暁の明星 宵の流星 #137
「キイ、アムイ、聞いて!聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)から伝鳥が来たわ」
二人が決意を確かめ合い、共に部屋に戻った時、すでに部屋にいたシータがいきなりこう言ってきた。
元来食堂であった部屋は、ホールのようにただ広く、大人数が一斉に集まっても支障がない事から、就寝以外は皆ここによく集まっていた。
シータも念のためにと、アムイ達同様“気”を玉で封印されていた。
とにかく、相手が予想を遥かに超える改良された穢れ虫だ。
第九位以上の高位の“気”を使う者はとりあえず封印を余儀なくされた。
しかし、あらゆる術を操る昂老人だけは、臨機応変に対応したいからと、面倒な玉の封印はしなかった。
《わしくらいの術者ともなると、自分自身の防御は一瞬で成せるから大丈夫じゃ。
だが、お主達に施した玉で封じる“気”は、簡単に解除されない事もあって、穢れ虫には効果はあると思うが、封じられれば“気”を使う波動攻撃もできなくなるのは仕方あるまい。封印を解く…玉を取り外すのは、己でもやり方を知っていればできるが、結構タイミングが難しい…。
ま、お主達なら、気術戦にならなくとも大丈夫じゃろ?
多分、敵も穢れ虫の事をよくわかってる筈じゃから、我々同様、気術は使えないだろうからの。
ならば互角というもの。戦いには支障ない筈じゃ。
ま、当分は不自由かもしれんが、仕方ない》
「聖天風来寺から?…大丈夫か?いくら密書を運ぶ伝鳥とて、姿がわかる者はわかるし…。
それでこの場所を突き止められたりしたら、大変な事だぞ」
アムイがそう言いながら眉根を寄せた。
「そこんとこは抜かりないわよ。この山の麓から半里行った所に、小さな村があるんだけど、そこに珍学士(ちんがくし)のお弟子さんが常駐してるの。…全ての情報や密書は全てそこでやり取りしてる。ま、中継みたいなものよね。
で、アタシとリシュオンは、実はそこにほとんどこの間までいたのよ。
そこで伝鳥を飛ばしたものだから。
で、返事が来たからこうしてここに戻ってきたわけ」
「だから姿が見えなかったのか…」
「で、伝鳥はなんて?聖天風来寺はなんて言ってきたんだ?」
キイがシータに詰め寄った。アムイはその時ピンときた。
「おい、キイ。お前もしかして聖天風来寺に伝鳥を飛ばしたのか?」
アムイの問いに、キイはちょっとバツの悪そうな笑顔を見せた。
「いや、こういう事は早い方がいいと思ってさ…。実はシータに頼んでいた」
「頼んでいたって…。お前自身が自分の力の有効性を知ったのって、つい先ほどとかじゃなかったっけ!?
…シータに頼んだって…いつの話だよ」
キイの仕事の早さに、半ば驚き、半ば呆れてアムイは言った。
「いやさ。……こういう事態になって、俺としても悩んだわけなのよ。
自分の“気”がサクに有効であるという事は別として、実際封じられてもう我慢も限界でさ。
……早く解放できるものならしたいと思って…。
だって、サクをこのまま置いて、東になんて戻れないだろ?」
「だから打診してみたのか。…確かに俺もサクヤを置いて、このまま聖天風来寺に戻る気はなかった。
……解除が遅れるよりは、聖天風来寺の誰かが来てくれた方がいいか…」
結局、キイの凄いところは、こうして思い付きがいい具合に繋がる事だ。
勘が鋭いのは昔からだ。やはり天と通じていると自負するだけある。
「そういうこと!で?どうだって?」
キイはアムイに頷くと、すぐさま顔をシータに向ける。
「それがキイ、アンタ本当に運がいいわ!
つい先日まで、中央国のゲウラ(中立国)で全土賢者衆会議が行われていて、現聖天師長(げん・しょうてんしちょう)様御一行がゲウラ国北寄りの町にいらしてたんですって!
もちろんサブ…今は師範の朱陽炎(しゅかげろう)だけど…が先頭隊長で、師範級数十名が護衛でお供についてるって!
