暁の明星 宵の流星 #146
この大陸である大地を創造されし絶対神(ぜったいしん)は
その勇猛果敢なるお力でこの地を誕生させたのでございます。
お力の名は、【光輪】と申します。
この世を創造し、破壊し、そしてまた創造する。
このように作っては壊し、作っては壊し、という
気の遠くなるような作業過程を神が成されし時に
地を成形し、地に命を与え、生きとし生けるものの
この世の具現化を助けたお力でございます。
この強大なる神の気は、
この地をお創りされた絶対神様のみが扱える
唯一無二の天の宝でございます。
その宝は天空の天界のさらまた最上界の奥に守られて
創造期以降、その場所でずっと漂うておられまする。
天空に通じる扉は、天には幾つも無数にございますが
オーン創始が語られている通り、必ずその扉には
絶対神が飼い馴らしたといわれている、天空の聖獣ビャクオウが
門番として守護していると伝えられています。
................オーン経典第2章.創世記 聖天空代理司リガルの教示 .............
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「へぇ、嬢ちゃん。珍しいもの読んでるじゃん」
突然肩越しに低くて甘い声がして、イェンランはびっくりして持っていた本を落とした。
「おっと、驚かしてすまねぇ!」
自分が取るよりも先に、声の主はさっと落とした本を拾うと、満面の笑顔で彼女の手に渡した。
「あ、ありがと…キイ…」
何だか気恥ずかしくて、イェンランは頬を染めて俯いた。満足に彼の顔を見れない。
「すごいな、嬢ちゃん。これ、オーンの経典だろ?
しかも現代訳じゃなくてギガ文字表記の古典もの…。こんなの信徒くらいしか読まない難しい読み物だ。
…意外だなぁ。お嬢ちゃんはこういうものが好きなの?」
イェンランは言葉に詰まった。
確かに、昔から書物は好きで、いつかは難しいとされる古典ものも読んでみたい、と思ってはいた。
だが、何故それが“聖なる書”とまで言われる古典中の古典、オーンの経典なのか、と問われれば、それは目の前の本人に関係する事だったからだ。
確かにキイの言うとおり、古代語であるギガ文字表記の聖典なんて、熱心な信徒くらいしか紐解かないだろう。
しかも現代語訳のオーン経典の方が、優しい口調でわかりやすく書かれていて、幅広く受け入れられている書物なのに、何故イェンランがあえて難しい古典を選んだかというと、その方がもっと内情詳しく、その時代に書かれたという臨場感があるからであった。特に創世記部分が一番詳細に描かれていると、リシュオンから聞いていた事もある。
絶対神(ぜったいしん)が大陸を創り、その妹である女神が豊穣をもたらしに地に降りた…。
その妹女神がセドナダ王家の始祖であり、セド王国を創ったとされる。
オーン経典に興味を持ったのは、全て、キイがセドの王子であり、その出生の秘密を知ったときからだ。彼をもっと知りたい、理解したい、という彼女の純粋な気持ちの表れであったのだ。
……と、いうような事を、どう説明したらよいか、イェンランは本人を目の前にして慌ててしまい、思わずこう言った。
「…あ、あの…。ギ、ギガ文字の練習にと、リシュオンが貸してくれたので…」
あながちそれは嘘ではなかったが、咄嗟にイェンランはリシュオンの好意だと口実した。本当は自分から強請(ねだ)ったのだが。
「俺も十代の頃はよく読んでた。懐かしいな」
キイは深く詮索もせず、さらりと言ってから目を細めた。
「確かにもうここに隠れて2週間になるからなぁ…。 今のところ追っ手もないようだし、勉強するにはいい機会かもな」
未開の山にある洞窟に潜んで、もうすでに2週間が過ぎていた。
先の戦いでついた心と身体の傷を癒し、力を蓄えるためにも、この場所は最適であった。
水は奥まったところに通じる鍾乳洞の湧き水で賄えるし、食材は近辺の森林に豊富にある。
戦いのあった場所から反対側に存在するこの洞窟は、完全に人が足を踏み入れた形跡のない山の麓に入り口があった。
実はこの未開の山は猛獣も闊歩するという、シャン山脈にも通じていた。どうやらキイ達が隠れたこの洞窟は、そのシャン山脈に通じる方向にあったようだ。
ここなら滅多に人に見つからないだろう、と目算したとおり、もうすでに2週間経っていたが、獣達以外の存在を見た事がない。
もちろんここも昂老人とシータの張った結界のお陰で、猛獣などの危険な動物が寄ってこれないようにしてある。
ただ、人に関しては、人が張った結界でもある事から、見破られてしまえば、見つかる可能性も皆無でないのだが。
それでも、当分はゆっくりと生活できる。
冬の早い北の国は、初秋でも日が落ちるとかなり底冷えするが、それでも火を使えば全く問題も無かった。
ここで皆養生し、できれば早く何処かに移動したかった。いつまでもここに留まってもいられないだろう。
せっかくシャン山脈の入り口に近い場所にいるのだから、思い切ってこのまま山脈越えしようかという声も上がった。
だが、かなりの危険を伴う山脈越えには問題もあった。
傷の深かったシータは、キイの癒しの力のお陰でかなり回復が早かったが、一番はアムイの容態であった。
