« 暁の明星 宵の流星 #119 | トップページ | 一章増やします »

2010年11月 3日 (水)

暁の明星 宵の流星 #120

夜明けになってから、風が激しく吹き荒れてきた。しかも大粒の雨も降ってきたようだ。
屋根にバラバラと雨だれの音と、ガタガタと建物とぶつかり合う風の音が、激しく耳に響く。
「こりゃまた…」
あまりにもの外の騒がしさに、昂老人(こうろうじん)は目が覚めてしまい、ふらふらと食堂兼談話室に入り、ベランダの窓から外を窺った。
「これから嵐になるそうですよ」
朝食の用意を手伝いに、もうすでに本殿から修行僧の若者が来ていた。
「嵐に?」
「はい。運が悪ければ、今日の昼がピークだと。なので、寺の者も夜明け前から起きまして、諸々の準備を」
「むむむ。本当に嵐を呼んじまったかの」
「は?」
「いやいや、何でもない。こっちの話じゃ」
昂老人は目を丸くしている修行僧に軽く手を振ると、再び窓の外に視線を移した。
修行僧は軽く礼をすると、朝食の支度をしに、隣の厨房に入って行った。

身寄りのなかった昂(こう)…リャオは、幼少の頃まで、まるで乞食のような生活を強いられていた。
食べるものを確保するため、生きるため、小さな彼は何でもやった。
物心つく頃に、そのような生き地獄の中を、当たり前のように過ごしていたのだ。
いつ、死んでもおかしくなかった。
北の最高鎮守、北天星寺院(ほくてんせいじいん)の最高峰だった、北斗(ほくと)大法師に拾われるまでは。
まるで躾のなっていない、野犬のようだった昂を、北斗はまるで我が子のように可愛がってくれたのだ。
彼に引き取られるきっかけになったのは、その時すでに昂の中に存在した、特殊な能力のお陰であった。
……雷小僧…。雷雨を呼ぶ子供…。それが昂のあだ名であった。
自分の感情で、または無意識のうちに、昂は雷雨を呼んでしまう。
それが、身の内にある、“気”術士としての才能だったという事は、北斗大法師との出会いでわかった事だ。
《お前には、第九位以上の“気”、全ての属性を扱える能力がある。お前のその雷雨を呼ぶ力、それは“水竜”と“鳳凰”の気を無意識に取り入れ、発した結果ぞ。そのような事がこの歳でできる者はいまだかつておらぬ。
なぁ、ボウズ。その力を世のために使ってみないか?お前なら、賢者として名を馳せる事も可能だぞ》
その時の自分は、とにかく生きたかった。何でもいい。どのような動機でもいい。
自分にこういう能力があって、生かす事が自分の生きる術なのなら、その道を行く。
気がつけば北斗大法師の言うとおり、大陸で名を馳せた人間になっていた。特に若い頃は雷雨を呼ぶ法師として。
ということで、得意中の得意のこの自分の特技。どうも使った後に、微かだが雷雲が残ってしまうようで、それがしばらくして自然界の刺激で育ってしまい、嵐になってしまう事がしばしばあった。若い頃はそれを残さぬよう術を磨いたものだが、この歳になり、しかも久々に使ったためか、どうも最後の詰めが甘くなっていたようだ。
(…やはり、あれが嵐になってしまったのかのう…)
昂老人は、溜息をついた。

