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2011年2月

2011年2月27日 (日)

暁の明星 宵の流星 #137

「キイ、アムイ、聞いて!聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)から伝鳥が来たわ」

二人が決意を確かめ合い、共に部屋に戻った時、すでに部屋にいたシータがいきなりこう言ってきた。
元来食堂であった部屋は、ホールのようにただ広く、大人数が一斉に集まっても支障がない事から、就寝以外は皆ここによく集まっていた。
シータも念のためにと、アムイ達同様“気”を玉で封印されていた。
とにかく、相手が予想を遥かに超える改良された穢れ虫だ。
第九位以上の高位の“気”を使う者はとりあえず封印を余儀なくされた。
しかし、あらゆる術を操る昂老人だけは、臨機応変に対応したいからと、面倒な玉の封印はしなかった。

《わしくらいの術者ともなると、自分自身の防御は一瞬で成せるから大丈夫じゃ。
だが、お主達に施した玉で封じる“気”は、簡単に解除されない事もあって、穢れ虫には効果はあると思うが、封じられれば“気”を使う波動攻撃もできなくなるのは仕方あるまい。封印を解く…玉を取り外すのは、己でもやり方を知っていればできるが、結構タイミングが難しい…。
ま、お主達なら、気術戦にならなくとも大丈夫じゃろ?
多分、敵も穢れ虫の事をよくわかってる筈じゃから、我々同様、気術は使えないだろうからの。
ならば互角というもの。戦いには支障ない筈じゃ。
ま、当分は不自由かもしれんが、仕方ない》

「聖天風来寺から?…大丈夫か?いくら密書を運ぶ伝鳥とて、姿がわかる者はわかるし…。
それでこの場所を突き止められたりしたら、大変な事だぞ」
アムイがそう言いながら眉根を寄せた。
「そこんとこは抜かりないわよ。この山の麓から半里行った所に、小さな村があるんだけど、そこに珍学士(ちんがくし)のお弟子さんが常駐してるの。…全ての情報や密書は全てそこでやり取りしてる。ま、中継みたいなものよね。
で、アタシとリシュオンは、実はそこにほとんどこの間までいたのよ。
そこで伝鳥を飛ばしたものだから。
で、返事が来たからこうしてここに戻ってきたわけ」
「だから姿が見えなかったのか…」
「で、伝鳥はなんて?聖天風来寺はなんて言ってきたんだ?」
キイがシータに詰め寄った。アムイはその時ピンときた。
「おい、キイ。お前もしかして聖天風来寺に伝鳥を飛ばしたのか?」
アムイの問いに、キイはちょっとバツの悪そうな笑顔を見せた。
「いや、こういう事は早い方がいいと思ってさ…。実はシータに頼んでいた」
「頼んでいたって…。お前自身が自分の力の有効性を知ったのって、つい先ほどとかじゃなかったっけ!?
…シータに頼んだって…いつの話だよ」
キイの仕事の早さに、半ば驚き、半ば呆れてアムイは言った。
「いやさ。……こういう事態になって、俺としても悩んだわけなのよ。
自分の“気”がサクに有効であるという事は別として、実際封じられてもう我慢も限界でさ。
……早く解放できるものならしたいと思って…。
だって、サクをこのまま置いて、東になんて戻れないだろ?」
「だから打診してみたのか。…確かに俺もサクヤを置いて、このまま聖天風来寺に戻る気はなかった。
……解除が遅れるよりは、聖天風来寺の誰かが来てくれた方がいいか…」
結局、キイの凄いところは、こうして思い付きがいい具合に繋がる事だ。
勘が鋭いのは昔からだ。やはり天と通じていると自負するだけある。
「そういうこと!で?どうだって?」
キイはアムイに頷くと、すぐさま顔をシータに向ける。
「それがキイ、アンタ本当に運がいいわ!
つい先日まで、中央国のゲウラ(中立国)で全土賢者衆会議が行われていて、現聖天師長(げん・しょうてんしちょう)様御一行がゲウラ国北寄りの町にいらしてたんですって! 
もちろんサブ…今は師範の朱陽炎(しゅかげろう)だけど…が先頭隊長で、師範級数十名が護衛でお供についてるって!
キイの事情を説明したら、喜んで帰りがけにこちらに寄ってくださるそうよ!」
サブ(朱陽炎)とは、皆の元同期生であり、現在聖天風来寺の師範を務める友人の一人だ。
「本当か!?ゲウラ北寄りなら、東からよりずっとここに近い。
しかも聖天師長様もとより、師範代クラスが数十人?結界の場所さえ整えれば、ここでも無難に封印解除できるじゃないか」
キイは喜びを隠し切れなかった。
「という事は…。上手くすればこの数日でこちらに来れそうか。…それまで間に合うかが鍵だな」
「そうねぇ。でもとにかくよかったわ。こちらは結界の場所を整えるのに全力を尽くしましょう。
サクちゃんも、誰かさんのお陰で生きる望みを捨てないでくれたみたいだし?
さっきリシュオン王子に伺ったら、もの凄い勢いで食べ物を口にしてたって。
この調子なら少しでも体力が戻ってくるかもって、学士が言ってたわ」
アムイをちら見して思わせぶりにシータが言う。
当のアムイは気恥ずかしさも手伝って、思わず口をへの字に曲げた。
「それにしても、あの朱陽炎がうきうきしながらこちらに来る姿が目に浮かぶようだわねぇ。
もー、絶対彼の心の中では、“キイ様、キイ様”と音頭を取っている事でしょうよ」
からかうようにそう言うと、シータはキイに向かってニヤリとした。
「サブ(朱陽炎)…かぁ。確か俺、ちょっとあいつ苦手だったんだよなぁ。
俺は女じゃないんだっつーのに、変にエスコートするわ、プレゼント攻撃するわ」
キイはポリポリと頭を掻いた。
「んで、いつも最後にはアンタが切れて、袖にされてよく泣いてたもんね、彼」
くすくすと笑うと、シータはキイの隣で仏頂面しているアムイに目を移した。
「で、結局どうなの?…封印解除って事は、やはりキイの“気”をここで解放する事にしたのね」
「その話、聞いたのか?」
「先ほどね。アムイ、アンタ次第だとは老師(昂老人)が言っていたけど、サクちゃんのためにもその方がいいと思ったわ。
……危険と隣り合わせかもしれないけど、…アタシも協力するからね」
シータの心からの言葉に、二人は力強く頷いた。


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一方、南軍と北の第一王子の軍隊は、自分達が焼き払った(寺院の)離れから、すぐ行った森の中に拠点を置き、そこから動く気配を見せないでいた。
特に南の宰相ティアンは、あの日を境に、供を引き連れて個人のテントから出てこなかった。
そう、先日、自分が改良した穢れ虫の波動反応を察知して、急いでその場に駆けつけたものの、逃してしまったあの日からだ。
広いテントの中には、ティアン宰相と、彼の研究助手でもあり腹心の側近でもあるチモンという小柄で痩せた若い男。
そして気術将校であるミカエル少将、他、近しい部下達や護衛が十数人。身の回りを世話する者数名、が、いた。
テントの外には残りの南軍の兵士達が野宿している。
その隣の、同じく大きいテントには、北の王子の軍隊が待機していた。

最近のティアン宰相は、感情の起伏が激しかったり、苛ついていたのがほとんどだったが、テントに引き篭もってからは打って変わって静かだった。彼は何かじっと考え込んでいるような、いや、何かを待っているような、そんな感じであった。
そのティアン宰相に、その日の夜、一人の間者が姿を現した。
「我が宰相殿に、いい土産をお持ちしました」
その間者は頭から全身を黒の衣服に身を包み、眼光鋭い目元だけを、ぎろりと表に出していた。
「うむ、待っていたぞ。早く聞かせてくれ」
ティアンはテントの広間の上座に座り、ミカエルと側近のチモン以外の人間は、全て下座に座らせていた。
ミカエルとチモンは、ティアン宰相の両脇に佇んでいる。
そういう状況の中、ティアンの隠密(間者)は、彼の足元に跪き、頭(こうべ)を垂れていた。
「は。実はお捜しの彼の君(かのきみ)の行方に、目星をつけました。それが…」
間者が手早く、自分が調べた内容を報告している間、ティアンはじっと目を閉じ、軽く頷きながらその話を聞いていた。
「ほう、なるほどな。そういう施設が山の中にあったのか」
「はい。どう考えても、その未開の山林に廃墟として残っているという病院施設がどうも怪しい。
………穢れ人(けがれびと)を連れて行っているのなら、尚更…」
「ま、確かにそこが一番無難だな。……で、そこには行ってみたのか」
「実は…。途中まで中に入ったのですが、微かな封鎖の結界を感じまして」
「封鎖の結界…。ははーん、私の穢れ虫の波動を封じた名残だな。よく感じたぞ、その波動を。
……同じ気術士に悟られないよう、上手く波動を隠したようだが、敏感な者までには隠し切れないものだ。
こういう事ができるのは…あの老いぼれしかいないだろうが」
「封鎖の結界…ですか。かなり物々しいですね。
反対にそこの場にかけられているという事は、彼らがそこにいるという証拠にもなったという皮肉…」
二人の会話に、ミカエル少将が割って入ってきた。
「そうだ。ま、奴らも己の“気”ぐらい封印しているだろうな。
…思いの他、私の穢れ虫は強力な奴だったみたいだ」
満足そうにティアンが頷いた。
「…さすが、我が宰相様の改良されました虫。
己の好物にはとことん貪欲で、人のかけた封印すら破壊してしまう。
…そのお力はまだまだ未知数。…人に実際に寄生させてみなければわからない、様々な発見があって素晴らしい」
隣のチタンが感嘆して、尊敬の眼差しをティアンに送る。
その彼の様子にティアンは上機嫌になった。何にせよ、自分の研究成果が実を結ぶのは嬉しいものだ。
「それで、その中に潜り込もうとしたのですが、下の者(部下)からの報告で中断し、そちらの情報を急遽確認しまして、取り急ぎご報告に伺ったわけでして」
間者の言葉にティアンは我に返った。
「情報」
「はい!この数日に、聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)の一行がその山の麓にある村に立ち寄るらしいのです」
「聖天風来寺!」
その名に、ティアンはいたく興奮した。
「しかも先日まで、中立国での賢者衆会議に出席していた、聖天師長(しょうてんしちょう)ならびに師範級数名。
観光とか視察だかで、わざわざ北の国経由で東に戻るという情報を手にしまして。
これが我らが怪しいと睨んだ山の近くの村に寄ると。…できすぎではございませんか?」
彼の話にティアンは突然笑い出した。
「宰相?」
皆が驚く中、ティアンは面白そうにこう言った。
「いやいや。そうか、これは緊急に宵の封印解除を強行するつもりだな。
はは、宵の“気”の効力に気がついたか。やはり向こうも馬鹿ではないようだ。…“光輪”解放。…穢れをそれで払おうという」
「……ということは、彼らは宵の君の“気”を…。この北の地で?」
ミカエルも驚いて思わず呟いた。見たい。是非とも、あの一国をも滅ぼしたとされる、神の気を…。
「これは一石二鳥ではありませんか?宰相様。我々が宵様の封印を解除しなくても…」
「横からかっさらえる…か」
チタンの言葉に、ティアンはニヤつく表情を抑えられなかった。
「ま、本当のことを言えば、この私自身が自らの手で封印を解きたかったのだがな。
この私が宵の“気”を制する事ができる存在と、全てのものに見せつけるために」
「では、宰相。直ちに出発いたしましょう。すぐにでもお支度の方を…」
ミカエルがそう言ってその場を離れようとするのを、ティアンが手で制した。
「宰相?」
「まぁ、そんなにがっつくな、ミカエル」
「しかし」
せっかく宵の君の居場所がわかったというのに、ティアンは一向に焦る気配がない。
ミカエルは不思議そうに彼を見やった。
「…ま、よいじゃないか。聖天風来寺の輩が先か、…月見が先か」
「あ…!」
その言葉にミカエルははっとした。
「どちらにしても、時間との戦いだ。…今度の月見はたいそう興味深いことだろうよ」
そう言い放つティアンの横顔は、まるで特別な日を待ち焦がれてじっと我慢している子供のようだと、ミカエルは思った。

その後、間者がこの場から去り、ティアン宰相以下の者は、命令あればすぐにでもここを出られるようにと仕度を始めた。
「ん?おい、ヘヴンは?ヘヴン=リースはどうした」
傭兵であるヘヴンの雇い主はティアン宰相であるが、性格に問題あるとすれ、便利な兵士としてヘヴンはうってつけの人間だった。しかも気術使いにはやっかいな虫が関係している事もあり、ヘヴンのように“気”を使わない腕の立つ者が必要なのだ。
つまり穢れ虫の事を考えて、気術部隊であるミカエルの下に直接配属されたのだった。
何かあった時、気術士達の盾となるために。
ところが、配属された筈のヘヴンの姿が先ほどから見えない。
「変ですなぁ。先ほどまで、我々の傍で話を聞いていたと思っていたのだが」
ミカエルの部下達も、首を捻るばかりだ。
「ヘヴン…。あいつ、まさか…」
ミカエルの嫌な予感は、どうやら当たったらしい。
「どうします?少将。傭兵が何の断りもなく隊から消えるとは…」
「荒くれ者を雇うというリスクは、常に持っているだろ?…見つけたらそれ相応の処罰をせねばならんが…。
……もういい。放っておけ!」
「ですが、少将」
「どうせあいつの行く先なんて、あそこしかないんだ。……ただ、下手な事をしてくれなければよいが…」
ミカエルはそう呟くと、ティアンの元へと走り、ヘヴンが消えた事を伝えた。
「そら仕方がない。…ま、月見までに面白い事をしてくれる予感はするが、それならそれで。
上手くいけば、暁達に打撃くらい与えられるんじゃないか。
我らの真の目的は宵を手に入れる事。…あいつの頭には暁の事しかない。
かえってお互いに都合いいかもしれんぞ。
まぁ、…放って置いていいんじゃないか、ミカエル。私はそんな事で今気分を煩わされたくないしな」
「わかりました」
ミカエルはそう言い、お辞儀をすると再び部下達の元へと戻った。
「よろしいのですか」
「宰相殿もいいと言っている。…それよりも、他に腕の立つ兵士を若干集めなくてはならん。
あのヘヴンの奴が役に立たないのならな。
…A班、南軍近衛隊長の元へ行き、腕の立つ猛者を数名調達して来てくれ。
B班C班はその間、別室で“気”を封じる術をかける。…準備を頼む」
「はっ!」
ミカエルの部下達は一斉に敬礼をすると、それぞれの役目の為にその場を去った。
残されたミカエルは投げやりな態度で近くの長椅子に腰を下ろすと、大きな溜息をついた。
(月見か…)
確かにティアンの余裕がそこにあるという事を、ミカエルは悟った。
その反面、放って置いていい、と言ったヘヴンの存在も不気味に感じているのも事実だ。
だが、所詮ヘヴンの目的は【暁の明星】。
自分達の目的とは違うし、かえってヘヴンが暁の動きを抑えてくれれば好都合でもある。
上手くいけば邪魔者は消せるし、“気”を解放した【宵の流星】も手に入る。
最初、ティアンの話を聞いたときにはにわかに信じられなかった、滅亡したセド王国の宝の正体。
……それが未だかつて、その凄まじいほどの力に、神以外に使いこなせない…いや、使うのを天が禁じた、とまで言われた伝説の“光輪の気”。……それが最後の秘宝の正体と知り、胸が躍るのは仕方のない事だ。気術を学ぶ者であれば、誰もが感じる事だ。
(ああ、すぐにでも見たい。神の“気”を…!)
だがミカエルは、すぐにでも【宵の流星】の元に駆けつけたくなる衝動を、持ち前の理性でぐっと抑えた。
宝を目の前にして、浮ついてはならぬ。確実に目に、手にしたければ尚の事。
ミカエルは心を静めようと目を閉じ、しばし呼吸を整えると、己の部下の待つ別室にと向かった。

