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2011年4月17日 (日)

暁の明星 宵の流星 #142

その瞬間、アムイは‘しまった’と思った。
ヘヴンの襲撃からキイを守るため、庇うように躍り出たアムイは、剣で相手の刃(やいば)を払いのけたまではよかった。
だが、無我夢中で突進してきていたヘヴンの刃の勢いはそれだけでは止まらなかったのだ。
「うあっ!!」
阻止した筈の刃(やいば)はその反動で勢いよく彼の手を離れ、思わぬ方向に跳ね返り、それがアムイの太股を直撃した。
「アムイ!」
「だ、大丈夫だ」
キイの叫びに咄嗟に答えたアムイだが、苦痛に顔を歪め、その場に膝を付いた。
切り裂かれた皮膚からはおびただしい血が流れている。
アムイは素早く自分の腰紐を解くと止血のために傷口を覆い隠すようにきつく縛った。
手もとの武器を無くしたヘヴンが、その場に呆然と立ち尽くしている隙に、リシュオンを振り切ったミカエルが叫びながら飛び込んできた。
「でかしたぞ、ヘヴン!」
「!」
体勢を整うのが遅れたアムイは、呆気なくミカエルに捕らえられてしまった。

反射的にアムイを助けに動こうとしたキイであったが、突然、自分の腕の中にいるサクヤの異常に気が付いた。
「…サク?」
明らかに様子がおかしい。
サクヤは喉をひきつらせて脂汗を掻き、小刻みに身体を震わせながら、苦痛を我慢しているかのようだった。
「い、いかん!」
傍にいた珍学士(ちんがくし)が青くなって叫んだ。
その次の瞬間、サクヤは「こふっ」と小さく口から血を吐いた。
「サク!」
彼の腰を支えていたキイの手に、何やら生暖かいものが触れた。
見ると、瘤を覆い隠すようにきつく縛られていた緑色の布から、赤い血がどんどんと滲み出てきている。
「いかん!虫が皮膚を…」
珍学士がそう呟いた時だった。
「ははははっ!!
さすが私の虫!暁の血に混じった“金環の気”を嗅ぎ取って興奮したな!
さあ、ミカエル!今が好機だぞ。早く暁の“気”の封印を解け!!」
遠方でその様子を眺めていたティアンが大声で笑うとそう叫んだ。
「何っ!?」
その言葉にキイは激高した。
「アムイ!逃げろ!」
サクヤの血を止めようとしながら、キイは叫んだ。
「くそ!」
言われなくてもわかってる!
アムイは心の中でそう叫びながら、ミカエルの腕から逃れようともがいた。
「大人しくしろ!暁!」
そう言われてもアムイだって必死だ。
先ほどのヘヴンの攻撃で、負傷したと同時に自分の剣もどこかにすっ飛んでしまっていた。
足と手を使って、ミカエルから逃れようとするが、ミカエルだって必死なのだ。
後ろから抱きしめるようにアムイの身体を羽交い絞めし、もう片方の手で彼の額に手を伸ばそうと懸命だ。
そう、封印の玉がある場所を解除するために…。

アムイの血が呼び水となって、興奮した穢れ虫は、サクヤの内臓を鋭い牙で裂き、皮膚を食い破って外に出ようとしていた。
サクやの皮膚を裂いてできた小さなその穴は、ちくちくと虫が懸命に広げようとしていた。
その度にサクヤの全身に激痛が伴う。
「くそぉ!出るな!出てくるんじゃねぇ!!」
キイも必死になって広がりそうな穴を手で押さえて、己の癒しの力を送り込む。
その浄化作用によって、ある程度虫の動きが緩慢になった。が、出てこようとしている虫は、キイも想像する以上に手強かった。
しかも羽化して間もない穢れ虫は飢餓状態で、獰猛だ。
月の力も借りて、虫はもう抑えきれないところまできていた。
……それは、周りの者よりも直接虫を抱えているサクヤが一番わかっていた。
虫の気持ちが朦朧としているサクヤの心を刺激するのだ。

ハヤク、ハヤク…!!
ゴチソウ、ゴチソウ…!!

