« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月

2011年5月29日 (日)

暁の明星 宵の流星 #146

この大陸である大地を創造されし絶対神(ぜったいしん)は
その勇猛果敢なるお力でこの地を誕生させたのでございます。

お力の名は、【光輪】と申します。

この世を創造し、破壊し、そしてまた創造する。
このように作っては壊し、作っては壊し、という
気の遠くなるような作業過程を神が成されし時に
地を成形し、地に命を与え、生きとし生けるものの
この世の具現化を助けたお力でございます。

この強大なる神の気は、
この地をお創りされた絶対神様のみが扱える
唯一無二の天の宝でございます。

その宝は天空の天界のさらまた最上界の奥に守られて
創造期以降、その場所でずっと漂うておられまする。

天空に通じる扉は、天には幾つも無数にございますが
オーン創始が語られている通り、必ずその扉には
絶対神が飼い馴らしたといわれている、天空の聖獣ビャクオウが
門番として守護していると伝えられています。

   ................オーン経典第2章.創世記 聖天空代理司リガルの教示 .............

,───────────────────────────────────


「へぇ、嬢ちゃん。珍しいもの読んでるじゃん」
突然肩越しに低くて甘い声がして、イェンランはびっくりして持っていた本を落とした。
「おっと、驚かしてすまねぇ!」
自分が取るよりも先に、声の主はさっと落とした本を拾うと、満面の笑顔で彼女の手に渡した。
「あ、ありがと…キイ…」
何だか気恥ずかしくて、イェンランは頬を染めて俯いた。満足に彼の顔を見れない。
「すごいな、嬢ちゃん。これ、オーンの経典だろ?
しかも現代訳じゃなくてギガ文字表記の古典もの…。こんなの信徒くらいしか読まない難しい読み物だ。
…意外だなぁ。お嬢ちゃんはこういうものが好きなの?」
イェンランは言葉に詰まった。
確かに、昔から書物は好きで、いつかは難しいとされる古典ものも読んでみたい、と思ってはいた。
だが、何故それが“聖なる書”とまで言われる古典中の古典、オーンの経典なのか、と問われれば、それは目の前の本人に関係する事だったからだ。
確かにキイの言うとおり、古代語であるギガ文字表記の聖典なんて、熱心な信徒くらいしか紐解かないだろう。
しかも現代語訳のオーン経典の方が、優しい口調でわかりやすく書かれていて、幅広く受け入れられている書物なのに、何故イェンランがあえて難しい古典を選んだかというと、その方がもっと内情詳しく、その時代に書かれたという臨場感があるからであった。特に創世記部分が一番詳細に描かれていると、リシュオンから聞いていた事もある。
 絶対神(ぜったいしん)が大陸を創り、その妹である女神が豊穣をもたらしに地に降りた…。
その妹女神がセドナダ王家の始祖であり、セド王国を創ったとされる。
オーン経典に興味を持ったのは、全て、キイがセドの王子であり、その出生の秘密を知ったときからだ。彼をもっと知りたい、理解したい、という彼女の純粋な気持ちの表れであったのだ。
……と、いうような事を、どう説明したらよいか、イェンランは本人を目の前にして慌ててしまい、思わずこう言った。
「…あ、あの…。ギ、ギガ文字の練習にと、リシュオンが貸してくれたので…」
あながちそれは嘘ではなかったが、咄嗟にイェンランはリシュオンの好意だと口実した。本当は自分から強請(ねだ)ったのだが。
「俺も十代の頃はよく読んでた。懐かしいな」
キイは深く詮索もせず、さらりと言ってから目を細めた。
「確かにもうここに隠れて2週間になるからなぁ…。 今のところ追っ手もないようだし、勉強するにはいい機会かもな」


未開の山にある洞窟に潜んで、もうすでに2週間が過ぎていた。
先の戦いでついた心と身体の傷を癒し、力を蓄えるためにも、この場所は最適であった。
水は奥まったところに通じる鍾乳洞の湧き水で賄えるし、食材は近辺の森林に豊富にある。
戦いのあった場所から反対側に存在するこの洞窟は、完全に人が足を踏み入れた形跡のない山の麓に入り口があった。
実はこの未開の山は猛獣も闊歩するという、シャン山脈にも通じていた。どうやらキイ達が隠れたこの洞窟は、そのシャン山脈に通じる方向にあったようだ。
ここなら滅多に人に見つからないだろう、と目算したとおり、もうすでに2週間経っていたが、獣達以外の存在を見た事がない。
もちろんここも昂老人とシータの張った結界のお陰で、猛獣などの危険な動物が寄ってこれないようにしてある。
ただ、人に関しては、人が張った結界でもある事から、見破られてしまえば、見つかる可能性も皆無でないのだが。
それでも、当分はゆっくりと生活できる。
冬の早い北の国は、初秋でも日が落ちるとかなり底冷えするが、それでも火を使えば全く問題も無かった。
ここで皆養生し、できれば早く何処かに移動したかった。いつまでもここに留まってもいられないだろう。
せっかくシャン山脈の入り口に近い場所にいるのだから、思い切ってこのまま山脈越えしようかという声も上がった。
だが、かなりの危険を伴う山脈越えには問題もあった。
傷の深かったシータは、キイの癒しの力のお陰でかなり回復が早かったが、一番はアムイの容態であった。
昏睡状態の人間を連れて、山越えなど出来る筈も無い。
そんな時、リシュオンが海はどうだと提案した。
今は東の荒波洲の軍艦が北の港に入っているだろうが、そこを逆手にとって逆方向で西に行かないか、と。
そして西に着いたら、中央のゲウラを通って東の国に入り、聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)を目指す…。
かなり遠回りにはなるが、船で移動している間に、アムイが復活するかもしれない。
だが、それでも危険を伴うのに変わりはない。しかもリシュオンは北の第一王子の問題も背負っていた。それに目を瞑ってまで西に同行して大丈夫か、との声も出た。
結局今の段階では、敵の動向、アムイの回復など、とにかくもうしばらく様子を見て判断しよう、という事になった。

「おっと、食事が出来た事を知らせに来たんだっけ。
皆もう集まっている。早く行こう」
懐かしさに浸っていたキイだったが、突然自分が何故彼女を探しに来たのか思い出した。
「え!もうそんな時間?」
目を丸くしている彼女の顔をニコニコ見ながら、キイは優しくイェンランを促した。

...............................................................................................................................................................................

「…そう。もうそこまで読んだんだ、すごいな」
食後に何気なくお茶を飲んでいたりシュオンが、イェンランの報告に目を大きく見開いた 。
今日の後片付けはシータの番であったので、彼以外の者はイェンランが煎れてくれたお茶を飲みながら各々好きな場所で寛いでいる。
イェンランは、丸い岩石に腰掛けているリシュオンの足元で、膝を抱えるようにしてちょこんと座っていた。
「意外と面白くて、気が付いたらここまで…。
やっとね、ようやく絶対神の妹女神が登場するところなの。
これから女神の活躍もこの経典には描かれているんでしょ?何か凄くわくわくする」
彼女が読んでいる部分は、経典の冒頭、創世記部分である。
その内容は完全に神話の世界となっていて、イェンランの好奇心を充分に刺激した。
「…“大地の母となる妹女神は 天に帰りし兄の願いで地に降り
人と交わり 子を産み落とす  神の意を具現化する人間を世に送り出すために”

