暁の明星 宵の流星 #149
次の日、南の大帝ガーフィンは、先に連行されたティアン達を追って、朝早く北の国を出発しなければならなかった。
「本当にこれでよろしかったのですか?ガーフィン様」
朝もやの中、イアン公の庭先で、モンゴネウラが遠慮がちにガーフィンに言った。
「仕方ないだろう?ああもきっぱりと言われてしまったら」
苦笑してガーフィンはお供の者に自分の荷物を手渡した。
「少し甘いのではありませんか?…あの時は俄然リンガ様を連れ帰ると…」
「すまないな、モンゴネウラ。早めにこっそりと手紙でリンガの様子を忠告してくれていたのに。
またお前にも苦労をかけてしまうが…」
その言葉に、モンゴネウラは慌てて首を振った。
「滅相もございません、大帝。そんな事、苦労のうちにも入りませんが…。
しかし…ここまで、王女のお気持ちが真剣だったとは…」
日々の報告はドワーニの仕事であったが、【暁の明星】の素性や、彼らを取り巻く諸々の事件で、モンゴネウラは個人的に大帝に文書を出したのだった。はっきりするまでアムイ=メイの素性を兄大帝には伝えない、というリンガ王女との約束を、こっそりと破った事になるのだが、それだけ父代わりのモンゴネウラは彼女が心配だったという事だ。特に彼は大帝とセドの王子の件も目の当たりにしていたという事情もあった。
できればモンゴネウラはここで彼女に引き返して欲しかったのである。
「いい加減、私もあいつには甘いなぁ、と思うよ。しかもかえってあいつの意欲に火をつけてしまったようだ。
こうなったら誰にも止められん。お前も分かっているとは思うが、私も半分諦めた。
ならば私も気持ちを切り替えるしかあるまい?リンガには国のために少し働いてもらう。
…もちろん約束したとおり、危険が迫ったら必ずすぐに引き返してもらうが」
傍にいたドワーニが力強く頷いた。
「…宵の件があるので、このまま軍を撤退するのは気が引けるが、一応北の王との約束なのでね。
…国に戻ったらもう一度、この件を検討さぜるを得ない。だが、そうしている間に出遅れるのもかなり痛い。そこでだ…」
ガーフィンは声を潜めた。
「妹は必ず暁と接触を試みるだろう…。ま、それが目的だからな。
ということは、必ずや暁の傍には宵がいる筈だ。
…暁の事はお前達に任せるとして、宵の捕獲には私の隠密を置いていこう。
お前達の目の前には現れないが、リンガが何かあったとき、力になれとも命じてある」
「大帝、それでは貴方様の御身辺が…」
ドワーニが慌ててこう言った。先代の大帝から、ずっと片腕として努めてきたドワーニである。
肝心の大帝の警護が薄くなったら元も子もない。
「心配するな、ドワーニ。私とて、右腕のお前がいてくれないのはいささか心細いが、新たな側近をすでに配置しておる。ティアンの後釜と、護衛官をね」
そう言うと、大帝はドワーニの肩に手を置いた。
「…リンガを頼むぞ。父君と同様、命を懸けても妹を守れ」
「はっ!もちろんであります!」
屈強な大男であるドワーニは、大帝を敬うために南軍の正式な敬礼をした。
頷いたガーフィン大帝は、そのまま隣にいるモンゴネウラに顔を向けた。
「モンゴネウラ、本当に悪いな。…せっかく心を砕いてくれたのに。
…ここまで来たら、最後までリンガの思うとおりにさせてやろうと思う。…結果が本人にとって意に沿わないものになったとしても、お前が傍についているなら大丈夫だろう。…それに…」
ガーフィンは自分に言い聞かせるように力強く言った。
「南の帝国の王女としてのプライドを信じようと思う。まかりなりにも自分の妹を信じてやれなくてどうする?
