暁の明星 宵の流星 #135
夜明けの光が差し込みだし、辺りがほんのりと明るくなった頃。
イェンランの話を聞いて、急いでサクヤの容態を診に来た珍(ちん)学士は、患者の顔色が良い事に安堵の溜息を漏らした。
だが、安心ばかりしてはいられない。…サクヤの顔色が戻ったのも、キイの癒しの力が大きいと共に、体内の穢れ虫が蛹(さなぎ)となった事も影響していた。
(羽化まで…あとどのくらい時間があるだろうか…。
それまでは彼も容態は安定してるだろうが…)
蛹となった穢れ虫は幼虫と違い、動き回る事がないので、あのような地獄の苦しみからはわずかに解放される。
……問題は宿り主の精神力だ。
容態が安定し、しばしの肉体の安定がある故に、この後にくる羽化の恐怖に皆おののき、精神の弱いものはそこでおかしくなる者だって多いのだ。
それに容態が安定しているといっても、完全に元気が戻ったというわけではない。
蛹となっても、次なる羽化に向けて、虫は宿り主の生気を喰らい続けている。
どんどん生気は虫に取られ、体力も抵抗力も失われていく。動くのだって、本人にはかなり辛い筈だ。
…特に通常ではない大きさのものを抱えているとなれば特に…。
「ねぇ、お願いサクヤ。お願いだから少しでも口を開けて」
イェンランが、サクヤの口元に粥を運んでいた。
寝台の上で、上半身を少し起こした状態のサクヤは、彼女の言葉にただ顔を背けるばかりだ。
今まで何も飲めない、食べれない状態だったのが、容態が落ち着いて、無意識の内にでも水や食料が喉を通るようになったのはよかった。
だが、本人の意識がはっきりしだしてからは、彼は体内に栄養を取り込む事を無言で拒否しだした。
それは完全に、生きる事を拒否していると同じ事だった。
珍はその様子を見て、彼の中に絶望と諦めが渦を巻いているのを感じ取った。
顔色は良くなったが、生気のない表情。空ろな目。
虫は彼の右腹で蛹になったのだろう。その部分が拳より一回り大きさで硬く盛り上がり、瘤(こぶ)のようになっていた。
「…先生…」
今まで無言だったサクヤが、突然口を開いた。
「何だね?」
珍は呼ばれてサクヤの近くに寄った。
「………もう、オレは助からないんですよね…?」
思わず珍は言葉に詰まった。
その様子に何かを感じ取ったサクヤは、唇をわななかせ、手元のシーツを握り締めながら声を振り絞った。
「なら、死なせてください!この虫がオレを食い破って出てくる前に、オレもろとも殺してください!!」
「何言ってるの?サクヤ!!」
イェンランが叫んでサクヤの腕を掴んだ。
「こんな悪魔を、どうしてこのままにしているんですか!
どうせ死ぬ事がわかっているのに、何で今、オレはこうして生きなければならないんですか!
オレなんかが生きている意味なんてない!!…しかもこんな……」
サクヤは興奮し、涙を目にためながら周囲の人間に訴えた。
「こいつがどんな虫か!どんなに危険か!専門家ならよくご存知でしょう?先生!!」
サクヤはそう言って、力のでない右手で拳を作り、何度も何度も瘤を叩いた。
「よしなさい!」
驚いた珍はサクヤの手を掴んだ。
「こいつは悪魔の虫じゃないか!!
高位の“気”を喰らう悪魔…。全ての“気”を枯らしていく…。
こんな奴生かしてどうするんだ!!
兄貴を…皆を危険に晒したくない!絶対に嫌だ!!
オレを生かすという事は、この虫を生かし育てると同じじゃないか!