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初秋の風が爽やかに、南の国リドン帝国のリー・リンガ王女の赤い髪を弄んでいく。
森を見下ろす小高い丘で、彼女はその華やかで目立つ頭髪をフードで隠しもせずに佇んでいた。
もちろん彼女の後ろには、護衛のモンゴネウラが待機している。
リンガ王女の瞳には、遥か丘の下に見え隠れする、ティアン宰相と北軍のテントが映っていた。
そんな彼女の目の前に、息を切らして丘を登ってくる大男がやってきた。
「ドワーニ」
リンガは呟いた。登ってきたのは南の大将、大帝付きのドワーニ将軍だ。
「お、どうだった?ドワーニ。何かいい情報を得られたか?」
王女の後方で、胡坐をかいて座っていたモンゴネウラがのんびりと言った。
「ええ…まあ…」
何故かドワーニの歯切れが悪い。モンゴネウラは片眉を上げ、彼の表情を窺った。
「ね、ドワーニ、どうだったの?何か新しい情報掴んだ?
…アムイの事、何かわかった?」
齢(よわい)三十も過ぎ、子供を生んだ事がある、世間では経験豊かな大人の女、というイメージのリンガ王女であったが、この中年と初老の厳つい男達を前にすると、何故か彼女は少女のようであった。
特に自分が生まれた時からずっと傍にいる、父代わりとも言える護衛官のモンゴネウラの前では、まるっきし我儘で年端のいかない子供みたいなところがあった。
「ええ。居場所はわかりました。ですが…」
「本当!?アムイの居所がわかったの?」
喜々とするリンガに、モンゴネウラは立ち上がると、軽く彼女を制するように肩に手を置いた。
「ドワーニ。何かまずい事態が起こってるのではないか?お前の顔にそう書いてある」
「まずい事態!?」
その言葉にリンガはぎょっとし、ドワーニの困った顔を覗き込んだ。
「…さすがモンゴネウラ殿。実はですな…」
ドワーニは言い難そうに、先ほどまで仕入れてきた情報を二人に説明した。
南の帝国の名の馳せた英雄であり、大帝側近の大将ともなれば、兵士達の中にドワーニの崇拝者がいてもおかしくない。
ティアン宰相お付きの兵士の何名かは、密かにドワーニの味方となってくれていた。情報を垂れ流してくれるよう、北の王子の友人の屋敷にいた時に、ドワーニは彼らに頼んでいたのだ。彼らは喜んでドワーニの為に宰相の目を盗み、先ほど間者が来て喋った情報を彼に教えてくれたのだった。
その説明を聞いて、モンゴネウラの表情がみるみる渋くなっていった。
「穢れ…虫?なぁに、それ」
小首を傾げるリンガの仕草は妖艶かつあどけない。それが半分、計算した仕草だとしても、だ。
「…生命の“気”を喰らう寄生虫ですよ。…しかもあの宰相の改良した悪魔のような奴らしい」
「き、寄生虫…」
ぞっとしてリンガは、自分の腕を抱きしめ後退(あとずさ)った。
その彼女を、両腕で受け止めながら、モンゴネウラは呟いた。
「……そうか。暁の仲間にそのような無体な事を…」
「で?アムイは?アムイは何処に居るの?…ねぇ、もしかしてその穢れ人の傍に彼はいるんじゃないでしょうね!」
リンガは眉間に皺を寄せ、目の前のドワーニにかみついた。
「…多分、そうかと…」
「モンゴネウラ、ドワーニ!早くここを出発しましょう!
彼らよりも早く、アムイの所に行かなくちゃ…!」
リンガの胸の内は、アムイの事で一杯だった。
自分がこれほど一人の男に気持ちを取られているなんて、今まで考えられない事である。
だがもう手遅れだ。今の彼女は完全に、陰りのある黒い瞳の持ち主に心を占領されていた。
「アムイを助けなくちゃ。…早くしないと彼の身が危険だわ…」
ぶつぶつと独り言のように言いながら、荷物を取ろうとした彼女の腕を、がっしりとモンゴネウラが掴んだ。
「何するの?モンゴネウラ!この手を離して」
突然の所為に、リンガは驚いて彼を仰いだ。そこにはモンゴネウラの茶色の険しい瞳があった。
「モンゴネウラ?」
「リンガ様。お国に戻りましょう」
一瞬、彼女はモンゴネウラの言葉が理解できなかった。
「…何を言っているのよ、モンゴネウラ。…何で突然…」
「これ以上は危険だからです」
きっぱりとモンゴネウラは言った。
「危険?そんなの承知でここまで来たのでしょう?今更何言ってんのよ。
このわたくしに目の前の事を放置して、逃げろと?
そんな事できる性分でない事くらい、モンゴネウラならわかるでしょ!!」
リンガはかっとして彼に怒鳴った。だが、そんな事で表情の変わるモンゴネウラではない。
「最初の頃と状況が変わった、という事です、王女。
……それに、あのティアンの思惑を、国に…いや、大帝にお知らせせねばなりません。
あの宰相、我々の前では誤魔化していましたが、ドワーニと共に密かに探っていてはっきりしました。
王女も実際にティアンと接して確信なされましたでしょう?
…あの男は大帝を欺き、我が国での恩恵を我が物にしている。
何が南の国の為!何が大帝の御為!…嘘ばかりだ。
あの男は私利私欲の為に、我が国の財力と兵力を我が物にし、我が国を謀った」
憤然と言うモンゴネウラの顔は、まるで鬼のように恐ろしい。
「…ですからリンガ様、貴女はその大帝の妹君。リドンの王女として、宰相の件を報告するのは義務と存じますが」
そのはっきりとした物言いに、リンガは少し震えた。
幼い頃、自分にとっても甘かったこの男でも、国や兄君の事となると、有無を言わせない恐ろしさがあったのを思い出した。
だがそれでもリンガは諦めきれない。
一国の王女という立場を忘れ、恋に盲目となっているただの女が今の彼女を支配していた。
「わかってるわよ…。確かにわたくしの義務だとわかっているけど、今は国には帰らないわ!
ねぇ、お願いよ、モンゴネウラ!一生に一度のお願い。わたくしをアムイの元に連れて行って。
お兄様にはドワーニを向かわせればいいじゃない」
「お姫(ひい)様!!」
突然モンゴネウラは一喝し、リンガはびくっと身を縮まらせた。
その呼び名は自分が幼少の頃、彼にずっと呼ばれていたものだ。さすがに大人になり、他国に嫁ぐ頃にはそう呼ばれなくなったが。
しかもそれは、特に悪い事をした時に、厳つい大男の彼に怒鳴られると、いくら自由奔放で我儘で手に負えない彼女も、一瞬でシュンとさせてしまう効力があった。
いい歳の大人になっても、まるで刷り込みのように、今でも通じてしまうのは、本人にとって悔しくてたまらない事態である。
「私の大事なお姫(ひい)様。私にとって、貴女様が一番大切なのは今でも変わりません。
貴女の要望は何でも聞いてしまうほど、普段の自分は、貴女様にとても甘い。
ですが、身の危険、王家の問題となれば話は別。……貴女の意思よりも、私は貴女の命と王家を取りますぞ」
モンゴネウラの冷静かつ真摯な言葉に、リンガはこれ以上何も言えなくなってしまった。自分にとって不本意であっても。
その目の前で口を尖らせ、不服そうな顔をした彼女に、モンゴネウラは内心苦笑した。
(このふくれっ面、まったくお小さい頃とお変わりない…)

王家と懇意にしていた由緒正しき名門出のモンゴネウラが、王女付きの護衛になってはや三十年。
彼は結婚もせずにこの身をずっと王家に捧げてきた。
いや、モンゴネウラとて、決して浮いた話がなかったわけじゃない。
確かにリンガ好みの美形ではなかったが、名家に生まれ、教養と武芸に秀で、男らしくも頼もしい彼がもてない筈はなかった。
はっきり言ってしまえば、若い頃はかなりの人数の美女と浮名を流した男だった。
結婚だって、しようと思えばできたのだ。
しかし彼は、この小さな王女が、父である先代の大帝を泣いて求める姿を見てから、自分の家族を持つ事をやめた。家督は兄がいる。…自分は分家である。なら、身が軽い方がいいという判断を下したのだ。

先代の大帝は、自分の事しか興味のないお人だった。
彼はリンガ達の母である正妻の他に、沢山の男と女の恋人や愛妾がいた。
その間に何人も子を儲けたが、彼は一度も血を分けた子供達に興味を示さなかった。
彼の興味は全て自分の楽しみと関心事に向けられていた。
例えば、戦争や政(まつりごと)。面白い人物や心躍らせる恋情など。
だから彼は一度たりとも、リンガに父親としての愛情を向けた事がなかったのである。
それどころか、子供や家族、というものには完全に興味なく、今のガーフィン大帝の事すら、ただ正妻が生んだから世継ぎ、という意識しかない人間だった。
だから幼いリンガがどれだけ父の愛情を欲しても、先代は全くと言っていいほど無関心だったのだ。
しかも正妻である二人の母親は、冷たい夫に耐え切れず、子供は乳母らに任せ、自分は若い愛人との逢瀬に夢中で、ほとんど育児放棄の状態であった。
二人の王子と王女を育てたのは、乳母と側近達だった、といっても過言ではなかった。
その中に、モンゴネウラがいたわけなのだが、その時、小さい幼子である二人と接しているうちに、自分が意外に父性本能があるのに気がついた。
父や母を求め、自分の腕の中で泣きじゃくる小さな命。
父性に目覚めたモンゴネウラはこの時、生涯二人のために生きようと思ったのだ。
だからリンガにとっても、兄であるガーフィンにとっても、このモンゴネウラは父同然と言っても過言ではなかった。
大人になったリンガも、それはよくわかっている。
自分にとって、甘え、頼れる人間は兄とこの男だけとわかっている。
特にこの男は、いつも自分の近くに仕え、時に優しく見守り、甘えたい時に甘えさせてもらい、悪い事をすれば実の親のように叱ってくれる。
我儘放題で、ともすれば浅はかな行動をしがちである自分が、自信を持って王女として女として振舞えるのも、モンゴネウラが愛情深く育ててくれたお陰だ。
彼の身分はリンガよりも下だが、気持ちの上では、彼女にとって彼の意見は実の親よりも絶対であった。しかし…。

「いいですか、王女。私はこのまま貴女が暁を追うのは賛成しかねます。
……それでも暁が欲しい、というのなら、兄君にお頼みしなさい」
その言葉に、今まで大人しくしていたリンガはかっとした。
「嫌!馬鹿っ!モンゴネウラのばかばかばか…っ!!」
「リンガ様!!」
リンガは目に涙を浮かべ、到底三十路の女の態度とは考えられない振る舞いに出た。
「モンゴネウラだけはわたくしの気持ちをわかってくれてると思ってた!
わたくしが兄君の手を借りず、自分の力でやりたがるの知っているくせに!
自分の求めるものは、自らの手で勝ち取ってこそ意味があるのよ!
人の手を借りる方が楽だけど、でも…!」
リンガはモンゴネウラの手を自ら引き離すと、泣きながら自分の馬の方へと身を翻した。
「リンガ様!」
「王女!!」
彼女の暴挙に辟易しながらも、モンゴネウラとドワーニの大の男二人は、慌てて彼女を追いかけた。
「いや、いや、いや!!モンゴネウラなんて大嫌い!
アムイに危険が迫っているというのに、国になんて戻るものですか!
わたくしは一人でもアムイの元に行くわ!絶対に帰らないから!!」
あっという間に彼女は馬に跨り、思い切り馬を走らせた。
「王女!」
びっくりした大男二人も、急いで馬に乗りその後を追う。
「リンガ様!王女!」
モンゴネウラもドワーニも、必死になって彼女を呼んだ。
リンガの馬はもの凄い勢いで、アムイがいるであろう未開発の山の方角へと向かって行った。

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 夕闇が森を侵食する頃、草木のざわめきと共に、かなりのスピードで森林を駆け抜ける人影があった。
背がやけに高い男で、ひょろっとしているが、その動きはまるで野生の動物のように敏捷だ。
薄暗い森林の中、秋の虫の音が劈(つんざ)くように、その人間の耳を苛立たせていた。

ああ、煩い。

男は苛々が頂点に達していた。
それはこの虫の音のせいだけではない。
もの凄い衝動が、この男の胸を駆け巡っていた。

(冗談じゃない。冗談じゃない!冗談じゃない!!)
男は走りながらずっとそう心の中で叫んでいた。
(本当に冗談じゃねーぞ!…アムイが虫に穢されたら洒落になんねぇ!)
彼は苦々しく目の前の草木を鎌で切りつけ、道を作り、勢いよく前に進んで行く。まるで鬼人のようなその男。


ヘヴン=リースだった。

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2011年2月12日 (土)