だが、あれも父君の子だ。…先日の馬の件のように、感情のまま暴走しないとも言い切れない。
その時こそ、お前の冷静さが頼みになる。…よろしくな、モンゴネウラ」
「もちろんです」
モンゴネウラは恭しくガーフィンに頭を下げた。
こうして南の大帝は、まだ部屋で休んでいるリンガとお供の二人、そして数名の隠密を北の国に残し、早々と南の国へと戻っていった。
だが、その帰国する途中、とんでもない事態が彼らを待ち受けているとは、この時の大帝一行には思いも寄らなかった。
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「もう出発してしまったの? …起こしてくれればよかったのに」
しばらくして朝食のために、リンガ王女があくびを噛み殺しながら寝室から出てきた。
「大帝がゆっくり休まれるように、とのことで」
先ほど屋敷の召使いが持ってきていた朝食を乗せたトレーを、ドワーニがかいがいしくリンガのために外のテラスに運ぶ。
外は珍しく暖かな日差しが降り注ぎ、秋とはいえまるで春のような陽気に、リンガの心も久々に解放されていた。
「これはこれは、リンガ王女。今朝は随分と明るい顔をされておられる」
先にテラスで朝食を取っていたモンゴネウラが、お茶を啜りながら彼女に声をかけた。
「そ?…言いたいことがあるのなら、はっきりしたら?
兄君から聞いているんでしょう?わたくしの決意」
そう言いながらリンガはモンゴネウラの目の前に座った。
「もちろんですとも」
「ねぇ、モンゴネウラ。貴方も知っていたんでしょう?。
父君と【セドの太陽】の因縁。…知らなかったのは…多分わたくし一人ね」
ドワーニが目の前に置いてくれた朝食を口に運びながら、リンガはぼそっと言った。
「どう思いましたか?王女」
表情を崩さず、モンゴネウラはさりげなく聞いた。
「そりゃショックに決まっているじゃない。
…父君に似ていると言われて、わたくしが嬉しくないの、長い付き合いの貴方だってわかってるでしょ?
何も好きになる男まで似なくてもいいじゃないのーって。でもかえって腹が据わった気分」
「ほう」
「わたくしは絶対に父君のようにはならないわ。
考えても御覧なさいよ?この南の王女、リー・リンガが男に溺れる?身を滅ぼす?
おかしいじゃないの。そんなことになるわけ無いじゃない。
父君のお陰で目が覚めたわ。
身を滅ぼすのは相手であって、わたくしじゃない。
このプライドにかけても、きっとアムイをわたくしの虜にして意のままにしてみせるわ!」
そうはっきり言う彼女に、モンゴネウラは同意するように頷いたが、心の中では苦笑していた。
……この科白、昔同じように誰かから聞いたような気がするが…。
それがことごとく打ちのめされて、彼の君は気が触れてしまったのだが…。
確かに大帝の言うとおり、もうここまできたら本人の気が済むまでやらせるしかない。
「もちろん、相手が駄目だとなったら、潔く手を引かれますでしょうな?
恋の達人はそこの所が肝心ですぞ?」
「…わかってるわよ…。兄君から聞いてるんでしょ?
これ以上深入りしたら危険だと思ったら必ず引き返すわ。
そのために兄君は貴方達二人をわたくしに残してくださったんだろうし。
大丈夫!わたくしの女のプライドに賭けても、一人の男のために自分を見失うなんてこと、絶対にしないから」
彼の前ではっきりと宣言すると、リンガはにっこりと笑った。
その邪気のない笑顔に、モンゴネウラはこっそりと溜息をついた。
今のアムイが意識不明だと知ったら、ここまで余裕があるかどうかは怪しいものだが、彼女は今までの経験上、どうにでもなると信じていた。
だが、彼女の中に不安な要素があるのを、長い間一緒だったモンゴネウラは見抜いていた。
彼女の中で、プライドが勝っているときは安心だ。だが…。
先帝もそうだったが、激情のまま突っ走りがちな典型的な南の人間。
また、あの時のように暴走しないとは限らないという不安があった。
