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2010年11月

2010年11月21日 (日)

暁の明星 宵の流星 #125

いつの間にか、嵐は去っていたようだ。
ふと、窓辺に目をやると、もうすぐ明け方なのであろう、薄っすらと大地との境界線がほの明るい。
サクヤは寝台の上で寝返りを打つと、溜息をついた。
昨日もアムイは皆の目の前に現れなかった。
気になって、ずっと眠れないと思っていたが、少しうとうとしていたみたいだ。
何か覚えていない夢を、断片的に見ていた気がする。

ずっと、考えていた。
アムイの態度が急変したのは、あの男が現れてからだ。

南の国の傭兵をしている、と言っていた男だけあって、恐ろしく強い。
いや、恐ろしいというよりも、禍々しくて吐き気がする。
あの男、ヘヴン=リースと対峙していた時の、アムイの様子は本当に変だった。
近くにいたサクヤでさえも、戸惑うくらいに…怯えていた…?
何に?あの男に?それとも…別な事にだろうか。

よくわからないが、あの男のせいで、まるで昔の頑ななアムイに戻ってしまったかのようだった。

本当は、納得なんかしていない。
いきなり突き放して、聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)に行け、なんて。しかも別々になんて。
それでも丸一日、なるたけ冷静に考えてみた。…確かに、皆の言う事は正論だ。
自分の今の実力では、【暁の明星】と共に行動しても足手まとい…。
天下の聖天風来寺……。腕を磨き、レベルを上げるにはこれ以上のない修行場だ。
それが特待生で招かれるなんて、夢みたいな話だ。
一年前のサクヤなら、有無を言わずに飛びついていただろう。だが…。
わかっているけど、自分の感情の奥底でうごめく何かが、思いっきり後ろ髪を引くのだ。
足手まといになるであろう、だけど、これからあの二人が数多の者に狙われるとわかっていて、離れていいものだろうか。
サクヤはアムイの傍を離れるなんて、今更思いもしてなかった。
特にアムイがセドの王子だと知ってしまってから、胸の奥底から、守りたいという激しい感情が芽生えてきたのは否定しない。
(冷静に考えれば、腕を上げる方が先…なんだろうな。でも、自分の気持ちはどんなことしてもついて行きたい、という方に向いている。…これって、やはり血…なのかなぁ…)
自分がセド人だと自覚してからなのだが、幼い頃に母親が言っていた事が、つい最近になって色々と思い出されてきたのだ。

《サクヤのおじいさん…、母さんのお父さんはね、実は有名な武人だったのよ》
《おじいちゃんが?》
《そう。先代の神王の護衛官までしていたんだから!
……戦(いくさ)で、神王様を守って亡くなった、本当に勇気ある忠義な人だったの》
《知らなかった!すごいねぇ、おじいちゃんが武人さんだったなんて!》
《お母さんの生まれた家は、代々将軍を出してきた武家一族の分家でね。…本家は神王様御一家をお守りする役目をいただいていたほどの家柄なのよ。特に直系の男子は、生まれた頃から王族の護衛になるよう育てられて、優秀な者はそれこそ直接神王や王子付きになるの。最年少で王子付きになった、セドの大将軍“東の鳳凰”は、実はお母さんの再従兄妹(はとこ)にあたるのよ!それはそれはすごく強くてね、格好よかったなぁ。…今はわけあって行方知れずだけど。
おじいちゃんも…名の知れた武将だったけど、…次々に跡継ぎを戦や病で亡くしてね…。最後の男子だったお母さんの弟が継いだんだけど、力不足で、結局お母さんの家は落ちぶれてしまって…。お父さんがお母さんと結婚してくれなかったら、本当にどうなっていたか》
この話は自分の心を最高に鼓舞させた。商人の父親には悪いが、その頃の自分は武道や格闘の方が興味があった。…当時、隣州相手に手広く商売していた自分の父親に、“お前は商才があるから、俺の跡を継ぐんだぞ”、と口煩く言われていた反動だったのかもしれない…。今思うと、そこそこ裕福だった父が、母の実家の援助をしている関係だったようだ。サクヤは子供心に、母に威圧的な父とは、どうも相容れないものを感じていた。
《そうだったんだ…。じゃ、オレには武家の血が流れているんだね!》
その時の母の哀しげな顔は、幼い自分でも胸を掴まれたほどだった。
《……そうね。おじいちゃんが生きていたら絶対、サクヤが生まれた事を喜んでくれたと思うのよ。…戦力になる男の子は、お母さんの家では重宝されるから。あ、そうしたらお父さんが怒るかな。絶対サクヤを自分の跡継ぎにするっていつも言ってるしね》

幼い頃の壮絶な体験が、昔の事を覚えている余裕など無くさせていたようだ。
セドにいた頃のこんな会話、まったく忘れていた。今まで思い出すことなんてなかったのに。なのにどうして今頃…。
とにかく幼かった頃の記憶なのでうろ覚えだが、この記憶が正しければ、自分は元々武家の血筋を少なからず持っていた筈なのだ。しかも王家専属の。…母方の祖父の家名は覚えてないが、本家はとにかくすごい家柄だっらしい。

だからこその母の口癖。
《私達はセドの国民。いつか必ず、神王様が私達を助けに来てくれる》
《神王様が私達を守ってくださるように、私達も神王様とその御子息様を大切にするのが国民(くにたみ)の務め》

…母が父には内緒で、こっそり自分に語っていた言葉が、こうも自分を突き動かすとは。
もう一つ思い出したのは、その母が、亡くなる時に自分に託した耳飾り。
あのセドの輝石、“女神の涙”は、母が実家から貰い受けたものだったという事…。
それは暗に、母は自分が本来王家を守る男子だと、言いたかったのかもしれなかった。
憶測でしかないけれど思い起こしてみれば、商家に嫁いだ身とはいえ、母はやはり武家子女の誇りが捨てきれなかったようだった。父の手前、一切その事を話題にした事がなかったが、自分と二人だけの時に、まるで呪文のように口に出していた。
《セドの男なら、王家をお守りするのは当たり前よ、サクヤ。特にお前の血筋は、そこらの兵士とは違う。国や王家に何かあったら、どんな形でもいい、真っ先にお仕えなさい》

本当に何故、今まで忘れていたのだろう。

だが、サクヤにはこの間イェンランに指摘された事も、頭から離れないでいた。

《ねぇ、サクヤ。…アムイはあなたとは対等でいたいんじゃないかなぁ?
…何かアムイは対等な友人を欲しがっているよう気がするの。
だから必要以上に、サクヤが下手に出るのを嫌がっているような…。
きっとそれだけじゃないと思うけど、今までずっと二人を見てきて、私、そう感じたんだ…》

……前から彼女の鋭さには気がついていたけれど、ああしてズバリと見抜かれてるとは思っていなかった。
アムイの頑なな言動に、少なからずそういう節が見受けられていたのは、最近、互いに気持ちが近づいてきた頃から、薄々自分も感じていたことだ。
だが皮肉なことに、特にアムイが王家の血を引く事を知ってしまってから、対等な気持ちになんて思えずにいる自分に苦笑した。

《だからもうやめてくれ!護るとか、兄貴とか。…俺は…俺はそんな主従関係みたいなのはごめんだ!》
《……俺は護られるような人間じゃないんだよ!それ以上に、盲目的にそういう気持ちを押し付けられるのは嫌なんだよ!》

サクヤは複雑だった。
同い年とはいえ、自分は最初から彼の強さや技術に憧れたのが始まりだったから。
最初は嫌がる彼に同行してでも、技や強さを盗めばいいと思っていた。
でも、どんどん接するうちに、刃物のようなアムイの言動に隠されている素の部分が見え隠れして、武人としてだけでなく、人としても魅了されるようになっていった。  
それが、降って湧いたように彼が自分の故郷の王子と判明したのだ。事実を知って胸を熱くすると同時に、妙に納得していた自分がいるのは、無理もない事だ。
卑屈な気持ちではなく、本当に純粋に慕っているだけなのだ。
…でもそれが、アムイの気持ちを苦しめているとしたら。
気持ち的には、何年かかっても、同等に彼に接するなんてできそうもないが、自分が然るべき所で修行し、レベルが上がれば随分違うのではないだろうか。
そうした方が、アムイは自分を認め、傍にずっと置いてくれるだろうか。
サクヤがそこまで考えてしまうほど、アムイに思い入れていた。
これが彼の嫌う主従関係の僕(しもべ)としての気持ちなのか、友情・憧憬としての感情なのか、自分でもよくわからない。

昨日からこうして、ずっと堂々巡りで埒が明かずに、サクヤはいい加減自分に腹を立てた。
(何か、落ち着かないなあ!)
まるで雑念を振り払うように、サクヤはさっと起き上がり、服を着替えると、階下にある食堂へと向かった。
何かしていないと自分が腐るような気がしたのだ。
まだ薄暗い階下に下り、食堂の扉を開けると、もうすでに朝の支度をしに修行僧の若者がいた。
「あれ、お早いんですね」
サクヤを笑顔で迎え入れたのは、まだ入門したての少年僧だった。
昂老人(こうろうじん)の心遣いで、本殿からこうして若い修行僧が、交代で自分たちの為に何人か手伝いに来てくれている。
今朝の当番はこの新人の少年と、彼の指導僧でもある青年僧の二人だ。
「おはようございます。いつもすみません、世話になってばかりで」
サクヤはにっこりと彼に微笑んだ。
「いいえ。食事の支度も修行の一環でもありますゆえ。こちらが好きでさせていただいています」
少年僧も笑顔で返した。
「そうですか…。実は何か目が冴えてしまって。オレにも手伝わせてください」
「え、でも」
「まあまあ」
サクヤはそう言うと、さっさと食堂の続き部屋にある厨房へと入っていった。
そこには青年僧が飯を炊いている姿があった。
「あれ、サクヤさん」
この青年僧は、サクヤ達がこの寺院に逃げ込んできた当初に、身の回りの世話を親身にしてくれた一人だった。
「オレも何か手伝わせてください。あ、この野菜を湯がけばいいんですか?」
突然の事に青年僧は、置いてある菜っ葉を指差しながら言うサクヤの様子をじっと窺っていた。が、ふっと笑うと気持ちよく頷いた。
「そうですね。ではお願いできますか?」


いつの間にか外の喧騒が止んで静かになった部屋の中、アムイは寝台ではなくずっと長椅子に横たわっていた。
結局、眠れなかった。
目を閉じると、様々な事柄が夢に出てくるのだ。
もう、思い出したくない事まで鮮明に、だ。
アムイは重い身体をやっとの思いで起こすと、のろのろと窓辺に近寄った。
もうすぐ夜明けだ。
こんな情けなくてどうする?
何とかしなければ、これ以上周りに心配はかけれない。

自分の中に根強く存在する闇の部分。
幼い頃の自分とはもう違う。今、何とか立ち上がらないと、手遅れになりそうだった。
……本当はもう、何か落ち込むとすぐに己を卑下する自分の癖に、嫌気が差していたのだ。
どうしてこうなったのか。
それはきっと、幼い頃に刷り込まれた呪いの言葉が元凶だったかもしれない。

《お前は汚らわしい女の“子”》
《お前の父は大罪人。その血を受けたお前も同等なのだ》
《お前は何故、神の怒りの下に生まれたくせに生きているのか》
《お前の存在自体が罪なのだ》

セド王家に行っていたあの数ヶ月間、王家の人間に幾度となく言われた暴言。

《キイは仕方がない。あれは禁忌の子だが、この大陸には価値のある子。
いつかは絶対に世も彼を認めるだろう。
そのための大きな犠牲はやむ得ないと皆だってわかっている。
だが、お前は違うのだ。
罪を一番感じていた筈なのに、お前の父と母はそれを知っていて、自ら進んで禁忌を犯しお前を作った。
それが一番汚らわしくも罪深い。それは神への反逆。
お前は神が最も忌み嫌う存在なのだ。
だからお前の母は罰を受け殺され、父も国を負われている。
お前は自分の生まれながらの罪を、よく知っておかなくてはならないのだ》

父がキイの母親にしたことが判明し、泣きじゃくる自分に、セドの摂政だった男が、まるで自分を汚らしいものを見るような目でそう言ったのだ。

《いいか、お前はキイとは違う。
同じ父を持ってはいても、穢れたお前の名は、王家の名簿に刻む事も許されないのだ。
王家はお前を抹消する。
セド第5王子の子はキイだけだ。お前はいらない》

そして極めつけのあのラムウの激しい拒絶の言葉。

《お前が…お前達のせいで…セドの太陽は穢された。
お前達が生まれなければ…私のアマト様は罪びとにならなかった…。
ああ、セド王国の太陽!!この国の希望!!真の神王!!
それをお前達は壊したのだ!!
この悪魔め!!お前達は悪魔に唆され、やって来たのであろう!!》


それこそが、自分が闇の箱に閉じ込めた、忌まわしい記憶だった。


思い起こせば、亡くなった両親以外に、自分を慈しみ、否定しなかった身近な存在はキイだけだった。

いや、とアムイは思い出した。
キイは一番の存在だったから、彼しか見えていなかったが、幼い頃はいつも優しく接してくれた父の世話役のハル達だっていた。
…聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)でも、本当の親のように育ててくれた竜虎様や、シータだって、心を開かない手こずる自分を、忍耐強く支えてくれたではないか。

この歳になって、アムイはようやく今までの自分を冷静に見ることができた。
それもサクヤやイェンランとの出会い、昂老人のおかげで、自分を苦しめていた闇の箱を消滅させる事ができたのが大きいだろう。
今更に、自分は色んな人間の支えで生きている事を思い知らされた。

生かされている…。

アムイは頭ではない、心からそう湧き出る感情に、胸を締め付けられた。
そう。自分は生かされているのだ。
この地にいらない身なのなら、もうすでにこの世にはいないであろう。

ならば。

なら、自分には何ができる?

自分はこの地で、一体何ができるのか…。

それこそが、亡き竜虎様が言っていた、《お前の成すべき事を思い出せるよう、やるべき事を悟れるよう、私は天に祈ろう》という言葉なのか。

アムイはふと、可笑しさが込み上げてきた。
…【暁の明星】
高位な者が授けるとされる異名。
昔からそれが自分の異名だとは、今ひとつピンと来ないアムイだった。
キイの異名は、彼には似合いすぎるくらいのものだといつも感心しているのに。
誰がつけたのかは、はっきりと聞いたことがなかったけれど、すでに聖天風来寺でそう呼ばれていたことを考えると、竜虎様しか思い浮かばない。あの方が存命のうちに、きちんと聞いておけばよかった。
どうしてこの名を授けてくれたのか。どのような意味合いでか。
自分はキイが全て知っているものと思っていたのに、彼も名のいわれの詳細は知らなかった。

生前、竜虎様が自分達に言っていた言葉、それが全てかも知れぬ。
《宵の星、流れるがごとく。暁に映える星、それを受けてまこと輝く》

だがそれにしても、自分が暁とは。しかも明星なんて。
確かにキイの力を受けるのは、自分しかいないと思っている。いや、そうでなくては許せない。
でも、それを受けて輝けるほどの明星かどうかは…、我ながら疑わしい。
“明星”という希望と華やかさを持つ名は、キイこそがふさわしいと誰もが思うのに。
昔、そのような事をキイに真剣に言ったら、一笑に付されてしまったけど。
《あのなぁ、アムイ。俺は自分の異名が自分らしくて気に入ってるんだぜ。
俺こそ明星なんてピンとこねぇや。
……何でそういう名がお前についたのかは、いつかわかるんじゃねぇの?》

とにかく、自分の異名に負けないくらいの実力を身につけなくては。
このままでは本当に名前負けだ。

アムイは溜息をつきながら、徐々に明るくなる空を眺めていた。
が、その時突然、微かに焦げ臭い匂いが彼の鼻腔を刺激した。
(?)
アムイは一瞬、どこかで焚き火でもしているのではないかと思った。
だが、それは自分の思い違いだということが、気になって窓を開けてみてわかったのだ。

「火事だ!」
アムイは思わず叫んでいた。
自分の左斜め上の屋根が、黒い煙を出しながら赤く燃えている。

ヒュン!

「!!」

突然の矢を射る音に、アムイは目で追い驚いた。
誰かがこちらに向けて火を射っているのだ。
その方向を目を凝らしてみると、多勢の兵士が隊を組み、こちらを攻撃している。
先程の嵐で湿りがあるとはいえ、特殊な油についた火は消えることなく、瞬く間に燃え広がっていく。
「いけない!」
アムイは舌打ちした。
まさか。でもまさか!
追っ手がここを嗅ぎ付けて、やって来たとしか思えない。
だが、誰だ?南か?それともユナか別の組織か?
アムイは部屋を飛び出し、大股で急ぎながら声を張り上げた。
「キイ!イェン!サクヤ!」
アムイは必死になって彼らを捜しに部屋を覗きまくった。だが、誰一人とて部屋にいなかった。
「どこへ行ったんだ…」
アムイは焦った。とにかくシータ達のいる、反対側の廊下にある部屋に行かないと…。
「アムイ!」
その時、同じように外の騒ぎに気づいて、シータが走ってやって来た。
「シータ!無事か!今お前の所に行こうと思ってた」
そのシータの背後に、リシュオンや昂老人達の姿を認めて、アムイはほっとした。
「お嬢達は?キイは?」
「それが部屋にいない。俺、階下の方を捜してくるから、シータ達は先に逃げてくれ!」
「何ですって?だったらアタシも…」
「とにかくこの屋敷にいる全員を救出しないと!この時間なら世話役の僧も、リシュオンの兵も屋敷内だろ!?」
アムイの叫びにリシュオンはあわてて頷き、こう言った。
「手分けして屋敷内の者を安全な所に誘導しましょう!私と大法師は右側の方から行きます!」
「じゃ、アタシは左から」
「ああ。俺は中央の階段を下りて一階の方を捜してから逃げる!…となると」
アムイの言葉を昂老人が受けて言った。
「うむ。とにかく敵は我々が一斉に出てくるのを狙っている筈じゃ。
多分奴らの狙いはキイだと思うが、分散して逃げた方がいいじゃろ」
「そうですね、老師。という事は落ち合う場所を決めないと…」
不安そうに言うシータに、リシュオンが答えた。
「なら、聖天風来寺から遠ざかってしまいますが、ここから北西寄りに戻ると、チガンという小さな港町があります。
そこは秘密の波止場となっていて、我々の船を隠し、他の従者を待機させています。
北の第三王子シャイエイ殿の隠れ里で、東の艦隊の入港で、港に入れなかった我々に特別にお貸しくださった。
実は、ミャオロゥ王子と取り合いになった女性を匿うために手配した町だそうで、ミャオロゥ王子もご存じない場所だと。
あそこなら安心です。
チガン町で落ち合いましょう!」
一同は時間がなかったのもあって、間髪入れずにリシュオン王子に同意した。
そして彼らは急いで別れた。
アムイはとにかく、見つからない他の人間が気がかりだった。

「キイ!イェン!!」
アムイは飛ぶように階段を駆け下りていった。
きな臭い匂いと白い煙が徐々に迫ってくる。
「サクヤ!!」

アムイは必死で残った人の姿を捜しながら、一階の廊下を走り抜けて行った。

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2010年11月15日 (月)