あまりにもの痛みに、サクヤの意識がはっきりした。
「キイ…さん…」
「サク!気が付いたのか!
大丈夫だ。俺が押さえているからな!」
「サクヤ君、もう一度この布を巻きつけるんだ」
珍学士がそう言ってサクヤの身体に手をかけようとした。
が、していた手袋が血に触れた途端、赤黒く変色していく。
「さわっちゃだめだ、先生…。ど、毒素にやられる…」
荒い息でそう呟くと、サクヤは珍の手を腕で押し退けた。
確かに、すでに毒素に犯されたサクヤの血は、辺りを汚染し始めていた。それをキイが己の癒しの力で浄化していた。
それでも汚染は留まらない。
サクヤの血が付いた場所は赤黒く変色し、草木は毒素で枯れ始めた。
そのために周囲にいた兵士は、その変化に恐れをなして、じりじりと後退し始めた。
「早くオレから離れて…!」
サクヤは全身の力を振り絞り、身体を起こした。
「サク、無理するな」
サクヤはすがるようにキイの腕を掴み、頭を起こして辺りを見回した。
「兄貴…!」
サクヤの目に入ったのは、今にも封印を解かれそうになって、抵抗しているアムイの姿だった。
「キイさん!オレよりも兄貴を…!」
「だけど、お前が!」
キイはどうしようかと正直迷った。
アムイの封印が解かれてしまったら、完全にやばい。それは誰もがわかっている事だ。

先ほどまで呆然としていたヘヴンが我に返った。
アムイの血を見るのが好きなヘヴンは、思わぬ所で彼の血を見たことから、微かに言い知れぬ興奮を覚えていたのだ。
陶酔していたとも言える。
だからしばし思考が停止していたヘヴンだったが、そのアムイがミカエルに抱きかかえられて突如目が覚めた。
「ミカエル!!俺のアムイに抱きつくんじゃねぇ!!」
憤怒したヘヴンは、まっすぐに二人が揉めている所に突っ込んできた。
「おい、ヘヴン!何をする!?」
アムイからミカエルを引き剥がそうと、ヘヴンは二人の間に割って入った。
「だからアムイは俺のものだ!手を離せよ、この野郎!!」
「馬鹿か、お前は!!俺は、味方だぞ、味方!」
「味方も糞もねぇ!アムイに近づく奴は誰だろうと許せねぇんだよ!!」

思わぬところで、状況が変わった。
それをきっかけにして、リシュオンがアムイを助けるためにヘヴンに続き、一方のセツカは何とかしてキイの傍に駆けつけた。
他の所で戦っていたレツやガラム、昂老人は、アムイ達の騒動を知り、敵を振り払いながら助けに急ぐ。
この状況に、のんびりと構えていたティアンも焦りを感じ始めた。
「ええい!お前達、何をしておる!!敵を蹴散らせ!宵を確保しろ!!」
周辺の兵達に激を飛ばしながら、ティアンはミカエルがいる方向に走った。
虫の毒素に気負わされた兵士たちの不甲斐なさに腹を立てたティアンは、やっとの事で腰を上げたのだ。
「ミカエル!何をやっているんだ!あと少し…後もう少しで手に入れられるものを!
何をもたもたしているのだっ!!」
「し、しかし宰相…!!」
アムイの抵抗の上に、ヘヴンとリシュオンの攻撃を受け、気術の使えないミカエルにはもうどうすることもできない状態であった。
「早くしないと虫が出てくるぞ!おい、第二隊!こうなったら虫が出てくる前に男の腹を掻っ捌け!毒素を恐れてはならん!
もうこうなったら腹から出すが早いか、暁の封印解除が先か、両方執行する!!」
その言葉で、近くにいた第二隊がやっと動いた。
キイは迫りくる敵から、サクヤを守ろうと剣を振り回し、そのキイを守ろうとセツカも敵に向かっていく。
だが、意外に兵士の数が切れ目なく、キイとセツカは苦戦した。
特にサクヤを守りながらだと、どうしても手が足りない。もっと味方が欲しい状況であった。
「先生、サクを頼む…!」
襲ってくる敵を倒しながらキイは叫んだ。
「じいちゃん!じいちゃん!早く助けに来てくれっ!!」
天下の【宵の流星】も、今回ばかりは助けを求めた。とにかく、一刻を争うのだ。

