暁の明星 宵の流星 #136
雲間に半分隠れていた月が全貌を現し、辺りは灯りがなくても充分な明るさとなった。
本当なら、このような状態で外に出ているのは無謀だと周囲に咎められる状況なのだが、疫病などで隔離するために作られた病院施設であるこの屋敷の周辺は、鬱蒼とした未開発のジャングルの中にあった。
しかもここ数年以上廃れてしまってからは、人が手を入れていなかっただけあって、かなりの荒れ放題だった。
来るときも大変だったが、着いた時はもっと大変だったらしい。
離れの隔離病棟は、敷地内でも余裕のある場所に建てられていた(更地の部分で洗濯や天日干し、消毒などを行っていた)ため、植物の侵入はほとんどなかったので、すぐに施設が使えて助かった。が、職員が休憩や宿泊に使うこの建物は、ジャングルと密接していたため、かなり植物の侵食が酷かった。ということで、必要な部屋だけ各自が使えるように、各々自分で寝床を確保したというような状態であった。
キイの立つバルコニーも同様、洗濯物を干すためにかなり広く作られていたが、その半分は植物で埋まり、蔦が柵に絡まって、傍目からはジャングルと同化しているように見えていた。
この天然の目隠しのお陰で、キイは外の空気を吸えた訳だ。
だから外部から自分の所に客が来るとは思わず、キイも少々驚いていた。
「よく俺がここにいるのがわかったなぁ」
感心してキイは言った。
「はい。私もお会いする事ができて、運が良かったとほっとしています。
…宵の君も、ご無事で何よりです」
キイに促されるまま立ち上がったセツカは、再び恭(うやうや)しく頭を下げた。
「おいおい、そんなにかしこまるなよ。……で、お前さんの仲間はどうした?一人で来たのか?」
「はい。私一人で参りました」
セツカはそう言うと、小さく溜息をついた。
「他の者は、別所で待機させております。…人が多いと人目にもつきやすいですし、しかも、あの者達は暁のお方とトラブルがありますゆえ、連れて来ませんでした」
「…だろうな。俺も自分の大事な人間の事を、仇と狙う相手には遠慮してもらいたいしなぁ。今は特に」
セツカは苦笑した。
「サクヤの容態はどうでしょうか…。長の息子であるジース・ガラムがとても気にしておりまして」
「ジース・ガラムか。…俺のアムイに敵意を持っているというのは気に喰わないが、彼のお陰でサクヤを死なせないで済んだ。
礼を言わねばならんなぁ」
「何という有難きお言葉…。とにかく我がジースはこの件には大変心を痛めておりまして…」
「今のところ、サクヤは無事だ。…ちょっと危険を伴うかもしれないが、解決策も出てきている。
…あの坊やには心配するなと伝えてくれ」
そしてキイはバルコニーの柵にもたれ掛かると、美しい月明かりをしばし眺めた。
その月明かりに浮かぶキイの姿は、本当にこの世のものと思えないほど美しかった。
セツカは思った。…神の血を引くセドナダの王子。この方はそれを具現化している…と。
そう、その姿はまるで天神の身姿を描いた、一枚の宗教画のようであった。
実際に今のキイは月のエネルギーを充分満喫していて、ちょっと現実から浮世離れしていたかもしれないが。
「ところで、先日の話の続きだが」
見惚れていたセツカは、キイの言葉で我に返った。
「はい」
「この俺がセドナダ家の血を引いている事はもうはっきりしたろう?
…セドナダとユナの関係…教えてくれるよな?」
「……太古からユナは、神の子孫、セドナダ家に…いいえ、神王様にお仕えしております」
「だろうな」
厳かに言うセツカに、キイは即答した。
「薄々はそう思っていた。
…しかしこの俺が、あれだけ文献も経典を紐解いても、何も出てきやしなかった。
という事は、だ。これは極秘なんだろう?セツカさんよ」
「そうです」
「……つまり、この関係は世間には知らしめてはいけないという事だ。
それならば答えはひとつしかない。ユナはセドナダ王家の隠密ということなんだろう?」
「正確には神王様専属の隠密です、宵の君」
セツカはキイの答えを訂正した。
「神王専属…」
「はい、我がユナ…特に長と神王様の関係は古く、太古遡(さかのぼ)りまして、セドナダ第9代目女性神王、ミツキ様が始まりでございます。……その方と、当時の我が長との契約が、現代でも生きているのでございます」
「第9代…!!そんな古くから!」
キイは驚きのあまり目を見開いた。
「辺境の、閉鎖的な我が民族ユナも、独自の文化、生活を維持できておりますのも、全ては神王様のお陰。
他のどの国や州、島国に侵略されず、昔ながらの純度を保てているのも、神王様のお力あってこそ」
キイは言葉が咄嗟に出ないほど驚いていた。多分、王家の隠密を任されている民族だろうとは思ったが、そこまで古くからとは。なのにそれを今まで、誰も…いや、父であるアマトは知っていた?だから生前ユナの島に行った。…それしか考えられない。
「詳しい事を教えてくれ」
キイはセツカを促した。
「本当のところ、このお話も神王様かその次の神王となられる王太子様しかできないのでございますが…。
セド王国がない今、王家の血筋であられる宵の君ということなら、長もお許しくださいますでしょう」
セツカはそう言うと、キイに並ぶように自分もバルコニーの柵の前に立った。
「そりゃまた随分…。本当に密約のようだな、ユナとの関係は」
「…ユナは独自の文化と、生活を保っていると言いましたが、大陸の人間とは違う、神話と身体能力を持っています。
そのために過去に何度か、他民族他国の侵略の的となってきました。
……セドの神王様が絶対神の妹女神の末裔なら、ユナは宇宙(そら)から降りてきた星人(ほしびと)の子孫であります。
優れた身体能力。大陸で言う“気術”とは似て非なるユナの宇宙大樹(そらのたいじゅ)から発せられるエネルギーの活用。
……宇宙大樹(そらのたいじゅ)とは、我が祖先である星人(ほしびと)が乗ってきたと伝えられる天河(てんが)の船が、この地に降りて大陸の植物と同化した姿と言われております。それらはユナの島を潤し、住まう人々に豊かさと、不思議な力を与えてくれます。
それを狙って、過去多数の他国の者が戦いを挑んできました。
その都度我が民族は、屈せずに島を守ってきましたが、ある時、長に双子が生まれまして」
「双子?どういう関係があるんだ?」
「その当時ユナの長は、必然的に長子が継ぐ形となっておりました。…それが初めてのお子様が双子。
しかも生まれ時間が数分の違いしかなかった兄弟でした。二人は本当に身も能力も性分もそっくりで、優秀でした。
最初は似た者で仲が良かったお二人は、協力して民を守ろうとしておいででした。
ところが、いざ双子の兄が長の座につくと、弟との関係が悪化したのです。
元来似た者のお二人。同列でいた時は問題がなかったお二人も、長とその弟では地位も扱われ方もまったく違う。
弟は不満を募らせ、結局自分が心に思う女性を、長であるということだけで、彼女が兄に嫁いだ事から、内部争いが勃発しました」
「へぇ~。ユナも大陸の国と変わらないってことだねぇ。で、それから?」
「そのせいでユナ民族は分裂の危機が訪れました。そこへ降って沸いたような大陸の干渉。
…当時、大陸に存在していた東の国は、今と同じに州村、国々での争いが続いていて、荒れ放題でありました。
それを統一しようと奮闘していたのが、セド王国。セドナダ王家でした。
他国、他民族は、豊かなユナの力を欲していました。幾度となく誘惑の魔の手を、長とその弟に伸ばしてきたのです。
それをお救いくださったのが、セドの女性神王、ミツキ様でございました。
ミツキ神王は女傑と恐れられていたお方でしたが、本当は心根が優しく、慈悲深い寛大な方でございました。
彼女は東統一の最終部分で、我が民が分裂し、侵略を甘んじ、純粋な民族性を失う事を憂(うれ)いて、身を挺してまでも他州他国からの干渉を排除し、我々が他民族から侵略されないよう、保護して下さいました。
そして東統一後は、一切ユナを侵略しないよう、不可侵条約を全土に結んでいただいたのも、ミツキ様のお力でした。
そのお陰で、ユナは内部の問題にじっくりと取り組む事ができ、色々あった末、他のご兄弟の中から新たな長を決め、ユナも安定致しました。それがきっかけで、ユナは長子後継から、長の子供達の中から実力などで、民が次期長を選ぶという方法に変わったのでありますが、それもミツキ様の助言があってこそでした」
セツカは一息つくと、厳かにこう続けた。
「ユナの民は、受けた恩は未来永劫忘れません。…我らの祖先はミツキ神王を敬愛し、生涯お力になる事を誓ったのです。
…初め笑って受け流されていたミツキ様も、ある時、ご子息の幼い王太子様をお連れになり、ユナの地を訪れ、長と契約を交わしたのです」
「契約…」
「…はい。我がユナは、神王様直属の隠密としてお仕えする事。
…そしてそれは、神王様と次期神王となられる方…ほぼ王太子様の事でございますが、その方々以外にはこの関係を漏らさぬ事。
神王様が何かあった場合、もしくは神王様のご要望があればすぐにお力になる事。
……そしてこれは一番大事なお役目なのですが…」
セツカは言い淀んだ。何やら滅多に話してはならない重大な事らしい。
「重要機密ってとこか。……あのさぁ、俺の勘が正しければ、それってセドの裏経典に関係ないか?」
キイはずばっと言った。セツカはびくっとしてキイの顔を見上げた。
「…さすが…。天下の【宵の流星】と言われるだけの人物…。大した目をお持ちだ」
「やはりそうか。…裏経典は、ユナが管理していたのか」
「その通りです。ユナはセドナダの裏経典の守人(もりびと)。……書かれた内容に不安を感じていたミツキ神王は、門外不出として我々を信頼してお預けになりました。
それ以来、我々は内密にその経典をお守りしていたのですが…」
「それを30年前に、何者かに盗まれた」
「そうです」
キイはふうっと息を吐いた。
「…ったく、マダキの野郎、盗人猛々しいとはこの事だな」
キイはぶつぶつと、裏経典を暴いたというティアンの最初の師、マダキに悪態ついた。
まったく、あいつがこんな事しなければ、俺の母は俗世に穢される事なく、神の元で幸せに生涯を終えていたかもしれなかった。
アマトだって、大罪人の枷を嵌めされることなく、安泰にセドの神王として国を治めていたかもしれない。
(…ま、とすると俺もアムイもこの世にいないか、ははっ)
キイは自嘲した。
もうすでに終わってしまった過去の事だ。
母は亡くなり、アマトは大罪人として死に、…その結果の俺達はこうしてこの世に生きている。
全てが天の仕組みというなら、天も相当意地が悪いぞ。
「…で、この俺がその裏経典を元に生まれた背徳の王子、というのは知っているのか?
ユナはその所どう考える?次期神王、元王太子であった王子が禁忌を破り、罪を犯してまで生ませたこの俺を」
キイはじっとセツカの表情を窺った。だが、セツカの表情はまったく変わらない。
「そのような事、我々には関係ございません。
我々の信仰は宇宙(そら)の星人(ほしびと)の教義であり、宇宙大樹(そらのたいじゅ)の恩恵に他ならない。
他国民族の宗教はまったく関係ない事なのです。
ですから、世間の言う、禁忌とか神の怒りとかは、我々には意味を成さない。
…我々が重要なのは、神王であるか、そのお血筋であるか、それだけです」
その言葉に、キイはにっと笑った。
「なら、話は楽だ。…そうだよな、他宗教のユナには、絶対神信仰は意味を成さない事だよな」
「ですから何も支障はございません。貴方様は神王のお血筋。
…それが我々には重要な事でございます」
キイは頷いた。
「そして、裏経典を盗まれた事に責任を感じ、先代の長は退位し自害を遂げました。
今の長は、そのために若くして即位されました。
…ジース・ガラムの父君である、ダン・ユネス様でございます」
「…では、そのガラムの父と、俺の父は何だか面識があるみたいじゃないか。
それはどういう事だ。王太子までにはなったが、結局即位を辞退した。
神王でもないその父が、アムイの話だと20年ほど前にユナの島に行っているそうではないか」
セツカはしばらく押し黙ると、ゆっくりと口を開いた。
「その事ですが、これは私の口からは申し上げられません。
……ダン様と、アマト元王太子殿下のお話は、側近の私であっても口にはできない機密でございます。
知りたいのであれば、直接我が長にお尋ねいただきたい」
「そうか…。ではいつかユナの島に行くとするかな」
「………必要であれば、長の方から宵の君に話されると思います」
「わかった。…それと話は変わるが、アムイの件だけど」
アムイ、と聞いて、セツカの頬がピクリと動いた。
「一体、アムイとユナの間に何があった?
アムイ本人からは簡単に説明は聞いたが、どういういきさつで俺のアムイが犯罪人になってるんだ」
キイの声色は、先ほどと打って変わって重苦しく、有無を言わせぬ迫力があった。
その様子でセツカは、思ったとおりアムイ=メイはキイ・ルセイにとって近しくも重要な人物と確信した。
「……犯罪人などとは…。
確証がない事ゆえ、長もユナの中枢も、暁のお方が犯人とは断定してはおりませぬ。
……ただ、一部身内が仇と信じ、そのような振る舞いをしているのは認めます」
「あのアムイが世話になった女を脅し、陵辱して殺して逃げるとは、どうしても考えられん。
………詳しい事を教えてくれないか?」
「詳しい事は、私もあまり存じていないのです。
…ただ、ユナの秘密の砦を出る、唯一の山からの扉の鍵が開いていて、そこから暁のお方が外界に出られたという事。
そしてその出口に通じる部屋で、ガラムの姉が胸を突かれて息絶えていた事。
しかも、その出口の鍵が見当たらない事。
…これらの事から、暁のお方が彼女から鍵を奪い、そのまま外に出たと思われております。
真相は暁のお方に聞いてみないとならないと思っていますが…。
ジースもレツも、真相を確かめもせず、頭に血が昇っている状態です」
「…確かに。しかも死体に陵辱の痕があれば尚更な」
何だろう?何かひっかかる。セツカの話に、他に何かが含んでいるような気がするのは、自分の気のせいだろうか?
キイはじっとセツカの目を覗いた。
本当はもっと、こいつは何かを知っているのではないか?そういう意味で。
セツカはキイの視線の意図を感じ、冷静に受け止めようと目を逸らさなかった。
「じゃ、お前はアムイが、その女性の仇とは思っていないのだな」
「確証なき事は、鵜呑みにしない主義ですので」
「ふぅん…」
キイは不躾にセツカをじろじろと眺めた。
「ま、危険も顧みず、ここまで来てくれたお前さんだ。……アムイの件はわかった。
で、その顔はまだ何かありそうな気がするが、確か、前にお前さんは俺に確かめたい事があるとか…言っていたな。
それはどんな事で?」
キイの言葉で、セツカは緊張した。
「はい…その事についてですが…」
そう言いかけた時、人の気配を感じて、セツカははっと口を噤(つぐ)んだ。
「おい?」
「宵の君、申し訳ありません、誰かがここへ来ます」
セツカは慌ててこう言うと、胸元から小指ほどの大きさの木の実を取り出し、キイの手に握らせた。
「おい、これは?」
「これをお持ちください、宵の君。これは我がユナの宇宙大樹(そらのたいじゅ)の実。
この宇宙(そら)の実を持っていただき、心に念じていただければ、いつでも我々はご要望の時に馳せ参じる事ができます。
……これは神王様ご即位の時にユナの地に来ていただき、裏の即位の証としてお譲りする神聖なる実。
ですが、セド王国なき後、神王断絶の今、お血筋であられる貴方がお持ちなるのが道理。
……我々も、ずっと胸を痛めて参りました。セド王国が滅してしまった事を…」
「裏の即位?」
その事については時間がなかったのか、セツカは困ったように微笑むと、まるで風のようにその場を去った。
そしてキイの手には、その宇宙大樹(そらのたいじゅ)の実だけが残された。
不思議な色の木の実である。うっすらと白く、内部が緑色に光っているようにも見える。
その実には紐が通されており、装飾品に付けられるようになっている。
キイはその実を自分の首飾りに取り付けた。
これを貰い受けたという事は、ユナの人間は自分を神王と同様であると認めたという事だろうか?
何事かあった時、力になるという事を暗に示しているのは確かである。
じっとその実を眺めていた時、自分を呼ぶ声にキイは我に返った。
「キイ!何処にいる?キイ!」
アムイの声だ。
「おーい、ここだよ、ここ!」
キイは素早く宇宙(そら)の実の付いた首飾りを襟元に隠した。
「キイ?…おい、キイ!」
何やらアムイの声の波動がいつもと違うような気がする。
「ここだってばー!」
キイはバルコニーの柵の前で、手を大きく振りながら叫んだ。
ちっという舌打ちの音がしたかと思うと、草木を掻き分けながらアムイが現れた。
「よぉ、相棒!」
「“よぉ、相棒”じゃないよ、キイ。何て所にいるんだ。すっごい捜したんだぞ」
と文句を言いながら、身体に付いた葉や蔦を手で掃った。
「ちょっと月見と洒落込んでたのさ」
「月見…ねぇ」
アムイはそう呟くと、煌々と輝く月を斜めに見上げた。
彼のその横顔を、じっくりとキイは堪能した。
確かにぱっと見は父であるアマトにそっくりなアムイだ。
だが、こうして月明かりの元で浮かび上がる彼の横顔は、慈愛溢れるネイチェルにも重なる。
思わずうっとりと眺めていたキイは、次の瞬間はっと我に返り、小さく咳払いするとアムイに言った。
「…やっと会いに来たな。俺も朝からお前を捜してたんだぞ。
まぁ、先ほどじーちゃんと話をして、お前の事情も、俺の“光輪”の事も全て聞いた。
……で、ようやく腹が決まったようだな?その様子だと」
その言葉にアムイは真顔になり、その場の空気が張り詰めた。
すぐには言葉が出てこないようだった。
キイはじっと、アムイが言うのを待っていた。彼の言葉を。彼の決心を。
「キイ、俺は…」
やっと搾り出した声は、掠れていた。
「さぁ、お前の答えは?」
キイはアムイの前で腕組し、じっと正面から彼の顔を見つめた。
アムイの口元がわなないた。
これから言う事は、この目の前の大切な人間を、危険に陥れ、苦しめるかもしれない…。それでも…。
「お願いだ、キイ。お前のその“光輪”を解放してくれないか」
キイの頬がぴくっと動いた。
「……この状況で、完璧な準備もままならないのも重々承知だ。
敵にお前の存在を知らしめる危険性も否めないのもわかっている。
……だけど、これしか…あいつを救う手立てはない…」
震える声で、アムイは一気に喋った。キイの表情はわからない。ただ、じっと自分の顔を見ているだけだ。
「……キイ…」
アムイの表情が歪み、すがるような目をキイに向けた。
彼がこのような顔をするのは、何年ぶりに見るだろうか。
…いや、幼い頃とて、あまりこういう顔をキイ自身に向けた事はなかった。
「それがお前の答えか」
低く、重苦しい声が、キイの口から放たれた。
アムイはぐっと口を一文字に結ぶと、視線を下に落とした。
「俺の”光輪”を解放する。…それはお前の本心か?」
「…………」
「俺はお前に、本当の気持ちを教えろと言った。
その答えは、お前の本心と受け取っていいのだな?」
キイは念を押すように、そう繰り返した。キイはもっとはっきりと、アムイの口から本音を聞きたかった。
「さぁ、どうだ?」
俯くアムイの両の手の拳は振るえ、しばし沈黙した後、意を決したように震える声で言った。
「お前を守らなければならない存在の俺が、こんな事を言うのは…いかがな事かと思う」
「アムイ」
何としてでもキイを守る。
身の内に神気を持つがゆえ、邪な輩に存在を狙われ、己も苦しんでいたキイ。
彼の“気”を受け止められる唯一の存在で、傍にいる事で彼を守れるのは自分しかいない、自分は彼の為に生まれてきたのだと、いつもそう思っていた。
母の遺言なくとも、アムイはずっとそう思って生きてきたのだ。
実際、今まできちんと守れていたかどうかは自信がない。むしろ、問題のある自分が彼に守られていた気がする。
それでもアムイの心は、常にキイを中心に回っていた。何があってもキイを優先するという、幼い頃からの思い。
だが、これから言う事は、今までの自分の信念を崩す事であった。
それを面と向かってキイに言う事が、アムイにとってかなりの勇気が必要だったのは仕方のない事だ。
「……頼む…」
アムイはこうするしか、思い浮かばなかった。
彼は目の前に佇むキイの足元に跪き、両の手をついて頭を下げた。
「アムイ!?」
突然の行動に、キイは驚いて目を見開いた。
「…頼む、キイ。……お願いだ…。
“光輪”を解放し、…サクヤを助けてくれ」
「お前…」
呆然と見下ろすキイに、アムイはさらに頭を下げ、地面に額を擦り付ける。
くぐもった声が、月夜のバルコニーに広がった。
「…………お願いだ…キイ…。
色々と厳しい状態のお前に、今、ここで“光輪”を解き放て、と言うのは、何が起こるかわからない未知数な事であると同時に、お前を、周囲を、危険に晒す無謀な事だと承知している。
…でも…でも…キイ」
「………」
「危険を承知で、あえてお願いする」
何度も何度も地に頭を擦り付けるアムイを、キイは潤んだ瞳で見下ろしていた。
「今ここで、“気”の封印を解き、“光輪の気“を復活させ…。
サクヤを浄化し、救って欲しい」
「アムイ…」
キイはなんとも形容しがたい表情で、アムイの様子を見つめていた。
そして唇を一瞬震わすと、重々しくアムイに言った。
「アムイよ。この“光輪の気”が、サクヤの不浄を祓(はら)うとして、浄化される本人の身を保障するわけでもない。
しかもこのような不備ともいえる場所で、俺の“光輪”を放つということは、どのようになるかもわからぬ賭けだ。
それでもいいのか。
お前にその覚悟はあるのか」
アムイはごくりと唾を飲み込むと、震える声で答えた。
「……俺にとって、キイ、お前が一番の存在であるのは、未来永劫変わらない…。
だけど、俺がここまで来れたのは、サクヤの存在もあったからだ。