あらゆる大陸の伝説には、天神が地に降りて人と交わる話って結構あるけど、創造主が目的を持って、自分の妹を人と交わらせるために地に寄こした、というのはオーンくらいよね。
この妹女神がセドナダ王家の始祖で、その息子が神王と呼ばれ、娘が巫女となってオーン教の始まりとなった…。だからセドとオーンは近しい間柄…兄妹のようなものというのがよくわかったわ」
「昨今では、その絆も切れちまってるがな」
いきなり頭上から声がして、イェンランは飛び上がった。
片手でお茶をすすりながら、いつの間にかキイが二人の傍に立っていたのだ。
「アムイの状態はどうです?キイ」
リシュオンは心配そうにキイを振り仰いだ。
「相変わらず。……ま、身体の方はかなり回復しているけどな」
「問題は…心…」
ポツリと呟くイェンランに、キイは哀しげに微笑むと、その気持ちを振り払うように話題を戻した。
「でも驚いたな。信徒でもない今どきの若い人が、オーンの創世記の話をしてるなんて」
「今どきの若い人って…」
まるで老齢の人間が言うような台詞に、思わずイェンランは吹き出した。
「それにしても嬢ちゃんの習得能力には脱帽するよ。…なぁ、リシュオン。
彼女がギガ文字を習い始めたのって、つい最近なんだろ?」
「ある程度読めてはいましたが、ほぼ初心者でしたからね…イェンランは。
一応基本を教えたのですが、さすが私もいきなりオーン経典の原本に挑戦するとは思いませんでした。
たまにわからない箇所があると、質問としてまとめてくるんですが、いや~それでも彼女の読解力には敬服しますよ、ほんと」
真顔になって力説するリシュオンに、イェンランは恥ずかしさでいたたまれなくなって、近くにあった彼の脛を手で小突いた。
「いくらなんでも言い過ぎ…」
「いや、本当の事だ。…あのねぇ、イェンラン。君はいつも自分の能力を過小評価しがちなんだよ!
彼女は本当にすごいですよ、キイ。私も各国へ色々と回って、いろんな女性に会いましたが、彼女みたいな人は初めてですよ」
「もうやめてよ、リシュオン!」
「こらこら、お嬢ちゃん。褒め言葉は有難~く素直に受け取るものだぞ」
リシュオンの力説を聞きながら、ニヤニヤして言うキイに、イェンランは赤くなりながら口を尖らせた。彼の真面目とも冗談ともわからない、ちょっとからかうような態度に、イェンランはどう受け止めたらいいのかわからなかったのだ。
「…確かにまぁ、オーン創世記を読んでわくわくする、なんていう奇特な女性は滅多にいねぇよなぁ」
「キイったら…!それってからかってる?」
キイの言葉にイェンランは少し傷ついた。尖った口は益々尖り、眉をしかめてキイを睨みつける。
「おっと、申し訳ない!ごめんなお嬢ちゃん、別にバカにしたつもりじゃなかったんだ。
俺はどうもこういう言い方になっちまってなぁ…。本心では本当に敬服してんだよ。
……特に信徒でもない女性が、経典に興味を持つ事さえも皆無だろ?
で、どうだった?感想は」
急に真面目な顔して話を振ってきたキイに、イェンランは緊張した。
「感想…っても…、まだ本当に最初の方だし…。
でも…絶対神って、万物の創造主、なのね。大陸…つまりこの世界を作った…。
だから宗教戦争後に、オーン教が大陸宗教の中心…代表となったわけ?
国づくりの神話や伝説なら各々の国教にあるけれど、国よりももっと大きい、大陸創造の神話はオーンだけだものね」
「さすがにいいところに目を付けるね、嬢ちゃん。
…そのとおりだよ。各々の国教を尊重しつつ、大陸全体としての総括をオーン教…天空飛来大聖堂(てんくうひらいだいせいどう)に委ねる、っつーのが、終戦締結の条件だからね」
「そうですね。オーン経典には少ししか出てきませんが、絶対神が大陸を作った経緯と、その後に続く女神達の神話が一番の理由ではないかと」
キイの話を受けて言ったリシュオンの言葉に、イェンランは反応した。
「女神達!?え?でも、女神って一人じゃないの?絶対神の妹女神…」
「そうだよ。最初に降りた女神は一人だ」
リシュオンは彼女の言葉に頷いた。
「豊穣の、命の女神…な」
ポツリとキイが呟いた。
「命の女神…」
その言葉にイェンランの胸は躍った。壮大な神話の物語。
「ということは、後から他にも降りてきた女神がいるって事?」
「…この先を話ちゃっていいのかい?これから読もうとしている所だろう?」
リシュオンの言葉にイェンランは“う!”、と声を詰まらせた。だが、好奇心は隠し切れない。
「かまわないわ。簡単に教えて!あとでじっくりと読むから…」
いつものごとくきらきらと輝く彼女の瞳に、彼は微笑んだ。
「絶対神が大いなる“神の気”により土台である大地を作る。
命を吹き込む段階で、その天から持ってきた神の“気”が変化して“大地の気”が生まれた。
“大地の気”は土と成り、火と成り、水と成り、森と成り、それらが大気を作り風と成った。
絶対神は己が作った世界の美しさに満足すると共に、その喜びを共に味わいたくて生物を創った。
だが、ここにきて絶対神は一人では成し得ない仕事があると気が付いた。
絶対神は大陸や生き物を創造する事だけに力を入れていたため、激しくも荒ぶる力が横行して、成長過程の大地はなかなか安定しなかった。…だから神は大地を安定をさせるために、自分の双子の妹を天から呼び寄せた…。安定と豊穣、安らぎと癒し、を、地にもたらそうと。そして妹女神を説得するためにも、絶対神は一度天に戻らなければならばかった。
─君はここまで読んだんだろう?」
「ええ、そうよ。妹女神が降臨して、最終段階で絶対神と共に大陸創りを手伝っていた人々にこう言うのよね。
”ワレは安定と豊穣と命をこの世にもたらしに来た。…この恩恵を全土にゆきわたらせたい。
そのためにワレは天と地をつなぐ地上の王を決めねば成らぬ”」
「そう…。そして女神と契った男が神の代理王となり、天に戻った絶対神の代わりに、次の段階として国づくりを女神と共に始めようとした。
が、神が創りしその大陸は、思った以上に広大であったため、女神の意向でそれぞれの場所にそれぞれ女神の分魂を地に鎮めるという方法で、女神の神力と守護を大陸にゆきわたらせることにしたんだ。
北の地に鉱石の女神の力。西の地に水の女神の力。南の地に火の女神の力。東の地に風の女神の力。
そして中央には己自らが静まり、森の女神と同化した…。簡単に言うとこういうことさ」
「そ、それって…。大陸の五大国の特徴そのままじゃない。そんな話がオーン経典にあるわけなの!?」
「原典にはね。…最新語に訳された巷に普及している経典には、そんな記述は省かれているけど」
二人の会話を聞いていたキイが、ぼそりと呟いた。
「ま、神話の部分でもある創世記なんて、本当にくそ長い内容だからなぁ。そんなの、礼拝での説教ではあまり詳しくやらないだろ。神職者や聖職者くらいじゃねぇ?きちんと勉強してるなんて奴」
気のせいだろうか。
先ほどから二人の会話にさりげなく口をはさむキイの声色には、何となく微かに棘がある、とイェンランは感じていた。

…キイの出生に関わるルーツ…。
その原点が創世記でもあるわけで、そう考えれば、キイがオーン教の話になると、無意識のうちに不機嫌になるのは仕方の無い事かもしれない…。
イェンランはそう思っていたが、実際の話、キイはただ単に自分の叔父がオーン教の神官である、という事に、変な意地を張っているだけであった。自分を神の名で殺そうとし、セド壊滅後に至っては、まるで何事も無かったかのように口を閉ざした、オーン教最高位である現在の最高天司長(さいこうてんしちょう※最高天空代理司長の略)である母の弟。
……少年の頃、自分の生まれのルーツを探るために、キイは片っ端から、古典や文献、様々な国の様々な経典を読み漁った。
それこそオーン教の巫女であった母や、聖職者であったアムイの母、が極めていたとされるオーンの教え。
そしてセドナダ王家中心に伝承されていたセド経典。南、西の神宮の儀式、東、北の寺院の説法。
あらゆる五大国に伝わる神話の数々。
キイこそある意味、どこぞの神職者となってもおかしくないほどの知識と教養を持っていた。具体的にいえば、大僧正、聖職天司(せいしょくてんし)もしくは大聖堂神官クラスくらいには軽々となれる実力であろう。
実際、聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)時代では、武道合わせて風来寺の僧正から、僧侶の位を授けたいとまで言われていた。
そうなれば将来、聖天風来寺の最高位である聖天師長(しょうてんしちょう)の座だって望める。
だからといって、先も言ったように、キイは宗教界の重鎮となっている叔父に対しての反発心ゆえに、その道に入る事を自ら拒んだのだ。
《俺は俗世が好きなのだ。神も仏も天も興味ねぇ。天神仏(てんじんぶつ)の世界に行くよりも、まだまだここでやりたいことがあるからなぁ》
そう笑って寺に入るのを断った一ヶ月後、あの前代未聞の大暴れを起こして聖天風来寺を簡単に追い出された。
当時、その事件にショックを受けていた門下生達は、“宵様は天(仏)門の地位よりも無法者の生き方を取った”と、大騒ぎになったくらいだ。
確かにそこを出てからの、【宵の流星】と共に追い出された【暁の明星】の暴れぶりは、武勇伝として東を席巻したのは誰もが知っての通り。

「そもそも経典なんて、信徒に説教を説くのが目的だからよ。特にオーンのものなんか、お奇麗な事しか書いていない」
キイのちょっと乱暴な口調に、リシュオン内情をよくわからないまま苦笑した。
「お綺麗な事?」
「清廉潔白。神と契りし光として生きる。…目指すものは素晴らしい事なだけどな。
ただ、行き過ぎな感は否めないところがあるからね。元々オーンが一番、他宗教を排除していたんだから」
絶対神は唯一の神。神と名乗るものは絶対神のみ。
宗教戦争前に、そう息巻いていたのはオーン信徒が多かった。そもそもそれが火種となって戦争が起きたといってもよかった。
「ま、長き宗教戦争の傷跡に、全ての宗派が反省し、“天”の名において手を結んだのはよかったですよ。
…大陸での天神仏の世界が平和になったからこそ、民の信仰心の安定が戻ったのですから」
リシュオンの言葉に、今度はキイが苦笑した。
「その引き換えに、国同士の軋轢が生々しく残っちまったけどな。
互いに譲歩して繋がろうなんて事、宗教の世界で実現できても、国はそこまでいかなかったわけだ」
「そりゃそうですけど…。でも私はこれが大陸統一の礎(いしずえ)となる一歩ではないかと思うのですよ。
それこそオーンでいう、絶対神が望んだ支天(してん)の王が大陸を治める平和な世界の…」
「支天の王…」
イェンランの呟きに、キイはぶっきらぼうに答えた。
「支天の王とは天が考える理想の王の事だ。
“天”を“支える”王…。つまり天の意を代表する王。
世界を創った後、神はどうしても天に戻らなければならなかった。そのために地上を治める人の王を欲した。
この事から、世間では神の意に適う賢主や名君の事を例えて支天の王とよく表現するけどな。
実在しない、天の理想の君主だよなぁ」
「でも経典にはその王が神王という名を与えられた、とも書いてあるじゃないですか…」
「だが実際にはその神王は大陸を担う支天の王にはなれなかった。
女神が中央に静まった後、最後には東方に追い出され、小さい国を創るはめになる。
…それがセド王国。神の子孫の王が治める国だ。
本来の意を考えると、大陸を統一しただけでは、支天の王とは言えないのだが、結局誰かがこの地を統一すれば、位上げの意味で支天の王の名を使うんだろうな。…たとえそれが武力で天下を奪う覇王であろうが」
「…何か凄い面白い…。神話って文字通り神の話なんだけど、裏に隠された意味がありそうで、興味深いなぁ」
イェンランの目がまたまた輝き出したのに、リシュオンは微笑ましく彼女を見つめた。
三人はお茶を飲み終わったのも忘れて話に没頭し、いつの間にかその場に円陣を組んで座っていた。
「そう、神話という物語だけど、色んな解釈ができるんだ。
特に創世記はね、色々な出来事や教えを神話として表現しているようで確かに面白い。
…最近では、絶対神の妹女神は、絶対神の分身だという説を唱えている学士もいるんだ。
創造主である絶対神という名の大きな神のエネルギー体が持っている女性の部分。それを妹の女神、と表現しているっていうね」
「へぇ~、面白ーい。だから双子の妹、なんだ。後から生まれた女のエネルギー体だから妹?」
「絶対神の妹女神というのは、もしかしたら絶対神の分身、女の部分である…、という話はね。
この世は二元性として作られた…という説が元になっているのだけど、つまり屈強な荒ぶる男神という描かれ方をされている創造主であるが、その神が創ったのが二元性の世界。
陰と陽、光と闇のように二つ持っているということから、妹女神は絶対神の穏やかで柔和な女性性の部分と考えられてるんだよね。命を生み出す女の神だ」
「へぇ~。よく知っているなぁ。さすが博識のリシュオン。
命を生み出す女の神、ね。命を創ったのは男の神、産み育てるのが女の神。
生き物そのものだねぇ。男(オス)は命の元を女(メス)に任せて産み出させる」
そこまで言って、キイはにやり、と笑った。
「…その女神の子孫の俺が、いい事を教えてやるよ。ご存知の通り、俺はセドナダ王家の人間だからな。
オーン経典と対を成す、と言われているセド経典を読めば、そこんとこが異様に生々しく表現されている。
あまりにもの生々しさに、オーン直々セド経典をセドナダ王家以外にはできるだけ世に出さないで欲しい、なんて通達がいったくらいの代物さ」
「ええ?そうなの?そんなにすごい事書いてあるの?セド経典って」
「ま、先祖が説いたありのまま言葉が言霊として残っているんでねぇ…。
オーン教が確立して後に信徒がまとめたお綺麗な経典ではなくて、セド経典は祖先が口伝していたものを、第4代神王が文書に残した、と言われる、大陸でも最も古い読み物でもあるんだぜ。その分、リアルかもしれないね」
キイの説明にリシュオンとイェンランは好奇心を刺激され、興味津々と次の言葉を待った。
二人の食いつきに、キイは心の中で笑った。似た者同士…というのは、こういうのを言うのか。
言葉を待つ二人の表情がまったく同じだったからだ。