「ええい、暁を私に貸せ!私が封印を解いてやる!!」
「宰相!!」
ミカエルの傍に辿り着いたティアンが、身を躍らせながらそう叫んだ。
「させるか!くそぉ、離しやがれっ!!」
アムイは叫んで抵抗した。が、ミカエルはアムイをがっちりと拘束しながらティアンに勢いよく差し出した。
そのミカエルをヘヴンが素手で殴りかかろうとするのを、近場にいた南の兵士が身を投げ出して阻止した。
「この野郎!邪魔すんじゃない!!」
吼えるヘヴンに臆することなく、兵士は彼の腰にすがり付いて離さない。
懸命に足蹴りを食らわしているヘブンに、駆けつけた他の兵士達も彼の動きを封じようと大勢彼に群がった。
それはアムイを助けようとするリシュオンも例外でなく、あっという間に行く手を敵によって遮られてしまった。
一方、額に手を伸ばそうとするティアンに抵抗を試みたアムイであったが、負傷した太股をミカエルに執拗に足で蹴り上げられた。
強烈な痛みがアムイを襲い、抵抗する力を封じられる。
「アムイ!!」
皆の叫びにお構いなく、ティアンはニヤリとすると、ゆっくりとアムイの額の玉に手をかざし始めた。
「今こそ、お前の“金環の気”を解放してやるぞ。死ぬまで虫の餌食となるがいい」


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サクヤの目には、今にでもアムイの“気”を開放せんとするティアンの姿が、はっきりと映っていた。

その一方で、身の内の虫が興奮しているのを、まるで人事のようにサクヤは感じていた。


タベタイ
タベタイ


オイシソウ
オイシソウナニオイガスル


ドコダ?
ドコニエモノガイル?

何故だろう…。
虫の感情そのままが、直接サクヤの心を刺激していたとしても。
虫が興奮して暴れる度に、その牙が自分の肉を食いちぎる度に、不思議な事にどんどん冷静になっていく自分がいた。

静かだった。
外の騒ぎとは反対に、ざわついていた心が不思議と静かで、明瞭になっていく。

虫が興奮状態になればなるほど、間逆な方向へとサクヤの心は向かっていった。

今、自分が出来ること…。
今、自分がしなければならないこと…。

目に映るアムイとティアンの姿に、サクヤははっきりとしたひとつの答えを見出した気がしたのだ。
虫は甘く漂う高位の“気”を嗅ぎ取って、執拗にその場へ急ごうと、自分の皮膚を押し広げようとうごめいている。
虫の動きに同調するかのように、サクヤはおぼつかない足でゆっくりと立ち上がった。
まこと、今の彼のどこに動く力が残っていたのだろうか。
サクヤは虫が出てこようとする箇所を右手で覆うと、小さく呟いた。
「わかったよ…!そんなに腹が減っているのか」
「サ、サクヤ君!?」
いきなりふらりと立ち上がったサクヤに驚いた珍学士は、彼を引き留めようとした。
が、横からサクヤを襲おうとした敵兵に気づき、懸命にその兵を阻止しようと身体を張った。
「サクヤ君!」
邪魔された兵士が珍学士を斬りつけようとしたその時、負傷しながらも駆けつけたシータがぎりぎり間に合った。
「大丈夫?学士!」
シータは兵士をなぎ倒すと、彼の傍に近寄った。
「それよりも、サクヤ君が…」
「え?」


それはあっという間のでき事だった。

「サク!?」
周囲も何が起こったのか一瞬理解できなかった。
もう身体も動かないだろうと思われたサクヤが勢いよく走り出したのだ。
一直線に、ある場所を目指して。

(喰いたいか?喰いたいんだろ?)
サクヤは押さえた掌に虫の牙が触れるのを感じ、そう心の中で言った。
実はこの力は半分虫の力でもあった。
執拗に餌を求める虫の勢いがサクヤをある場所に連れて行く。
そう、そこは…。