こんな悪魔、早く殺してくれ!」
泣き叫び暴れだしたサクヤを、近くにいた人間が押さえ込む。
「しっかりするんだ!サクヤ君!!落ち着きなさい!」
押さえられたサクヤは徐々に疲れが出始めたらしく、はぁはぁと荒い息をしながら珍にすがり付いた。
「…先生…何で…?何でオレを生かしておくんです…?このままだと、オレは皆に迷惑をかける…。
皆を危険な目に合わせてしまう…。このオレが皆を…兄貴を…!……う…う。
…。ああ…先生…先生…」
サクヤは珍の両腕にすがり、下を向いて嗚咽した。
「お願いだ…先生…。早く…早くこのオレを殺してくれ」
珍は彼の悲痛な叫びにどう答えていいか迷った。が、内心ではこうなる事はわかっていた。
穢れ虫の末期的症状でもあったからだ。
身の内に悪魔を巣食っている恐怖。そして毒素の汚染から逃げられない絶望。
…最後に死が待つ(通常の穢れ虫の場合は60%の確立だが)状況での虚無感。
サクヤが生きている意味を見失っても仕方のないことなのだ。
しかもその自分が体内で育っている虫が、自分の大事な人間をも破滅させるとなれば、サクヤは益々我慢ならないであろう。
「……希望を…。私は希望を捨てないぞ、サクヤ君」
珍がポツリと呟いた。
「…君を助ける手段を今、私達も急いで検討している…。だから、君も希望を失わないで欲しい…」
ゆっくりと語りかける珍学士の声が、泣き叫んで消耗し、気が遠くなりかけているサクヤの耳に心地よく響いた。
「き…ぼう…?」
サクヤはそう呟くと、力尽きたのかがくりと珍の腕の中で意識を手放した。
珍は力の抜けたサクヤの身体を抱き上げると、寝台を水平に戻し、そっと彼を横たわらせた。
一息ついたと同時に、サクヤの青白く疲れ果てた寝顔を見て、どっとイェンランの目から涙が溢れた。
「酷い…!人間になんて事をするの…」
誰に言うでもない呟きは、もちろんこのような悪魔の所業を成した人間に対してである。
「先生、本当にキイならサクヤを助けられるの?」
イェンランが思わず言ってしまった言葉に、珍学士は周りを気にすると、イェンランの傍に寄り、小声で言った。
「イェンラン、その話は…」
「ごめんなさい。…だって私…」
彼女はサクヤの容態を告げに昂老人達の所に行った時、キイの話をアムイとしていたのに遭遇していた。
《キイの”気“の事は、本人にも伝えるつもりだ…。いいな?アムイ》
《爺さん…。キイには言わないでくれ。あいつの力が唯一の希望なんて話なんかしたら、絶対に無茶をしてしまう。
……あいつは自分の存在に無頓着な所がある。自分の位置が今どれだけ危険なのか、わかっていても自分が前に立とうとする…。だから…》
《あやつは考えなしに矢面に立つような男ではないがの…。
じゃが、確かにその時に自分ができる事をやらなければ気の済まないところがあるのは否定せん。
言えば、必ず己を解放し、サクヤを救う手段を喜んで進めたがるじゃろうしな。
……問題はアムイ、お主の方じゃろ?》
《……》
《お主自身の気持ちが揺れているからじゃ。……そこの所をサクヤと話して己の気持ちをきちんと確かめるのじゃな》
そう会話して、昂老人とアムイは連れ立って部屋を出て行った。
イェンランは知らなかったが、サクヤと話をするために、アムイに玉の封印を施しに二人は別室に移ったのだった。
キイと同じ”気“を封じる玉の封印は、丁寧に術者が何時間もかけて行うものだ。
サクヤに会うためには早速始めた方がよかった。…時間との戦い…。
穢れ虫が羽化するが先か。敵にこの場所を知られるが先か。
このぎりぎりの時間の中で、どこまでできるのか。それはアムイだけでなく、ここにいる人間は誰もが思っている事だった。
そのような会話を聞いて、珍学士と共に隔離部屋に戻ったイェンランは、ずっと二人の会話を気にしていたのだ。
珍はサクヤの容態が安定している事をもう一度確認すると、助手達に休憩をするよう命じた。
そして寝ているサクヤをちらりと窺うと、寝台より少し離れた出入り口の場所に彼女を誘導し、声を少しだけ落としてこう言った。
「宵様の持つ“気”の事は昂極様とも話したが、色々難しい事もあるんだよ。
…ただ君も知っての通り、宵様のお力は浄化能力もあって、虫に効果があるのは否定しない。
それ以上に宵様の持つ高位の“気”は、虫を完全に死滅させ、毒素を無にするのは事実だ。
ただサクヤ君に使って彼が持ちこたえるかは未知の部分ではあるが」
「…そうなの…。やはりキイの力ならサクヤを救える可能性はあるのね…」
二人がそこまで話していた時、静かに目の前の扉が開き、優雅な足取りで一人の男が部屋に入ってきた。
「キイ!」
「しっ!」
驚いて声を出したイェンランに、キイは人差し指を自分の口元に当てると、目で静かにするよう訴えた。
