彼にとって、もう南軍との契約はどうでもいい事だった。
それよりも、今はアムイの事しか頭にない。
ヘヴンはずっと、あの整った白い顔が忘れられなかったのだ。
何をしても崩さない冷たい顔。全身で他人を拒否する頑なな身体が、人を壊し、跪かせるのが好きなヘヴンにとって、思うとおりにならない異質な存在だったのかもしれない。
あの人形のような顔を歪めたくて、泣き顔が見たくて、少年時代何度も彼を傷つけた。
それでも屈服しないアムイに、益々ヘヴンの残虐性がエスカレートしていったのだ。
アムイの白い肌と赤い血のコントラストに、少年だったヘヴンは異常に興奮し、欲情した。
何でこんな気持ちになるのか、自分でもよくわからない。
ただ、アムイは自分にとって他の人間とは違った。
アムイ並みの美貌を持つ人間ならば、広い世の中、探せば結構いるであろう。
だが、皆、ヘヴンを楽しませはしても、全てを奪いたい、貪りつくしたい、という我れを忘れるほどの衝動を、その相手に感じはしなかった。…そう、アムイ以外には。
ヘヴンは聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)を追い出されてからも、何度も何度も頭の中で、少年のアムイを傷つけ、自分のものにした。
その少年が十年以上経ってから、想像をはるか超え、思った以上に成長して、自分の目の前に再び現れたのだ。
しかも昔よりも表情豊かで、人形でない生身の人間の匂いがする彼に、ヘヴンは益々魅了された。
今まで見たこともない表情に、ヘヴンは興奮し、昔以上に壊してしまいたい衝動に陥った。
あの当時も、アムイが自分以外の人間と接するだけで、ヘヴンの胸からネバネバとどす黒い感情が湧き出てきた。
それが何なのかは、今でもヘヴンにはわからなかったが、決まってそうなると自分の感情を抑えられず、残虐な行動に出てしまうのだった。
実際、当時アムイの近くには、これ見よがしにキイがいた。もちろん、キイの存在は邪魔であった。
だが、あの女のような顔をした男は、自分が想像していたよりも恐ろしく強く、しかも彼を守ろうなどという親衛隊などというものまであって、ヘヴンにしては珍しく手を出すことができなかった。
仕方がないので、かえってヘヴンはキイの親衛隊と手を結ぶしかなかった。
彼らは自分とは逆で、キイに近いアムイを疎んじていたから、ある意味、利害が一致していたのだ。
ヘヴンはアムイを傷つける事で、そのどす黒いものを発散していた節があった。…本人は気がついていなかったが…。
だからアムイを身も心も傷つける事は、当時なんでもやったのだ。
ただ、身体を傷つける事ができても、キイ以外に心を閉ざしていたアムイの心だけは傷つけられなかった。
しかもキイを壊してアムイも壊そうという試みも、天下のキイ様のお陰で失敗している。
アムイの異名、【暁の明星】が大陸を轟かせるようになって、ヘヴンは成長したアムイに会いたくてたまらなかった。
今でも人を寄せ付けない、鉄仮面のような大人になったのだろうかと色々と想像しては、その彼が自分によって壊され、自分の手に落ちる様を思い、胸を熱くさせていた。
そして念願叶い、再会したアムイの変わりようにヘヴンは驚いた。
特にあの人嫌い(ヘヴンにはそう見えた)のアムイが、相棒とされるキイ以外の人間に見せた顔と態度が、ヘヴンの狂気を駆り立てた。 初めて見る、アムイの人間らしい感情の揺れを見た瞬間、ヘヴンの禍々しい闇の感情が一気に吹き出したのだ。
こうなってしまったら、もうヘヴンは誰にも止められはしない。