「ふふ、そうだ、しっかり押さえていろミカエル」
アムイは額に熱を感じて身じろいだ。だが、それをがっちりとミカエルが押さえ込んでいる。
今まさにアムイの“金環の気”が解放されようとしていた。すればこの芳醇で大量な“金環”が放出され、虫はそこに喰らいつくのだ。
あと少し…。
ティアンが心の中でそう呟いた時だった。

「させるかぁ!!」
突然叫び声を上げて、サクヤが突進してきたのだ。
「お、お前!」
驚きのあまりティアンの手がアムイの額からずれ、同時に押さえていたミカエルの手が緩んだ。

(そんなに喰いたかったら、喰わしてやる!!)
サクヤは心の中で言い放った後、大声で叫んだ。
「だけどお前が喰うのはそっちじゃねぇ!!こいつだ!」

サクヤは思い切りティアンに体当たりすると、ミカエルとアムイよりもなるべく遠くに突き進んだ。
もちろん、ティアン宰相にがっちりと食らいついて。
「な、何をする!!」
胴体にしがみつくサクヤに脅威を覚えながら、ティアンは引き剥がそうともがいた。
「宰相!!」
ミカエルは拘束していたアムイを突き放し、急いでティアンの元に走った。
突き飛ばされたアムイはその場で転がった。
一体、今何が起きたのか…。痛みに支配されていたアムイには把握できていなかった。

衝撃で腹が大きく揺らいだ感覚に、サクヤは嘲った。
「これだけの高位の“気”を持っていたら、さぞかしこいつも満足だろうよ」
腹の虫が狂喜したのがわかった。
この近距離では、いくら“気”を封印していたとしても、この虫には全く効果がないとわかって、同様にサクヤも喜んだ。
ティアンは焦った。彼もまた、虫の限界が来ていることを察したのだ。
「宰相!!」
ところが好都合にもミカエルが自分を助けに割って入ってきた。
その隙にティアンはサクヤの手からするりと抜けると、何を思ったのか代わりにミカエルをサクヤに押し付けたのだ。
「なっ…!?何を宰…」

パァァァーーーーン!!!!

何かが弾ける音が周囲に広がったと同時に、ぐちゃ!と肉が弾ける音が不気味に響いた。

敵を蹴散らせながら、慌ててサクヤの後を追って来たキイの目に映ったのは、何とも悲惨な現状であった。
「サクッ!!!」
キイの叫びで、周りにいた者は、今何が起こったのか瞬時に理解し、絶句した。

弾けたのは、ミカエルの“気”を封印していた術が解けた音だった。
虫は微かに漂うミカエルの高位の“気”を嗅ぎ取って我慢できなくなり、そのままサクヤの腹から弾丸のように飛び出て来たのだ。その途端、封印は消し飛んだ。

「ぐわぁぁぁぁぁぁぁーーーーー!!!」

ミカエルの悲鳴が山中にこだました。
成虫は解放されたミカエルの“気”に誘われて彼にかぶりついた。
もちろん、彼の持つ“気の核”を貪るため。

とうとうサクヤの肉を食い破って、姿を現したその虫は、世にも恐ろしき、皆の想像を超える異形の姿をしていた。
確かによく見れば普通の穢れ虫に似ている。蜂にも似た姿、羽の形。先端が尖った鉤(かぎ)状の六本の足。
だが人の赤子同然の大きさと、顔は虫の様でも剥き出した二本の牙が鋭く肉を食い漁っている姿は、まるで羽の生えた悪魔が取り付いているように見えた。異常に長い触角の先端は針のように尖り、それが獲物の“気”を感知するために、ミカエルの身体をまさぐっている。
人を食い破って出てきたその姿は、真っ赤な血で濡れそぼり、不気味に赤黒くぬらぬらと光っていた。
「何故だ宰相っ!何故この私を!
あ…ああ…あ…誰か!!誰か助けてくれっ…!!」
虫を必死に引き剥がそうとしながら、近くにいるであろう仲間に助けを求めるミカエルの絶叫が月夜を引き裂く。
「宰相ぉぉ…!!」
彼のいる方向にミカエルは手を伸ばした。
(まずい…!!)
キイは飛散したサクヤの血から、毒素が舞い上がってくるのをこの目で捉えた。
四方八方飛び散ったサクヤの血が、確実にその場を穢していく。
彼らの近くにいたティアンも被っていないわけがない。
が、
「宰相様!!」
騒ぎを聞きつけて、助手のチモンが護衛を伴い素早くやってきた。
「おお、早くしろ!チモン!」
毒素を被ったかと思われるティアンの平静な声に、キイはいぶかしんだ。
「宰相様!お言いつけの解毒剤です!早くこれを服用してください!!」
そう言ってチモンは小さな箱をティアンに投げて寄こした。