「およ、じーちゃんも眠れねぇの?」
窓から外を眺めていた昂の背後から、明るい声がした。
気がつくと、すぐ傍までキイがやって来ていた。
「おお、キイか。お主も起きてきたのか。……アムイは?」
「はは、寝る前に振られた。アムイは隣の空いてる部屋に移ったんだよ。
…まだ寝床じゃないかな」
「ほぅ、振られたのかの」
面白そうな昂の眼差しに、キイは苦笑した。
「ま、これもいい機会だろ?もう、いい加減互いに大人なんだし」
その様子をじっと見ていた昂老人は、不憫そうにこう呟いた。
「お主も…大変じゃの…」
「何だよ、そんな憐れんだよーな目で」
キイは口を尖らせた。
「……お主は上手く隠せていると思っているじゃろうがの。わしにはわかるぞ。
そろそろ焦りがきておるのではないかね?」
「は!まったく、じーちゃんには敵わねぇなぁ。さすが大陸一の大法師、大賢者様だ!」
「おいおい、茶化そうとしても無駄じゃよ…。
のう、キイよ、わしは昔、竜虎と話した事がある。
…お前達の事じゃ」
いつにない、神妙な顔の昂に、キイも真顔になった。
「キイ、お前も嫌というほどわかっておるとは思うが、アムイは遅咲きじゃ」
キイの頬が、ピクリと動いた。
「流星の異名を持つ、流れの速いお主と違うから、たまに苛つく事もあるんじゃないか?
…特に、お主には時間が迫っているように見えるから、尚更そう思う」
「…じいちゃん…」
キイはいつになく、きつい眼(まなこ)になった。
「流動のお前は、流れに流れ、あらゆるものに激しくぶつかりし、時に停滞し…。それが作用して成長や悟りが早い。
まるで山頂より流れ落ちる川の水のごとく。
だが、アムイは違う。
まるで川の水の流れを待ち受ける、広大な海のようじゃ。
海は限りなく深く、穏やかじゃが、表面に嵐を受ければ荒れ狂う事もある。
だが、海底はどうじゃ?底に潜れば潜るほど、ゆったりとした静寂な世界が広がる。
まさしくアムイはこのごとく。
水面下でゆっくりゆっくりと熟成するように成長していく」
キイはじっと昂老人の言葉を聞いていた。その表情は頑なで、一体何を思うかは傍から見てもわかり辛い。
「本当にお主らは双璧であって、一つのものを二つに別けたような存在じゃのう。
二人でひとつ。表と裏。光と影。
…それが上手い具合に表裏回転しながら存在しているという事は、滅多にない事じゃ。
例えば、お主が光のときは、それを受けるかのようにアムイが影となり、アムイが攻撃的になれば、お主が穏やかに受ける。お主が仏のように見えるときは、アムイは忌み嫌われる邪神に。お主が鬼神のような時はアムイが慈悲深い天神のよう。
お主らの共時性・共鳴性は面白い。まるで一人の人間の表裏を見ているようじゃ。
人間の魂(たま)とは陰陽の世界に通じる。二面性という方がわかりやすいかの?
誰でも持つ、光と影。男性性と女性性。慈愛と憎悪。……それはお主ら二人、生まれた時からわかっていた事じゃと思うが」
「……」
「ただ、そこまでひとつのモノを完全に陰陽に分けるのならば、普通は異性として生まれる筈なのじゃが、はて…」
「じいちゃん、これから嵐が酷くなりそうだから、俺、寺の方で人手がいるかどうか聞いてくるわ」
キイは話をはぐらかそうと、そのまま昂から離れようとした。
「キイよ、その前に聞きたい事がある」
昂老人は、いつにない険しい声でぴしゃりと言い、キイを引き止めた。
「ここじゃ不都合なら、何処か移動してもよいぞ」
キイの目も、険しくなった。しばらくして、キイはひとつ溜息をつくと、こう言った。
「ここでいい。まだ朝食には時間がある。…きっと誰もまだここにはこないだろうし、すぐに終わる話だろ?
…で、一体何だよ?じいちゃん」

「あああああっ!!」
アムイは自分の叫びで、跳ね起きた。
汗がじとりと、身体にまとわりついている。
(ああ…)
夢か、とアムイは動かない頭でぼんやりと思った。
久しぶりの悪夢だった。キイと離れるとすぐこれだ。
それにしても、とアムイは脱力した。
父を守り、信仰深い、それ故に父の身体を刃(やいば)で貫いた男が、珍しく夢に出てきた。
(ラムウ…)
王子であった父親を、ずっと守り続けたセドの名将を、アムイは思い出すのを恐れる反面、詳しい事実を封印したせいで、普通にラムウの苗字を名乗っていた。
それほど、彼の闇が露呈する前は、本当にアムイの憧れだった。あのような武人になるのが夢だった。
だが…。

