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2011年1月16日 (日)

暁の明星 宵の流星 #129

リシュオンの船に案内された一行は、作戦会議に最適だという船の中でも一番大きな部屋に通された。
「この階下には、人が休める部屋も完備されています。
宿よりもここの方が安全でしょう。サクヤが来るまで皆ここにいた方がいい」
皆、素直にリシュオンに従った。

その後必要事項を話し合った後、リシュオンは西の国自慢の最新型の船を皆に披露した。
彼が外大陸での留学で、持って帰ってきたもの…それは新しい考え方や制度だけでなく、最先端と言われる外大陸の技術であった。
西の国が一番、外大陸に通じる海に面している。
昔から西の国の人々は大陸内よりも、遥か遠いよその大陸に気持ちを馳せていた。
何故かとうと、西の国に多い青い瞳は、外大陸から来た人間の名残と信じていたからだ。
そう、西は外界への門。何百年という前から、外大陸の人間がこの国を訪れていた。
今から六十年前に、西のルジャン王家が外大陸との貿易を結び、今まで友好な関係が作られているのも、西の国の先祖は外大陸から来たかもしれない、という思いがあったからだ。
もちろんその昔、外大陸からの干渉がなかったとは言えない。紆余曲折し、互いに不可侵条約を結んだからこそ、この平和な関係を保っているのだ。
しかしそれでも、この大陸を“果て”の大陸というほどあって、外大陸へ行くにはかなりの危険と時間がかかる。貿易船とて、しょっちゅう海を行き来出来るわけではないのだ。それでも年に2-3回あればいい貿易船は、西の国を充分潤してくれる。
まるで西の国の象徴、森と豊かな水のように。

ひとしきり案内が終わったあと、男性陣は先ほどの大きな部屋に戻り、誰とはなくこの大陸の情勢の話で盛り上がった。
だがそれも夜更けが迫る頃には、もう遅いからと各々割り当てられた部屋へと退散となった。
(そういえば)
リシュオンは一人、ランプの仄かな灯りがちらつく廊下に差し掛かり、自室へ戻ろうとしてふと足を止めた。
案内の後、何の気もなく男共は集まって話をし出してしまったが、たった一人の女性であるイェンランはどうしただろう。
確か、皆が部屋に移動するとき、昂老人が疲れを訴えていたため、彼女が付き添って行ったような気がする。
リシュオンは、そのうち彼女は皆の所に顔を出すだろうと思っていたが、結局現れなかった。
(まさか…な)
彼は先ほど、皆を船に案内していた時の事をふと思い出した。
会議する部屋と同じ階にある図書室に、案内した時のイェンランの瞳の輝き。
思わず彼女に、鍵は開けとくからいつでも使っていい、とリシュオンは言ったのだ。
もしかしたら…。
いやいや、もうこんな遅い時間だ。彼女が図書室にいるわけないだろう…。
そう考えを打ち消して再び歩き出そうとしたが、彼はまた足を止めた。
何か気になる。
こうなってしまったら、自分の目で確認しないといられない性分のリシュオンは、そのままくるりと反転すると、図書室の方へと足早に向かった。