キイの事情を説明したら、喜んで帰りがけにこちらに寄ってくださるそうよ!」
サブ(朱陽炎)とは、皆の元同期生であり、現在聖天風来寺の師範を務める友人の一人だ。
「本当か!?ゲウラ北寄りなら、東からよりずっとここに近い。
しかも聖天師長様もとより、師範代クラスが数十人?結界の場所さえ整えれば、ここでも無難に封印解除できるじゃないか」
キイは喜びを隠し切れなかった。
「という事は…。上手くすればこの数日でこちらに来れそうか。…それまで間に合うかが鍵だな」
「そうねぇ。でもとにかくよかったわ。こちらは結界の場所を整えるのに全力を尽くしましょう。
サクちゃんも、誰かさんのお陰で生きる望みを捨てないでくれたみたいだし?
さっきリシュオン王子に伺ったら、もの凄い勢いで食べ物を口にしてたって。
この調子なら少しでも体力が戻ってくるかもって、学士が言ってたわ」
アムイをちら見して思わせぶりにシータが言う。
当のアムイは気恥ずかしさも手伝って、思わず口をへの字に曲げた。
「それにしても、あの朱陽炎がうきうきしながらこちらに来る姿が目に浮かぶようだわねぇ。
もー、絶対彼の心の中では、“キイ様、キイ様”と音頭を取っている事でしょうよ」
からかうようにそう言うと、シータはキイに向かってニヤリとした。
「サブ(朱陽炎)…かぁ。確か俺、ちょっとあいつ苦手だったんだよなぁ。
俺は女じゃないんだっつーのに、変にエスコートするわ、プレゼント攻撃するわ」
キイはポリポリと頭を掻いた。
「んで、いつも最後にはアンタが切れて、袖にされてよく泣いてたもんね、彼」
くすくすと笑うと、シータはキイの隣で仏頂面しているアムイに目を移した。
「で、結局どうなの?…封印解除って事は、やはりキイの“気”をここで解放する事にしたのね」
「その話、聞いたのか?」
「先ほどね。アムイ、アンタ次第だとは老師(昂老人)が言っていたけど、サクちゃんのためにもその方がいいと思ったわ。
……危険と隣り合わせかもしれないけど、…アタシも協力するからね」
シータの心からの言葉に、二人は力強く頷いた。
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一方、南軍と北の第一王子の軍隊は、自分達が焼き払った(寺院の)離れから、すぐ行った森の中に拠点を置き、そこから動く気配を見せないでいた。
特に南の宰相ティアンは、あの日を境に、供を引き連れて個人のテントから出てこなかった。
そう、先日、自分が改良した穢れ虫の波動反応を察知して、急いでその場に駆けつけたものの、逃してしまったあの日からだ。
広いテントの中には、ティアン宰相と、彼の研究助手でもあり腹心の側近でもあるチモンという小柄で痩せた若い男。
そして気術将校であるミカエル少将、他、近しい部下達や護衛が十数人。身の回りを世話する者数名、が、いた。
テントの外には残りの南軍の兵士達が野宿している。
その隣の、同じく大きいテントには、北の王子の軍隊が待機していた。
最近のティアン宰相は、感情の起伏が激しかったり、苛ついていたのがほとんどだったが、テントに引き篭もってからは打って変わって静かだった。彼は何かじっと考え込んでいるような、いや、何かを待っているような、そんな感じであった。
そのティアン宰相に、その日の夜、一人の間者が姿を現した。
「我が宰相殿に、いい土産をお持ちしました」
その間者は頭から全身を黒の衣服に身を包み、眼光鋭い目元だけを、ぎろりと表に出していた。
「うむ、待っていたぞ。早く聞かせてくれ」
ティアンはテントの広間の上座に座り、ミカエルと側近のチモン以外の人間は、全て下座に座らせていた。
ミカエルとチモンは、ティアン宰相の両脇に佇んでいる。
そういう状況の中、ティアンの隠密(間者)は、彼の足元に跪き、頭(こうべ)を垂れていた。
「は。実はお捜しの彼の君(かのきみ)の行方に、目星をつけました。それが…」
間者が手早く、自分が調べた内容を報告している間、ティアンはじっと目を閉じ、軽く頷きながらその話を聞いていた。
「ほう、なるほどな。そういう施設が山の中にあったのか」
「はい。どう考えても、その未開の山林に廃墟として残っているという病院施設がどうも怪しい。