《触るな!!
汚らわしいその手で、セドの太陽に触るな!!
お前が…お前達のせいで…セドの太陽は穢された。
お前達が生まれなければ…私のアマト様は罪びとにならなかった…。
ああ、セド王国の太陽!!この国の希望!!真の神王!!
それをお前達は壊したのだ!!
この悪魔め!!お前達は悪魔に唆され、やって来たのであろう!!》

彼の心には自分の父親しかいなかったのだ。

あの、二人の主従関係を、最初は羨ましく感じた事もあったが、盲目的なラムウの父への愛情と執着が、アムイを地獄に突き落とすきっかけの一つになったのは確かなのだ。
だからなのか、自分がセドの王家の血を引くと知ってから、益々サクヤが、まるであの頃のラムウのように、自分に盲目的に仕える風情が、自分に恐怖を感じさせた。
俺は…父さんのような…王家の人間とは違う…。
俺は…サクヤに守護されるような人間じゃない…。
セドの太陽に狂わされた男と、サクヤとは違う人間である事はわかっている。だが…。

アムイは荒げる息を整えようと、立てた両膝に頭を乗せ、深呼吸を始めた。

色々な事が重なり過ぎた。

しばらくしてアムイは気を引き締めようと、重い身体を寝台から引き剥がした。
ふと、窓を見ると、激しい雨が打ち付けている。

まるで、自分の心のようだ。

アムイはふらふらと、水を求めて部屋を出た。とにかくとても喉が渇いていた。


部屋を出ると、同じくふらりと廊下を歩く人影が目に入った。
「イェン?」
それはイェンランだった。
「あ、早いのね、アムイ。あなたも眠れなかった?暴風雨のせいで」
彼女の目の周りも心なしか赤い。…眠れなかった事が、誰の目にも明らかだ。
「…暴雨風のせいだけじゃないんだろ?眠れなかったのは」
その言葉にイェンランはちらっと笑うと、「いじわる」と、小声で呟いた。
「…で、何処へ行くんだ?」
「う~ん、ちょっとね…」
「キイに会いに行こうとした?」
「……」
イェンランは言葉に詰まった。アムイは彼女の顔を見て、図星だな、とわかった。
「アムイこそ何処に行くのよ?…それに、いつも寝ている部屋と違うじゃない。
…キイと何かあったの?」
「いや…」
アムイも言葉に詰まった。思わず片手で頭を掻く。
「……でも、まいいわ。目が覚めちゃったし。でもまだ朝食には時間があるし…。ちょっと息抜きしようかな…」
「俺、これから食堂に行って、水をもらおうと思うんだが、お前も来るか?」
二人は顔を見合わせ、しばらく沈黙していたが、ふっと互いに笑うと、そのまま共に食堂の方に歩いて行った。

