アムイの目の前に広がる、まるで赤い花びらのような飛沫(しぶき)。
どこかで見た…!あれは…あれは…。
サクヤの身体から飛散したおびただしい血が、両親の溢れる鮮血を思い出させた。
アムイの、何かが決壊した。
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ミカエルに拘束されていたアムイは突き飛ばされ、その場に転がった。
その時は一体、何が起きたのか…。痛みに支配されていたアムイには把握できていなかった。
「これだけの高位の“気”を持っていたら、さぞかしこいつも満足だろうよ」
痛みを堪えたアムイの耳に飛び込んできたのは、そう言い放つサクヤの声だった。
「宰相!!」
「なっ…!?何を宰…」
パァァァーーーーン!!!!
何かが弾ける音と同時に、ぐちゃ!と肉が弾ける音に、アムイはハッとして身体を起こしその方向に振り向いた。
アムイは信じられなかった。
今起きた事、今自分の目に映っている事。
まるで幻を見ているかのような感覚。
その惨状が、幼い頃に見た母と父の最期の記憶を鮮明に呼び起こし、アムイの脳裏にフラッシュバックする。
特に父の、あの赤い花びらが舞うような血飛沫(ちしぶき)。
「父さん…」
父は腹心のラムウの手で、背中から身体を剣で一気に貫かれ、おびただしい血を飛散させながらその場に崩れ落ちたのだ。
自分の目の前で。
《何故?何でラムウが父さんを!?》
アムイは混乱していた。
今自分の脳裏には、返り血を浴びたまま、まるで何もなかったかのような、不思議な表情をしていたラムウが佇んでいた。
その恍惚とした表情に、アムイは怯えた。
次の瞬間、ラムウはまるで眠っているかのような父の遺体をかき抱き、はらはらと涙を流していた。
それがだんだんと父達の姿が揺らぎ、泣きながら血まみれたサクヤを抱くキイの姿と変わっていく。
過去と現在が混沌とする中、徐々にアムイの意識もはっきりと“今”を認識し始めた。
「何…?アムイ…どうした?」
泣いていたキイが顔を上げて自分に話しかける。
まだ少し意識が混乱しているアムイは、思わずこう呟いていた。
「…父さん…」
キイが驚愕したように目を見開いた。
「アムイ…?何を言っているんだ…?」
その思いがけない言葉に、キイは反射的にそう返していた。
アムイの目が揺らぐ。
そして何かを振り払うように彼が頭を左右に振った事で、過去の傷がアムイを襲ったのをキイは本能的に感じ取った。
それは自分が、アムイに対して常々不安を感じていた事。危惧していた事だった。
アムイは今、現況を把握しようと必死になっていた。
瞳は揺らぎ、口元がわなないた。
かろうじて復活した己の理性が目の前の事実を少しずつ知らせてくる。
そう、自分は敵の手中に嵌り、危ういところだった。
……どう考えても、今、こうして自分が無事なのは…、あの時、叫びながら飛び込んできた人間のおかげであるのが容易に想像できる。その人間が…自分の守ろうとした人間であった事も、目の前の状況が物語っている。
……ということは…。
自分を助けようとして、サクヤが身を投げ出した…という…。
理性ではそう訴えている。だが、アムイの感情はそれをまだ否定する。
ゆっくりとアムイは立ち上がると、まるで幻を掴もうとするかのように片手を伸ばした。
「サクヤ…」
その手はサクヤを求めるかのように宙を舞い、そろそろとサクヤの方に近寄ろうとする。
「アムイ…!」
「嘘だろ?キイ…。サクヤはまだ大丈夫なんだろ?」
うわ言の様に言うアムイの視線は、キイではなくサクヤに注がれている。
ふらふらと傍に行こうとするアムイに、キイの方が焦り、思わずこう叫んでいた。
「アムイ!駄目だ!来てはいけない!!」
いくら自分の浄化の力が作用しているとしても、毒素は馬鹿にできないほど酷く、サクヤの遺体を汚染しているのだ。
無防備なアムイが触れたら、大変な事になるのは明白だ。
だが、アムイはキイの叫びに異常に反応した。
「どうして…!」
アムイは顔面蒼白となって、歩みを止めようとしない。
「だから!来てはいけないんだよ!」
キイの叫びに弾かれるようにシータが飛び出し、アムイの行く手を遮るために正面から抱き抱えた。
「離せ!」
「駄目よ、アムイ!」
「何でお前も邪魔するんだよ!」
「サクちゃんは毒素が酷いの!普通の人間は触ったら危険なのよ!!」
《触るな!!》
突然アムイの頭に、ラムウの怒声が響いた。
あの時ラムウは幼いアムイを片手で払い飛ばしたのだ。
《汚らわしいその手で、セドの太陽に触るな!!》
彼の、今まで見たことのない冷たい瞳が、幼いアムイの心を貫く。
《お前が…お前達のせいで…セドの太陽は穢された》
その声は冷たく、まるで刃物。
《お前達が生まれなければ…私のアマト様は罪びとにならなかった…。
ああ、セド王国の太陽!!この国の希望!!真の神王!!