………穢れ人(けがれびと)を連れて行っているのなら、尚更…」
「ま、確かにそこが一番無難だな。……で、そこには行ってみたのか」
「実は…。途中まで中に入ったのですが、微かな封鎖の結界を感じまして」
「封鎖の結界…。ははーん、私の穢れ虫の波動を封じた名残だな。よく感じたぞ、その波動を。
……同じ気術士に悟られないよう、上手く波動を隠したようだが、敏感な者までには隠し切れないものだ。
こういう事ができるのは…あの老いぼれしかいないだろうが」
「封鎖の結界…ですか。かなり物々しいですね。
反対にそこの場にかけられているという事は、彼らがそこにいるという証拠にもなったという皮肉…」
二人の会話に、ミカエル少将が割って入ってきた。
「そうだ。ま、奴らも己の“気”ぐらい封印しているだろうな。
…思いの他、私の穢れ虫は強力な奴だったみたいだ」
満足そうにティアンが頷いた。
「…さすが、我が宰相様の改良されました虫。
己の好物にはとことん貪欲で、人のかけた封印すら破壊してしまう。
…そのお力はまだまだ未知数。…人に実際に寄生させてみなければわからない、様々な発見があって素晴らしい」
隣のチタンが感嘆して、尊敬の眼差しをティアンに送る。
その彼の様子にティアンは上機嫌になった。何にせよ、自分の研究成果が実を結ぶのは嬉しいものだ。
「それで、その中に潜り込もうとしたのですが、下の者(部下)からの報告で中断し、そちらの情報を急遽確認しまして、取り急ぎご報告に伺ったわけでして」
間者の言葉にティアンは我に返った。
「情報」
「はい!この数日に、聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)の一行がその山の麓にある村に立ち寄るらしいのです」
「聖天風来寺!」
その名に、ティアンはいたく興奮した。
「しかも先日まで、中立国での賢者衆会議に出席していた、聖天師長(しょうてんしちょう)ならびに師範級数名。
観光とか視察だかで、わざわざ北の国経由で東に戻るという情報を手にしまして。
これが我らが怪しいと睨んだ山の近くの村に寄ると。…できすぎではございませんか?」
彼の話にティアンは突然笑い出した。
「宰相?」
皆が驚く中、ティアンは面白そうにこう言った。
「いやいや。そうか、これは緊急に宵の封印解除を強行するつもりだな。
はは、宵の“気”の効力に気がついたか。やはり向こうも馬鹿ではないようだ。…“光輪”解放。…穢れをそれで払おうという」
「……ということは、彼らは宵の君の“気”を…。この北の地で?」
ミカエルも驚いて思わず呟いた。見たい。是非とも、あの一国をも滅ぼしたとされる、神の気を…。
「これは一石二鳥ではありませんか?宰相様。我々が宵様の封印を解除しなくても…」
「横からかっさらえる…か」
チタンの言葉に、ティアンはニヤつく表情を抑えられなかった。
「ま、本当のことを言えば、この私自身が自らの手で封印を解きたかったのだがな。
この私が宵の“気”を制する事ができる存在と、全てのものに見せつけるために」
「では、宰相。直ちに出発いたしましょう。すぐにでもお支度の方を…」
ミカエルがそう言ってその場を離れようとするのを、ティアンが手で制した。
「宰相?」
「まぁ、そんなにがっつくな、ミカエル」
「しかし」
せっかく宵の君の居場所がわかったというのに、ティアンは一向に焦る気配がない。
ミカエルは不思議そうに彼を見やった。
「…ま、よいじゃないか。聖天風来寺の輩が先か、…月見が先か」
「あ…!」
その言葉にミカエルははっとした。
「どちらにしても、時間との戦いだ。…今度の月見はたいそう興味深いことだろうよ」
そう言い放つティアンの横顔は、まるで特別な日を待ち焦がれてじっと我慢している子供のようだと、ミカエルは思った。
その後、間者がこの場から去り、ティアン宰相以下の者は、命令あればすぐにでもここを出られるようにと仕度を始めた。
「ん?おい、ヘヴンは?ヘヴン=リースはどうした」
傭兵であるヘヴンの雇い主はティアン宰相であるが、性格に問題あるとすれ、便利な兵士としてヘヴンはうってつけの人間だった。しかも気術使いにはやっかいな虫が関係している事もあり、ヘヴンのように“気”を使わない腕の立つ者が必要なのだ。