暁の明星 宵の流星 #124

それは悪魔の囁きと同等のものであった。

「この俺に、闇に染まれと言うのか」
キイの目が冷たく光った。
「そう。…あんたの苦しみ…。楽にしてあげるって言ったら?」
カァラは凄みあるキイの様子にお構いなしに、自分の腕をキイの首に巻きつけた。
「この俺に、闇に堕ちよと言うのか」
キイの顔が苦痛に歪んだ。

その彼の苦悶の波動に、カァラは嬉しそうに目を輝かせ、爪先立ちになってキイの耳元に甘い囁きを繰り返した。

「…苦しいだろうよ、宵の君。この男である俺を抱けば、あんたは苦悩から解放される。
さぁ、俺の手を取って。……あんたもこちら側の人間になって、全ての欲望を成就させるがいい」

イェンランは声も出なければ、身体もがちがちになって動けなかった。
キケン…。
その文字だけが彼女の頭を駆け巡っていた。
それほどまでに、この妖艶な青年の禍々しい波動は周囲を圧倒していたのだ。

「闇を抱えずに、この世に生きている人間などいない」
低く、抑揚のない声で、キイは答えた。
「だからとて、安易に闇に堕ちるつもりもない」
カァラは眉をしかめてキイの顔を見つめた。
「…さすが、光と謳われた巫女の腹から出てきただけある…。
この地に生まれ、欲望と裏切り、恐れや悲哀、憎悪と醜悪にまみれ、地に堕ちた天人を何人も知っているが、…あんたはその屈強な精神力で、この世の地獄を渡り合ってきた魂(たま)ということか」
ふっとカァラの口元が緩んだ。
「……この美しい姿形。誰もが心奪われるほどの艶やかさ。惹きつけてやまぬカリスマ性。
ややもすると、中性的で柔和な姿に皆は気を取られているが、あんたの真の魅力はその類まれな男性性だ。
その表面に隠された、野性的なオスの部分。
…男なのに女の役割を担うよう育てられた俺とは違う。中は正真正銘の男…だからこそ、この俺を惹きつける」
その言葉を聞いているキイの表情はわからない。

…確かに、キイの柔らかな物腰、その美しい姿、優雅な風情…。どんなに乱暴な言葉や態度をとっても、それが彼の魅力を半減することはない。かえって、優美さを引き立てることもあるくらいだ。男であれば、このような美しさを目にしたら、絶対に手に触れたい、ものにしたいと、狂おしく思うだろう。
だが。
女であるイェンランは、カァラの言っていることが我がことのように理解できた。
…女も初めは光を求めるかのように、彼の美しさにに惹かれる。だが、それから女を捕らえて離さない部分は、彼の言う、キイの類まれな男性性。
男が女を求めるように、女が男に求めるものが、彼には完全に備わっていた。
男性が苦手な…いや、男性を嫌悪して女を呪っているこの自分でさえも、余りあるほどに惹きつける…。
どう言ったらいいのか。単純に自然な気持ちで考えると、行き着く先はきっと…。
そう、女の性としての本能が、この男の子供を産みたいと訴えているのだ。
この、誰よりも美しく、強く、最高な男の種を宿し、産み育て、この地に残したい。
これは生き物がこの世に誕生してからの、至極(しごく)自然な感情なのだ。

「ならばお前は不憫だな…。女の気持ちで俺に惹かれるとは」
独り言のようなキイの言葉に、カァラの頬がピクリ、と動いた。
「今わかった。お前のその灰色の目は、この世では見えぬものが見える、邪眼。
…波動が合えば、お前のその目はこの世の真髄をも見通す…。
ふぅん。お前の父と、あのティアンは、この事を見越してお前を儲けた…というわけでもないな」
「すごいね。…さすが、天の力を持って生まれた男。
そうさ、親父達はまさか、生まれた子が邪眼を持って生まれるとは思ってなかったよ。
あんたのように、何かしらの“気”を持って生まれると思っていた」
“気”を扱う吸気士と気術士の掛け合わせ…。結果は天には敵わなかったという事か。というよりも、“気”と人との因果関係は計り知れないものがあるのだろう。“気”に関係のない王子と巫女の掛け合わせで、神の気を持って生まれたのなら、と考えて実行したことだった。その結果は、“気”を扱う者同士の掛け合わせだから“気”を持って生まれるかも、という単純なものではない、というのがこれによってわかったのだ。
「さぞかしがっかりしたろうよ。…物心つくまでは、普通の人間に見えていたんだから」
カァラはその灰色の目を伏せた。
幼い頃から、自分に何かしらの力が備わっていないか、ありとあらゆる実験を繰り返された。
それ以上に、稀有な女気術士の中でも、かなりの美貌を誇る母親に似て産まれた事が、自分を闇に落とす事になろうとは。
邪眼…。自分の力がそうならば、きっとそれは己を守るために出てきた能力だ。…生まれついての才能はあったかもしれないが。
平々凡々な人生なら、何の使い道にもならぬでないか。
そしてその力が高度になっていくにつれ、疎まれる事も比例していく。だがそれを越えるほどの美貌に生まれたのは、ある意味不幸であり、幸いでもあった。…幼くても、彼の美貌と色気は大の男でも骨抜きにさせた。
…カァラは成長するにつれ、それが自分が生きるための武器と知っていったのだ。

「…では、その邪眼に何が映った。だから俺に誘いを掛けてきたんだろう?」
カァラはその言葉に思わせぶりな笑みを浮かべた。
「今の大陸において、男が駄目だって?」
今度はキイの方が、顔をピクリとさせた。
「……何があんたをそこまで頑なにさせているのかなぁ…。
男女という性を越え、愛を貫いたって、この大陸では許されるのに」
「……」
「あ、何かな?やはり血のつながりの方が倫理的に問題?」
「おい、カァラ」
キイは無理やり彼の腕を引き剥がした。
「あれ?核心をついちゃった?」
ふざけたようなカァラの声色に、近くで聞いていたイェンランは胸の鼓動が早まった。
ねぇ、それって…。
「あんたの心を地獄に落したのは、天に通じる身で実の弟を愛してしまったからだ」
その言葉に、キイは息を詰め、イェンランは声が出そうになるのを必死で抑えた。
しかしキイはその直後、ゆっくりと息を吐くと、意外にも不敵に笑った。
「だから?男を抱くことができれば俺が救われると?苦しみから解放されると?」
「…違うの?」
いきなりキイは声を立てて笑った。
「はははっはは…!…お前の事を、服も脱がさずに男と見破ったのは何故かわかるか」
カァラはキイのこの態度に、疑わしい眼差しを向けた。
「いくら女のように着飾り、その辺の女よりも妖艶で美しくとも、お前は所詮は男ということなのだよ。
…お前には女の神なる部分を持っていない。わかるよな?」
「……なるほど」
「そう。俺はこの地に初めて降りた魂(たま)のようだ。
初めて肉という枷にはめられ、生物としての本能に翻弄された人間さ。
はっきり言えば、俺は女の“子を宿す神なる部分”に、本能的に欲情するんだよ。
生殖本能…。ま、皮肉にも、あれだけ獣のようにさかっていても、今まで子供を授からなかったわけだが」
「あんたって本当に内面は野性的だよな。俺のオスの部分を本能で嗅ぎ取っていたってわけか」
そう言いながら、じっとカァラは灰色の目を細め、こう呟いた。
「あー…そうだね。今は時期じゃないんだ。…子を成す事。種がないってわけでもなさそうだし。
可哀相にねぇ、若い時の性欲って並大抵ではないのに…」
「あれ、また人のこと見てるな」
キイは面白そうにカァラを見下ろした。カァラも負けじとキイを見上げる。
「そうだとしたら、やはりあんたは罪な男だな。抱かれる女も可哀相に。
いや、あんたが自分の母親を思い、女に優しく、慈愛を込めて接しているのも、敬っているのもわかるさ。
だから女はあんたを憎まず恨まない。抱かれても文句はないだろう。あ、かえって感謝してるか。
でも結局あんたが、いくらその女に欲情しても、愛しく思っても、その相手を真に愛する事はできないでしょ。
その事に気づいた女は闇を見るだろうなぁ。それをわかってるが故、あんたはそういう闇に落ちそうな女とは寝ないよね。
本当にずるい」
「何でもお見通しってわけかい、坊や。
否定しないよ。俺は元々お前と同じ、背徳を持って生まれたんだ。今更取り繕うこともないさ」
カァラは、薄っすらと笑うキイの目を軽く覗くと、ゆっくりと口の端を上げた。「だからね…」
彼の声色に、キイは何故か真顔になった。
「今ので確信したよ。
あんたが同性に欲情できないのは、雄の本能が働いていること…。自然の摂理なんだ。
情欲よりも、愛よりも、自然の摂理の方があんたの中では勝っている。
どんなに愛し、相手を求めても、現実の世界で相手が同性なら、欲情できないようになっているのか…!」
だからカァラに不憫だと言ったのだ。いくら女の役割ができるとはいえ、所詮は自分も男。キイがなびく道理がない。
カァラは探るような視線をキイに投げかけた。それに気づいたキイは、先程とは打って変わって表情が硬くなっている。
「まるで…、そう、何か制御されてるみたいだ。
現実でそうなってしまったら、何か困ることでもあるの?」
キイの身体が緊張し、強張るのを感じて、カァラはほくそ笑みながら話を続けた。
「陰陽として生まれた筈の二人…。
まるでひとつの魂(たま)がふたつに分かれて生まれてきたような二人。
ここまできれいに分かれていたら、普通は必死になって元に戻ろうとするよねぇ?
よくあるじゃん。自分の魂の片割れ。どんな遠くにいても惹かれあい、結びつく。肉を持ってれば身も心もさ。
同じ魂(たま)が分裂して生まれたのとは違って、ひとつの魂(たま)が真っ二つだろ。 
俺には見えるよ。宵と暁って本当に表裏一体。二人でひとつの、元々が一つの魂だった。
玉を二つに割った場合、再び重ねると、ぴたりと重なるようなね。
…ただ面白いのは、それなのに何故ひとつだけ…」
「遠まわしでなく、はっきり言ったらどうだ?」
キイの声が重く周囲に響く。

いつの間にか嵐は去っていたようだ。外の喧騒が今はぴたりと止んでいた。
そのせいか、二人を取り巻く空間は緊張で張り詰め、話す言葉も異様に響く。
イェンランは身動きできず、息を潜めて二人の話を聞いてしまっていた。罪悪感を感じながらも、今更その場を立ち去る事ができなかった。

「じゃあ、遠慮なく言わせてもらうよ。
どうして、たったひとつだけかみ合わないようになっているの?
本来、陰陽と分かれて生まれてきたのなら、異性同士…男と女として生まれてくる…それこそ自然だろ?」
キイの目が細まった。
「ねぇ、なのにどうしてあんた達は男同士として生まれてきたの?あんたの苦悩はそこじゃない」
「………」
「……苦しいよねぇ。特に肉体を持ってそれじゃあ。……ひとつに戻りたいだろ?ひとつに溶け合いたいだろ?肉体を持つ男と女なら、簡単な事なのに」
キイはカァラの言葉を黙って聞いている。その表情は他人が見ても、よくわからない。

彼はたまにこういう顔をする。怒っているのか、困っているのか、それとも面白がっているのか。
イェンランは、それが彼の強靭な精神力の賜物だと、何故か理解した。そう、キイがそういう顔をする時、それはとても重要な意味を持つ。大きな、何かを悟らせないための…。どうしてそう思うのか、彼女にもよくわからないが…。

「ああ、それじゃもっとやばいか。…近親相姦だものね、完全に」
意地悪いカァラの棘のような言葉に、イェンランの胸は苦しさで張り裂けそうだった。
だが、じっとその話を聞いていたキイは、ふっと息を吐くと、思いの他、明るい声でこう言った。
「確かに否定しねぇよ。ストッパー…、いや、ブレーキ(抑制)という意味ならあれだ。
いくら半分しか血が繋がっていないとはいえ、やっぱまずいじゃん、いくら愛しているとしても兄妹で。
本能でそうなっちゃたら、その方が罪悪感がでかいでしょ」
「理性で止められないから、同性で生まれたわけ?どうして?本当にそれだけ?…しかも何でそんなブレーキが必要なのよ」
そしてカァラはふふん、と鼻を鳴らした。
「…この地で今生、肉によって結ばれないという事は、飢餓感ばかり募らない?その昇華しないエネルギーは何処に向かうのだろう」
カァラのその問いに、キイは小さく笑った。邪眼の彼は、どこまで自分達の事を見透かしているのか。
「愛にも色んな形があるのさ。…お前が重要視する、情欲だけでなくてね」
キイはじっとカァラの瞳の奥を覗い様子見た。
面白いなぁ。一体この子の瞳には、何がどこまで見えているのか…。
「それこそ綺麗事だよ、宵の君」
カァラは珍しく、子供のようにむくれて見せた。
「ははは、そう思うのならどうぞ。…でも、お前のその顔だと、ちゃんと真相を見破ってるんじゃないかと思うがね」


さすが巫女の子、天界の子。一筋縄ではいかないと思ってはいたが。
白いものを黒く染める…のも、楽しいかも、と思っていたカァラは、少しがっかりした。
特に彼は自分と同じような生まれ。普段は人に執着しない、傍観者の立場が好きなカァラでも、ずっと気になっていた男のひとり。彼の存在が自分を生み出したと思えば、ほのかな親近感さえ持っていた。
彼も自分と同じ暗黒面に呼び寄せたら、面白いと思っていた、ずっと。…だが。
「何、そのつまらなそうな顔」
キイの声で、カァラは我に返った。
「知っているんだろうよ、姫胡蝶(ひめこちょう)。そうでなければ、俺の存在を世間にぶちまけないだろ?」
今度はキイの方が、意地悪い言い方となった。
「知っていたの?」
「……俺を侮っては困る。俺にはある筋の情報網があるんだよ。この大陸の情勢をいち早く把握するためのな」
「へーえ。…さすが、【宵の流星】。噂は本当だったんだ。
セドの生き残りである最後の王子が、セドの宝を手に、セド王国を再興し、東を席巻するつもりだと」
キイの片眉がピクリと上がった。カァラは続ける。
「東は今、他国の脅威に怯えながら、自分達の強力な支配者を求めている。…まさしく神王を。
それに納得してない州村もあるけど、今のままでは東がまとまらないという危機感が、セドが滅びてから身に染みているのも事実。
ならばセドの最後の王子をまだ据えた方がよい。神王を立てた方が都合がいい。
しかも王子は、大陸を凌駕するほどの秘宝を持っている。その王子を手に入れれば…。
公表した時の奴らの目、欲望で充血していたのには笑ったよ。
宵の君、あんたさぁ、いつかは東に立とうと密かに思っているんだろう?
だからさ、もっと面白くしてやろうと、俺はあんたの存在を教えてやったんだよ。
究極の指導者を切望している東の人間に、一筋の希望を見せてあげようとね」
「それは、まぁ、お礼を言わなきゃならねぇかい?
…ただ、俺が禁忌を犯した末に生まれた王子だという事を、忘れてもらっちゃ困るぞ。
あの神国オーンが、俺とセドの国を許し、再興を認めるかなぁ?怪しいもんだぜ」
しばらく様子を窺っていたカァラは、次に探りを入れるかのように、小首を傾げ、いきなりこう言った。

「アムイって、面白いよね…」
再び、キイが緊張するのがわかった。
「あの極悪人である俺の親父を、一瞬で廃人にしやがった。…もしかしたらさ。
俺、思い違いしていたのかも」
からかうようなカァラの言葉に、キイは顔を強張らせ、彼の目から余裕の色が消えた。
カァラはしたり顔で話を続けた。
「考えてみれば、おかしな話じゃない、あんたの片割れ…。
…あんたが男性性を強く持って生まれたということは、もう片方は女性性を強く持ってなきゃバランスが悪い。
だけど何だろう?アムイはどう見ても外見も内面も男。…もちろん美しさに関して言えば、あんたと張るくらい見目がいい。男も放ってはおかないと思う。それはわかる。だけど、その魅力があんたと違って幾重にも封じられてる気がするのは…。何か意味があるんでしょ?
……野生動物と同じくらいに鼻の利く奴じゃなきゃわからない、彼の何か」
「……」
「はっ!なら俺の親父も野生動物並みって事か!
あの鬼畜な男が、廃人になってまでもまだ、今でも暁に恋焦がれているのを知っているか?
まるで媚薬にやられちまったかのように、老いぼれてしまった身で、あんたの片割れを思って昼夜胸を焦がしているのを。
親父が暁に触れ、感じたもの…。それこそがあの男の女性性の部分じゃないのか?
奴の花弁に湧き出る蜜腺。その方があんたよりも数倍やばいだろ。
男の身に、本物の女の宮を持つなんて!」
イェンランはキイの顔を見て驚いた。…彼の顔から血の気が失せていた。
「何を勘違いしてるのか、アムイは完全な男だぞ。…まさか身の内に子宮があるとか、陳腐なこと言わないよな?」
しかしさすがの【宵の流星】だ。声にはまったく動揺の色はない。
「ははは。俺だって馬鹿じゃない。
外見は男で、中に子宮を持っているとかいう意味での、両性具有だと言ってるわけじゃないよ。
第一本当に半陰陽者(はんいんようしゃ)※両方の生殖器を持つ者・ だったら、あんたにブレーキは意味ないじゃないか。
俺が言っているのは、この世の現実の事ではない。…見えない世界での話だよ」
「だから?」
「アムイの魂の世界で、ひっそりと息づいている花弁。…それがあらゆるものを惹きつけてしまう。
男も女も、陰も陽も、正も邪も…。何でも受け入れてしまうのは、アムイの持っている“金環の気”と共に、その花弁が大きく作用している。
だから無意識のうちだろうけど、奥深くに隠していたんだよね?アムイが成長するまで」
キイはゆっくりと息を吐いた。まるで、身体の緊張を解こうとしているかのようだった。
カァラの目が意地悪く光った。
「あんたはもうすでに心の闇と戦って、這い上がってきた男だ。
このことについては、もうすでに心の決着はついているみたいだしね。
だからあとは待つだけだ。
アムイが目覚めて、あんたをその花弁で受け入れてくれる時まで。
いつかそんな日がくればいいねぇ、宵の君」
すっと音もなくカァラはキイから離れた。静かになった外の景色をちらりと見る。
もうすぐ、夜が明けそうだ。
「【暁の明星】。すごく興味が出てきたよ…。今の暁なら、あんたよりも楽に落ちそうだ…」
「やめろ!」
キイは思わず叫んでいた。
先程までの態度と違い、見るからに取り乱している様(さま)に、イェンランはぎょっとした。
「アムイに近づくな!指一本、触れるんじゃない!」
その激昂に、カァラはわくわくしていた。
「やっぱりねぇ、宵の君。あんたの弱みはやはり暁の君なんだね。
わかってはいたけど、こんなに簡単に動揺してくれるなんて」
コロコロと笑うカァラの声の響きが、キイの神経を逆撫でする。
「知ってるでしょ?俺を抱くと、もう女は抱けなくなるって。
親父は失敗したけど、相手に快楽を与え、溺れさせるのは親父譲り。得意中の得意でね。
しかも今のアムイなら、どうだろう。何か知らないけど、安定の“気”を持つ筈が、かなり揺らいでいるね。
これは期待していいかもしれない」
「そんなことしてみろ!…ただじゃおかない」
じり、とキイはカァラの前に進んだ。イェンランがふと見ると、キイの利き手は腰に括られている剣に伸びている。
「あれ?俺のことを斬るつもり?…そんなにマジにかっかしていると、益々確信しちゃうなぁ。
……あんた達が通じていない、今がチャンスなんだと」
その言葉で、キイは突然切れた。鞘から自分の剣を抜き、ふぁさ、と肩に掛けていたローブが床に落ちる。
「おお、怖い。本気で怒ったあんたもイカしてるね」
彼の軽口をも無視し、キイはお構いなしに剣を振り上げた。
「あえて見過ごそうと思ったが、アムイに手を出すつもりなら、話は別だ。
姫胡蝶よ、覚悟するがいい」
「覚悟ねぇ」
緊迫した二人の様子に息を呑んでいたイェンランだったが、何気に向けた視線の先に、何かが動いているのに気がついた。
よく目を凝らしてみると、ぽっと小さな火の灯りが見える。
彼女が目にしていたのは、すでに嵐が去った後の、静かな庭先であった。キイ達が近くにいる海側のガラスの扉ではなく、彼女がいる出入り口近い窓の方だった。その方向だと、裏門に続く庭の坂道だ。ということは…。
だんだんと夜が明け始めたのか、薄っすらと周囲が明るくなってきたために、イェンランの目に、その何かがはっきりしてきた。
小さな灯りはひとつ、ふたつではない。…それがどんどん、こちらに向かってくる。
この展望台と、そこから続く離れの屋敷に。