それをお前達は壊したのだ!!
この悪魔め!!お前達は悪魔に唆され、やって来たのであろう!!》
アムイの心の奥底に、真っ黒なものがうごめく。
「嘘だ…」
「アムイ…」
「嘘だ、嘘だ、嘘だぁぁぁっ!!!」
アムイは叫び、頭を掻き毟った。
「しっかりして!アムイ!」
押さえつけるのも難儀になるほど、アムイは暴れた。
「アムイ!」
堪らなくなったキイはサクヤを地面に横たえ、アムイの元に行こうとして思いとどまった。
そうだ…。いくら自分を浄化しているとはいえ、サクヤからついた毒素全てが消えているわけではない。
自分の衣類に付着しているサクヤの血液からは、まだ微量であるが穢れ虫の毒素が放出されている。
この大事な時に、アムイを抱きしめてやれない事を、キイは歯がゆく思った。
そう、あの時と似ている…!!
その瞬間、キイはアムイの意識と繋がった。
18年前、ラムウの言葉の刃で傷つけられたアムイを抱きしめたくても、できなかった自分が今と重なる。
あの時はすでに“光輪”が発動を初め、自分の力ではどうしようもなくなっていた。
アムイの元へ行きたくても、守ろうとしてもできなかった。
あの無力さを、キイはまざまざと思い出していた。
今、キイはアムイの心の中で何が起こっているのか理解した。
それはキイだけではない、前にアムイの心を覗いた事のある、昂老人(こうろうじん)もまた然りである。
アムイの奥に巣食っている、根本の闇が、まさに今、浮き上がろうとしていた。
「…どうして…」
震えながらアムイは言った。
「どうして…俺を傍に行かせてくれないんだ…」
「アムイ?」
急に大人しくなったアムイにシータは困惑した。
「…俺が…穢れているから?俺が神に疎まれているから…?」
「何言ってるの…アムイ…」
触れているアムイの身体から、何か得体のしれない力がうごめくのを、シータも感じ取ってぞっとした。
…それは、今まで奥深く隠れて出てこなかった…もの。
己の中に潜む追憶の森………。
アムイの中で、色々な場面と感情が吹き荒れ、嵐のごとく暗黒の森を揺るがした。
慕っていたラムウの罵声。
真っ赤な血の海で眠るように息絶えている父。
(父さん…!!)
アムイの心が血を流し、追憶の森に赤い雨が降る。
(おれは父さんに触ってはいけないんだ…。おれが父さんを穢したから)
《アムイ…どうしたんだ?助けに来たんだ。さあ、父さんが来たからもう大丈夫》
《嫌だ…来ないで…》
自分に触れようとした父のその手を、自分は振り払った。
そう、俺が父さんを拒否したから。
《父さんは…悪い人なの?皆…父さんの事悪く言う…。
キイのお母さんに酷い事したのも…みんな父さんが…!!》
《アムイ、私は》
《父さんは神様から許されない事をしたんでしょ!?
大罪人なんでしょ!?
その子供のおれも穢れてるんでしょ?