「…経典は5巻ある。経典として、セド教を説いているものが3巻。…これはセドナダ王家以外にセド教の信徒が持ってもいいもの。他の2巻は王家の者以外閲覧できない門外不出のものだ。
……あまりにも危うい内容が書かれているからと封印された裏経典は、そのうちの一巻だ」
「裏経典…?何かあるんですか?セド教には」
リシュオンが目を丸くして言った。
元々特定王家中心の宗教であったため、その内容や全貌があまり知られていない。
興味はあったが、他の国の者が簡単には踏み入れられないものであった。
それが今、その王国の生き残りによって、内容が明かされるのだ。リシュオンのみならずイェンランも緊張して生唾を飲み込んだ。
「昔なぁ、マダキというセド人の賢者が、国を立て直すと言う名目で、夢中になって暴いた代物さ。
…そのダブーとされていた経典自体、ある女神王(おんなしんおう)がどこかに隠して以来、王家の人間もその存在を忘れていたのさ。現神王とその王太子以外はね」
そしてキイは一息つくと、複雑な顔してこう言った。
「そのお陰で当時の王太子が禁忌を犯す羽目になったのさ。…その結果が俺だ」
その言葉に、二人ははっとなって顔を見合わせた。
セドの裏経典…。この存在自体が、キイの出生の始まり…。
キイはしばらく目を閉じて口をつぐんでいたが、おもむろに目を開くと語り始めた。

…セド経典の生々しい神話を。
それはオーン経典と似た話のようで、もっとリアル感のある内容だった。

「当時、妹女神が生んだ娘が絶対神の言葉を聞く巫女となって、その時の言葉が残って経典になったと言い伝えられている。
……特に裏と呼ばれる第5巻は、姫巫女となった娘の言霊を記した、とも言われている。
その女神の娘、姫巫女はこう説いた。

“肉を持って生まれる事、それはすなわち欲の枷(かせ)をはめられ生きる事。
限界を持って生きる事。
生きとし生けるもの、命を生み出し繫ぐもの。
絶対神の創りしこの大地に生きるものは全て、調和の元に存在するなり。
だがあらゆる調和が乱れし時は、天は我らをお見捨てになるとなると思うか?

私は神の御前に生涯この身を捧げ、生涯この清い体をもってする。
そうして神と一体となる。 霊性にして神の命を受け継ぐ姫巫女と化身する。
姫巫女は血よりもその霊性をもって受け継がれる神の子なり。
巫女である私の言葉は神の言葉であり、天のものであり、我が言の葉は神と睦んで生まれし子供と同じである…”


…当時、絶対神が天に帰り、安定と豊穣をもたらした妹女神が地に鎮まったため、人は生き物と共にこの地に取り残され、神恋しさに人々が荒れた事があった。憂(うれ)いた女神の娘は、その身を寄り代として、聖域とされるオーンの島で神の声を伝え始めたのがオーン教の始まりとなった」

キイは再び目を閉じた。

はるか久遠の彼方。世界が混沌としていた時代─…。


・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━

絶対神は戸惑っていた。
この世に天界と同じ世界を創ろうと、この場所に器を創り、命の種を撒いたまではよかった。
絶対神が思った以上に、世界を、大地を創造することは、骨の折れる作業であったのだ。
神は己の持つ光の輪を駆使して、地をこね、火を起こし、水を入れ、森を植えて大気を纏わせた。
だが、あまりにもの強い力を使ったために、大地は荒れ、想像以上に製作作業は激しい力を要した。

絶対神は考えた。
この宇宙(あま)にものを創るという行為には、かなり強大な力が必要とはわかっていたが、ここまで激しいとは思わなんだ。
こんな安定しない大地では、種を撒いても攻撃的な存在しか創れない。
そう思いながら、荒ぶれる力の中で、絶対神はあらゆるものを創造した。
土に住むもの、水に生きるもの。森に息づくもの…。大気を舞うもの。
そして案の定、荒れた世界に、これまた最高に凶暴な猛獣達ができ、その中でも特にひときわ白くて大きな虎が、いつの間にかこの世界に我が物顔で君臨するようになり、益々大地は荒れ狂った。
しかし、それはこの段階では仕方のない事であるのも、絶対神にはわかっていた。
ならば自分と同じ様に、今の世界には勇猛果敢な存在が必要ではないのだろうか?
絶対神はその過程の最後に、自分に近しい存在としてヒトとなるものを創造した。
荒々しい力の中でできたヒトは、オトコといい、その存在は絶対神の強大な力と同じく、様々な困難にも立ち向かった。
そして絶対神は最後の仕上げに、猛獣の王、白い大虎ビャクオウをねじ伏せ、ようやく激しい力が収まった。
降伏したビャクオウは、今までの素行を詫び、絶対神に永久なる忠誠心を誓った。
そして聖獣と神上がりし、絶対神の守護を任され、神が天界に帰る時も共に天に昇り、天界の扉を守護する立場となった。

絶対神は次の段階として、一度、天に戻らねばならなかった。
激しい力が収まっても、この荒れた波動はなかなか落ち着かないであろう。
天を模型にしてこの世界を創ったのだ。このまま荒れたままでは、すぐにこの世界は壊れるだろう。
そのためにどうしたら得策であるか、絶対神は天に相談するために帰ったのだ。
残されたヒトのオトコ達は、しばらく大地で好き勝手暮らしていたが、元々攻撃的なこともあって、諍いが多く、案の定違う意味で地が荒れ始めた。
そのいざこざの中で、絶対神は自分の妹を伴って地に降り立った。

次の段階である。

絶対神は天にいた自分の双子の神と相談し、新たな計画を降ろすために再び降臨したのだった。
命を創っただけでは、この世界は続いていかない。
神と同じく命を創り、育て、産み出す存在が必要なのだ。
絶対神は自分の妹女神を元にして、ヒトのオンナという存在を創ろうと目論んだのだ。
創り、育て、産み出すという、神に最も近しい肉体を創るには、女神の力を借りなければならなかった。

妹女神は、この地に安定と、豊穣をもたらすため、そして命を生み出す存在の原型となるために降臨した。
それと同時に、彼女はこの大地のオトコと交わり、この世界を調和に導く存在として、王というものを創ろうとしたのだ。
いつかはこの世界から神が離れ、見守る段階となった時、自分たちの思いを伝える存在を残したかったのだ。

天から降りた女神の圧倒的な美しさにオトコ達は、初めて知るオンナという存在に夢中になった。

だが、女神はひとりだけ。

この時、絶対神が言ったのだ。

『この中で我が妹と契って対と成す者を王と定めよ。
選ばれし者は我の言う責務を全うし、他の者はその者を我と思って従い、家というもの、国というものを作れよ。
そして我が天に帰っても、我の説く宇宙(あま)の秩序に従い、この世界を維持していくのだ』


ヒトのオトコと契った女神は、その後、絶対神の言いつけに従い、各大陸の神聖なる場所に、オンナという存在を創るため、自分の分魂である女神達を東西南北に鎮めた。そこに命の磁場ができ、それがオンナという存在を生み出した。
そうして自分の力を使い果たして、兄神の要望を叶えた妹女神は、役目を終えたら帰って来て欲しいという兄の願いを反故し、天界に戻らず中央の地に留まる事にした。
それは彼女が思っていた以上に、ヒトの夫と、その間に生まれた子供たちを愛していたからだった。
役目を終えたら神に戻らなければならない…。だが、愛する家族のいるこの地を離れたくない…。
苦渋の選択として、女神はこの地の中央の森と同化し、地に鎮まる事を決意した。神の身に戻ったとしても、いつでも家族の存在を気で感じていたかったから…。

神の意に沿って、選ばれたオトコを王とした他の者であったが、女神を独り占めにしたという嫉妬心が憎悪を生み、女神が鎮まった後、一部のオトコ達が女神が鎮まるその中央の森から、彼ら親子を追い出した。結局親子は東のある場所に流れていき、そこで女神の要望のとおり国づくりを始めた。

一方その頃では、大陸中にオンナ達が次々と生まれ、荒れていたオトコ達はオンナ達の存在に喜び、嫉妬のために王達にした事を悔やんだ。
その懺悔も込めて、セド国の王を神の王(神王)として敬う事にし、その証として女神が天界から持って来たという桜の木をセドの国に献上した。

(桜は女神降臨の際に、彼女の髪に飾られていた尊い天界の花である。後に女神が地に降りた証にと、女神自身が地に捧げた花の木であった。)

こうして喜んだオトコ達は、オンナに自分の持っている命の種を与えると、オンナ達はその種を育て、子を産み出した。それがヒトだけでなく、あらゆる生命に普及して、産まれ、生き、死に、を繰り返す、活性のサイクルを完成させたのだ。
そうして世界は安定に向かい、国づくりが広がっていった……。

・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━

「確かに安定と豊穣をもたらすために、とオーンの経典にもありますよね。
…創造の原点であり、大地の基盤を築いた“神の気”から生まれた“恵みの気”…つまり“大地の気”…命を生み出す女神」
キイの語りが一段落してから、リシュオンがそう言った。
「“神の気”は“光輪”、という記述があるが、妹女神の象徴でもあるその“恵みの気”自体の表記はない。ただ、学者達の昔からの見解では、今リシュオンが言ったその力が“大地の気”であろうという事。
つまり、“金環(きんかん)の気”って事だ」
「それ本当?武道の過程から起こった気術が、ここに繋がっているなんて。
…まだまだ隠された意味がありそうで、今夜隅々まで読んでしまいそう…」
イェンランの興奮した様子にキイは目を細めると、こう二人に問うた。
「これが本当ならば、妹女神は“金環の気”を持って存在した唯一の女だ。
それがどういう意味になるかわかるか?“金環の気”とはそもそもどういう“気”か知っているかい?」
口ごもるイェンランに代わって、その事にはリシュオンが答えた。
「“金環の気”の特徴って、確か安定、固定、壮大、受容、寛容…でしたっけ?…」
「ほう、気術使いでもないのに、さすがだな!リシュオンの言ったとおり、大地のエネルギーの特徴でもある。特に安定、ね。
アムイのように王者の気“金環”を扱う使い手が、この大陸には数えるしかいないというのも、第9位の“気”を総合して頂点とする王者の“気”だからだ。王者の“金冠”からその名がついたとされるそれは、習得するも難しいものであるのはわかるよね。
だが、この“気”を習得し扱える者が、今まで全て男だけだという事実は知っているかい?
どんなに優秀な女性の気術士でも、絶対に習得できないと言われるこの“気”の謎」
「いえ…それは…。確かにそう言われてみれば、女性で“金環の気”の使い手というのは聞いたことがない…」
「へー。でも変だわ!だって、それは女神の象徴である“恵みの気”なんでしょ?女の象徴する“気”が、現実では男しか使い手がいないなんて…」
「そう、だから彼女は“金環の気”を持って存在した唯一の“女”なんだよ。
…そのために世界に動乱が起こったわけだからね」
キイの思わせぶりな言葉に、二人は疑問の目で彼を見返した。
「セド経典には詳細に記されていた文章と、あらゆる面から探ってみてわかった事なのだが、実はこの“金環の気”を女が持つと、安定、固定、壮大、受容、寛容、…という特徴に、豊穣の意が追加される」
本当は近年になってから、天と通じて知った事実でもあった。
だが、天からの情報であると公に話すことはできない。
それは天の機密を教わるための、交換条件であったからだ。
「それがどういう意味があるんですか?」
リシュオンの問いに、キイはちらりとイェンランを見てからひとつ咳をすると、言いにくそうにこう話した。
「豊穣の特徴…つまり実りの意味…命を育て生み出す意…が、加わるという事は、だ。
女が“金環の気”を持つということは、その…なんて言うかな…。男を狂わすというの?究極の欲情を誘発する存在に変化する、という事だよ」
「……えっと…それって…。その、つまり─」
頬を赤く染めてイェンランは口ごもった。
「まー、つまり自然の摂理でさー。
子孫を残そうとする欲求を促す力…つまり男の発情を誘発してしまうという特徴が、女性の身には顕著に現れてしまうらしい。
そのせいで、妹女神は人間の男を狂わし、彼女を巡って争いが勃発した」