だからこそ…。身近な自分がしっかりしなければ…。
モンゴネウラは今まで以上に決意を固めた。
「で、これからどうなさるおつもりか?」
モンゴネウラは、隣でデザートを口に運ぶドワーニを横目で見ながらリンガに言った。
「ずっと一晩、考えていたのだけど」
リンガはぐいっと身を乗り出した。
「…姫胡蝶(ひめこちょう)…カァラの後を追おうと思うの」
「ひっ、姫胡蝶ど、殿、の後を、ですか!?」
何故かドワーニが顔を赤らめ、思いっきりむせながら慌てて言った。
リンガはどうしてそこで動揺するのよ、というような目で、ぎろりとドワーニを睨むと、すぐにモンゴネウラに視線を移してこう言った。
「怪しいのよね、あの男」
「怪しい?」
「そう。私との話で、アムイの事、かなり気にしてるようだった。
…しかもあれ、並々ならない関心よ。
本人は冗談めいて言っていたけれど、あれ、わたくしには本気に思える。
…彼はアムイに用があるようよ。必ず彼を見つけるって…」
「そのような事を、あの姫胡蝶殿が仰ったので!?」
「もうっ!うるさいわよ、ドワーニ!」
ドワーニの素っ頓狂な声に、リンガは思わず片耳を押さえた。
「つまり、彼らの動向をこっそりと探っていれば、おのずと暁達の居所がわかるかも…と」
モンゴネウラの淡々とした言葉に、リンガは思いっきり頷いた。
「そういうこと!」
「確かに、その方が確実に暁を捜す事が出来るでしょうな…」
(そう、並の人間では見えないものが見えるという、目を持つとされる彼ならば…)
モンゴネウラはざっと考えた。
「王女の言うとおりです。…そうとなったら、これからすぐにでも出発しましょう…。彼らが暁を追って、もうすでにこの町を出たかもしれない」
「姫胡蝶殿を追う…」
にやけた顔をしているドワーニを、面白くない顔でちらりと眺めてから、リンガはモンゴネウラに同意した。
「では早速支度しましょう。…絶対にあの男の毒牙からアムイを守ってみせるんだから…」
あの挑戦的なカァラの目を思い出して、リンガは唸った。
(せいぜいアムイを見つけて頂戴。見事横からさらってみせるから!)
リンガの益々意欲的な顔を見て、再びモンゴネウラは人知れずに溜息をついた。
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「わかった。では、そのように計画を進めよう…。
リシュオン、申し訳ないが、よろしく頼む」
キイはほっと息を吐くと、ゆっくりとその場から立ち上がった。
つい先ほどまで、洞窟で一番広い場所で全員が集まり、今後の事を話し合っていたのだ。
結局話し合いの結果、自由な身となったリシュオンの好意に甘えよう、と言う事になり、ここから西寄りにある小さな港から西の国経由で東に向かおう、という事になった。かなり遠回りになるが、意識不明の人間を連れては、これしか手段がなかった。
「それでも、とにかく船に乗ってからですが…、状況によって上手くいけば、このまま東に行けるかもしれません。
問題はこの場から上手く港まで出れるかどうかですね」
リシュオンの言うとおり、この洞窟からでは結局シャン山脈側しか出れないため、あえて再び出入り口を塞いだ鍾乳洞の方から出て、未開の山を下り、港町まで行くしかなかった。しかも意識がない大人を連れて…。
「これ以上いつまでもここにいるわけにはいかないだろう。
もうかれこれひと月になろうとしている。
できれば、次の満月になるまでには、ここを出て行きたいと思う」
「次の満月…。あと二日しかないじゃない。…大丈夫?リシュオン」
キイの話に、シータがリシュオンに振り向いた。
「ええ。とにかく私は今からここを出て、準備をしてきます。
ついでに周辺の調査もしてきます。…あの南軍が撤退したらしいですし、身近に迫る敵はないと思いますが、このような情勢です。いつ誰に襲われるともわかりません。念には念を入れて慎重に事を運びますので、ご安心ください」