つまり穢れ虫の事を考えて、気術部隊であるミカエルの下に直接配属されたのだった。
何かあった時、気術士達の盾となるために。
ところが、配属された筈のヘヴンの姿が先ほどから見えない。
「変ですなぁ。先ほどまで、我々の傍で話を聞いていたと思っていたのだが」
ミカエルの部下達も、首を捻るばかりだ。
「ヘヴン…。あいつ、まさか…」
ミカエルの嫌な予感は、どうやら当たったらしい。
「どうします?少将。傭兵が何の断りもなく隊から消えるとは…」
「荒くれ者を雇うというリスクは、常に持っているだろ?…見つけたらそれ相応の処罰をせねばならんが…。
……もういい。放っておけ!」
「ですが、少将」
「どうせあいつの行く先なんて、あそこしかないんだ。……ただ、下手な事をしてくれなければよいが…」
ミカエルはそう呟くと、ティアンの元へと走り、ヘヴンが消えた事を伝えた。
「そら仕方がない。…ま、月見までに面白い事をしてくれる予感はするが、それならそれで。
上手くいけば、暁達に打撃くらい与えられるんじゃないか。
我らの真の目的は宵を手に入れる事。…あいつの頭には暁の事しかない。
かえってお互いに都合いいかもしれんぞ。
まぁ、…放って置いていいんじゃないか、ミカエル。私はそんな事で今気分を煩わされたくないしな」
「わかりました」
ミカエルはそう言い、お辞儀をすると再び部下達の元へと戻った。
「よろしいのですか」
「宰相殿もいいと言っている。…それよりも、他に腕の立つ兵士を若干集めなくてはならん。
あのヘヴンの奴が役に立たないのならな。
…A班、南軍近衛隊長の元へ行き、腕の立つ猛者を数名調達して来てくれ。
B班C班はその間、別室で“気”を封じる術をかける。…準備を頼む」
「はっ!」
ミカエルの部下達は一斉に敬礼をすると、それぞれの役目の為にその場を去った。
残されたミカエルは投げやりな態度で近くの長椅子に腰を下ろすと、大きな溜息をついた。
(月見か…)
確かにティアンの余裕がそこにあるという事を、ミカエルは悟った。
その反面、放って置いていい、と言ったヘヴンの存在も不気味に感じているのも事実だ。
だが、所詮ヘヴンの目的は【暁の明星】。
自分達の目的とは違うし、かえってヘヴンが暁の動きを抑えてくれれば好都合でもある。
上手くいけば邪魔者は消せるし、“気”を解放した【宵の流星】も手に入る。
最初、ティアンの話を聞いたときにはにわかに信じられなかった、滅亡したセド王国の宝の正体。
……それが未だかつて、その凄まじいほどの力に、神以外に使いこなせない…いや、使うのを天が禁じた、とまで言われた伝説の“光輪の気”。……それが最後の秘宝の正体と知り、胸が躍るのは仕方のない事だ。気術を学ぶ者であれば、誰もが感じる事だ。
(ああ、すぐにでも見たい。神の“気”を…!)
だがミカエルは、すぐにでも【宵の流星】の元に駆けつけたくなる衝動を、持ち前の理性でぐっと抑えた。
宝を目の前にして、浮ついてはならぬ。確実に目に、手にしたければ尚の事。
ミカエルは心を静めようと目を閉じ、しばし呼吸を整えると、己の部下の待つ別室にと向かった。
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初秋の風が爽やかに、南の国リドン帝国のリー・リンガ王女の赤い髪を弄んでいく。
森を見下ろす小高い丘で、彼女はその華やかで目立つ頭髪をフードで隠しもせずに佇んでいた。
もちろん彼女の後ろには、護衛のモンゴネウラが待機している。
リンガ王女の瞳には、遥か丘の下に見え隠れする、ティアン宰相と北軍のテントが映っていた。
そんな彼女の目の前に、息を切らして丘を登ってくる大男がやってきた。
「ドワーニ」
リンガは呟いた。登ってきたのは南の大将、大帝付きのドワーニ将軍だ。
「お、どうだった?ドワーニ。何かいい情報を得られたか?」
王女の後方で、胡坐をかいて座っていたモンゴネウラがのんびりと言った。
「ええ…まあ…」
何故かドワーニの歯切れが悪い。モンゴネウラは片眉を上げ、彼の表情を窺った。
「ね、ドワーニ、どうだったの?何か新しい情報掴んだ?