暁の明星 宵の流星 #136

雲間に半分隠れていた月が全貌を現し、辺りは灯りがなくても充分な明るさとなった。
本当なら、このような状態で外に出ているのは無謀だと周囲に咎められる状況なのだが、疫病などで隔離するために作られた病院施設であるこの屋敷の周辺は、鬱蒼とした未開発のジャングルの中にあった。
しかもここ数年以上廃れてしまってからは、人が手を入れていなかっただけあって、かなりの荒れ放題だった。
来るときも大変だったが、着いた時はもっと大変だったらしい。
離れの隔離病棟は、敷地内でも余裕のある場所に建てられていた(更地の部分で洗濯や天日干し、消毒などを行っていた)ため、植物の侵入はほとんどなかったので、すぐに施設が使えて助かった。が、職員が休憩や宿泊に使うこの建物は、ジャングルと密接していたため、かなり植物の侵食が酷かった。ということで、必要な部屋だけ各自が使えるように、各々自分で寝床を確保したというような状態であった。
キイの立つバルコニーも同様、洗濯物を干すためにかなり広く作られていたが、その半分は植物で埋まり、蔦が柵に絡まって、傍目からはジャングルと同化しているように見えていた。
この天然の目隠しのお陰で、キイは外の空気を吸えた訳だ。
だから外部から自分の所に客が来るとは思わず、キイも少々驚いていた。
「よく俺がここにいるのがわかったなぁ」
感心してキイは言った。
「はい。私もお会いする事ができて、運が良かったとほっとしています。
…宵の君も、ご無事で何よりです」
キイに促されるまま立ち上がったセツカは、再び恭(うやうや)しく頭を下げた。
「おいおい、そんなにかしこまるなよ。……で、お前さんの仲間はどうした?一人で来たのか?」
「はい。私一人で参りました」
セツカはそう言うと、小さく溜息をついた。
「他の者は、別所で待機させております。…人が多いと人目にもつきやすいですし、しかも、あの者達は暁のお方とトラブルがありますゆえ、連れて来ませんでした」
「…だろうな。俺も自分の大事な人間の事を、仇と狙う相手には遠慮してもらいたいしなぁ。今は特に」
セツカは苦笑した。
「サクヤの容態はどうでしょうか…。長の息子であるジース・ガラムがとても気にしておりまして」
「ジース・ガラムか。…俺のアムイに敵意を持っているというのは気に喰わないが、彼のお陰でサクヤを死なせないで済んだ。
礼を言わねばならんなぁ」
「何という有難きお言葉…。とにかく我がジースはこの件には大変心を痛めておりまして…」
「今のところ、サクヤは無事だ。…ちょっと危険を伴うかもしれないが、解決策も出てきている。
…あの坊やには心配するなと伝えてくれ」
そしてキイはバルコニーの柵にもたれ掛かると、美しい月明かりをしばし眺めた。
その月明かりに浮かぶキイの姿は、本当にこの世のものと思えないほど美しかった。
セツカは思った。…神の血を引くセドナダの王子。この方はそれを具現化している…と。
そう、その姿はまるで天神の身姿を描いた、一枚の宗教画のようであった。
実際に今のキイは月のエネルギーを充分満喫していて、ちょっと現実から浮世離れしていたかもしれないが。
「ところで、先日の話の続きだが」
見惚れていたセツカは、キイの言葉で我に返った。
「はい」
「この俺がセドナダ家の血を引いている事はもうはっきりしたろう?
…セドナダとユナの関係…教えてくれるよな?」
「……太古からユナは、神の子孫、セドナダ家に…いいえ、神王様にお仕えしております」
「だろうな」
厳かに言うセツカに、キイは即答した。
「薄々はそう思っていた。
…しかしこの俺が、あれだけ文献も経典を紐解いても、何も出てきやしなかった。
という事は、だ。これは極秘なんだろう?セツカさんよ」
「そうです」
「……つまり、この関係は世間には知らしめてはいけないという事だ。
それならば答えはひとつしかない。ユナはセドナダ王家の隠密ということなんだろう?」
「正確には神王様専属の隠密です、宵の君」
セツカはキイの答えを訂正した。
「神王専属…」
「はい、我がユナ…特に長と神王様の関係は古く、太古遡(さかのぼ)りまして、セドナダ第9代目女性神王、ミツキ様が始まりでございます。……その方と、当時の我が長との契約が、現代でも生きているのでございます」
「第9代…!!そんな古くから!」
キイは驚きのあまり目を見開いた。
「辺境の、閉鎖的な我が民族ユナも、独自の文化、生活を維持できておりますのも、全ては神王様のお陰。
他のどの国や州、島国に侵略されず、昔ながらの純度を保てているのも、神王様のお力あってこそ」
キイは言葉が咄嗟に出ないほど驚いていた。多分、王家の隠密を任されている民族だろうとは思ったが、そこまで古くからとは。なのにそれを今まで、誰も…いや、父であるアマトは知っていた?だから生前ユナの島に行った。…それしか考えられない。
「詳しい事を教えてくれ」
キイはセツカを促した。
「本当のところ、このお話も神王様かその次の神王となられる王太子様しかできないのでございますが…。
セド王国がない今、王家の血筋であられる宵の君ということなら、長もお許しくださいますでしょう」
セツカはそう言うと、キイに並ぶように自分もバルコニーの柵の前に立った。
「そりゃまた随分…。本当に密約のようだな、ユナとの関係は」
「…ユナは独自の文化と、生活を保っていると言いましたが、大陸の人間とは違う、神話と身体能力を持っています。
そのために過去に何度か、他民族他国の侵略の的となってきました。
……セドの神王様が絶対神の妹女神の末裔なら、ユナは宇宙(そら)から降りてきた星人(ほしびと)の子孫であります。
優れた身体能力。大陸で言う“気術”とは似て非なるユナの宇宙大樹(そらのたいじゅ)から発せられるエネルギーの活用。
……宇宙大樹(そらのたいじゅ)とは、我が祖先である星人(ほしびと)が乗ってきたと伝えられる天河(てんが)の船が、この地に降りて大陸の植物と同化した姿と言われております。それらはユナの島を潤し、住まう人々に豊かさと、不思議な力を与えてくれます。
それを狙って、過去多数の他国の者が戦いを挑んできました。
その都度我が民族は、屈せずに島を守ってきましたが、ある時、長に双子が生まれまして」
「双子?どういう関係があるんだ?」
「その当時ユナの長は、必然的に長子が継ぐ形となっておりました。…それが初めてのお子様が双子。
しかも生まれ時間が数分の違いしかなかった兄弟でした。二人は本当に身も能力も性分もそっくりで、優秀でした。
最初は似た者で仲が良かったお二人は、協力して民を守ろうとしておいででした。
ところが、いざ双子の兄が長の座につくと、弟との関係が悪化したのです。 
元来似た者のお二人。同列でいた時は問題がなかったお二人も、長とその弟では地位も扱われ方もまったく違う。
弟は不満を募らせ、結局自分が心に思う女性を、長であるということだけで、彼女が兄に嫁いだ事から、内部争いが勃発しました」
「へぇ~。ユナも大陸の国と変わらないってことだねぇ。で、それから?」
「そのせいでユナ民族は分裂の危機が訪れました。そこへ降って沸いたような大陸の干渉。
…当時、大陸に存在していた東の国は、今と同じに州村、国々での争いが続いていて、荒れ放題でありました。
それを統一しようと奮闘していたのが、セド王国。セドナダ王家でした。
他国、他民族は、豊かなユナの力を欲していました。幾度となく誘惑の魔の手を、長とその弟に伸ばしてきたのです。
それをお救いくださったのが、セドの女性神王、ミツキ様でございました。
ミツキ神王は女傑と恐れられていたお方でしたが、本当は心根が優しく、慈悲深い寛大な方でございました。
彼女は東統一の最終部分で、我が民が分裂し、侵略を甘んじ、純粋な民族性を失う事を憂(うれ)いて、身を挺してまでも他州他国からの干渉を排除し、我々が他民族から侵略されないよう、保護して下さいました。
そして東統一後は、一切ユナを侵略しないよう、不可侵条約を全土に結んでいただいたのも、ミツキ様のお力でした。
そのお陰で、ユナは内部の問題にじっくりと取り組む事ができ、色々あった末、他のご兄弟の中から新たな長を決め、ユナも安定致しました。それがきっかけで、ユナは長子後継から、長の子供達の中から実力などで、民が次期長を選ぶという方法に変わったのでありますが、それもミツキ様の助言があってこそでした」
セツカは一息つくと、厳かにこう続けた。
「ユナの民は、受けた恩は未来永劫忘れません。…我らの祖先はミツキ神王を敬愛し、生涯お力になる事を誓ったのです。
…初め笑って受け流されていたミツキ様も、ある時、ご子息の幼い王太子様をお連れになり、ユナの地を訪れ、長と契約を交わしたのです」
「契約…」
「…はい。我がユナは、神王様直属の隠密としてお仕えする事。
…そしてそれは、神王様と次期神王となられる方…ほぼ王太子様の事でございますが、その方々以外にはこの関係を漏らさぬ事。
神王様が何かあった場合、もしくは神王様のご要望があればすぐにお力になる事。
……そしてこれは一番大事なお役目なのですが…」
セツカは言い淀んだ。何やら滅多に話してはならない重大な事らしい。
「重要機密ってとこか。……あのさぁ、俺の勘が正しければ、それってセドの裏経典に関係ないか?」
キイはずばっと言った。セツカはびくっとしてキイの顔を見上げた。
「…さすが…。天下の【宵の流星】と言われるだけの人物…。大した目をお持ちだ」
「やはりそうか。…裏経典は、ユナが管理していたのか」
「その通りです。ユナはセドナダの裏経典の守人(もりびと)。……書かれた内容に不安を感じていたミツキ神王は、門外不出として我々を信頼してお預けになりました。
それ以来、我々は内密にその経典をお守りしていたのですが…」
「それを30年前に、何者かに盗まれた」
「そうです」
キイはふうっと息を吐いた。
「…ったく、マダキの野郎、盗人猛々しいとはこの事だな」
キイはぶつぶつと、裏経典を暴いたというティアンの最初の師、マダキに悪態ついた。
まったく、あいつがこんな事しなければ、俺の母は俗世に穢される事なく、神の元で幸せに生涯を終えていたかもしれなかった。
アマトだって、大罪人の枷を嵌めされることなく、安泰にセドの神王として国を治めていたかもしれない。
(…ま、とすると俺もアムイもこの世にいないか、ははっ)
キイは自嘲した。
もうすでに終わってしまった過去の事だ。
母は亡くなり、アマトは大罪人として死に、…その結果の俺達はこうしてこの世に生きている。
全てが天の仕組みというなら、天も相当意地が悪いぞ。
「…で、この俺がその裏経典を元に生まれた背徳の王子、というのは知っているのか?
ユナはその所どう考える?次期神王、元王太子であった王子が禁忌を破り、罪を犯してまで生ませたこの俺を」
キイはじっとセツカの表情を窺った。だが、セツカの表情はまったく変わらない。
「そのような事、我々には関係ございません。
我々の信仰は宇宙(そら)の星人(ほしびと)の教義であり、宇宙大樹(そらのたいじゅ)の恩恵に他ならない。
他国民族の宗教はまったく関係ない事なのです。
ですから、世間の言う、禁忌とか神の怒りとかは、我々には意味を成さない。
…我々が重要なのは、神王であるか、そのお血筋であるか、それだけです」
その言葉に、キイはにっと笑った。
「なら、話は楽だ。…そうだよな、他宗教のユナには、絶対神信仰は意味を成さない事だよな」
「ですから何も支障はございません。貴方様は神王のお血筋。
…それが我々には重要な事でございます」
キイは頷いた。
「そして、裏経典を盗まれた事に責任を感じ、先代の長は退位し自害を遂げました。
今の長は、そのために若くして即位されました。
…ジース・ガラムの父君である、ダン・ユネス様でございます」
「…では、そのガラムの父と、俺の父は何だか面識があるみたいじゃないか。
それはどういう事だ。王太子までにはなったが、結局即位を辞退した。
神王でもないその父が、アムイの話だと20年ほど前にユナの島に行っているそうではないか」
セツカはしばらく押し黙ると、ゆっくりと口を開いた。
「その事ですが、これは私の口からは申し上げられません。
……ダン様と、アマト元王太子殿下のお話は、側近の私であっても口にはできない機密でございます。
知りたいのであれば、直接我が長にお尋ねいただきたい」
「そうか…。ではいつかユナの島に行くとするかな」
「………必要であれば、長の方から宵の君に話されると思います」
「わかった。…それと話は変わるが、アムイの件だけど」
アムイ、と聞いて、セツカの頬がピクリと動いた。
「一体、アムイとユナの間に何があった?
アムイ本人からは簡単に説明は聞いたが、どういういきさつで俺のアムイが犯罪人になってるんだ」
キイの声色は、先ほどと打って変わって重苦しく、有無を言わせぬ迫力があった。
その様子でセツカは、思ったとおりアムイ=メイはキイ・ルセイにとって近しくも重要な人物と確信した。
「……犯罪人などとは…。
確証がない事ゆえ、長もユナの中枢も、暁のお方が犯人とは断定してはおりませぬ。
……ただ、一部身内が仇と信じ、そのような振る舞いをしているのは認めます」
「あのアムイが世話になった女を脅し、陵辱して殺して逃げるとは、どうしても考えられん。
………詳しい事を教えてくれないか?」
「詳しい事は、私もあまり存じていないのです。
…ただ、ユナの秘密の砦を出る、唯一の山からの扉の鍵が開いていて、そこから暁のお方が外界に出られたという事。
そしてその出口に通じる部屋で、ガラムの姉が胸を突かれて息絶えていた事。
しかも、その出口の鍵が見当たらない事。
…これらの事から、暁のお方が彼女から鍵を奪い、そのまま外に出たと思われております。
真相は暁のお方に聞いてみないとならないと思っていますが…。
ジースもレツも、真相を確かめもせず、頭に血が昇っている状態です」
「…確かに。しかも死体に陵辱の痕があれば尚更な」
何だろう?何かひっかかる。セツカの話に、他に何かが含んでいるような気がするのは、自分の気のせいだろうか?
キイはじっとセツカの目を覗いた。
本当はもっと、こいつは何かを知っているのではないか?そういう意味で。
セツカはキイの視線の意図を感じ、冷静に受け止めようと目を逸らさなかった。
「じゃ、お前はアムイが、その女性の仇とは思っていないのだな」
「確証なき事は、鵜呑みにしない主義ですので」
「ふぅん…」
キイは不躾にセツカをじろじろと眺めた。
「ま、危険も顧みず、ここまで来てくれたお前さんだ。……アムイの件はわかった。
で、その顔はまだ何かありそうな気がするが、確か、前にお前さんは俺に確かめたい事があるとか…言っていたな。
それはどんな事で?」
キイの言葉で、セツカは緊張した。
「はい…その事についてですが…」
そう言いかけた時、人の気配を感じて、セツカははっと口を噤(つぐ)んだ。
「おい?」
「宵の君、申し訳ありません、誰かがここへ来ます」
セツカは慌ててこう言うと、胸元から小指ほどの大きさの木の実を取り出し、キイの手に握らせた。
「おい、これは?」
「これをお持ちください、宵の君。これは我がユナの宇宙大樹(そらのたいじゅ)の実。
この宇宙(そら)の実を持っていただき、心に念じていただければ、いつでも我々はご要望の時に馳せ参じる事ができます。
……これは神王様ご即位の時にユナの地に来ていただき、裏の即位の証としてお譲りする神聖なる実。
ですが、セド王国なき後、神王断絶の今、お血筋であられる貴方がお持ちなるのが道理。
……我々も、ずっと胸を痛めて参りました。セド王国が滅してしまった事を…」
「裏の即位?」
その事については時間がなかったのか、セツカは困ったように微笑むと、まるで風のようにその場を去った。
そしてキイの手には、その宇宙大樹(そらのたいじゅ)の実だけが残された。
不思議な色の木の実である。うっすらと白く、内部が緑色に光っているようにも見える。
その実には紐が通されており、装飾品に付けられるようになっている。
キイはその実を自分の首飾りに取り付けた。
これを貰い受けたという事は、ユナの人間は自分を神王と同様であると認めたという事だろうか?
何事かあった時、力になるという事を暗に示しているのは確かである。
じっとその実を眺めていた時、自分を呼ぶ声にキイは我に返った。

「キイ!何処にいる?キイ!」
アムイの声だ。
「おーい、ここだよ、ここ!」
キイは素早く宇宙(そら)の実の付いた首飾りを襟元に隠した。
「キイ?…おい、キイ!」
何やらアムイの声の波動がいつもと違うような気がする。
「ここだってばー!」
キイはバルコニーの柵の前で、手を大きく振りながら叫んだ。
ちっという舌打ちの音がしたかと思うと、草木を掻き分けながらアムイが現れた。
「よぉ、相棒!」
「“よぉ、相棒”じゃないよ、キイ。何て所にいるんだ。すっごい捜したんだぞ」
と文句を言いながら、身体に付いた葉や蔦を手で掃った。
「ちょっと月見と洒落込んでたのさ」
「月見…ねぇ」
アムイはそう呟くと、煌々と輝く月を斜めに見上げた。
彼のその横顔を、じっくりとキイは堪能した。
確かにぱっと見は父であるアマトにそっくりなアムイだ。
だが、こうして月明かりの元で浮かび上がる彼の横顔は、慈愛溢れるネイチェルにも重なる。
思わずうっとりと眺めていたキイは、次の瞬間はっと我に返り、小さく咳払いするとアムイに言った。
「…やっと会いに来たな。俺も朝からお前を捜してたんだぞ。
まぁ、先ほどじーちゃんと話をして、お前の事情も、俺の“光輪”の事も全て聞いた。
……で、ようやく腹が決まったようだな?その様子だと」
その言葉にアムイは真顔になり、その場の空気が張り詰めた。
すぐには言葉が出てこないようだった。
キイはじっと、アムイが言うのを待っていた。彼の言葉を。彼の決心を。
「キイ、俺は…」
やっと搾り出した声は、掠れていた。
「さぁ、お前の答えは?」
キイはアムイの前で腕組し、じっと正面から彼の顔を見つめた。
アムイの口元がわなないた。
これから言う事は、この目の前の大切な人間を、危険に陥れ、苦しめるかもしれない…。それでも…。
「お願いだ、キイ。お前のその“光輪”を解放してくれないか」
キイの頬がぴくっと動いた。
「……この状況で、完璧な準備もままならないのも重々承知だ。
敵にお前の存在を知らしめる危険性も否めないのもわかっている。
……だけど、これしか…あいつを救う手立てはない…」
震える声で、アムイは一気に喋った。キイの表情はわからない。ただ、じっと自分の顔を見ているだけだ。
「……キイ…」
アムイの表情が歪み、すがるような目をキイに向けた。
彼がこのような顔をするのは、何年ぶりに見るだろうか。
…いや、幼い頃とて、あまりこういう顔をキイ自身に向けた事はなかった。
「それがお前の答えか」
低く、重苦しい声が、キイの口から放たれた。
アムイはぐっと口を一文字に結ぶと、視線を下に落とした。
「俺の”光輪”を解放する。…それはお前の本心か?」
「…………」
「俺はお前に、本当の気持ちを教えろと言った。
その答えは、お前の本心と受け取っていいのだな?」
キイは念を押すように、そう繰り返した。キイはもっとはっきりと、アムイの口から本音を聞きたかった。
「さぁ、どうだ?」
俯くアムイの両の手の拳は振るえ、しばし沈黙した後、意を決したように震える声で言った。

「お前を守らなければならない存在の俺が、こんな事を言うのは…いかがな事かと思う」
「アムイ」

何としてでもキイを守る。

身の内に神気を持つがゆえ、邪な輩に存在を狙われ、己も苦しんでいたキイ。
彼の“気”を受け止められる唯一の存在で、傍にいる事で彼を守れるのは自分しかいない、自分は彼の為に生まれてきたのだと、いつもそう思っていた。
母の遺言なくとも、アムイはずっとそう思って生きてきたのだ。
実際、今まできちんと守れていたかどうかは自信がない。むしろ、問題のある自分が彼に守られていた気がする。
それでもアムイの心は、常にキイを中心に回っていた。何があってもキイを優先するという、幼い頃からの思い。
だが、これから言う事は、今までの自分の信念を崩す事であった。
それを面と向かってキイに言う事が、アムイにとってかなりの勇気が必要だったのは仕方のない事だ。

「……頼む…」
アムイはこうするしか、思い浮かばなかった。
彼は目の前に佇むキイの足元に跪き、両の手をついて頭を下げた。
「アムイ!?」
突然の行動に、キイは驚いて目を見開いた。
「…頼む、キイ。……お願いだ…。
“光輪”を解放し、…サクヤを助けてくれ」
「お前…」
呆然と見下ろすキイに、アムイはさらに頭を下げ、地面に額を擦り付ける。
くぐもった声が、月夜のバルコニーに広がった。
「…………お願いだ…キイ…。
色々と厳しい状態のお前に、今、ここで“光輪”を解き放て、と言うのは、何が起こるかわからない未知数な事であると同時に、お前を、周囲を、危険に晒す無謀な事だと承知している。
…でも…でも…キイ」
「………」
「危険を承知で、あえてお願いする」
何度も何度も地に頭を擦り付けるアムイを、キイは潤んだ瞳で見下ろしていた。
「今ここで、“気”の封印を解き、“光輪の気“を復活させ…。
サクヤを浄化し、救って欲しい」
「アムイ…」
キイはなんとも形容しがたい表情で、アムイの様子を見つめていた。
そして唇を一瞬震わすと、重々しくアムイに言った。
「アムイよ。この“光輪の気”が、サクヤの不浄を祓(はら)うとして、浄化される本人の身を保障するわけでもない。
しかもこのような不備ともいえる場所で、俺の“光輪”を放つということは、どのようになるかもわからぬ賭けだ。
それでもいいのか。
お前にその覚悟はあるのか」
アムイはごくりと唾を飲み込むと、震える声で答えた。
「……俺にとって、キイ、お前が一番の存在であるのは、未来永劫変わらない…。
だけど、俺がここまで来れたのは、サクヤの存在もあったからだ。
あいつの存在が、闇の箱を開けさせる決心を促し、解放する事ができた。
疎んじても、追い払っても……不器用で、決して愛想がいいとは言えない態度の悪い俺を、見捨てずにずっとついて来てくれた。
俺の頑なな心を明るさでこじ開け、他人と交流するのも悪くないと思わせてくれたのもあいつだ。
自分だって地獄の苦しみを味わってきたというのに、キイと同じく強靭な精神で乗り越え、明るくたくましく生きてきた。
……俺は、そんなあいつがこんな仕打ちをされて、このまま苦しんで死ぬなんて我慢ならない。
自分が出来る事は何でもしてやりたい。
少しでも希望があるのなら、救う可能性があるというのなら、俺は何でもする。
……それがお前に多大な迷惑をかけようとしても」