「キイ!」
イェンランは形振(なりふ)り構わず叫んでいた。
突然彼女の存在に気がついたキイは驚いた。だが、その後の言葉で、彼はもっと驚く。
「誰かが来る!こっちに向かって。しかも大勢!!」
「何だって!?」
イェンランの指先を目で追うキイと同時に、カァラは思い切り海側のガラスの扉を開け放した。
その様子に、キイはカァラを振り返った。
「誰かがこっちに来るね」
カァラはそこから外に出ようと扉に手をかけた。開け放たれた所から、海風が吹き込み、カァラの長い髪を躍らせた。
「姫胡蝶」
「俺の迎えかと思ったのに。アベルの奴、何を出遅れてんだ」
ぼそっと独り言を呟くと、カァラは二人に微笑んだ。
「じゃあね、宵の君、気の強いお嬢さん。
この大群は俺の迎えじゃないけど、その後に続いて来てるみたいだから、俺は帰るよ。
ま、優しくしてくれたお礼に、今回は見逃してあげる。
…その代わり早くここから出な。鼻の利いた奴らが、血眼になってあんたを捜しに来たぜ」
生意気な口を利くと、カァラは軽々と外に飛び出した。

それと同時だった。
突然、屋敷の壁に向かって火が放たれた。

「きゃあ!」
思わずイェンランは悲鳴を上げた。
小さな火の灯りは、矢につけた火種だったのだ。
矢の火は大きく燃え、上に登ってぼっと木造の屋根に燃え移った。
その後に続いて、火はどんどん屋敷に向かって放たれる。

「まずい!あいつら、俺達をあぶり出そうとしてやがる!
早く皆に知らせねぇと!!」

二人は展望台から、燃え広がろうとする屋敷に向かって、必死に走り出した。


「ふふふ。出て来い、【宵の流星】よ。この火が燃え盛らぬうちに」
明るくなっていく空と共に、赤々と照らされる建物を眺めながら、少し離れた場所でティアン宰相は呟いた。
「宰相、大丈夫でしょうか。逃げ遅れて焼け死んでしまうなんて事…」
ティアンの後方で控えている、弟子で研究の助手でもある、腹心の側近チモンが不安そうに言った。
「そいつは抜かりない。火の量も燃え広がり方も、全て計算している。しかも嵐で何もかもが湿っておるしな。
それにミカエル率いる、私の気術特殊部隊が指揮を取っておるから、心配はしておらん」
そしてティアンはにやりとすると、こう付け加えた。

「あの宵と暁が簡単にやられるわけがないじゃないか。見てろ、時期に慌てて逃げ出てくるからな」

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2010年11月12日 (金)

暁の明星 宵の流星 #123

あれから部屋に引きこもってしまったアムイを気にかけながらも、イェンランは浴室の扉をノックした。
「あの。足の方は大丈夫ですか?…何か着替えでも手伝いましょうか?」
扉の向こうから、掠れた声がした。
「ええ、もう大丈夫です。…何とか着替えられましたから」
しばらくして扉が開き、タオルで長い髪を拭きながら、この寺院に運び込まれた女が現れた。
少し、片足を引きずっているようだが、顔色は先ほどよりも悪くない。いや、白い顔にうっすら紅が差し、何とも艶かしく、女のイェンランでさえドキドキするほどの色香を放っている。
彼女は寺院に備え付けられている修行僧の地味な衣服を借り、身に纏っていたが、それがかえって皮肉なことに、類まれな妖艶さを引き立たせていた。
それほどに目の前の女は、圧倒するほどの美女だった。
年の頃は二十代も初めほどか、落ち着いた風情であるが、少々童顔なのが愛らしさを醸し出し、ガラス玉のような灰色の瞳が、全てを見透かしているような、不思議さを持っていた。…あの、禁欲をも修行の一つとしている修行僧をも、惑わされそうな…。
「本当にありがとうございます。助かりましたわ」
女はイェンランに微笑みながら近づいた。
「いえ。こんな嵐ですから、お着物が乾くかどうかわかりませんけど、何とかやってみますね」
「まぁ、そこまで…。何とお礼を申したらよいか!このような身元も知れぬ人間を…。
寺に救いを求めれば、無下にはしない、というのは確かですわね」
彼女はそう言うと、足を庇いながら部屋の中央にある座椅子にゆっくりと腰掛けた。
寺院の離れでもあるこの屋敷は、元々貴賓客が使えるようになっている。中には、各々浴室や洗面所が備え付けられている豪華な部屋もある。女はこのような部屋の一室に運ばれたのである。…キイが抱えて。
「でも。このような寺院に、こんな可愛らしいお嬢さんがいるなんて、思ってもみませんでしたわ」
「あ、イェンランといいます。その、私達もここでちょっとお世話になってまして…えっと…」
「カーラです。…本当によかった…。もう少しで私、殺されそうだったから…」
「殺される!?」
カーラはあっと口を手でふさいだ。だが、意を決したかの様に、おもむろに話し始めた。
「…実は、家が落ちぶれて」
カーラの顔に陰りが差した。
「それで私、娼館に売られることに…」
「なんですって?」
イェンランは思わず大きな声を出した。
「それを拒んで抵抗し、逃げてきたんです…。私が逃げられないよう、足を狙われたのですが…。
でも、運がよかったのですね。何とかここまで逃げて来れました」
そこまで言うと、カーラは急に不安そうな顔をした。
「ああ、でも。…もし追っ手がここを嗅ぎ付けて来たらどうしましょう…。
皆さんに迷惑かけるし…連れ戻される…」
はらはらと、真珠のような涙を流し、カーラは自分の袖で涙を拭った。
その様子に、イェンランは居た堪れなくなった。まるで15歳の頃の自分を見ているようだった。
「ああ、泣かないで。大丈夫よ!寺に助けを求めたのは賢明だわ。それにここには腕の立つ者がいるから、相手が力づくで来ても追っ払ってくれる。安心してね」
イェンランは完全にこの女に同情していた。きっと死に物狂いでここまで救いを求めに来たに違いない。
ならば、なるべく手を貸すのは当たり前だ。…これ以上…自分みたいな女を増やしたくない。
だが、そのイェンランの同情も、次の彼女の言葉と様子で、凍り付いてしまった。
「腕の立つ者って、先程の武人さん…かしら?ほら、私を運んでくれた…。
なんて素敵な方かしら。…ねぇ、あの方のお名前教えてくださらない?」


「な~るほどねぇ、確かに凄い美人だわ」
感心したようにシータが言った。
ちょうど昼食時で、ほとんどの人間が食堂にいた。
シータの横で、イェンランはぶすっとした顔をして、さっきから豆をつついている。
その斜め前で、キイとカーラが肩を並べて座っていた。
「うわぁ。本当にフェロモン対決!あの二人が肩を並べてると迫力あるっていうか、妖しい“気”がぷんぷんするわねー。見るからに絵に描いたような美男美女じゃなぁい?お嬢」
面白がっているようなシータの声に、イェンランは益々へそを曲げた。
「本当にお似合いですね。大人のカップル、っていう感じでしょうか」
目の前で食事を取っているリシュオンも、ちらちらと横目で二人を窺いながらさらりと言った。そのリシュオンの何気ない言葉に、イェンランは最高に苛ついた。
「………」
傍(はた)からみても、イェンランの機嫌の悪さは一目瞭然だった。
…このカーラ、という女性。イェンランに服を乾かしてもらった早々に、美しく着飾り、ああして先程からキイの横を我がもの顔で陣取っていた。…誰が見ても、彼女がキイを憎からず思っているのは見え見えだ。
「キイ様は何がお好きなの?…よろしかったら私、取りに行きますわ」
「いや、自分で飲み物ぐらい取りに行きますよ。それよりもどうです?足の方は」
「まだ、少し痛むんです…。よかったら見ていただけます?」
そう言いながら、カーラは長いドレスの裾をするりとめくると、形のよい白い足をキイの目の前に晒して見せた。
皆はその様子にぎょっとしたが、何もないかのように見て見ぬ振りをした。
「ははは。俺は医者じゃありませんよ。せっかく見せていただいたけど、何も役には立てません。
ま、目の保養にはなりますが」
キイも満更ではなさそうに、快活に笑った。それにつられてカーラもコロコロと楽しそうに笑う。

何よ、あれ。
イェンランの心も嵐が吹き荒れていた。
娼館に売られるのが嫌で逃げてきた筈のカーラの、このこれ見よがしの色仕掛けにも呆れるが、彼女にベタベタされて鼻の下を伸ばしている(イェンランにはそう見える)キイもキイだ。
…言葉使いまで、何を気取ってるのよ、キイったら!
イェンランは面白くない。

「まー、ああいう露骨なタイプにも、キイは弱いものねぇ」
シータの言葉に、イェンランはドキリ、とした。
「若い時のキイなんて、来る者拒まずだったし。今はどうだかわからないけど」
皮肉っぽくシータが意地悪く言った。
「そうなんですか?そんな感じには見えないけれど…」
頭から湯気を出しているイェンランの様子を気にして、リシュオンがどうにか取り繕うと口を開いた。
「天下の【宵の流星】の女好きは有名なのよぉ~、東では。他国の方は知らないでしょうけど」
ぶんぶんと手を振り回し、嫌そうにシータは言う。
彼はよっぽどキイのお盛んな女性関係が嫌いとみえる。それでかなり苦労したような言い方だ。
「アイツは肉食獣だもの。キイの姿形に騙されちゃ駄目!あんな儚げで柔な風情をしているけど、中身は獰猛な雄よ、雄。あの容姿で相手を油断させて、パクリっていうのがキイなんだから!
アタシもアムイも、昔からアイツの女関係でどれだけ迷惑したか…」
そこまで言うと、シータはちょっと真顔になった。
「キイも困ったヤツだけど、アムイもどうしたの?朝からずっと部屋から出てこないなんて」
その言葉に、イェンランは我に返った。

…聞いちゃったのよね…。キイの秘密。
その時のショックが思い出された。自分だってかなりの衝撃だった。
あの時の様子だと、アムイもきっと知らなかった筈だ。
イェンランはアムイがあれからずっと部屋に篭っている事が辛かった。アムイの気持ちを思うと、暗澹たる気持ちになる。

「サクちゃんとの事かしらね?
…肝心なサクちゃんも、食べたらさっさと部屋に引き篭もっちゃうし。…気になるな…」
「あ、私、後で声かけてみる」
イェンランはそう言うと、さっと席を立った。
「あら、お嬢。あなたまだおかず残ってるじゃない。…お嬢まで食欲ないなんて、どうしちゃったの…」
その言葉をわざと無視して、イェンランは弱々しく笑うと、そのままお盆を下げに行ってしまった。
「私が西の国へと、無理に勧めたからでしょうか…」
リシュオンが沈んだ顔で、ポツリと言った。
「王子…。そんな事はありませんよ。あの子だってちゃんと、自分の身の振り方を考え、決められます。まぁ、ここ数日、きっといろんな事があって、いっぱいなんだと思いますよ」
シータはリシュオンに気を遣わせまいと、優しくそう言いながら微笑んだ。


そうは言っても…。
イェンランはあれから幾度となく、アムイとサクヤの部屋に行ってみた。
だが、サクヤは対応してくれはしても、思ったとおりにアムイは全く反応しない。
「……あのね、実は…」
「ん?」
自分の中で事が大き過ぎて、つい、イェンランはサクヤに言いそうになった。
「ううん。何でもない。…ごめんね、考え事してるときに」
アムイの事を相談したくても、それはキイの秘密を漏らすことになるのと同じなのだ。
キイはあれから何もなかったかのように、普段の態度で接してくれていたが、どう考えてもこれ以上他の者に話してはいけない内容だ。
なのに、あんな食堂みたいな、いつでも誰かが入ってきそうな所で話してるなんて…。
イェンランはそこまで考えてはっとした。
キイはもしかして、もう隠す事が苦しかったのではないかしら…。
いつかはアムイに本当の事を言わなければならないと、キイだって苦悩していた筈だ。
でも、まさかちょうど本人がその場に来るとは、思ってはいなかっただろうけど。
そう思うと、キイの気持ちが切な過ぎる。

イェンランはそう思いながら自分の部屋に入ろうとして、カーラとばったり出くわした。
「あら」
カーラは妖艶に微笑んだ。思わず硬くなるイェンランに、彼女は何か面白げな視線を送った。
イェンランはむっとする。…なんか、彼女に同情した自分が馬鹿らしくなってきた。
「これからどうするんですか?カーラさん」
重い口調でイェンランは言った。
そうなのだ。いくら救いを求めてここに来たとしても、ここは尼僧院ではない。
自分達だってこの嵐が去れば、ほとんどの者がここを立ち去る…。まぁ、あの話だとサクヤだけは残りそうだけど。
逃げ出してきたという彼女は、これからどうするのだろうか。
「まぁ、普通、尼僧院を紹介してもらって、門下に入るのが、女なら一番安全かしらね?いくら乱れたこの世とて、尼には手を出せないでしょうから…。ま、中にはそういう尼の禁忌を、好んで無理やり破る輩もいるらしいけど」
「……」
どうもイェンランは、この女に違和感を感じてしょうがない。
見た目はもの凄い清楚な美女なのに、ハスキーな声で語る話も話し方も、何やら淫猥な雰囲気が漂って、イェンランに嫌悪を感じさせる。
「…行かないんですか?尼僧院」
イェンランはわざと冷たく言った。
カーラは頑ななイェンランの態度にくすりとすると、彼女を舐める様に、そのガラス玉のような瞳で見つめた。
「心配してくれてありがとう、イェンラン。ほんっとうに可愛らしい方ね、貴女って」
「…そうですか?」
「そうよ。女として愛らしくて魅力的。頭の回転もよくて度胸もあるし。…残念なのは固い蕾のまま、というのが、また…」
カーラは知ったような口調で言い、それがイェンランの気持ちを逆撫でした。
「どういう意味ですか?貴女に私の何がわかるというの?」
その言葉にカーラは不気味な笑いを返した。イェンランはぞっとした。
「ごめんなさいねぇ。私には貴女の事が手に取るようにわかるの。
…キイ様の事を好いているのも、…それなのに女を封印している事も」
イェンランは驚きのあまり、顔から血の気が引いた。何故?何故今朝会ったばかりのこの人に、見透かされてるの?そんなに自分は、周りから見ててわかりやすいのだろうか。
だが、カーラの次の言葉で、イェンランの驚きは言いようのない恐れに変わった。
「…男を知らないってわけでもないのに、男に抱かれる事を極端に嫌悪している。…だから蕾だと言ったの。
…本当の女の快楽も知らない小娘のくせに」
カーラの容赦ない棘のある言葉に、イェンランは身が竦んだ。
「残念よねぇ…。貴女のようなお子ちゃまには、キイ様のような大人の男の相手はできないわ。…あのくらいのレベルの男が、男を怖がって逃げ回っている小娘になんかに満足しないでしょうしね。早く諦めた方が、お嬢さんのためだわ」
「…どうしてそんな失礼なことを言うの?」
怒りで震えるイェンランに、カーラは憐れみの視線を送ると、艶かしい笑みを浮かべた。
「……思い切って好きな男に抱かれてみたら?できるものならね。
まぁ、そうは言っても、彼が貴女を相手にするとは思えないけど」
イェンランはギリ、と彼女を睨み付けた。
「おお、怖い。こうまで言われても負けないわねぇ、貴女。なかなか見所あるじゃない?
これからの大陸には貴女のような女性が台頭してくるんでしょうねぇ」
「……ねぇ、わざと怒らせようとしているの?」
その言葉にカーラは目を丸くし、次の瞬間声を立てて笑い出した。
「ほっほほほ…。いいわぁ。けっこう鋭いのね。
…こういう気の強いの、私は好き。でもね、お気をつけなさいな、お嬢さん」
カーラはそう言うと、目を細めた。
「気をつける?」
「こういうガチガチに固まっている頑なな女こそ、一度快楽の味を覚えると脆いわよ」
「……」
「せいぜい、悪意を持つ男に抱かれないようにね。快楽を覚えさせられて破滅した人間を、私は何人も見てきているのだから」
イェンランは彼女のガラスのような灰色の目の奥に、悪意を垣間見た気がして身震いした。
彼女はにやり、と笑うと、自分の部屋に戻ろうとしながらこう言った。
「安心して。もうすぐしたら迎えが来ることになっているから」
「迎え?」
思わぬ答えにイェンランは目を丸くした。
「その間に、キイ様にうんと慰めてもらおうかしら…。本当に思ったとおり、人間(ひと)の欲望を掻き立てる人よねぇ」
「カーラさん!」
イェンランは思わず、立ち去る彼女の背中に叫んでいた。
怒りの後に、もの凄い悪い予感が彼女を襲ったのだ。
カーラはキイに何かするつもりだ。…何か…というのは、イェンランには考えたくない事柄だけど、彼女がキイを狙っているのは確かだ。
(いや!…そんなの…)
あの彼女の妖艶な指がキイの髪をまさぐる…という想像を思わずしてしまい、イェンランは身震いした。妬けつく様な、どす黒い感情が湧き起こってくる。そしてカーラの濡れた唇が、キイの頬を辿って彼の柔らかそうな口元に落ちてきて…。
ぶるぶると、イェンランは大きく首を振った。
…アムイは誰振りかまわず女と寝る男ではない、と言っていたけど、さっきのキイは満更でもなさそうだったし…、シータは来る者拒まず、って言っていたし…。
何だか泣きそうになって、イェンランは自分の部屋に駆け込んだ。


昼頃がピークだと言われていた嵐の勢力は、一向に衰えもせず、その奔放な雨と風は夜半近くになっても人の神経を逆撫で続けていた。
(眠れない…)
夕飯が終わり、やるべき事を済ませて、皆、明日に備えるために部屋に戻ってから、かなりの時間が経っていた。
特にこの嵐が、眠ろうとするイェンランの目を覚まさせてしまう。