廊下のはずれに図書室はあった。リシュオンは扉の前に立つと、静かに息を整え、そっと中の様子を窺うため扉を開けた。
(やっぱり…)
案の定、中は煌々(こうこう)と灯りがついていた。
リシュオンはそろりと中に入る。
船の最後尾にあるこの部屋は、中くらいの広さで、壁には天井まで届く高さの本棚が備えられている。部屋の中にも背の高い棚が平行に並び、本がひしめき合っていた。
部屋の中央には、人が調べ物ができるようにと、4人掛けほどの大きさのテーブルと椅子がある。
リシュオンはテーブルに近づくと、きょろきょろと辺りを見回した。
そのテーブルには誰もいなかったからだ。
ふと、奥の本棚の隙間から黒い髪が見え隠れしているのが目に入り、彼は口元をほころばした。
イェンランだった。
彼女は懸命に、自分よりも高い場所にある本を取ろうと格闘していた。
小柄な彼女が背伸びしたり、ぴょんぴょん飛び跳ねてみたりする姿が可愛らしくて、思わずくすりとしてしまう。
「ああん、もう」
焦れた彼女は誰もいないと思って地団太を踏んだ。
あれれ、扉の方に折りたたんである梯子があるのに、彼女は気がついていないらしい。
リシュオンはにっこりすると、再度ひょこひょこ飛び跳ねている彼女の背後に近づき、取ろうとしていた本をすっと代わりに取り出した。
「きゃ!」
驚いて振り向いたイェンランの目が、深くて優しい青い瞳とかち合った。
「リシュオン王子」
びっくりして動揺している彼女を安心させようと、リシュオンは穏やかに微笑むと、優しく彼女に本を手渡した。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう…ございます…」
突然の事で、イェンランもどきまぎしていた。
「ごめんね、驚かせたかな」
「いえ、大丈夫です…。自分一人だと思っていたので、ちょっとびっくりしたけど…」
「いつの間に…って?私が入ってきたのも気がつかないほど夢中になってたんだね。よほど本が好きなんだなぁ」
その言葉にイェンランは少々赤くなった。
「『大陸文明の推移』…?こういう内容に興味があるの?」
「……ええ、まぁ…」
照れているのか、彼女は少し俯き加減に言いにくそうに呟いた。
「へーぇ、女性でこういうジャンルに興味を持っている人に、初めて会ったなぁ」
イェンランはからかわれてると思って、彼の顔を見上げた。が、リシュオンの表情は心底感嘆しているようだった。
「女でこういう事に興味を持ってるのって、おかしいでしょうか?」
照れ隠しも手伝って、思わずつっけんどんな言い方になってしまった。
「いや、気分を悪くしたなら申し訳ない。おかしくなんてないよ。大陸には数は少ないけど、女性の学者や術者も存在する。我が国にも女性の船長だっているし、医術者も、経営者などの専門分野で活躍している女性はいる。
ただ、私の周りには、そういうものに興味を持った女性がいなかったってだけで…」
と、リシュオンは苦笑いした。
宮廷育ちのせいか、どうも自分の周りにいる女性は、美しく着飾ったり、ダンスが好きで、社交的話術に長けているタイプばかりだった。
まるで自分の母親と同様、世間知らずなお嬢様が多く、国の政治は男の仕事だからと、難しい話は嫌いだと、リシュオンの話に興味を示してくれる女性は皆無だったのだ。
自分の周りの男衆も、政治や仕事に首を出す女性を疎んじている者がまだ多い、というのもある。
女性の地位が他の国より比べ、向上しているといわれている西の国でも、まだそういう改革が始まって間もない。今だに古い考えを引きずっている人間がいても当たり前だ。
まぁ、リシュオンにとっては別にそれが悪い事だとは思わない。人それぞれの価値観があって、好みがある。
それに、実は意外と女性の興味ある事に疎い自分も、相手をとやかく言える立場でないと思う。
かえってはっきりと割り切ってしまった方が、気が楽だと思っていた。いや、そういう女性の方が多いとも思っていた所もあった。
だからなのかな…。
初めて会った時から、彼女の意志の強そうな瞳に惹かれていた。
可愛い人だとずっと思っていたけれど、本を前に夢中になっている彼女を見て、彼はただそれだけで彼女に惹き込まれただけではなかった事に気がついた。
「で、結構歴史とか好きなの?どういう分野に一番興味ある?」
彼女の好奇心旺盛な瞳を前にして、リシュオンはつい質問していた。
イェンランもまた、彼の率直な問いかけに好感を抱き、自然と言葉が口から出る。
「歴史、興味あるわ。大陸文明もそうだけど、人文学とかいうの?そういうのも、好き。
実はね、特に冒険ものとか、旅行記とか小さい頃から好きで、そういう本を読みたくて、近所のお寺で文字を習ったのよ」
意外な言葉に、リシュオンは目を丸くした。その彼の様子にイェンランは困ったように笑った。
「驚いたでしょ?…うち、本当に貧乏だったから…。特に女には学問は必要ないって…学校にも行ったこと、なかったのよ」
「……」
「だから学校に行けるのは上の兄さん達だけ。…後は家業手伝ったり奉公したり。
一番上の兄さんは身体が弱かったから途中までしか学校へは行けなかったけど、頭はよくて親は学者か先生にでもしようと思っていたらしいわ。それで、よく学校から本を借りてきていたの。それをやはり学校へ行っていた2番目の兄が、よく下の兄弟に読み聞かせてくれてね、それが唯一の楽しみだった」
リシュオンは言葉なく、彼女を見つめていた。