「西の国の王子である君に、このような手を煩わせて、本当に申し訳ない」
キイが頭を下げた。
「止めて下さい、キイ。…自分の意思でやっている事ですなのですから」
リシュオンは爽やかに微笑むと、護衛を伴ってこの場を去った。
「私も急がなくちゃ。とにかく荷造りよね」
残されたイェンラン達は、気を入れ直し、急いで準備に取り掛かった。
キイは皆に促され、アムイの支度を任された。
ほとんどの時間、アムイの傍にいるキイは、彼の微妙な変化にも敏感であった。
かろうじて繋がっている魂の鎖のお陰で、アムイの息が止まることなく、一見すると深い眠りについているように見えた。
一時期は深手のせいで、顔色もかなり悪く、仮死状態気味でまるで死人のようであったが、キイの癒しの力のお陰で、肉体はかなり回復していた。そう、肉体は…。
昂老人に助け出され、キイが今預かっている子供のアムイは、小さな光となって今もキイの胸の中で抱きかかえられ、癒されている。
…いつかアムイの目が覚めたら、この子を返さなくてはならない…。
その日まで、傷ついたこの子を大切に守らなければ。
キイはアムイの寝顔を見ながら、心底思っていた。
(……アムイよ。お前は今、どこら辺をにさまよっているのだろう…。少しでも、俺の声が届くといいのに…)
キイはそう思って、いつものごとくアムイの傍らに膝を付き、彼の手を取り語りかけた。
声を出して話しかければ、いつかはアムイに自分の声が届くのではないかと思って。
「戻ってきてくれ、アムイ。
…俺も、皆も…そして小さなお前自身も、この世界でずっとお前が戻るのを待っている…」
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気がついたら自分の意識は、混沌とした記憶の渦に放り出されていた。
目の前に広がる光の洪水。
《私はこの子、女の子かと思ってたのよねぇ…》
柔らかな女性の声が、心地よく耳に飛び込んできた。
《どちらでもいいじゃないか。とにかく元気に、無事に生まれてよかったよ。
ねぇ、アムイ》
聞き覚えのある声がしたと思うと、優しく口付けられた。
懐かしさが、胸いっぱいに甘く広がっていく。
《この子、貴方に似ているわ。黒い髪に黒い瞳》
《鼻は君だね、うん、なかなかの美男子だな》
《いやだ、まだわからないわよ。生まれたばかりなのに》
(父さん!母さん!)
《…ずっと、ずっとお前に会えるのを待っていたんだよ…》
白い世界の中、声だけがアムイの頭に響いていく。
《とても嬉しいよ、ネイチェル。…この子に大きな物を背負わせてしまうかもしれないけど…。
でも、私達の所に降りてきた子だ。私達がいる限り、この子を守って、愛してあげようね》
《そうよね!この子は私達を選んできてくれたのよね!》
《ああ、そうさ。この世に生まれる命は、全て意味を持って生まれて来るんだろ?》
両親の会話なのだろうか?この優しい波動に、アムイは涙が出た。
…自分はこんなにも親に望まれ、愛されていた…。
現状の、生きていく辛さのせいで、忘れていた暖かなものを、アムイは思い出した。
《結婚しよう、アムイ。愛するものはずっと一緒にいなくちゃいけないんだ》
(キイ…!)
《もう、俺達は離れてはいけないんだ。俺とお前は二人で一人なのだから》
幼いキイの声がアムイを包む。
ぐるぐるぐるぐる…。
アムイの魂は回転し、自分の意思とは別の、あらゆるところへと移動していく。
まるでスイッチを切り替えるかのように、あらゆる場面、あらゆる言葉が現れては消え、現れては消え…。
アムイは圧倒するような過去の記憶に翻弄されていた。
(ああ、俺は…どこに行くんだろう…。このまま…黄泉の国に漂うのだろうか?)
死の間際、走馬灯のように今までの人生が見える、と、誰かが言っていたような気がする…。
ということは…自分はもう……。
《アムイ…俺を忘れるな…》
キイの言葉がアムイの胸を刺す。
《どのような世界にいても、俺の存在はお前と共にある…》
ああ、キイ!!