《明日、返事くださいね、イェンラン。貴女にとって、悪い話ではないと思いますから》
そう爽やかに言う、リシュオンの言葉が思い出される。
イェンランは実はまだ迷っていたのだ。
どう考えても、自分の行く道は西の国…。確かにあのアイリン姫のお世話ができれば、自分も嬉しい。
でもやはり。どうしてもキイの事が心に引っかかって、彼女の気持ちは定まらなかった。
しかも、あのカーラの挑戦的な言葉。キイへの誘惑。
…眠れる筈もなかった。
それなのに、堂々とキイと向かい合おうとする勇気すらもない。意気地なしの自分に腹が立つ。
イェンランは大きくため息をつくと、そろそろと寝台から降りた。
…アムイに話してみようかな…。
それに夕飯にさえ顔を出さなくて、シータが食事を部屋に運んでいたくらいのアムイの様子も気にかかる。
イェンランは意を決すると、そっと自分の部屋を出て、アムイの部屋に行こうと薄暗い廊下を歩き始めた。

そのとき、遠目ではあったが、ふっと女の影が横切ったのを見て、イェンランの足が止まった。
(まさか、カーラさん?)
彼女が出てきたのは、アムイの…いや、隣にあるキイの部屋の辺りだった。
イェンランは胸騒ぎがして、彼女が向かった方向に自分の足を向けた。

外は雷鳴を伴うほどの大嵐だった。
雷のお陰で所々屋敷内に閃光が走り、外廊下はかえって賑やかであった。
それは庭先に続く回廊になっていて、こんな時間、こんな嵐には、人なんているわけがなかった。
案の定人の気配もなく、廊下は雨で濡れており、イェンランは足元に気をつけながら彼女の後を追った。
その回廊の果てには、海を見渡せる屋根付の展望台となっており、特に海側の方には開け閉めのできるガラスの扉が備えられて、このような風や雨を凌げるようにできていた。
…どうやらカーラはそこに向かっているらしかった。
(何で、こんな所に…)
いぶかしみながらも、そっと展望台の入り口に差し掛かったイェンランの目に、信じたくない光景が目に入ってきた。
(キイ!)
イェンランは息を詰めた。
その展望台のガラスの扉の前で、柔らかな灯りの下に佇んでいたのは、なんとキイだった。
(そんな…)
キイは怖い顔でガラスの扉ごしに、外の景色を眺めていた。外は真っ暗でよくわからないが、その様子はまるで奈落の淵のように、世界に渦を巻いているように見えた。
その対比として、肩に羽織った長めのローブに、キイの長い絹糸のような髪がまとわりつく立ち姿は、遠目からでも溜息が出るほど美しかった。
カーラはそんな彼の姿を認めると、満面の笑顔で近づいていく。
(まさか、逢引き?)
血の気の引いたイェンランは、いけない、と思いながらも物影に隠れ、二人の様子を窺った。


「キイ様」
カーラは艶めかしい声で彼の名を呼ぶと、キイの背後に立った。
「おや。君も眠れなかったのかい?」
先程までの怖い顔が、彼女に振り向く時にはすでに、いつもの優しい笑顔となっていた。
「ええ。ちょっとお話がしたくてお部屋に伺ったのですが、いらっしゃらなかったので。お捜ししましたわ」
その言葉に、キイの目の奥が光ったような気がした。
「よくここに俺がいるって、わかったねぇ」

イェンランは、二人が逢引きの約束をしたのではない、とわかってほっとしていた。
いや、だからこそ、やはりカーラはキイを誘惑するつもりなのだろう。
本当なら、こんなこそこそと隠れて盗み見ているなんて、人としてはしたない事だとイェンランだってわかっている。
だがそれ以上に、二人の間に流れる空気が、彼女の足を釘付けにしていた。

「思う方のことなら、何でもわかりますわ」
早速カーラはキイの頬に手を伸ばした。
イェンランはどきっとする。
「ほう、何でも…ね」
キイはカーラを見下ろすと、謎めいた笑みを浮かべた。
「初めてお会いしたときからこのカーラ、貴方様の事を忘れられません…」
カーラも妖艶な微笑を湛(たた)え、もう片方の手をキイの胸元に忍ばせようとした。
「おっと」
突然その手を、キイは遮るかのように自分の手に取った。
「キイ様?」
「いつもこうやって男を誘っているのかい?」
キイの声に、からかうような様子が覗いて見えた。
「…あら。来る者拒まず。噂では天下の宵様は女の誘いには抗えないと聞いておりますわ。
今更そんな、無粋なお方ではありますまいに」
いきなりキイは笑い出した。カーラの目が鋭くなった。
「あんたが本当に女ならねぇ」
その言葉に、カーラも、物影に隠れていたイェンランも固まった。
「まぁ、最近は俺もいい歳になっちまったようで、昔みたいな節操なしじゃなくなったけどな。
それでも相手は好みな女じゃねーとなぁ。な?坊や」
その科白に、カーラは美しい顔を憎らしげに歪めた。
(え、ええ?坊やって…?まさか…お、お、男!?)
イェンランにとって、気を失ってしまうくらいの衝撃だった。だが、そこは何とかいつのも気丈さで持ち堪える。
(信じられない…!どう見たって、女の人じゃない!…え、え、??じゃ、身体は男って事だから、胸もないし…ついてる物はついてるって事…よねぇ…?)
彼女は少々パニックに陥っていた。

じっとキイを睨みつけていたカーラだったが、彼も突然大声で笑い出した。
「あーはっはっは!…参ったねぇ!さすが噂の【宵の流星】。
俺の服を脱がせずに、男と見破ったのはあんたが初めてだ!」
女を装うために使っていた声色から、がらっと男の声と口調になったカーラに、イェンランは益々びっくりした。
それでも彼の声は普通の男性よりは高い。まるで少年のようだった。
「お前、何者だ」
キイは目を細め、カーラの両肩を掴んで自分から引き離した。
「…お会いしたかった、宵の君」
にやり、とカーラはキイを下から見上げた。
「……光の姫巫女を陵辱し、生まれた王子よ。あんたがどのような人間か、俺は子供の頃から興味あったんだ。
…あんたと同じ、子供目的で、嫌がる女を無理矢理に犯して生ませた子、としてね」
カーラの言葉に、緊迫した空気が流れた。
「…お前、もしかしたら」
キイの目が益々細くなった。
「へぇ。何も知らないようで、意外と調べてるって感じだね、宵の君。
そうだよ、俺はあんたの代わりとして実験で生まれた子供さ。
セドの王子が巫女を犯して生まれた禁忌の子供があんたなら、俺は吸気士が第九位気術士の女を犯して生まれた子…。
いわば、あんたと俺は愛のない営みでできた子供同士っていう事だ」
「という事は、お前、シヴァの息子か」
「へぇ、よく知ってるねぇ。そう、俺はカァラ。姫胡蝶(ひめこちょう)という異名を持つ。
で、…そのシヴァをけしかけたのが誰かは?」
「いや」
ふぅん、と彼は鼻を鳴らした。
「そいつ、おかしいぜ。寝ても覚めてもあんたとセドのお宝のことばかり。
…しかも俺をあんたの身代わりに散々おもちゃにしやがって…。
ま、そんな事はもういいんだ。もう俺も成人してるし、今は結構楽しくやってるし…」
「その誰かって言うのは?」
「あんたも薄々気づいてるだろ?何度も会ってるじゃないか。…子供の頃も大人の時も」
「………子供の頃は覚えがねぇが…」
キイは眉根を寄せた。「……かなり気術に詳しい奴で、胡散臭いっていったら、あれだな。賢者衆を追い出された奴だろ?」
カァラはくすりと笑った。「なんだ、わかってるじゃん」
「じーちゃんが嫌っていた奴か!ああ…あのセクハラ親父」
前に南の国の護衛として雇われた時、発作で苦しむ自分の身体を撫で回された…。
思い出しても鳥肌が立つ。絶対、関わりになりたくない相手だ。
南の国の宰相ティアン…。
奴がこの自分を執拗に追いかけているのか…。
というか、多分セド王国の術士、マダキの弟子であった男だ。マダキはセドの裏経典を暴いた男。その弟子ならば、セドのお宝に熟知していておかしくはない。ならばその執念もよくわかる。…だが、その宝の真の部分はいくら研究したってわかる筈もないだろう。…あんな男なんかに。

キイの揺れ動く心を見透かそうと、カァラは目を細めた。

それに気づいたキイは、カァラの顔を覗き込み、凄みのある声でこう言った。
「それで?お前は何の目的でこの俺の所に来た」
カァラは悩ましげな視線をキイに投げかけると、おもむろにこう答えた。


「あんたの苦しみを解放してやろうと思ってさぁ。
…宵の君、俺と同じ、こちら側の人間になりなよ。

…男に抱かれるのは駄目でも、女のような男は抱けるかもしれないだろう?」

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2010年11月10日 (水)

暁の明星 宵の流星 #122

嵐はどんどん酷くなっていく。
北の第一王子の好意で、彼の友人の屋敷にしばらく滞在していた南の王女リー・リンガは、イライラしながら窓の外を眺めていた。
「王女、仕方ないではありませんか。このような嵐では、ここを出るには無謀すぎますぞ」
彼女の護衛、モンゴネウラが呆れたように言った。
「…だって」
「お気持ちはわかりますが。……確かにあのような話を聞くとですね」
「まぁ、これであちらは【宵の流星】確保に本格的始動、というところですしなぁ。
ということはつまり、彼らの後を追えば、必然的に【暁の明星】も…」
モンゴネウラの隣で、南の将軍ドワーニが気楽な調子で言う。
「……だからこそ、ここで嵐があがるまで待っていられないんじゃないの」
リンガは優美な眉をしかめて二人に向き直った。

実はつい今朝方、ティアン宰相に会いに彼の息のかかった兵士がこの屋敷にやって来たのだ。

その時ちょうどリンガはティアンと北のミャオロゥ第一王子と、朝食後のお茶を飲んでいた。
うっとりと彼女を見つめるミャオロゥ王子の視線を疎ましく思いながら、リンガは気のないそぶりで二人の話を聞いている。
「どうです?この話、悪くないと思うのですが」
「いや、これはとてもいい話だ。…もし、この宵の件が上手くいきましたら、直々に我が大帝にお話を持っていてもよろしいですぞ、王子」
ティアンの返事に満足気に頷くミャオロゥは、またまたねっとりと前方にいるリンガを舐めるように見た。リンガの背筋がぞっとした。
「リンガ殿」
突然、ミャオロゥはテーブルに置いていた彼女の手を取った。
「…まぁ、お戯れを、王子」
リンガはわざと妖艶に微笑んだ。内心ではかなりの悪態をついていたが。
「この北と南を強固にするには、私と貴女が結婚するのが一番だ。
南の王女を娶ったとなれば、私も王家での株が上がる。
いや、元々この国は私がいなければ回らない。……今はわけあってここにいますが、セド王家の秘宝を手にさえすれば、この大陸は北と南の天下となる。…巨大な王国の誕生、というわけですなぁ!これはもう、いまだかつて誰も成し遂げた事のない、大陸統一に向けての第一歩となるでしょう」
偉ぶって興奮し、唾を飛ばしながら話すミャオロゥに、リンガはうんざりした。
…確かに、敬愛する兄帝王のため、愛のない政略結婚に身を投じていたリンガであった。(その代わり、好き勝手に男妾を持っていたけど)だが、それは愛する兄の頼みだったからだ。誰が好き好んで好きでもない男に足を開くか。
リンガはむかむかしてきた。だがそこは一国の王女。無礼な振る舞いは、はしたないと躾けられている。
彼女は出来る限りの微笑を相手に向けると、そっと彼の手をはずす。
「…そうですねぇ。王子が見事、秘宝を手にされたならば、我が兄君もお許しになるかもしれませんことね」
まったく、冗談じゃない。何でこのわたくしがこんな豚みたいな男と!
ミャオロゥ王子は、痩せていればそんなに悪くない容姿だと思う。かなり好意的に見て。でも。
太りすぎではないが、小太りで、脂ぎっている。…リンガとしては、できればお近づきにはなりたくないタイプである。

好色そうな目をして、この男は。…南の大帝の同母妹であるこのわたくしを、まるで場末の娼婦を見るような目つきで…。なんて失礼なのかしら。

リンガは表では笑顔を作りながらも、心では王子を罵倒していた。

その時だ。北の警護の者が、ティアンの客だと数人の男達を連れてきたのだ。
「ティアン様、リドン帝国(南の国)のミカエル少将殿がお見えになりました」
「ミカエル?」
居間の片隅で待機していた将軍ドワーニが呟いた。
ミカエル少将といえば、稀有な気術専門の将校。…このティアン宰相直々の配下のものだ。
元々ティアンは、賢者衆の一員でもあったほどの気術士だ。気術使いの者を配下に直に置くのは当たり前である。
しかもこのミカエルという男。南の国でも3本の指に入るほどの優秀な気術士で、南の鎮守・炎剛寺院(えんごうじいん)所属の名のある高僧の嫡子であった。本人は父の寺を継ぐ意思は全くなかったようだが、一応、その時は修行僧であった。
それをティアンが宰相となった時、彼に見出されて寺を辞め、軍に入ってきたのだ。
「おお、ミカエル。何かあったか」
ティアンは珍しく上機嫌になって彼を迎えたが、その彼の背後でひょろっとした背の高い男が目に入った途端、顔をしかめた。
「ヘヴンまで一緒とは…。はて、何か嫌な“気”が漂ってきてるような…」
汚らわしいものを見るような目つきで、傭兵であるヘヴン=リースをじろりとティアンは睨んだ。
ヘヴンはそんな露骨な態度のティアンには全くお構いなしに、ニヤリ、と笑う。
「大ありですよ、宰相。…そうでなければこんな嵐に、わざわざ貴方の所へは来ませんね」
ミカエルが苦笑して言った。確かに、彼らの髪も衣服も濡れている。
ティアンの細い目が光った。
「その様子だと、進展があったようだな、ミカエル」
その言葉に、その場にいた者が皆、緊張する。
「はい。暁に会いました」
ざわ、と一瞬、部屋がざわめいた。特にリンガは小さい悲鳴をあげると、すぐに息を詰めた。
「そうか!暁を見つけたのか!…という事は…!!」
ティアンの嬉々とした声が部屋に響く。
「まぁ、話をお聞きくださいよ、宰相」
まるで子供のようにはしゃぐティアンに、ミカエルは困った顔して笑みを浮かべた。
「ああ、そうだな!…ミカエル、早くこっちに来て座れ。誰か、この者達に茶を入れてくれ!」
ティアンはそう叫ぶと、ミカエル達を手招きした。


激しく打ち付ける豪雨の最中、ひっそりとした海辺に佇む屋敷の中で、ミカエル少将の説明が続く。
海は風を受け荒れ狂っている。その様子は、地獄の口がぱっくりと開いてるような錯覚に陥るほどに。
何ともこの先の行く末を知っているかのようだ。

「…と、いう事なのです」
ミカエルは一通り喋ると、渇いた喉を潤そうとお茶を口に運んだ。
「……暁達を手助けする者がいる…」
「ええ、さっき説明した様子では…。ねぇ?宰相」
ミカエルはもったいぶった風に笑った。
「…雷雲の術。雷小僧、昂極大法師か。ふん。そんな事だろうと思っていたよ」
ティアンは憎憎しげに吐き捨てた。
「ならば、早いうちに手を打たねば。…宵様を手にするには、北の国境を越えさせてはなりません」
背後で、ティアンの腹心である側近がそう囁いた。
「確かにその通りだ。
ふふ。まぁ、予想はつき易い。昂のおいぼれが絡んでるとなれば、奴らの次なる目的地は東しかない。
…聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)…。あのおいぼれだけで、キイの封印を上手く解けるわけがない。国境越えは必須だろう。
だが、こうなると勝手が違ってくる。あの東の荒波(あらなみ)が北にまで顔を出してくるとは…。
となれば今の東も、荒波以外の州村、小国もこぞってキイを狙っている状況ということか…。【宵の流星】巡っての骨肉の争いとなるのが目に見える。
…東に入られると面倒な事になるな。
キイを北から出すわけには行かぬ。今はまだ競争相手が少ないうちに、何とかせねば…」
ティアンは苛々と歯軋りをした。

ここに来て、今更ながらに吸気士シヴァの息子、カァラの存在がひっかかる。
何故、カァラはあのような事を私に言ったのか?