…アムイの事、何かわかった?」
齢(よわい)三十も過ぎ、子供を生んだ事がある、世間では経験豊かな大人の女、というイメージのリンガ王女であったが、この中年と初老の厳つい男達を前にすると、何故か彼女は少女のようであった。
特に自分が生まれた時からずっと傍にいる、父代わりとも言える護衛官のモンゴネウラの前では、まるっきし我儘で年端のいかない子供みたいなところがあった。
「ええ。居場所はわかりました。ですが…」
「本当!?アムイの居所がわかったの?」
喜々とするリンガに、モンゴネウラは立ち上がると、軽く彼女を制するように肩に手を置いた。
「ドワーニ。何かまずい事態が起こってるのではないか?お前の顔にそう書いてある」
「まずい事態!?」
その言葉にリンガはぎょっとし、ドワーニの困った顔を覗き込んだ。
「…さすがモンゴネウラ殿。実はですな…」
ドワーニは言い難そうに、先ほどまで仕入れてきた情報を二人に説明した。
南の帝国の名の馳せた英雄であり、大帝側近の大将ともなれば、兵士達の中にドワーニの崇拝者がいてもおかしくない。
ティアン宰相お付きの兵士の何名かは、密かにドワーニの味方となってくれていた。情報を垂れ流してくれるよう、北の王子の友人の屋敷にいた時に、ドワーニは彼らに頼んでいたのだ。彼らは喜んでドワーニの為に宰相の目を盗み、先ほど間者が来て喋った情報を彼に教えてくれたのだった。
その説明を聞いて、モンゴネウラの表情がみるみる渋くなっていった。
「穢れ…虫?なぁに、それ」
小首を傾げるリンガの仕草は妖艶かつあどけない。それが半分、計算した仕草だとしても、だ。
「…生命の“気”を喰らう寄生虫ですよ。…しかもあの宰相の改良した悪魔のような奴らしい」
「き、寄生虫…」
ぞっとしてリンガは、自分の腕を抱きしめ後退(あとずさ)った。
その彼女を、両腕で受け止めながら、モンゴネウラは呟いた。
「……そうか。暁の仲間にそのような無体な事を…」
「で?アムイは?アムイは何処に居るの?…ねぇ、もしかしてその穢れ人の傍に彼はいるんじゃないでしょうね!」
リンガは眉間に皺を寄せ、目の前のドワーニにかみついた。
「…多分、そうかと…」
「モンゴネウラ、ドワーニ!早くここを出発しましょう!
彼らよりも早く、アムイの所に行かなくちゃ…!」
リンガの胸の内は、アムイの事で一杯だった。
自分がこれほど一人の男に気持ちを取られているなんて、今まで考えられない事である。
だがもう手遅れだ。今の彼女は完全に、陰りのある黒い瞳の持ち主に心を占領されていた。
「アムイを助けなくちゃ。…早くしないと彼の身が危険だわ…」
ぶつぶつと独り言のように言いながら、荷物を取ろうとした彼女の腕を、がっしりとモンゴネウラが掴んだ。
「何するの?モンゴネウラ!この手を離して」
突然の所為に、リンガは驚いて彼を仰いだ。そこにはモンゴネウラの茶色の険しい瞳があった。
「モンゴネウラ?」
「リンガ様。お国に戻りましょう」
一瞬、彼女はモンゴネウラの言葉が理解できなかった。
「…何を言っているのよ、モンゴネウラ。…何で突然…」
「これ以上は危険だからです」
きっぱりとモンゴネウラは言った。
「危険?そんなの承知でここまで来たのでしょう?今更何言ってんのよ。
このわたくしに目の前の事を放置して、逃げろと?