アムイは心からキイに申し訳ない、と思った。
彼の事を思っていたようで、本当は自分の事で精一杯だった…。
優しい気持ちから、段々と自分の記憶が大人のものになるにつれて、アムイの心はどんどん暗く、重く、沈み始めた。
まるで、暗闇の中を歩いていたような日々。
出口を求めながらも、成す術も無くそこに身を縮めていた自分。
他人の冷たい視線、妬みや憎悪の波動、そこから自分を守るために、どんどん殻を厚く覆っていった…。
何故、自分はこうして苦しみながら生きてきたんだろうか…。
何故、自分は自分を貶め、疎まれていると潜在的に思ってきたんだろうか…。
《兄貴、駄目だよ。いつもそんな顔しちゃ》
サクヤの声がはるか彼方でしたような気がした。
サクヤ…俺は…お前が羨ましかった…。
アムイはぼんやりとそう思った。
俺にはない強さを、お前は持っていた。
俺が、このようにして生きたい、と思っていた心の強さをお前は持っていたんだ。
(…ごめん…。お前を殺したのは俺だ…。お前を巻き込んだのは…)
再びアムイは、失意の底にいた。
溢れ出る罪悪感を、止める事ができない。
(俺はどうしようもない人間だ…。どうしようもない臆病者だ)
愛する者を失う恐怖に耐えられない弱い自分から必死で逃げてきた。
この心の弱さ。
いくら戦いが強くても、真の勇者とはなれない…。
アムイの心は泣いていた。
現実の世界で封印していた涙が解放されたと同時に、心の涙が雨のごとくずっとアムイの心の中で降り続けていた。
それは必要な解放を意味していたが、今のアムイにはわからない。
ただ、涌き出る様々な感情に翻弄され、見つめ、受け流すので精一杯であった。
温かい…。
まるで気が遠くなるような時間、己と向きあっていたような気がしていたアムイは、気がつくと、騒々しい記憶の渦から離れ、いつの間にか静かな場所で横たわっていた。
しかも先ほどの、あの身を切るような寒さとは打って変わって、その場所は柔らかな波動に包まれ、やすらぎすら感じる。
まるで、真っ暗で凍えるような洞窟を抜けた後に、優しい光のぬくもりに包まれているような…。
そう、それは陽だまりに抱(いだ)かれているかのように…。
抱かれている?
アムイはおぼろげに気がついた。
自分の傍に、誰かいる…。それは本能で感じた事だった。
その誰かに、アムイは抱かれている感覚を持った。
確かめようとしたが、疲れているのか思うように動けない。
おぼろげな意識の中で、アムイはその誰かに頭をなでられているような、そんな感覚を持った。
そう、まるで子供のように優しく膝枕をされているような感覚…。
だけど、一体ここはどこだろう…。
この時になって、アムイは自分が奈落の底に落ちたのを思い出した。そう、自分自身が望んで…。
死霊に引きずり込まれ、血の沼に落とされ、凄惨な世界から黄色の光を目指し…。
俺は奈落から…あの暗闇から出られたのだろうか?
アムイの目から再び涙が零れた。
自分の…愚かさを…自分の情けなさを思って。
自分が望んだ事なのに、結局逃げ出したのか…。
アムイは自分から奈落に落ちた意味を見失っていた。いや、まだ本当の意味に気付いていなかった。
『自分を責めては駄目だ』
耳元で、優しい声が響いた。
どこかで聞いた…懐かしい…声…?
ああ、この心地よい響きは…。
『お前は充分、苦しんだ。よく頑張ってきた。だからもう、いいんだよ。
もうここから抜け出ていいんだ…』
低く、甘く、囁くような…宵闇のような声が、アムイの耳をくすぐった。
自分の髪をなでる、その声の主の指の感じが、目に見えていなくてもなんとなくわかる。
白くて、形がよくて…長い指。
そう、いつもの馴染みあるこの感覚…。
(…キイ…?俺は戻って来てしまったのか…?)