だからおれは痛い思いをしなくてはいけないんでしょ?》
《何て事を…!違う、アムイ》
《そうなんだよ!おれは罪の子だから生きてちゃいけないって。
おれも母さんと同じ、神様に嫌われてるから!!償わなければいけないんだよ!》
どうしてあの時差し伸べてくれた手を俺は拒否してしまったんだ。
……父さんをなじって、父さんを責めて…。
あの時の父さんの顔が目に焼きついて離れない。
ごめん…。ごめんよ父さん…。
あの絶望した顔を、俺は一生忘れる事はできない。
まさかその罰に、永遠に自分の前から消えてなくなるなんて。
愚かな自分はわからなかった。
目の前であの手を永遠に失うなんてまったく思ってもみなかったのだ。
あの太陽のように暖かな胸に抱かれ、優しく自分を慈しんでくれたあの父を
俺は最後の最後に酷いことを言って拒絶してしまった。
だから神は俺に罰を与えた。
母さんと同じく
俺から大事な人を奪うという形で。
「いや…だ…」
「アムイ?」
「…もう…いやだ…」
血にまみれた父の死に顔が、サクヤの顔と重なった。
……もう、現実を受け入れるしかないのだ。
目の前に横たわるは心を許した友の骸(むくろ)。
ほら、やはりそうじゃないか。
自分が心から許した相手を、必ず死神が奪っていく。
母も父も…サクヤも…罪深い俺から奪っていくんだ…。
神に疎まれ、罪を背負って生まれた俺への罰として。
《お前がこの地にいる限り、俺はお前の傍にいるぞ》
キイの嘘つき。
たったひとつの拠り所だったキイでさえ、死神は命を奪おうと今でも鎌をもたげているじゃないか。
だから俺は自分から人を愛し、慈しんではいけないんだ…。
「あ…ああ…あ…」
アムイの喉が引きつった。
どうしようもない、止められない激しい感情。
それが今、彼の表面にまさに出てこようとしていた。
奥深く。
封印していた最後の闇の扉が、アムイの感情の嵐で解かれようとしていた。
もちろん繋がっているキイにも、そのアムイの負の感情がダイレクトに伝わってくる。
「く…ア、アムイ…」
そのあまりにもの苦しさに、キイは己の胸を手で押さえた。
それは罪悪感。そして未曾有の恐怖。
いけない…!このままではいけない!!
だが、アムイの苦しみに同調してしまうキイは、ただ、ただ彼の苦悶を受けるしかなかった。
どうにかしたくても、まるで呪縛のように心も身体も動かない。
どうにも耐えられなくてキイは叫んだ。
「じいちゃん!!」
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昂老人また、翻弄されているアムイの心の中に、何とか潜り込もうと必死であった。
以前、アムイの闇の箱を開けた時と打って変わって、アムイの心の中は荒れ狂っていた。
あの時はまだアムイに己と向かい合うという覚悟があった。
だが、今は手がつけられないほど凄まじい状態で、なかなか中まで入り込めない。
「アムイ!落ち着け!!落ち着くんだ!!!」
昂老人の叫びも、アムイには届かない。
「じいちゃん!俺も何とか協力する!!だからアムイの心を助けてくれ!!」
遠くでキイが叫んだ。
昂は頷くと、動けないでいるキイを介してアムイと繋がり、何とか己の意識をアムイの中に入り込ませた。
だが想像を絶する彼の心象風景の惨さに昂は愕然とした。もちろん昂だけでない、キイもまた同じものを見て震え慄く。
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赤い雨が暴風と共に激しく荒れ狂い、心の森をlこれでもかと痛めつけるように降り注いでいた。
狂ったように、泣き叫ぶように、森は騒然としていた。
昂とキイの二人はアムイの心の嵐を受けながら、ある場所に違和感を感じ、意識をその場所に向かわせた。
闇に溶け込む森の最奥に、ぞっとするような真っ黒な鉄の扉がそこにはそびえ立っていた。
(ここか…?)
あの子供だったアムイが持っていた闇の箱と同じ波動がする。
いや、それ以上に禍々しい波動がそこから湧き上がってくるようだ。
その扉はアムイの心の嵐のせいでガタガタと揺れ、半分開き始めていた。
二人の意識は気を引き締め、その扉の中でうごめくものを確かめようと目を凝らしたが、よくわからない。
(これか…?これがアムイの元凶か…?)
しばらく躊躇していた昂老人は意を決すると、扉を開けるために手をかけ、思い切り引いた。
そこには闇がうごめいていた。
真っ暗で、何も見えない。だが…。
微かだが、何やら音がする。…音?いや、あれは…人の…声…?
耳を済まして二人は仰天した。
子供の…泣き叫ぶ声が聞こえる。…あれは小さな子供の泣き声だ。
それも、ただ、悲しくて泣いているのではない。
まるで虐待を受け、助けを求める、今にも死にそうな子供の悲鳴のよう…。
耳を覆いたくなるような心をえぐるような叫び。
《いや!やめて!もう許して!!》
悲痛な子供の…聞き覚えあるその声…!