あいつの存在が、闇の箱を開けさせる決心を促し、解放する事ができた。
疎んじても、追い払っても……不器用で、決して愛想がいいとは言えない態度の悪い俺を、見捨てずにずっとついて来てくれた。
俺の頑なな心を明るさでこじ開け、他人と交流するのも悪くないと思わせてくれたのもあいつだ。
自分だって地獄の苦しみを味わってきたというのに、キイと同じく強靭な精神で乗り越え、明るくたくましく生きてきた。
……俺は、そんなあいつがこんな仕打ちをされて、このまま苦しんで死ぬなんて我慢ならない。
自分が出来る事は何でもしてやりたい。
少しでも希望があるのなら、救う可能性があるというのなら、俺は何でもする。
……それがお前に多大な迷惑をかけようとしても」
アムイの決意の表れに、キイは押し黙った。
優しい月の光は二人に柔らかな影を落とし、それを彩るかのように辺りで虫の音が響く。
じっと頭を下げていたアムイは、キイが何も答えてくれないのに不安を覚えた。
………互いの感情は読み取れるつもりでいた。が、今のアムイにはその自信がなかった。
沈黙は続き、虫の合奏だけが空気を震わしている。
やっとのことで、キイが口を開いたのは、再び月が雲間に隠れ出してからだった。
「アムイ…」
キイの声は掠れていた。
アムイは肩をびくりと震わし、緊張した。
「……嬉しいよ、アムイ」
「え…?」
思わぬ言葉に、今度はアムイが呆然とする。
頭上でキイの、低く、柔らかな深い声が響く。それは虫の音よりも心地いい。
「…お前が俺や自分の為でなくて、他人の為にこの俺に頭を下げるなんて…。
嬉しい。俺はとても嬉しいよ、アムイ」
アムイは目を見開いた。
「今まで自分から俺に頼り、頼みごとなどしなかったお前が。
いつも自分の気持ちを押し隠してしまうお前が…。
頭を下げてまで、他人の為に、この俺にものを頼むとは…」
キイの声は震え、泣いているように聞こえた。
「そうだよ、アムイ!この俺を使え!どんどん使え!
それが自分だけでなく、人の為にと願うのなら、この俺を使い倒してくれれば本望!」
アムイは下を向いたまま、キイの言葉にはっとした。
「こんなに嬉しい事はないぞ、アムイ!頭を上げろ!!
お前にそう言われなくとも、俺だって何とかしたいと思っていたんだ。
危険は承知。
…もちろん、何かあった時は、この俺を受け止めてくれるのはお前だ。
その覚悟はできているのだろうな?」
キイは自分も跪き、アムイの肩を両手で抱え、顔を上げさせた。
アムイはキイの顔を見て驚いた。何という慈悲深い表情だろうか。
キイの目に溜まった涙が、粒となって零れ落ちる。だが、その表情は喜びで輝いていたのだ。
「ああ。自信はないが、覚悟はできている。……何があっても、お前を受け止める覚悟は」
「よし!」
キイは笑ってアムイを見つめた。
ああ、俺のアムイ。
お前を一時天に任せ、手元から離して正解だった。
俺の喜びはお前の成長。
俺はいつだってここで待っている。
お前が闇から這い上がり、俺と同じ場所に立てる事を。
大地に根を張り、己を不動のものとし、この俺を支え、俺もまたお前を支え。
同じ場所で同じ方向を見、遥か彼方を目指す、この世の長い旅路。
己の寿命尽きるまで、天命を全うするまで、俺はお前と共にこの混沌とした地に生きる。
お前の覚悟が俺を奮い立たせる。
お前の信念が俺を駆り立てる。
アムイ、この俺を意のままに出来るのは生涯お前だけ。
他の存在を俺は絶対に許しはしない。
だから早く、高みまで昇って来い、アムイ。
俺はここで、その時をずっと待っているからな。
二人を包んでいた月の光も、虫の音も、いつの間にか消え去り、この場は二人だけのものとなった。
互いの魂の躍動を感じる。
その波動は同調しあい、二人の絆をさらに強めた。
そして二人の決意が固まったその頃、施設にはある朗報が届いていた。
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