昏睡状態の人間を連れて、山越えなど出来る筈も無い。
そんな時、リシュオンが海はどうだと提案した。
今は東の荒波洲の軍艦が北の港に入っているだろうが、そこを逆手にとって逆方向で西に行かないか、と。
そして西に着いたら、中央のゲウラを通って東の国に入り、聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)を目指す…。
かなり遠回りにはなるが、船で移動している間に、アムイが復活するかもしれない。
だが、それでも危険を伴うのに変わりはない。しかもリシュオンは北の第一王子の問題も背負っていた。それに目を瞑ってまで西に同行して大丈夫か、との声も出た。
結局今の段階では、敵の動向、アムイの回復など、とにかくもうしばらく様子を見て判断しよう、という事になった。
「おっと、食事が出来た事を知らせに来たんだっけ。
皆もう集まっている。早く行こう」
懐かしさに浸っていたキイだったが、突然自分が何故彼女を探しに来たのか思い出した。
「え!もうそんな時間?」
目を丸くしている彼女の顔をニコニコ見ながら、キイは優しくイェンランを促した。
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「…そう。もうそこまで読んだんだ、すごいな」
食後に何気なくお茶を飲んでいたりシュオンが、イェンランの報告に目を大きく見開いた 。
今日の後片付けはシータの番であったので、彼以外の者はイェンランが煎れてくれたお茶を飲みながら各々好きな場所で寛いでいる。
イェンランは、丸い岩石に腰掛けているリシュオンの足元で、膝を抱えるようにしてちょこんと座っていた。
「意外と面白くて、気が付いたらここまで…。
やっとね、ようやく絶対神の妹女神が登場するところなの。
これから女神の活躍もこの経典には描かれているんでしょ?何か凄くわくわくする」
彼女が読んでいる部分は、経典の冒頭、創世記部分である。
その内容は完全に神話の世界となっていて、イェンランの好奇心を充分に刺激した。
「…“大地の母となる妹女神は 天に帰りし兄の願いで地に降り
人と交わり 子を産み落とす 神の意を具現化する人間を世に送り出すために”
あらゆる大陸の伝説には、天神が地に降りて人と交わる話って結構あるけど、創造主が目的を持って、自分の妹を人と交わらせるために地に寄こした、というのはオーンくらいよね。
この妹女神がセドナダ王家の始祖で、その息子が神王と呼ばれ、娘が巫女となってオーン教の始まりとなった…。だからセドとオーンは近しい間柄…兄妹のようなものというのがよくわかったわ」
「昨今では、その絆も切れちまってるがな」
いきなり頭上から声がして、イェンランは飛び上がった。
片手でお茶をすすりながら、いつの間にかキイが二人の傍に立っていたのだ。
「アムイの状態はどうです?キイ」
リシュオンは心配そうにキイを振り仰いだ。
「相変わらず。……ま、身体の方はかなり回復しているけどな」
「問題は…心…」
ポツリと呟くイェンランに、キイは哀しげに微笑むと、その気持ちを振り払うように話題を戻した。
「でも驚いたな。信徒でもない今どきの若い人が、オーンの創世記の話をしてるなんて」
「今どきの若い人って…」
まるで老齢の人間が言うような台詞に、思わずイェンランは吹き出した。
「それにしても嬢ちゃんの習得能力には脱帽するよ。…なぁ、リシュオン。
彼女がギガ文字を習い始めたのって、つい最近なんだろ?」
「ある程度読めてはいましたが、ほぼ初心者でしたからね…イェンランは。
一応基本を教えたのですが、さすが私もいきなりオーン経典の原本に挑戦するとは思いませんでした。
たまにわからない箇所があると、質問としてまとめてくるんですが、いや~それでも彼女の読解力には敬服しますよ、ほんと」
真顔になって力説するリシュオンに、イェンランは恥ずかしさでいたたまれなくなって、近くにあった彼の脛を手で小突いた。
「いくらなんでも言い過ぎ…」
「いや、本当の事だ。…あのねぇ、イェンラン。君はいつも自分の能力を過小評価しがちなんだよ!
彼女は本当にすごいですよ、キイ。私も各国へ色々と回って、いろんな女性に会いましたが、彼女みたいな人は初めてですよ」
「もうやめてよ、リシュオン!」
「こらこら、お嬢ちゃん。褒め言葉は有難~く素直に受け取るものだぞ」
リシュオンの力説を聞きながら、ニヤニヤして言うキイに、イェンランは赤くなりながら口を尖らせた。彼の真面目とも冗談ともわからない、ちょっとからかうような態度に、イェンランはどう受け止めたらいいのかわからなかったのだ。
「…確かにまぁ、オーン創世記を読んでわくわくする、なんていう奇特な女性は滅多にいねぇよなぁ」
「キイったら…!それってからかってる?」
キイの言葉にイェンランは少し傷ついた。尖った口は益々尖り、眉をしかめてキイを睨みつける。
「おっと、申し訳ない!ごめんなお嬢ちゃん、別にバカにしたつもりじゃなかったんだ。
俺はどうもこういう言い方になっちまってなぁ…。本心では本当に敬服してんだよ。
……特に信徒でもない女性が、経典に興味を持つ事さえも皆無だろ?