《暁と通じていない、今が好機だからね。
あの二人が結ばれたら…もう宵は一生手に入らないと思ってもいい》

何故、カァラはキイの素性をあのように大胆に世間に公表したのか?
しかもそれを自分に一言もなく、だ。
もちろん成人してから滅多に会わなかったが、まかりなりにも、彼の育ての親と同然な自分に。
この自分が、宵の君を必死に追っているのも、知っていた筈だ。
いや、知っていたからこそなのか?…彼が自分に嫌がらせをしているようにしか思えない。
あんなに夜毎、可愛がってやったものを…。
ティアンは溜息を付いた。

「で、どうなのだ?逃げられた、だけでお前が私の所に、のこのことやってくるとは思えない」
ティアンはじろり、とミカエルを睨み上げた。
「まぁ、そうですね。…一番の収穫は暁と戦った事ですよ。…しかも奴の血の匂いのおまけつきだ」
ミカエルはにやっとして、隣のへヴンの顔を見た。
「血!?」
咄嗟にリンガが青くなって叫んだ。
「そうさ、あの天下の【暁の明星】の額をこう、ぱっくりとね…。
いやぁ、久しぶりだったなぁ。アムイの真っ赤な血…。綺麗だったぜ。白い整った顔を彩って」
ニヤニヤと話すへヴンに、吐き気にも似た気味悪さを感じて、リンガは後退(あとずさ)った。
(何?この男。…まさか、アムイの事を…)
リンガはピン、ときた。それは女の勘だった。
この男、アムイに只ならぬ執着をもっている。自分だって負けないくらい彼に執着しているからわかるのだ。
ちょっと過激度?には差があるが、この男は自分と同じ匂いがする。
(シヴァといい、この男といい…。ううん、こうなったらあのカァラ…姫胡蝶(ひめこちょう)も怪しいわ)
リンガは身震いした。彼女は自分がアムイに対してやろうとしている事を棚に上げ(彼女にとってそれが無理強いであるとは露ほど思っていない)、急に保護本能が湧き出てきたのに自分でも驚いた。
一応、子供を産んだことがあるから、保護欲、というものがあるのを自分も知っていたが、今まで成人した男に対して、このように感じたことはない。それが嫉妬心と混じって、彼女の心を乱れさせた。
(アムイをケダモノ達から守らなきゃ!)
アムイを狙っているのなら、自分も“ケダモノ”のうちには入らないのだろうか。
彼女にはそういう感覚は全くない。思いもしていないであろう。
それは彼女の思い上がりにも一因していた。男は皆、自分のような女に必ず惚れると、信じて疑ってないのだ。だから無理やり実力行使しても、結局は感謝されると思い込んでいる。…受身の存在である女は、男に何しても許されると思っているのだ。

「特に嵐のおかげで、びんびんと匂ってきますよ。風に乗ってね」
ミカエルが指を立てて、得意げに言った。
「ほう」
「…強烈な血の匂い…。それは雨なんかで簡単に消されは致しません。
それに加えてその血液に含まれる“金環の気”。…これは大きい。
私にとって、大きな足跡を残してくれていると同じですよ」
「そうか!なら、暁の居場所はわかるな!?」
「辿ればね…。ただ…」
身を乗り出したティアンに、ミカエルは目の前で手を振った。
「何だ?」
「慎重に、それに兵を沢山集めましょう。…あの暁には仲間がいます。
確かに昂極大法師が絡んでいるとしたら、一人二人だけではなさそうだ。
…事実、暁を連れ去ったのだって、どこかの小隊でした」
「…ふぅん、暁に仲間…ね」
ティアンは顎を手にして、宙を睨んだ。
やはり宵を手にした今、一人だけでは彼を守りきれないのだろう。
「それ以外に東の荒波、ユナの民…が、彼らを追っているのは明白。
特にユナ人は、暁に何か私怨があるらしく、執拗に追っかけていた。
…この様子では、先手を打たなければ、先を越される恐れがある」
「まぁ、アムイは俺に任せてくれよ。…あんたらはキイ…宵さえ手に入りゃいいんだろ?
ということで、俺も途中同行させてもらうので、よろしく」
ヘヴンが横から口を挟む。その言葉に、リンガはむっとした。
「とにかく、これからの事を話し合いたくてここに来たのでね。
まぁ、この状況では、宰相殿も我々と来て頂くかもしれません…。
貴方もそのつもりでいらっしゃいますでしょ?」
ミカエルがティアンに言った。
「当たり前だ。宵に手が届きそうなのに、私が行かないでどうする?
…で、いつここを出る」
「まあ落ち着いてくださいよ。…私としてはこの夜半。
…この嵐ではきっと彼らも今いる場所を動けないでしょう。
…夜半になって、雨足が落ち着いたらここを出ましょう」
ミカエルはそう言うと、これからの計画を相談し始めた。

その話し合いは昼過ぎまで続いた。リンガももちろん、同行する気でいた。
なのにあの、北の王子の奴…。リンガは益々イライラを募らせて、激しい荒れ狂う海を窓から眺めた。
《女性の貴女様が、そんな危険な真似をするなんて!》
ミャオロゥ王子は必死になって彼女を止めたのだ。
《貴女は私の将来妻になる方だ。ここにいれば安心です。
…なぁに、早く【宵の流星】を捕まえ、すぐさまここに連れて来ますよ。
いいですか?私達が戻るまで、どうかここで大人しく待っていてくださいね》
その言葉を思い出したリンガは、頭に血が昇り、つい、身近にあった花瓶を床に叩きつけた。
「な~にが、私の妻よ!何が大人しく待て、よ! 
失礼にもほどがある。…この南のリドン帝国の王女であるこのわたくしに、我がもの顔で命令するなんて!
お前となんか、仮に兄上に頼まれたって結婚なんかするもんですか!」
「落ち着きなさいませ、王女様」
顔色を変えずにモンゴネウラは言った。こういう癇癪は、彼女が子供の頃から慣れている。
「こうなりましたら、別行動に戻ればいいことでは?王女」
傍でドワーニが屈託なく言う。
「…そうね。ティアンと一緒の方が、何かと便利と思ってここにいたけど、もういいわ。
こっそりあの、ミカエルとかいう将校の後をついていきましょうよ。
別にここの王子に遠慮する事なんてないもの」
「それでこそ、我が大帝の妹君!では、早速、支度をしましょうか。…ミャオロゥ殿には内緒で」
モンゴネウラはそう言うと、さっと立ち上がり、荷物を整え始めた。
「相変わらず仕事が早いわね、モンゴネウラ…」
半ば感嘆しながら、リンガも支度するために窓を離れた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


荒れ狂う雨と風は、人の心を不安にさせ、掻き回すのが得意だ。

同じく嵐に翻弄されているのは、追いかけようと必死な彼らだけではなかった。


(キイ…)
アムイはあれから一歩も部屋から出られないでいた。
ゴトゴトと風が窓を嬲る音が、彼の耳を痛めつける。

《お主の寿命はどのくらい》
《肉体の限界という事ならば、あと、12~3年、あればいい方かと》

この言葉がさっきから頭を駆け巡り、アムイを捕らえて離さない。


幼い頃、闇夜を照らしてくれた月光の異名を持つ母を亡くしてから、夜を極度に怖がるようになったアムイに、まるで催眠術のように、夜毎耳元で囁いてくれた、キイ。

《大丈夫。俺がいるから。アムイがこの地にいる限り、俺はずっとお前の傍にいるから》
《本当に?キイはいなくならない?》
《お前が俺をこの地に呼んだんだろ?お前がいなければここには用はないが、お前がここにいるっつーんなら、俺はいるよ》
そう優しく言い聞かせてくれた…キイ。
その答えに安心して、眠りに落ちる自分。
《安心して、アムイ。お前がこの地を去らない限り、俺は天には戻らない。
…帰りたくなんてない》

これこそキイの願望だったのだろうか?

ああ、いつから?

いつからあいつはこの俺に隠していたんだろう。
…自分の身体の事を。…この俺に…。

アムイは自分の髪をかきむしった。

キイが自分に黙っていた事もかなりのショックだったが、それ以上に、相方の肝心な事に気づかなかった自分に、衝撃を受けたのだ。

それはいつものごとく、自責の念に駆られる。
己の不甲斐なさに憤りを感じる。

自分は一体、今まで何を見、何をしてきたのか。

何がキイを守る…だ。
実際に守られていたのは自分の方。
闇に翻弄されていた自分の方。

……こんなに苦しいのに、涙まで自分を見放した。


アムイはもう、どうしたらいいのかわからなかった。

嵐はどんどん酷くなっていくばかりだ。
まるで彼を嘲るように、高笑いしてるかのように、アムイの神経を苛(さいな)んでいく。

まるで深淵を彷徨っているかのように、アムイの心は揺れていた。
この先に光はあるのかさえ…見当もつかない、深い淵。自分の半身が自分よりも先に逝く、という恐れ。

キイを失う恐怖とも戦いながら、己の闇と向き合わねばならぬ事から逃げられない事を、アムイは心底覚悟したのだった。

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2010年11月 7日 (日)

暁の明星 宵の流星 #121

12.奈落


遥か頭上に天があるように 足の下には奈落の底がある。
天と奈落を結びし地よ。
それを支え生きゆくもの達よ。
この身が深淵に辿り、たとえ奈落に落ちようと
魂(たま)は光を求め、救いを求める。


..........................................................................................................................................


もうそろそろ夜が明けるというのに、一向に明るくならない空を見上げ、黒いフード付きのマントに身を包んだ大柄な男が溜息ついた。
フードから覗く浅黒い肌に、ポツリ、と冷たいものが落ちた。
「雨が降ってきたようだな」
ぼそっと独り言のように呟くこの男の言葉を受けて、隣にいた中年の男がこう言った。
「嵐になりそうです、メガン様。早く陛下の元に参りましょう」
「わかってる。…というより、兄上のいる屋敷はすぐ目の前ではないか。
まぁ、そんなに急(せ)くな」
男の肉厚な唇の端が、ほんの少しだけ上がった。
その途端、大粒の雨が降ってきて、いきなりの大雨となってきた。
「ほら、言わないこっちゃない。土砂降りになりますよ!さあ、走って」
「わかったから!まったくお前はいつも忙(せわ)しいな」
男はうんざりした様子で肩を竦めると、中年の男に促され、目の前に建つひっそりとした平屋の屋敷に走った。


外はかなりの暴風雨となっていた。
窓に打ちつける雨風の騒音に、応接間の中央で仁王立ちになっている男は眉を寄せた。
「陛下、メガン様がお着きになられました」
一人の警護の者が応接間に入ってくると、中央の男に厳かにそう伝えた。
「うん、ご苦労。…やっと来たか、メガンの奴」
渋い声が男の形のよい口元から零れた。
「兄上!」
入り口から、野太い男の声が飛ぶ。
それは先ほどの大柄の、浅黒い肌をした男だった。
彼は玄関先で濡れそぼったマントを従者に預け、今はすっきりとした身なりで、応接間の中央にいた男の元へ歩み寄っていた。
「メガン、久しいな。元気そうじゃないか」
「ご無沙汰しております、ザイゼム兄上…。アーシュラの事は残念でした。お気持ち、お察し致します」
男だけの国家ゼムカの第8王子であるメガン・デルア=ギザムは、沈痛な面持ちで、目の前にいる自分の異母兄であり、王であるザイゼムに頭(こうべ)を垂れた。
「うむ。…悪いがアーシュラの事は言ってくれるな。もう忘れたい」
メガンはザイゼムの声色に苦渋の色を感じ、言葉の裏に隠された落胆を感じ取った。
「……ところで、兄上がこの私を呼ぶなど、どうかされたのか…気が気でありませんでしたよ」
「メガン、父さんの所には行ったのか?」
「はい。ここに来る前に立ち寄りました。…かなり弱られているようで…」
「やはり。ならば早々に話は進めておかねばな」
「は…?」
目を丸くしたメガンに、目の前の椅子を勧めながら、ザイゼムも自分の椅子に腰掛けた。
「とにかく時間がない。本題から先に話す」
「兄上…?」
メガンはいつにない、兄の切迫した物言いに身震いした。


「…つまり、どうしても引退される、という事なのですか」
納得できない、という重い声でメガンは言った。
「いかにも」
「そこまでして、あの【宵の流星】に入れ込んでいたなんて…。
いや、あのような方は、確かに滅多におられない。兄上が夢中になるのもよくわかる。…それは、いい。それは…。
今までのように、愛妾として置くなら何とも文句はない。だが」
メガンは頭を抱え、大きな息を吐いた。
「あの方を追うために、何故ゼムカの王の座を退くのか…。
私とて、最近の噂は耳に入っています。…あの方が東のセド王家の血を引くのも、各国、権力者がこぞって手に入れようと動き始めたのも。…なら、尚更、兄上個人の問題ではなく、国家の問題としてもよいのではないですか?その方が…」
「メガン」
ザイゼムは彼を軽く制すると、腕を組み直した。
「すでに私情が入ってしまった」
「兄上…」
「…私は一人の男として、国よりも私情に走った愚か者。そんな男には皆を束ねる長としての資格などない。
…私とて、よくよく考えての事。…結論は、こうだ。
この件に、我が国を巻き込んではならぬ、と」
メガンはじっと、言葉なく兄の声を聞いていた。
どう考えても、今のゼムカにとって、この男は必要だろうに。誰だってそう思うのに。

「……狩猟を主としていた好戦的なゼムカが、この国家の大きな問題に向かい合わない事を、不甲斐なく思うなよ。
我々は元々狩猟民族。だが、風のようにこの大陸を気ままに旅する民族でもあるのだ。
この問題は、いつか大きな火種となる。…とすれば今はわが国を強化する事が一番大事。
だがそれに気をとられていると、宵の件に出遅れる。
…頼む。私を身軽な一人の人間とさせて、宵を追わせてくれ」
「…しかし」
メガンは歯噛みした。
「だからといって、この私めが兄上の跡を継ぐ…なんて。それこそ皆も納得しない」
「メガン」
ザイゼムは、自分以上に屈強で男らしい異母弟の手に、優しく自分の手を重ねた。
「お前しかいない。お前が一番適任。弟達の中で一番。
…俺に何かあったら、お前しか俺の跡を継げる者はいないと、ずっと前から側近たちにも言っていた」
その言葉にメガンは目を見開く。
「な、そうだろう?」
ザイゼムは自分の脇で待機している側近達を振り返った。
側近たちは厳かに頷いた。その様子にメガンは益々驚いた。
「……いや、まさか、そんな…。兄上がそんな事をお考えになっていたとは…。だって私は…」
「本来ならば、ザイゼム王のお子様が跡を継ぐのが正当なのですが、…ご覧のとおり、陛下のお子様は…」
右側の側近が、言いにくそうに口を開いた。
「うん、まぁ、私は結局跡取りを作る事に失敗したって事だからな。
…若いときに作った子供は三人いたが、一人は何年か前に病で亡くし、もう一人は相手の女が隠してしまって、今、何処にいるか生きているのかも分からずじまい。……最後の一人は…あいつこそ適性はあるのだが…」
メガンがふっと笑った。それを受けてメガンの隣で控えている、彼の従者である中年の男、ルギが言った。
「いくら適性があったとしても、女では男世界のこの国の王にはなれませんものなぁ…。
本当に惜しい。ご息女が男なら、こんなに苦労しなくてよいものを」
「確かに。本当にゲウラ元老院フィオナ嬢におかれましては、並みの男よりも肝がお据わりになっている。
あの若さ、そして女子(おなご)の身で、中立国の元老院。さすが陛下のお子様。
…ほら、いつでしたっけな?ご息女を手篭めにしようとした盗賊に、胸をはだけさせられても顔色ひとつ変えずに太刀を奮い、見事負かしたという、武勇伝…」
「ああ!あれは世間でも話題になったなぁ。顔色変えずに片乳露わで立ち回り…」
「んんっ!ごほっ!」
ザイゼムがわざとらしく咳をする。珍しくもどこかしら顔が赤い。どうも自分の娘のこういう話は恥ずかしくて困る。
その様子に、皆も笑いを噛み締める。豪胆と知られる天下のザイゼム王も、娘の前ではただの情けない父親でもあった。
確かに、あの娘が男なら、自分も苦労しなかったであろう。他の息子達はよくわからないが、娘は自分の母に似てしまったようだ。隔世遺伝としか思えない。何故なら娘を産んでくれた恋人だった女は、可憐で従順な、男の庇護欲を掻き立てるような儚げな女だった。
「で、まぁ、そんな訳だから、前王は私に子作りを命じたのだが、これも不発。
極めつけは、跡継ぎに関係ない男に狂ってこのざまだ」
「兄上…」
メガンはザイゼムに大事なことを言おうとして口を開いた。
「失礼します」
その時、応接間の扉が開き、ルランがお茶を運んできた。
一同の者はほっとして、緊張を解く。ルランは手馴れた様子で、王から先にお茶を配り始めた。
ルランの端正な顔をメガンはじっと見つめていた。そしてルランがお茶を手渡した時、メガンは彼に声をかけた。
「久しぶりだな、ルラン。…少し、痩せたのではないか?」
その言葉に、ルランは花を咲かせたようにゆっくりと微笑んだ。
「お久しぶりです、メガン様。気のせいではありませんか?僕は変わりませんよ」
「そうか?ならいいのだが」
メガンの含みを持たせた言い方に、ルランは不思議そうな顔をする。
「で、兄上」
メガンは再び、ザイゼムに向き直った。
「…兄上が跡継ぎに関係ない男に走ったのならば、この私だって…いや、ゼムカの掟では私は王になれない筈ですが」
メガンの言葉に、一同息を呑んだ。ザイゼムだけが、口の端で笑みを湛えている。
「だから?」
「ですから…。男だけの国家であるこのゼムカのきまりには、王となる人間に同性愛者を認めない、というのがあるではありませんか」

そうなのである。
男の園、とされているぜムカの半数は、同性と恋愛する者が多い。
だがそれは生理的にも認められている事なので、何も誰も咎めはしない。
問題は国の要である王には、認められない、という事だけなのだ。
つまり世継ぎが一番重要で、それさえできてさえすれば、どのような性癖の持ち主だろうが、王として認められるという事だ。
男の恋人や妾を持ってもいい。だが、女と契れない者、子を作れない王は、言語道断という訳だ。

「私が女を愛せない男と知って、このような事を言われるのか…。ずっと疑問に思っていましたが」
「はは!そんな事よりも、今のゼムカの状況が一番だろう?
…この乱世の大陸。生き延びるためには、賢明で、統率力があり、人望のある人間でないと厳しい。
…17人いる弟の中で、お前が一番適任なのだよ、メガン。
お前はあの西の国の王子の次に、外大陸にも渡って見聞を広め、各国に幾度も留学し、最近では聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)でも修行をして来た。…それにまだお前は30になる手前。若さも十分。
お前以上に誰がいるのだ。私の代わりになる者が」
「兄上…」
「しかも私と違って生真面目で正義感があり、道をはずす事もないだろう。
今のゼムカにはそのような王が必要だ。
きっと皆も納得してくれる」

ザイゼムは異母弟の中で、この第8王子を昔から高く買っていた。
弟が確かに17人もいれば、何かあった時に心強いが、同じ父を持つ者であっても、千差万別。
出来不出来は少なからずあるわけだ。もちろん、王位継承の血筋としては問題ないが、全ての者が適性があるわけでない。
元々子作りには力を入れてきたゼムカの王家。それでも前王の18人の王子、は多すぎだと思う。
それでも第2王子は母方にべったりで、結局母大事さでゼムカを出た。大陸を渡るゼムカの生活に順応できなかった病弱な者だっていた。こんなに沢山の世継ぎを儲けても、王となる素質を持った人間は数えるくらいなのだ。
多く子供を作った方がいいのか、それとも最高の相手を娶って、少数でも手をかけて帝王学を学ばせた方がいいのか、ザイゼムも頭を捻るところである。
だからこそザイゼムは、現王が次の王を指名できるゼムカの慣例に、心から感謝していた。
適材適所。それが全てだ。それさえ間違えなければ、国を守れる。
「それからメガン。跡継ぎの事はそんなに心配する事じゃないぞ。何のために18人も兄弟がいるんだ。
兄弟達に、何人息子がいると思っている?
その時になったら、お前が優秀な甥っ子を王に選べばいい事。
そんなに難しく考えるな」
メガンは尊敬する異母兄の言葉をじっと聞いていた。そして、ゆっくりとザイゼムの方に顔を向けると、決心したかのように彼は答えた。
「わかりました。では、兄上、そこまで仰るのなら、この話お受けいたしましょう」
「おお、そうか!私の話をわかってくれたか、メガン」
「ええ。その代わり、私の願いを聞いてくださいますか?」
メガンはそう言うと、ちらりとルランを見た。
「どんな願いだ?」
「はい。私が王位を継ぐ見返りに、どうかルランをいただきたい」
ルランの身体が硬直し、驚きの眼(まなこ)でメガンを見やった。
ザイゼムは一瞬、複雑そうな顔をした。
その様子にルランは思わずザイゼムの方をすがるような目で見た。だが、彼は顔色ひとつ変えずに、きっぱりとこう言った。
「わかった。…お前ならルランを大事にしてくれるだろう。…ただの小姓としてではなく…。そうだな?」
「陛下!」
ルランは信じられない、という風情で叫んだ。
「お前がルランを憎からず思っていた事は、前から気が付いていた。
…私もこれからどうなるか計り知れない身だ。…メガン、お前がルランを守ってくれるのなら、私は嬉しい」
「はい、もちろん。…大切にします」
「待ってください!陛下もメガン様も、何で僕の気持ちを無視なさるのですか?
こんな…こんな人を物のように…」
「ルラン!」
ザイゼムの厳しい声が飛んだ。
「…頭のよいお前の事だ。…私の気持ちをわかってくれるだろうな?」
「へ、陛下…」
ルランは泣きそうだった。
嫌な予感はずっとしていた。…陛下が【宵の流星】を追う事を決意された時から。自分は覚悟はしていた。
でも。だからといって…。
他の男のものになれ、だなんて。
…結果的にはそういう話なのだ。
自分はずっとサイゼム王の小姓という立場で控えていたかった。それなのに、メガン王子の愛妾になれ、という事を暗に示唆しているのだ。
信じられない思いで、ルランはその場を逃げ出した。
何も考えたくなかった。…自分の思いが成就しなくてもいいのだ。ただ、自分の気持ちだけは尊重して欲しかった。
なのに…。