そんな事できる性分でない事くらい、モンゴネウラならわかるでしょ!!」
リンガはかっとして彼に怒鳴った。だが、そんな事で表情の変わるモンゴネウラではない。
「最初の頃と状況が変わった、という事です、王女。
……それに、あのティアンの思惑を、国に…いや、大帝にお知らせせねばなりません。
あの宰相、我々の前では誤魔化していましたが、ドワーニと共に密かに探っていてはっきりしました。
王女も実際にティアンと接して確信なされましたでしょう?
…あの男は大帝を欺き、我が国での恩恵を我が物にしている。
何が南の国の為!何が大帝の御為!…嘘ばかりだ。
あの男は私利私欲の為に、我が国の財力と兵力を我が物にし、我が国を謀った」
憤然と言うモンゴネウラの顔は、まるで鬼のように恐ろしい。
「…ですからリンガ様、貴女はその大帝の妹君。リドンの王女として、宰相の件を報告するのは義務と存じますが」
そのはっきりとした物言いに、リンガは少し震えた。
幼い頃、自分にとっても甘かったこの男でも、国や兄君の事となると、有無を言わせない恐ろしさがあったのを思い出した。
だがそれでもリンガは諦めきれない。
一国の王女という立場を忘れ、恋に盲目となっているただの女が今の彼女を支配していた。
「わかってるわよ…。確かにわたくしの義務だとわかっているけど、今は国には帰らないわ!
ねぇ、お願いよ、モンゴネウラ!一生に一度のお願い。わたくしをアムイの元に連れて行って。
お兄様にはドワーニを向かわせればいいじゃない」
「お姫(ひい)様!!」
突然モンゴネウラは一喝し、リンガはびくっと身を縮まらせた。
その呼び名は自分が幼少の頃、彼にずっと呼ばれていたものだ。さすがに大人になり、他国に嫁ぐ頃にはそう呼ばれなくなったが。
しかもそれは、特に悪い事をした時に、厳つい大男の彼に怒鳴られると、いくら自由奔放で我儘で手に負えない彼女も、一瞬でシュンとさせてしまう効力があった。
いい歳の大人になっても、まるで刷り込みのように、今でも通じてしまうのは、本人にとって悔しくてたまらない事態である。
「私の大事なお姫(ひい)様。私にとって、貴女様が一番大切なのは今でも変わりません。
貴女の要望は何でも聞いてしまうほど、普段の自分は、貴女様にとても甘い。
ですが、身の危険、王家の問題となれば話は別。……貴女の意思よりも、私は貴女の命と王家を取りますぞ」
モンゴネウラの冷静かつ真摯な言葉に、リンガはこれ以上何も言えなくなってしまった。自分にとって不本意であっても。
その目の前で口を尖らせ、不服そうな顔をした彼女に、モンゴネウラは内心苦笑した。
(このふくれっ面、まったくお小さい頃とお変わりない…)
王家と懇意にしていた由緒正しき名門出のモンゴネウラが、王女付きの護衛になってはや三十年。
彼は結婚もせずにこの身をずっと王家に捧げてきた。
いや、モンゴネウラとて、決して浮いた話がなかったわけじゃない。
確かにリンガ好みの美形ではなかったが、名家に生まれ、教養と武芸に秀で、男らしくも頼もしい彼がもてない筈はなかった。
はっきり言ってしまえば、若い頃はかなりの人数の美女と浮名を流した男だった。
結婚だって、しようと思えばできたのだ。
しかし彼は、この小さな王女が、父である先代の大帝を泣いて求める姿を見てから、自分の家族を持つ事をやめた。家督は兄がいる。…自分は分家である。なら、身が軽い方がいいという判断を下したのだ。
先代の大帝は、自分の事しか興味のないお人だった。
彼はリンガ達の母である正妻の他に、沢山の男と女の恋人や愛妾がいた。
その間に何人も子を儲けたが、彼は一度も血を分けた子供達に興味を示さなかった。
彼の興味は全て自分の楽しみと関心事に向けられていた。
例えば、戦争や政(まつりごと)。面白い人物や心躍らせる恋情など。
だから彼は一度たりとも、リンガに父親としての愛情を向けた事がなかったのである。
それどころか、子供や家族、というものには完全に興味なく、今のガーフィン大帝の事すら、ただ正妻が生んだから世継ぎ、という意識しかない人間だった。