《怖い!怖いよう!!やだ!やだぁぁぁ》
昂老人は確信した。
これは幼い頃のアムイだ。
あの時、闇の箱を抱えていた7歳のアムイと似ているが、また別の…!
闇の箱を渡してくれたアムイ少年は安心して消えた筈だった。
幼い頃の傷ついた心を、大人になった自分自身に癒され、統合されたと思っていた。
…だが、これで腑に落ちた。
本当のアムイのトラウマ(傷ついた幼少の自分)はこの暗黒の扉に押し隠されていたのだ。
だから闇の箱を解放しただけでは、真の解放にならなかった。
だから涙も枯れたままだったのだ。
それほど、彼の心の傷は深く、深過ぎたゆえになかなか表面に出にくかった。
罵詈雑言。
荒れ狂う言葉の刃(やいば)で、今にでも息絶えそうな…これは18年前、あの日に崩壊した7歳のアムイ。
キイの目に涙が浮かび、身体が震えた。
その罵声は、あらゆる人間のアムイへの罵り、嘲り、否定、嫌悪…。
いや、違う。
確かにその声も聞こえるが、7歳のアムイを最も痛めつけ、殺そうとしているのは…。
《俺は生まれてはいけなかった》
《俺は罪の子》
《俺がいるから大事な人が死んだ》
《……皆、俺といると不幸になる》
《俺と関わったばかりに…死んでしまった…》
「アムイ!」
キイは遠くから叫んだ。
「いけない、自分を責めてはいけない!!」
ああ、俺のアムイ。お前はわかっているのか。
子供のアムイを今にでも殺そうとしているのは、自分の心を消そうとしているのは、他でもない、自分自身だということを。
罪悪感。虚無感。恐怖感。
その自虐が、お前自身を殺すんだぞ!!
《…兄貴、優しい人だから、オレが死んだら自分のせいだと責めるかな…》
「サク…」
《もしそうだったら、お願いです…。
そう思うなって。絶対にそう思ってはいけないと…》
サクヤの最後の言葉が、キイの脳裏にこだました。
自分の最期にそう伝えてくれと言い残したのは、この事を危惧していたからではないのだろうか。
…いや、サクヤがそこまで見抜いていたとも思えない。ただ無意識のうちにアムイの抱えるものを正確に感じていただけかもしれない。
そうだとしても、今、サクヤが危惧した状態にアムイが追い込まれているのは事実だ。
自分を卑下し、貶め、責めるのは…幼い純真無垢な子供の自分を虐待すると同じ。
その子の悲痛な叫びが、お前には聞こえないのか。
駄目だ、いけない、今度こそ本当にアムイの心が死んでしまう。
あの時はまだ本人も幼くて、ただ防衛本能から己を閉じるだけで済んだ。
だが、今度のは。
守るべき大人の自分が自分を否定したら、もう、幼い自分は絶望と共に死ぬしかないではないか!!
「じいちゃん!助けて!!」
キイは再び、昂老人に助けを求めた。
今、一番傷ついたアムイの心の中で、その近くにいる人間に。
「その子を助けてくれ!頼む!!このままではアムイの心が死んじまう。
今度こそ本当に死んじまう!!」
最後は泣き声だった。
昂老人はキイの叫びに動かされたごとく、無理やり闇の扉に押し入った。
数々の激しい虐待の刃(やいば)から身を守りながら、やっとの思いで瀕死のその子を外に救い出す。
幼いアムイは息も絶え絶えで昂老人の腕の中で丸くなり、徐々に小さくなっていった。
昂にはもうそれしかできなかった。
死にかけた幼いアムイを救うため、傷を最小限に抑えようと術を施したのだ。
幼いアムイはどんどん彼の手で小さくなり、最終的には掌に納まるほどの小さな光の玉と化した。
「キイよ!受け取れ!お前にこの子を託すぞ!!」
アムイの意識から飛び出した昂の意識は、繋がっているキイの意識にその子を放った。
「ああ、アムイ!!」
キイは手を伸ばし、愛する人間の化身である光の玉を、両手で大事そうに受け止め、己の心に仕舞った。
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ポタ…。