(解毒剤?解毒剤だと!?)
キイは耳を疑った。
そんなものを奴はすでに開発していたのか?だから余裕があったのか?

ティアンはすぐ様箱を開けて光る粒状の玉を飲み込むと、急いでチモンの元に駆けつけ叫んだ。
「このままではやられる!仕方ないが、毒素が充満する前にここを撤退する!!急げ!!」
「宰相殿!!助けてください!わ、私も…」
穢れ虫に襲われ、助けを求めているミカエルを、ティアンはちらりと憐れみの目で見た。
「悪いな、ミカエル。この薬は宵の“気”のサンプルで作ったものだから一つしかないんだ。
扱いが繊細なものでね。こうしてチモンが大事に守ってくれてなければ、私も助からなかった」
ティアンの話にミカエルは凍りついた。
「さ、宰相様、どうにかなりませんか?本当に少将をお見捨てになる気で…」
見兼ねた護衛の一人がティアンに問うた。
彼は気術をミカエルから教わっていたという縁もあり、人となりを知っているからこその発言でもあった。
が、ティアンはまったくといっていいほど、その言葉に耳を貸さなかった。
それどころか冷たい目でミカエルを見下ろすとこう言った。
「生贄となってくれて助かるよ、ミカエル。
よくやった。お前の今までの働き、感謝しておるぞ。
さぁ、チモン急げ!ミカエルに虫が喰らいついてうちに!」
「宰相!!」
まるで使えなくなった道具を簡単に捨てるかのようなティアンの態度に、ミカエルもチモン以外の他の者もその場で固まった。
そうこうしているうちに、ミカエルの皮膚は見る見るうちに毒素で土気色に変色し、どう見てももう助けようがない風貌と化していた。
このまま虫が彼の“気の核”を喰らい尽くすまでは、これ以上毒素は飛散しないだろう。が、それ以降はわからない。
ここまで追い詰めた宵の身柄を確保できなかったのは悔しいが、この状態であれば、他の人間も穢れるのは時間の問題。
もちろん、大事なキイ以外の人間だからこそ、だ。
「ここで穢れたくない者は、私に続け!急げ!!ここを撤退する!!」
ティアンは兵達に命令しながら、走って来るキイをちらりと見た。
穢れ虫が失敗したからには、ここは潔く撤退するしかない。
…次こそ用意を万端に整え、必ずや【宵の流星】をこの手にしてみせる。そう心で誓って。
そのためには早く例の研究を完璧にしなければ…。
苦しみもがくミカエルをさっさと残し、ティアンとそれにならった兵隊は、まるで潮が引くようにこの場を去った。
この一帯で残ったのは、味方と、そしてまだ戦っている少数の兵士達くらいである。
「ティアン!!」
キイは去って行くティアンに怒鳴りながら、己の剣に自分の癒しの力を封じ込めると、それを成虫めがけて振り下ろした。
「ぐぎゃあっ!!」
何ともおぞましい悲鳴を上げて、虫はミカエルから弾かれて転がった。
それをキイが止(とど)めとばかりに剣で地面ごと突き刺す。
虫はしばらくヒクヒクと全身をうごめかした後、縮み込むようにぴたりと動きを止めた。
完全に絶命したようだった。
思い切った行動は、もうこれ以上、虫の体液に含まれる毒素の拡散を防ぐためであった。
キイが己の剣に封じ込めた癒しの力が浄化となって、虫は青白く輝き、その場が白く浮き上がっている。
癒しの力を持っているキイだからこそできた荒業であった。
普通だったら、虫を斬ったと同時に、余計に毒素が撒き散らされる所である。