しかも穢れ虫を身の内に持つ人間が、アムイの傍にいる。それがどうしても我慢ならなかった。
(アムイが穢されちまったら、俺が楽しめねぇじゃないか)
特に穢れ虫の惨状は、別の部隊で傭兵をやっていたときに嫌というほど見せ付けられている。
しかも元々、子供の頃から虫が嫌いだったヘヴンは、居ても立ってもいられなかったのだ。
そう。ヘヴンの目的はアムイを壊す事だが、どんな手段でもいいわけではなかった。
自らの手でいたぶり、力で相手を蹂躙しなければ意味がない。泣いてすがって懇願し、自分の足元に跪くまで。
そうしたら優しく抱きこんで、自分だけのものするのだ。そして未来永劫、手放すつもりはない。
(そのためには、アムイは綺麗なままでなくちゃいけねぇ。
何ものにも犯されていない状態でなければ許せない)
血走ったヘヴンの目は、まるで異界の鬼のようであった。
彼は闇の想いを全身に放ちながら、一心不乱に目的の地まで走り続けた。
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「随分と力が戻ってきたようだな。うん、これなら自分で動く事ができる」
穢れ虫専門家である珍(ちん)学士は、サクヤの容態を診た後、満足そうに言った。
「ありがとう、先生…。オレ…散々先生や皆に悪態ついて、迷惑かけて…」
「いや、あれは穢れ虫に寄生された者によくある症例だよ。
皆だって何とも思ってりゃしない。
…それより、さすが暁殿(あかつきどの)だ。あの方がいなければ、ここまで調子が戻ってはこなかったろう。
病は気から、とも言う。
君のは“寄生”という病だ。…特にその肝心な“気”を喪失とするやっかいな病だ。
…だからこそ、それ以上の気力は必要だし、心の支えが必要なんだよ。
わかるね?サクヤ君。…それは生きたい、生きようとする“気”…この世と生への執着と希望。
その執着と希望がどのような対象であってもいい。その対象が虫という病原体に対抗する唯一のものだと、私は思うのだ。
…君にとって、生きようとする希望が暁殿であるように…」
「先生」
何故か気恥ずかしくなって、サクヤは話題を変えようとした。が、珍は構わず言葉を続けた。
「君には心強い支えがある。何があっても君を支え続けてくれる暁殿という…希望だ。
だからどうか負けないで欲しい。こんな虫に、気力だけは絶対に負けないでくれ、な?」
「………」
「そうだぞ、サク。だから決して、変な自己犠牲的な考えはしないでくれよ」
突然、低くてよく通る声が部屋に響いた。
「キイさん!」
入り口のほうを振り向くと、そこにはリシュオンを伴ったキイの姿があった。
自然と虫の毒素を分解し、浄化してしまうキイは、他の者と違って緑の布を体に羽織っただけで、フードもマスクもしていない軽装であった。少しでも表情がわかる姿で、サクヤを安心させてやりたいという、キイの心遣いである。
そう、今のところ、穢れ人であるサクヤを、素のままで向き合えるのはキイだけだった。
「よぉ、復活した顔を拝みに来たぞー。ほんとに、血色もよくなったみたいじゃないか」
「復活って…」
サクヤは苦笑いした。回復に向かっているように見えるが、それでも依然、穢れ虫が体内で健在なのは事実だ。
こうして動けるのも、自分が生きる望みを捨てなかっただけでなく、穢れ虫が蛹(さなぎ)の状態である、という事も大きかった。
だが、にこにこと自分に笑いかけてくれるこの美しい人物は、自分に巣食う忌まわしい異物を取り除いてくれる力の持ち主なのだ。