で、どうだった?感想は」
急に真面目な顔して話を振ってきたキイに、イェンランは緊張した。
「感想…っても…、まだ本当に最初の方だし…。
でも…絶対神って、万物の創造主、なのね。大陸…つまりこの世界を作った…。
だから宗教戦争後に、オーン教が大陸宗教の中心…代表となったわけ?
国づくりの神話や伝説なら各々の国教にあるけれど、国よりももっと大きい、大陸創造の神話はオーンだけだものね」
「さすがにいいところに目を付けるね、嬢ちゃん。
…そのとおりだよ。各々の国教を尊重しつつ、大陸全体としての総括をオーン教…天空飛来大聖堂(てんくうひらいだいせいどう)に委ねる、っつーのが、終戦締結の条件だからね」
「そうですね。オーン経典には少ししか出てきませんが、絶対神が大陸を作った経緯と、その後に続く女神達の神話が一番の理由ではないかと」
キイの話を受けて言ったリシュオンの言葉に、イェンランは反応した。
「女神達!?え?でも、女神って一人じゃないの?絶対神の妹女神…」
「そうだよ。最初に降りた女神は一人だ」
リシュオンは彼女の言葉に頷いた。
「豊穣の、命の女神…な」
ポツリとキイが呟いた。
「命の女神…」
その言葉にイェンランの胸は躍った。壮大な神話の物語。
「ということは、後から他にも降りてきた女神がいるって事?」
「…この先を話ちゃっていいのかい?これから読もうとしている所だろう?」
リシュオンの言葉にイェンランは“う!”、と声を詰まらせた。だが、好奇心は隠し切れない。
「かまわないわ。簡単に教えて!あとでじっくりと読むから…」
いつものごとくきらきらと輝く彼女の瞳に、彼は微笑んだ。
「絶対神が大いなる“神の気”により土台である大地を作る。
命を吹き込む段階で、その天から持ってきた神の“気”が変化して“大地の気”が生まれた。
“大地の気”は土と成り、火と成り、水と成り、森と成り、それらが大気を作り風と成った。
絶対神は己が作った世界の美しさに満足すると共に、その喜びを共に味わいたくて生物を創った。
だが、ここにきて絶対神は一人では成し得ない仕事があると気が付いた。
絶対神は大陸や生き物を創造する事だけに力を入れていたため、激しくも荒ぶる力が横行して、成長過程の大地はなかなか安定しなかった。…だから神は大地を安定をさせるために、自分の双子の妹を天から呼び寄せた…。安定と豊穣、安らぎと癒し、を、地にもたらそうと。そして妹女神を説得するためにも、絶対神は一度天に戻らなければならばかった。
─君はここまで読んだんだろう?」
「ええ、そうよ。妹女神が降臨して、最終段階で絶対神と共に大陸創りを手伝っていた人々にこう言うのよね。
”ワレは安定と豊穣と命をこの世にもたらしに来た。…この恩恵を全土にゆきわたらせたい。
そのためにワレは天と地をつなぐ地上の王を決めねば成らぬ”」
「そう…。そして女神と契った男が神の代理王となり、天に戻った絶対神の代わりに、次の段階として国づくりを女神と共に始めようとした。
が、神が創りしその大陸は、思った以上に広大であったため、女神の意向でそれぞれの場所にそれぞれ女神の分魂を地に鎮めるという方法で、女神の神力と守護を大陸にゆきわたらせることにしたんだ。
北の地に鉱石の女神の力。西の地に水の女神の力。南の地に火の女神の力。東の地に風の女神の力。
そして中央には己自らが静まり、森の女神と同化した…。簡単に言うとこういうことさ」
「そ、それって…。大陸の五大国の特徴そのままじゃない。そんな話がオーン経典にあるわけなの!?」
「原典にはね。…最新語に訳された巷に普及している経典には、そんな記述は省かれているけど」
二人の会話を聞いていたキイが、ぼそりと呟いた。
「ま、神話の部分でもある創世記なんて、本当にくそ長い内容だからなぁ。そんなの、礼拝での説教ではあまり詳しくやらないだろ。神職者や聖職者くらいじゃねぇ?きちんと勉強してるなんて奴」
気のせいだろうか。
先ほどから二人の会話にさりげなく口をはさむキイの声色には、何となく微かに棘がある、とイェンランは感じていた。
…キイの出生に関わるルーツ…。
その原点が創世記でもあるわけで、そう考えれば、キイがオーン教の話になると、無意識のうちに不機嫌になるのは仕方の無い事かもしれない…。
イェンランはそう思っていたが、実際の話、キイはただ単に自分の叔父がオーン教の神官である、という事に、変な意地を張っているだけであった。自分を神の名で殺そうとし、セド壊滅後に至っては、まるで何事も無かったかのように口を閉ざした、オーン教最高位である現在の最高天司長(さいこうてんしちょう※最高天空代理司長の略)である母の弟。
……少年の頃、自分の生まれのルーツを探るために、キイは片っ端から、古典や文献、様々な国の様々な経典を読み漁った。
それこそオーン教の巫女であった母や、聖職者であったアムイの母、が極めていたとされるオーンの教え。
そしてセドナダ王家中心に伝承されていたセド経典。南、西の神宮の儀式、東、北の寺院の説法。
あらゆる五大国に伝わる神話の数々。
キイこそある意味、どこぞの神職者となってもおかしくないほどの知識と教養を持っていた。具体的にいえば、大僧正、聖職天司(せいしょくてんし)もしくは大聖堂神官クラスくらいには軽々となれる実力であろう。