キイは毒素で身悶えるミカエルを放って、サクヤの元へと急いだ。
「サク!!」
血が飛散していた中央で、サクヤが血に染まって倒れていた。
キイはなりふり構わずサクヤを抱き起こし、息を確認する。まだ身体は温かい。
「サク!しっかりしろ!サク!!」
サクヤの脇腹に大きな穴が開いていた。それでも微かだが彼の息を確認する。
(まだ息がある!!)
「サク!」
サクヤの名を呼びながら、どうにか彼の傷口を塞ごうと、キイはありったけの力を掻き集めた。
それを右手に集中させ、血が溢れるその場所にあてがう。
浄化しながら懸命に傷を塞ごうとするが、なかなか血が止まらない。
「くそ、サク!!」
キイは涙を浮かべて声を震わせた。
「畜生!何で止まらない?何で塞がんないんだ!!」
止まったかと思うと、しばらくするとまた、じわっと血が滲み出て、力を送っているキイの手を染めた。
それだけサクヤの損傷は激しかった。
自分の血の気が引いていくのがわかる。今ほど自分の無力さを嘆いたことはなかった。
中途半端な自分の癒しの力。
簡単な傷は癒せても、損傷の激しいものは元に戻すことはできない。…死んだ人間を元に戻せないのと同様に。
「くそ!塞がれ!塞がってくれ!!」
キイは全身を震わせながら声を絞り出した。涙が出るのを懸命に抑える。
泣いたら、それは諦めたと同じだと思ったからだ。
(逝くな!逝ってはいけない!!)
すると、その心の声に反応したのか、必死に力を送るキイの手を、サクヤの震える手が押さえたのだ。
「サク!?」
「も…もう…やめて…」
「……」
「もう、いいから…やめてくださ…」
「サク?いや、それこそ駄目だ!大丈夫、きっと傷は塞がる。きっと助かる!」
いけない、と思いながら、キイの声は震えていた。

「サクヤ…君…」
戦いの波が引いて、駆けつけた珍学士や昂老人、シータは、遠巻きに二人を見守っている。
見るからにその場所は、人が近づけない状態であった。
いくらある程度、キイの癒しの力で毒素の飛散が止まったとしても、だ。飛散元の中心である彼らの周りは、まだ危険度が濃く、それが収まるまでは普通の人間は近寄れない。

キイの無念さはピークに達しようとしていた。
出血のため、サクヤの顔はどんどん青白くなり、身体も徐々に冷たくなっていく。
精一杯送り込んでいる力がまったく追いつかず、キイはもう、手の施しようのない所まで来てしまった事を悟った。
今にでも、消え入りそうな命を感じて、とうとうキイは涙を零してしまった。泣いてはならない、と決めていたのに。

「…すまない…」
キイの両目から涙が溢れる。いけない、と思いながらも、もう止められない。
「俺は無力だ…!身の内に神気を持っているくせに、役に立てられぬ愚か者だ。
サク、お前を助けると誓ったのに。すまない、本当にすまない。…無力な俺を罵ってくれ!」
キイはせめて少しでもサクヤが楽になるように、もう限界の近い癒しの力を彼に注ぎ込んだ。
もう、自分が彼にしてあげられることは、これしかなかった。
その力が少しは作用したのか、サクヤの息が楽になったようだった。
彼は震える手で、自分を支えてくれているキイの手を取った。
「……だめだよ。自分を責めないで…くだ…さい」
小さいが、はっきりした声でサクヤは言った。
「サク」
「責められるのはオレの方。…皆の言うことを守らず、勝手にし行動した…オレの…。
オレが自分で…選んだこと…だから」
最後の力を振り絞っているのか、彼が話しをする度に、少しは止まった血が再びキイの手を濡らす。
見るからに体力が消耗され、息が上がり、苦しそうだ。
「いい。もう喋るな、サク。もうわかったから…」
言いながら頭を振るキイに、サクヤはそれでも言葉を続けた。
どうしても、言わなくては…伝えなくてはならない事…。
「ごめん…みんな。あれだけオレのために…最善を尽くして…くれたの…に。特…に兄貴は…」
サクヤは焦点の合わない目を懸命にキイに向けた。
「…兄貴、優しい人だから、オレが死んだら自分のせいだと責めるかな…」
「サク…」
「もしそうだったら、お願いです…。
そう思うなって。絶対にそう思ってはいけないと…。責めるならオレを責めてくれ、と…」
「サク!」
「どう…か…伝え…て…」
話す息が上がってきた。掴まれた手の力が弱まる。
「わかった…、必ず伝える…!!サク?」
力尽きたのか、サクヤはゆっくりと目を閉じる。意識がどこかに落ちていくようだ。

どこに?