その屈託のない笑顔に、サクヤは気の休まる思いがした。
サクヤの明るい顔色を見て、キイも内心ほっとしていた。
何故なら、この自分の“光輪”。どのくらいの威力があるのか、キイとしても未知な事で、心身ともに弱った相手に流したら、どうなるか見当がつかなかったのだ。できれば相手に、気力も体力もあるに越したことなかった。
一歩間違えば穢れ虫ともども、宿り主をも滅してしまう可能性だってあるのだ。
「キイさん、こ、この度はオレなんかのために…」
急に姿勢を正し、上ずったように言うサクヤを、キイは片手で制した。
「ホラ、“なんか”は駄目だぞ!…そーいう自分を貶めるように言うとこ、アムイにそっくりだ。
サクは俺に似てると思ってたのに、本当にお前、アムイとシンクロしちゃってんだな」
サクヤはキイの言葉に、目をぱちくりさせた。
兄貴とシンクロ?それってどーいう…。
「人を遠ざけていたあのアムイの懐に、よくぞ入っていってくれた。
付き合いなんて、長さだけじゃないよなぁ。要は縁と密度だよ」
うん、うん、とキイは一人納得して頷いている。
「あの…キイさん?話がよく見えないんですけど…」
「おお、すまない、すまない。ま、そういうことだ。
自分の事に“なんか”はいらねぇってこと。
この俺に、あのアムイの頭を下げさせたくらい、サクヤは凄い存在なんだからさ」
その言葉を聞いて、サクヤは飛び上がらんばかりに驚いた。
「え!?ええっ?頭を下げた?兄貴が?キイさんに?…下げさせたって……誰が」
混乱しているサクヤに、キイは何でもないような顔で答えた。
「お前に決まってるだろ、サク」
「オ、オレっ!?」
呆然と目を丸くしているサクヤに、キイは思わず噴出した。
「そんなに驚くことかい。…ま、俺もびっくりしたけどよ」
キイの目が益々垂れ目になった。
「でも本当によかった。いつものサクヤに戻って…」
後ろにいたリシュオンが、感慨深げに呟いた。サクヤの様子を見てほっとしたようだった。
「リシュオン王子…。王子にも心配かけてすみません」
はっと我に返ったサクヤは、慌てて彼に頭を下げた。
「まー、とにかく、あと少しの辛抱だからな。…今、アムイとシータがじーちゃんと結界を作りに行っている。
何事もなければ、助っ人も明日の朝にはこの近辺に到達する。
だから、お前はその時に向けて、うんと力、つけときな」
キイはそう言って、いつもの癖で、サクヤの頭をがしがしと掻き毟った。
「キイさん!オレは子供じゃないんですから!」
「お、悪い悪い。つい、な」
と、口では謝りながらも、まったく悪びれた風ではないキイに、その場にいた者は皆笑顔になった。
久しぶりに穏やかで、明るい空気がその場に流れた。
「じゃ、また明日な?…今晩はゆっくり休むんだぞ…。
俺と…アムイを信じてくれ、な?」
「キイさん…」
「さ、少し休んで。…こちらの事は考えないで大丈夫ですからね。
今、イェンランが暖かい飲み物を持ってきますから。…蜂蜜入りの。
彼女から聞きましたよ。好物なんですって?いつも一緒に作って飲んでいたって、彼女が」
リシュオンは微笑みながら、優しくサクヤに毛布をかけた。
思わずこみ上げそうになる涙を、サクヤは懸命に飲み込んだ。
自分は幸せ者だ、と心から思った。皆の気持ちが心底嬉しかった。
…そして自分のために、キイさんに頭を下げてくれた兄貴…。
キイは詳しい事は話さなかったけれど、サクヤは理解した。
自分を助けるために、一番守らなければならなかったこの人に、兄貴は自ら懇願してくれたのだ。
あの兄貴が、このオレのために……!
それだけでも、サクヤは生きなければ、と思った。
生きて、いつかはあの人の役に立つ人間にならなければ、と。
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サクヤの寝息を確認した珍学士は、数名の助手に後の事を頼むと、昂老人 の待つ本館の方へと足を速めた。
「ご苦労じゃった、珍。どうかの?サクヤの容態は」
昂老人のいる部屋では、全員が顔を揃えて、珍が来るのを待っていた。
「昂極(こうきょく)様 も、準備の方はいかがですか?お話によると、聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)からのお客人は、明日の午前中にはここに来れそうと伺いましたが」
「うん、何とか間に合いそうじゃ。アムイとシータが懸命に手伝ってくれたからの。
この山の中に、かなりの広さの鍾乳洞を見つけたのは、本当に幸運じゃった」
「ユナ族のセツカのお陰です。彼がわざわざこの山を調べてくれた。
俺達だけじゃ、見つけらなかった」
昂老人の言葉をついで、キイが言った。
あのセツカと会って話した後、しばらくしてから再び、彼はキイの前に姿を現した。
彼にこのような事態であることを言っていなかったのだが、さすがに神王の隠密をする民族だけあって、そこは用意周到に調べが済んでいたらしい。
《お困りになるといけませんので、何か役に立てればと、この周辺を探ってまいりました。
この未開の山林の地図です。……外よりも、地に潜った方が安全かもしれませんね》
そう言うと、彼は一枚の手書きの地図をキイに残し、風のように去って行ったのだ。
確かに大掛かりな結界を張るには、かなりの広さを持つ場所が必要だった。
しかも外界と遮断されている鍾乳洞であれば、万が一の時も被害を最小限に食い止めることができるであろう。それに充分な広さもあった。
アムイとシータは今日丸一日、昂と共に、その鍾乳洞にいたのだ。
「そうですか、それはよかった…」
と、呟く珍の表情は、何故か若干浮かない。
「どうかしたのか、珍。何か問題でも」
素早くその表情に気づいた昂老人は、いぶかしんだ視線を珍に送った。
「はぁ、実は、どうも変なのですよ」
「変?」
皆は珍の言葉に、一斉に顔を見合わせた。
「あの穢れ虫は改良されているだけあって、通常のパターンと照らし合わせる事ができないのは、昂極様もご存知ですよね?」
「うむ。確かに通常の穢れ虫とは全く違う。はるか予想の上を行く相手じゃ」
「あの大きさ、しかも異常なまでの成長の早さ。…好物が高位の“気”である事もそうですが、ただ、その好物である“気”を喰らっているならいざ知らず、ただの普通の人間の生気だけで、ああも成長が早いのは、どうも解せない。
…それに、蛹に変化してから気がついたのですが、若干妙な波動を感じるのです…」
その話に、皆の顔に不安がよぎった。
「妙な波動…。という事は、あの虫は“気”以外のエネルギーも糧にする、という事かの?」
「今の段階では、そうとしか考えられないのですが、そうだとしても、それが一体何なのかまでは…」
珍は言い淀んだ。どうも不気味で嫌な予感がぬぐえ切れない。
「昂極様、宵様のお力の解放を、もっと早くに進めることはできませんでしょうか?…なるべく早く…」
「うむ。助っ人次第だが、彼らが来ると同時に進められるよう、努力しよう。…なるべく急いでな」
昂老人の言葉に、珍は頭を下げた。
それを見ていた皆も、得体の知れない不安に襲われた。それでも、今できることを必死にやるだけだ。
そう。いつ、サクヤの体内の蛹が羽化し、彼の身体を食い破ってくるかわからないのだから。
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………ずくん。
脇腹に突然違和感を感じ、サクヤは目が覚めた。
ふと窓を見やると、もうすでに夕焼けで外が赤く染まっていた。
かなり寝入っていたようだ。
…ずくん。
気のせいでなんかではない。また、脇腹に違和感を感じる。
痛み、とかではない。何とも形容しがたい感覚が、サクヤを襲った。
おそるおそる、脇腹に手をやる。そこは大きく盛り上がっており、硬くカチカチに固まっていた。
…そこには穢れ虫の蛹がいるのだ。
(一体、今のは何だろう?)
その違和感は、確かにその蛹からきている。
(…まさか…)
サクヤは青ざめた。まさか、羽化が始まる予兆なのでは…。
そうだとしたら、早い。早過ぎる。…聖天風来寺一行がここまで来てくれるのは、明日の午前中だと聞いていた。
だからサクヤは、早朝に準備も兼ねて、キイ達と共に結界の場所に連れて行ってもらう手筈となっていた。
触れた瘤(こぶ)の場所が、気のせいか熱く感じる。
「どうしました?ご気分が悪いのでは?」
突然、サクヤは遠くで作業をしていた珍学士の弟子に声をかけられた。
「あ…いえ、何でもありません。…ちょっと目が覚めただけで」
サクヤは思わずそう言っていた。羽化の予兆なんて、自分の気のせいと思いたかった。
もう少し様子を見てから、珍学士に直接相談してみよう。
「そうですか?では、私はこれで部屋を後にさせていただきますね。
隣の準備室には誰かしら常駐しておりますので、何かありましたらいつでもこの鐘で、呼んでください」
そう言いながら、助手はサクヤの枕元に置いてある、手で振るタイプの小型の鐘を指差した。
安定状態の続いた今では、なるべく毒素感染を防ぐため、看護人も患者との接触を少なくしていた。
落ち着いているのなら、前のように四六時中看護しなくてもよいのだ。
「ありがとうございます。…また少し眠ります」
「その方がいいですよ。できるだけ明日に備えて体力を温存しておいてください。
…日が落ちましたら、夕食を持って様子を窺いに来ますね」
助手は微笑むと、器材を抱え、隣の部屋へと姿を消した。
一人になったサクヤは、落ち着こうと深呼吸を始めた。
やはり気のせいだったのか、先ほどの違和感がきれいに消えていた。
「…そうだよ。もう少し待っててくれよ?…お前には罪はないけど…」
盛り上がった瘤(こぶ)をさすりながら、サクヤは呟いた。
そう、明日には…。
コトン。
突然、ガラスに何かぶつかった音がした。
(?)
サクヤは自分の寝床に近い、窓ガラスに目を向けた。
(何だ?今音が…。風?)
気のせいかと思って無視しようとしたが、何やら気になる。
カタン。
いや、気のせいではない。サクヤははっきりと人の気配を感じだ。
蛹を刺激しないよう、ゆっくりと上半身を起こし、寝床に座るような格好で窓を覗くと、やはり人影がちらちらしている。
サクヤが覗いている窓の下には、人がやっと立てるくらいの段があり、その影はそこから中を覗こうとしているらしかった。
「誰だ?」
サクヤは窓越しでそう言った。
こんな穢れ人の部屋に近づく人間がいるなんて。しかも正面からでなく。
気がつくと、辺りは薄っすらと暗くなってきて、外の視界もはっきりしなくなっている。
「おい、誰かそこにいるんだろ?」
思い切ってサクヤは窓に向かってはっきりと言った。
外にいるであろう人物が、息を吐くのがわかった。
「………サクヤ」
おずおずと言うその声に、サクヤは聞き覚えがあった。
「その声……ガラム!?」
サクヤは驚いた。
「なんでまた、こんな所に…!セツカさん達は知っているのか?それとも一緒に?」
「……俺ひとりだよ。…内緒で」
「ガラム…」
「その、サクヤの事が心配で…。でも、よかった。やはりあの人達に知らせてよかった…。
お願いして正解だった…」
囁くような声は、ところどころ涙声だった。
その声で、サクヤはガラムがどれだけ自分のために、骨を折ってくれたのか思い出した。
「…ありがとう、ガラム…。君がいなければ、オレは今こうしていないよね…。
散々助けてもらっていながら、お礼も言わないで…」
「お礼?お礼なんていらない。…言ったじゃん。ユナの民は受けた恩は忘れないって」
ちょっと突っ張った声に、サクヤは微笑んだ。
「じゃ、オレも忘れちゃいけないな。…本当にありがとう、ガラム。
しかも危険なのに、わざわざオレの様子を見に来てくれて…」
その言葉にガラムは赤面した。今、外が明るくなくてよかったと思った。
きっと自分は情けない顔をしている事だろう。
「うん。本当にほっとした。顔色も戻っていて。……こうして話ができただけでも…」
本当はこっそり中を窺って、日が落ちる前に帰るつもりだった。
中の灯りを悟られないために、日が落ちるとカーテンを全部閉めるのがわかっていたからだ。
サクヤもまだ灯りの準備をしていなかったため、部屋の中も日が落ちるにつれて徐々に闇に包まれていた。
薄暗い中、窓越しで二人の声だけが響く。
「…もう、帰った方がいい、ガラム。皆心配しているんじゃないか?」
「……うん…。そうだね…。セツカは俺とレツがここに来るのを禁じてたし、もしセツカにわかったら、俺、国に強制送還させられる」
「セツカさんが?そうだよね…。次期長候補がよそ者のトラブルに首を突っ込むっていうのは…」