アムイの決意の表れに、キイは押し黙った。
優しい月の光は二人に柔らかな影を落とし、それを彩るかのように辺りで虫の音が響く。
じっと頭を下げていたアムイは、キイが何も答えてくれないのに不安を覚えた。
………互いの感情は読み取れるつもりでいた。が、今のアムイにはその自信がなかった。
沈黙は続き、虫の合奏だけが空気を震わしている。
やっとのことで、キイが口を開いたのは、再び月が雲間に隠れ出してからだった。

「アムイ…」
キイの声は掠れていた。
アムイは肩をびくりと震わし、緊張した。
「……嬉しいよ、アムイ」
「え…?」
思わぬ言葉に、今度はアムイが呆然とする。
頭上でキイの、低く、柔らかな深い声が響く。それは虫の音よりも心地いい。
「…お前が俺や自分の為でなくて、他人の為にこの俺に頭を下げるなんて…。
嬉しい。俺はとても嬉しいよ、アムイ」
アムイは目を見開いた。
「今まで自分から俺に頼り、頼みごとなどしなかったお前が。
いつも自分の気持ちを押し隠してしまうお前が…。
頭を下げてまで、他人の為に、この俺にものを頼むとは…」
キイの声は震え、泣いているように聞こえた。
「そうだよ、アムイ!この俺を使え!どんどん使え!
それが自分だけでなく、人の為にと願うのなら、この俺を使い倒してくれれば本望!」
アムイは下を向いたまま、キイの言葉にはっとした。
「こんなに嬉しい事はないぞ、アムイ!頭を上げろ!!
お前にそう言われなくとも、俺だって何とかしたいと思っていたんだ。
危険は承知。
…もちろん、何かあった時は、この俺を受け止めてくれるのはお前だ。
その覚悟はできているのだろうな?」
キイは自分も跪き、アムイの肩を両手で抱え、顔を上げさせた。
アムイはキイの顔を見て驚いた。何という慈悲深い表情だろうか。
キイの目に溜まった涙が、粒となって零れ落ちる。だが、その表情は喜びで輝いていたのだ。
「ああ。自信はないが、覚悟はできている。……何があっても、お前を受け止める覚悟は」
「よし!」
キイは笑ってアムイを見つめた。

ああ、俺のアムイ。
お前を一時天に任せ、手元から離して正解だった。
俺の喜びはお前の成長。
俺はいつだってここで待っている。
お前が闇から這い上がり、俺と同じ場所に立てる事を。
大地に根を張り、己を不動のものとし、この俺を支え、俺もまたお前を支え。
同じ場所で同じ方向を見、遥か彼方を目指す、この世の長い旅路。
己の寿命尽きるまで、天命を全うするまで、俺はお前と共にこの混沌とした地に生きる。

お前の覚悟が俺を奮い立たせる。
お前の信念が俺を駆り立てる。

アムイ、この俺を意のままに出来るのは生涯お前だけ。
他の存在を俺は絶対に許しはしない。

だから早く、高みまで昇って来い、アムイ。
俺はここで、その時をずっと待っているからな。


二人を包んでいた月の光も、虫の音も、いつの間にか消え去り、この場は二人だけのものとなった。
互いの魂の躍動を感じる。
その波動は同調しあい、二人の絆をさらに強めた。

そして二人の決意が固まったその頃、施設にはある朗報が届いていた。

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2011年2月10日 (木)

暁の明星 宵の流星 #135

夜明けの光が差し込みだし、辺りがほんのりと明るくなった頃。
イェンランの話を聞いて、急いでサクヤの容態を診に来た珍(ちん)学士は、患者の顔色が良い事に安堵の溜息を漏らした。
だが、安心ばかりしてはいられない。…サクヤの顔色が戻ったのも、キイの癒しの力が大きいと共に、体内の穢れ虫が蛹(さなぎ)となった事も影響していた。
(羽化まで…あとどのくらい時間があるだろうか…。
それまでは彼も容態は安定してるだろうが…)
蛹となった穢れ虫は幼虫と違い、動き回る事がないので、あのような地獄の苦しみからはわずかに解放される。
……問題は宿り主の精神力だ。
容態が安定し、しばしの肉体の安定がある故に、この後にくる羽化の恐怖に皆おののき、精神の弱いものはそこでおかしくなる者だって多いのだ。
それに容態が安定しているといっても、完全に元気が戻ったというわけではない。
蛹となっても、次なる羽化に向けて、虫は宿り主の生気を喰らい続けている。
どんどん生気は虫に取られ、体力も抵抗力も失われていく。動くのだって、本人にはかなり辛い筈だ。
…特に通常ではない大きさのものを抱えているとなれば特に…。

「ねぇ、お願いサクヤ。お願いだから少しでも口を開けて」
イェンランが、サクヤの口元に粥を運んでいた。
寝台の上で、上半身を少し起こした状態のサクヤは、彼女の言葉にただ顔を背けるばかりだ。
今まで何も飲めない、食べれない状態だったのが、容態が落ち着いて、無意識の内にでも水や食料が喉を通るようになったのはよかった。
だが、本人の意識がはっきりしだしてからは、彼は体内に栄養を取り込む事を無言で拒否しだした。
それは完全に、生きる事を拒否していると同じ事だった。
珍はその様子を見て、彼の中に絶望と諦めが渦を巻いているのを感じ取った。
顔色は良くなったが、生気のない表情。空ろな目。
虫は彼の右腹で蛹になったのだろう。その部分が拳より一回り大きさで硬く盛り上がり、瘤(こぶ)のようになっていた。
「…先生…」
今まで無言だったサクヤが、突然口を開いた。
「何だね?」
珍は呼ばれてサクヤの近くに寄った。
「………もう、オレは助からないんですよね…?」
思わず珍は言葉に詰まった。
その様子に何かを感じ取ったサクヤは、唇をわななかせ、手元のシーツを握り締めながら声を振り絞った。
「なら、死なせてください!この虫がオレを食い破って出てくる前に、オレもろとも殺してください!!」
「何言ってるの?サクヤ!!」
イェンランが叫んでサクヤの腕を掴んだ。
「こんな悪魔を、どうしてこのままにしているんですか!
どうせ死ぬ事がわかっているのに、何で今、オレはこうして生きなければならないんですか!
オレなんかが生きている意味なんてない!!…しかもこんな……」
サクヤは興奮し、涙を目にためながら周囲の人間に訴えた。
「こいつがどんな虫か!どんなに危険か!専門家ならよくご存知でしょう?先生!!」
サクヤはそう言って、力のでない右手で拳を作り、何度も何度も瘤を叩いた。
「よしなさい!」
驚いた珍はサクヤの手を掴んだ。
「こいつは悪魔の虫じゃないか!!
高位の“気”を喰らう悪魔…。全ての“気”を枯らしていく…。
こんな奴生かしてどうするんだ!!
兄貴を…皆を危険に晒したくない!絶対に嫌だ!!
オレを生かすという事は、この虫を生かし育てると同じじゃないか!
こんな悪魔、早く殺してくれ!」
泣き叫び暴れだしたサクヤを、近くにいた人間が押さえ込む。
「しっかりするんだ!サクヤ君!!落ち着きなさい!」
押さえられたサクヤは徐々に疲れが出始めたらしく、はぁはぁと荒い息をしながら珍にすがり付いた。
「…先生…何で…?何でオレを生かしておくんです…?このままだと、オレは皆に迷惑をかける…。
皆を危険な目に合わせてしまう…。このオレが皆を…兄貴を…!……う…う。
…。ああ…先生…先生…」
サクヤは珍の両腕にすがり、下を向いて嗚咽した。
「お願いだ…先生…。早く…早くこのオレを殺してくれ」
珍は彼の悲痛な叫びにどう答えていいか迷った。が、内心ではこうなる事はわかっていた。
穢れ虫の末期的症状でもあったからだ。
身の内に悪魔を巣食っている恐怖。そして毒素の汚染から逃げられない絶望。
…最後に死が待つ(通常の穢れ虫の場合は60%の確立だが)状況での虚無感。
サクヤが生きている意味を見失っても仕方のないことなのだ。
しかもその自分が体内で育っている虫が、自分の大事な人間をも破滅させるとなれば、サクヤは益々我慢ならないであろう。
「……希望を…。私は希望を捨てないぞ、サクヤ君」
珍がポツリと呟いた。
「…君を助ける手段を今、私達も急いで検討している…。だから、君も希望を失わないで欲しい…」
ゆっくりと語りかける珍学士の声が、泣き叫んで消耗し、気が遠くなりかけているサクヤの耳に心地よく響いた。
「き…ぼう…?」
サクヤはそう呟くと、力尽きたのかがくりと珍の腕の中で意識を手放した。
珍は力の抜けたサクヤの身体を抱き上げると、寝台を水平に戻し、そっと彼を横たわらせた。
一息ついたと同時に、サクヤの青白く疲れ果てた寝顔を見て、どっとイェンランの目から涙が溢れた。
「酷い…!人間になんて事をするの…」
誰に言うでもない呟きは、もちろんこのような悪魔の所業を成した人間に対してである。
「先生、本当にキイならサクヤを助けられるの?」
イェンランが思わず言ってしまった言葉に、珍学士は周りを気にすると、イェンランの傍に寄り、小声で言った。
「イェンラン、その話は…」
「ごめんなさい。…だって私…」
彼女はサクヤの容態を告げに昂老人達の所に行った時、キイの話をアムイとしていたのに遭遇していた。

《キイの”気“の事は、本人にも伝えるつもりだ…。いいな?アムイ》
《爺さん…。キイには言わないでくれ。あいつの力が唯一の希望なんて話なんかしたら、絶対に無茶をしてしまう。
……あいつは自分の存在に無頓着な所がある。自分の位置が今どれだけ危険なのか、わかっていても自分が前に立とうとする…。だから…》
《あやつは考えなしに矢面に立つような男ではないがの…。
じゃが、確かにその時に自分ができる事をやらなければ気の済まないところがあるのは否定せん。
言えば、必ず己を解放し、サクヤを救う手段を喜んで進めたがるじゃろうしな。
……問題はアムイ、お主の方じゃろ?》
《……》
《お主自身の気持ちが揺れているからじゃ。……そこの所をサクヤと話して己の気持ちをきちんと確かめるのじゃな》
そう会話して、昂老人とアムイは連れ立って部屋を出て行った。
イェンランは知らなかったが、サクヤと話をするために、アムイに玉の封印を施しに二人は別室に移ったのだった。
キイと同じ”気“を封じる玉の封印は、丁寧に術者が何時間もかけて行うものだ。
サクヤに会うためには早速始めた方がよかった。…時間との戦い…。
穢れ虫が羽化するが先か。敵にこの場所を知られるが先か。
このぎりぎりの時間の中で、どこまでできるのか。それはアムイだけでなく、ここにいる人間は誰もが思っている事だった。

そのような会話を聞いて、珍学士と共に隔離部屋に戻ったイェンランは、ずっと二人の会話を気にしていたのだ。
珍はサクヤの容態が安定している事をもう一度確認すると、助手達に休憩をするよう命じた。
そして寝ているサクヤをちらりと窺うと、寝台より少し離れた出入り口の場所に彼女を誘導し、声を少しだけ落としてこう言った。
「宵様の持つ“気”の事は昂極様とも話したが、色々難しい事もあるんだよ。
…ただ君も知っての通り、宵様のお力は浄化能力もあって、虫に効果があるのは否定しない。
それ以上に宵様の持つ高位の“気”は、虫を完全に死滅させ、毒素を無にするのは事実だ。
ただサクヤ君に使って彼が持ちこたえるかは未知の部分ではあるが」
「…そうなの…。やはりキイの力ならサクヤを救える可能性はあるのね…」
二人がそこまで話していた時、静かに目の前の扉が開き、優雅な足取りで一人の男が部屋に入ってきた。
「キイ!」
「しっ!」
驚いて声を出したイェンランに、キイは人差し指を自分の口元に当てると、目で静かにするよう訴えた。
「宵様、まさか今のお話…」
「すまないな。…扉越しだったが聞こえてしまったよ」
珍の言葉を受け、キイは優しくそう言った。
「どうしてここに?キイ」
「……朝になってもアムイの奴が来ないから捜してた。……で、見当たらないのでサクの様子を窺おうと思って今来たのさ。
まさか俺の話をしているとは思わなかったが」
キイはそう言って微笑むと、二人に尋ねた。
「で、どういう事?詳しく教えてくれないかなぁ」

昂老人とアムイのやり取りもあって、最初は渋っていた珍学士だったが、有無を言わさないキイの迫力に負けて全てを話した。
「そうか。でもその話の問題点はサクヤには教えない方がいいだろう。……知れば益々自分を追い込むだろうから…」
キイはちらっとサクヤの様子を遠目で窺った。ぐったりと目を閉じている様子から、まだしばらくは目覚めない感じを受ける。
「……俺としては今すぐにでも封印解除したいし、サクに少しでも希望を持たせてやりたい。
いや、俺はそのつもりで全然構わない。…ただ、皆やアムイの心配もよくわかる。
周りの影響だって俺はわかっている…」
「キイ」
「時間がないのもわかっている。大丈夫だとサクを安心させてやりたいが、微妙なところだ。
……俺にとっての問題はアムイ。あいつが腹を括ってくれれば…」
そうなのだ。この問題は己だけではなく、相方であるアムイの覚悟が必要なのだ。
……この自分を…全身全霊で受け止めてくれる覚悟…。絶対的な自己自信。
ぶれずにしっかりと大地の軸となり…。
キイはじっと目を閉じた。己の流動的な“気”が、アムイの安定の“気”に受け止められる。
……なのに心の動きが反対なのが笑えるな。
流動の気であるキイの強靭な精神力は、己の悩みも地獄の苦しみも自力と僅かな他力で克服し、揺らぐ事のない世界にいる。
が、安定の気である筈のアムイの精神は何故ああも脆く、危うく、儚くて。ぐらぐらと揺れ動き、芯が一本通っていないのか。
聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)の精神統一の修行で、かなり安定したと思っていたが…。
いや、安定したのはアムイの持つ“金環”のお陰だ。とかく心とは関係のない術では、なんら支障が出なかった。
問題は全てはアムイの心。闇に隠されし美しく柔らかで儚い心。
……それが本来の姿を取り戻し、周囲に流されない強さを持てば、魔を抑制し、正しき不動心の要となるのに。
「とにかく、その事についてじーちゃ…昂極様と話したいんだが、今どこにいるか知ってる?」
キイの質問に珍学士は溜息をつくと、
「今すぐにお会いできないとは思いますが…わかりました。
私がご案内致しましょう、宵様。さ、どうぞこちらへ」
と、キイを誘導するように目の前の扉を開けた。
「すまないな」
「…いいえ。
あ、それから悪いがイェンラン。すぐに戻るからここを頼む」
「はい。…大丈夫です」
イェンランの返事に珍学士は頷くと、静かにキイと連れ立って部屋を出て行った。
一人残されたイェンランは、ちらりとサクヤの寝ている姿を確認した。
「……まだ、目が覚めなさそうね…」
そっと呟くと、彼女は溜まった洗濯物をまとめ、それを抱えて隣の予備室にと向かった。
イェンランが出て行ったのを待っていたかのように、寝台の上で横になっていたサクヤの瞼がゆっくりと開いた。
彼は無言で何かを考えているかのように、じっとそのまま天井を睨んでいた。
いつから気を取り戻していたのか。
サクヤは寝たふりをしながら、先ほどの話を聞いていたのだ。
しばらくして、彼の瞳から一筋の雫が零れ落ちた。