アムイを押さえつけていたシータは、自分の頬に落ちた冷たいものを感じ、驚いて上を向いた。
ポタリ…。ポタ…。
「アムイ、アンタ…」
振り仰いでアムイの顔を見たシータは、呟いた後そのまま絶句した。
見上げたアムイの両の目から、きらきらと光る、大粒の雫が零れていたのだ。
「アムイ…」
周囲で見守る皆も、息を呑んでアムイの様子を凝視していた。
まるで堰を切った川の水のように。
閉じた水門を解放し、放流し、流れを作るかのように。
それはアムイにとって18年も封印していた解放の涙。
そして人々が初めて見る、【暁の明星】の涙でもあった。
幼い自分を奪われたと同時に、アムイの闇が解放されつつあった。
「あああああ…」
「アムイ!」
涙を流しながらアムイは宙を睨み、喉から言葉にならない呻きを発した。
「うあああぁぁぁ…」
そうだ。
俺は怖かったのだ。
大切な人間を目の前で立て続けに奪われて。
自分が心から愛し、心を預けられる人間を…失う事がどれほど恐ろしいか。
耐えられなかったのだ。
自分が命と同様に大事にしている人間を失う事が。
他人から受けた虐待よりも、俺にはこの事の方が恐怖だったのだ。
だから俺は自分自身を閉ざした。
だから俺は自分自身を戒めた。
俺がここにいる限り、天に帰らないと誓ってくれたキイ以外の人間を、受け入れることを拒否したのだ。
そうすれば、もう、このような恐ろしい思いはしなくて済む…。
そうか…。
そうだったんだ…。
今、気が付いた…。
アムイはやっと己の闇と向かい合い、その本質を見ることができたのだった。
自分自身を傷つけ、他方から植えつけられた罪悪感から自分を貶め、父に対する後悔で己に罰を与え…。
ずっとずっと自分を責めて。
神に疎まれ、嫌われていると信じ、自分のせいだと、自分の存在を拒否して。
なのに何故、神は天は自分を生かし、この地に縛り付けているのか。
それはキイがいるから。キイを守るためと…そして。
こうして自分だけ生きているのは罪を償わなければならないだからだ。
取り残され、罰せられ、生きている事自体が贖罪だからだ…。
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ああ…。
キイは今のアムイの気持ちが、手に取るようにわかっていた。
わかり過ぎるほど理解していた。
それは昔、自分自身も落ちた地獄だからだ。
己の存在の意味。
キイにとって、自分の生まれが生まれだけに、この地に降りてからずっと纏わり付いていた事だった。
何故、天は己を生かす?
何故、天は己をこの地に降ろしたのだ…。
それがアムイの存在に気づいてから、アムイと共に生きるのが己の生きている意味と信じ、辛くても、苦しくても、怒りに震えても、自分は耐えてきたのだ。
それが、本意でないとしても一国を滅ぼしてしまい、アムイが自分以外の人間に心を閉ざし、長い間さすらう事になる生き地獄に堕ちて、キイはずっと自分がこの世に生まれてきた意義を模索していた。
(アムイが自分を罪の子と貶め苦しむのなら、この俺こそ一体何であろう。
俺こそ父が罪を背負う事になった元凶ではないか)
背徳の王子として、母の苦しみから生まれたこの自分こそ、神に疎まれ、抹殺されるに値する存在ではないのか。
しかも実の弟を愛し、その罪悪感に苦しんでいた時期は、神はあまりにも自分を嫌っているので、故意に天に戻さないのでは、とまで思い込んでいたほどだ。
その生き地獄から這い上がるあの時まで、キイは自分自身を呪っていたのだ。
特に制御不可能なほど、巨大な神気を身に宿して生まれてきた自分を。
長い、長い間。
二人は己自身の存在意義を、ずっとずっと葛藤し続けてきたのだ。
川の流れである流星のキイは、先に天と通じ、根本の闇からはすでに抜け出せていた。
そしてやっと、眠れる海である片割れのアムイが、闇と対峙する時が来たのだ。
アムイの頬を伝う涙。それは許しの涙ではなく、気付きの涙である。