・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━

そのあまりにも美しさを目の前にした時、ヒトのオトコ達は初めて狂おしい感情を揺さぶられ、戸惑った。
《ワレが欲しいか、オトコたちよ》
絶対神の妹神(いもがみ)は妖艶に微笑んだ。初めて味わう甘美な波動よ。
オトコ達は豊穣の宝である女神の虜になり、誰もが女神をこの手にしようと大騒ぎになった。
だが、女神は一人。
彼女を巡って、血みどろの争いが始まった。世は益々混沌とした波動に翻弄され、激動が地を襲った。
その喧騒の中、今までその様子を黙して眺めていた絶対神がこう言った。
《では、そんなに妹神(いもがみ)が欲しければ、己の手で勝ち取れよ。
数多(あまた)の中でただ一人だけ、この女神を妻とする事を許す。
数多のオトコの中でも生命力と運の強い、最強で最高のオトコが妹神と契る資格を与えよう。
そのものは我の代わりにこの地を治める王という資格も与えよう──》

・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━


「それは一つの卵(らん)を巡る幾憶の精(せい)のごとく、丈夫な命の器を作ろうとする本能のごとく、多くのオトコは振るい落とされ、壮絶な接戦の果て、一人のオトコが女神に到達し、手にする事に成功した。
その男が彼女の放つ光に触れた途端、女神はヒトと同じ肉の体に変化(へんげ)した。

“さあ、これで、ワレはお前と同じになった。触れ合うことができるのじゃ。
それがどういう意味か、そしてどうしたらよいのか、お前は本能でわかっているであろう。
ワレはこの地に恵みをもたらしにきた。共に協力して、命の種を融合させ、元を作り、育て、生み出す。創造主と同様に命を作り出すという、最高の恩恵を賜りに。
さあ、ワレはお前のものじゃ。ワレと契り、神と同じに命を創ろうぞ”

…とまあ、そういうわけで、ま、新婚旅行みたいに女神と男は大陸の五つある聖域を巡り、その都度その場で幾月も、睦み合い、愛を交換し合ったんだな。そしてその波動が大地を刺激し、女神の肉体から分魂が生まれ、その聖域にその特徴を持つ女神…ま、オンナの波動を鎮めたという事だ。それが地にオンナをもたらす要因となるわけだが、面白いことにセド経典には、そのエネルギーを受けて反応した素質のあるオトコがオンナに変化(へんげ)したという記述もあるんだ。
そして最後に中央の森で、この夫婦はオトコとオンナの子どもを二人儲けた。
それが成長して、オトコの子どもは父の跡を継いで王となり、神(の子である)王と呼ばれ、オンナの子供はヒトのために神と契り、姫巫女となり、オーン教の礎を築いた…」
キイは一気に喋ると、ふうっと息を吐いた。
「──な?オーン経典よりそこんとこ、かなり詳細で生々しいだろ?
まあ神話なんて、昨今の学士達の中には、壮大なエネルギー変化を擬人化して、わかりやすく表現している、と主張する者もいるけどね」
「あー…。なるほど。別の見方によれば、まず地殻変動が起こり大陸が生まれ、様々な要因が重なって生命が誕生し…という事を、擬人化して感情移入しやすいよう、物語りとして表現していると」
「すっごーい。ということは、数多の神話も、隠された意味や状況があるって事でしょ?これからそれを想像しながら神話を読んでしまいそう」
好奇心で頬を上気させているイェンランの顔を、キイは眩しく見つめた。
あの時、自分の判断で、嫌がる彼女を元の世界に戻してしまった…。それがいくら彼女をその時点で生かす事だったとしても、いたいけない少女を地獄に戻した事に変わりはなかった。
あの時、他に方法はなかったのだろうか?今でもキイはそう悔やむ事がある。
だが、あの頃自分は捕らわれの身でもあった。“気”を封印され、片割れと離され、少女一人を救ってやれるほどの力がなかった。
涙に濡れる彼女の瞳を思い出すたびに、キイは胸が痛んだ。
唯一接触した外部の人間、が彼女だった。アムイに繋がる虹の玉を託すには、彼女が必要であったわけだが、それ以上にキイは、彼女の心が癒されるよう、渡した虹の玉にそれとなく彼女を守るように頼んでいた。
そして3年以上の月日が流れ、キイの目の前に現れた彼女は、見事に自分の意思で、力で、その地獄の世界から飛び出していた。本来の輝きを取り戻しつつある彼女に、キイは安堵し、眩しく思った。
…ただ…、その時についた傷や、抱える闇が癒されていないことも、キイにはわかっていた。
彼女の心の闇が、徐々に癒され解放される事を、ただ願わずにはいられない。

「あれー、アンタ達、こんな時間までまだ起きてたの?」
突然シータの声が、三人の頭上に響いた。振り仰ぐと、シータが腰に手をやって、彼らを覗き込むように立っていた。
「え?そんなに時間経ってる?」
「経ってるも何も…。何を白熱して話していたかはわからないけど、もう夜更けもかなり過ぎてるわよ。
ま、かえって報告が早まってよかったかもしれないけど」
「報告?」
リシュオンの言葉に、シータはにっこりと微笑んだ。
「そう!リシュオン聞いて。先ほど貴方の兵から報告があったの。
北の第一王子が保護されたんですって!
貴方はもうその件について気に病む必要なくなったのよ。
いつでも西に戻れるわ」
その話に、皆は驚いて立ち上がった。
「それは本当ですか?シータ!」
「ええ?じゃ、北の王子が捕まったって事?となると、一緒にいた南軍は…」
「ああ、ティアン達はどうなったんだ?…まさか、奴らも拘束されたとか?
そうだったら、ここを捜索する南兵や隠密の姿が今までないのも腑に落ちるが…。
で、どこが拘束したんだ?北の軍隊にか?王家にか?」
キイはそう言って、いらいらと落ち着かない様子で長い髪をかき上げた。
「それがねぇ…!向こう様も大変だったみたいよぉ!
実はね…」
シータの話す内容に、一同驚いて思わず声を出した。
「南の大帝が!」
「わざわざ北の国に?」
「余程の事がなければ自国から出ないと言われる、あの冷徹な【氷壁の帝王】が、何故!?」

そう、あの滅多に遠征もしない、自国から出ない、ほとんど腹心の側近を手足のごとく動かす南の帝王が、遠路はるばる北の国に訪れ、その足でティアン宰相率いる南軍と第一王子の軍隊を取り押さえたようなのだ。
そしてティアンは大帝軍に捕らわれ、北の王子は北の王家に戻された。
第一王子を引き渡す時、南のガーフィン大帝は、北の王ミンガンにこう言ったらしい。

「此度はこれで、我らの軍の横行をなかった事にしてくださいませぬか。
無駄な戦は私もしたくはありませんからね。
まあ、穏便に解決した方が、この国は助かるのではないでしょうかな」

その有無を言わせない冷たい微笑に、北の王宮は凍りついたのだった─。

にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月12日 (木)

暁の明星 宵の流星 #145

絶対神(ぜったいしん)が大陸を創造し 命を生み出し 人を創りし
この創った世界を完全なものにするために
神は最後に分身でもある妹神(いもがみ)をこの地に降ろした

天は地を想い 地は天を支え
確かなる豊穣と繁栄と
天の意を具現化する場として
地は慈愛の源となることを

人よ
お前たちの嘆きは天にも届いている

親である神と魂(たま)を離れ 
地に降り そこで生きるうちに
人と神のあいだに間(魔)が入り
それゆえ【人間】となった我らの祈りに

その証として妹神を天から授かったのだということを
人間よ忘れるなかれ

       ........................セドナダ経典第1巻序章 祖始の言葉................