「ねぇ」
無言のまま歩いていた二人だったが、突然イェンランが口を開いた。
「こうしてアムイとゆっくりするのって、なかったよね?」
「そうだな」
「アムイはいつもきつい口調だし、私は食ってかかるし」
「はは」
「こうしておだやか~に、肩を並べて歩いてるなんて、驚きよね?」
イェンランはちらっとアムイの横顔を見上げた。
キイとは違った、端正な横顔。
初めは憎たらしいと思っていたけど、今はサクヤと同じように、信頼している自分に気づいた。
それは異性としてでなく、ひとりの人間としてだ。
「キイはさ」
いきなりアムイは言った。イェンランの胸が高鳴った。
「純粋にお前の事、心配してる。お前も今まで何とかきたけど、もうここが限界だろ?」
「心配、というか、後ろめたいんじゃないの?」
「何故?」
いつものごとく、アムイの片眉が上がった。
「私を桜花楼(おうかろう)に返した事が」
「…あー。そうだな」
「結果的にね」
「うん」
「…でもさ、戻ってすんごく嫌だったけど。人生呪ってたけど。…私は後悔するものでもない、と思ったの」
「………」
「表裏一体…。何事も、いいも悪いも紙一重ってね。
人生最悪な事態が起きれば、普通は不幸と人は嘆くけど、それが実は本人にとってはいい事であった、という事もあるでしょ。
…後になって、人は気づくのよ。あの時、死ぬほど辛くて苦しかったけど、終わってみれば全て意味がある事だったって」
「へぇー」
アムイはあごに手をやって、思わずニヤリと口元を緩めた。
「何よ、その顔」
ぷっと膨れるイェンランに、アムイは滅多に見せない、優しい笑顔でこう言った。
「お前って、何気に人生よく考えてるよな。…いや、前から女にしては見込みある奴と思っていたけど…」
「それって、かなり上から目線じゃない?っていうか、女馬鹿にしてない?」
イェンランは下からアムイを睨んだ。
「はは、ごめん。…でもこういう所、俺の母さんに似てるなぁ」
今まで互いの身内の話を、詳しく話した事もなかったイェンランは、突然その言葉に驚いた。
「…アムイの…お母さん…?…えっと…キイのお母さんとは…違ったよね?」
「ああ。…俺の母は、月光という異名を持つ、…聖職者だったのは、お前もあそこにいたから知っているだろう?」
闇の箱を開けた時の事を言っているのだ。イェンランはこくりと頷いた。
「もう、気丈な人でさ。…弱々しい女性、というイメージがなかったなぁ。剣の達人でもあったし。かといって、男勝りのようでいて、その実、気持ちが細やかで、優しくて包み込むような暖かさがあった。…俺の父親は、多分、そういうところに惚れたんだろうな」
「へぇー」
「それで、女性では少ない医術士になって、世界を回ろうとしたくらい、自分の夢に貪欲な女(ひと)だったよ。
……キイは気づいていないと思うけど、キイの女の理想は俺の母さんだ」
「そうなの?」
イェンランは目を剥いてアムイを見た。
その様子に、アムイは心の中で微笑した。
「…今までキイと付き合った女の子を知る限りではね」
…彼女達の見た目が自分に似ている事に気づいていた事は、ここでもキイにも言えないアムイだったが、キイが好きそうな女性のタイプの傾向としては、間違いないだろう。
アムイはちらっとイェンランを見た。…特に黒い髪に黒い瞳。…惜しいなぁ。
「…イェンはキイの好きなタイプに入るんじゃないの?…もう少し大人だとよかったけどな」
「……あのね。女だって15を過ぎれば大人なんだけど」
「世間ではね。…まぁ、十代じゃ、キイの恋人には難しいかな。あいつに“お嬢ちゃん”なんて呼ばれてるうちは」
「…それって、暗に諦めた方がいいって事?」
「どうとでも。でも、俺は事実を言ってるまでだ。シータは大袈裟に言うけどさ。
…キイは女好きだけど、誰振りかまわず女なら寝るような男じゃないよ」
イェンランは疑わしそうにアムイを見上げた。自分の事を好みのタイプだと言いつつ、恋人の対象にならない、と牽制しているように聞こえる。
「アムイって、本当に意地悪よね。…だったら、最初からお前はキイのタイプじゃないって、言ってくれた方がいいんじゃないの?」
「……そうだな」
「やっぱり、私は対象外なのかな…」
イェンランは哀しそうに呟いた。その言葉に、アムイの胸は痛んだ。
………今まで知っている、キイにまとわりつく女達の中で、イェンランが一番自分にとって許せる存在なのに。
アムイはこの先の自分達の運命を考えると、できるだけ他人を巻き込まないためには仕方ないと思った。
多分…キイも同じ考えだろう。
お互い複雑な気分のまま、食堂の入り口が近づいてきた。
「あれ?」
イェンランが呟いた。
「こんな早い時間に誰かいる。…私達と同じような人がいたみたい」
二人はそっと食堂の中に入った。
その食堂の片隅で、二つの人影がひっそりと佇んでいた。
…キイとお爺さん?
そう声に出して、駆け寄ろうとしたイェンランは、二人の緊迫した雰囲気に気づき、思わず足を止めた。
戸惑いながら、イェンランは後ろからついて来たアムイの方を振り向いた。
どうしたのだろうか。
…声をかけてはいけないくらい、キイと昂老人の空気が張り詰めている。
アムイもこんな二人を初めて見たせいで、固唾を呑んでいた。