実際、聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)時代では、武道合わせて風来寺の僧正から、僧侶の位を授けたいとまで言われていた。
そうなれば将来、聖天風来寺の最高位である聖天師長(しょうてんしちょう)の座だって望める。
だからといって、先も言ったように、キイは宗教界の重鎮となっている叔父に対しての反発心ゆえに、その道に入る事を自ら拒んだのだ。
《俺は俗世が好きなのだ。神も仏も天も興味ねぇ。天神仏(てんじんぶつ)の世界に行くよりも、まだまだここでやりたいことがあるからなぁ》
そう笑って寺に入るのを断った一ヶ月後、あの前代未聞の大暴れを起こして聖天風来寺を簡単に追い出された。
当時、その事件にショックを受けていた門下生達は、“宵様は天(仏)門の地位よりも無法者の生き方を取った”と、大騒ぎになったくらいだ。
確かにそこを出てからの、【宵の流星】と共に追い出された【暁の明星】の暴れぶりは、武勇伝として東を席巻したのは誰もが知っての通り。
「そもそも経典なんて、信徒に説教を説くのが目的だからよ。特にオーンのものなんか、お奇麗な事しか書いていない」
キイのちょっと乱暴な口調に、リシュオン内情をよくわからないまま苦笑した。
「お綺麗な事?」
「清廉潔白。神と契りし光として生きる。…目指すものは素晴らしい事なだけどな。
ただ、行き過ぎな感は否めないところがあるからね。元々オーンが一番、他宗教を排除していたんだから」
絶対神は唯一の神。神と名乗るものは絶対神のみ。
宗教戦争前に、そう息巻いていたのはオーン信徒が多かった。そもそもそれが火種となって戦争が起きたといってもよかった。
「ま、長き宗教戦争の傷跡に、全ての宗派が反省し、“天”の名において手を結んだのはよかったですよ。
…大陸での天神仏の世界が平和になったからこそ、民の信仰心の安定が戻ったのですから」
リシュオンの言葉に、今度はキイが苦笑した。
「その引き換えに、国同士の軋轢が生々しく残っちまったけどな。
互いに譲歩して繋がろうなんて事、宗教の世界で実現できても、国はそこまでいかなかったわけだ」
「そりゃそうですけど…。でも私はこれが大陸統一の礎(いしずえ)となる一歩ではないかと思うのですよ。
それこそオーンでいう、絶対神が望んだ支天(してん)の王が大陸を治める平和な世界の…」
「支天の王…」
イェンランの呟きに、キイはぶっきらぼうに答えた。
「支天の王とは天が考える理想の王の事だ。
“天”を“支える”王…。つまり天の意を代表する王。
世界を創った後、神はどうしても天に戻らなければならなかった。そのために地上を治める人の王を欲した。
この事から、世間では神の意に適う賢主や名君の事を例えて支天の王とよく表現するけどな。
実在しない、天の理想の君主だよなぁ」
「でも経典にはその王が神王という名を与えられた、とも書いてあるじゃないですか…」
「だが実際にはその神王は大陸を担う支天の王にはなれなかった。
女神が中央に静まった後、最後には東方に追い出され、小さい国を創るはめになる。
…それがセド王国。神の子孫の王が治める国だ。
本来の意を考えると、大陸を統一しただけでは、支天の王とは言えないのだが、結局誰かがこの地を統一すれば、位上げの意味で支天の王の名を使うんだろうな。…たとえそれが武力で天下を奪う覇王であろうが」
「…何か凄い面白い…。神話って文字通り神の話なんだけど、裏に隠された意味がありそうで、興味深いなぁ」
イェンランの目がまたまた輝き出したのに、リシュオンは微笑ましく彼女を見つめた。
三人はお茶を飲み終わったのも忘れて話に没頭し、いつの間にかその場に円陣を組んで座っていた。
「そう、神話という物語だけど、色んな解釈ができるんだ。
特に創世記はね、色々な出来事や教えを神話として表現しているようで確かに面白い。
…最近では、絶対神の妹女神は、絶対神の分身だという説を唱えている学士もいるんだ。
創造主である絶対神という名の大きな神のエネルギー体が持っている女性の部分。それを妹の女神、と表現しているっていうね」
「へぇ~、面白ーい。だから双子の妹、なんだ。後から生まれた女のエネルギー体だから妹?」
「絶対神の妹女神というのは、もしかしたら絶対神の分身、女の部分である…、という話はね。
この世は二元性として作られた…という説が元になっているのだけど、つまり屈強な荒ぶる男神という描かれ方をされている創造主であるが、その神が創ったのが二元性の世界。
陰と陽、光と闇のように二つ持っているということから、妹女神は絶対神の穏やかで柔和な女性性の部分と考えられてるんだよね。命を生み出す女の神だ」
「へぇ~。よく知っているなぁ。さすが博識のリシュオン。
命を生み出す女の神、ね。命を創ったのは男の神、産み育てるのが女の神。
生き物そのものだねぇ。男(オス)は命の元を女(メス)に任せて産み出させる」
そこまで言って、キイはにやり、と笑った。
「…その女神の子孫の俺が、いい事を教えてやるよ。ご存知の通り、俺はセドナダ王家の人間だからな。