───────────────────────────────────

「宵の君(よいのきみ)がいなければ、この一帯はもっと酷く穢れていた事でしょう」
全ての処理を終え一段落した後に、珍学士(ちんがくし)が沈痛した面持ちでそう言った。
「…それにサクヤ君の出血を伴う傷…。普通なら即死でもおかしくないあのような状態でも、長く息を保てたのは、宵の君の癒しの力のお陰だとしか思えない」
そうして彼はきつく目を瞑ってうなだれた。
「だけど…本当に…、本当に…無念です…」

あの一連の悲劇が幕を閉じてから、残った者達は急遽処理に追われた。
とにかく毒素をこれ以上広めないためにも、珍学士が急いで持ってきた解毒作用のある薬品を含んだ砂を周辺にばら撒き、キイの癒しの力で毒素をなるべく薄めた。
そのおかげで、サクヤが飛散させた穢れた血はほぼ浄化され、一帯は普通の人間が軽い防備だけで入れるくらいまでに落ち着いた。
キイが退治した穢れ虫は慎重に剣から抜かれ、消毒の意味で深く掘った穴の中で燃やされた。

他の者は怪我が酷いアムイを筆頭に、すぐさまどこかに身を隠さなければならなかった。
アムイについてはヘヴンに切られた傷が思いのほか深く、さらに出血も多くて意識不明状態であった。
その次に傷が深かったシータも、これ以上動くのがはばかれるほどの重傷だった事に、戦いが終わってから気が付いた。

本来なら南軍がいつ戻ってくるかもしれない状況。
あのティアン宰相の事だ。穢れ虫の毒素放出が収まった頃を見計らってキイの痕跡を調べ、追いかけてくるだろう事は容易に想像が付いた。
不幸中の幸いだったのは、自分で改良した穢れ虫がここまで威力があると思わなかったティアンが、焦って撤退した事だった。
実は冷静さを保っていたように見えて、サクヤに飛びつかれた時、ティアンはかなり動揺していた。助けに入ったミカエルを虫に差し出さなければ、いくらキイの“気”を素に作った解毒剤でも追いつかないほどの毒が全身を蝕んでいただろう。そうティアンは踏んで、後ろ髪を引かれながらもこの場を逃げ出したのだ。一旦別の場所に待機し、隠密をつかって穢れた地を捜索するつもりで。
しかもあの状態では、かなりの被害が出ている筈…。ティアンはそう予測した。
あれほど執着していたキイをその場にあっけなく残したのは、彼には虫の毒が効かない事を知っていたからだ。
上手くいって他の人間が穢れても、肝心のキイだけは無事である。
毒の飛散が収まれば、必ずやその場に戻る…。
そう考えたのはティアンだけではなかった。
もちろん、キイも昂老人(こうろうじん)も、そう予測した。だからこそ急いでこの場を浄化し、何処かへ隠れなければならなかった。
気が付くと虫に襲われた筈のミカエル少将も、その場から姿を消していた。
卵を産み付けられる前、“気”の核を食われる寸前で助かった筈の彼は、重い毒素に侵されている状態だけで、多分命は助かったのであろう。
今の彼は、毒素を持つ重症の穢れ人である。行方が知れなくなった事自体が何やら不気味であった。

だが、今はそれよりも全員を安全な場所に移動させなくてはならない。
しかも重症な怪我人のみならず、壮絶な戦いで他の人間達もボロボロであった。
そこで、昂老人の提案で、どこか遠くへ逃げて危険を晒すよりも、この近くに潜む事にした。

鍾乳洞だ。
ここなら完全な結界を張ってある。しかも南軍にも知られていない筈の場所だ。
鍾乳洞を奥まって行くと、反対側の土地に出るあたりで普通の洞窟と繋がっていると、ユナ族のセツカが調べてきていた。
ならば鍾乳洞から入り、入り口を閉じてしまえば追っ手には気付かれないだろう。
そのまま鍾乳洞を進み、反対側の山の麓に通じている洞窟で、皆の傷が癒えるまで潜伏する。そのように昂は考えた。
そう決まってからは、皆手分けして行動した。
穢れた地(穢れ地)を処理する者。怪我人を運ぶ者…。
もちろん、穢れ地を浄化するのはキイや珍学士、結界を施すのは昂老人が担った。
…この穢れ地をこのまま放っておけなかったのは、これ以上被害が広がらないためでもあり、一番の理由は毒に穢れたサクヤの遺体を何とかしてやりたかったのだ。
サクヤの遺体はキイの癒しの浄化力で清められ、顔だけを残して全身を緑の布でくるまれた。
「……こうすれば当分遺体を運んでも、他の者に害は及ばないであろう。
…だが、宿り主だ。遺体をこのままにはしておけぬ。
元北天星寺院(もとほくてんせいじいん)の僧侶であったわしが許可すれば、サクヤを火葬してやれる。
その方が浄化される意味も強化され、骸(むくろ)の穢れたサクヤも魂(たま)だけは天界に旅立てるだろう…」
この当時の大陸では、火を重んじる南の国以外、死んだものは全て大地に返すという意味で、ほとんどが土葬であった。
南の国と同様、火葬は魔を燃やすという意の方が強く、他の国ではサクヤのように穢れた者、もしくは罪人にのみ施されるものであった。
神聖なる火を扱うため、その時には必ず僧侶の許可と、立会い(経文)を義務付けされている。
それができない穢れた遺体は、その土地で指定された山奥の深い洞穴に捨てられるのが多い。山の神に喰ってもらおうという考えからである。穢れた遺体は土壌も穢す。その考えは一般に浸透していたため、いくら穴を深くしたとして穢れ遺体を土に埋めるというのは、正規の行動ではないからだ。
不浄として亡くなった者に対して敬意をはらうには、僧侶が行う火葬が最も最適なのは、どこの国でも同じであった。
「じいちゃんが坊さんでよかったよ…。これでサクも迷わず成仏できる」
キイがサクヤの遺体を抱えながらポツリと言った。
その言葉に反応したのか、近くですすり泣く声がする。
「……ガラム、だっけか?今までサクのためにありがとうな。
結果は残念な事になっちまったけど…」
キイは泣き声の方に振り返り、優しい声で語りかけた。
慈愛溢れる声は余計にガラムの涙を誘い、サクヤの遺体を見つめながら、彼は嗚咽を止められなかった。
その様子をじっと見ていたキイだったが、ガラムの隣に寄り添うように立つセツカに視線を移した。
 ユナ族であるガラム、セツカ、レツの三人は、キイ達を手伝って場の清浄に努めていた。
先ほどまで涙を堪え、黙々と作業していたガラムだったが、サクヤの遺体を運ぶ段階になって、とうとう涙が決壊したのだ。
「お前達はどうする?俺らと一緒に来るかい」
キイの問いに、セツカは恭(うやうや)しく答えた。
「いいえ、宵の君(よいのきみ)。
我々は貴方に何かあるといけませんので、敵に目を光らせるつもりです。
何か動きがありましたら、ご報告に参ります」
「そうか」
見るからに屈強な戦士というよりも、一見儚げな印象を与えるセツカである。
だが、さすがユナ族の長(おさ)の右腕と称される男だ。半端の無い内面の強さが伝わってくる。
キイは事が終わり、重傷であるアムイが皆に担がれて移動する時に、彼が仲間に向けて淡々と発した言葉を思い出していた。


《…仇の者を、同じ目に合わせる…。
結果的には、あなた方の思い通りになったではありませんか。
暁は大事な人間を奪われて奈落の底に落ちた。
……あなた方と同様に。
どうですか?仇を取ろうとしていたあなた方が望んでいた事だ。
そうでしょう?…》
その一見冷淡ともいえる科白の裏には、仇を取ろうとしていた二人に向けての哀しい問いが含まれているのを、キイのみならず他の者にも伝わった。
《そんな…!!》
ガラムはそう言い掛けて、ぎゅっと唇を噛み締め、苦悶の表情を浮かべた。
彼の心は嵐のように吹き荒れていた。
サクヤを結局救えなかった事、仇と信じている暁が奈落に落ちた事、本当にこれが自分の望んだ事だったのか?
ガラムの自問自答するような心の動きとは違って、レツだけはやけに冷たい表情を浮かべていた。
彼は始終一言も言葉を発しず、押し黙ったまま作業を手伝っていた。まるで何事もなかったかのように…。


先に行ったアムイ達を追うために、キイはサクヤの遺体を担いで鍾乳洞に向かった。
沈痛な面持ちで見送るガラムが見守る中、鍾乳洞に彼らが急いで入って行った後、セツカとレツが入り口が封じた。
もちろん昂老人の文書を、内密に聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)の人間に手渡し、事の顛末を知らせたのもセツカ達である。
聖天風来寺の者達は、すぐに理解し、何事も無かったかのようにそのまま北の国を去った。
ただ、キイに会いたくて会えなかった師範代の朱陽炎(しゅかげろう)が、かなりの落胆ぶりで東に帰って行ったらしいが…。

このようにしてその場から痕跡を消したかのように、キイ達一行は姿を隠した。
西の兵隊を持っているリシュオンだけは、アムイを運んでから、避難させていたイェンランと兵を迎えに行くため、別の抜け穴から鍾乳洞の外に出た。そうして急いでイェンランを連れてきたのだ。
リシュオンは自分の兵士数名を手許に残し、他の兵を船に戻した。何か起こった時にすぐに動けるよう、綿密に計画を立てて。
イェンランのショックを考えると、彼は説明するのに勇気がいった。が、それでもどうなってしまったかをきちんと伝えなければならない。…彼の危惧したとおり、話を聞いたイェンランはその場に崩れ落ちた。
それでも気丈な彼女は、懸命に意識を保とうとしていた。
《ねえ…、嘘よね?何かの間違いよね?》
喘ぐように言う彼女に、リシュオンは黙って首を振った。
《いやよ…!信じない!……この目で見るまで信じない!!
早く、早く私をそこに連れて行って!!》
短い間ではあったが、苦楽を共に支えてきた仲間だ。
イェンランは信じたくなかった。…サクヤの死を。
だが、悲しくも厳しい現実が、彼女の目の前にあった。
まるで眠っているかのような、綺麗な死に顔…。
リシュオンに連れられ、横穴から洞窟に入ったイェンランの目に映ったのは、大切に安置されているサクヤの亡骸であった。
そしてアムイが昏睡状態である事も、キイが懸命にアムイの傷を癒すためにつきっきりだという事も、彼女をさらに悲しみの底に追い込んだ。
それでも気丈なイェンランは人前ではなるたけ涙は見せなかった。
ただ、一人きりになると、抑え切れなくて号泣した。彼女の人生の中で、こんなに涙が出るのは初めてだ、というくらいに。

そしてサクヤは、ほどなく近くの密林で昂老人立会いの下、無事に荼毘(だび)に付された(火葬された)。
結界を張った上での事と、長く外に出られない事もあって、祈りの経文も短いものであったが、高僧と名高い昂極大法師に死者への言葉を手向けられ、さぞかしサクヤも安眠に付した事だろう。立ち昇る煙を見ながら、そうキイは思った。
ただ、やはり救えなかったという悔いは残る。それ以上に相方の容態も気にかかる。
皆でサクヤを冥府へと送った後、キイはいつものごとくアムイの傍に戻った。
「アムイ…」
キイはそっと呟きながら、いつもしているようにアムイの身体の横に胡坐(あぐら)を掻き、彼の動かない手を取って両手で包み込む。
「…聞こえてないかもしれないが、今サクを見送って来たからな。…毒素に侵されていたために、骨も残らなかったけど…」
弱々しくキイは笑った。
「だがお前は必ずは戻って来いよ。地獄の炎に焼かれるのではなく、奈落から這い上がって来てくれ…。
俺は待ってる。信じて…ここで待っているからな…!!」


........................................................................................................................................................................................