……貧富の差が大きい他国では、子供達が全て教育を受けられる制度が、整っていないのは知っていた。
この広い大陸で、誰彼とも平等に、ある年齢まで教育を受ける義務を設けているのは、最先端をいっているという西の国くらいだ。
そのように恵まれている西の国は、自国の豊かさにどっぷりとつかり、大陸の問題には見て見ぬ振りをする風潮があった。
それは保守的と言われるリシュオンの父、現在の王の影響もある。
それもあって西の国は、他のどこの国よりも進んでいる筈なのに、中心に立とうとしなかった。
自分だけ豊かであればそれでいいのか…。リシュオンがいつも焦燥し、外の世界に目を向けるようになった要因のひとつである。
大陸は昔から地続きで、広いながらも、国がいくつに分かれても、言語は共通であった。
もちろんその国や地方での方言はあれど、遥か遠い島国に独特の言語はあれど、長い年月にあらゆる国と民族の言語が入り混じった共通語が発達し発展していった事で、他国他民族とのコミュニケーションには支障がない。ただそれが大陸全土の平和に貢献しているとは言い難いのが辛いところだ。

「そんな環境だったから、本なんて最高な贅沢だったの。
家にあった唯一の本が、亡くなった兄が一生懸命働いたお金を貯めて買った、一冊のみ。
昔、兄からよく借りて夢中で読んでいたなぁ…『リシャノアール伝記』」
「…『リシャノアール伝記』!?本当?私も子供の頃、夢中になって読んだよ!」
「リシュオンも?ああ、確かに男の子達には一時流行したわよね、リシャノアール船長の冒険活劇!って、よく演劇にもなってたし」
「ああ。あの伝記で、私も彼のように現状に甘んじず、広い世界を巡ってみたいと。
未知の世界にも恐れず立ち向かう彼の生き方に、とても感化された…」
リシャノアールとは、百年かの前、宗教戦争真っ只中に実在した、中央の国の冒険家の事である。
恵まれた貴族の位を捨て、全大陸を戦火の中巡り、その時に出会った仲間達と西の国で船を調達し、海を駆け巡り、とうとう初めて外大陸まで足を伸ばし生還した勇者だ。その彼が綴った冒険の記録と彼の相棒だった航海士の航海日記を元に、彼の孫が本人の没後にまとめて世に出したのが『リシャノアール伝記』である。
かなり分厚い本で、子供が簡単に読めるものではなかったが、恋あり、冒険あり、人生哲学も散りばめ、実話ならでの臨場感で、世の男達を夢中にさせたのだった。
それが近年、所々の国で演劇となって、少年達の間でも有名になった。
昔に流行った海賊ごっこは、ほとんどがこのリシャノアールの実話を元にしたものである。
それだけ有名な話であるが、元の伝記を読んでいる子供はそうそういない。(大人向けで難解な所があるため)
しかし、その本を読んでいた女の子がいたなんて。
「…で、私はリシャノアールの第3章が一番すごいところだと思うんだ…」
リシュオンは嬉しくなって、この伝記のどこがいいかを、つい彼女に熱く語っていたのに気がついて、しまったと思った。
いつもこの手の話を夢中で女の子にすると、つまらなそうな反応が返ってくるからだ。つまり、ある意味冒険おたくのリシュオンは、ついついその話になると周りが見えなくなるらしい。だからなるべくそういう面を人前で出さないように注意していたのだ。
「ああ、わかる!私もそこのところねぇ…」
ところが思っても見ない事に、対するイェンランも負けていなかった。かなり読み込んでいるという返答が返ってきて、益々リシュオンを熱くさせた。それはリシュオンだけではない、イェンランもかなり熱くなって語り始めた。
最後は互いに議論を交わすほどだった。
そして話はどんどん発展し、伝記から歴史の話になり、人文学まで進んだ。
リシュオンは彼女の知識欲に感服した。
イェンランも話していくうちに、今まで彼に対する緊張が自然と解けていく感じに驚いていた。
次兄としかこんな話、した事なんかなかったのに。
こんなに話しやすい人とは思ってもみなかった。まるで昔からの友人みたい…。
「すごいなぁ、イェンラン。ギガ文字も読めるの?」
時間の経つのも忘れて話に夢中になった二人は、あれやこれやと色々な本や文献を引っ張り出し始めた。
「少しだけだけど…。でもどうしてもオーン経典とかに挑戦するなら、古代語くらいはマスターしないと厳しいわよね?」
「オーン経典…。そうだなぁ。他の国の経典も、ギガ文字表記があるから、勉強した方がいいのは確かだ」
リシュオンはそう言いながら反対側の棚から、一冊の本を持ってきた。
「これ、ギガ文字の習得にはいいと思う。よかったら持って行っていいよ」
「本当に!?」
きらきらと目を輝かす彼女に、リシュオンの心は締め付けられた。
……彼女が自分に心を開いてくれたのが、彼はとても嬉しかった。その甘い幸せに、前にシータに言われた言葉がふっと甦る。