オーン経典と対を成す、と言われているセド経典を読めば、そこんとこが異様に生々しく表現されている。
あまりにもの生々しさに、オーン直々セド経典をセドナダ王家以外にはできるだけ世に出さないで欲しい、なんて通達がいったくらいの代物さ」
「ええ?そうなの?そんなにすごい事書いてあるの?セド経典って」
「ま、先祖が説いたありのまま言葉が言霊として残っているんでねぇ…。
オーン教が確立して後に信徒がまとめたお綺麗な経典ではなくて、セド経典は祖先が口伝していたものを、第4代神王が文書に残した、と言われる、大陸でも最も古い読み物でもあるんだぜ。その分、リアルかもしれないね」
キイの説明にリシュオンとイェンランは好奇心を刺激され、興味津々と次の言葉を待った。
二人の食いつきに、キイは心の中で笑った。似た者同士…というのは、こういうのを言うのか。
言葉を待つ二人の表情がまったく同じだったからだ。
「…経典は5巻ある。経典として、セド教を説いているものが3巻。…これはセドナダ王家以外にセド教の信徒が持ってもいいもの。他の2巻は王家の者以外閲覧できない門外不出のものだ。
……あまりにも危うい内容が書かれているからと封印された裏経典は、そのうちの一巻だ」
「裏経典…?何かあるんですか?セド教には」
リシュオンが目を丸くして言った。
元々特定王家中心の宗教であったため、その内容や全貌があまり知られていない。
興味はあったが、他の国の者が簡単には踏み入れられないものであった。
それが今、その王国の生き残りによって、内容が明かされるのだ。リシュオンのみならずイェンランも緊張して生唾を飲み込んだ。
「昔なぁ、マダキというセド人の賢者が、国を立て直すと言う名目で、夢中になって暴いた代物さ。
…そのダブーとされていた経典自体、ある女神王(おんなしんおう)がどこかに隠して以来、王家の人間もその存在を忘れていたのさ。現神王とその王太子以外はね」
そしてキイは一息つくと、複雑な顔してこう言った。
「そのお陰で当時の王太子が禁忌を犯す羽目になったのさ。…その結果が俺だ」
その言葉に、二人ははっとなって顔を見合わせた。
セドの裏経典…。この存在自体が、キイの出生の始まり…。
キイはしばらく目を閉じて口をつぐんでいたが、おもむろに目を開くと語り始めた。
…セド経典の生々しい神話を。
それはオーン経典と似た話のようで、もっとリアル感のある内容だった。
「当時、妹女神が生んだ娘が絶対神の言葉を聞く巫女となって、その時の言葉が残って経典になったと言い伝えられている。
……特に裏と呼ばれる第5巻は、姫巫女となった娘の言霊を記した、とも言われている。
その女神の娘、姫巫女はこう説いた。
“肉を持って生まれる事、それはすなわち欲の枷(かせ)をはめられ生きる事。
限界を持って生きる事。
生きとし生けるもの、命を生み出し繫ぐもの。
絶対神の創りしこの大地に生きるものは全て、調和の元に存在するなり。
だがあらゆる調和が乱れし時は、天は我らをお見捨てになるとなると思うか?
私は神の御前に生涯この身を捧げ、生涯この清い体をもってする。
そうして神と一体となる。 霊性にして神の命を受け継ぐ姫巫女と化身する。
姫巫女は血よりもその霊性をもって受け継がれる神の子なり。
巫女である私の言葉は神の言葉であり、天のものであり、我が言の葉は神と睦んで生まれし子供と同じである…”
…当時、絶対神が天に帰り、安定と豊穣をもたらした妹女神が地に鎮まったため、人は生き物と共にこの地に取り残され、神恋しさに人々が荒れた事があった。憂(うれ)いた女神の娘は、その身を寄り代として、聖域とされるオーンの島で神の声を伝え始めたのがオーン教の始まりとなった」
キイは再び目を閉じた。
はるか久遠の彼方。世界が混沌としていた時代─…。
・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━
絶対神は戸惑っていた。
この世に天界と同じ世界を創ろうと、この場所に器を創り、命の種を撒いたまではよかった。
絶対神が思った以上に、世界を、大地を創造することは、骨の折れる作業であったのだ。
神は己の持つ光の輪を駆使して、地をこね、火を起こし、水を入れ、森を植えて大気を纏わせた。
だが、あまりにもの強い力を使ったために、大地は荒れ、想像以上に製作作業は激しい力を要した。
絶対神は考えた。
この宇宙(あま)にものを創るという行為には、かなり強大な力が必要とはわかっていたが、ここまで激しいとは思わなんだ。
こんな安定しない大地では、種を撒いても攻撃的な存在しか創れない。
そう思いながら、荒ぶれる力の中で、絶対神はあらゆるものを創造した。
土に住むもの、水に生きるもの。森に息づくもの…。大気を舞うもの。
そして案の定、荒れた世界に、これまた最高に凶暴な猛獣達ができ、その中でも特にひときわ白くて大きな虎が、いつの間にかこの世界に我が物顔で君臨するようになり、益々大地は荒れ狂った。
しかし、それはこの段階では仕方のない事であるのも、絶対神にはわかっていた。
ならば自分と同じ様に、今の世界には勇猛果敢な存在が必要ではないのだろうか?