ここは地獄の何丁目か。

ふと、アムイの脳裏にそんな言葉が浮かんだ。
アムイは今、死霊に奈落の底に引きずりこまれ、どうやら何処かの沼に落ちたらしかった。
まといつく液体が、それを物語っている。が、
どうやらそこは普通の沼ではないらしい。
周囲は真っ暗でよくわからない。
ただ、すえた様な生臭い臭い、べたべたとまとわりつくこの感じ…。
アムイはぞっとした。
底に足が着かないほど、深い深いこの沼の水は、……いや、水ではない。
赤黒くくすんだ血が、溜まってできたものであった。

自分は今、汚れに汚れた血液にまみれているのだ。
しかも足首には、あの、死霊となっているミカ神王大妃(しんおうたいひ)の赤い爪が食い込んでいた。
その爪の食い込みに、彼女の執念を感じたアムイは、益々恐ろしさに背筋を凍らせた。
何とかその死霊を振り払おうともがくが、底なしの血の沼に力を取られ、上手くいかない。
そうこうしているうちに、ミカの手がするするとアムイの身体を這い上がって、胴体に巻きついてきた。
「く…そ!やめろ!その手を離せ!!」
アムイは懸命に抵抗するが、たぷたぷと波打つ血が口に入りそうになって、そのつど物凄い吐き気に襲われた。
振り払おうともがき苦しむアムイに、ミカの嬉しそうな声が暗闇に響く。
『もうだめよ。離さないわ、私のアムイ。あんたは一緒に来るのよ、私の元へ。
未来永劫、この場所で…。
さ、あの時みたいにまた一緒に寝ましょうよ。あんなに毎夜、可愛がってあげたでしょう?
忘れちゃったの…?』
その言葉に、アムイは恐怖を募らせた。
あの、悪夢のような日々。素直で無垢な自分を意のままにしようとした卑劣な大人達。
「いやだ!絶対にいやだ!!もうやめてくれ!!」
『本当に可愛かったわぁ…。私の胸の中で小さく震えて…。私が何をしても素直に身を任せて…』
「やめろ!違う!」
『違う?何が違うの?…可愛いアムイ。こんなに大きくなって…、アマト様にそっくりに育って…。
やはりお前はあの人と私の子供なのよ。間違ってよその女の腹から出てきただけ。
そうよ…そうなのだわ。あの時流れた私達の子が、あの女の身体を使って甦ったのね!
ああ…今まで寂しくさせてごめんね…。もうお前を離さないからね』
「違う!!お前は俺の母親じゃない!俺の母は…」 
『あの女の事を言うんじゃない!!』
突然、怒り狂った波動がアムイの身体を突き抜け、その隙に血の沼に引きずり込まれる。
「う、ぐぅあーっ!!」
アムイは懸命にミカを引き離そうと力を振り絞り、何とか顔だけを外に出した。
(やだ!こんなのはもういやだ!)
再び沼に引きずられそうになりながら、アムイは必死に抵抗し、脱出しようともがいた。
だが、あたりは真っ暗で、どちらへ行けばよいのか見当も付かない。
『あら、ずるい』
必死になっていたアムイの耳に、違う女の声が響く。
『…ほんとうだわぁ…。若い男を独り占めするなんて、ずるいじゃないの』
『あら、見て!すっごいいい男じゃない?こんないい男、何千年ぶりかしら』
聞けばそれは一人だけではなかった。幾人もの女の声が、四方八方からわらわらと涌き出るように聞こえてくる。
『向こうへ行ってよ!この男は私のよ!
あんた達には関係ないわ!』
ミカの憤った声が暗闇にこだました。
『同じこの沼に閉じ込められている仲間じゃないの、つれないわねぇ…』
『そうよぉ…。私達だって男が欲しいんですからね』
『ここは男に執着し、もしくは肉欲に溺れ、裏切られた悲しい女の溜まり場よ。
今更ひとりだけいい思いしようたって、許さないんだから!さあ、寄こしなさい、その若くて美しい男を!』

ぐわん、と、それを合図に空間が大きく揺らいだ。
『寄こせ!寄こせその男!』
『ああ、男よ、男!しかも若くて美しい!見て、この綺麗な肌』
『早く私にも触らせてよ』
アムイは息が止まるほどの衝撃を受けた。
一気に何十もの死霊に襲われたのだ。
目がちかちかする。身体を方々から引っ張られ、身体を裂かれるかと恐怖した。
『触るんじゃないわよ!この男は私のよ!
あんた達のような下卑た女が気安く触れていい男じゃないの!
この人はねぇ、神王となるべき王太子様のご子息よ!セドの王子よ!
大陸で真の王となるべきだったセドの太陽の息子なんだから!
とっとと向こうへお行き!!』
ミカの高圧的な物言いに、他の女の死霊達は憤然とした。
『何よ!此処に来たらそんなの関係ないわ!』
『お高くとまっても、此処にいるんじゃあんたも大した事無いじゃんか!
セドの王子?なら尚更独り占めになんかすんじゃないわよ!』
それでも懲りずに口々に騒ぎ立てて、アムイを奪おうとする女達にとうとうミカは切れた。
『触るなって言ってんでしょ!!その汚い手をどかしな!!』
『きぃぃ!よくも言ったね!』
『お前こそ八つ裂きにしてやる!!』
ぐわっと突然水流が大きくうねり、アムイは死霊達の群れから弾き飛ばされた。
ミカが女達と争っている。そのおかげでアムイは死霊達に解放された。が、いつ自分意に気が付いて再び襲ってくるかもしれない。
アムイは手と足を懸命に使って、死霊達がいる反対方向へと、血の沼を泳ぎ始めた。
だが、やはり周囲は真っ暗で、しばらくするとまた方向がわからなくなってしまった。
(どうしたら…!どの方向へ行けばいいんだ!)
焦るアムイに、死霊の声が届く。
『あ、あそこにいたわ!』
『抜け駆けしないでよ!早く早く!逃げちゃうよ』
アムイは再び手足を動かした。だが、べっとりとした血がまとわり、上手くいかない。
そうこうしているうちに、死霊達に追いつかれるかもしれない。
(どこだ!)
アムイは心の中で叫んだ。
(俺はここから出たい!!)
すると、ちかっと頭の隅で小さな光が点滅した。
(この光…?)
初めは気のせいかと思ったその光は、実は先ほどから彼の頭をちらちらとよぎっていた事を思い出した。
死霊を振り切る事ばかりに気を取られて、その存在に気が付かなかったのだ。
(……まさか…出口?)
その光は小さいながらも黄色く力強く輝きを持っている。
アムイはその光に安心感を覚えた。
まるでその光に導かれるように、アムイはその光を追って前に進んだ 。
前方を掻く手に何かが当たった。それは水辺に生息する水草の一種であった。
アムイは必死でその草を手繰り、岸に上がった。
後方の沼では、女の死霊達の阿鼻叫喚に混じって、怒声が聞こえる。その中には自分を追いかけてくる死霊の声もあった。
アムイは後ろを振り返らずに、懸命に耳をふさぎ、この場から走り去った。

もっと遠くへ!

本能がそう叫んでいた。
面白い…。あれだけ地獄に落ちて、この身を裁いて欲しい、身を滅ぼしてもいい、と望んだ筈なのに…。
いつの間にかここから抜け出す事しか考えていないなんて…!
乾いた笑いがアムイを襲う。
もうどうしたらいいかわからない。
これはお前が望んだ地獄ではないのか?
アムイは無我夢中で黄色い光を目指して突っ走った。
狭い息苦しいトンネルのような場所を、気が付いたらアムイは走っていた。

『お~い…』
だがその間にも、今度は別の死霊の声が逃走するアムイを呼び止めようとする。
『お前も来たのかぁ…』
『よく来たなぁ、大罪人の子。お前も親父と共にこの業火に焼かれに来たんだろう?』
それは暗くおぞましい男達の声であった。それも昔どこかで聞いたような声…。
『くくく。そうだよなぁ!ほら、一緒に来いよ!聖職者が産んだ穢れた子よ』
『お前のせいで、王家は滅んだ。お前のせいで、王国は滅した。
その民の無念を、ここで償っていけぇーーー』
どうやら死滅した王家の亡霊達のようだ。
アムイは急いで再び耳を塞いだ。
だが死霊の声は耳からではなく、直接頭に響いてくるのだった。
『おまえ~あか~つきー。おまえにころされーたー無念ーをー』
『お前の事、待っていたぞ!今度こそ俺と勝負をつけろ!』
『何が暁の明星!俺の方が強い!』
『今度こそお前をめちゃくちゃにしてやる』
これは自分が倒したならず者達のようだ。
その怨念が、声と共に重い重い波動となって、アムイの身体にまとわり付きだす。
がくん、と急に身体が重くなり、思考が停止しようとする。
(やめてくれ!!)
アムイは声にならない声で叫んだ。

苦しい。息苦しい。
この状態を、アムイは遠い昔に経験した事があるのを思い出した。
ちかちかと目の前に光る明り。狭くて窮屈な暗闇…。
あと、もう少し。
あと少しであの光に手が届く!

俺は何故、あの光を目指しているのだろう…。
地獄に落ちてもいいのではなかったのか…。
いや、そうじゃない…。
俺はこのまま死霊と沈むわけにはいかない…。
そのために俺は地獄(ここ)に来たんじゃない…。

そこまで思って、アムイははっとした。

そのために来たんじゃない…、って?
では何のために?
それでは何のために俺は此処に来たんだ…!?

混乱するアムイに、目の前の光はどんどん近づいてくる。
だが、死霊達もアムイを逃すかと懸命に身体にのしかかってくる。

この苦しさ…!そして目の前の明り。

気を失う寸前で、アムイは思い出した。

そうだ。…これは母の産道を通り、この世に生まれ出る苦しみと同じ…。

あの時も自分 はあの光を目指したのだ。
どんなに苦しくても。
あの暖かい光の元へ。
優しい両親の励ます声に導かれるように…。

俺はこうして大地に降りた。

俺はこうしてこの世に生まれた。

俺は…。


…………


そこでアムイは意識を失った。

はるか冥府の底の底。
奈落の底へと落ちて行った、アムイの意識はどこに行ったのか。
それは誰も、本人でさえもよくわからない…。

にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月 8日 (日)

◆お知らせ◆別館を設けました

いつもご訪問ありがとうございます

13章を始めたばかりですが、ここでお知らせです。

この物語の詳細・設定をまとめるブログを、別館として立ち上げました。
将来、《暁の明星 宵の流星》専用ブログにするつもりです。

主に設定書、裏話的つぶやき、などの置き場であり、将来はスピンオフ作品などを掲載予定。
まだほとんど充実させてはいませんが、随時更新中であります。
(索引も作成予定でして…。うう、時間が欲しい)

とにかく話がえらく長くなり、作者自体も混乱を来たす危険があるということで、まとめて整理する場が欲しかったのです

ちまちまと更新していきますので、よかったら覗きにきていただけると嬉しいです。

創作図鑑・別館《暁の明星 宵の流星》
http://sousakuzukan2.blog97.fc2.com/

(サイドバー『はじめに…』にもリンクページを設けます)

ここG.W中は、こちらの方をほとんど手がけていました。
なので次回更新は、しばらくお待ち下さい
今週は特に母の日があるため、実は生花店で働く自分は、一番忙しい時でして…。
昨日も市内をずっと配達で回ってました
今日も頑張って市内を車で走ります!