「兄上。……私の願いを聞いてくださり、感謝します」
メガンはルランが去った方向を見つめ、そう言った。
「うん。…ルランの事は、実は私も心残りだった。あの子は少年の頃から、私によく仕えてくれた。
こんなどうしようもない男より、お前の方が数倍、あの子を幸せにしてくれる。
…頼んだぞ」
メガンは兄の言葉に頷いた。
どのくらい時間がかかってもいい。いつしかルランの心を溶かしてみせる。
メガンは静かに息を整えた。


外の嵐と連動するかのように、ルランの心も大きな嵐に翻弄されていた。
すでに日が昇っている筈なのに、大きな黒雲のせいで薄暗い庭先を、ルランはぼうっと窓越しに見つめていた。
先ほどの応接間から、少し離れた大きな渡り廊下のベランダに通じる大きな窓だ。
窓越しに映る、自分の顔がとても情けなく見える。
…自分は…陛下にとって、必要な人間ではない…。
わかってはいたつもりだが、時たまに触れるザイゼムの優しさに、ルランはずっとすがり付いていた気がする。
どんなに苦しくても、歳が親子ほど離れていようが、ルランにとって、唯一の恋慕…なのだ。
ザイゼムの代わりなどいる筈もなかった。
「ルラン!」
その声にルランははっとして、その場を逃げ出そうとした。
「待ってくれ、ルラン」
それはメガン王子だった。彼は逃げようとするルランの手首を、がしっと掴むと力強く引き寄せた。
華奢なルランには、大柄なメガンに抵抗するのは難しい。その代わり、ルランは身を硬くした。
「すまない、ルラン。あのような事を勝手に申し出て」
本当にすまなそうにメガンは言った。
「…メガン様は本気で…?本気で僕の事を?」
「ああ。お前の兄上への気持ちもわかっている。…お前の健気さに、私はずっと切なかった。
…どうか、ルラン。私の所に来てくれ」
ルランはじっと俯いた。ルランとて、メガンの事は嫌いではない。どちらかというと、大勢の王子の中では好感のある人物だ。
中には好色な王子もいて、実は幼い頃、幾度かルランは悪戯されそうになった。その時、いつも助けてくれたのはメガン王子だった事を思い出す。しかしそうであっても、彼にはザイゼム王に感じるような激しい思いが湧き出てこない。
「メガン様、僕は…」
意を決して、自分の気持ちを伝えようと口を開いたルランに、メガンはそれ以上言わせなかった。いや、聞きたくなかった。
「ルラン。兄上の許しはいただいた。私はこれからこの国の王となる。
……その王の決定を、お前は意義立てる事はできないぞ。わかっているな」
「………」
「私はお前をただの小姓にするつもりはない。……私が妻を娶るつもりがないのも、お前も知っているだろう?
お前の事はずっと本気だった。一生お前を大事にする。それを忘れないでくれ」
ルランは真剣なメガンの顔を、哀しげに見つめた。
……そして、ルランは決心した。自分の事は自分がよく知っていた。

昼頃にピークに達すると思われた嵐は、その日の夜半まで勢力が衰えなかった。
日も暮れ、真っ暗な闇に、豪雨の叫びがこだまする。
【宵の流星】が去ってから、ゼムカの一部は山を越え、海辺近くの里に身を寄せた。
海からは少し遠く、肉眼では水平線は拝めないが、風に乗ってたまに潮風が匂うと、近くが海だと気づかされる。
ガタガタと不気味に軋む、窓の音を聞きながら、今日の責務を終えたザイゼムは、自室でのんびりとこれからの事を考えていた。
いつも自分の身近にいたアーシュラは、もういない。
自分を和ませてくれるルランも、彼のことを思うのなら、早いうちに手放したほうがいい。

これで、とうとう一人になったなぁ、ザイゼムよ。

今まで、好き勝手に生きてきた。だがこの近年は大人になったせいか、国を治める事に夢中になっていた。
……そしてまた、好きに一人で勝手に行動できる状態に戻ったわけだ。

全て、あの男のせいだ。

ザイゼムは自嘲した。
何てずるい男よ、ザイゼム。…あの男のせいだって?
キイのせいにするな、男らしくない。
これは自分の我がままなのだ。一生に一度の我がままだ。
国を捨ててまで、自分が一人の人間に魅入られるとは露ほども思ってなかった。
これからキイを狙い、凄まじい争奪戦が始まるだろう。
誰にも渡すものか。…特にあのティアンの奴には絶対。
ザイゼムは溜息を付いた。
皆の落胆した顔を思い出したからだ。それなのに、側近達は理解してくれた。
こんな無慈悲で、自分勝手な男なんかのために。
《せめて護衛をお連れください。せめて二人くらい》
そこまでは、と自分は断った。だが、彼らの必死な申し出を、無下には出来なかった。
嵐が治まったら、選んだ者を連れてここを早々に出て行くつもりだ。
……ルランの事も、メガンになら安心して任せられる。
ずっと彼には尽くして貰った。だが、自分は何も返してあげる事はできない。ならばせめて…。

コンコン。

そこまで思い巡らして、突然扉を叩く音に、ザイゼムは我に返った。
「誰だ?」
気が付けばかなり夜も更けていた。こんな時間に…?
いぶかしみながら、ザイゼムはローブをまとうと、扉を開けた。
「ルラン…」
そこには、何やら決意を漲らせた面持ちのルランが立っていた。
「陛下。お話があります。…部屋に入ってもよろしいでしょうか?」
思いつめたような声に、ザイゼムは小さな溜息を付くと、彼を部屋に招き入れた。

「…どうした。メガンとの事か?あれは…」
「陛下」
いつもとは違う、断固とした物言いに、ザイゼムはルランの顔を凝視した。
「…僕をどうしてもメガン様に差し出す、というのなら、約束を守ってから決めて欲しかった…」
「約束?」
「貴方をずっと慕っていた、僕の気持ち…。どうか無視しないで欲しかった。
僕の自分勝手な我がままだって事もわかっています。
でも、せめて。最後だと言うのなら、どうか、僕の我がままを…」
ルランの海のような青い瞳が揺らぎ、真珠のような涙が零れた。
「ルラン…」
「僕の我がままを受け入れて欲しいのです…」
そしてルランは震える唇で、きっぱりと言った。「“お前が16になったら…私を受け入れるか?”」
ザイゼムははっとした。それは…キイと寝所を一緒に使う前に、ルランと共寝した時、自分がいつも囁いていた言葉だった。
「僕、もう約束の歳を越えました…。僕はいつでも、貴方を受け入れる気持ちはできています。
…あとは、陛下、貴方が僕の…我がままを受け入れてくれれば、僕は…」
真剣なルランの眼差しに、ザイゼムは震える溜息をした。
「私の気持ちを、わかってくれるか?」
「…陛下。…僕は…貴方の幸せをずっと思ってきました。宵の君と幸せになって欲しい気持ちだって嘘じゃない…。でも…」
「ルラン」
「このような離し方は、嫌です。まるでいらなくなった玩具を人に譲るような…!
ああ、どうかお願いです。僕の事、少しでも哀れと思ってくださるのなら」
ザイゼムは居た堪れなくなって、ルランをぐいっと引き寄せ、自分の胸に抱きしめた。
愛しい、と思う。もしキイと出会っていなければ、きっと自分は彼をずっと傍に置いて愛でていただろう。
だが…。
「一度だけでいいんです。陛下。それだけで、僕はきっとこれからも生きていける」
「……」
ザイゼムは彼を抱く手に力を込めた。
こうまで言われて、相手を突き放す事などできないザイゼムだった。
「…わかった。お前の気持ち、受け入れよう」
ルランの胸が喜びに震えた。…ああ、愛しています。この時を、自分はどれ程切望していたのか。

「ルラン、目を閉じなさい」
優しく促され、ルランはおずおずと瞼を閉じた。
その彼の唇に、ザイゼムは優しく自分の唇を落とした。


次の朝。嵐はどうやら去っていったようだった。
鳥のさえずりで、ルランはザイゼムの寝台の上で目が覚めた。
…すでに、ザイゼムの姿はそこにはなかった。
眩暈がするほどの一夜だった。…喜びと痛み、初めての絶頂の果てに、取り残される絶望を味わうのはわかっている。
ルランは痛む身体を庇いながら、のろのろと起き上がった。
気が付かないうちに、涙が次から次へと溢れていた。
だが、彼の表情は晴れ晴れとしている。
…心が決まったからだった。
ルランは何も隠さず全裸のまま、窓の外を覗いた。
嵐の後の景色は、禊(みそぎ)がされたように清々しく、美しい。まるで彼の心も洗ってくれたようだ。

しばらく外の景色を眺めていたルランは、次に手早く身支度を始めた。
早くしなければ、他の人間に見つかってしまう。
ほうっとルランは息を吐いた。
そして、意を決すると、ザイゼムの引き出しからペンと紙を拝借すると、短い手紙を書いた。
宛て先は…メガン王子だ。
(こんな僕を、思ってくれてありがとうございます、メガン様。だけど)
ルランは紙を素早くたたみ、封筒に入れ封をすると、メガンの名前をその上に書き、テーブルの上に置いた。
ずっと彼は考えていたのだ。自分の身の振り方を。
ザイゼムが自分を置いていってしまう事なんて、最初からわかっていた事だ。
多分自分がどんなに泣いてすがろうとも、きっと自分を連れては行きますまい。
…だから、ずっと考えていた。
そして昨夜で自分の気持ちは固まったのだ。

陛下を追いかける…。たとえ疎んじられようとも。

それしか、自分の道はない。
だって、自分はあの宵の君からだって頼まれた。
《純真無垢な天の子》
《ザイゼムを頼む》
《俺は男は受け入れられない》

陛下を受け止め、受け入れる事ができるのは自分しかいない。
昨晩の営みで、ルランは確信したのだ。

ルランはそっと部屋を出ると、裏玄関に隠してあった自分の荷物を取り出し、静かに屋敷を出た。
外はかなり明るくなっていた。
ルランは明るい顔をすると、胸を張ってザイゼムが向かったであろう方向に歩き始めた。
……ザイゼムが何処に行くかは、下調べ済だった。いや、もしすれ違っても、要は宵の君を探し出せばいい事だ。
彼は必ず【宵の流星】の元に行くであろうから。

(陛下。きっと貴方の傍に参ります。貴方を思って、ただ泣いてるだけの運命に甘んじるのはごめんだ。
僕だって自分の人生を自分で切り開く覚悟はある)
ルランは微笑んだ。黒いマントに身を包み、フードを目深に被る。
(これでも僕は、ゼムカ族の男。……今まで貴方を思って涙に暮れた女性が数多くいただろうけど、僕は彼女らとは違う。
自分が欲しいものは、絶対に諦めない!)
彼は遠くに繋いでいた馬に近寄り、飛び乗ると、明け方に出発したであろうザイゼムを目指して馬を走らせた。

一方、ザイゼムの部屋で、ルランの書置きを見つけたメガンは、苦渋の表情でその場に突っ立っていた。
「ルラン…」
ルラン、彼もまた、狩猟民族であったゼムカの男だったのだ。
「はは…。一番大事なことを忘れていたなぁ…」
そう呟くメガンの瞳は、微かに涙で潤んでいた。

 


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2010年11月 4日 (木)

一章増やします

毎回、ご訪問くださる方には、本当に感謝してやみません。
アクセスのおかげで、ここまで何とか書くことができました。
ありがとうございます。

ここで、11章を終えようと思います。
で、実は後半膨らみ過ぎまして、よく考えた末、結局もう一章、増やす事にいたしました

多分…多分これで収まると思うのですが…(怪しい…)

なので、全14章、という事で、次回12章を始めようと思います。

思えば最初の頃なんて、1ページの文字数が少なかったのに、現在はぎょぎょっ、とするくらい、文字数多いです(滝汗)

しかも、いつも説明だらけのぐだぐだっぷりで、本当に申し訳ありません。
(読み辛いと思います…反省…)

何か、ちっとも成長してないところが、自嘲してしまうのですが、それでも、行き当たりばったりのドキドキ感を感じたくて、プロットを飛び越えて書いております事、どうかご理解くださいませ。

本当ならばカットだらけと思うシーンも、あえて入れたりしてテンポ悪くなってたりしてるし…。


と、言い訳ばかりで申し訳ありません。


で、今回、本当に新キャラが増えまして、これ、どうするの、という声が聞こえてきそうです。

キイの隠し事も徐々に露見してきております、11章。

やっとアムイの事を描く章にキタ!という感じで、ちょっと話が増えた12章。

11章で広げた話を、何とか14章まで拾っていきます。

_convert_20101103205202


それから、11章で出てきた一妻多夫制のユナの人々。
当初はまったく考えておりませんでした。
でも、ある部分に到達するには、どうしても必要になって、この人達の話も、しっかり書いていきたいと思います。
それよりも、他ブログ(未完空想図鑑)にも書きましたが、この一妻多夫の制度は、物語を作っていく上で、出来上がってきたもので、ある程度自分でその制度のルールを考えてから確認のために後から調べたのですが、ほぼ、自分が考えていた事に間違いが少なかったので、このまま突っ走ります(笑)
そういう時に限って起こるシンクロシニティ。
テレビをつけていたら、某番組で、外国の一妻多夫婚を取材していたのを偶然見ました。あらら…。
とても勉強になりました。

これからは、話がちょっとぶっ飛んでいくかもしれませんので(ちょっと怖い…)、上手く着地できるよう、がんばります。
どのようにぶっ飛ぶのか。…いざ、公開してみたら、たいした事ないと言われてしまいそうですが、これが自分の妄想の限界であります。

話が増え、体力のせいで更新が遅れ、このままでは目標の年内完成に、不安が出てきました。


とにかく次章は自分にとって、暗くてウツの極地。
でも、それを越えねば、自分が描きたかった部分が書けない。

…ここまできたら、突っ走るしかないのですけど


ちなみに今まで書いてきて、書きやすかったのはザイゼム王だったりします。
そんなに好きなキャラではないし、当初の予定では、ただのエロ中年だったのに(苦笑)
いつのまにか、大人の男の代表のようになってました(あはははは)
もちろんザイゼムも次章からちゃんと出てきます。
こんなにキイに本気だったとは、書いていた自分も知りませんでした(おいおい)
前半出てきたキャラも後半出てくる…かもしれません。
とにかく、人多過ぎ、で、展開しております。
タイトルは二人の異名ですが、内容は二人を取り巻く人々が主だったりします。
肝心の主役達は、というと、ちゃんと活躍してるのか、このっ!という感じです
女性キャラでは、やはりアムイのお母さん、ネイチェルがお気に入りです。
男性はもちろん、二人のお父さん、アマトだったりします。
彼は何も考えないでも、動いてくれるので(助かります)
好きだけど扱いにくいのは、やはりアムイ。キイは自分にとって、別格になりますが(単なる理想)
イェンランもサクヤも、最近やっと表に出てきましたが、最初からお気に入りです。
イェンランは特に、大人の女性になってからの話、いつか書きたいなぁ。

おっとと!ついつい呟き過ぎました
どうかお許しください…。

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2010年11月 3日 (水)

暁の明星 宵の流星 #120

夜明けになってから、風が激しく吹き荒れてきた。しかも大粒の雨も降ってきたようだ。
屋根にバラバラと雨だれの音と、ガタガタと建物とぶつかり合う風の音が、激しく耳に響く。
「こりゃまた…」
あまりにもの外の騒がしさに、昂老人(こうろうじん)は目が覚めてしまい、ふらふらと食堂兼談話室に入り、ベランダの窓から外を窺った。
「これから嵐になるそうですよ」
朝食の用意を手伝いに、もうすでに本殿から修行僧の若者が来ていた。
「嵐に?」
「はい。運が悪ければ、今日の昼がピークだと。なので、寺の者も夜明け前から起きまして、諸々の準備を」
「むむむ。本当に嵐を呼んじまったかの」
「は?」
「いやいや、何でもない。こっちの話じゃ」
昂老人は目を丸くしている修行僧に軽く手を振ると、再び窓の外に視線を移した。
修行僧は軽く礼をすると、朝食の支度をしに、隣の厨房に入って行った。

身寄りのなかった昂(こう)…リャオは、幼少の頃まで、まるで乞食のような生活を強いられていた。
食べるものを確保するため、生きるため、小さな彼は何でもやった。
物心つく頃に、そのような生き地獄の中を、当たり前のように過ごしていたのだ。
いつ、死んでもおかしくなかった。
北の最高鎮守、北天星寺院(ほくてんせいじいん)の最高峰だった、北斗(ほくと)大法師に拾われるまでは。
まるで躾のなっていない、野犬のようだった昂を、北斗はまるで我が子のように可愛がってくれたのだ。
彼に引き取られるきっかけになったのは、その時すでに昂の中に存在した、特殊な能力のお陰であった。
……雷小僧…。雷雨を呼ぶ子供…。それが昂のあだ名であった。
自分の感情で、または無意識のうちに、昂は雷雨を呼んでしまう。
それが、身の内にある、“気”術士としての才能だったという事は、北斗大法師との出会いでわかった事だ。
《お前には、第九位以上の“気”、全ての属性を扱える能力がある。お前のその雷雨を呼ぶ力、それは“水竜”と“鳳凰”の気を無意識に取り入れ、発した結果ぞ。そのような事がこの歳でできる者はいまだかつておらぬ。
なぁ、ボウズ。その力を世のために使ってみないか?お前なら、賢者として名を馳せる事も可能だぞ》
その時の自分は、とにかく生きたかった。何でもいい。どのような動機でもいい。
自分にこういう能力があって、生かす事が自分の生きる術なのなら、その道を行く。
気がつけば北斗大法師の言うとおり、大陸で名を馳せた人間になっていた。特に若い頃は雷雨を呼ぶ法師として。
ということで、得意中の得意のこの自分の特技。どうも使った後に、微かだが雷雲が残ってしまうようで、それがしばらくして自然界の刺激で育ってしまい、嵐になってしまう事がしばしばあった。若い頃はそれを残さぬよう術を磨いたものだが、この歳になり、しかも久々に使ったためか、どうも最後の詰めが甘くなっていたようだ。
(…やはり、あれが嵐になってしまったのかのう…)
昂老人は、溜息をついた。