絶対神はその過程の最後に、自分に近しい存在としてヒトとなるものを創造した。
荒々しい力の中でできたヒトは、オトコといい、その存在は絶対神の強大な力と同じく、様々な困難にも立ち向かった。
そして絶対神は最後の仕上げに、猛獣の王、白い大虎ビャクオウをねじ伏せ、ようやく激しい力が収まった。
降伏したビャクオウは、今までの素行を詫び、絶対神に永久なる忠誠心を誓った。
そして聖獣と神上がりし、絶対神の守護を任され、神が天界に帰る時も共に天に昇り、天界の扉を守護する立場となった。
絶対神は次の段階として、一度、天に戻らねばならなかった。
激しい力が収まっても、この荒れた波動はなかなか落ち着かないであろう。
天を模型にしてこの世界を創ったのだ。このまま荒れたままでは、すぐにこの世界は壊れるだろう。
そのためにどうしたら得策であるか、絶対神は天に相談するために帰ったのだ。
残されたヒトのオトコ達は、しばらく大地で好き勝手暮らしていたが、元々攻撃的なこともあって、諍いが多く、案の定違う意味で地が荒れ始めた。
そのいざこざの中で、絶対神は自分の妹を伴って地に降り立った。
次の段階である。
絶対神は天にいた自分の双子の神と相談し、新たな計画を降ろすために再び降臨したのだった。
命を創っただけでは、この世界は続いていかない。
神と同じく命を創り、育て、産み出す存在が必要なのだ。
絶対神は自分の妹女神を元にして、ヒトのオンナという存在を創ろうと目論んだのだ。
創り、育て、産み出すという、神に最も近しい肉体を創るには、女神の力を借りなければならなかった。
妹女神は、この地に安定と、豊穣をもたらすため、そして命を生み出す存在の原型となるために降臨した。
それと同時に、彼女はこの大地のオトコと交わり、この世界を調和に導く存在として、王というものを創ろうとしたのだ。
いつかはこの世界から神が離れ、見守る段階となった時、自分たちの思いを伝える存在を残したかったのだ。
天から降りた女神の圧倒的な美しさにオトコ達は、初めて知るオンナという存在に夢中になった。
だが、女神はひとりだけ。
この時、絶対神が言ったのだ。
『この中で我が妹と契って対と成す者を王と定めよ。
選ばれし者は我の言う責務を全うし、他の者はその者を我と思って従い、家というもの、国というものを作れよ。
そして我が天に帰っても、我の説く宇宙(あま)の秩序に従い、この世界を維持していくのだ』
ヒトのオトコと契った女神は、その後、絶対神の言いつけに従い、各大陸の神聖なる場所に、オンナという存在を創るため、自分の分魂である女神達を東西南北に鎮めた。そこに命の磁場ができ、それがオンナという存在を生み出した。
そうして自分の力を使い果たして、兄神の要望を叶えた妹女神は、役目を終えたら帰って来て欲しいという兄の願いを反故し、天界に戻らず中央の地に留まる事にした。
それは彼女が思っていた以上に、ヒトの夫と、その間に生まれた子供たちを愛していたからだった。
役目を終えたら神に戻らなければならない…。だが、愛する家族のいるこの地を離れたくない…。
苦渋の選択として、女神はこの地の中央の森と同化し、地に鎮まる事を決意した。神の身に戻ったとしても、いつでも家族の存在を気で感じていたかったから…。
神の意に沿って、選ばれたオトコを王とした他の者であったが、女神を独り占めにしたという嫉妬心が憎悪を生み、女神が鎮まった後、一部のオトコ達が女神が鎮まるその中央の森から、彼ら親子を追い出した。結局親子は東のある場所に流れていき、そこで女神の要望のとおり国づくりを始めた。
一方その頃では、大陸中にオンナ達が次々と生まれ、荒れていたオトコ達はオンナ達の存在に喜び、嫉妬のために王達にした事を悔やんだ。
その懺悔も込めて、セド国の王を神の王(神王)として敬う事にし、その証として女神が天界から持って来たという桜の木をセドの国に献上した。
(桜は女神降臨の際に、彼女の髪に飾られていた尊い天界の花である。後に女神が地に降りた証にと、女神自身が地に捧げた花の木であった。)
こうして喜んだオトコ達は、オンナに自分の持っている命の種を与えると、オンナ達はその種を育て、子を産み出した。それがヒトだけでなく、あらゆる生命に普及して、産まれ、生き、死に、を繰り返す、活性のサイクルを完成させたのだ。
そうして世界は安定に向かい、国づくりが広がっていった……。
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「確かに安定と豊穣をもたらすために、とオーンの経典にもありますよね。
…創造の原点であり、大地の基盤を築いた“神の気”から生まれた“恵みの気”…つまり“大地の気”…命を生み出す女神」
キイの語りが一段落してから、リシュオンがそう言った。
「“神の気”は“光輪”、という記述があるが、妹女神の象徴でもあるその“恵みの気”自体の表記はない。ただ、学者達の昔からの見解では、今リシュオンが言ったその力が“大地の気”であろうという事。
つまり、“金環(きんかん)の気”って事だ」
「それ本当?武道の過程から起こった気術が、ここに繋がっているなんて。
…まだまだ隠された意味がありそうで、今夜隅々まで読んでしまいそう…」
イェンランの興奮した様子にキイは目を細めると、こう二人に問うた。
「これが本当ならば、妹女神は“金環の気”を持って存在した唯一の女だ。