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「気術を習い、高位の“気”を習得したものは、体内に生体エネルギーの“核”を形成する」
昂老人はアムイの額に黄色の小さな玉を埋め終わり、術をかけながらそう言った。
「その“核”を持たなければ、第九位以上の“気”を扱えないのは、お主も知っておるな?」
「ああ」
「 その“核”に、自分と適性の合った自然界の“気”を取り込み保持する事で、核に存在する同じ高位の“気”を呼び込んで使える事ができるのじゃ。
……あのサクヤに巣食っている穢れ虫は、その核に溜まった高位の”気”に反応する。
だから高位の“気”を使っていなくとも、虫は反応し、その“核”に溜まった“気”を喰らおうとする。
きっと核が消滅するまで、あの虫は貪欲に喰らい続けるじゃろうな。
喰らわれた方はその代償として、虫が出す毒素を反対に貰い受ける。
……ティアンの奴め、何という恐ろしいものを作り出したのじゃ。昔からあやつは信用ならなかった。
当時、聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)の最高位だった竜虎(りゅうこ)が毛嫌いし、賢者衆から追い出した訳が、今更ながらよくわかる」
「竜虎様が?」
「うむ。あやつにしては珍しい。普段温厚で博愛主義の竜虎が、あそこまで忌み嫌うなど、滅多にない事じゃったからな…。
ま、わしもティアンの奴は胡散臭くて、話したくもなかったから同じじゃ」
昂は話しながら、丁寧にアムイの“金環の気”を封じていく。
「…ま、話は戻るが、その“核”じゃ。
普通の人間はそういう仕組みで高位の“気”を扱っておるが、お主とキイはちと違う。
…元々の生体エネルギーが高位の“気”であり、それを持って生まれたお主らは、“核”を形成する必要がない。
つまり、お主らは生まれながらにして“核”を持っているからじゃ。
“核”は高位の“気”のタンクのようなもので、それを使って力を発揮する。
しかもお主らは元々それを持っているが故、わざわざ天や地から取り込もうとしなくとも、その“気”を使える。
そして貯蔵がなくなれば、自然と必要な分が補充される。
つまり、お主らが他の者と違うところは、圧倒的な量じゃ。…この世がなくならない限り、“気”が枯れる事もない。
“核”を失えば、高位の“気”を使えなくなってしまうわしらと違ってな。
それは人智を超える話じゃ。
主らが意図して己の高位の“気”を取り込もうとしたら、どれだけの量が流れ込むのか。
肉を持った人間の、遥か容量を超えた力。……それが、お主らの秘密じゃ」
昂老人はふうっと一息ついた。
「……普通の穢れ虫は、“金環の気”と“煉獄の気”に弱いとの事だが、サクヤの中にいる虫は、それが好物という事か」
アムイは掠れた声で言った。
「そう。という事は、必然的にどれだけお主が一番危険かがわかるじゃろう?
……あの穢れ虫にとっては、お主は途切れる事のない、永遠のご馳走じゃな。
…それを野生の本能で嗅ぎ取っておる。
本当に恐ろしい存在よ」
「そしてそうなったら、俺は死ぬまで永久に毒素を受け続けるという事か…」
アムイはぎりっと唇の端を噛んだ。じわっと血の味が口内に広がった。
「だから本当は、どういう形であれ、お主をサクヤに近づけさせたくない」
「爺さん…」
「酷な事を言うようじゃが、あの虫は想像の範疇を軽く超えているでの。
簡易封印も簡単に破るほどの、あの貪欲さ、獰猛さ。…僅かな波動でも敏感に察知する能力。
何重にも用心する事に越した事ない。…だから、いくら封印し完全防備とて、本人と直接会う事は許可できん。
しかも長居もさせられん。扉越しで、時間を決める。…それでよいな?」
「…わかってる…爺さん…」
ポツリと呟くようにアムイは答えた。閉じた瞼が僅かに震えている。
本当は本人と直接会いたい。だが、現状が許してくれないのは、アムイも重々わかっていた。
…とにかくあいつと話したい…。
それができるだけでも、天に感謝しなければならない状況であった。

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念には念を入れ、アムイがサクヤのいる隔離部屋のある離れに通されたのは、結局夕刻近くであった。
アムイは全身を緑の布で覆い、目だけを出している状態だった。
もちろん額にはキイと同様、黄色の小さな玉が埋め込まれている。
「暁殿(あかつきどの)、いいですか?時間は10分…それ以上はご遠慮願います。
……貴方も心配ですが、宿り主の体力も心配です…。
なので、もし途中でサクヤ君の容態が悪くなれば、即刻に中止します。
…どうかご了承のほどを」
珍学士はそう言いながらアムイを扉の前に誘導する。アムイは無言で頷くと、ゆっくりと扉の前に進んだ。
珍がサクヤの様子を窺うために、扉に手をかける。と、その時、
「やめてくれ!!」
突然、扉の向こうで怒声が響いた。
「お願いよ、サクヤ!落ち着いて!!」
すぐにイェンランの声が飛んだ。
「嫌だと言ったら嫌だ!!もうオレを放っといてくれ!!」
ガシャーン!!
床に物が散乱する音が部屋から聞こえてくる。
「サクヤさん、お願いです、どうか静まって…」
周りの助手のおろおろする声もして、中でサクヤが暴れているのがわかる。
「ねえ、サクヤ!もうさっきから何も口にしていないのよ、貴方。
お願いよ…、お願いだからせめて水だけでも口にして…」
イェンランはそう言って、サクヤに懇願した。もう最後の方は涙声だった。
「いらない!オレこそお願いだ…。頼むからもう余計な事をしないでくれ、イェン。
このままオレに何もしないで…もう、捨てておいてくれないか」
乱れた息で、訴えるサクヤの声は、本人の覚悟を物語っているようで、聞いていた皆は、全員胸が締め付けられた。
(サクヤ!!)
アムイは愕然とした。
話には聞いてはいたが、ここまでサクヤが追い詰められていたとは…。
実際肌でそのことを感じ、アムイは顔を歪めた。
「何言ってるのよ、馬鹿っ!!」
イェンランは泣いていた。
「私の知ってるサクヤは、こんなにも諦めの悪い男じゃなかった!
少しのチャンスも見逃さない人間だったわよ」
扉の向こうにいるアムイにはわからなかったが、イェンランはサクヤを泣きながら揺さぶっていた。
「ねぇ?サクヤが悪いんじゃないじゃない!!悪いのは罪もない人間に、こんな酷い事をやらかした悪人でしょ?
そんな奴らに屈服するというの?このまま大人しく、奴らのいいようにされちゃうの???」
「イ、イェンランさん、貴女も落ち着いて…」
近くにいる助手は、おろおろとしながらも彼女を落ち着かせようとしている。
彼女の取り乱した様子に、珍は居た堪れなくなって扉を開けて中に入った。
「そんなの、私は嫌!!そんな投げやりなサクヤなんて見たくない!」
「イェンラン、もうこれ以上サクヤ君を揺すっちゃいけないよ?さあ、こっちに来て」
珍はこれ以上二人を興奮させないようにと、わざと明るくこう言って、優しく彼女をサクヤから引き離した。
「でも、先生…」
涙でぐちゃぐちゃになっている彼女をあやすように珍は優しく肩を叩くと、サクヤの方に振り向いた。
「今、イェンランが言った事は、私もそのまま君に伝えよう。さあ、少しでも水分を取ってくれ。でないと」
「…でないと…死ねますよね、確実に」
珍学士の言葉を受けて、俯いたサクヤの口からそんな言葉が漏れた。
アムイははっとして閉じられた前方の扉を見つめた。
「サクヤ君!」
「…あんなにお願いしたじゃないですか…。虫もろとも殺してください、と。
このままこいつをのさばらせておくんですか?……もう、オレ…疲れました…。もう、どうなったって…」

「サクヤ!!」
アムイは扉越しで叫んだ。我慢できなかった。そんな言葉を、サクヤの口から聞きたくなかった。
サクヤはアムイの声にびくっとして顔を上げた。
「サクヤ!お前の口からそんな言葉、聞きたくないぞ!」
アムイは扉を拳で叩き、そう叫んだ。
「あに…き?何で兄貴が…」
信じられないという顔で、サクヤは声のする扉に視線を移した。
「サクヤ君、暁殿が来てくれたよ。どうしても君と話がしたいと言ってね」
珍はそう言いながら、ゆっくりとサクヤの肩を抱いた。
サクヤはわなないた。微かに口元と指先が震えている。
「サクヤ?聞いているか、サクヤ!」
扉越しで、一番聞きたかった人間の声がする。サクヤの両目からぶわっと涙が溢れた。
「…いけないよ、兄貴…。オレの傍に来ちゃ…。いけないんだ…。もうオレ、兄貴には会わない覚悟で…」
サクヤは呟いた。珍はその言葉を近くで聞いて、彼を抱き上げる力を込めた。
「サクヤ?聞こえているのか?」
アムイはそう叫ぶと、静かになった扉の向こうに聞き耳を立てた。
「せんせ…い。どうしてこんな危険な事を兄貴にさせるんですか?オ、オレが近くに寄ったら危ないと知っていて…」
「大丈夫だから。君は心配しなくていい。そのために昂極様が丹念に術をかけてくださった。
…少しの時間しかあげれないが、扉越しで話をするくらいなら、虫の影響は受けないと踏んだんだ。
何かあったら、私達もいる…。
どうしても彼は君と話したいそうだ。ここまで来てくれた彼の気持ちを汲んでやってくれな…?」
静かに、宥(なだ)めるように言う珍に促され、サクヤは扉の近くに連れて行かされた。
珍は助手に目で合図すると、助手は急いで柔らかな敷物を持って来て、扉の前に敷いた。
そしてゆっくりとサクヤをその上に横たえた。
「……聞こえ辛いかもしれないが、ここなら充分、話ができる。
…我々は準備室で待機しているから心配しなくていいぞ。……時間になったら戻ってくるからね」
優しくそう言うと、珍学士は皆を伴い、続き部屋である準備室へと向かった。
準備室に入ると、珍は肩を落としているイェンランに優しく言った。
「イェンラン、君もかなり疲れている。…少し休んできなさい」
「でも、先生…」
珍は意気消沈しているイェンランの肩を抱くと、外に通じるもうひとつの扉に彼女を連れて行く。
「これは命令だよ?看護する人間は、力強くなければならないんだからね」
そう諭されて、イェンランは渋々準備室から廊下に出た。
どうしてもサクヤが心配だった。
だが、珍学士の言う事ももっともだった。彼女は連日の看護で、へとへとに疲れていた。
その上、サクヤのネガティブな言葉に、彼女も毒された気がする。
これが穢れ虫の効果の一つだと言うのなら、負けてはいけないと思う。
ぐっと涙を堪えて、彼女は廊下をふらふらと歩き始める。
だけど、まさかこんな事になるなんて…。
サクヤの気持ちを思うと、辛くてどうしようもない。
「イェンラン?」
そこへ、全身を緑尽くめのリシュオンがやって来た。
「リシュオン?何でここに?」
驚いて言う彼女の疲れた顔をちらりと見て、リシュオンはわざと明るくこう言った。
「看護を交代しに来たんだ。…皆疲れてると思って」
「まぁ、そんな。仮にも一国の王子様が…」
「そんな事関係ないし、仲間内の一大事じゃないか。当たり前だよ。
…それに幸いな事に、私は気術士でないからね」
屈託なく笑うリシュオンに、イェンランはほっとして気が緩んだ。
「イェンラン?」
彼女はその場でぽろぽろと泣き出した。
「サクヤが…あんなになってしまって…」
嗚咽しながらイェンランは言った。
「死んだ兄さんと同じに、優しくて、頼りになって…」
「うん」
「…いつだって明るくて楽しくて、面倒見がよくて…」
「そう…」
「なのに何で、サクヤがこんな目にあわなきゃいけないの?どうして」
リシュオンは堪らなくなって、泣いている彼女を思わず抱き寄せた。
イェンランもリシュオンのぬくもりを自然と受け入れ、彼の胸を借りて思いっきり泣きじゃくった。
そんな彼女に胸を締め付けられながらも、リシュオンは優しく頭を撫でながら呟くように言った。
「…私も、何かできる事はあるかと、先ほどまでシータと色々文献を漁ってみたのだが、これといって何も見つからなかった…。
……信じよう、イェンラン。きっと何かいい方法を天が我々に教えてくれると。
それまで我々が彼にできる事を…精一杯していこう…」
彼の言葉を聴きながら、イェンランは小さく頷いた。
それでも彼女の涙は止まらなかった。……胸の奥で、小さな希望の光を懸命に思い巡らしながら。
キイの浄化の力…。
彼女にはそれしか思い浮かばなかった。
そして天にすがり、祈り、泣く事しかできない自分を無力と感じ、この状況を嘆いた。

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「兄貴…。どうして…」
サクヤの声をしっかりと耳にしようと、アムイは扉の前で背中向きに座り、寄りかかった。
そして片耳を扉に向け、ゆっくりと声を出す。
「どうしてって…。お前の声が聞きたかったからだ」
その言葉に、サクヤは目を潤ませた。
「……ごめん、兄貴…。迷惑かけて」
サクヤの声は震えていた。アムイは心臓を掴まれたかのように胸が苦しくなった。
「何言ってんだ!謝らないといけないのは俺の方なのに…」
サクヤははっとして扉の向こうにいるであろう、アムイの存在に顔を向けた。
「俺が…俺達がお前を巻き込んだんだ。
サクヤ、もっと怒っていいんだぞ!……恨んでくれて構わない…。
本当に迷惑かけているのは俺の方なんだから」
「兄貴!」
サクヤはぶんぶんと頭を振った。
「違う、兄貴は何も悪くない…。オレが勝手に兄貴にくっついて、勝手に足手まといになったんだ。
そんな事、言われる資格ないよ…」
「……いや、充分ある。…元はといえば、俺達が故郷であるセドを滅しなければ…。
国民(くにたみ)の幸せを破壊しなければ」
サクヤはその件が、アムイ…いや、暁と宵の二人に深い影を落としているのを、ここではっきりと理解した。
「……兄貴…。そんな事思わないでくれよ。もう過ぎた事じゃないか…」
潤んだ瞳から涙が溢れ出す。
「もう、いいんだ。…これ以上、兄貴達に迷惑をかけたくない」
そしてサクヤはごくりと唾を呑み込むと、意を決したように訴えた。
「頼む。お願いだからオレの事はもう忘れて欲しい。……初めから、いなかった事にして欲しい」
「サクヤ!!」
アムイは扉越しに叫んだ。
「馬鹿野郎!そんな事、できるわけないじゃないか!何言ってんだよお前は!」
「……そうしてくれよ!!もうこれ以上、オレに関わっちゃいけないよ、兄貴。
兄貴は大事な人を守らなきゃいけないんだから」
その言葉にアムイは凍りついた。
「お前…」
「……兄貴もそうだけど、オレにとっても、いや、セドの国民なら誰もが大事な人なんだよ、キイさんは。
だからこれ以上、オレなんかに関わって、兄貴達を危険な目に合わせる事にでもなったら、オレは絶対に自分を許せない」
「サクヤ…」
サクヤは震える手で、そっと扉に触れた。
「だから…オレの事は忘れて?いい?兄貴、絶対にオレなんかの為に、キイさんを危険な目に合わせないでよ。
……間違っても、オレなんかの為に、キイさんの力を使おうとは思わないで…」
「サクヤ!!」
アムイは怒鳴った。
(知っている?サクヤは最後の希望がキイの力だという事を…)
何ともいえない気持ちの高ぶりが、アムイを支配する。
「オレ“なんか”!?“なんか”なんて言うな!!」
アムイの声は震えていた。事情を知らなければ、皆、アムイが泣いていると思うだろう。
だが、悲しい事に彼の涙腺からは一滴の水も許されていなかった。
目は赤く充血し、微かに潤んでいる程度だ。
だが、アムイの心は泣いていた。それは声が物語っていた。
アムイは何度も扉を叩いた。
「お前は“なんか”じゃない!お前はそんな言葉で片付けられる存在じゃない」
「兄貴…」
「誰もが許されて、この地に降りる。そして生かされる…。
俺にとって、いや、皆にもキイにとっても、お前は唯一無二の大事な存在なんだよ!」
無意識のうちに、アムイはこの言葉を言い放っていた。
まるで、自分に言い聞かせているようだった。
自己否定し、己を貶めている自分が、人を説得する立場でない事はわかっていた。
だが、サクヤの気持ちを知って、アムイは突き動かされた。
(死なせない…!!)
その時、揺れ動いていたアムイの心は決まったのだ。
サクヤは涙が止まらなかった。水分を取っていないくせに、何で自分は涙がこんなに出るんだろう?
思わずサクヤは嗚咽しそうになって、口元を手で覆った。
「…お前は必ず、俺達が助ける。だから頼むから生きようとしてくれ。
地獄の苦しみの中にいるお前には酷な事を頼んでいるかもしれない。だけど」
アムイは目を閉じ、息を吸った。
「共に戦ってくれ。そして運命に勝ったら、俺達の片腕になって欲しい」
「……え…?」
サクヤは耳を疑った。
「片腕…?このオレが?」
アムイは頷いた。
「…はっきりとは言わないが、キイは…あいつは多分、セドを復興させようとしている」
アムイの言葉に、サクヤは目を大きく開かせた。
「ふ…っこう?それって…」
「長い間一緒の相方だ。全てを俺に教えてくれないが、最近のキイの言動を見ていると、そうとしか考えられない。
……あの忌まわしい時から、あいつが国を滅ぼした罪を背負っているのは、重々わかっていた。
セドの民が、大陸に散ってしまった民が、どれくらいいるかは俺もわからない。だがキイは王国を建て直す覚悟があるみたいだ」
それは夢のような話だった。
…セド王国の復活。それは神の子孫、セドの神王(しんおう)の復活でもある。
サクヤは心に力が戻ってくるのを感じた。
「キイもサクヤの事を買っている。あいつもぽろりと俺に言った。
…お前を聖天風来寺で修行させたあかつきには、傍に置く、と。
俺達の補佐を任せたい、と」
「キイさんが…」
キイがそこまで自分を評価してくれてるとは、にわかに信じられないが、アムイの話はサクヤに希望を持たせるのに充分だった。
「だから、サクヤ。約束してくれ。…諦めないと。悪魔と戦うと」
アムイは力を込めた。扉にあてがう己の拳が熱い。
「そうだよな?ずっとずっと目的の為にしぶとく生きてきたお前が、簡単に諦めたりしないよな?」
「兄貴…!!」
サクヤも扉にあてがった己の手に、思いを込めた。
扉の向こうに、自分が心から慕う人がいる。サクヤは堪え切れなくて扉に額をつけ、嗚咽した。
「………わかったか?」
アムイの声が扉を伝って、サクヤの身体に吸収される。
不思議と、恐怖が薄れていた。
「わかったよ、兄貴…。負けないよ、オレ。勝ったら、ずっと兄貴と共にいていいんだよね?」
「ああ。ずっとだ」
「…雪だって、まだ一緒に見てないもんね」
「そうだよ。約束しただろう?」
「うん…」
二人はしばし、沈黙した。
扉越しに、互いの息遣いだけが二人を繋いでいた。
「それからお前さ」
その心地良い沈黙を破ったのはアムイの方だった。
サクヤは何事かと思って扉から額を離し、顔を上げた。
「お前、片腕になったあかつきには、兄貴呼びだけはやめてもらうからな」
その尊大なものの言い方に、サクヤは思わず笑いがこみ上げた。
「何で笑うんだ、そこで」
サクヤの笑い声に、アムイは口を尖らせた。
「いや、こんな時でも、兄貴がそんな事にこだわっていると思ったら」
「アムイ!だ」
「……」
「絶対にいつかはそう呼んでもらうぞ!だから」
サクヤにはわからなかったが、尊大な言葉とは裏腹に、アムイの目は優しく微笑んでいた。
「俺達の為に、生きてくれ」
「……兄貴…」
アムイにそこまで言われて嬉しくて、半泣きの状態であったがサクヤは笑みを隠せなかった。
それはサクヤにとって、久方ぶりの穏やかな時間となり、己に生きる力が戻ってきた瞬間でもあった。