「宵様、まさか今のお話…」
「すまないな。…扉越しだったが聞こえてしまったよ」
珍の言葉を受け、キイは優しくそう言った。
「どうしてここに?キイ」
「……朝になってもアムイの奴が来ないから捜してた。……で、見当たらないのでサクの様子を窺おうと思って今来たのさ。
まさか俺の話をしているとは思わなかったが」
キイはそう言って微笑むと、二人に尋ねた。
「で、どういう事?詳しく教えてくれないかなぁ」
昂老人とアムイのやり取りもあって、最初は渋っていた珍学士だったが、有無を言わさないキイの迫力に負けて全てを話した。
「そうか。でもその話の問題点はサクヤには教えない方がいいだろう。……知れば益々自分を追い込むだろうから…」
キイはちらっとサクヤの様子を遠目で窺った。ぐったりと目を閉じている様子から、まだしばらくは目覚めない感じを受ける。
「……俺としては今すぐにでも封印解除したいし、サクに少しでも希望を持たせてやりたい。
いや、俺はそのつもりで全然構わない。…ただ、皆やアムイの心配もよくわかる。
周りの影響だって俺はわかっている…」
「キイ」
「時間がないのもわかっている。大丈夫だとサクを安心させてやりたいが、微妙なところだ。
……俺にとっての問題はアムイ。あいつが腹を括ってくれれば…」
そうなのだ。この問題は己だけではなく、相方であるアムイの覚悟が必要なのだ。
……この自分を…全身全霊で受け止めてくれる覚悟…。絶対的な自己自信。
ぶれずにしっかりと大地の軸となり…。
キイはじっと目を閉じた。己の流動的な“気”が、アムイの安定の“気”に受け止められる。
……なのに心の動きが反対なのが笑えるな。
流動の気であるキイの強靭な精神力は、己の悩みも地獄の苦しみも自力と僅かな他力で克服し、揺らぐ事のない世界にいる。
が、安定の気である筈のアムイの精神は何故ああも脆く、危うく、儚くて。ぐらぐらと揺れ動き、芯が一本通っていないのか。
聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)の精神統一の修行で、かなり安定したと思っていたが…。
いや、安定したのはアムイの持つ“金環”のお陰だ。とかく心とは関係のない術では、なんら支障が出なかった。
問題は全てはアムイの心。闇に隠されし美しく柔らかで儚い心。
……それが本来の姿を取り戻し、周囲に流されない強さを持てば、魔を抑制し、正しき不動心の要となるのに。
「とにかく、その事についてじーちゃ…昂極様と話したいんだが、今どこにいるか知ってる?」
キイの質問に珍学士は溜息をつくと、
「今すぐにお会いできないとは思いますが…わかりました。
私がご案内致しましょう、宵様。さ、どうぞこちらへ」
と、キイを誘導するように目の前の扉を開けた。
「すまないな」
「…いいえ。
あ、それから悪いがイェンラン。すぐに戻るからここを頼む」
「はい。…大丈夫です」
イェンランの返事に珍学士は頷くと、静かにキイと連れ立って部屋を出て行った。
一人残されたイェンランは、ちらりとサクヤの寝ている姿を確認した。
「……まだ、目が覚めなさそうね…」
そっと呟くと、彼女は溜まった洗濯物をまとめ、それを抱えて隣の予備室にと向かった。
イェンランが出て行ったのを待っていたかのように、寝台の上で横になっていたサクヤの瞼がゆっくりと開いた。
彼は無言で何かを考えているかのように、じっとそのまま天井を睨んでいた。
いつから気を取り戻していたのか。
サクヤは寝たふりをしながら、先ほどの話を聞いていたのだ。
しばらくして、彼の瞳から一筋の雫が零れ落ちた。
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「気術を習い、高位の“気”を習得したものは、体内に生体エネルギーの“核”を形成する」
昂老人はアムイの額に黄色の小さな玉を埋め終わり、術をかけながらそう言った。
「その“核”を持たなければ、第九位以上の“気”を扱えないのは、お主も知っておるな?」
「ああ」
「 その“核”に、自分と適性の合った自然界の“気”を取り込み保持する事で、核に存在する同じ高位の“気”を呼び込んで使える事ができるのじゃ。
……あのサクヤに巣食っている穢れ虫は、その核に溜まった高位の”気”に反応する。
だから高位の“気”を使っていなくとも、虫は反応し、その“核”に溜まった“気”を喰らおうとする。
きっと核が消滅するまで、あの虫は貪欲に喰らい続けるじゃろうな。
喰らわれた方はその代償として、虫が出す毒素を反対に貰い受ける。
……ティアンの奴め、何という恐ろしいものを作り出したのじゃ。昔からあやつは信用ならなかった。