今この時。自分はどこに向かっているのだろう。


辺りは真っ暗で、その闇に己自身が吸い込まれていくようだ。
その端々で、光がちかちかと点滅している。
よく見ると、それは今まで自分が見てきた感じてきた…この地の世界。
夢なのか、現実なのか。
サクヤにはもう、関係なかった。
ただ、その意識の渦の中に、自分がいるのが全てだ。

急にサクヤの視界が開けた。
辺りは真っ白な光の世界。
そして自分の目に広がったのは…。

……小さくてひらひらと舞っている、幾千万ともつかない、白いもの。
その中で佇む一つの人影…。
ああ…あれは…。


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「…違うよ…」
「え?」
「………これ、雪じゃ…ないよ、…兄、貴…」
「サク?」
誰に言うでもない、途切れ途切れの言葉が、サクヤの口から微かに漏れた。
意識が混乱している。
「サク!!おい、サク!」
キイはサクヤの耳元で叫んだ。だが、反応はない。
「……さ、く…ら…」
「え…」
キイは呼ぶのを止めて、サクヤの口に耳を寄せ、何を言っているのか彼の言葉を聞き取ろうとした。
「これは…さくら…のはな…、あ、に…」
もうサクヤは夢と現実の区別がつかないようだった。
夢…?間際に見る夢。
…サクヤは何を見ているのだろうか…。


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《違うよこれ、雪じゃないよ、兄貴。桜の花びらじゃん》
《そうか?》
《兄貴、よく見てみなよ。うっすらと桃色掛かっているだろ?
それにちっとも冷たくないよ》

彼は空を仰ぎ、その白い花びらを自分の掌で受け止めた。

《ほら!目の前にたくさんの桜の木が》

指差す方向に、一面の桜の木。満開の桜の花。
それが風に乗って四方八方、幾千と散っていく。

綺麗だなぁ…。

その美しい風景に溶け込むように、目の前で立つ、この人が呟いた。
《本当だ…。なんだ、一緒に雪を見たかったのに…》

ああ、そうだね、兄貴。

なんてこの人は桜の花が似合うのだろう…。自分の生まれた国の象徴であるこの花が…。
あの時は不思議だったけど、今ならわかる。
花が似合うなんて、男に向かっていう言葉じゃないよな。
だから思っていても、サクヤは言葉にしなかった。
どちらかというと、誰が見ても見目麗しいキイを花に例えるのが普通だろう。
確かにそうだが、キイは桜というよりも、豪華絢爛な芍薬牡丹といった方がしっくりくる。

サクヤは思い出した。
初めて出会った時もこうやって桜が満開だったけ。
あちこちと旅をしてきて、中立国であるゲウラに着いた時は、懐かしさのあまり息を呑んだものだ。
セド王国から親睦の証と、中央国にある桜花楼(おうかろう)に植林された数多の桜は、何て見事だったことか。
その桜吹雪の中でサクヤはアムイの戦闘に遭遇し、彼の華麗な戦術に、衝撃と共に全て持っていかれたのだ。

《このオレを弟子に!》

あの時の迷惑そうな顔。
こんな綺麗な顔をしているのに、どうしていつもしかめっ面なんだよ。
面白い人だな…。

................................................................................................................................................


(笑って…いる?)
キイは耳を離して、サクヤの顔を見つめた。
血の気のうせた顔は、幸せそうに微笑んでいる。
キイの目から大粒の涙が零れ、それがサクヤの頬を濡らした。

死の間際で、幸せな夢でも見ているのだろうか。

....................................................................................................................................................