その事にキイは気付いていた。
闇は露呈し、それに向き合い始めたばかりで、まだまだアムイは自分を責め続けている。
闇に呑まれそうになっている。
無意識のうちにそのはけ口となっていた、純真無垢な幼い自分が分離したのにも拍車をかけ、アムイを翻弄する闇が噴出した。
その証拠にアムイの瞳は益々絶望にどす黒く煙(けぶり)、表情は厳しく強張っていた。
ぽろぽろと溢れ出す涙には、絶望と、諦めの色が濃く出ている。
「アムイ…、聞いてくれ、アムイ…」
キイは上ずった声で呟いた。
でも、今のアムイにはキイの声は届かない。
喉を引きつらせ、息は乱れ、今にでも壊れてしまいそうだ。
シータもアムイの様子に不安を隠せず、両腕を掴む手に力を込めて揺さぶった。
「しっかりして、アムイ!キイの言葉を聞くのよ!お願い、そんなに自分を追い込まないで…」
「聞く必要なんてないさ、あんな奴の言葉なんか」
突然シータの背後で、面白がったような声が響いた。
「ヘヴン…」
シータは苦々しく呟いた。
ヘヴン=リースが楽しそうな面持ちで、いつの間にか二人の近くに立っていた。
「おいシータ、お前も早くアムイを離しな。…こいつは俺のもんだから」
シータの顔が険しくなった。どうしようもない嫌悪感が湧き起こってくる。
「まだそんな事言っているの?アンタなんかにアムイを渡すもんですか!」
「力づくでも?」
「力づくでもよ!!」
そう言ってシータはヘヴンに振り向くと、アムイを庇うように立ち、剣を抜いた。
それを合図に、少し離れた場所で待機していたりシュオンも剣を構えた。
「ははは!お姫様を守る騎士っていうやつか?…その肝心のお姫様は今にでもぶっ壊れそうだけどな」
ヘヴンはそう言って、舐めるようにアムイを眺めた。
まったく、なんてぞくぞくさせるんだ…、こいつは。
追い詰められ、今にでも精神が崩壊しそうな危うい風情が、なんとも艶っぽくヘヴンの目に映っていた。
そして初めて見るアムイの涙にも、ヘヴンは今までになく興奮していた。
「でもよぉアムイ、よかったな。お前の代わりにあの男が死んでくれて」
ヘヴンのからかうようなその言葉に、アムイはピクリと反応した。
「俺が始末する手間が省けたっつうか。あいつも自分の身の程をちゃんと理解してたっつうか。
俺は心配してたんだぜ!いつお前がやつに穢されるかヒヤヒヤでさ」
アムイの目に冷ややかで青白い炎が灯った。
「あーあ、勝手に死んでくれてせいせいした。本当によかったぜ」
ちりちりと、アムイの全身から何かが立ち上った。
それはアムイの持つ、封印されている“金環の気”のようでもあった。彼の“何か”が、封印を外しかけているのかもしれない。
だがそれは他の者にはわからないほどの変化であった。
いや、キイ以外には…。
「よくもそんな事を!」
ヘヴンの心無い暴言に頭にきたシータは、剣を振り上げようとし、その手を止められて驚いた。
「ア、アムイ?」
「シータ、こいつは俺が相手をする」
有無を言わせないアムイの冷たい声に、サクヤの死で混乱しているとばかり思っていた皆は、信じられない思いで彼を見た。
どう見ても先ほどまで取り乱していた人間と同じには見えない。
すでにとめどなく流れていた涙は止まり、平常に戻ったかのようなアムイの無表情な顔。
正気に戻ったのかと、誰もが思った。
ただ、キイにだけはわかっていた。
……今のアムイが一番危険な状態だということを。
「なんだ、元に戻っちまったのかよ。つまんねえな!」
ヘヴンは自分の懐からナイフを取り出した。
アムイは無言でシータの剣を奪い、ふらりと前に進んだ。
シータも皆も、アムイの只ならぬ気迫に気負わされて、その場に固まり、息を呑んで二人を見つめるばかりだ。
「だが面白いもの見せてもらったよ。なぁ、アムイ?」
ヘヴンはアムイの変化に子供のようにわくわくしていた。
今度こそ、こいつを俺の手でぶっ壊してみせる!!
あの時に見せた、あの泣き顔を、もう一度自分で再現したい…。そして永遠に自分のものにするのだ。
ヘヴンは舌なめずりをして、まだ剣も構えていないアムイに向かって行った。
「お前は俺のもんだよ!アムイ!!」
アムイの目が、かっと見開いた。
ヘヴンの攻撃寸前で、アムイは剣でそれを受け止めた。
それを合図に、二人は激しい戦いに突入していった。
その恐ろしいほどの激しさに、誰もが二人に割って入れない。
ヘヴンも強いが、それに立ち向かうアムイも凄かった。
今だかつて、【暁の明星】の、このような鬼気迫る戦いを見たことがあったであろうか。
互いに肉を斬り合い、飛散する赤い血。
獰猛な獣同士の戦いを見ているようで、周囲の人間はあまりにもの恐ろしさで動けないでいた。
ここにきて、皆はアムイが尋常ではない、という事に気が付いた。
まるで彼に悪鬼が取り憑いているかのようであったからだ。
アムイはすでに怒りに支配され、死しても辞さない覚悟だったのだ。
..............................................................................................................................................................
(アムイ…!ああ、俺のアムイ…!!)
キイは豹変した愛する片割れの魂(たま)を想い、成す術もなく涙を流した。
怒り、憎しみ、自虐、後悔、…全ての負の感情に支配されていて、もう自分の手には負えない…。
今はもう、ここまで来たらアムイ自身を信じるしかなかった。
天と地に祈り、相方の魂の行方を見守るしかなかった。
アムイの中で、初めて味わう憎悪の波動が、目の前の男に注がれている。
無数に傷つけられ、皮膚が裂けて血にまみれても、アムイには関係ない。
それどころか、この血がすべて無くなってしまえばいいとさえ思う。
この、呪われた罪人の血、すべて。
だが、この目の前の男だけは絶対に許せない。
お前が俺の憎悪を引き出した。
俺の大事な人間を、貶め、軽く扱った罪は重い。
俺の抱える罪と同じく重いのだ。…だから…。だから…。
ザシュッ!!!
ヘヴンの刃(やいば)がアムイの頚部の付け根から右肩に向けて綺麗に入った。
真っ赤な鮮血が飛び散り、ヘヴンの頬を染めた。
その衝撃にアムイはよろめき、その隙を狙ってヘヴンががっしりと背中から羽交い絞めにする。
「アムイ!!」
「近寄るな!!」
深手を負わされ、捕らえられたアムイを助けようと動いた仲間に、アムイは怒鳴った。
「でもアムイ…」
シータの言葉を、アムイは荒い息をしながらきっぱりと遮った。
「いいから誰も来るな!!」
かなり出血が酷いのか、アムイの顔はどんどんと血の気が引いていく。
今にでも気を失いそうであった。
そのアムイをやっと自分の腕に収めたヘヴンは、反対に上機嫌であった。
彼もまた、アムイにかなり傷つけられて、息が上がってはいたが。
「嬉しいぜ、アムイ。そんなに俺と二人でいたいか」
自分でつけた傷に、ヘヴンは止血するかのように、ぎゅっと片方の手を押し当てた。
べっとりとアムイの血で自分の手が染まっていくのを、ヘヴンは恍惚と眺めていた。
抵抗しない事をいいことに、ヘヴンはねっとりとした舌をアムイの耳に押し付けながら囁いた。
「壊れちまえよ、アムイ。壊れて俺に全部委ねちまえ」
禍々しいほどの劣情。
どうして自分はこうもこの人間が欲しいのか。
それは本能の成せるワザかもしれない。
こいつが男であろうが女であろうがまったく関係ない。性別を超えたところで自分の本能を刺激する。
欲しい、こいつが欲しい。
飽くなき欲求…。
まるでそれはこの世で生きていくために必要不可欠な三大欲と同じに等しい、いや、それ以上の欲求だ。
いつもなら、アムイに危機が訪れれば、正気でいられなくなる筈のキイがやけに静かだった。
ヘヴンに絡まれているアムイの様子を、じっと冷静に見つめていた。
二人を長く知っているシータには、それが異常な光景として目に映っていたほどだ。
キイはヘヴンの欲求を、アムイから介してまざまざと感じ取っていた。
………人間という生き物は、厄介なものだな。
キイは不思議と、その光景を客観的に分析していた。
野生の本能で、アムイの奥に眠っている花弁を嗅ぎ取る人間は少なからず存在するが、誰も彼も負の力に引きずられやがって…。