「違うよ、そうじゃない。…セツカは俺達がここに来るのを禁じたのは、俺達が暁…アムイに只ならぬ感情を持っているからだ」
「……」
「…宵の君…キイ様がセド王国の血筋と判明した今、俺達はキイ様のお気持ちを優先する義務があるんだ」
「それって…どういう…」
「詳しくは教えられないけど、でも、サクヤはセド人だから、察して欲しい…かな。
とにかく、アムイに敵対心がある俺達が行って、大事になるのを避けるために、なんだ」
サクヤはよく事情を呑み込めなかったが、ガラムの言わんとするところは何となくわかった。
「……敵対心…。そうだよな、兄貴に会って、またすぐに剣を抜かれるのは困る」
「……」
「…なあ、ガラム。君が仇を追ってここまで来たのもわかる…。オレも同じ思いをしてきたから。
でも、ずっとあの人と一緒にいたオレには、あの人がそんな酷い事をしたなんて、どうしても信じられないんだ。
だから聞かせて欲しい、ガラム。
…この先どうするつもりかを。
…オレの件が片付いたら、やはりオレの兄貴を討つつもりなのかを」
サクヤは、ガラムが息を吸い込んだのに気がついた。
そしてしばらく沈黙が続いた後、ぽつりぽつりとガラムは言った。
「…レツの気持ちはわからないけど…。
俺は…やはりアムイに直接会おうと思う」
「…ガラム…」
落胆したようなサクヤの声に、ガラムは慌てて言葉を続けた。
「会って、その当時の事を確かめる。一体何があったのか。アムイの話を客観的に聞いて…そして、判断する」
「ガラム!」
「……ずっとアムイの事を考えると、頭に血が昇って仕方がなかったんだけど…。
感情としては割り切れないものがまだあるんだけど…。
…でも、サクヤが信じている人で、…サクヤの事を大事にしている人ならば、…もう少し言い分くらい、聞いてからでも遅くはないかな…なんて」
サクヤはガラムの心境の変化に嬉しかった。
天よ。どうか双方の感情の縺(もつ)れを解きほぐし、真相が明白になり、争いを回避できますように…。
サクヤは心からガラム達とアムイのために天に祈った。
「……そうか…。さすが長候補。ジースの称号は確かだね」
サクヤのからかうような声に、ガラムは再び真っ赤になった。
「…そう!兄さん達と競うのは、まだ2年もあるけど、絶対負けないんだ。
……俺は将来、ユナを背負う長となるんだ。…そんな人間が冷静さを失ってはいけないだろ?」
(と、セツカが言っていたけど…)
ガラムは心の中で、ぼそっと呟いた。
「凄いな!そうか、ガラムは長になる夢があるのか…。なれるよ、きっと。君なら…」
その言葉に照れくささを隠しきれないガラムは、小さく咳払いすると気を取り直してこう言った。
「サクヤ。…身体に障ると思うから、俺、もう帰るね。
セツカが勘付いて、捜しに来られちゃ困るし」
「そうだな」
「………頑張ってね。虫になんか、絶対負けないで。
いや、サクヤなら大丈夫だと思うけど…」
「ありがとう。解決したらきっと君に会いに行くよ。オレの方から、今度ね」
ガラムはその言葉をしっかりと胸に刻むと、明るい声で言った。
「約束、だよ。…待ってるから!じゃあ…」
「うん。ガラムも気をつけて」
コトン、と小さな音を立てて、ガラムの気配が消えた。
サクヤは小さくため息をつくと、ゆっくりと寝台に横になった。
(約束…か)
またひとつ約束が増えたなぁ…。
サクヤはアムイと交わした約束と、今ガラムとした約束を思い、口元を緩ませた。
約束を守るためにも、本当に自分はしっかりしないと…。
そう思っていた時、突然扉が開き、灯りを持った助手の人間が二人、部屋に入ってきた。
「あれ、サクヤさん、起きていたのですか?」
灯りを持っている一人が、寝台に近寄った。
「ええ、今」
「遅くなってすみません。今、お食事をお持ちしましたよ」
もう一人がテーブルに寄り、持っていた籠の中の物をならべ始めた。
「ありがとうございます」
「灯りの方は、このまま置いておきますので、もし明るくて眠れないようでしたら、消してください」
準備が済んだ二人は、軽く会釈すると、部屋を出た行った。
「よし、とにかく体力つけないとね」
サクヤは気合を入れると、テーブルの上にある握り飯を口に頬張った。
.....................................................................................................................................................................................