それがどういう意味になるかわかるか?“金環の気”とはそもそもどういう“気”か知っているかい?」
口ごもるイェンランに代わって、その事にはリシュオンが答えた。
「“金環の気”の特徴って、確か安定、固定、壮大、受容、寛容…でしたっけ?…」
「ほう、気術使いでもないのに、さすがだな!リシュオンの言ったとおり、大地のエネルギーの特徴でもある。特に安定、ね。
アムイのように王者の気“金環”を扱う使い手が、この大陸には数えるしかいないというのも、第9位の“気”を総合して頂点とする王者の“気”だからだ。王者の“金冠”からその名がついたとされるそれは、習得するも難しいものであるのはわかるよね。
だが、この“気”を習得し扱える者が、今まで全て男だけだという事実は知っているかい?
どんなに優秀な女性の気術士でも、絶対に習得できないと言われるこの“気”の謎」
「いえ…それは…。確かにそう言われてみれば、女性で“金環の気”の使い手というのは聞いたことがない…」
「へー。でも変だわ!だって、それは女神の象徴である“恵みの気”なんでしょ?女の象徴する“気”が、現実では男しか使い手がいないなんて…」
「そう、だから彼女は“金環の気”を持って存在した唯一の“女”なんだよ。
…そのために世界に動乱が起こったわけだからね」
キイの思わせぶりな言葉に、二人は疑問の目で彼を見返した。
「セド経典には詳細に記されていた文章と、あらゆる面から探ってみてわかった事なのだが、実はこの“金環の気”を女が持つと、安定、固定、壮大、受容、寛容、…という特徴に、豊穣の意が追加される」
本当は近年になってから、天と通じて知った事実でもあった。
だが、天からの情報であると公に話すことはできない。
それは天の機密を教わるための、交換条件であったからだ。
「それがどういう意味があるんですか?」
リシュオンの問いに、キイはちらりとイェンランを見てからひとつ咳をすると、言いにくそうにこう話した。
「豊穣の特徴…つまり実りの意味…命を育て生み出す意…が、加わるという事は、だ。
女が“金環の気”を持つということは、その…なんて言うかな…。男を狂わすというの?究極の欲情を誘発する存在に変化する、という事だよ」
「……えっと…それって…。その、つまり─」
頬を赤く染めてイェンランは口ごもった。
「まー、つまり自然の摂理でさー。
子孫を残そうとする欲求を促す力…つまり男の発情を誘発してしまうという特徴が、女性の身には顕著に現れてしまうらしい。
そのせいで、妹女神は人間の男を狂わし、彼女を巡って争いが勃発した」
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そのあまりにも美しさを目の前にした時、ヒトのオトコ達は初めて狂おしい感情を揺さぶられ、戸惑った。
《ワレが欲しいか、オトコたちよ》
絶対神の妹神(いもがみ)は妖艶に微笑んだ。初めて味わう甘美な波動よ。
オトコ達は豊穣の宝である女神の虜になり、誰もが女神をこの手にしようと大騒ぎになった。
だが、女神は一人。
彼女を巡って、血みどろの争いが始まった。世は益々混沌とした波動に翻弄され、激動が地を襲った。
その喧騒の中、今までその様子を黙して眺めていた絶対神がこう言った。
《では、そんなに妹神(いもがみ)が欲しければ、己の手で勝ち取れよ。
数多(あまた)の中でただ一人だけ、この女神を妻とする事を許す。
数多のオトコの中でも生命力と運の強い、最強で最高のオトコが妹神と契る資格を与えよう。
そのものは我の代わりにこの地を治める王という資格も与えよう──》
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「それは一つの卵(らん)を巡る幾憶の精(せい)のごとく、丈夫な命の器を作ろうとする本能のごとく、多くのオトコは振るい落とされ、壮絶な接戦の果て、一人のオトコが女神に到達し、手にする事に成功した。
その男が彼女の放つ光に触れた途端、女神はヒトと同じ肉の体に変化(へんげ)した。
“さあ、これで、ワレはお前と同じになった。触れ合うことができるのじゃ。
それがどういう意味か、そしてどうしたらよいのか、お前は本能でわかっているであろう。
ワレはこの地に恵みをもたらしにきた。共に協力して、命の種を融合させ、元を作り、育て、生み出す。創造主と同様に命を作り出すという、最高の恩恵を賜りに。
さあ、ワレはお前のものじゃ。ワレと契り、神と同じに命を創ろうぞ”
…とまあ、そういうわけで、ま、新婚旅行みたいに女神と男は大陸の五つある聖域を巡り、その都度その場で幾月も、睦み合い、愛を交換し合ったんだな。そしてその波動が大地を刺激し、女神の肉体から分魂が生まれ、その聖域にその特徴を持つ女神…ま、オンナの波動を鎮めたという事だ。それが地にオンナをもたらす要因となるわけだが、面白いことにセド経典には、そのエネルギーを受けて反応した素質のあるオトコがオンナに変化(へんげ)したという記述もあるんだ。
そして最後に中央の森で、この夫婦はオトコとオンナの子どもを二人儲けた。
それが成長して、オトコの子どもは父の跡を継いで王となり、神(の子である)王と呼ばれ、オンナの子供はヒトのために神と契り、姫巫女となり、オーン教の礎を築いた…」
キイは一気に喋ると、ふうっと息を吐いた。
「──な?オーン経典よりそこんとこ、かなり詳細で生々しいだろ?