見事な桜吹雪の中、彼が自分に振り向いた。

《じゃあ、今度は一緒に雪を見に行こう》

…びっくりした…。
笑うとすごく優しい顔になるじゃん…。
何でもっと笑わないんだよ…。

《約束、な》
《約束…?》
《忘れちゃったのか?……俺との約束を…》

ああ…、そうだ…。そうだったね…。でももう…。

...........................................................................................................................................................


再びサクヤの口が微かに開いた。
「ごめ…ん、や…くそく…」
もう、本当に消え入りそうな小さな声。
「まもれな…く、て」
そう言い切った後、こふっと小さく吐血をし、サクヤは再び目を開けた。
「サク?」
だが、その目にはもう何も映ってはいない。
キイを掴んでいた手が滑り落ちた。
「サク!!」

命が自分の腕の中で消え入る瞬間に、キイは初めて立ち会った。

「サクーーーッ!!!」

キイの絶叫に、皆、顔を背け、無念の涙を流した。

何度も何度もサクヤの亡骸を揺さぶり、キイは嗚咽した。
その後、震える手でサクヤの開いた目をゆっくりと閉じてやる。
まるで眠るように穏やかなサクヤの死に顔を見ているうちに、どうしようもない後悔と怒りが噴出した。
「畜生!!畜生!!」
激しい思いがキイを駆け巡る。
「こんな力!!何が神の気だ!何が大陸を支配する天の宝だ!
情けない!人ひとりさえも救えない!
大きすぎて使いこなせぬ力なんて!」
「キイ…」
思わず傍に行こうとしたシータを、いつの間にか隣にいた昂老人が止めた。
「うう…俺は…俺は何のために、苦しい思いでこの身に神気を宿しているのか…。
抑制なくては破壊するだけの力が…、何ゆえこの地に必要なのか…!
天よ…!!
我々から大事なものを奪ってまで、何を言いたい?何をさせたいのだ!!」
あの日。自分が生まれた意義を確認したあの運命の日から、己は奈落から這い上がった筈だった。
だが、今のキイは冷静に考えられないほどに動揺していた。
わかっている。
天のせいにして、自分の未熟さ、無力さ、無能さに目を瞑っていることを。
《自分を責めないで…》
サクヤの言葉が頭に響く。だけども…。
どうしようもない自分に対するその怒りを、天にすり替えることで均衡を保とうとする、己の弱さ。
天を罵倒しながら、本当は自分を貶めているのだ。
「この男は我々にとって、なくてはならぬ人間だった…!!
なのになんて惨(むご)い事を…!
守れなかった…。たった一人も守り通せなかった…!!」
「キイ!落ち着け!」
「でも!!」
泣き叫んで首を横に振リ続けるキイに堪らなくなった昂老人は、人が近づけるぎりぎりの所で叫んだ。
「とにかく今、珍がこの場の毒素を抑える薬を取りに行っておる。
奴が戻ったら…」
「キイ!!」
突然遮るようにシータが叫んだ。
「キイ、しっかりして!アムイが変なの!!」
その言葉で、キイは我に返った。
(そうだ、アムイ!アムイは!?)
弾かれるようにキイは顔を上げ、アムイの姿を探しながら、自分の感情ばかりに気を取られていた事を後悔した。
自分よりも、サクヤに近かったアムイの衝撃の方がはるかに大きい筈ではないか。

斜め振り向いた先に、アムイの姿があった。

月を背にした彼は、片膝を付いたまま、その場から微動だにしない。
彼の目はじっとキイとサクヤに向けられている。
だがその表情はまるで、今見ている現実を拒否しているかのようにも見えた。

アムイの周りで異様な空気が渦を巻いていた。
今にでも、何かが爆発しそうな、そんな緊迫した空気…。

「アムイ…?」

感情を爆発させたキイとは反対の、現実を受け入れられず、硬直したままのアムイの方が危うさを感じさせた。


張り詰めた重い空気がしばらく続き、どうしたらいいか皆が迷っているその時、それを破るかのようにアムイが小さく呟いた。

「何…?アムイ…どうした?」
慎重に話しかけるキイに、再びアムイが口を開いた。
思いがけなく出てきたその言葉が、キイに大きな衝撃を与えた。


「…父さん…」


  

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