当時、聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)の最高位だった竜虎(りゅうこ)が毛嫌いし、賢者衆から追い出した訳が、今更ながらよくわかる」
「竜虎様が?」
「うむ。あやつにしては珍しい。普段温厚で博愛主義の竜虎が、あそこまで忌み嫌うなど、滅多にない事じゃったからな…。
ま、わしもティアンの奴は胡散臭くて、話したくもなかったから同じじゃ」
昂は話しながら、丁寧にアムイの“金環の気”を封じていく。
「…ま、話は戻るが、その“核”じゃ。
普通の人間はそういう仕組みで高位の“気”を扱っておるが、お主とキイはちと違う。
…元々の生体エネルギーが高位の“気”であり、それを持って生まれたお主らは、“核”を形成する必要がない。
つまり、お主らは生まれながらにして“核”を持っているからじゃ。
“核”は高位の“気”のタンクのようなもので、それを使って力を発揮する。
しかもお主らは元々それを持っているが故、わざわざ天や地から取り込もうとしなくとも、その“気”を使える。
そして貯蔵がなくなれば、自然と必要な分が補充される。
つまり、お主らが他の者と違うところは、圧倒的な量じゃ。…この世がなくならない限り、“気”が枯れる事もない。
“核”を失えば、高位の“気”を使えなくなってしまうわしらと違ってな。
それは人智を超える話じゃ。
主らが意図して己の高位の“気”を取り込もうとしたら、どれだけの量が流れ込むのか。
肉を持った人間の、遥か容量を超えた力。……それが、お主らの秘密じゃ」
昂老人はふうっと一息ついた。
「……普通の穢れ虫は、“金環の気”と“煉獄の気”に弱いとの事だが、サクヤの中にいる虫は、それが好物という事か」
アムイは掠れた声で言った。
「そう。という事は、必然的にどれだけお主が一番危険かがわかるじゃろう?
……あの穢れ虫にとっては、お主は途切れる事のない、永遠のご馳走じゃな。
…それを野生の本能で嗅ぎ取っておる。
本当に恐ろしい存在よ」
「そしてそうなったら、俺は死ぬまで永久に毒素を受け続けるという事か…」
アムイはぎりっと唇の端を噛んだ。じわっと血の味が口内に広がった。
「だから本当は、どういう形であれ、お主をサクヤに近づけさせたくない」
「爺さん…」
「酷な事を言うようじゃが、あの虫は想像の範疇を軽く超えているでの。
簡易封印も簡単に破るほどの、あの貪欲さ、獰猛さ。…僅かな波動でも敏感に察知する能力。
何重にも用心する事に越した事ない。…だから、いくら封印し完全防備とて、本人と直接会う事は許可できん。
しかも長居もさせられん。扉越しで、時間を決める。…それでよいな?」
「…わかってる…爺さん…」
ポツリと呟くようにアムイは答えた。閉じた瞼が僅かに震えている。
本当は本人と直接会いたい。だが、現状が許してくれないのは、アムイも重々わかっていた。
…とにかくあいつと話したい…。
それができるだけでも、天に感謝しなければならない状況であった。
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念には念を入れ、アムイがサクヤのいる隔離部屋のある離れに通されたのは、結局夕刻近くであった。
アムイは全身を緑の布で覆い、目だけを出している状態だった。
もちろん額にはキイと同様、黄色の小さな玉が埋め込まれている。
「暁殿(あかつきどの)、いいですか?時間は10分…それ以上はご遠慮願います。
……貴方も心配ですが、宿り主の体力も心配です…。
なので、もし途中でサクヤ君の容態が悪くなれば、即刻に中止します。
…どうかご了承のほどを」
珍学士はそう言いながらアムイを扉の前に誘導する。アムイは無言で頷くと、ゆっくりと扉の前に進んだ。
珍がサクヤの様子を窺うために、扉に手をかける。と、その時、
「やめてくれ!!」
突然、扉の向こうで怒声が響いた。
「お願いよ、サクヤ!落ち着いて!!」
すぐにイェンランの声が飛んだ。
「嫌だと言ったら嫌だ!!もうオレを放っといてくれ!!」
ガシャーン!!
床に物が散乱する音が部屋から聞こえてくる。
「サクヤさん、お願いです、どうか静まって…」
周りの助手のおろおろする声もして、中でサクヤが暴れているのがわかる。
「ねえ、サクヤ!もうさっきから何も口にしていないのよ、貴方。
お願いよ…、お願いだからせめて水だけでも口にして…」
イェンランはそう言って、サクヤに懇願した。もう最後の方は涙声だった。
「いらない!オレこそお願いだ…。頼むからもう余計な事をしないでくれ、イェン。
このままオレに何もしないで…もう、捨てておいてくれないか」
乱れた息で、訴えるサクヤの声は、本人の覚悟を物語っているようで、聞いていた皆は、全員胸が締め付けられた。
(サクヤ!!)