まあ神話なんて、昨今の学士達の中には、壮大なエネルギー変化を擬人化して、わかりやすく表現している、と主張する者もいるけどね」
「あー…。なるほど。別の見方によれば、まず地殻変動が起こり大陸が生まれ、様々な要因が重なって生命が誕生し…という事を、擬人化して感情移入しやすいよう、物語りとして表現していると」
「すっごーい。ということは、数多の神話も、隠された意味や状況があるって事でしょ?これからそれを想像しながら神話を読んでしまいそう」
好奇心で頬を上気させているイェンランの顔を、キイは眩しく見つめた。
あの時、自分の判断で、嫌がる彼女を元の世界に戻してしまった…。それがいくら彼女をその時点で生かす事だったとしても、いたいけない少女を地獄に戻した事に変わりはなかった。
あの時、他に方法はなかったのだろうか?今でもキイはそう悔やむ事がある。
だが、あの頃自分は捕らわれの身でもあった。“気”を封印され、片割れと離され、少女一人を救ってやれるほどの力がなかった。
涙に濡れる彼女の瞳を思い出すたびに、キイは胸が痛んだ。
唯一接触した外部の人間、が彼女だった。アムイに繋がる虹の玉を託すには、彼女が必要であったわけだが、それ以上にキイは、彼女の心が癒されるよう、渡した虹の玉にそれとなく彼女を守るように頼んでいた。
そして3年以上の月日が流れ、キイの目の前に現れた彼女は、見事に自分の意思で、力で、その地獄の世界から飛び出していた。本来の輝きを取り戻しつつある彼女に、キイは安堵し、眩しく思った。
…ただ…、その時についた傷や、抱える闇が癒されていないことも、キイにはわかっていた。
彼女の心の闇が、徐々に癒され解放される事を、ただ願わずにはいられない。
「あれー、アンタ達、こんな時間までまだ起きてたの?」
突然シータの声が、三人の頭上に響いた。振り仰ぐと、シータが腰に手をやって、彼らを覗き込むように立っていた。
「え?そんなに時間経ってる?」
「経ってるも何も…。何を白熱して話していたかはわからないけど、もう夜更けもかなり過ぎてるわよ。
ま、かえって報告が早まってよかったかもしれないけど」
「報告?」
リシュオンの言葉に、シータはにっこりと微笑んだ。
「そう!リシュオン聞いて。先ほど貴方の兵から報告があったの。
北の第一王子が保護されたんですって!
貴方はもうその件について気に病む必要なくなったのよ。
いつでも西に戻れるわ」
その話に、皆は驚いて立ち上がった。
「それは本当ですか?シータ!」
「ええ?じゃ、北の王子が捕まったって事?となると、一緒にいた南軍は…」
「ああ、ティアン達はどうなったんだ?…まさか、奴らも拘束されたとか?
そうだったら、ここを捜索する南兵や隠密の姿が今までないのも腑に落ちるが…。
で、どこが拘束したんだ?北の軍隊にか?王家にか?」
キイはそう言って、いらいらと落ち着かない様子で長い髪をかき上げた。
「それがねぇ…!向こう様も大変だったみたいよぉ!
実はね…」
シータの話す内容に、一同驚いて思わず声を出した。
「南の大帝が!」
「わざわざ北の国に?」
「余程の事がなければ自国から出ないと言われる、あの冷徹な【氷壁の帝王】が、何故!?」
そう、あの滅多に遠征もしない、自国から出ない、ほとんど腹心の側近を手足のごとく動かす南の帝王が、遠路はるばる北の国に訪れ、その足でティアン宰相率いる南軍と第一王子の軍隊を取り押さえたようなのだ。
そしてティアンは大帝軍に捕らわれ、北の王子は北の王家に戻された。
第一王子を引き渡す時、南のガーフィン大帝は、北の王ミンガンにこう言ったらしい。
「此度はこれで、我らの軍の横行をなかった事にしてくださいませぬか。
無駄な戦は私もしたくはありませんからね。
まあ、穏便に解決した方が、この国は助かるのではないでしょうかな」
その有無を言わせない冷たい微笑に、北の王宮は凍りついたのだった─。
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