「およ、じーちゃんも眠れねぇの?」
窓から外を眺めていた昂の背後から、明るい声がした。
気がつくと、すぐ傍までキイがやって来ていた。
「おお、キイか。お主も起きてきたのか。……アムイは?」
「はは、寝る前に振られた。アムイは隣の空いてる部屋に移ったんだよ。
…まだ寝床じゃないかな」
「ほぅ、振られたのかの」
面白そうな昂の眼差しに、キイは苦笑した。
「ま、これもいい機会だろ?もう、いい加減互いに大人なんだし」
その様子をじっと見ていた昂老人は、不憫そうにこう呟いた。
「お主も…大変じゃの…」
「何だよ、そんな憐れんだよーな目で」
キイは口を尖らせた。
「……お主は上手く隠せていると思っているじゃろうがの。わしにはわかるぞ。
そろそろ焦りがきておるのではないかね?」
「は!まったく、じーちゃんには敵わねぇなぁ。さすが大陸一の大法師、大賢者様だ!」
「おいおい、茶化そうとしても無駄じゃよ…。
のう、キイよ、わしは昔、竜虎と話した事がある。
…お前達の事じゃ」
いつにない、神妙な顔の昂に、キイも真顔になった。
「キイ、お前も嫌というほどわかっておるとは思うが、アムイは遅咲きじゃ」
キイの頬が、ピクリと動いた。
「流星の異名を持つ、流れの速いお主と違うから、たまに苛つく事もあるんじゃないか?
…特に、お主には時間が迫っているように見えるから、尚更そう思う」
「…じいちゃん…」
キイはいつになく、きつい眼(まなこ)になった。
「流動のお前は、流れに流れ、あらゆるものに激しくぶつかりし、時に停滞し…。それが作用して成長や悟りが早い。
まるで山頂より流れ落ちる川の水のごとく。
だが、アムイは違う。
まるで川の水の流れを待ち受ける、広大な海のようじゃ。
海は限りなく深く、穏やかじゃが、表面に嵐を受ければ荒れ狂う事もある。
だが、海底はどうじゃ?底に潜れば潜るほど、ゆったりとした静寂な世界が広がる。
まさしくアムイはこのごとく。
水面下でゆっくりゆっくりと熟成するように成長していく」
キイはじっと昂老人の言葉を聞いていた。その表情は頑なで、一体何を思うかは傍から見てもわかり辛い。
「本当にお主らは双璧であって、一つのものを二つに別けたような存在じゃのう。
二人でひとつ。表と裏。光と影。
…それが上手い具合に表裏回転しながら存在しているという事は、滅多にない事じゃ。
例えば、お主が光のときは、それを受けるかのようにアムイが影となり、アムイが攻撃的になれば、お主が穏やかに受ける。お主が仏のように見えるときは、アムイは忌み嫌われる邪神に。お主が鬼神のような時はアムイが慈悲深い天神のよう。
お主らの共時性・共鳴性は面白い。まるで一人の人間の表裏を見ているようじゃ。
人間の魂(たま)とは陰陽の世界に通じる。二面性という方がわかりやすいかの?
誰でも持つ、光と影。男性性と女性性。慈愛と憎悪。……それはお主ら二人、生まれた時からわかっていた事じゃと思うが」
「……」
「ただ、そこまでひとつのモノを完全に陰陽に分けるのならば、普通は異性として生まれる筈なのじゃが、はて…」
「じいちゃん、これから嵐が酷くなりそうだから、俺、寺の方で人手がいるかどうか聞いてくるわ」
キイは話をはぐらかそうと、そのまま昂から離れようとした。
「キイよ、その前に聞きたい事がある」
昂老人は、いつにない険しい声でぴしゃりと言い、キイを引き止めた。
「ここじゃ不都合なら、何処か移動してもよいぞ」
キイの目も、険しくなった。しばらくして、キイはひとつ溜息をつくと、こう言った。
「ここでいい。まだ朝食には時間がある。…きっと誰もまだここにはこないだろうし、すぐに終わる話だろ?
…で、一体何だよ?じいちゃん」

「あああああっ!!」
アムイは自分の叫びで、跳ね起きた。
汗がじとりと、身体にまとわりついている。
(ああ…)
夢か、とアムイは動かない頭でぼんやりと思った。
久しぶりの悪夢だった。キイと離れるとすぐこれだ。
それにしても、とアムイは脱力した。
父を守り、信仰深い、それ故に父の身体を刃(やいば)で貫いた男が、珍しく夢に出てきた。
(ラムウ…)
王子であった父親を、ずっと守り続けたセドの名将を、アムイは思い出すのを恐れる反面、詳しい事実を封印したせいで、普通にラムウの苗字を名乗っていた。
それほど、彼の闇が露呈する前は、本当にアムイの憧れだった。あのような武人になるのが夢だった。
だが…。

《触るな!!
汚らわしいその手で、セドの太陽に触るな!!
お前が…お前達のせいで…セドの太陽は穢された。
お前達が生まれなければ…私のアマト様は罪びとにならなかった…。
ああ、セド王国の太陽!!この国の希望!!真の神王!!
それをお前達は壊したのだ!!
この悪魔め!!お前達は悪魔に唆され、やって来たのであろう!!》

彼の心には自分の父親しかいなかったのだ。

あの、二人の主従関係を、最初は羨ましく感じた事もあったが、盲目的なラムウの父への愛情と執着が、アムイを地獄に突き落とすきっかけの一つになったのは確かなのだ。
だからなのか、自分がセドの王家の血を引くと知ってから、益々サクヤが、まるであの頃のラムウのように、自分に盲目的に仕える風情が、自分に恐怖を感じさせた。
俺は…父さんのような…王家の人間とは違う…。
俺は…サクヤに守護されるような人間じゃない…。
セドの太陽に狂わされた男と、サクヤとは違う人間である事はわかっている。だが…。

アムイは荒げる息を整えようと、立てた両膝に頭を乗せ、深呼吸を始めた。

色々な事が重なり過ぎた。

しばらくしてアムイは気を引き締めようと、重い身体を寝台から引き剥がした。
ふと、窓を見ると、激しい雨が打ち付けている。

まるで、自分の心のようだ。

アムイはふらふらと、水を求めて部屋を出た。とにかくとても喉が渇いていた。


部屋を出ると、同じくふらりと廊下を歩く人影が目に入った。
「イェン?」
それはイェンランだった。
「あ、早いのね、アムイ。あなたも眠れなかった?暴風雨のせいで」
彼女の目の周りも心なしか赤い。…眠れなかった事が、誰の目にも明らかだ。
「…暴雨風のせいだけじゃないんだろ?眠れなかったのは」
その言葉にイェンランはちらっと笑うと、「いじわる」と、小声で呟いた。
「…で、何処へ行くんだ?」
「う~ん、ちょっとね…」
「キイに会いに行こうとした?」
「……」
イェンランは言葉に詰まった。アムイは彼女の顔を見て、図星だな、とわかった。
「アムイこそ何処に行くのよ?…それに、いつも寝ている部屋と違うじゃない。
…キイと何かあったの?」
「いや…」
アムイも言葉に詰まった。思わず片手で頭を掻く。
「……でも、まいいわ。目が覚めちゃったし。でもまだ朝食には時間があるし…。ちょっと息抜きしようかな…」
「俺、これから食堂に行って、水をもらおうと思うんだが、お前も来るか?」
二人は顔を見合わせ、しばらく沈黙していたが、ふっと互いに笑うと、そのまま共に食堂の方に歩いて行った。

「ねぇ」
無言のまま歩いていた二人だったが、突然イェンランが口を開いた。
「こうしてアムイとゆっくりするのって、なかったよね?」
「そうだな」
「アムイはいつもきつい口調だし、私は食ってかかるし」
「はは」
「こうしておだやか~に、肩を並べて歩いてるなんて、驚きよね?」
イェンランはちらっとアムイの横顔を見上げた。
キイとは違った、端正な横顔。
初めは憎たらしいと思っていたけど、今はサクヤと同じように、信頼している自分に気づいた。
それは異性としてでなく、ひとりの人間としてだ。
「キイはさ」
いきなりアムイは言った。イェンランの胸が高鳴った。
「純粋にお前の事、心配してる。お前も今まで何とかきたけど、もうここが限界だろ?」
「心配、というか、後ろめたいんじゃないの?」
「何故?」
いつものごとく、アムイの片眉が上がった。
「私を桜花楼(おうかろう)に返した事が」
「…あー。そうだな」
「結果的にね」
「うん」
「…でもさ、戻ってすんごく嫌だったけど。人生呪ってたけど。…私は後悔するものでもない、と思ったの」
「………」
「表裏一体…。何事も、いいも悪いも紙一重ってね。
人生最悪な事態が起きれば、普通は不幸と人は嘆くけど、それが実は本人にとってはいい事であった、という事もあるでしょ。
…後になって、人は気づくのよ。あの時、死ぬほど辛くて苦しかったけど、終わってみれば全て意味がある事だったって」
「へぇー」
アムイはあごに手をやって、思わずニヤリと口元を緩めた。
「何よ、その顔」
ぷっと膨れるイェンランに、アムイは滅多に見せない、優しい笑顔でこう言った。
「お前って、何気に人生よく考えてるよな。…いや、前から女にしては見込みある奴と思っていたけど…」
「それって、かなり上から目線じゃない?っていうか、女馬鹿にしてない?」
イェンランは下からアムイを睨んだ。
「はは、ごめん。…でもこういう所、俺の母さんに似てるなぁ」
今まで互いの身内の話を、詳しく話した事もなかったイェンランは、突然その言葉に驚いた。
「…アムイの…お母さん…?…えっと…キイのお母さんとは…違ったよね?」
「ああ。…俺の母は、月光という異名を持つ、…聖職者だったのは、お前もあそこにいたから知っているだろう?」
闇の箱を開けた時の事を言っているのだ。イェンランはこくりと頷いた。
「もう、気丈な人でさ。…弱々しい女性、というイメージがなかったなぁ。剣の達人でもあったし。かといって、男勝りのようでいて、その実、気持ちが細やかで、優しくて包み込むような暖かさがあった。…俺の父親は、多分、そういうところに惚れたんだろうな」
「へぇー」
「それで、女性では少ない医術士になって、世界を回ろうとしたくらい、自分の夢に貪欲な女(ひと)だったよ。
……キイは気づいていないと思うけど、キイの女の理想は俺の母さんだ」
「そうなの?」
イェンランは目を剥いてアムイを見た。
その様子に、アムイは心の中で微笑した。
「…今までキイと付き合った女の子を知る限りではね」
…彼女達の見た目が自分に似ている事に気づいていた事は、ここでもキイにも言えないアムイだったが、キイが好きそうな女性のタイプの傾向としては、間違いないだろう。
アムイはちらっとイェンランを見た。…特に黒い髪に黒い瞳。…惜しいなぁ。
「…イェンはキイの好きなタイプに入るんじゃないの?…もう少し大人だとよかったけどな」
「……あのね。女だって15を過ぎれば大人なんだけど」
「世間ではね。…まぁ、十代じゃ、キイの恋人には難しいかな。あいつに“お嬢ちゃん”なんて呼ばれてるうちは」
「…それって、暗に諦めた方がいいって事?」
「どうとでも。でも、俺は事実を言ってるまでだ。シータは大袈裟に言うけどさ。
…キイは女好きだけど、誰振りかまわず女なら寝るような男じゃないよ」
イェンランは疑わしそうにアムイを見上げた。自分の事を好みのタイプだと言いつつ、恋人の対象にならない、と牽制しているように聞こえる。
「アムイって、本当に意地悪よね。…だったら、最初からお前はキイのタイプじゃないって、言ってくれた方がいいんじゃないの?」
「……そうだな」
「やっぱり、私は対象外なのかな…」
イェンランは哀しそうに呟いた。その言葉に、アムイの胸は痛んだ。
………今まで知っている、キイにまとわりつく女達の中で、イェンランが一番自分にとって許せる存在なのに。
アムイはこの先の自分達の運命を考えると、できるだけ他人を巻き込まないためには仕方ないと思った。
多分…キイも同じ考えだろう。
お互い複雑な気分のまま、食堂の入り口が近づいてきた。
「あれ?」
イェンランが呟いた。
「こんな早い時間に誰かいる。…私達と同じような人がいたみたい」
二人はそっと食堂の中に入った。
その食堂の片隅で、二つの人影がひっそりと佇んでいた。
…キイとお爺さん?
そう声に出して、駆け寄ろうとしたイェンランは、二人の緊迫した雰囲気に気づき、思わず足を止めた。
戸惑いながら、イェンランは後ろからついて来たアムイの方を振り向いた。
どうしたのだろうか。
…声をかけてはいけないくらい、キイと昂老人の空気が張り詰めている。
アムイもこんな二人を初めて見たせいで、固唾を呑んでいた。

そっと入ってきた二人に気づかないのか、肩を寄せ合って交わされる話し声が、中断もされずにひっそりとした食堂に響く。
もちろんその声は、小さいながらもしっかりとイェンランとアムイの耳に届いた。


「……身体の方、具合はどうじゃ、キイ」
アムイ達に背中を向けているため、キイの表情はわからない。わからないが、キイの身体が緊張したのが外から見てもわかった。
「何だよ、じーちゃん。怖い顔で話があると言うから、何かと思ったが、そんな事かい。
…可もなく不可もなく、ってぇところだな。でも早く“気”の封印を解かないと、ストレス溜まって死にそう」
「キイ」
「まー、今のとこ、力の暴走の気配もないし、聖天風来寺に行くまでには、何とか持ちそうだから、安心しなよ」
「キイ!そうじゃない」
今まで聞いた事もない、昂老人の厳しい声だった。
「誤魔化すな、キイよ。…お主の力の事ではない。肉体の限界の事をきいておるのじゃぞ…」
(肉体の限界…?)
只ならぬ二人の気配に、アムイとイェンランはその場から動けない。
一体、昂老人は何を言おうとしているのか。耳だけが研ぎ澄まされて、二人の会話を聞いている。
ピリピリとしていたキイの波動が、ゆっくりと緩んできた。
「は…。本当にじいちゃんにはまいったな…。さすが大法師。賢者衆の最高峰。
そこまでわかっちまっていたか」
「見くびっては困るのぅ、キイ。お主を子供の頃から見ているこのわしじゃぞ?
気がつかないとでも思っておったか」
「…竜虎様も知っていた?」
「うむ」
「はは。だから…ね。俺が焦ってたの知っていて、だから…」
キイの乾いた笑いが、部屋に響いた。
「…それで」
昂老人はひとつ咳をすると、思い切って言った。
「お主の寿命はあと、いくらまで持つ?」

アムイとイェンランは耳を疑い、頭が真っ白になった。

今、なんて…。
昂極大法師(こうきょくだいほうし)は、今、なんて言った?

「……肉体の限界という事ならば、あと、12~3年、あればいい方かと」
とんでもない答えが、キイの口から語られた。
「…やはりそうか。
身の内に神気を宿す事は、並大抵の事ではない。…精神力然り、体力的に然り、じゃ。
…外見は美しいから、誰もわからないと思うが、…お主の内臓は神気を抑えているために、かなりぼろぼろじゃろ?
並みの人間よりも肉体の消耗が激しいのは…。予想がついておった」
昂老人は哀しげにうな垂れた。
「…仕方ねぇ。だから俺は川の水さ。流れる星なんだよ。
だから人よりも早く、誰よりも先に成長しなければならなかった」
キイもまた、哀しげではあったが、毅然とそう答えた。


呆然とするアムイの頭の中で、キイの言葉がぐるぐると回っていた。

《俺はお前がこの地にいる限り、ここにいるぞ》
《お前が俺を呼び戻した。…お前が生きている限り、俺はこの世を去らない》
《安心しろ。俺は絶対にお前と離れはしないから》

キイは自分に嘘を…ついていたのか?
幼い頃から…ずっと…?

「確かに俺には、他の人間よリも時間がねえよ。
俺だってもっと時間は欲しいと思う。…だからといって、どうなるもんでもないけどね。
この物質世界。限りある肉体という器が、時間と共に滅びゆくのは自然の摂理。
…大陸創造以外で、この地に降りて来なかったとされる“光輪の気”。
…こんなもん、持って生まれちまったという事は、そういう事なんだよ、じーちゃん。
それだけ俺の持ってきたもんは、この地には重過ぎるってことさ」
キイは天を仰いだ。
「…どれだけ、天に悪態ついたか、わかったもんじゃねーけどさぁ」

「キイ…」
居た堪れなくなって、思わずイェンランが声を出した。
はっとしてキイと昂老人がその声に振り向いた。
「アムイ…!!」
そこには呆然と立つ、アムイとイェンランの姿があった。
キイは苦渋の顔に歪んだ。
完全にこの話を聞かれていたであろう事が、アムイの表情で二人は悟ったのだ。

「アムイ、俺は…」
キイは何て言おうかと、口ごもった。
だが、アムイは苦しみの目でじっとキイの顔を見つめた後、声も表情も一切何も出さずに、その場をぷいっと立ち去った。
「アムイ?」
イェンランはアムイの様子が気になって、追いかけようとした。
だが、それ以上にキイの様子も気になって、追いかけようとした足を止め、ゆっくりとキイを振り返った。
彼の様子に、イェンランの胸がぎゅっと苦しくなる。
キイは顔面蒼白で、見るからに疲れた顔をしていた。
「キイ…今の話、本当に…?」
キイは彼女に何か言おうと口を開きかけた。

その時だった。
突然騒がしい声が、玄関の方から聞こえてきた。
「何事じゃ?」
それは激しい雨と風の音に混じって、複数の人間が騒いでいるようだった。
キイと昂老人、それに続いてイェンランがその方向に走った。

「どうした?」
キイが叫んだ。
玄関に近づくと、二~三名の修行僧が、慌てた様子でやって来たところだった。
「何かあったか?」
その言葉に、一人の修行僧が必死で答えた。
「この嵐で、怪我をされた女性がこの寺の裏門で倒れてまして」
「女性?」
「はい。この嵐では、本殿よりもここの方が近く、その上かなりのお怪我なので、こちらに連れて来ます。
我が寺院には尼僧がおりません故、本殿にお通しするわけにもいけなくて…。
大変申し訳ないのですが、協力をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「何でまた、こんな時分、こんな所に」
「…何やら訳ありの方らしいのです…。何処からか、逃げてきたような…。
あ!今来られました!」
すると、雨風と共に扉が開き、二人の修行僧に抱えられた一人の女性が運び込まれてきた。
「おい、大丈夫かい?」
キイとイェンランは共に駆け寄り、修行僧からその女性を手渡された。
「す、すみません…」
濡れそぼったその女性は、掠れた声で申し訳なさそうに呟いた。
どうも、足をやられているらしい。彼女のドレスの裾から見える足首が血に染まっていた。
「おっと危ない」
女性はよろよろと力なく、近くにいたキイにしがみついた。
「お嬢さん、足に怪我してるじゃねぇか。歩くの辛いだろう?」
「はい…」
返事を聞くまでもなく、キイは手馴れた様子でふわっと女性を両手で抱き上げた。
女性の淡い茶色の髪が揺れて、白くて透き通るような顔が露になった。
イェンランはどきっとした。
キイの腕の中で、青くなって震えている女性は、この世のものとも思えないほどの美女だったのである。
「ああ、ありがとうございます…私、どうなるかと」
ハスキーな声は、まるで男を誘っているように聞こえた。キイを見つめる瞳が、心なしか熱く揺れているような気がした。
突然、イェンランの背中に、ぞくりとするものが駆け上がり、何だかとても嫌な予感がした。
「いや、どうってことねぇよ。…とにかく、すぐに暖めなきゃ。…悪いが、湯の用意を頼む。
…お嬢ちゃん、一緒に来てくれ!」
キイの呼びかけにイェンランは、はっとし、慌てて女性を抱えたキイの後ろをついて行く。