そっと入ってきた二人に気づかないのか、肩を寄せ合って交わされる話し声が、中断もされずにひっそりとした食堂に響く。
もちろんその声は、小さいながらもしっかりとイェンランとアムイの耳に届いた。


「……身体の方、具合はどうじゃ、キイ」
アムイ達に背中を向けているため、キイの表情はわからない。わからないが、キイの身体が緊張したのが外から見てもわかった。
「何だよ、じーちゃん。怖い顔で話があると言うから、何かと思ったが、そんな事かい。
…可もなく不可もなく、ってぇところだな。でも早く“気”の封印を解かないと、ストレス溜まって死にそう」
「キイ」
「まー、今のとこ、力の暴走の気配もないし、聖天風来寺に行くまでには、何とか持ちそうだから、安心しなよ」
「キイ!そうじゃない」
今まで聞いた事もない、昂老人の厳しい声だった。
「誤魔化すな、キイよ。…お主の力の事ではない。肉体の限界の事をきいておるのじゃぞ…」
(肉体の限界…?)
只ならぬ二人の気配に、アムイとイェンランはその場から動けない。
一体、昂老人は何を言おうとしているのか。耳だけが研ぎ澄まされて、二人の会話を聞いている。
ピリピリとしていたキイの波動が、ゆっくりと緩んできた。
「は…。本当にじいちゃんにはまいったな…。さすが大法師。賢者衆の最高峰。
そこまでわかっちまっていたか」
「見くびっては困るのぅ、キイ。お主を子供の頃から見ているこのわしじゃぞ?
気がつかないとでも思っておったか」
「…竜虎様も知っていた?」
「うむ」
「はは。だから…ね。俺が焦ってたの知っていて、だから…」
キイの乾いた笑いが、部屋に響いた。
「…それで」
昂老人はひとつ咳をすると、思い切って言った。
「お主の寿命はあと、いくらまで持つ?」

アムイとイェンランは耳を疑い、頭が真っ白になった。

今、なんて…。
昂極大法師(こうきょくだいほうし)は、今、なんて言った?

「……肉体の限界という事ならば、あと、12~3年、あればいい方かと」
とんでもない答えが、キイの口から語られた。
「…やはりそうか。
身の内に神気を宿す事は、並大抵の事ではない。…精神力然り、体力的に然り、じゃ。
…外見は美しいから、誰もわからないと思うが、…お主の内臓は神気を抑えているために、かなりぼろぼろじゃろ?
並みの人間よりも肉体の消耗が激しいのは…。予想がついておった」
昂老人は哀しげにうな垂れた。
「…仕方ねぇ。だから俺は川の水さ。流れる星なんだよ。
だから人よりも早く、誰よりも先に成長しなければならなかった」
キイもまた、哀しげではあったが、毅然とそう答えた。


呆然とするアムイの頭の中で、キイの言葉がぐるぐると回っていた。

《俺はお前がこの地にいる限り、ここにいるぞ》
《お前が俺を呼び戻した。…お前が生きている限り、俺はこの世を去らない》
《安心しろ。俺は絶対にお前と離れはしないから》

キイは自分に嘘を…ついていたのか?
幼い頃から…ずっと…?

「確かに俺には、他の人間よリも時間がねえよ。
俺だってもっと時間は欲しいと思う。…だからといって、どうなるもんでもないけどね。
この物質世界。限りある肉体という器が、時間と共に滅びゆくのは自然の摂理。
…大陸創造以外で、この地に降りて来なかったとされる“光輪の気”。
…こんなもん、持って生まれちまったという事は、そういう事なんだよ、じーちゃん。
それだけ俺の持ってきたもんは、この地には重過ぎるってことさ」
キイは天を仰いだ。
「…どれだけ、天に悪態ついたか、わかったもんじゃねーけどさぁ」

「キイ…」
居た堪れなくなって、思わずイェンランが声を出した。
はっとしてキイと昂老人がその声に振り向いた。
「アムイ…!!」
そこには呆然と立つ、アムイとイェンランの姿があった。
キイは苦渋の顔に歪んだ。
完全にこの話を聞かれていたであろう事が、アムイの表情で二人は悟ったのだ。