(やばい!早く戻らないと、セツカの奴に気づかれちゃう)
とっぷりと暗くなった道なき道を、ガラムは軽々とした身のこなしで、帰路に急いでいた。
道がなければ木の上に飛び上がり、伝っては進み、上に掴まる所がなければ下を潜り…。
さすが、特殊な身体能力のあるユナ族の人間だ。しかも昔の自然がほとんど残っているユナの島育ちであるガラムには、こんな山の中、まるで庭を歩くように簡単な事だ。
(でもよかった…!サクヤ、早くよくなるといいな…)
ガラムはほっとしながら、とにかく仲間のいる場所へと向かう。
「ん?」
夜目の利くガラムは、少し先に行った草むらに異変があるのを見つけた。
「何だこれ…」
気になった彼は、急いでその場所を確認した。
まるで鋭利な刃物で、ずたずたにされた草木の残骸がそこにあった。
が、よく見てみると、それが道となって、自分が今までやって来た方向に続いていた。
……ということは…?
ガラムは嫌な予感がした。
(これって、絶対に人が通った証。…でも、サクヤの仲間の人のものかもしれないし…)
と、その予感を否定してみたのだが、どうしても気になる。
ガラムは居ても立ってもいられなくなって,結局その場をもう一度よく観察した。
(…草木の切り口がまだ新しい…。ということは、たった今、その人間が通っていったばかりだということか…)
そして、それがどこから来ているか、ガラムは目を凝らして観察して、はっとした。
(この方向って…!)
ガラムは青くなった。その無理矢理作った道は、あの南の宰相がいる場所の方向から延びていたのだ。
そしてそれはガラムの居場所を通り越し…まっすぐと離れの建物に続いている。
そう、今しがた、自分が居た場所だ。
(まさか!?)
その事実に気がつき、ガラムの血の気が引いた。
嫌な予感は、現実の危機感に変わり、それがガラムの思考を止めさせた。
(サクヤ!)
ガラムはその危機感に突き動かされたごとく、身を翻し、今来た道を引き返した。
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「随分と顔色もよくなって、本当によかったなあ」
「ああ。一時はもう駄目かもと思っていたのだが…」
サクヤの部屋から出てきた助手の二人は、ほっとした面持ちで、片付けのために廊下に出ていた。
「もう少ししたら、交代の人間がくるな。おい、少し一服するか」
一人がそう言って、懐から煙草を取り出し、もう一人に振って見せた。
「本当は酒の方がいいけどなぁ。…まだ、早いか」
和やかに二人が外の空気を吸おうと、廊下の端にある非常用の扉を開けた時だった。
ザシュッ……。
鋭い嫌な音が、外界の闇に響いた。
「ひ、ひぃっ?!」
その音と共に、目の前の同僚が崩れるように倒れたのに、後方にいた助手は声を引きつらせた。
「ど、どうし…、う、うわぁっ!!」
次の瞬間、闇夜に男の詰まった悲鳴が響き、突然静かになった。
ポタ…ポタ…。
行灯の薄灯りで照らされた廊下を、何かの滴(しずく)を垂らして何者かが侵入してきた。
それは全身を黒い布で被(おお)った、やけに背の高い人間だった。
いや、覗くその者の眼球は血走り、釣り上がり、まるで闇に住む異形の魔物のようであった。
その右の手には小さな鎌が握られ、そこからポタリと赤い滴が垂れていた。
……そう。今しがた斬り捨てた、二人の男の血だ。
その者は、ふらふらと鎌の刃から血を垂らしながら、ほんのりと灯りが漏れる一室を目指し、歩を進めていた。
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