で、ここでつぶやきです。
このような作品ですが、一応ランキングにだけは(笑)登録しております。
ブログ村ファンタジー小説で登録しているのですが、ここでオリジナルバナーを作ってしまいました♪
今度からこれを使おうかなぁ、と。

もし、お読みになって気に入っていただけたら、バナーをポチ♪してくださるとありがたいです。
にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ
にほんブログ村


ついでにオリジナルバナーもういっこ

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

母の日が終わってから、なるべく更新を急ぎます
どうかよろしくお願いします

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月 1日 (日)

暁の明星 宵の流星 #144

13.獄界を彷徨う

  

  地の底に 沈んでいるのは何だ
  それは虚構か はたまた真実か
   
  隠されしものをしかと見よ
   
  表は裏に 裏は表に
  表裏一体となって世界は動く

  それは 己の身の内に
  それは 己を映す鏡となって


────────────────────────────────


この世に繁栄をもたらすために 妹女神(いもうとめがみ)がこの地に降臨されたのは
絶対神(ぜったいしん)が自らお創りになったこの世界を
ことのほか愛しておられるからである

絶対神の創造するこの大地に 生きるすべてのもの
調和の元に存在するものなり

その調和のために神は地の王を欲した
天から注がれる神の愛を受け止め広げる器
愛する大地から天を支えてくれる人の王  支天(してん)の王を

大地の母である妹女神は 天に帰りし兄の願いで地に降り
人と交わり 子を産み落とす
神の意を具現化する人間を世に送り出すために

       ........................オーン経典第5章.創世記その2................

 

だがあらゆる調和が乱れし時は
天は我らをお見捨てになるとなると思うか?

私は神の御前に 
生涯この身を捧げ 生涯この清い体をもってする
そうして神と一体となる  霊性にして神の命を受け継ぐ姫巫女と化身する
姫巫女は血よりもその霊性をもって受け継がれる神の子なり
巫女である私の言葉は神の言葉であり 天のものであり 
我が言の葉は神と睦んで生まれし子供と同じ

さあ、人よ
恐れ多くも天の力を手に入れたければ この清い巫女の純潔の体に種を入れよ
だがそれも普通の種では芽は育たぬぞ
我が母の 女神の血を引く種でなければ 天の力は花開かぬ

さあ、人よ
お前たちにその勇気はあるか?
それほどまでにこの荒れた大地をおさめようとするか?
この地を創った天の力を手にするには
このように難儀であるという事を知れ
神の声を聞く 神と一体である純潔の巫女を失うと知れ

それができるというのなら
お前達の覚悟を認めよう

神の声を聞く巫女と女神の種を持つ王が交わりし
再び神の原点に戻ろうとする力で
光の輪は再びこの地に現れる

それがいつの時代でも
地の調和乱れしとき
最後の最後に隠された秘法(秘宝)であると
最初で最後の神の言葉をここに伝えよう

   ...........セドナダ経典第3巻最終語録 .オーン巫女・女神の娘の言葉................

────────────────────────────────
............................................................................................................................................


ああ…寒い…

身体が凍えるように寒い

ここは何処だ?
俺は何処にいるのだ…


霞がかった風景が、徐々に明瞭になっていくたびに、アムイは寒さに打ち震える。

ああ、そうか。
俺はあいつと共に、奈落の底へ落ちたのだった。
暗い…暗いなぁ…。
だから寒いのか。…だから俺は一人なのか…。

では、此処は俺の望んだ地獄なのだろうな…。
俺はとうとう罰せられるために、やっと地獄に来れたんだ…。 

ずっと生きながら己を苦しめていた罪悪感…怒り、悲しみ、恐怖…全ての暗い感情を、アムイの魂はただ、ただ、感じていた。
この暗闇の中で。全身をなぶるようなこの寒さの中で。

気が付くと、荒れ果てた荒野に自分は立っていた。

赤茶けた不毛の大地。所々に凍りついた岩石が転がっている。
半分砂漠。半分が氷の世界。
赤黒い空。まるで人の血を吸っているかのような色。今にでも血の雨が降ってきそうだ。
ここに存在する己の不安定さ。不確かさ。

ひび割れた大地の隙間から、なにやらおぞましい空気が立ち昇っている。
黒くて、ざらざらとした…空気…。
いや、あれは霊魂の嘆きだ。怒声だ。悲鳴だ。
そうか…。寒かったのはこのせいか。
ここから洩れてくる念がこの場を凍らせているのだ。

………此処は…入り口にすぎない…。冥府と地獄の境…。

なんだ…俺はまだ地獄の大王にさえ会えるような場所にいけなかったのか。

聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)で習った、東の国の寺での教え。
それは地獄には審判の大王が存在して、罪深き魂を裁いているという…。


国によって多数の宗教、宗派が存在するも、大陸の共通信仰の要となった一神教であるオーン教と、それに類似した一部のセドナダ信仰以外は、基本、多神教であった。細かな教えの相違や、全く別の世界が表現されても、不思議な事だが根本的な仕組みには、全ての宗教に類似点が多いように思う。
昔起こった宗教戦争の悲劇は、この相違だけを焦点にし、己の教えが絶対であり、他宗を除外するという愚かで次元の低い考えから端を発した。
………その血みどろの神の教えにあるまじき行為が、宗教家達を地獄に陥れた。巻き添えになったのは一般市民であった。
血で血を洗う神という名の戦い。
国も巻き込んでの何年もの抗争の果て、愚かなことに気付いた者達が集い、賢者衆という組織をつくり、これが大陸の宗教戦争を終息に導いた。


《神の教えを守り、神の意を伝え、天の理に従順し、天の恩恵をもって、人々を導く立場の人間が、このように愚かでよいのであろうか!互いの相違点ばかり見るな!互いの類似点に焦点をもて。
天や神の申す事、それが見えてくるではないか。
互いを敬い、互いを愛し、そう説いている筈の者が、何故そのようになる。
オーンでいえば、絶対神が望んだのは何だ?
東や北の多数の天神が説いたのは何だ?
南の龍神が火を人に与えたとき、約束したものは?
西の海神が一番に必要と教えたものは?
──もう、お分かりであろう──…愛と調和。
今、これを実践している宗教家がどれだけいるのだ。…それをわかっているのなら、このような愚行ができるわけがないのだ》


それから一気に全大陸の宗教・宗派は和解し、譲歩し、今の縮図が出来上がった。
大陸は広く、それぞれの歴史が息づき、それがその地を作り上げている。
統合し、全大陸の宗教をひとつにするのが理想であろうが、それは無理だと悟った人々は、先の理由で彼らは統合よりも調和を選んだ。
互いの違いを認め合い、譲歩し、尊敬し、高い次元での信仰の調和を求めた。
今は他宗教同士、理解し合い、お互いを敬いながら、手をつないでいる。
それは大陸の雛形となった。……国同士の確執を残したまま…。
宗教は、“信仰”という共通項のおかげで調和の道を取ったが、今でも戦いの傷跡がまったくなくなったとはいえなかった。その傷跡は国家間に軋轢を残し、水面下で今も燻り続けているのだ。
………宗教がまとまった今、大陸を制する野望を抱く者が出てくるのは当たり前の事である。
本当の意味での大陸統合。
絶対神の言う、天を支える唯一の大陸の王。神同様に君臨する支天(してん)の王。
あの神の血を引く神王(しんおう)でさえ、大陸の王となれなかった、覇王に。
小さな戦いはまだ方々に残り、今だ仮初(かりそめ)の平和の中で、それらがどんどん激しく摩擦し、いつか必ず全土戦争に向かう。
あの、宗教戦争と同じ、いやもっと私利私欲と野望と欲望渦巻く、非人道的な戦いがいつか必ず起こる。
………神の力を手に入れたいという輩が出てくるのは、至極当たり前の事だったのだ……。

その渦の真っ只中にいる事を、アムイもキイも嫌というほどわかっていた。
どんなに忘れたくても。どんなに逃げたくても、避けたくても。
その事実はずっと二人に付きまとっている。そう宿命を受けて生を受けた。
……父が神に背き、純粋な神の巫女を穢してから。神と契った女と通じてから。
その結果として生まれた自分達が、己の運命から逃れられる訳がないのだ。


だが…。

アムイはその場で涙を流した。
久方ぶりの涙。
最初から、許されるなんて思ってなんかいない。
自ら奈落に落ちると決めたのは、運命から逃れたいと思ったからだ。
己が天との契約を反故するつもりだからだ。
己の弱さが自暴自棄にさせてもおかしくはない。

地上での教えが確かなら、人はこの地に降りるとき、必ず天と契約するという。
天がこの地に生まれるのを許す代わりに交わした数々の誓約書。
生まれ出でる衝撃で、その契約を忘れてしまうといわれるが。
その契約は人によってそれぞれ異なるらしい。だが唯一、全ての人間が交わさなければならない誓約があるという。
それに同意しなければ、人は決して地に降りる事を許されないといわれる。
…それは……天と契約した天命を全うすることなく、自らを滅ぼしてはならない、という天との誓約…。
どんなに苦しくても、辛くても、天がここまでという寿命を無視し(これ自体が契約だという)自分から地を去ってはいけないと。
自らを殺してはいけないと…。
実行すれば、それは天との最大の契約違反。…それ相応の罪状が待つ、一番厳しい契約なのである。
それを破った人間は、簡単に天には戻れない。
もう一度同じ課題をやり直すために転生するか、自分のように奈落に落ちて苦行するしか道はない。

……ここは…地獄の入り口なのだろうか…。

自ら地獄の炎に焼かれたがるほど、アムイは絶望していたのだ。
周りにも自分の弱さにも。全てに絶望していた。
…地上に残してきたキイの気持ちをも遮断し。
いや、キイの契約では、あと数年しか地上での時間がないというではないか。
…なら、キイを失って自分が悲嘆するよりも、先に自分が地獄に行ったほうが数倍いい…。

冷静に考えれば、全く自分本意な勝手な思いに占領されているのがわかった筈だ。
だが、今のアムイはその思いに全て囚われていて、完全に思考が鈍っていた。

アムイは地獄の入り口を求めて、ふらりと一歩を踏み出そうとした。
「う、うわ!?」
突然、アムイは前に倒れそうになった。なんと、赤茶けた地面からずぼっと手が出て、アムイの足首を掴んだのだ。
…自分の足首を掴んだ手をよく見ると、それは爪を赤く染めた女の手だった。
「…な?…は、離せ!!」
懸命に足を動かし、その手を振り払おうとしても、がっちりと離れない。
仕方なく自分の手でその手をこじ開けようと試みたその時、また同じ手が地面から出てきて今度はそのアムイの手首をがちっと掴んだのだ。
アムイの中で、言い知れぬ恐怖が沸き起こった。
「く、そーっ!!離せったら!!」
もの凄い力で地面に引きずり込まれそうになる。
アムイは必死で抵抗した。その力は尋常ではなかった。
…そう、これは人ではない…死霊の手だ…。
地獄に落ちてもいい、とまで思っていたアムイの中で警鐘が鳴る。
いくら地獄に行くとしても、死霊に捕らわれてしまうのは本意ではない。
思いっきり引き摺り下ろそうとする力に抵抗し、渾身の力を込めてその死霊を引っ張り上げてアムイはぎょっとした。