「アムイ、俺は…」
キイは何て言おうかと、口ごもった。
だが、アムイは苦しみの目でじっとキイの顔を見つめた後、声も表情も一切何も出さずに、その場をぷいっと立ち去った。
「アムイ?」
イェンランはアムイの様子が気になって、追いかけようとした。
だが、それ以上にキイの様子も気になって、追いかけようとした足を止め、ゆっくりとキイを振り返った。
彼の様子に、イェンランの胸がぎゅっと苦しくなる。
キイは顔面蒼白で、見るからに疲れた顔をしていた。
「キイ…今の話、本当に…?」
キイは彼女に何か言おうと口を開きかけた。

その時だった。
突然騒がしい声が、玄関の方から聞こえてきた。
「何事じゃ?」
それは激しい雨と風の音に混じって、複数の人間が騒いでいるようだった。
キイと昂老人、それに続いてイェンランがその方向に走った。

「どうした?」
キイが叫んだ。
玄関に近づくと、二~三名の修行僧が、慌てた様子でやって来たところだった。
「何かあったか?」
その言葉に、一人の修行僧が必死で答えた。
「この嵐で、怪我をされた女性がこの寺の裏門で倒れてまして」
「女性?」
「はい。この嵐では、本殿よりもここの方が近く、その上かなりのお怪我なので、こちらに連れて来ます。
我が寺院には尼僧がおりません故、本殿にお通しするわけにもいけなくて…。
大変申し訳ないのですが、協力をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「何でまた、こんな時分、こんな所に」
「…何やら訳ありの方らしいのです…。何処からか、逃げてきたような…。
あ!今来られました!」
すると、雨風と共に扉が開き、二人の修行僧に抱えられた一人の女性が運び込まれてきた。
「おい、大丈夫かい?」
キイとイェンランは共に駆け寄り、修行僧からその女性を手渡された。
「す、すみません…」
濡れそぼったその女性は、掠れた声で申し訳なさそうに呟いた。
どうも、足をやられているらしい。彼女のドレスの裾から見える足首が血に染まっていた。
「おっと危ない」
女性はよろよろと力なく、近くにいたキイにしがみついた。
「お嬢さん、足に怪我してるじゃねぇか。歩くの辛いだろう?」
「はい…」
返事を聞くまでもなく、キイは手馴れた様子でふわっと女性を両手で抱き上げた。
女性の淡い茶色の髪が揺れて、白くて透き通るような顔が露になった。
イェンランはどきっとした。
キイの腕の中で、青くなって震えている女性は、この世のものとも思えないほどの美女だったのである。
「ああ、ありがとうございます…私、どうなるかと」
ハスキーな声は、まるで男を誘っているように聞こえた。キイを見つめる瞳が、心なしか熱く揺れているような気がした。
突然、イェンランの背中に、ぞくりとするものが駆け上がり、何だかとても嫌な予感がした。
「いや、どうってことねぇよ。…とにかく、すぐに暖めなきゃ。…悪いが、湯の用意を頼む。
…お嬢ちゃん、一緒に来てくれ!」
キイの呼びかけにイェンランは、はっとし、慌てて女性を抱えたキイの後ろをついて行く。

その様子を見ていた昂老人は、何やら考えにふけっていたのか、ずっと無口だった。

「嵐…か」
長い沈黙の後、昂老人はやっと呟いた。
「もしかしたら、嵐と共に、とんでもないものを呼んでしまったのではないかのぅ…」
彼は深い溜息をつき、とっくに夜が明けているにも関わらず、空を覆う黒雲のせいで薄暗くなっている、外の景色に目を細めた。

奈落の底に通じる深淵。

それが今、誰かの足元で密かにぱっくりと口を開けている事に、この時はまだ、誰も気が付かないでいた。

にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ
にほんブログ村

|

« 暁の明星 宵の流星 #119 | トップページ | 一章増やします »

自作小説」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 暁の明星 宵の流星 #120:

« 暁の明星 宵の流星 #119 | トップページ | 一章増やします »