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その頃、キイは物思いに耽っていた。
本来なら、己の姿を外に晒すなどもっての他と皆に注意を受ける所だが、彼は他の目を盗んで、部屋のバルコニーに出て空を眺めていた。
「…最近、月がよく顔を出すなぁ」
ポツリとキイは独り言を呟いた。
もうすぐ満月になるであろう、黄色に輝く月は、雲間から半分顔を出していた。
月、となると、どうしてもアムイの母であるネイチェルを思い出す。
思えば自分は彼女に育てられたと同じだ。
(考えてみれば、女っていいなぁ、と思ったのはネイチェルが初めてだった)
という事は、初恋の相手だったのか?ネイチェルは。
まぁ、生みの母を慕っているのは確かだが、彼女は生身の人間ではない。キイには母の記憶がほとんどなかった。
あるとしたら生れ落ちた時、柔らかな胸に抱き留められた事…くらいか。
後は形見の虹の玉の波動だけが、母を感じる唯一のものだった。
だからこそ、生身の女を感じた初めての女性が、育ての親であるネイチェルであるのは仕方ないだろう。
月は女の、母性の象徴。
キイは思わず口元を緩ませた。
絶対の存在はアムイに他ならないが、女という存在だけを考えてみれば、自分が惹かれたタイプが、辿っていくと全て彼女に行き当たる。
(……ま、アマトの気持ちもわからないでない。俺の母親よりもネイチェルに惹かれるのは仕方ないよな)
大人になった今なら、同じ男である父の気持ちも何となくわかる。
姿形は似てなくとも、やはり自分はアマトの血を引いていると感じる事がたまにある。
…彼から受け継いだ声と、女の趣味だ。
キイはふと視線を落とした。
あれだけ愛し愛され、仲睦まじい夫婦はいなかったであろう。
子供心に、キイは憧れていた。
あれこそが魂の伴侶だったのかもしれない。太陽と月。見事な陰陽のバランス。
誰もが羨む男女の姿…。
己の母親にした事は、一生許せないとかと思うが、これも宿命(さだめ)か。
尚更自分の母を不憫に思う。大人になって、キイは理解した。
自分の母は、自分の父を愛していた、と。あのような仕打ちをされても尚…。
だからどうしても、今だに父への確執が消えないでいる。その事が、長年キイの心に暗い影を落としていた。
地獄から這い上がったとしても、自分は人間なのだ。
だから今でも多小の暗い影くらいはあって当たり前の事だ。
そしてそれらはいつか、必ず手放す時が来る。
人は思い悩み、葛藤し、闇を見て光を見る。
そうして多面に自分を内観し、答えを得る。
それが魂(たま)の成長に繋がる。
…それはこの地に降りる時に天と交わした、この世の契約なのだ。

「宵の君」

突然キイは誰かに呼ばれた。
声のする方を彼はゆっくりと振り向いた。
月の薄明かりに照らされて、男が一人、バルコニーの柵に立っていた。
「お前は…確か」
キイは目を凝らした。
「ユナ族のセツカでございます。宵の君、お一人のところ、失礼致します」
恭(うやうや)しくセツカはユナ族風の礼をして、柵から飛び降り、足音もなく機敏にキイの傍に寄るとキイの足元に跪いた。
「…宵の君には先日の続き、と思い、危険と承知してこうしてやってまいりました」
「…そうだったな…」
キイは立ち上がるよう、セツカを促した。

月は明るさを増し、バルコニーに立つ二人の影を照らし出した。

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2011年2月 5日 (土)

暁の明星 宵の流星 #134

何とも憂鬱な雨だ…。
目が覚めてから、ずっと霧のような雨が降り続いていた。
アムイは小さく息を漏らすと、ある建物の二階にある窓を振り仰いだ。
細かな雨は、アムイの全身を嬲(なぶ)るようにまとわりついている。
彼は全身を緑色の特殊な布をマントのようにまとい、先ほどからその場をじっと動かないでいた。
この特殊な布は、穢れ虫の毒素を直接受けないために、専門家が開発したものだ。
穢れ虫に侵された人間を看護する者の為に作られたという。
虫の毒を完全に無力化することはできないが、ある程度消毒効果があるといわれる薬草で染めた糸で編み上げてある。

その布で包(くる)まれ、サクヤは急遽、この離れの建物に運び込まれた。
サクヤとアムイが接触した地点より、北東に向かった山の中に彼らはいた。
その山はほとんど人が踏み入れた事がないだろう、と言われる未開発の場所で、鬱蒼としたジャングルのような山林が人を拒んでいるようだった。
その、人が訪れないような未開の土地に、大昔、北の国に疫病が流行った時代、隔離と治療や研究の為に建てられた、秘密の施設があった。通常の人間が暮らす屋敷と、二階建ての小部屋が多数作られている病人用の隔離部屋がある建物と。鬱蒼とした森の中に隠されるように建っていた。
今、アムイが佇んでいるのは、その隔離部屋である離れの建物だった。
幸いにもこの隠された施設は、疫病が廃れた後、維持する資金が尽きた事もあって、ここ何十年も放置され、世間からも忘れられた存在となっていた。

《いや、備品も器具も使えそうなものがまだ残っていて助かった》
この場所を昂極(こうきょく)大法師…昂老人に指定された、虫専門の学士、珍(ちん)はほっとした表情で言った。
《さすが昂極様!この場所をご存知だったとは》
《まーのぅ。わしも伊達に八十も生きていないという事じゃ。…しかも、来るまでは大変じゃったが、施設がまだ使えそうでよかった》
そう言いながらも、昂老人は不安な顔を隠せない。
アムイとサクヤが接触した場所から、幸か不幸か半日かけて辿り着いた場所である。
宿り主となったサクヤを早く落ち着かせるには丁度よい距離であったが、それだけ敵に捜され易いのは否めない。
《まったく、どうしたものか…。時間との戦いとは、よく言ったものだ》
そうして昂は押し黙った。対する珍も言葉をなくした。
とにかく、サクヤを蝕んでいるあの虫は、想像を絶するほど只ならぬ存在であったのだ。


そのサクヤの容態をアムイが聞かされたのは、アムイが目覚めてすぐ、明け方の事であった。
とにかく連れて来た当初のサクヤは、一時、珍が施した薬で容態は安定していた。だが、この施設に隔離された途端、薬が切れたのか、急に虫の成長が早まったらしく、七転八倒の地獄の苦しみに襲われた。
その都度、高位の“気”を持たない珍やイェンラン、リシュオンや珍の助手らが一丸となって、サクヤの看護に懸命になった。
皆、特殊な緑の布に目以外をすっぽりと覆い、手袋をし、完全防備でサクヤに対応している。普通の気を持つ人間には、さほど驚異的な毒素の汚染はないようだ。…ただ、本体を内在する宿り主の人間以外は。
そして青白かったサクヤの顔は、虫の発する毒素のせいで土気色に変色し、“生気”を喰われているせいで、体がどんどん痩せ衰え、免疫力もかなり落ちてきていた。
その様子に居た堪れなくなって、イェンランは涙した。だが、決してサクヤの目の前では、彼女は涙を零さなかった。
看護の最中は、いつもと同じ声で、いつものように気丈に振舞った。

サクヤの容態、そしてその現状を聞いて、アムイの全身は怒りで震えた。
《…という事じゃ、アムイ。ティアンの改良したその虫は、特にお主のような高位の“気”が大好物。
お主らがあのような状態になったのもそのせいじゃよ。
だから今の状況では、お主をサクヤに合わせるわけにはいかん》
《だが爺さん》
《アムイ。今話を聞いたでしょう?…アタシだってサクちゃんの看護をしたいのよ。
でも、第九位以上の“気”を持つ者は、近寄ってはいけないって珍(ちん)学士に固く言われてて。
現に老師だって隔離部屋に来てはいけないと念を押されてるのに》
《そうじゃ、アムイ。わしだって近くに行って、サクヤを何とかしてやりたい…。
だが今のところ、専門家に任せないとな…》

サクヤが奴らにされた惨状を思い、アムイは居た堪れなくって、それからずっとこうして彼のいる部屋の真下に佇んでいるのだ。
何という卑劣な事を…!!
アムイは怒りで吐きそうになった。
昂老人より聞かされた、あの南の宰相の悪行は、キイの事もあって益々アムイの憎しみを煽り立てた。
相手を八つ裂きにしてやりたい、同じ目に合わせてやりたい、という所まで相手を憎悪するなど、アムイは初めてだった。
自分はまた、何もできないのか…。
この虚無感。自分の力のなさに、アムイはいつも放り込まれる。
何故にこんなにも、自分は無力なのだ…。乾ききった目に、涙の代わりに雨が降り注ぐ。
じっと部屋の窓を見上げていたアムイだったが、ふと、人の気配を感じてその方へ視線をずらした。
「キイ!!」
信じられない姿を発見し、アムイは思わず大声を出した。
「おい、声がでけぇよ」
自分の前方から、キイがイェンランを伴って建物に向かって歩いてきていた。
信じられない。あれだけ自分や皆が潜伏先で大人しくするように言ったのに。
「お前、どうして来たんだよ!あれほど言ったじゃないか、今は動かないでくれと。
お前を危険な目には合わせられないからと…」
「わかってるけどよ、だからといって俺がじっとできない性分なのは知ってるだろ?」
事も無げに言うキイに、後ろにいたイェンランはため息をついた。
「どうしてもサクヤに会いたいって、キイが」
「キイ!」
「おいおい、怒鳴るなよアムイ。お前の苛立ちもよくわかるよ。
だからこそ俺は来たんだよ…。
じーちゃんの話だと、玉で“気”を封印されてる俺は、普通の人と変わりねぇから防備だけすりゃ大丈夫だと。
…お前の代わりに、俺がサクヤに会いに行く」
「何でそんな余計な事…」
「余計?本当にそう思っているのか?お前の本心は」
その言葉に、アムイは声を詰まらせた。
実際、キイが今自分の目の前にいる事が、どんなに心強いか。今の自分の足元が、どれだけぐらぐらと揺らいでいるか。
さすがに己の相方。……見抜かれていた。
「それに、俺自身も何かできないか、そう思って来たわけよ。
……今は俺の“光輪(こうりん)”は使えないが、それは表に出られないだけで、相変わらず俺の体内では渦巻いている。
その“光輪の気”を元に変化させて、少しは人を癒す力を俺が持っているのは、お前だって知っているだろう?
…まあ、大した治癒力もないけどよ。…だけど、こういう特技を母親から受け継いで、俺はすごく感謝してる」
キイの持っている癒しの力は、神国オーンの大聖堂に仕える最高位、姫巫女だった母親から受け継いだものだ。
己の生体エネルギーを、天の気の助けを借りて融合し、変化させ、怪我や病気を癒す力。
キイもまた、その母の力を僅かながら受け継いだ。
特に彼の持っている生体エネルギーは神の気とされる“光輪の気”。だが、それを変化させて出すので、癒しの力と高位の“気”とは性質が違う筈。…だから少しはサクヤの穢れを祓えるかもしれない…。
キイはそう考え、皆の反対を押し切って、急いでここまでやって来たのだ。
「とにかく、お前はじーちゃんとこで待っていろ。…サクヤの様子を見てくるから」
「キイ…」
「大丈夫だ。…何か伝えたい事はあるか?俺が代わりに…」
キイの気持ちは嬉しかったが、元々口下手な自分だ。…適切な言葉が思い浮かばない。
それ以上に人伝(ひとづて)ではなく、できれば自分自身で直接本人と話したかった。
「いや、いい。…サクヤの様子を後で教えてくれ」
ぼそりと言うアムイの顔を、キイはじっと見つめた。
「…わかった…」
そうキイが言った時だった。
「イェンランさん!ここにいらしたんですか!」
建物の入り口からいきなり緑の布をすっぽりと被った男が飛び出してきた。
彼は共にサクヤの看護をしている、珍学士の助手の一人だ。
「どうしたの?何かあったの!?」
彼の切羽詰った勢いに、その場の者は緊張した。
「サクヤさんの容態が急変しました!今皆で押さえているんですが、酷い苦しみようで…。
しかも予備の鎮痛剤や虫の抑制剤を使い切ってしまって」
「わかったわ!貴方はすぐに戻って手を貸してあげて!私は急いでお爺さんの所で薬を貰ってくるわ」
イェンランはそう叫ぶと、慌てて昂老人の元へと走って行った。
「そいつは大変だ」
キイもそう叫ぶと、助手の男の後について行く。
「キイ!!」
「お前は戻ってろ!いいな、絶対だ!!」
そう叫ぶとキイはもの凄い勢いで建物の中に入って行った。
「サクヤ…」
アムイは震える唇でポツリとその名を呼び、再び部屋の窓を振り仰いだ。
戻る気持ちになれなかった。あの部屋で、あいつが地獄の苦しみを味わっていると思うと。
……自分達と関わったばかりに。こんな俺なんかにくっついてきたばかりに…。
だからついてくるなと…。
だから俺は一人でいいと…。
ぐるぐると、そのお思いがアムイを支配し、棘の縄で自分の心をがんじがらめにしていく。
その頭の隅で、あの忌まわしい、呪いの言葉がこだましていた。
《お前は汚らわしい女の“子”》
《お前の父は大罪人。その血を受けたお前も同等なのだ》
《お前は何故、神の怒りの下に生まれたくせに生きているのか》
《お前の存在自体が罪なのだ》
………そう。俺の近くにいると…皆不幸になる…。何故なら、俺は罪の子だから…。
自分の傍にいてよかったキイだって、何もなければ自分よりも先に逝く。
……俺を置いて。俺を一人にして……………。
本当に俺は、この世の元凶なのかもしれない…。
考えてはいけない思いに囚われては負ける、と、何度も気持ちを引き上げようとしても、心の闇から抜け出せなくなっていた。
特に、身近な存在が地獄の底に突き落とされたと知ってからは…。


................................................................................................................................................................................