確かにアムイの花弁に気が付く人間ほど、欲求が強い人間が多い。
本能のままに、自制なく、己の欲望を求めるタイプの人間たちだ。
そういう人間ほど、アムイを躍起になって手に入れたがる。
アムイの蜜に気付いたものは、必ずその甘い汁を永遠に自分だけ独り占めしたがる。
野生動物に例えるのもおこがましい人間たち。
まだ自然の摂理に従い、自然の本能のままに生きる彼らの方が、まだいい。
それがどんな獰猛な獣であろうが、彼らは決してアムイを独り占めしようとは思わない。
彼らはアムイの恩恵を素直に受け入れ、敬服し、従順であるだけだ。
あの神の使いビャクオウの原型となった、大陸一獰猛である白虎ビャクでさえも、アムイの前では牙を収めるのに。
人間は複雑怪奇な生き物と、よく言ったものだ。
自然と逆らい魔が入りやすいのは、それだけ人の方が闇に近いのかも知れぬ。
キイはそう思いながら、目の前の二人の行く末を見届ける覚悟を決めた。
それが、どんな結果となったとしても。
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確かにその厄介な人間であるヘヴンは、今まさにアムイを強引に手に入れようとしていた。
彼は喜びのあまり喉を鳴らし、アムイの耳たぶに軽く歯を立てた。
「…もう逃がさねぇ…。
アムイ、永久に俺のものになっちまえよ。そうすりゃもっといい思いをさせてやる。
──お前が望むなら、何度だって天国にイカせてやるぜ」
「…天国…?」
今まで黙って成すがままだったアムイが口を開いた。
「ああ、とびきりの楽園だ、アムイ」
そう上機嫌に言い切ったヘヴンは、アムイの肩が上下に突然揺らいだのに眉根を寄せた。
「…ふっ…。く、くくっ…」
「おい…」
アムイは込み上げてくる笑いに、とうとう我慢できないというように頭を大きく仰け反らした。
「はは、あはははは!!」
全身を振るわせ、アムイは笑った。おかしくて、どうしようもないくらいだ。
とうとういかれちまったのか、とヘヴンが思ったその時、アムイはピタリと笑いを止めた。
「天国だって…?笑わせるな!」
「何?」
態度の急変したアムイに、ヘヴンのみならず、周りの人間も驚いた。
アムイは嘲りながら、ヘヴンに吐き捨てるように言った。
「お前のような奴が、天国になんてイケるわけないだろうよ」
次の瞬間、口の端を上げてニヤリとしたアムイの顔は、まるでこの世のものとは思えないほど、禍々しくも妖艶であった。
魔界に堕とされし天人が、魔界の王となってこの世に姿を現したとしたら、このように笑うのではないだろうか。
「おい、どういう意味だ」
いつもは鈍いヘヴンでも、アムイの波動ががらりと変化したのに気が付いた。
アムイはゆっくりとヘヴンに振り向いた。
ヘヴンはその顔を見て初めて背筋が凍った。
もうすでに、アムイの表情は生きた人間としての温もりが消えていた。
そこに存在しているのは、一体誰だ?
人の気配を感じさせない、この存在は…。
「お前…」
人でないものがゆっくりと自分に微笑んだ。どっとヘヴンの毛穴から汗が噴出した。
まるで魔物に狙われた生贄のように。
その魔物が楽しそうにヘヴンにこう囁いたのだ。
「……お前がイクのは…地獄だよ」
「───!!!」
ヘヴンは息を呑んだ。
「なあ、ヘヴン。お前は俺が欲しいんだろう?
だったら一緒にいこうぜ。
お前は俺と、共に行くんだ。
魑魅魍魎の…─お前の仲間がたくさん待っている──…
──奈落の底へ─」
硬直しているヘヴンのわき腹を、アムイは己の剣で深く刺し貫いた。
ヘヴンの返り血を浴びながら、アムイは一気に剣を抜くと、思い切りヘヴンを上から斬りつけた。
悲鳴を上げるのも許さないアムイのその剣は、本当に一瞬の出来事だった。
皆、今何が起こったのかを把握するのも遅れたくらいだ。
大量の血の海で横たわるヘヴンに、アムイは折り重なるようにして自らも倒れこんだ。
「アムイ!!」
その場が惨状と化して、初めて皆は我に返った。
シータ達は弾かれるようにその場に駆けつけ、血にまみれる事も構わず、アムイを抱き起こす。
「アムイ!!!」
だが、アムイはピクリとも動かない。
遠くでその様子を眺めていたキイは悟った。
偽りの天国(ヘヴン)を斬り捨て、アムイはその魂(たま)と共に、深い深い奈落の底に堕ちたのだという事を───。
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