガーフィン大帝。士官もかなりいい人材をお持ちだ」
胡散臭そうなその笑顔に、ミカエルは思わず苦笑いした。
「東の州の提督が、このタイミングで北の国…か。目的は我らと同じ…。
そういう事でしょ、提督?」
アベルはくっくと下を向いて笑うと、こう宣言した。

「そうです、南の方。我々は【宵の流星】を追ってここまで来ました。
彼は我が東の国にとって重要な人物。
どちらが彼を手に入れるか。……ちょっと楽しみですね」

アベルの馬鹿丁寧な言葉使い、柔らかな声は、かえって彼の奥に存在する冷酷さを際立たせていた。
ミカエルは身震いした。東で二番目に大きい州とはいえ、南の国にもその男の評判が流れてきていた。
噂に違わず、なかなかの曲者そうだ。

闇の中、所々に浮かび上がる灯りに照らされながら、それぞれの立場で、それぞれの思惑で、宵と暁の二人をめぐる男達が、互いに顔をつき合わせていた。

それはこれから繰り広げられる、凄まじい争奪戦への布石のひとつであった。

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