「うわぁあっ!!ぐわぁ!」
「しっかりしろ!!まだか薬は…」
のた打ち回って暴れているサクヤを必死で取り押さえている珍学士は、勢いよく部屋に入ってきた人間を振り返り、ぎょっとした。
「宵の君!!どうしてここに…」
珍は一度、サクヤの事で呼ばれた時にキイと会っていた。
キイは熱心に自分に質問し、穢れ虫の説明を聞いていた事を思い出した。
「今、イェンランさんが昂極様の所に薬を取りに行ってもらってます!お力お貸しします」
と言いながら、キイと共に部屋に入ってきた助手は、サクヤの足をがしっと掴んだ。
珍学士以下、三名の助手と一人の西の兵士が、完全防備でサクヤの世話をしていた。
大の男五人でも、サクヤの身体を押さえきれない。それほどまで、彼の体内の虫は獰猛なのだ。
だが、原因はそれだけでなかった。通常の穢れ虫では考えられない事が起きていた。
サクヤの体内の激痛。そして珍が触診した結果、恐ろしい事実が判明した。
《通常の穢れ虫より…大きい》
その言葉に、皆息を呑んだ。
《それも信じられない大きさだ。…幼虫にてこの大きさ。通常の…十倍はある。
臨月間近の胎児ほどもあるとは…。これでは動くたび、宿り主は死ぬほどの激痛を伴うぞ。
幼虫が蛹(さなぎ)となるまで…宿り主の苦しみは続く。
だからといって、このまま蛹となって羽化した時、どのくらいの大きさとなるのか…。
人の嬰児と同じくらい、と私は推測するが》
その言葉に一同、ぞっとした。そんなものが、サクヤの体内に巣食っているとは。
だからこうして発作のようにサクヤが苦しむと、何とか鎮痛剤と虫を抑制する薬の力を借りなければどうしようもなかった。
その度に、サクヤは泣き叫ぶのだ。
【早く自分を虫と共に殺してくれ!】、と。
そして今も同じく、途切れ途切れに枯れた声で、まるでその言葉をサクヤは呪文のように繰り返していた。

何てことだ。
キイはその状況に愕然とし、自然に涙が頬を伝った。
サクヤの肌は毒素のために茶褐色に変色し、窪んだ目には光さえも届いてないかのようにどんよりと曇っている。
「ちょっとどいてくれ!」
キイはそう叫ぶと、肩を押さえていた一人を無理に追いやり、暴れるサクヤを抱きかかえようとした。
「宵様!」
「黙っていてくれ」
キイは皆に叫ぶと、ぐっとサクヤの身体を引き寄せ、右手を腹に押し当てた。
ボウッとした白い光が手から放たれたかと思うと、不思議な事にサクヤの呼吸が安定してきた。
「おおお…」
周囲の人間は信じられないといった顔で、その様子に息を呑んでいる。
もっと不思議な事に、そのキイの光が徐々に全身に巡り、あれほど毒素で変色していた肌の色が、元の白さに戻ってきた事だ。
「は…はぁ…」
サクヤは痛みから解放されたのか、いつの間にか息も落ち着き、表情も和らいでいた。
そして安心したのか気分がよくなったのか、そのまま眠りについたようだった。
「…よかった…やはり効いてくれたか」
ほっとしたようなキイの声で、皆は我に返った。
「い、今のは宵様…」
「まぁ、俺もたまには役に立つ」
キイは皆の反応に、照れ隠しでそう言った。
薬を両手に抱え、今しがた入ってきたイェンランは、この様子にほっと息を漏らした。
(久々に見たけど…やっぱりキイって凄い…)
皆が大人しくなったサクヤを、そっと寝台に横にさせた後、珍学士が彼を丁寧に診察した。
「どうかい?サクの容態は」
「うむ、信じられん。…虫に侵された部分の毒素がかなり抜けておる。
これなら少しは食事を取る元気も出るだろう…。…虫も驚いて静かになったようだな。
宵様?今のが昂極様が仰っていた…癒しのお力というものでしょうか」
何かを含んでいる、といったような珍の言葉に、キイはしばらくして答えた。
「うん。完全に邪気や毒を消せるほどの力はないが、少しは効いてよかった」
「……なるほど。これが宵様の…」
珍は何やら考え込んでいる。キイは彼が、サクヤの虫を退治する策があるのではないかと勘ぐった。
だが珍学士はそれ以上何も言わなかった。 


...........................................................................................................................................................................................

キイからサクヤの状態を聞いたアムイはがっくりと肩を落とした。
「ということでさ…。この俺の力が少しでもサクヤの苦しみを軽くできるならと、明日も少しやろうと思ってる。
…ただなあ…」
「…俺もこれ以上、お前がここにいるのは歓迎しない…」
掠れた声がアムイの口から漏れた。
「本当にそう思っているのか?」
「当たり前だ。お前は俺にとって一番護らなければならない存在。
しかも、もうそれだけでもなくなっている。
…お前の存在が、世界に知れ渡った…。それがどういうことかわかるか?
もうお前は俺だけの存在ではないという事だ。
…今お前を狙っている者から護りたいと思っているのは俺だけではないんだよ」
俯いてそう言うアムイに、キイはじっと視線を注いだ。
「…おい、俺の目を見て話せ、アムイ」
キイの言葉に、アムイは肩を震わせた。だが、どうしても顔を上げることができない。
しばらく気まずい沈黙が流れた。
「とにかく、俺の事は俺自身で考える。もう今夜はここに泊まるから。
…明日話そう」
キイはポン、とアムイの肩を叩くと、音もなくアムイの部屋を出て行こうとした。
が、扉の前でキイは足を止めると、振り返らずにアムイに言った。
「…それまでよく自分と話しろよ?……自分の心の声を良く聞くんだ。
……周りの現状とか、自分の立ち位置とか、そんなもの考えなくていい。
自分の…素直な気持ちを、明日、俺に聞かせてくれ」
アムイは頭を 上げぬまま、唇をわななかせた。
頭上で扉の閉まる音がする。彼はしばらくその姿勢を崩せなかった。


.........................................................................................................................................................................................................

「……やはりそうかの。あのセツカというユナの方の言った事と照らし合わせてみれば、そのような結論になるか」
昂老人は、サクヤの元から戻って来た珍学士の話を聞いた後、ため息混じりにそう言った。
「いや、私も驚きました…。話には聞いていましたが、宵の君のあのお力、まこと鳥肌が立ちました」
「そうか、もはやお主の結論も…わしの考えと同じか」
昂老人は困ったように唸った。
もうすでに夜は更け、すでに他の者は寝静まっているだろうの時間。
ほんのりと灯りで照らされた部屋を覆い隠すよう、窓には夜の間だけ厚い布が覆われていた。
外から敵に確認されないためだ。いつ何時、誰かがここに気づくかもしれない。その恐れは口に出さなくとも皆の中にはあった。

《それは心配ない。…運よく、宵は額に封印の玉を植えつけられている。
つまり、第九以上の“気”が封印されている状態では、虫はまったく反応しないよ。
それに…宵が持っている“気”は…》

セツカが聞いたこのティアンの言葉に、昂老人は異常に反応した。
「……癒しの力は、変化させてキイが放つもの。だが、その大元はあやつの持つ“光輪”であるのは間違いない。
やはり思ったとおり、ただ“気”を封印されているから、キイが穢れ虫に毒されないわけではなさそうじゃのう。
…確かにキイは素手でサクヤを触っていたのじゃな?」
「はい。突然の事で宵の君も慌てておられたのか、手袋もなしで宿り主に…。驚いて注意しようと思いましたが、結果があれでしたので」
そう、その事を目の当たりにした珍は驚いた。
素手で宿り主に障れば、少なからず毒素の影響を受ける筈なのに。
毒素に侵されるどころか、その毒を…。
「浄化…じゃの」
昂老人は呟いた。
「はい。…それもかなり強力な」
珍も頷きながら呟いた。
二人はしばし無言になったが、昂老人が意を決したようにこう言った。
「…あの特殊な穢れ虫は、高位の“気”…特に第十位“金環”が好物と言ったな。通常の穢れ虫なら滅させ消毒する“気”を、反対に喜んで喰う…恐るべき虫。
その穢れ虫を死滅させるには、それ以上の力が必要と思っておったが…。
そうか、やはり“光輪”か…」
「……昂極様の仰るとおり、…あの虫を死滅させ、宿り主を救うには…」
珍がそこまで言った時だった、いきなり出入り口から声が飛んだ。
「爺さん!今の話はどういうことだ…。サクヤを助ける術(すべ)があるというのか」
アムイだった。
実は、キイと分かれてからしばらく考え込んだ後、サクヤの事で昂老人を訪ねようと来ていたのだ。
「立ち聞きは悪いと思った…でも」
アムイは昂老人の傍に近づいた。
「ちょうどサクヤが助かる見込みがあるのかを聞きに来た所だ。…爺さん、正直に教えてくれ。
サクヤを助けられるのか?それに今、聞き違いでなければ“光輪”って…」
アムイの必死な様子に、昂老人と珍学士は気まずそうに顔を見合わせた。
「どうなんだ、教えてくれよ」
二人はしばし何やら考え込んでいたが、意を決するとゆっくりとアムイに話し始めた。
「お主なら、話してもいいのかも知れん。
…まだ推測の段階ではあるが、…多分」
「何だよ、爺さん。やけに歯切れが悪いな。…まさか、本当に“光輪”が関係あるのか…?」
「うむ。…サクヤを脅かしているあの虫は…お前の“金環”を好物とする事は話したろう?
という事は、それ以上の力であれば、あの穢れ虫を滅する事ができるかも知れんのだ」
「まさか、それが“光輪”……?」
アムイは呆然とした。
「そのようだぞ、アムイ。今しがた、珍よりキイの話を聞いた。
…キイが虫の毒素にやられる以前に、あやつは虫の毒素を分解した。…いや、浄化したのだ」
「浄化…」
「そうです、暁殿。きっと宵様の癒しのお力は、昂極様の言う“光輪”を変化したものと聞きました。
つまりそのお力には“光輪の気”の成分が混じっている…」
「そうじゃ、つまり神気がな…」
(神気…)
アムイはその言葉に鳥肌が立った。
“光輪”…それはキイが天から持ってきたもの。…神の気、“光輪”。
あの18年前の幼い時に見た、あの神々しくも眩しい白い光を思い出した。
白い光は地上を包み、人を包み、…そして自分が受け損なった、あの鋭い刃(やいば)のような光。
「すなわち神気という事は、この世の禍々しいもの、悪しきもの、穢れたものを祓い浄化する力。
……今まで大陸創造期以外にこの地に降りた事もなく、使われた事もない“気”である。
ゆえに、わしも想像の域を出ないのじゃが、おそらくその虫は“光輪”には無力。…あの虫を滅し、毒素を浄化できる唯一つの力じゃ」
「…それじゃ…。“光輪”をサクヤに当てれば、虫は死ぬのか?」
昂は声もなく頷くと、ひとつため息をつき、再び口を開いた。
「……じゃが、それはわしも、いや、誰一人として使った事も、経験した事もない未知な事じゃ。
…本来は神の…いや、天の領域。
…理論はそうとして、実際サクヤがどうなるかはわからん。…運がよければ持ちこたえるし、悪ければサクヤも虫と共に“光輪”にやられてしまう可能性だって否めないのじゃ。
そのような危険はあるが、ただ、このままでは確実にサクヤは助からん。
…あの穢れ虫は赤子と同じ大きさくらいになるそうじゃ。という事は…」
「羽化し、身体を食い破って外に出るという事は、宿り主は完全にその時に命を落とします」
無情な言葉が、珍の口から突いて出た。
「その大きさで出てくるという事は、身体に大きな穴が開く。…血肉と共に虫に食い千切られ、内臓をやられ、多量出血は確実だ」
アムイは真っ青になって、珍に詰め寄った。
「他には!?他にサクヤを助ける術(すべ)は!?他に何かないのか!!」
アムイの剣幕に、珍は苦痛の顔でただ首を振るばかりだ。
「…てことは…。サクヤを助けるには“光輪”が必要…。つまりキイの…」
昂老人も顔を歪めた。
「お主の思っているとおり。…そう、そのためにはキイの額の“気”の封印を解かないといけない、という事じゃ」
「封印を解く?…まさかここで…」
「そうじゃ。だからわしとてこの方法が最適とは思わぬ。
何故なら、ここでキイの封印を解くには危険が多すぎるでの」
アムイは押し黙った。
確かに、確かに方法としたら今すぐにでも“光輪”を解放し、サクヤに流す事が唯一だろう。
だが。
アムイは眩暈がしそうだった。
「前にも話たように、キイの額の封印は普通の封印じゃなくなっている。
二重封印のせいで、奥に引っ込んでいると説明したな?それを解くには…いや、安全に解放するには何重もの慎重さが必要じゃ。
いきなりはずせば圧のかかった瓶の栓を抜くと同じ。
多分“光輪”は勢いよく噴出す。…それがこの一帯にどのような影響や被害を起こす事になるか。
そのために幾人かのこなれた術者や、そのための環境が必要で、キイを聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)に連れて行く目的はそこじゃった。
…しかも今、キイは大陸で注目の的じゃ。…誰もがキイを手にしたいと舌なめずりをしとる。
聖天風来寺なら大きな結界も張れるし、キイを護れる基盤がある。…欲望を滾らせている輩からの」
昂老人の淡々とした話が、アムイの背筋を凍らせた。
そうなのだ。ここで“光輪”を解放するとどんな事態を招くかわからない。
そしてキイの身の危険だ。
解放するという事は、キイを無防備にする、と同じ事だ。
そのために結界を張る。“光輪”から周囲を守る為と、本人を外界から守るためだ。
ここで完璧な準備ができるとは、どう考えても難しいと考えるのが普通だ。
できればキイを安全な聖天風来寺に連れて行ったほうがいい。その方が安心である。
「もし、じゃ。もしここでキイの封印を解くとするならば、やはり聖天風来寺よりかなりの助っ人が必要となる。
…それらをここに呼ぶ、という事が果たしてできるか。…しかも内密に。しかもここに来るのが、間に合うかどうか…」
「…そうですね…。大きさもですが、成長の具合が異常に早い。…いつ蛹になって羽化するか、私も予想できない」
昂の言葉を受けて、珍が苦しげに言った。
「どう思う?アムイ。主の考えは…。
わしとて、危険を冒してまで強行してよいものかどうか。
サクヤのためを思うとそうしたい。…じゃが」
昂老人はじっとアムイの顔を見据えると、きっぱりと言った。
「確実にキイを危険に晒す事は間違いない。
……ここで“光輪”を解放する。すなわち世にキイの居場所や存在を公表すると同じじゃ」
アムイは顔面蒼白だった。握り締める拳が震えている。
「…アムイ?」
返事を促す昂に、やっとの思いでアムイは口を開いた。
「…幼い頃から…俺はキイを守る事しか考えてない…」
そう。そして亡き母の遺言でもあるのだ。
《お願い…よ、アムイ…。キイ様の…傍…を離れないでね…》
《…キイ様…を…お守りし…てあげて…ね》
アムイはぎゅっと目を閉じた。
《キイ様の存在…お前が…守…るのよ……・・・・》
そしてアムイは震える声で言った。
「爺さん…お願いがあるんだ…」
「なんじゃ?」
「直接サクヤと話がしたい」
昂老人と珍学士は答えに詰まった。
「…お願いだ…。あれからあいつとちゃんと言葉を交わしていない…。
無謀な頼みとはわかっている。…だけど!
部屋の扉越しでもいい…。俺の“金環”を封じ込めてもいい!だから…」
その時、話を遮るようにイェンランが飛び込んできた。
「大変よ、お爺さん!サクヤが…」
その言葉に一同ぎょっとして彼女に振り向いた。
「サクヤがどうかしたのか?」
「蛹化が始まったらしいの!!…サクヤのお腹が硬くなって…」
「何だと?それは早すぎはしないか?」
驚いて昂が声を荒げる。
「確かに早い。…もしかしたら、宵の君の力に驚いて、保身の為に蛹になったのでは…。いや、まさか」
珍もかなりうろたえている。
「サクヤの様子はどうじゃ?」
「…ええ、容態は何故か安定しています。驚くほど、普通に食事も喉を通るようになって…」
その説明をじっと聞いていた昂老人は、おもむろにアムイの方に振り向いた。
「…アムイ、今ならサクヤと話せるかもしれん」
「本当か?爺さん!」
「うむ。そのかわり、お主の“気“をキイと同様玉で封印させてもらうぞ。
ただ、それだけでは心もとない。なにせ主の“気”は敵の大好物じゃ。
…扉越しで、もちろん、完全防備でな」
「感謝する、爺さん」
口元を震わすと、アムイは深々と昂老人に頭(こうべ)を垂れた。

アムイはどうしてもサクヤと話したかった。
彼がこのような状態になって、このままずっと話ができないのが、堪らなく辛かったのだ。
もし、このまま永遠に彼と言葉を交わす事が叶わなくなってしまったら…?
今のアムイにはそれが一番、恐ろしい事であった。

…キイを危険に晒す事と同じように…。


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2011年2月 1日 (火)

暁の明星 宵の流星 #133

滝壺の上をいとも簡単に登りきったアムイは、川岸に転がる大小の岩石の隙間を調べていた。
目当ての薬草は、だいたいこのような川辺の岩の間に生息しているからだ。
見つけた薬草を何本か抜いていた時、微かにビリ、と空気が震えたような感覚がアムイを襲った。
(何だ?この波動は…)
あまり経験した事のない波動の感覚に眉をしかめ、アムイはそれが何か、もっと察知しようと精神を統一した。
(これは…)
その不可思議な波動と混じって、知っているような波動も感じる。そう、この“気”は…!
「サクヤ!?」
アムイは弾かれるように立ち上がり、それを確かめるべくその波動を追った。


........................................................................................................................................................