昔、こうしていつも自分の髪を撫でてくれ、子守唄のように囁いてくれたキイを思い出し、アムイは心の中で呟いた。
『これ以上、自分を傷つけなくていいんだよ。
…お前はこれから、自分の足で自分の人生を歩けるようになる』
「でも、もう疲れた…。俺は逃げたんだ…、自分の背負うものの大きさに。
こんな情けない奴…、お前だって軽蔑するだろう?」
アムイは自然と言葉が出ていた。
そう。キイに軽蔑されても、仕方がないほど、情けない自分…。
「お前はいつだって逃げなかった。いくら心の地獄に落ちようが、いつもそのつど這い上がってきた。
…でも、俺は駄目だ。お前と違って、一向に駄目な人間だ。
ずっと逃げてきたんだ。ずっと暗い淵の中で…もがき苦しんでいた…。
でも、もう疲れたんだよ…」
泣き言だという事はわかっていた。だが、キイの前で、もう自分の本心を隠す事はできない。
「……俺が父さんを貶め、自分の生まれを呪い、お前にばかり迷惑かけて…。
だけどそれ以上に、近しい人間が自分のせいで死んでいくのを、俺はもう耐えられないんだ」
『それでも』
優しく染み渡る声は、頑ななアムイの心を、少しづつ溶かしていく。
『ずっとそうして闇を見続けてきたお前は、後は気が付くだけだ』
「気付く?」
『そうだよ。…闇の中から光を見出せるという事。闇の中に光が存在する事。
お前はもう知っている筈だ。
魂の奥深く、幾度も転生を繰り返し、長い時間をかけてやっとここまで来た。
闇を通して光の世界を見出し、お前自身が光となって存在するには時間が必要で、それは生みの苦しみと同じ、全て自分で望んで課した事だ。
お前がこれまでいくつもの転生を経験し、制限や試練、哀れを学んできたのは、何のためか?それを乗り越える事でお前は優しく大きく成長し、人の苦しみを身をもって理解でき、助ける事ができる。
学びが大きければ大きいほど、大きな収穫と成長がある。それこそが魂(たま)の鍛錬…。
アムイ、闇を恐れずによく見てごらん。お前なら見える筈なのだ。
闇はただ、そこにあるだけ。光が生まれたと同時に闇も生まれた。
人は両を抱え、調和をとってこそ真の光の世界を歩く事ができる。どちらに偏りすぎてもいけない。
お前はそれを学ぶために、ここまで来たのではないのか?』
しっとりとした声が、まるで魔法のようにアムイの傷ついた魂を修復していく。
「学ぶ…」
『そう、人にとって闇もまた必要である。…光が必要と同じく…』
そこで自分を撫でていた指の動きが止まった。
『ここまで来たら、後は思い出すだけだ、アムイ。本来の自分を取り戻すために、お前はここまで来たんだよ』
アムイはここで、違和感を覚えた。
ずっと今まで、自分は元の世界に戻り、キイと話をしているとばかり思っていた。
相手との会話で、意識がはっきりしてくるにつれ、その違和感は益々大きくなっていく。
まさか…まだここは黄泉の国なのか?…では、今自分が話している相手は…?
声は確かにキイに似ているが、よく考えてみたら、あいつは自分にこういう喋り方はしない…。
アムイの心の動揺とは無縁に、声は続く。
『落ち着いて、今の状況をよく見なさい。そうすれば次にする事が自ずとわかってくるだろう。
…その時になったら私を呼べばいい。
私はお前の近くにいて、必ずお前の声に答えよう』
アムイの魂の心臓は早鐘を打っていた。
キイのようでいて、キイとは別の優しいこの感触。懐かしい響き。
ずっと昔から知っていた…この波動は…。
まさか…!
ふいに声が遠のき始め、その存在が自分の傍を離れ始めたのを、アムイは感知した。
(待って!)
アムイは心の中で叫び、力を振り絞って身体を起こした。
ずっと自分がキイだと思っていた、この声、指の感触…。これこそ昔、自分をいつも慈しんでくれていた…。
『光の象徴であるキイ、あの子でさえ、この地に降りて肉体の枷をはめられ、制限を与えられて深い闇を見たからこそ、己が光となる事ができた。
闇を通して光を見出すのは宇宙(あま)の学び。
人の闇や影を知ってこそ、光となって大きな成長と繋がる。
─だからお前も、闇や傷を恐れずに向き合いなさい─』
どんどん離れていく声を追って、アムイはその場から駆け出した。
(お願いだ、待ってくれ…)
『どのような事も、天は乗り越えられない試練は与えない。それは自分で決めて来た事だからだ。
…もし、それらに負けるのであれば…それは自分がその事に気付けなかっただけ…』
「待って!」
ようやくアムイは叫ぶ事ができた。
追いかけている自分の全身が震えているのに気が付く。
早く、早く追いつかなくては。
必死でアムイは消えかかる存在に呼びかけた。
「お願いだ、待ってくれ!」
心の奥で最も会いたかった、だが、もう会えないであろうと思っていたその人の事を。
「父さん!」
アムイの声は万感の思いを込めて空間にこだました。
「待ってくれ!父さん!!」
アムイははっきり悟ったのだ。
そう、今まで自分の傍にいてくれたのは…他でもない、自分の父、【セドの太陽】の魂であった事に。
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