その様子を見ていた昂老人は、何やら考えにふけっていたのか、ずっと無口だった。

「嵐…か」
長い沈黙の後、昂老人はやっと呟いた。
「もしかしたら、嵐と共に、とんでもないものを呼んでしまったのではないかのぅ…」
彼は深い溜息をつき、とっくに夜が明けているにも関わらず、空を覆う黒雲のせいで薄暗くなっている、外の景色に目を細めた。

奈落の底に通じる深淵。

それが今、誰かの足元で密かにぱっくりと口を開けている事に、この時はまだ、誰も気が付かないでいた。

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2010年11月 1日 (月)

暁の明星 宵の流星 #119

気まずい雰囲気が、部屋を包んだ。
アムイの頑なな表情に、皆、気負わされた感じだった。

その空気を壊したのは、昂老人(こうろうじん)の穏やかな声だった。
「ならば、早々に聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)に使いを出そうかの。
シータ、ほら、主らの同期生であった、…うーん、何といったか…朱陽炎(しゅかげろう)じゃったか」
「はい。サブ…異名をいただいて、今は朱陽炎として聖天風来寺の師範を務めております」
「あの泣き虫サブが、師範?…時は流れるもんだな」
シータの言葉に、感慨深そうにキイが言った。
「泣き虫って…。サブはアムイの次に優秀だったでしょ。ただ、いつも泣いてたのは、アンタにソデにされてたからじゃないの」
しれっとシータは言った。
「そーだっけかなぁ?」
キイは相変わらず無頓着であった。
「とにかくその朱陽炎に、サクヤの件を伝鳥(でんちょう)で飛ばそう。その方が話は早い。わしとアムイの推薦となれば、特待で受け入れ可能じゃろうし、聖天風来寺より迎えも来る。…のう、アムイ?その方が“サクヤが大事な”お主も安心じゃろうて」
さらりと“大事な”を強調する昂に、アムイはぐっと喉を詰まらせた。
「そうですねぇ。人伝(ひとづて)よりも、伝鳥の方が早いですし。そういたしましょう」
“伝鳥”とは、“気”を操る者がよく使う、伝書鳩のような存在で、気術者が遠方の気術者に伝えたいことを届ける役目を担う、特殊な訓練をされた鳥のことだ。つまり、“気”を扱う鳥のため、確実に伝えたい相手に敏速に言葉が届く、ある意味隠密でよく使うものだ。
「ま、待ってください!そんな勝手に…。オレの意思は無視ですか!?」
サクヤは納得できない、という剣幕で声を荒げた。
「…そーいうわけじゃないがのぅ…。しかしサクヤよ、主にとっても、これがいい機会とわしも思うでの。
多分…今までとは戦いの激しさも、勝手も違う。その事はアムイのみならず、他の者もわかっておると思うぞ」
「………」
不服そうなサクヤを、ちらりと横目で見ながら昂老人はそう言った。
「とにかく、キイの封印の件があるから、わしも同行せねばならぬ。気術使いでもあるシータも、やはり護衛として必要じゃろうし。となると、結果的にはサクヤはここに残り、聖天風来寺からの迎えを待つ方が、賢明じゃろう」
昂老人はふぅっと溜息をついた。
「…で、問題はイェンランじゃな…。確かにか弱いおなごが東に行く事は、わしも反対じゃ。
のう、イェン。お主はこの国の出身と聞いたが…」
「家族はよその国に移って行方も知らないし、当てになるような人間もいないわ」
ぼそっとイェンランは呟くように言った。その顔は暗く沈んでいる。
「そうか…」
周りも暗い表情になった。
「それならば、どうでしょうか。西の国に来ませんか?イェンラン」
突然明るくリシュオンが言った。一同ははっとして彼を見た。特にイェンランは目を丸くしている。
「西の国?私が?」
「そうです。もし、身寄りが何処にもない、というのなら、どうか考えてみてはいただけませんか?
西は女性も自立して生活できる国です。
…それに…もし、貴女が嫌でなければですが、アイリン姫の世話役を実は探していた所で、できれば同郷の女性がいいと考えていました。貴女が適任かと、私は思うのですが」
「西の国かぁ!それはいい話じゃねぇか」
その話に手を打って答えたのはキイだった。
「なぁ、嬢ちゃん!西の国は女子供が、大陸の中で一番安心して暮らせる国と聞く。
そうだ…。それが一番、嬢ちゃんにとっていいことだ」
「キイ…」
手放しで喜んでいるようなキイの様子を、イェンランは複雑な表情で見つめた。
「うむ。確かにその方がわしもいいと思う。…のう、イェン。どうかの?
この申し出、考えてみてはどうじゃ」
「………」
イェンランは俯いた。すぐに返事ができなかった。
確かにキイや昂老人の言うように、この上もない、いい話だ。
でも…。
彼女の心の内で、激しい嵐が吹き荒れていた。
頭ではその方がいいと、客観的にはわかっている。だが、気持ちは違う。
彼女はこの目の前にいる、自分を惹きつけてやまない一人の男の傍を離れたくなかった。
こんな気持ちは初めてだ。
自分は男が苦手な筈ではなかったのか。傍に寄られるだけでも、本当は触れられるだけでも、怖いのではないか。
それはキイだって他の男と変わらない。…だけど…。

そして、葛藤しているイェンランと同じように、サクヤもまた、心の中で大きな嵐が吹き荒れていた。

結局、答えもはっきりと出ないまま、皆は取りあえず休む事にした。
「とにかく、そのような方向で話を進めましょう」
リシュオンはそう言い、話を終えると、シータの案内で寝室に向かった。
他の者もそれぞれの部屋に戻っていく。
リシュオンは、シータと長い廊下を歩きながら、咄嗟に出た自分の提案に満足していた。
確かに誰が聞いても、彼女にとって一番いい身の振り方である。
そんなリシュオンに、シータが静かに話しかけた。
「リシュオン王子。ちょっと聞いていただきたいことがあるのですが」
「何ですか?」
「…実は、イェンランの事なのです」
いつにない重々しい声に、リシュオンは思わず彼の顔を見た。
「彼女が…どうかしたのですか?」
シータはリシュオンの清々しい、曇りのない青い瞳を見つめた。
この方なら。
イェンランを理解し、任せられるかもしれない…。
「王子はイェンランの事がお好きですか?」
シータの突然の問いに、リシュオンは慌てた。
「え?…ええ、ま、まぁ…。可愛らしい方だと思いますけど…」
本当は男として、彼女に惹かれている。だが、彼女の想い人が天下の【宵の流星】と気づいて、気後れしているのは否めない。そんなリシュオンの気持ちを見抜いたかどうかはわからないが、シータはじっと彼の様子を見て、こう言った。
「…彼女の事で、大事な話があります。本当に彼女を西に連れて行ってくださるのなら、話しておかなければならない事が」
「シータ?」
彼の思いつめたような顔に、リシュオンは緊張した。


一方、キイと連れ立って部屋に戻ろうとするアムイを追って、サクヤは廊下を走っていた。
「兄貴!待ってくれよ」
だが、そんなサクヤの事を振り払うように、アムイは歩を早めた。
「無視しないで話を聞いてくれよ!」
追いついたサクヤは、アムイの肩を掴み、振り向かせようとした。だが、アムイは断固としてサクヤの方を見ようとしない。
「お前と話す事はない。俺の気持ちはさっき言ったとおりだが」
まるで他人行儀な物言いに、先ほどまで気持ちが落ち込んでいたサクヤの心に怒りが湧き起こった。
「そんな言い方はないだろう?何で急にオレを拒否するんだよ…。オレが兄貴の戦いの邪魔をしたから?だから?」
「……」
「オレが未熟なのはわかったよ!
“守る”と言いながら、兄貴を護る事もできない情けない男だもんな、オレって!
だからって…」
「やめてくれ!」
アムイはいきなりサクヤの手を払いのけた。
「兄貴!」
「だからもうやめてくれ!護るとか、兄貴とか。
…俺は…俺はそんな主従関係みたいなのはごめんだ!」
その激しい剣幕に、近くにいたキイと、戻る方向が一緒だったイェンランは驚いた。
「……俺は護られるような人間じゃないんだよ!それ以上に、盲目的にそういう気持ちを押し付けられるのは嫌なんだよ!」
苦々しく吐き出される言葉に、周りは凍りつく。
「俺のため?誰のため?…俺は…俺は…」
アムイはぶつぶつと呟くと、他の人間にかまわず、逃げるように自分の部屋に駆け込んで行った。
「アムイ…?」
残された三人は、只ならぬ彼の様子に唖然としていた。
しばらくして、キイがゆっくりと他の二人に哀しげな笑顔を見せた。
「悪いな、二人とも。ちょっとあいつ、そっとしといてくれねぇか?
…態度悪くてすまねぇな、サク。でも、お前さんの身の振りは、俺もその方がいいと思ってるんだよ。……ていうか、あいつのためにも、そうしてやってくんねぇかい?本当に、アムイを思ってくれるのならば」
「キイさん…」
キイは浮かない顔したサクヤの頭をポン、と軽く叩くと、アムイの後を追うように部屋に入って行った。
しばらくキイの去った方向を眺めていたイェンランが、ぽつりとサクヤに言った。
「ねぇ、サクヤ。…アムイはあなたとは対等でいたいんじゃないかなぁ?」
その言葉に、サクヤは彼女の方を振り向いた。
「……前に、シータから聞いた事あるけど、アムイって、子供の頃のトラウマで、人と上手く付き合えなくて、同年代の親しい友人がいなかった、って。…何かアムイは対等な友人を欲しがっているよう気がするの。
だから必要以上に、サクヤが下手に出るのを嫌がっているような…。
きっとそれだけじゃないと思うけど、今までずっと二人を見てきて、私、そう感じたんだ…」
「……」
サクヤはイェンランの言葉を黙って聞いていた。
「おせっかいで、ごめん。
…でもさ、私にとって、アムイもサクヤも…兄さんみたいで。
二人が楽しそうに仲良くしているのを見るの、好きだから…」
イェンランは自分で言った言葉に、自分で照れたのか、最後は消え入るような声だった。
「イェン…」
サクヤは彼女の言葉で、冷静さを少し取り戻したようだった。
「オレこそごめんな。…君に心配かけて」
「何言ってんのよ!」
イェンランは照れ隠しにわざと声を張り上げると、にっこりと笑った。
「とにかく、アムイに追いつきたかったら、修行するっきゃないんじゃない?
悪いけど、私も他の人と同じにそう思うわ!じゃ、お休み!」
彼女は両手をぶんぶんとサクヤの目の前で振ると、自分の部屋に入って行った。
一人になったサクヤは、しばらくじっと考え事をした後、何か決意したのかのようにきゅっと口元を引き締め、おもむろに自分の部屋に向かった。


「イェンランが…!そんな!」
リシュオンは、彼女に起こった恐怖を聞いて、いたたまれなくなった。
「そうなんです。…そのために元々男性に不信感を抱いていたのが、恐怖心も伴うようになって。
……今はだいぶ落ち着いたのですが、男性に触られたり、近づかれると、嫌悪感からか拒否反応が出て…」
「ああ。やはりその心配はあったんだ…」
東に次いで治安の悪い北の国に彼女を行かせた事を悔やむ反面、それでもそのような危険を顧みず、キイを捜していた彼女を思うと、胸が焦げる思いがして、苦しかったのも事実だ。
「では、彼女は男性恐怖症と?西には他の国よりも女性が多いのですが、それまでは周りは男だらけだ。…貴方が彼女の傍を離れるとなれば、どうしたら…。いえ、どのように彼女と接すれば、彼女のストレスを軽くできるのですか?」
「…自分が思うに、彼女は男性不信であれ、キイへの感情を見ると、真に男が駄目で、毛嫌いしているわけでもなさそうなのです。
自分が今まで知っている人間の中には、本当に異性が駄目で、完全に拒否している者もいましたが、あの子は適度な距離を取っていれば普通に異性とも会話できます…。だからこれは自分の憶測なのですが…」
リシュオンは興味深げにシータの次の言葉を待った。
「彼女は性的なトラウマを抱えてると思います。つまり…。
女の性への拒否…」
「女の性?」
「ええ。つまり、性的恐怖症…というのでしょうか。男性と性別を超える関係ならば何ともないのですが、男と性的関係になるのを極度に恐れている、というか、嫌悪感を持っているというのか。…セクシュアルな部分を押し付けられると駄目だと」
「…ということは…」
「はい。…彼女は女として生まれた事を呪っている…。これは、最初に彼女と出会っているキイから聞いた事ですが、だとすると、昨日今日のものではありません。多分、幼い頃から、周りの男にその対象で見られていた嫌悪が下敷きになっていると思います。…そして、お金のために、信用したかった親にあっさりと娼館に売られた…。つまり、男を相手する、性を売り物にする仕事を強制させられたわけですから…。
でも、彼女は普通の女の子です。それだからといって、女を否定しても無理がある。…今までずっとあの子の傍にいて、その事はわかっていました。だから…」
「…はい」
「お願いです。彼女が女の性を自身で受け入れるまで、静かに見守ってあげて欲しいのです。
自分は昔から男ながら中性的と言われてきましたし、そのおかげでイェンランに性を感じさせないで接する事ができました。
…本当に男性が駄目ならば、男だらけの中でこうして普通に生活はできません。
アムイ達もいい距離感であの子に接してきました。
…だからわかったのです。あの子には性的な接し方はしないでいただけると、…そして男性の不信感を取り除き、自分の女の部分を受け入れられるまで、そのような対象で見ないでいただけると…」
シータの声は切実だった。
つまり、彼女が男性不信を払拭し、女という性を受け入れ、慈しむ事ができれば、男の性を受け入れる事ができる、と言っているのだ。
…人の心の闇や病は、一筋縄でいかない事も、また、どんなきっかけで払拭されるかも計り知れない事くらい、若いリシュオンにもわかっていた。
彼女を少しでも思うのなら、恋情というものは封印した方がいいのだろう。
リシュオンは溜息をついた。そして決心した。
キイの事もあったが、自分は彼女に惹かれているのは事実。憎からず思っているのは認めよう。
…だが、それ以上にリシュオンの心は、彼女を大切にしたい気持ちの方が大きい事に気がついた。
本音を言えば、女性に対し、このような気持ちになるのは初めてだ。
だから尚更…。リシュオンは男としての特別な感情を封印する事を決意した。
彼女の男にならなくてもいい。…一番の親友に…いや、少しでも男を信用して貰えるよう、努力したいと思った。
「わかりました、シータ。話してくださってありがとう。
…彼女の事は、任せてください」
リシュオンはそう明るく言うと、シータ安心させるように爽やかな笑顔を見せた。


キイはそっと扉を開けると、中の様子を窺いながら部屋に灯りを点した。
「アムイ?」
じっと部屋の奥を窺うと、アムイが窓際にうなだれて立っているのが目に入ってきた。
キイはそっとアムイの傍に寄った。微かだが、アムイの身体が震えていた。
たまらなくなったキイは、そっとアムイの頭を優しく両の手で包むと、ゆっくりと自分に引き寄せた。
アムイは何も言わず、ただ、じっとキイの肩に顔を埋め、身を任している。
「…まいったなぁ」
キイはあの、慈愛に満ちた深くて低い声で囁いた。
「ヘヴンの奴が、まさか出てくるとは思わなかった。…あの狂犬野郎が」
「……」
「お前の気持ち、わかるぞ。奴に…知られたからか?サクヤの存在を」
キイはゆっくりとアムイの肩に手を回し、力を込めて抱きしめた。
「あいつはお前に異常に執着していたからな…。
ヘヴンはお前の泣き顔見るためなら、この俺だって手にかけようとしたほどの玉だ。
ま、手を出した相手が悪かったけどなぁ。俺には通じねぇと知ってからは、近寄らなくなったけどな。
でも、サクヤは違う、そうだろ?」
アムイの肩がピクリと動いた。
確かにアムイにまとわりつく男は、このヘヴンといい、あの吸気士シヴァといい、一癖も二癖もある人間ばかりだ。

……負を呼ぶものが、確かにアムイの中に存在する。

アムイに執着する人間は、何かしら負の因子を持つ者が多いのには、キイもわかっていた。
本人の持っている何かが、彼らの持つ邪心や異常癖などの負の部分を惹きつけ、彼らを執着させている事も。
特に今、彼の封印を皮肉にも手助けをしていた闇の箱が、完全に消えている。
また何か大きな衝撃が起り、アムイの自衛本能が働かない限り、もう二度とこのような箱は現れない…が。
無くなる事によって、それが益々、まるで蜜の群がる蟻のように、明りに惹かれる蛾のように、アムイにたかる輩が出てくる筈だ。
だがこれこそ、地と通じるためのひとつの通過点。
アムイにとって、避けて通れぬ試練。
あの時は彼はまだ幼くて、乗り越えられることは難しかったであろう。
だが、今は…?
大人になった今ならば…。
キイの、アムイを抱く腕に力がこもった。

ああ。俺のアムイ。
お前を深淵に落とそうとする、この俺を許してくれ。
そう、これを越えねば、お前の軸は立たない。
この地に足をつけ、揺るがない芯を確立しなければ、お前は天と通じる俺とは向き合えぬ。

「アムイ…。何をそんなに怯えている?
俺に隠しても無駄だぞ…。ほら、こんなに震えて」
アムイの傷口を、あえて露見させる事を、キイは覚悟した。
彼を苦しめ、がんじがらめにしている鎖の正体を、早く探らねばならない。
彼の乾いた瞳に、感情の涙を取り戻すために。
…自分が焦っている事を、キイは素直に認めた。

「怖い…」
「え?」
今まで無言だったアムイが、小さな声で呟いた。
「怖い…。何でだかもの凄く怖いんだ…」
やはりアムイの声も震えていた。
「…そうか」
「ヘヴンがサクヤを見たときのあの目、俺はぞっとした。
あいつは俺が傷つく事なら、何でもする奴だ。身体にも、心にも…両方傷つけ、俺が壊れるのを楽しみにしている。
だから…きっとサクヤも奴に目をつけられた。早く俺から離さないと…!
俺と一緒だと、皆不幸になる。……大罪人の子だから…。俺が父さんの罪を背負って生まれたから」
「アムイ!」
キイはアムイの言葉にぎょっとした。
「キイを苦しめたのも、悲しませたのも、みんな俺のせいなんだ!
嫌だ。もうこれ以上…誰かが傷つくのは嫌だ。
俺のせいで、皆苦しむ。俺に関わった人間はみんな…!」
「待てよ、アムイ!何でそうなるんだ?
お前、一体…」
キイはぞっとした。アムイの闇は、いや、彼の涙が枯れたのは、もっと根深い何かがあるのではないかと。
それが封印の闇の箱が消えたと同時に露呈した。
その事が他人の闇を感じ、呼び込む餌となっているのでは……?

「キイ…ごめん。しばらく…一人で考えたい。
だから、これからは別々に寝てくれないか?」
アムイは赤く腫らした目を、おずおずとキイに向けた。

「頼む」
その一言は、心の底からの悲痛な叫びに聞こえた。

キイはそっと彼を離すと、噛み締めるように、ゆっくりと答えた。

「わかった。お前の思うように」


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