サクヤがいない…。
水を汲みに戻ったガラムは呆然とした。
(何で…?どうして…!これからサクヤの仲間が迎えに来るっていうのに…!)
ガラムは次の瞬間、慌てて外に飛び出した。
自らここを抜け出たとすれば、きっと自分がいた井戸の反対方向に行った筈だ。
「レツ!!セツカ!!」
ガラムは周辺に大きな声を出し、自分の仲間を呼んだ。
「どうしたガラム」
ガラムの声にレツが気がつき、後方から現れた。
「サクヤがいなくなった!きっと自分で死のうとしてる!」
「…そうか…。確かにそのような節はあったが…」
「レツはセツカに知らせて!とにかく俺、捜しているから!!」
「おい、ガラム…!」
ガラムはそうレツに叫ぶと、草木を掻き分け森の奥へと進んで行った。

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鳥を追いかけていたリシュオンは、やっとの事で滝壺の上に登り切り、荒い息を整えていた。
「はぁ、はぁ…。まったくさすが天下の聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)出身者…。
こんな崖を簡単に登ろうなんて…」
毎日兵士と共に身体を鍛えているリシュオンは、普通の王族よりも身体能力はあるとは思っていたが、さすがに本格的に鍛えている人間とは比べ物にならないと、実感した。
と、疲れている場合ではない。
リシュオンは慌てて空を見上げ、鳥を確認する。
鳥は長く空を飛んでいるようで、何だか疲れているように見える。
ふらふらと、たまに体が揺らいでいる。
(ああ、そうか…)
リシュオンは思い当たった。“気”を辿る伝鳥(でんちょう)は、気術士よりも数倍も個人の“気”を判別できて、確実にその相手を捜し出し、その人間の元へ必ず到達する。
だが、確かアムイは今、用心の為に“気”を封じる…というか隠している。
そうだとすると、かなり伝鳥はアムイを識別するために、力をフル発動し、自分の“気”をかなり消耗している筈だ…(と、どっかの文献で読んだ)。
まぁ、死ぬ事もないのだが、その分、鳥も動きが鈍くはなるのだろう。
それにアムイはもう近くにいる筈。鳥がアムイの手に渡ったら自分の目で見させてもらいたい。いや、触らせてもらえないだろうか…。
そのような事を考えながら、リシュオンは水が流れ落ちる際で辺りを見渡した。が、肝心のアムイの姿が見えない。
「あれ…何処に行ってしまったんだろ…」
きょろきょろと辺りを見渡しているうちに、伝鳥は川原の隣にある森林の方へ飛んで行ってしまった。
「森…?アムイは森の中に入って行ったのか」
リシュオンも慌てて鳥を追うように森林の中に入って行った。


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どのくらい、森の奥をさすらっているのだろう…。
サクヤは眩暈を感じ、大きな木の傍で蹲った。
(まただ…)
さっきから、体内の幼虫の動きがおかしい。
激しい動きはないが、何かを求めているようないやらしい動きに思える。
そう、近くに獲物が潜んでいるのを感じ取ったような…??
獲物…?まさかな…。
サクヤは自分の考えに一笑した。
何だろうか。体内で孵化した幼虫は、自分の“生気”を糧に育っていくのは教わった。
だが、実際にその虫の宿り主になって、初めてサクヤは知ったのだった。
“気”を喰らう虫は、話の通り毒素と共に稀有な波動を出す…。
だからなのか?その波動が自分の感情とシンクロする事がある。
体内の虫の行動や感情がダイレクトに理解できる…。さすがに虫の思考までは互いに異種の存在だから無理だけど。
それでも、今、この虫が機嫌がいいかとか悪いとか、腹を空かしているとか眠いとか…。この程度の感情の動きがわかるようになっていた。
(……子を宿すとは、こんな気分なのだろうか…)
うっすらとそんな事を思ってみる。…だからといって、自分の中にいるのは人の子ではない。人に災いをもたらす害虫なのだ。
「…くそ…。頼むから大人しくしてくれよ、頼むから…」
ぶつぶつと言いながらサクヤは再びだるい身体を立て直し、のそのそと前を歩き始めた。
(…?水?)
何処からか、微かに水の匂いがする。
さまよい続け、喉がからからに渇いているサクヤにとって、我を忘れるほどの誘惑だった。
(水…!)
無意識のうちにそちらに行こうと身体を反転して、サクヤは自嘲した。
死のうとしている自分が…。このまま朽ちていいと思っている自分が。
思いがけずに目に涙が滲んだ。
生命(いのち)の本能は、“生きたい”と主張しているのだ。
こういう状態でなければ、本当は生きたいのだ。…生きて、自分の思う人生を全うしたい…。
そう思うと死の決意が霞み、サクヤは求めるまま水の誘惑に惹かれていった。


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サクヤの“気”が、近い…!
アムイは森に入って、ずっとその波動を追っていた。
たまに重なる不可思議な波動も気にかかったが、それ以上にサクヤの“気”を優先した。
(あいつがこの近くにいる!絶対にいる!!)
アムイは確信して草木を掻き分けた。

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「私は気術士ではありませんが、波動を感知するこの石が、サクヤの行方を追ってくれますから。
ジース=ガラム、心配しないでください」
セツカはそう言うと、波動感知として有名な銀水晶の塊を出し、前方にかざした。
「うん…」
その後方で、ガラムは走りながら小さく頷いた。

実は、運良く護衛の兵士達に護られた昂極(こうきょく)大法師と、虫専門の学士である珍(ちん)を出迎える事ができたセツカの元へ、ガラムがサクヤが居なくなった事を知らせに行ってくれたのだった。
レツの話を聞いて、迎えに出向いていた者達は驚いた。
「それは大変じゃ!とにかくサクヤを捜そう」
慌てて言う昂老人の言葉を、珍が冷静に受け止める。
珍は一見学者らしかぬ風体の初老の男で、普段身なりを気にしないのであろう、着たきりのよれよれの着物に、肩までの白髪交じりの黒髪は、手入れしていないのがありありとわかるくらいにボサボサだ。
「いくら“気”や波動に手馴れた昂極様も、高位の“気”の持ち主である事をお忘れなきように。決して宿り主の近くには寄りませんよう、重々お願いいたしますよ」
「わかっとるわい。ま、こんな状況じゃが、緊急の封印くらいはできるでの。…早くサクヤを確保せねば」
まさか大法師直々に、出迎えに来るとは思ってもいなかったセツカ達は驚いていた。
だが、今回は未知な改良された虫なのだ。“気”の専門家がいた方が何かと心強いものがあるが…。
ということで、サクヤの“気”も追える昂老人も、自分の感覚を四方に張り巡らせながら、セツカとガラムの少し後方に、レツ達とついてきていた。
急いで移動する連中に、周りの木々はざわめき、森に生息する小動物達は慌てて彼らに道をあけた。
しばらく行ったであろうか、昂老人も、セツカの銀水晶も、一方向にある種の“気”を感じ取った。
セツカは昂を振り向くと、その反応を確かめた。
「昂極様!銀水晶が西北で反応しています…。いかかですか?」
「うむ、わしもそう感じる。この先は何がある?」
昂老人の問いに、レツが答えた。
「川です。…この先は確か、そんなに大きくはないが、川があった筈」
「川か…。ならば、宿り主は水を求めて川に行った可能性があるな。急ぎましょう」
そう珍が言った時だった。
ガササササーッ!!
突然横から一人の男が飛び出してきて、あわや珍達とぶつかりそうになった。
「だっ!誰だ!!」
驚いた珍はすっころび、横にいた西の護衛に支えられた。
「す、すまない…って、えっ!?」
飛び出してきた男も、彼らに驚いて姿勢を崩したが、優雅に近くの木に手をつくと見事に立ち直り、彼らを見て声を上げた。
「リシュオン様!?」
もっと驚いたのは西の護衛の方だった。ぶつかりそうになった相手が、自分の仕える王子だったのだから当たり前である。
「お前達…というか、え?大法師様?」
解せないという顔で、リシュオンは周りを見回した。
先に行っていたセツカも昂老人も、思わぬ人間との遭遇に驚いて、足早に彼の元へとやってきた。
「リシュオン殿!こんなところに…!という事はアムイもおるのか?」
「大法師様こそ…!いったいどうなっているのです?こんなところで…しかもこの方達は…」
昂老人はリシュオンの表情で、彼が何も知らないであろうと悟った。
「まさか…まだアムイに伝鳥が届いていないのか…?」
「やはりあの伝鳥はアムイ宛でしたのですね」
リシュオンは合点がいって、急いで自分が何故この森の中に入ったかを説明した。
「という事は…まずい!サクヤがこの付近にいるらしいのじゃ。アムイがサクヤに出会う前に、伝鳥が届けばよいのだが…」
「とにかく早くサクヤの元へ向かいましょう」
セツカの言葉に昂は頷いた。
「もちろんじゃ!
…リシュオン殿、取り合えず詳しい事は後で…。
とにかく手遅れになったら大変な事じゃ!」
こうして一行は必死の思いで、先に進んだ。


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サクヤの“気”が強くなってくる。
アムイは急いでその方へ走った。その“気”がどんどん強く迫ってくる。
「サクヤ!!」
堪らなくなって、アムイは叫んだ。
「サクヤ!!何処だ!」
その声が、サクヤの正気を取り戻させた。
「あに…き…?」
我には返ったが、サクヤは自分がとうとう幻聴までしてきたのかと疑った。
まさか…。だってこんな所に兄貴がいる筈…。
そう思った時だった。

ぐりり…!!

サクヤは突然の体の痛みに襲われて、草むらに足を取られた。
あともう少しで、小川に出るところだったのに…。

ぐり…ぐりぐり…!

サクヤは息が詰まるほどの痛みに、必死で何かにすがりつこうとした。
(な、何だ?どうしたんだ!)
この痛みは、体内の幼虫が暴れているのに他ならない。夜行性であろう穢れ虫は、日中の今はまだ、昼寝している筈…。
起きていても、こんなに跳ねるほど暴れるわけがない。なのに、いきなりどうして…。
あまりの痛みに目が霞むサクヤは、呻きながら近くの草を握り締めた。
「サクヤ!!」
そのサクヤの前方でアムイの声が飛んだ。
(兄貴!?嘘…まさか…!)
霞む目を凝らしながら、サクヤは声の方を振り仰いだ。
「ここにいたのか!どうした?苦しいのか!?」
前方、三メートルほど先に、アムイの姿があった。アムイは急いでサクヤの元へ駆けつけてくる。
そこでサクヤは意識がはっきりした。
(いけない…!!!)
サクヤは気力を振り絞り上体を起こすと、尻をついたまま後退(あとずさ)った。
「サクヤ?」
その様子が尋常じゃないと思ったアムイは、サクヤに手を伸ばしながら近づいた。  
「だ、だめ、だ」
拒否するようなサクヤの様子。アムイはまったく事情を呑み込めていない。
「何言ってるんだ!どこか悪いのか?おい、サクヤ!!」
「だめだよ!兄貴、オレの近くに来ちゃ…!!」

シュー、シュー、シューッ…。

な、なんだ?この音は…。どうもその音は自分の体内から聞こえてくる。
どう考えても中の虫が発している…。まるで獲物を見つけたような…!
「兄貴!!」
サクヤは喘いだ。まさかそんな…。虫が兄貴に反応している…!
もうすでに、アムイはサクヤの腕を取ろうと、目の前にいた。
「あ、ああ、兄貴っ!触っちゃいけない!触らないでっ!!!」
アムイはサクヤの激しい拒否に、何がなんだかわからぬまま、サクヤを落ち着かせようと急いで彼の両腕を掴んだ。

パキーン!!!!!

「なっ!?」
サクヤに触れた途端、鋭い音がして、キイがかけた“気”の封印バリアが弾け飛んだ。

キュイィィィィィィィーーーーーーーーーーンン!!!!!

「あああああああぁぁっ!!」 
突然超音波のような音がしたかと思うと、急にサクヤが激しくのた打ち回り始めた。
…体内の虫が興奮し、サクヤを地獄の苦しみに落とした。
「わぁぁぁぁあっっ!!」
アムイもまたサクヤに触れたと同時に、もの凄く引っ張られるエネルギーを感じ、勢いよく自分の“気”が吸い取られていく感覚に襲われた。


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「見えた!!」
突然、閉じていた目を開け、叫んだのはティアン宰相である。
「今の感じたか、ミカエル!」
「はい!暁の“金環の気”ですね!間違いない」
興奮したティアンに、ミカエルが即効に答えた。
南の宰相ティアン一行は、ずっと滞在していた森の中で、この時を待っていたのである。

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「いけない!!!」
この反応を察知したのは、ティアン達だけではない。
二人を捜していた昂老人もである。
「い、今のは何なんです!?」
“気”に詳しくない者達も、今起きた波動の乱れには衝撃過ぎて唖然としている。
「まずい!二人が接触してしまったようじゃ!急げ!こっちじゃ!!」
昂老人は叫ぶと、もの凄い速さで走り出した。皆は蒼白となって昂老人を追う。


「うぁああああぁぁーーーー」
駆けつけた皆が目にしたものは、すでに苦しみでのた打ち回っている二人だった。
「珍!!」
「はい、昂極様!!」
昂老人が急いでアムイに再び“気”を封じる術をかけ、サクヤから引き離す。
一方の珍は急いでサクヤの元に駆けつけ、懐から取り出した小瓶の液体を、彼の口を無理にこじ開け流し込む。
そしてすぐに持っていた袋から緑色の特殊な布を取り出し、それで頭からサクヤをすっぽりと覆った。
「よし…、よしよし…。大丈夫だ…。いい子で大人しくするんだ…」
珍は布に包んだサクヤを抱きかかえると、落ち着かせるために繰り返しなだめるように言った。
もちろん、この場合サクヤもだが、中の虫に対してでもある。
「アムイ!しっかりするんじゃ!」
昂老人はそう叫びながら、ぐったりしているアムイを揺さぶった。
どうやらあまりにもの衝撃のせいで、気を失ってしまったらしい。
「だ、大丈夫ですか?二人は…」
心配そうに言うリシュオンに、昂老人は溜息をついた。
「何とかギリギリで間に合ったみたいじゃの。…このままだったら、虫の奴、毒素を出すところじゃった…」
「そうですね。まだ幼虫のようだから助かった。…でも…」
珍は抱きかかえたサクヤの呼吸が落ち着いてきたのを感じ取りながら呟いた。
「それにしても、昂極様から聞いたとおり、ただの穢れ虫ではありませんなぁ。
…この感じは幼虫でしょうが、目当ての好物にこんなにも貪欲な性質とは…」
「うむ、確かにじゃ。…わしも幼虫が好物を察知して反応するだろうとは予測しておったが、…“気”の封印も効かないとは。
しかも至近にてその簡易封印を簡単に破壊してしまうとは…。恐ろしい。どれだけ獰猛なのじゃ」
昂老人は苦々しくそう言ってアムイの顔を見た。よほどの衝撃だったのであろう。なかなか目が覚めない。
「とにかく急いで二人を安全な場所に!今の衝撃ですと、敵も感知した筈です」
セツカの言葉に昂は頷いた。
「わかった。皆、二人を連れて行くのを手伝っておくれ。早くしなければ奴らがここに来るやも知れん」


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南の宰相ティアン達一行がその場に駆けつけた時、もうすでに何もなかったかのようにひっそりとしていた。
「……取り逃がしましたか…」
ミカエルがボソッと言うと、それを受けてティアンは言った。
「……だが、あの男が無事に暁と接触したのは確かだ。微かにその波動の余韻が此処に残っている」
そして彼は顎に手をやると、じっと考え込んだ。
「しかし宰相。その“気”の波動も、此処でぶっつりと途絶えてしまっている…これは…」
ミカエルの言葉に、ティアンはふっと笑った。
「我らの虫に気がついた輩がいるという事だろう。もしくは誰か虫に詳しい奴が処理していったとしか考えられん。
…まぁ、そうだとしても、あの虫は私が作った虫だ。一筋縄ではいくまいて」
「…ということは、計画がばれているという事ですかね」
「ま、それも予想の範疇だ。…何せ暁の後ろにはあの昂の老いぼれがいるだろうからな」
「ああ…、だから移動の痕跡をうまく隠せたわけですね。だとすると、これからどうしますか?」
「隠密(スパイ)を使って、この一帯を探らせる。
…あの虫を体内に持っている人間を、そんな遠くには移動させられない筈だ。
探れば怪しい場所ぐらい出てくるだろう」
そしてティアンは一息つくと、いやらしい笑みを浮かべ、再びこう言った。
「それにもうすぐ満月だ…。月が現れる現れないは関係ないが、珍しく見事な月なら最高だな」
「宰相様…」
「そう。月が現れなくとも、満月という夜は必ず来る。…その時が見ものだな。
その夜が我々の最高のチャンスだ。案ずるな」
ミカエルはその言葉に、じっと黙り込んだ。
ティアンはそのミカエルの様子に面白そうな視線を送ると、次にその彼の後方で、同じく黙り込んでいるヘヴンに目を移した。
共に数名の兵士と共にやってきていたヘヴンは、先ほどから不機嫌そうに珍しく寡黙だった。
「随分と大人しいじゃないか、ヘヴン」
からかうようにティアンはヘヴンを見た。
「ご執心な暁に会えなくて残念だったな。…ま、お前も隠密同様、暁を捜したらどうか?
早く捜さないと、お前の暁はお前の嫌いな虫に食い潰されるかもしれんぞ?」
わざと挑発的に言うティアンに、ヘヴンはこめかみをひくつかせると、ぷいっとそのままその場を去ってしまった。
「宰相…」
眉根を寄せるミカエルに、ティアンは勢いよく笑った。
「いいじゃないか、ミカエル!あのヘヴンの暁への執念は利用する価値があるぞ。
少しでも行方を捜す人材は多い方がいいじゃないか」
そう高笑いするティアンを、ミカエルは不安げに見つめ、心の中で呟いた。

……利用か…。
その結果が悪い方へ転ばなければよいのだがな…。


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