だから幼いリンガがどれだけ父の愛情を欲しても、先代は全くと言っていいほど無関心だったのだ。
しかも正妻である二人の母親は、冷たい夫に耐え切れず、子供は乳母らに任せ、自分は若い愛人との逢瀬に夢中で、ほとんど育児放棄の状態であった。
二人の王子と王女を育てたのは、乳母と側近達だった、といっても過言ではなかった。
その中に、モンゴネウラがいたわけなのだが、その時、小さい幼子である二人と接しているうちに、自分が意外に父性本能があるのに気がついた。
父や母を求め、自分の腕の中で泣きじゃくる小さな命。
父性に目覚めたモンゴネウラはこの時、生涯二人のために生きようと思ったのだ。
だからリンガにとっても、兄であるガーフィンにとっても、このモンゴネウラは父同然と言っても過言ではなかった。
大人になったリンガも、それはよくわかっている。
自分にとって、甘え、頼れる人間は兄とこの男だけとわかっている。
特にこの男は、いつも自分の近くに仕え、時に優しく見守り、甘えたい時に甘えさせてもらい、悪い事をすれば実の親のように叱ってくれる。
我儘放題で、ともすれば浅はかな行動をしがちである自分が、自信を持って王女として女として振舞えるのも、モンゴネウラが愛情深く育ててくれたお陰だ。
彼の身分はリンガよりも下だが、気持ちの上では、彼女にとって彼の意見は実の親よりも絶対であった。しかし…。
「いいですか、王女。私はこのまま貴女が暁を追うのは賛成しかねます。
……それでも暁が欲しい、というのなら、兄君にお頼みしなさい」
その言葉に、今まで大人しくしていたリンガはかっとした。
「嫌!馬鹿っ!モンゴネウラのばかばかばか…っ!!」
「リンガ様!!」
リンガは目に涙を浮かべ、到底三十路の女の態度とは考えられない振る舞いに出た。
「モンゴネウラだけはわたくしの気持ちをわかってくれてると思ってた!
わたくしが兄君の手を借りず、自分の力でやりたがるの知っているくせに!
自分の求めるものは、自らの手で勝ち取ってこそ意味があるのよ!
人の手を借りる方が楽だけど、でも…!」
リンガはモンゴネウラの手を自ら引き離すと、泣きながら自分の馬の方へと身を翻した。
「リンガ様!」
「王女!!」
彼女の暴挙に辟易しながらも、モンゴネウラとドワーニの大の男二人は、慌てて彼女を追いかけた。
「いや、いや、いや!!モンゴネウラなんて大嫌い!
アムイに危険が迫っているというのに、国になんて戻るものですか!
わたくしは一人でもアムイの元に行くわ!絶対に帰らないから!!」
あっという間に彼女は馬に跨り、思い切り馬を走らせた。
「王女!」
びっくりした大男二人も、急いで馬に乗りその後を追う。
「リンガ様!王女!」
モンゴネウラもドワーニも、必死になって彼女を呼んだ。
リンガの馬はもの凄い勢いで、アムイがいるであろう未開発の山の方角へと向かって行った。
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夕闇が森を侵食する頃、草木のざわめきと共に、かなりのスピードで森林を駆け抜ける人影があった。
背がやけに高い男で、ひょろっとしているが、その動きはまるで野生の動物のように敏捷だ。
薄暗い森林の中、秋の虫の音が劈(つんざ)くように、その人間の耳を苛立たせていた。
ああ、煩い。
男は苛々が頂点に達していた。
それはこの虫の音のせいだけではない。
もの凄い衝動が、この男の胸を駆け巡っていた。
(冗談じゃない。冗談じゃない!冗談じゃない!!)
男は走りながらずっとそう心の中で叫んでいた。
(本当に冗談じゃねーぞ!…アムイが虫に穢されたら洒落になんねぇ!)
彼は苦々しく目の前の草木を鎌で切りつけ、道を作り、勢いよく前に進んで行く。まるで鬼人のようなその男。
ヘヴン=リースだった。
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