《…だからわかったのです。あの子には性的な接し方はしないでいただけると。
…そして男性の不信感を取り除き、自分の女の部分を受け入れられるまで、そのような対象で見ないでいただけると…》

理性が勝るリシュオンは冷静に状況を分析する。
最初に決めたとおり、これで充分ではないか、リシュオン。
彼女と共通な感覚を持てた事、それで充分だ。
そう思いつつも、ふと、本能で彼女に女性として惹かれ、胸をかき乱す事もあるだろう。
でも、それはどこかにやってしまおう。
彼女の笑顔をこうしてずっと傍で見られるのなら。何のこだわりもなく傍にいられるのなら。
よく言うではないか。
恋人になればいつかは恋も冷め、別れがくるかもしれない。だが、親友ならば…。

若者にしては自制心が強いタイプのリシュオンが、そのように分析し、思い込んだのも無理はなかった。
彼女の屈託のない、無垢な微笑を見ていると、彼女に対し、恋慕を抱くのが汚らわしくも感じる。
元々セクシーさの無縁な、爽やかな雰囲気のリシュオンは、普段でも男の厭らしさを感じさせない、本当に真の紳士、王子様だ。
欲望を封印して接すると決めれば、自然にできてしまうのだ。
その事が、いいのか悪いのか、イェンランにはシータに次いで、接触しても平気な男性の一人となるわけだが…。

「貴方も知ってのとおり、私は桜花楼(おうかろう)に売られて、その時に一般教養を身につけさせられてたのよ。
相手と対等に話せるレベルじゃないと、高貴な顧客はつかないって言われてね。
…お客を取るのは嫌だったけど、…いろいろ学べた事は嬉しかったな…。それだけかな。あそこでいい思いしたのは」
イェンランは伏目がちにぼそりと言った。
リシュオンはいたたまれなくなって、わざと明るくこう言った。
「わからない所、読めない文字とかあったら教えるよ。君は頭がいい。
……もし、もっと学びたかったら…すぐにとは言わないが、やはり西の国に行った方がいいかもしれないね」
「………」
イェンランはそれには答えず、力なく微笑んだだけだった。
それだけで、彼女がまだ自分の身の振りに迷いが生じているのがわかる。
…きっと、…あの宵に輝き流れる星を象徴する、彼を思って…。
リシュオンは心の中で、変な思いに囚われまいと、頭を振った。
「では、イェンラン。もう今晩は遅いから、明日の空き時間にまた続きをしよう。
で、ギガ文字のおさらいでもしようか。結構難しいから」
「難しい?ふふ。そういうの、実は燃えるわ!明日までに完璧にマスターしてみせるから!」
その強気な科白にリシュオンは声を立てて笑った。
「お手並み拝見。私もそういう相手には燃える性質(たち)でね。どこからでもかかってきなさい」
「言ったわね!」
イェンランも心の底から楽しげに笑った。
それは久々の、彼女の曇りのない笑いだった。


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今宵は星すら出ていない。
暗闇にうっすらと浮かぶ小さな小屋に、ミカエル少将は足早に入って行く。
その近くに大きなテントを張り、ティアン宰相以下南軍と、北のミャオロゥ第一王子の軍隊は一時の拠点として、寺院から少し離れた森の中にいた。

「どうだ、ヘヴン」
ミカエルは小屋の扉を開け、迎えに出たヘヴンの肩越しから中の様子を窺った。
部屋ひとつと、小さな台所があるだけの小屋の中は、仄かな灯りがちらついていた。
その奥にうっすらと、一人の人間が、両手を鉄の錠で引き上げられるように拘束されている姿が、ぼんやりと浮かんでいた。
(何で来るんだよ)と言わんばかりに、ヘヴンはふん、と鼻を鳴らした。
「お楽しみ中、悪いけどな、宰相様がどうしても経過が知りたいと言ってな」
ミカエルはお構いなく、ヘヴンの脇を無理やり押しのけると、人影のある奥の方に向かった。
「こいつは…」
ミカエルは唸った。壁に括られているその姿に、つい同情の溜息を漏らす。
「おい、ちゃんと生きてるだろうな?」
その言葉にヘヴンはむっとすると、水場にあったバケツの水を、いきなりその人物にぶっ掛けた。
バシャッ、と冷たい音がして、水飛沫が散る。と同時に、諸に水をかぶった人物が咳き込んだ。
「……意外としぶとい奴でさ、顔に似合わず」
ヘヴンは虫の居所が悪そうだ。
ミカエルは間近に迫って、今まで様々な責め苦を味わされたであろう、その人間…サクヤの顔を覗き込んだ。
(これは酷い…)
初めに彼を見た時、かなり綺麗な若者だった事を思い出す。
だがそれが今では、手酷く嬲(なぶ)られた痕跡が生々しい。
顔の半分は殴られたために変形し、何度も打ち付けられたであろう鞭の為か、衣服は引き裂かれ、体中には肉が裂けて血が吹き出た傷が無数あり、見るも無残な有様となっていた。
見るからに虫の息。この状態では何度意識を失ったのであろうか。
その都度、水を被せられたのであろう。足枷をさせられた彼の足元は、かなりの水溜まりとなっていた。
幸い、殺さないように言っていたため、体の一部を削ぎ落としたりという残虐な行為は、ヘヴンにしては珍しくやっていなかった。
よほど、暁…アムイの行方を知りたいのだろう。

しかしここまで、ヘヴンの責め苦に耐えられる人間がいるとは。
「こんなになってまで、まだ口を割らないのか…」
独り言のようにポツリと呟くミカエルの声に、痛めつけられていた当のサクヤが目をゆっくりと開けた。
「いっそ殺せよ…」
息も絶え絶えに声を絞り出すサクヤに、ヘヴンがかっとして彼の頬を張り倒した。
バシッという鈍い音がして、サクヤは口の中を切ったたのか、赤い血を口から少量吹き出した。
「おい、馬鹿にするなよ!…んな簡単に殺しちまったら面白くねぇだろ!?
それよりも、おい、アムイは何処に行った?!お前仲間だろ!早く喋らねぇと、もっと地獄を見ることになるぜ」
ヘヴンの剣幕に、サクヤはふっと笑った。
「何がおかしい?」
「…知らねぇよ…!わからないのに喋れるわけないだろう?」
「嘘をつけ!」
ガツッ!!ヘヴンはサクヤの腹に蹴りを入れ、その激しい痛みにサクヤは息を詰めた。
「アムイはどこだ、この野郎!」
完全に頭に血が昇っているヘヴンを止めようと、後ろから何とか羽交い絞めにしたミカエルは、努めて冷静にサクヤに言った。
「知らない筈はないな。君はあの屋敷が焼け落ちる前、暁と会っているだろう?隠しても無駄だよ」
「……あの時、会えなかった…んだ…わかる筈ない…」
「嘘だね。ほら、君が守ろうとした若い僧侶。かなりぎりぎりまで弄(いじ)ったら、素直になってくれたよ。
もう一人は絶対に口を割らなかったが、もう修行には戻れないだろうね、あれでは」
ミカエルのその言葉に、サクヤはかっと目を見開いた。
「この、外道!!」
サクヤは怒りで頭が真っ白になった。
白鷺(しらさぎ)さん…周明(しゅうめい)さん…。自分達に関わったばかりに…。
サクヤは喉が熱くなり、目から涙が滲み出た。
「さぁ、君も素直になったらどうかね?絶対に仲間と落ち合う場所を暁と話している筈だよ。
これ以上、屈辱を味わいたくないだろう?」
「……屈辱?そんなもの…」
サクヤの言葉に、ヘヴンは厭らしい笑いを浮かべた。
「屈辱が“そんなもの”なら、恥辱はどうだ?」
その好色そうな言い方に、サクヤはどきっとした。
「…押しても駄目なら引いてみな…ってね」
そう言いながらヘヴンは懐をごそごそ探ると、小さな丸剤の入った瓶を取り出した。
「おい、それは…」
「へへ、天国にイクお薬」
ぞっとするような笑みを見せ、ヘブンは瓶をサクヤの目の前でちらつかせた。
「これを飲むと、すげぇ気持ちよくなってどうしようもなくなるんだと。身体が疼いてどうしようもなくなるらしいぜ。
強情なその口だって、何でも話す気になるかもよ?痛みより快楽の方が人間、弱かったりするからな。
…いつかはアムイに使ってみようかと手に入れたんだけど、ま、実験台になってもらってもいいか」
「ヘヴン…」
ミカエルは眉をしかめた。はっきり言って彼は淫らな事が好きな性分ではない。その露骨な表情に、ヘヴンは馬鹿にしたように笑った。
「あー、やだねぇ。これだから仏神(ぶっしん)関係者あがりは、潔癖な奴が多くてつまらねー。
どこぞの由緒正しき神宮ゆかりのご子息さんか知らねぇが、南の宗教っつうのは、こう、神国オーン教と違って、もっと自由なんじゃなかったっけ。…南の神宮くらいだろ?宮司ならびに神職者が、女と子供作っていいのって…」
「元々世襲制だ。結婚し、世継ぎを儲ける事は推奨されている。
色恋や性的に自由な教えがあるからといって、無理やり欲望を満たす事とは訳が違う」
「欲望?ふん、あんたらがキイを追っかけてるのだって、欲望のひとつだろうがよ。
キイはあんたらなんかに、興味ないって感じなのにな」
ヘヴンはにやにやとサクヤの方を振り向いた。
「人間は欲がないと生きていけないのよ。それが本能っちゅうもんじゃ?」
そう言いつつ、彼はサクヤに近づき、顎に手をかける。
「こうして自分達の欲の為に、一人の男が犠牲になってる。…そんなの、日常茶飯事な世の中に、何お綺麗ぶってるんだか」
ヘヴンはサクヤの唇に指をかけ、押し開こうと試みた。が、サクヤは意地でも口を開けない。
「なぁ、お前。俺のアムイといい仲なんだろ?」
焦れたヘヴンは自分の口をサクヤの耳元に近づけた。
《俺の》という所で、サクヤの頬が引きつったのを、ヘヴンは見逃す筈も無い。
「あのお堅いアムイがねぇ…。キイの奴とできちまってると思っていたが、お前を傷つけようとしたときのアムイの顔、忘れられねぇ」
そこでヘヴンの笑いが消えた。
「あんな顔、あいつでもするんだ…。俺が何回も可愛がってやっても、冷たい顔してた奴がよ…」
ヘヴンの声が、いきなり氷のように冷たくなったのに、サクヤの背筋が凍った。
「あいつ、どんな顔するかな。顔色変え、自分の額を切られてまで守ろうとした奴が、散々陵辱され、甚振(いたぶ)られ…」
彼の声には、はっきりとした悔しさと嫉妬の色が帯びている。どうしようもない憎悪が向けられているのを、サクヤはひしひしと感じていた。
サクヤは益々強固に口を結んだ。奥歯をぎり、と噛み締める。絶対開けてなるものか。
「ち、強情だね」
ヘヴンは舌打ちすると、何度もサクヤの頬を叩き、内臓を蹴り上げた。
「あぐぁっ!!」
十回あたりを過ぎた頃、我慢の限界になってサクヤは血反吐を吐き、大きく咳き込んだ。
まずい、頭が霞む…。
サクヤの意識は限界だった。
それを待っていたかのように、ヘヴンはにやっとすると、大きくサクヤの口を開けさせた。
「う、うう…」
声にならない声が、サクヤの喉を震わす。

「待て!」
ヘヴンがサクヤの口に丸剤を入れようとしたその時、ヘヴンを遮る声が入り口の方から飛んだ。
それと同時に傍にいたミカエルが、がっしりと丸剤を持つヘヴンの手を押さえ込んだ。
「何する!」
ヘヴンはミカエルの妨害に憤慨し、それを指示した人間に振り向き、睨みつけた。
「おい、何で止めんだよ、宰相さんよ!」
遮ったのはいつの間にかやって来ていた、ティアン宰相であった。
ティアンはのそりと、ヘヴンの近くまでやって来ると、ゆっくりとサクヤから彼を引き離した。
「まぁ、待て、ヘヴン=リース。この時間まで口を割らせることができなかったのだ。お前の出番はもう終わりだ」
尊大な言い方に、ヘヴンは憤怒した。
「おい、宰相さんよ!それはねぇだろ?こいつは俺の獲物なんだ!こいつの口はこれから開かせるつもりで…」
「時間がもったいない。それよりも、もっといい方法がある」
有無を言わさぬティアンの迫力に、珍しくヘヴンが口を閉じた。
「宰相?どうするおつも…あ!」
ティアンの様子を窺っていたミカエルが小さく息を呑んだ。
いつの間にか彼の指には、小指の爪、半分ほどの大きさの、小さな乳白色した楕円形の物体が掴まれていた。
「こ、これは、宰相…」
思わず絶句するミカエル少将に、ヘヴンはいぶかしむ目を向ける。
と、いきなりティアンはサクヤの頭髪を掴み、顔を上に向けさせると、その白い楕円形の粒を口に放り込んだ。
「!!」
反射的に目を逸らすミカエルに、ヘヴンは益々訳がわからない。
ティアンは無意識に抵抗するサクヤの鼻をつまみ上げ、バケツに残っていた少量の水を彼の口に流し込んだ。
「ぐっ!!ごふっ!!ごほっっ!!」
サクヤは激しくむせた。だが、その刺激でするりと粒は喉を滑り込み、反射的にごくん、と喉が動いてしまった。
「あ…、はぁっはぁ…は…」
朦朧とする意識の中で、サクヤは何か異物を飲み込んでしまった事だけはわかっていた。
その異物が何なのかは、頭が霞んでよく理解できなかったが。
そして力が尽きたのか、そのままサクヤは意識を手放し、がくりと力が抜けた。
「気を失ったか」
ティアンはサクヤの顔を覗き込んでそう言った。
「…おい、何だよ、今の」
ヘヴンは苛々とティアンの肩を掴んだ。
「……さてと…、我々は退散するか」
「へ?」
ティアンは口の端に笑みを浮かべ、目を丸くするヘヴンの手を、己の身体から引き剥がした。
「戻るぞ、ミカエル」
「はい」
「なあ!何で俺の質問を無視すんだよ」
ぶっと膨れるヘヴンを無視して、淡々とティアンはミカエルを伴って小屋を出ようとする。
しばらく歩いてから、ミカエルは仏頂面のヘヴンを振り返ると、こう言った。
「お前も来い。少しは休め」
「おいおい!少将さん、あんたまで一体何なんだよ!俺がここを離れていいのかよ。
せめて見張りくらいつけねぇのか。こいつ一人にして…」
「いいから早く来い。…ここまで痛めつけているんだ。逃げ出せるわけがないじゃないか」
ミカエルは涼しくそう言うと、ヘブンを手招きした。
「だが…」
「とにかく来い!ちょっと話したい事がある」
ばしっと言い放ったティアン宰相に、ヘヴンはむっとしたが、渋々後をついて行く事にした。
仕方ない…一応雇い主はこの男だ。報酬を貰えなくなるのは困る。
…またすぐに戻ってくればいいさ。
ヘヴンはこっそりそう思うと、サクヤを一瞥してティアン達と共に小屋を後にした。

そんな中、シン、と静まり返った小屋の屋根で、三人が立ち去るのをじっと見つめる、二組の双眸があった。
その闇夜に光る双眸の二つの影は、軽々と屋根から壁をつたい、音もなく小屋の窓を開けると、するりと中に滑り込んだ。
まるでその動きは、プロの隠密のようであった。


その事を知ってか知らぬか、ミカエル少将は無意識に小屋の方を振り向いた。
「どうかしたのか?」
「いえ」
ミカエルはすぐに顔を戻した。
元々他人の“気”…気配を感じやすいミカエルだった。何度心を澄ましても、“気”の変化はないようだ。
何となく、気配を感じたようなような気がしたのは、気のせいか。
(それにしても…)
ミカエルはちらりと半歩先を歩くティアンを盗み見た。
“あれ”を飲ませるとは…。やはりティアン宰相、恐ろしいお方だ…。
「……あの青年は、結局実験台か…」
思わずぽつりと小声に出てしまったようだ。
その言葉に気づいたか、真横にいたヘヴンが片眉を上げて、ミカエルの顔を覗き込んだ。
しかし当のミカエルは、ヘヴンの動きに全く気がつかないほど、難しい顔でじっと何かを考え込んでいた。


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