アムイは愕然とした。
話には聞いてはいたが、ここまでサクヤが追い詰められていたとは…。
実際肌でそのことを感じ、アムイは顔を歪めた。
「何言ってるのよ、馬鹿っ!!」
イェンランは泣いていた。
「私の知ってるサクヤは、こんなにも諦めの悪い男じゃなかった!
少しのチャンスも見逃さない人間だったわよ」
扉の向こうにいるアムイにはわからなかったが、イェンランはサクヤを泣きながら揺さぶっていた。
「ねぇ?サクヤが悪いんじゃないじゃない!!悪いのは罪もない人間に、こんな酷い事をやらかした悪人でしょ?
そんな奴らに屈服するというの?このまま大人しく、奴らのいいようにされちゃうの???」
「イ、イェンランさん、貴女も落ち着いて…」
近くにいる助手は、おろおろとしながらも彼女を落ち着かせようとしている。
彼女の取り乱した様子に、珍は居た堪れなくなって扉を開けて中に入った。
「そんなの、私は嫌!!そんな投げやりなサクヤなんて見たくない!」
「イェンラン、もうこれ以上サクヤ君を揺すっちゃいけないよ?さあ、こっちに来て」
珍はこれ以上二人を興奮させないようにと、わざと明るくこう言って、優しく彼女をサクヤから引き離した。
「でも、先生…」
涙でぐちゃぐちゃになっている彼女をあやすように珍は優しく肩を叩くと、サクヤの方に振り向いた。
「今、イェンランが言った事は、私もそのまま君に伝えよう。さあ、少しでも水分を取ってくれ。でないと」
「…でないと…死ねますよね、確実に」
珍学士の言葉を受けて、俯いたサクヤの口からそんな言葉が漏れた。
アムイははっとして閉じられた前方の扉を見つめた。
「サクヤ君!」
「…あんなにお願いしたじゃないですか…。虫もろとも殺してください、と。
このままこいつをのさばらせておくんですか?……もう、オレ…疲れました…。もう、どうなったって…」
「サクヤ!!」
アムイは扉越しで叫んだ。我慢できなかった。そんな言葉を、サクヤの口から聞きたくなかった。
サクヤはアムイの声にびくっとして顔を上げた。
「サクヤ!お前の口からそんな言葉、聞きたくないぞ!」
アムイは扉を拳で叩き、そう叫んだ。
「あに…き?何で兄貴が…」
信じられないという顔で、サクヤは声のする扉に視線を移した。
「サクヤ君、暁殿が来てくれたよ。どうしても君と話がしたいと言ってね」
珍はそう言いながら、ゆっくりとサクヤの肩を抱いた。
サクヤはわなないた。微かに口元と指先が震えている。
「サクヤ?聞いているか、サクヤ!」
扉越しで、一番聞きたかった人間の声がする。サクヤの両目からぶわっと涙が溢れた。
「…いけないよ、兄貴…。オレの傍に来ちゃ…。いけないんだ…。もうオレ、兄貴には会わない覚悟で…」
サクヤは呟いた。珍はその言葉を近くで聞いて、彼を抱き上げる力を込めた。
「サクヤ?聞こえているのか?」
アムイはそう叫ぶと、静かになった扉の向こうに聞き耳を立てた。
「せんせ…い。どうしてこんな危険な事を兄貴にさせるんですか?オ、オレが近くに寄ったら危ないと知っていて…」
「大丈夫だから。君は心配しなくていい。そのために昂極様が丹念に術をかけてくださった。
…少しの時間しかあげれないが、扉越しで話をするくらいなら、虫の影響は受けないと踏んだんだ。
何かあったら、私達もいる…。
どうしても彼は君と話したいそうだ。ここまで来てくれた彼の気持ちを汲んでやってくれな…?」
静かに、宥(なだ)めるように言う珍に促され、サクヤは扉の近くに連れて行かされた。
珍は助手に目で合図すると、助手は急いで柔らかな敷物を持って来て、扉の前に敷いた。
そしてゆっくりとサクヤをその上に横たえた。
「……聞こえ辛いかもしれないが、ここなら充分、話ができる。
…我々は準備室で待機しているから心配しなくていいぞ。……時間になったら戻ってくるからね」
優しくそう言うと、珍学士は皆を伴い、続き部屋である準備室へと向かった。
準備室に入ると、珍は肩を落としているイェンランに優しく言った。
「イェンラン、君もかなり疲れている。…少し休んできなさい」
「でも、先生…」
珍は意気消沈しているイェンランの肩を抱くと、外に通じるもうひとつの扉に彼女を連れて行く。
「これは命令だよ?看護する人間は、力強くなければならないんだからね」
そう諭されて、イェンランは渋々準備室から廊下に出た。
どうしてもサクヤが心配だった。
だが、珍学士の言う事ももっともだった。彼女は連日の看護で、へとへとに疲れていた。
その上、サクヤのネガティブな言葉に、彼女も毒された気がする。
これが穢れ虫の効果の一つだと言うのなら、負けてはいけないと思う。
ぐっと涙を堪えて、彼女は廊下をふらふらと歩き始める。
だけど、まさかこんな事になるなんて…。
サクヤの気持ちを思うと、辛くてどうしようもない。
「イェンラン?」
そこへ、全身を緑尽くめのリシュオンがやって来た。
「リシュオン?何でここに?」
驚いて言う彼女の疲れた顔をちらりと見て、リシュオンはわざと明るくこう言った。
「看護を交代しに来たんだ。…皆疲れてると思って」
「まぁ、そんな。仮にも一国の王子様が…」
「そんな事関係ないし、仲間内の一大事じゃないか。当たり前だよ。
…それに幸いな事に、私は気術士でないからね」
屈託なく笑うリシュオンに、イェンランはほっとして気が緩んだ。
「イェンラン?」
彼女はその場でぽろぽろと泣き出した。
「サクヤが…あんなになってしまって…」
嗚咽しながらイェンランは言った。
「死んだ兄さんと同じに、優しくて、頼りになって…」
「うん」
「…いつだって明るくて楽しくて、面倒見がよくて…」
「そう…」
「なのに何で、サクヤがこんな目にあわなきゃいけないの?どうして」
リシュオンは堪らなくなって、泣いている彼女を思わず抱き寄せた。
イェンランもリシュオンのぬくもりを自然と受け入れ、彼の胸を借りて思いっきり泣きじゃくった。
そんな彼女に胸を締め付けられながらも、リシュオンは優しく頭を撫でながら呟くように言った。
「…私も、何かできる事はあるかと、先ほどまでシータと色々文献を漁ってみたのだが、これといって何も見つからなかった…。
……信じよう、イェンラン。きっと何かいい方法を天が我々に教えてくれると。
それまで我々が彼にできる事を…精一杯していこう…」
彼の言葉を聴きながら、イェンランは小さく頷いた。
それでも彼女の涙は止まらなかった。……胸の奥で、小さな希望の光を懸命に思い巡らしながら。
キイの浄化の力…。
彼女にはそれしか思い浮かばなかった。
そして天にすがり、祈り、泣く事しかできない自分を無力と感じ、この状況を嘆いた。
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「兄貴…。どうして…」
サクヤの声をしっかりと耳にしようと、アムイは扉の前で背中向きに座り、寄りかかった。
そして片耳を扉に向け、ゆっくりと声を出す。
「どうしてって…。お前の声が聞きたかったからだ」
その言葉に、サクヤは目を潤ませた。
「……ごめん、兄貴…。迷惑かけて」
サクヤの声は震えていた。アムイは心臓を掴まれたかのように胸が苦しくなった。
「何言ってんだ!謝らないといけないのは俺の方なのに…」
サクヤははっとして扉の向こうにいるであろう、アムイの存在に顔を向けた。
「俺が…俺達がお前を巻き込んだんだ。
サクヤ、もっと怒っていいんだぞ!……恨んでくれて構わない…。
本当に迷惑かけているのは俺の方なんだから」
「兄貴!」
サクヤはぶんぶんと頭を振った。
「違う、兄貴は何も悪くない…。オレが勝手に兄貴にくっついて、勝手に足手まといになったんだ。
そんな事、言われる資格ないよ…」
「……いや、充分ある。…元はといえば、俺達が故郷であるセドを滅しなければ…。
国民(くにたみ)の幸せを破壊しなければ」
サクヤはその件が、アムイ…いや、暁と宵の二人に深い影を落としているのを、ここではっきりと理解した。
「……兄貴…。そんな事思わないでくれよ。もう過ぎた事じゃないか…」
潤んだ瞳から涙が溢れ出す。
「もう、いいんだ。…これ以上、兄貴達に迷惑をかけたくない」
そしてサクヤはごくりと唾を呑み込むと、意を決したように訴えた。
「頼む。お願いだからオレの事はもう忘れて欲しい。……初めから、いなかった事にして欲しい」
「サクヤ!!」
アムイは扉越しに叫んだ。
「馬鹿野郎!そんな事、できるわけないじゃないか!何言ってんだよお前は!」
「……そうしてくれよ!!もうこれ以上、オレに関わっちゃいけないよ、兄貴。
兄貴は大事な人を守らなきゃいけないんだから」
その言葉にアムイは凍りついた。
「お前…」
「……兄貴もそうだけど、オレにとっても、いや、セドの国民なら誰もが大事な人なんだよ、キイさんは。
だからこれ以上、オレなんかに関わって、兄貴達を危険な目に合わせる事にでもなったら、オレは絶対に自分を許せない」
「サクヤ…」
サクヤは震える手で、そっと扉に触れた。
「だから…オレの事は忘れて?いい?兄貴、絶対にオレなんかの為に、キイさんを危険な目に合わせないでよ。
……間違っても、オレなんかの為に、キイさんの力を使おうとは思わないで…」
「サクヤ!!」
アムイは怒鳴った。
(知っている?サクヤは最後の希望がキイの力だという事を…)
何ともいえない気持ちの高ぶりが、アムイを支配する。
「オレ“なんか”!?“なんか”なんて言うな!!」
アムイの声は震えていた。事情を知らなければ、皆、アムイが泣いていると思うだろう。
だが、悲しい事に彼の涙腺からは一滴の水も許されていなかった。
目は赤く充血し、微かに潤んでいる程度だ。
だが、アムイの心は泣いていた。それは声が物語っていた。
アムイは何度も扉を叩いた。
「お前は“なんか”じゃない!お前はそんな言葉で片付けられる存在じゃない」
「兄貴…」
「誰もが許されて、この地に降りる。そして生かされる…。
俺にとって、いや、皆にもキイにとっても、お前は唯一無二の大事な存在なんだよ!」
無意識のうちに、アムイはこの言葉を言い放っていた。
まるで、自分に言い聞かせているようだった。
自己否定し、己を貶めている自分が、人を説得する立場でない事はわかっていた。
だが、サクヤの気持ちを知って、アムイは突き動かされた。
(死なせない…!!)
その時、揺れ動いていたアムイの心は決まったのだ。
サクヤは涙が止まらなかった。水分を取っていないくせに、何で自分は涙がこんなに出るんだろう?
思わずサクヤは嗚咽しそうになって、口元を手で覆った。
「…お前は必ず、俺達が助ける。だから頼むから生きようとしてくれ。
地獄の苦しみの中にいるお前には酷な事を頼んでいるかもしれない。だけど」
アムイは目を閉じ、息を吸った。
「共に戦ってくれ。そして運命に勝ったら、俺達の片腕になって欲しい」
「……え…?」
サクヤは耳を疑った。
「片腕…?このオレが?」
アムイは頷いた。
「…はっきりとは言わないが、キイは…あいつは多分、セドを復興させようとしている」
アムイの言葉に、サクヤは目を大きく開かせた。
「ふ…っこう?それって…」
「長い間一緒の相方だ。全てを俺に教えてくれないが、最近のキイの言動を見ていると、そうとしか考えられない。
……あの忌まわしい時から、あいつが国を滅ぼした罪を背負っているのは、重々わかっていた。
セドの民が、大陸に散ってしまった民が、どれくらいいるかは俺もわからない。だがキイは王国を建て直す覚悟があるみたいだ」
それは夢のような話だった。
…セド王国の復活。それは神の子孫、セドの神王(しんおう)の復活でもある。
サクヤは心に力が戻ってくるのを感じた。
「キイもサクヤの事を買っている。あいつもぽろりと俺に言った。
…お前を聖天風来寺で修行させたあかつきには、傍に置く、と。
俺達の補佐を任せたい、と」
「キイさんが…」
キイがそこまで自分を評価してくれてるとは、にわかに信じられないが、アムイの話はサクヤに希望を持たせるのに充分だった。
「だから、サクヤ。約束してくれ。…諦めないと。悪魔と戦うと」
アムイは力を込めた。扉にあてがう己の拳が熱い。
「そうだよな?ずっとずっと目的の為にしぶとく生きてきたお前が、簡単に諦めたりしないよな?」
「兄貴…!!」
サクヤも扉にあてがった己の手に、思いを込めた。
扉の向こうに、自分が心から慕う人がいる。サクヤは堪え切れなくて扉に額をつけ、嗚咽した。
「………わかったか?」
アムイの声が扉を伝って、サクヤの身体に吸収される。
不思議と、恐怖が薄れていた。
「わかったよ、兄貴…。負けないよ、オレ。勝ったら、ずっと兄貴と共にいていいんだよね?」
「ああ。ずっとだ」
「…雪だって、まだ一緒に見てないもんね」
「そうだよ。約束しただろう?」
「うん…」
二人はしばし、沈黙した。
扉越しに、互いの息遣いだけが二人を繋いでいた。
「それからお前さ」
その心地良い沈黙を破ったのはアムイの方だった。
サクヤは何事かと思って扉から額を離し、顔を上げた。
「お前、片腕になったあかつきには、兄貴呼びだけはやめてもらうからな」
その尊大なものの言い方に、サクヤは思わず笑いがこみ上げた。
「何で笑うんだ、そこで」
サクヤの笑い声に、アムイは口を尖らせた。
「いや、こんな時でも、兄貴がそんな事にこだわっていると思ったら」
「アムイ!だ」
「……」
「絶対にいつかはそう呼んでもらうぞ!だから」
サクヤにはわからなかったが、尊大な言葉とは裏腹に、アムイの目は優しく微笑んでいた。
「俺達の為に、生きてくれ」
「……兄貴…」
アムイにそこまで言われて嬉しくて、半泣きの状態であったがサクヤは笑みを隠せなかった。
それはサクヤにとって、久方ぶりの穏やかな時間となり、己に生きる力が戻ってきた瞬間でもあった。
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その頃、キイは物思いに耽っていた。
本来なら、己の姿を外に晒すなどもっての他と皆に注意を受ける所だが、彼は他の目を盗んで、部屋のバルコニーに出て空を眺めていた。
「…最近、月がよく顔を出すなぁ」
ポツリとキイは独り言を呟いた。
もうすぐ満月になるであろう、黄色に輝く月は、雲間から半分顔を出していた。
月、となると、どうしてもアムイの母であるネイチェルを思い出す。
思えば自分は彼女に育てられたと同じだ。
(考えてみれば、女っていいなぁ、と思ったのはネイチェルが初めてだった)
という事は、初恋の相手だったのか?ネイチェルは。
まぁ、生みの母を慕っているのは確かだが、彼女は生身の人間ではない。キイには母の記憶がほとんどなかった。
あるとしたら生れ落ちた時、柔らかな胸に抱き留められた事…くらいか。
後は形見の虹の玉の波動だけが、母を感じる唯一のものだった。
だからこそ、生身の女を感じた初めての女性が、育ての親であるネイチェルであるのは仕方ないだろう。
月は女の、母性の象徴。
キイは思わず口元を緩ませた。
絶対の存在はアムイに他ならないが、女という存在だけを考えてみれば、自分が惹かれたタイプが、辿っていくと全て彼女に行き当たる。
(……ま、アマトの気持ちもわからないでない。俺の母親よりもネイチェルに惹かれるのは仕方ないよな)
大人になった今なら、同じ男である父の気持ちも何となくわかる。
姿形は似てなくとも、やはり自分はアマトの血を引いていると感じる事がたまにある。
…彼から受け継いだ声と、女の趣味だ。
キイはふと視線を落とした。
あれだけ愛し愛され、仲睦まじい夫婦はいなかったであろう。
子供心に、キイは憧れていた。
あれこそが魂の伴侶だったのかもしれない。太陽と月。見事な陰陽のバランス。
誰もが羨む男女の姿…。
己の母親にした事は、一生許せないとかと思うが、これも宿命(さだめ)か。
尚更自分の母を不憫に思う。大人になって、キイは理解した。
自分の母は、自分の父を愛していた、と。あのような仕打ちをされても尚…。
だからどうしても、今だに父への確執が消えないでいる。その事が、長年キイの心に暗い影を落としていた。
地獄から這い上がったとしても、自分は人間なのだ。
だから今でも多小の暗い影くらいはあって当たり前の事だ。
そしてそれらはいつか、必ず手放す時が来る。
人は思い悩み、葛藤し、闇を見て光を見る。
そうして多面に自分を内観し、答えを得る。
それが魂(たま)の成長に繋がる。
…それはこの地に降りる時に天と交わした、この世の契約なのだ。
「宵の君」
突然キイは誰かに呼ばれた。
声のする方を彼はゆっくりと振り向いた。
月の薄明かりに照らされて、男が一人、バルコニーの柵に立っていた。
「お前は…確か」
キイは目を凝らした。
「ユナ族のセツカでございます。宵の君、お一人のところ、失礼致します」
恭(うやうや)しくセツカはユナ族風の礼をして、柵から飛び降り、足音もなく機敏にキイの傍に寄るとキイの足元に跪いた。
「…宵の君には先日の続き、と思い、危険と承知してこうしてやってまいりました」
「…そうだったな…」
キイは立ち上がるよう、セツカを促した。
月は明るさを増し、バルコニーに立つ二人の影を照らし出した。
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