乱れた真っ黒な長い髪が白い顔を覆い、赤い唇だけが引きつるように笑いを浮かべている。
長く地の底にいたのであろうと思われるほど、女の身なりは薄汚れ、風化している。
だが、その死霊の執念だろうか。かろうじてその身は、朽ちて崩壊するのを拒んでいるかのように、見た目美しく保たれていた。
……執念…!
アムイにはその波動に覚えがあった。…女の…執念…。

…うれしい…
赤い唇が誘うように動いた。
ああ、この口に何度自分は責められ、弄られ、歯を立てられたか…。
「…お前は…」
やっとの思いで声が出た。…きっと、死霊とはいえ一番会いたくなかった女であろう…。
来てくれたのねぇ…!やっと会いに来てくれたのねぇ…うれしい…!
長かったわ…。
待ってた…。ずっとここで待ってたのよ、あなたが来るのを

まるで甘えるような猫撫で声に、背筋が凍る。
何度も何度も囁かれたその甘い声は、次の瞬間、決まって恐ろしい罵声と化したのだ。
「……間違えている!お、俺は…父さんじゃない…!アマト王子ではないぞ、ミカ神王大妃(しんおうたいひ)…!!」
名前を口に出すのにも勇気がいった。
散々幼いアムイを好き勝手に弄んだ、その女の生気のない顔が自分を見てへらへらと笑っている。
そんなこと、わかっているわよ、私のかわいいアムイ
自分の名を呼ばれ、ますます寒さが増していく。
あなたのそのあま~い“気”を、私が忘れられるわけがないじゃない。
ああ、お父さんになんてそっくりなの…。うれしいわ…こんなに立派に成長して。
ずっと待ってたのよ、お前を

父を愛するあまり、父に執着するあまり、己を壊した女、ミカ・アーニァ神王大妃。
ある意味、愛憎という闇に堕ちた、可哀相な女…。
その女がじわじわと自分の身体に手を這わせてくる。
アムイは金縛りにあったがごとく、その手を払いのけられないで、彼女の言葉を聞いていた。
 

『 …あの方はねぇ、ずっと捜していたけど此処にはいないの…。
神に許しを請いに天に向かわれたのかしら。
どうして迎えに来てくれないのかしら。
そう思ったら哀しくて辛くて…。
あの方のいる天に行きたくても、何故だか此処の砂に足を取られて、上に行けないの…。
だからあなたを待っていたのよ、アムイ。
あなたなら此処から私を救ってくれるでしょ?
あなたならあの方の元へ私を連れて行ってくれるわよね?
だってあなたは私とあの方の子供ですもの…』


「違う!俺はあんたの子供じゃない!目を覚ましてくれ!気付いてくれ!
…現実を思い出してくれ…」
アムイは抵抗し、必死になってそう叫んだ。
あのままだ。
死してもまだあの時のまま、この女の思念は変わってはいない。
いや、変わらないからこそ、ここにずっと捕らわれて動けないでいるのだ…。
その事に、アムイは気が付いた。
現実と向きあわずに、正しい目で世界を見なかったために、この場に縛られているという事を、彼女自身、気付いていないのだ。


『ああ、私のかわいいアムイ。
そんな冷たいことを言うのなら、もういいわ』

「何…?」
アムイの拒否に、彼女の思考が変わったらしい。がらりと声の種類が変化した。
それと共に、アムイを捕らえていた姿が恐ろしいものに変化し始めた。
髪はばらけてごそりと抜け落ち、その美しく保っていた姿が崩れ始めた。
…彼女の、本来の姿がそこにあった。

『アムイ…アムイ…。あの方が手に入らなければもうお前でもいいのよ!』
地の底から這い上がってくる死霊そのままの、声。
『だから一緒に来て。もう離さないわ…』
「う、うぁああっ!!」
アムイは悲鳴を上げた。再び、恐ろしい力で地に引き摺り込まれそうになる。
アムイは恐怖に駆られながら、その場に必死にしがみついた。が。


ああ、やっと捕まえた。
本当にあの方にそっくり…。うれしい…!私、寂しかった…。
ずっとずっと私と一緒にいてくれるでしょ…?
…だって、昔からお前はいい子だったもの…。
私の言う事を素直に聞いてくれたいい子だもの…!!


「やめろ!!違う!違う!!」
拒否の言葉以外出せないほど、アムイは恐怖の中にいた。
嫌だ!このまま引きずられるのは嫌だ!!
あの頃はまだ抵抗できない子供だった。だが、今は…。
「俺はお前のものではない!父さんだってお前のものじゃないんだ!!
独占したい気持ちはわかるが、執着も過ぎれば罪となる!
その執着がお前をここに繋ぎ止めてる!何故それがわからない…」
必死に諭すアムイの言葉など、執着の化身と化しているミカの亡霊には理解できない。

ずる…ずるずる…。

彼女の執着はアムイの身体をがっしりと抱え込み、そのまま赤茶けた大地の割れ目に引き摺り込む…。

「やめろぉぉ──!!!」

抵抗もむなしく、アムイはミカの亡霊と共に、地の底へと落ちていった。


...................................................................................................................................................................................

「…アムイの容態は…。まだ意識が戻らないの…?」
イェンランのか細い声に、キイはやっとのことで顔を上げた。
胡坐をかいている彼の手の中には、血の気のないアムイの手がぐったりと納まっている。

そこは不思議な灯火(ともしび)がたくさん揺らいでいる場所だった。
方々に散った小さな灯火…。よく見ると、それは丸い光の玉が浮かんでいるだけであった。
“気”を凝縮して作った灯りだという事が、この事からよくわかる。
それがうっすらとその場を優しく照らし出していた。
こじんまりとしたその場所は、どこかの洞窟のようであった。
周りを囲むように露出した岩肌が、その事を物語っている。
屈まなければ通れないような小さな入り口をくぐったその奥に、アムイは仰向けに寝かされていた。
柔らかな草木を敷き詰め、布をかけたその上に横たわるアムイの姿は、一瞬見るとまるで死んでいるかのように見える。

キイはあの日から、アムイの傍を離れなかった。
いや、離れられなかった。
あの、満月の夜以来…。

月は、アムイの母の死と同様に、サクヤの死も連れてきてしまった…。
本来月は母性の象徴で、誕生を促すものである。が、滅多に現れない月夜に大事な人がこうも命を奪われれば、思いたくなくても、そう思わざるを得ない。
そんな自分が、キイは哀しかった。
アムイの母、ネイチェルが殺された夜に浮かんでいた赤い月を、幼いキイは覚えていた。
彼女の死の後に、姿を消した月。
月光という異名の彼女が、地上から去った証のごとく。
あの時、泣き叫ぶアムイの背後の窓から覗く、赤々と闇夜に浮かぶ…月。
その月がサクヤの死に際に輝く黄金色の満月と重なった。

……あの後、アムイがヘヴンを切り捨て、奈落の底に落ちてから、キイは再び月が夜空から消え去っていた事を思い出した。

ネイチェル…。

アムイを助けてくれ。

闇夜を照らす、月光の君よ。

もしできることならば、奈落に落ちた貴女の愛し子を、どうか、地上への道へと導き、その光で行く先を照らし出してくれ。


憔悴しきったキイの顔に、イェンランは胸が締め付けられた。

奈落の底に落ちた、という当のアムイは、ここに落ち着く前から、生きているか死んでいるかわからない状態であった。
あの、キイが意識を閉じた状態と同じく、肉体は機能していても心はそこにはなかった。
そう、肉体が目覚めても、アムイの魂(たま)は完全にそこには存在していないのが明白だった。
「…アムイはあの時のキイと同じ、意識が奥底に沈んでいる…って事なの?」
思わず疑問を呟いたイェンランに、キイは苦しそうに微笑んだ。
「似ているけど、アムイの場合は違うよ」
「違う?」
「ああ、…確かに意識を閉じて、沈んでいる事は沈んでいるのだがな…。
アムイの場合、その意識が肉体の中には無いんだ」
「無い?それって…どういうこと?」
キイはふう、と溜め息をついた。
「アムイの意識は、肉体の底を突き抜け、さらなる奥底に沈んでしまったんだよ。
つまり、肉体を離れ、魂(たましい)が外に出てしまった。
ただ、まだ肉体が生きているのは、かろうじて命の鎖で魂(たま)と身体が繋がっているから…」
「た、たましいが、肉体を出てしまっている?」
イェンランは信じられなくて、思わずアムイの身体に目を移した。
まるで眠っているかのような顔。だが、青白いその顔は、死んでいるといっても違和感がない。
「…で、アムイは自分の身体から出て、何処に行ってしまったの?
まさか、本当に…その…」
イェンランは恐ろしさのあまり、その先の言葉を言えずに口ごもった。
「……多分、地の奥深く。冥府と地獄あたりだろう。…アムイ自身が、そう望んだ」
キイらしくない、抑揚の無い疲れた声が、イェンランの涙を誘った。
だが、一番辛いのはキイであろう。彼女はぐっと堪えた。

アムイは初めてキイの存在を忘れ、キイの手から離れ、自分自身で旅立っていったのだ。

「キイ、私…」
震えるイェンランの声にキイは弱々しく笑うと、アムイの顔を眺めながらこう言った。
「心配いらないよ、お嬢ちゃん」
「え?」
「……地と通じる必要があるアムイにとって、冥府は絶対に避けて通れない道だ…」
自分に対してというよりも、まるで独り言のように言うキイに、意味がわからなくても、イェンランは黙って彼の言葉を聞いていた。
「それが地獄、とはなぁ…。アムイの奴、なんて思い切ったことを…」
そう言ったまま、沈黙してしまったキイを残し、イェンランは涙を浮かべながらその場を後にした。
…あまり泣くと、またシータやリシュオンに心配かけてしまう…。

あれからもうすでに一週間は経っていた。

あの日。
最悪なあの夜の日を、イェンランは忘れたくても忘れられない。

リシュオンが自分を迎えに来た、あの日の事を。
その報告に信じられない自分が目の当たりにした、サクヤの死に顔を。

──…悲痛な面持ちでアムイを見つめる、キイの端正な横顔を。


 


にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ
にほんブログ村
ポチしてくださるとうれしいです。(…キイのバナー…つくっちった…)

....................................................................................................................................................

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »