暁の明星 宵の流星 #152
《ほら、可愛い!》
闇夜に浮かぶ白い桜の花が、幻想的に揺らめいている。
目の前には、頬を染めて照れたような自分の顔が、鏡から覗いている。
ふと後ろを見ると、優しい笑顔と目が合った。
薄暗い中でぼんやりと浮かぶ、白い顔。
可愛らしくも、彼の人(かのひと)にも似たその笑顔は、どれだけ自分を慰めてくれていたか…。
《イェンは凄いわ。…だって、たった一度会った人なのに、ここまで想うことができるなんて》
羨ましそうな、それでいて哀しげな声が自分の心を掻き乱す。
《危ないから早く戻って来て、イェン!》
次には彼女の悲痛な叫びが聞こえてきた。
頭上にその叫びを聞きながら、自分はその声に返事する。
《私、確かめたいの!》
《え?》
《この気持ちが本当のものなのか。キイに会って、確かめたいのよ!
姐さん、ごめん。姐さんの言うとおり、ここにいれば普通に生きていられるのかもしれない。
でも、やはり私わかったの。ここは私の生きる場所じゃない!!
どんな事が待っているか、もしかしたら死ぬかもしれない。
・・・・でも。私きっと後悔しない。だってそれは自分が決めた事だもの!》
自分の心からの思いを、上で心配そうに見下ろしている相手に伝わったかどうかはわからない。
けど、自分は思いっきりその人に笑って見せた。
《人の決めた道を歩んで後悔するより、私は自分で決めた道を生きたい。
私・・・・アムイ達と一緒に行く》
《イェンラン・・・・・》
悲しそうな姐さんの声。涙を浮かべるその顔が最後だった。
笑って…姐さん…!私…。
ぼんやりと思った途端、イェンランは目が覚めた。
夢…。
珍しい…。今まで夢など見ても、ほとんど覚えていないのばかりだったのに…。
しかも久々に懐かしい人の夢だった…。
のろのろと起き上がると、イェンランは深い溜息をついた。
明日、出発するための支度をしていて、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
身体のあちこちに鈍い痛みがある。
もうずっと柔らかな布団の上で寝ていない。慣れたとはいえ、剥き出しの岩に草やボロ布を敷いた簡易寝床では、ちょっと変な向きで寝ただけで、すぐに身体の節を痛めてしまう。
でも。
と、イェンランは思った。
それは自分が今を生きている証拠のような気がして、鬱陶しくもその痛みが気持ちいい。
よくここまでやって来たなぁ…。
自分は本当に何て遠くまで来たのだろうか…。
とは言うものの、まるで何年も過ぎている感覚ではあるが、よく考えるとまだ半年ぐらいしか経っていないのだ。
娼館である桜花楼(おうかろう)を出てから、目まぐるしくも色んな事があった。
様々な出会いがあって…そして悲しい別れがあって…。
自分としても、こんなに冒険した事なんてなかったのではないか。
……怖い事も、苦しくて悲痛な事もあったけど、…あの時、衝動的だったとしても、アムイ達の後をついて来てよかった。
ただ。
イェンランはじっと自分の手を見つめた。
あの時の自分は、後に残された人の事なんて、これぽっちも頭になかった。
今になって、どんなに自分勝手な事をしてしまったのか…。悔いはないけど、胸が痛むのは確かだった。
ヒヲリ姐さん…。
あの後、どうしただろう…。あの場に姐さん一人だけ残して…。
もしや、きついお咎めになんかあったのではなかろうか…。
そう考えると、イェンランの小さい胸は罪悪感で震えた。
無我夢中でここまできて、かけがえのない仲間だった人間を失い、表では気丈に振舞っていたにしても、一人になると自暴自棄気味になって、ふと、桜花楼にいた時の頃をよく思い出すようになった。
あの頃も、先が闇ばかりで、まるで暗い夜道を歩いている気持ちになったものだった。
……特にサクヤの死は、イェンランにとって、最愛だった兄の突然の死と同様に衝撃だった。
自分が暗く、落ち込んで泣いている時に、いつだって慰めてくれたのは、姐さんの優しい声とあの微笑(ほほえみ)だった。
そして今は……。
イェンランの思い描く、先輩娼婦であったヒヲリの笑顔が、キイの満面の笑顔と重なった。
自分が好きになったのは、きっとこの彼の笑った顔がきっかけなのだと思う。
だからなのだろうか、ヒヲリにしてもキイにしても、彼らの悲しげな顔を見るのは辛かった。
イェンランは突然キイに会いたくなって、そっと自分の与えられた場所から抜け出した。
ここに来てからは、キイはアムイと同じ場所で寝食を共にしている方が多い。
話し合いが必要な時には、もっと広い場所…全員が集まれる場所で自分達と食事をしたり、たまにふらふらとしていたようだけど、ほとんど彼はアムイの傍から離れたくない感じだった。
昏睡状態の彼を何ともいえない表情でじっと見つめるキイに、イェンランはいつも胸が締め付けられるような痛みを感じていた。
キイに対する心配と…アムイに対する心配と…。そして認めたくは無いけれど、少しのアムイへの羨望と嫉妬のような感情…。それがないまぜになってイェンランの心を苦しめていた。
見るからに、キイの心はアムイにしかない。…それが身内からくる感情だとしても、そうでなくても、キイの心を独占しているのはアムイだけだと、ずっとそう感じていた。
それは前に、あのシヴァの息子、カァラの言った爆弾発言も相まって、イェンランの心を乱れさせた。
《あんたの心を地獄に落したのは、天に通じる身で実の弟を愛してしまったからだ》
《そうだとしたら、やはりあんたは罪な男だな。抱かれる女も可哀相に。
いや、あんたが自分の母親を思い、女に優しく、慈愛を込めて接しているのも、敬っているのもわかるさ。
だから女はあんたを憎まず恨まない。抱かれても文句はないだろう。あ、かえって感謝してるか。
でも結局あんたが、いくらその女に欲情しても、愛しく思っても、その相手を真に愛する事はできないでしょ。
その事に気づいた女は闇を見るだろうなぁ。それをわかってるが故、あんたはそういう闇に落ちそうな女とは寝ないよね。
本当にずるい》
その話を、自分が聞いていたとはキイは気が付いてなかったように思う。
キイもカァラの言葉は、挑発だと受け止めて、やんわりと対応していたように思える。
…でも…はっきりと否定した感じではなかったような…。
イェンランはぷるぷると頭を振った。
だから、どうなの?イェンラン。キイは否定しなかったと同時に、はっきりと認めていなかった筈よ。
そうと思っても、どうも二人が気になった。
当のアムイといえば、自分にとってこんなに神経を逆撫でする男はいないと前は思っていたほどだ。
アムイって嫌な奴…。キイとどういう関係よ…。
最初はそう思って反発していたが、色々な困難を共に越えてきて、いつの間にかサクヤ同様、大切な仲間となっていた。
今は反発心よりも、アムイには兄の様な信頼感と自分と通じる闇の部分が呼応し、身内のような感情すら彼に抱いている。だからこそ、自分がアムイに対して、妬みのような気持ちを持つ事に抵抗があった。
だって…あの二人は兄弟じゃないの…。それも複雑な。二人の絆が強いのは仕方が無い事なのよ…。
イェンランは何かとそういう想いが沸き起こる度に、自分に言い聞かせていた。
でも…。
それだけではない二人の苦悩した関係を、彼女はひしひしと感じていた。
それは女の勘という奴なのかもしれない。
そう思いながらとぼとぼと、アムイが安静にしている場所に向かって行くと、何やら中から不穏な空気をイェンランは感じ取った。
「キ…」
入り口の近くまで来て、キイを呼ぼうとイェンランが声を出したその時だった。
「アムイ!!」
キイの悲痛な声が中から聞こえる。
「しっかりしてくれ、アムイ!」
尋常でないその声に、イェンランは形振り(なりふり)構わず中に飛び込んだ。
「どうしたの!?」
見るとキイが取り乱してアムイの上半身を抱きかかえ、揺さぶっている。
「キイってば!!」
イェンランも慌てて二人の傍まで走って叫んだ。
「アムイっ!戻って来い!」
そう叫ぶとキイはアムイの口を自分の口で塞ぎ、懸命に人工呼吸をし始めた。
まさか…!息が止まった…?
ぞっとしてイェンランは必死になっているキイを見下ろしていた。
「ご、ごふっ!」
止まっていたと思われるアムイの息が吹き返したようだ。
ほーっとしてキイは脱力し、そっとアムイの身体を横たえた。
「だ…大丈夫?アムイは…」
イェンランはドキドキして、アムイの様子を覗こうとキイの隣にしゃがみ込んだ。
「ああ……嬢ちゃんか…。びっくりさせてごめんよ。大丈夫だ」
はぁーっと大きな呼吸を吐いて、キイは自分の手で額の汗を拭った。
「いつも…こんな容態になるの?」
イェンランは呟くようにキイに問いかけると、横になっているアムイに目を移した。
見ると、アムイは何事も無かったような顔で、規則正しい寝息を立てている。
「いつもじゃないけど…。ここ最近、たまに息が乱れる事はあったんだ。
本当の事を言えば、こいつから目を離せなかったんだ…」
「……だから最近、昂のおじいさんやシータが交代でアムイを見ていたのね」
「でも、一時的にも息が止まるなんて事、こんなに酷いのは初めてだ。
…一体、アムイの身に何が起きているんだ…」
キイはそうぶつぶつと言うと、白くて長いその形のよい指で、優しくアムイの髪を額からかき上げた。
イェンランの胸に、つくん、と小さな痛みが走る。
何なんだろう?羨ましい?本当は…その指で、自分に触れて欲しい…?
思わぬ衝動に、イェンランは打ち消すように思わず心の中で頭を振った。
「どうかした?お嬢ちゃん?…眠れなかったの?」
優しい声がイェンランの耳をくすぐり、彼女ははっと我に返った。
「え、ええ、まあ。…何か明日出発と思うと、落ち着かなくて…。
それよりも、アムイの方は大丈夫なの?こんな状態で動かしても…」
イェンランは自分の動揺を知られないよう、努めて平静な声でそう言った。
その言葉にキイは穏やかに微笑んだ。
「心配してくれてありがとうね。
…俺としても一抹の不安はあるけど、いつまでもここにはいられないでしょ」
そして再びアムイの方に視線を落とし、彼の頭に置いた手を愛しそうに動かした。
ゆっくりと撫でるその手の動きには、キイの深い愛情が込められていた。
きっと…長い間─。…長い歴史を感じさせる二人の醸し出す雰囲気に、イェンランは眩暈を起こしそうになった。
こんな事、聞いてはいけないのかもしれない。だけど、この時のイェンランは普通の思考が働かなかった。
思い切って今聞いてみよう…。いつも、本当は確かめたかったあの事を。
「ねぇ、キイ」
「何?」
「…アムイの事は…弟だから…好きなのよね……?」
突然、キイの手の動きが止まった。
「…その…二人は兄弟だから…」
「俺達の間に、兄弟以上のものを感じる?」
ぼそっと答えたキイの声色には、何の感情も見えない。
「………ご、ごめんなさいっ!私ったら変な事を…」
慌てて打ち消そうと振るイェンランの手を、キイは無表情のまま自分のもう片方の手で掴んだ。
「キイ…」
「お嬢ちゃんは鋭いなぁ」
「……」
俯いたまま、自嘲するような声でキイが言った。
イェンランの胸の鼓動が早まった。
緊張で手が震えるのを、イェンランは抑え切れない。
そんな彼女の様子をじっと感じていたキイは、ふっと笑うと、優しく彼女の手を離した。
「……なんてね。
そりゃアムイは俺のたった一人の血の繋がった弟だ。
他の誰よりも、愛するのは当たり前じゃないか?
それにお嬢ちゃんはシータに聞いているんだろ?俺が無類の女好きって事をさ」
「………うん…」
赤くなって俯く彼女に知られないよう、キイは切なそうな溜息を小さく漏らした。
「アムイは血が繋がっている以前に、生粋の男だよ?
どうしてそれ以上の感情を持てると思ったのかな…。
俺はね、男には欲情しないの。恋人にするなら、嬢ちゃんみたいな可愛い女の子がいいよ」
キイはニヤっと笑うと、硬くなっている彼女の手を優しくポンポンと叩いた。
「だけど…」
イェンランは何故か、キイにはぐらかされた様に感じて、思ってもみなかった問いかけを続けてしまった。
「アムイはどうなのかな…」
「どういう意味…?」
思わぬ質問をされて、キイは目を丸くした。
「キイが女好きっていうのは、アムイからも聞いて知っている…。
でも、アムイは?…考えてみればアムイが自分から女性に夢中になっているなんて話、聞いたこと無くて…」
と言いながら、イェンランはその時ヒヲリの事を思い出していた。
そういえば、【暁の明星】が桜花楼に通い始めたとき、ヒヲリ以外にも何人か相手を変えていたという話を聞いた事があった。だがそのうち、いつの間にか指名はヒヲリだけになった。…だから彼の意中の相手だと、その頃の桜花楼の皆はそう信じていた。
そう、あの時は誰もがアムイはヒヲリ姐さんに夢中だと…。
「それはさ。多分、君も感じていると思うけど、君と同じく異性に対してアムイはトラウマがあるんだ。
お嬢ちゃんほど重症じゃないけどね。かといって男好きでもないわな…」
「そうよね!虹の玉を持っている私を見つけるまでは、2年も桜花楼に通い詰めていたんだもん。
それでも相手は一人だけだったけど…。見境無く女の人に手を出すって感じじゃなかった…」
「見境無く…ね。まるで俺と反対だ。
という事は、こいつ、やはり馴染みの女がいたんだな?
な、どういう娘(こ)だった?こいつの通い詰めてた…」
今度はイェンランが目を丸くする番だった。
…何なの?この嬉しそうな顔は…。
自分の思い過ごしだったのだろうか…。自分が感じていた、二人の間にある空気…。
「なっ!なぁ、教えてくれよお嬢ちゃん。
どんな女の子?美人?可愛い?…スタイル良かった?
あ、そうか、桜花楼にいるんだっけ。そりゃ美人に決まってるよな」
まるで自分のごとくはしゃいでいるキイを見て、イェンランは益々腑に落ちない気分になった。
「まったく、こいつったら、ぜってー俺には教えてくんないんだもんなー」
口をへの字に曲げながら、キイは眠っているアムイの額を軽く小突いた。
「…ヒヲリ姐さんは…そりゃ桜花でも極上の美人だったわ。将来の最高級娼婦である【夜桜】候補だったんだから…」
「へぇ!ヒヲリさんっていうのか!しかも【夜桜】候補とは…。さすが俺の弟、大したもんだ!で?髪の色は?目は?」
キイのはしゃぎ様に面食らいながらも、イェンランは話を続けた。
「えっと…、目は優しい茶色で…髪は…そう、絹のように柔らかくて艶やかで…」
そう言いかけて、イェンランは目の前のキイの髪に目が吸い寄せられた。
肩にかかる、なだらかな絹のような…。
「長い…ブロンズ色の…髪…で…」
ああ、どうしよう…。
イェンランは戸惑った。ここに来て、キイの満面の笑みを見て、はっきりとわかってしまったのだ。
目の色こそ違うにしても、……そうか、そうだったんだ…。何で自分は今まで気が付かなかったんだろう…。
アムイの心の奥底を。この時、まるで雷に打たれたように彼女は悟ったのだった。
「……姐さんは…笑った顔が…素敵で…。まるで…」
気が付かないうちにイェンランはそのまま声に出していた。
「キイにそっくりだったわ…」
その言葉に、キイの顔が凍りついた。
あ、と思った時にはもう遅かった。珍しく動揺したキイがそこにいた。
「……俺に…」
長い沈黙の後、ポツリとキイが呟いた。
今までのポーカーフェイスがどこに行ったのかと思うほど、キイは呆然としていた。
困っているのか、それとも喜んでいるのか…そんな複雑な表情をしていた。
「ああ、キイ!ごめんなさい!私…!!」
突然頭を下げたイェンランに、キイは我に返った。
「え?何で?何で嬢ちゃんが謝るんだ?」
きょとんとしてキイは彼女を振り向いた。
「私…、私っ!…気が付いてしまったの…。
アムイの気持ち…。アムイがどうして姐さんだけ指名していたのかを…」
そして自分が引き出してしまったキイの本当の気持ちにも、彼女は後悔していた。
二人の間に、他人がずかずかと入り込んでいいわけがなかった。
その彼女の様子をじっと見ていたキイは、諦めたような微笑で一息つくと、優しくイェンランの肩に手を置いた。
「嬢ちゃんって、不思議な子だね…」
宵闇のような声…。イェンランが忘れられなかった甘くて低い声が辺りに響いた。
「え…?」
「君の前では隠そうと思っても、見破られちゃうんだなぁ…。
それだけ、真実を見抜く目がある、というのか…」
「キイ…」
キイは自嘲しながらも彼女から手を離し、緊張を緩めるように身体を伸ばした。
こんな…十も歳が下の女の子に…。大の大人の男が動揺を隠せないなんて…。
キイにとって、こんな事は滅多にない事だった。
そしてこんなに女性に対して素直になるという事も…。
彼女になら、自分の思いをわかってもらえるのではないかと、何故かキイは思った。
というよりも、彼女には下手に隠す事はできないと感じた。
キイはちょっと困ったようにイェンランを見て、微笑んだ。
彼女の黒い髪、そして、黒くて真っ直ぐに真実を見極める目…。
─本来の、アムイの姿が彼女と重なった。
「嬢ちゃんには、下手に隠しても駄目みたいだ」
「キイ…」
「今の俺の気持ち、きっと君にばれちまってるんだろ?
……そうだよ…。俺達は兄弟以上のものを互いに感じているよ」
イェンランは神妙な面持ちで、キイの告白を聞いていた。
「でも、それが情欲を伴う恋愛感情とはちょっと違うかもしれない。
何故なら、俺は完全に男には欲情しないんでね。…たとえ、心から愛している相手が男だったとしても」
淡々と語るキイの声が、かえってイェンランの哀れみを誘った。
「……特に血が繋がっていると知る前はさ…。ま、ガキの頃だけど、真剣にこいつと結婚しようと思ってたからなぁ…」
「そうだったんだ…」
「男が相手だと無理だと周りに言われてさ、それでも正式じゃなくたって男同士も結婚できると言って親達を困らせてた」
ははっと乾いた笑いをすると、キイは何とも言えない目で、アムイの寝顔を見つめた。
「……こいつが…アムイが男じゃなかったらなぁ…」
全ての想いが、その一言に詰まっていた。
「何度、そう思ってきたんだろうか…」
女のイェンランでさえ、見惚れてしまう様な悩ましげな横顔が、キイの苦悩を物語っていた。
「それはそれでね、人としての禁忌を犯す形となるわけで、…困るわけなのだけれども」
自分の心情を吐露する時でも、キイの声は不思議と穏やかだった。
まるでもう全て、その想いを昇華してしまったかのような、そんな声だった。
「でも…昔は異母兄弟でも結婚できたって…。母が違うと、きょうだいという感覚が薄くなるからって…」
「昔はね。王族なんか、そういう結婚多かったけど。血を濃くするために。
でも、今はそんな時代でもない。…生まれる子供の事を考えれば、やはり禁忌なんだ。
それに、アムイとは幼い頃から一緒で、…兄弟と教わらなくても近しい存在でもあったからね」
「…そう、ね」
イェンランは言葉に詰まった。キイの心情が、痛いほど辛い。
「……子供の頃の無邪気な気持ちのままで、俺は本当はずっといたかったんだがなぁ…。
人間って、本当に生きるためには色んな枷があるもんだね、嬢ちゃん」
思い出すように言葉を進めるキイに、イェンランは黙って聞き入っていた。
「お嬢ちゃんには軽蔑されちまうと思うけど、一番辛かったのは思春期に入った頃だった。
……隣で寝ているアムイも、きっと気が付いていた。
男ってさ、どうしようもないのよ。言い訳じゃないけど、……特に俺はこの世に初めて生を成し、肉体を経験した魂(たま)みたいなんだ。…人間の…若い男の性欲っていうものが、あんなに凄いものだとは、俺にもわからなかったさ」
ちらっとキイは、頬を赤らめているイェンランの顔を見て、慎重に言葉を選んだ。
「つまり、心と身体のバランスを取る事ができなかったのさ、当時の俺は…」
「…心は…アムイにあったって…こと?」
キイは頷いた。
「でも身体は女の身体を求めているんだ。自分がそうだという事を、この時に嫌というほど知って、衝撃を受けたなぁ」
男が数多い今の地上では、男同士で恋に落ちることは勿論、究極で言えば、男同士でも肉体的に繋がる事は簡単な世の中だ。…なのに自分はそれができない。…まるで判を押したような性質。
かといって、そのような自分の倫理が簡単に崩れてしまえば、それはそれでまた違った苦悩があったろうが。
「それで、人でなしの俺は、ついアムイに似た女を見ると、見境なくそういう関係になっちまう。
その都度、アムイの何も知らない顔を見るたびに自己嫌悪に陥って…。
その上、彼女達にも酷い事をしてさ…」
「キイ…」
いつの頃からだろう、共に寝台で眠るのが辛くて仕方なくなったのは。
それは隣で寝ている相手に欲情したからではない、できないからこそのジレンマだった。
かといって、隣で清らかに眠る最愛の人間に対して、そういう気持ちを持つ事も、きっと自分は耐えられなかった。
初めてアムイの眠る隣からこっそりと抜け出した夜、そして初めて女を抱いた時、欲望を満たされた身体とは裏腹に、何とも言えない罪悪感が襲い、キイは地獄に突き落とされた気持ちがしたものだった。
アムイの寝顔を見るたびに、湧き上がってくるこの感情…。
全てが、自分にとって初めての衝撃だった。
自分の身体が心を裏切る感覚…。
抑えようと思っても、抑え切れない本能…。
そしてキイはそれに耐え切れず、堪らなくなって女を抱きに行く。
初めは本当にその事に対して罪悪感を持っていた。
種の本能での性への衝動。
…だが、ある時キイは気が付いたのだ。
思いがけなくキイの身体に圧し掛かり、自分を翻弄させた、その狂おしいほどの衝動を、いつの間にか女達に癒して貰っていたのだという事を。
種を残すという、何ともシンプルな性の本能。
まるで獣のようだと、よくシータに言われていたけど、否定しない。
だってそれは肉を持ってこの世に生まれた、必要な欲望なのだから。
当時は自分が穢れているようで、そんな自分を嘆いたが、この肉を持って生まれた限り、それは乗り越えなくてはならない重要な事なのだ。
キイは母親の件もあって、最初はかなり自虐的だったが、彼女達の優しさに自分が答えていく事によって、その感情を乗り越えていった。
だからといって全て許されるとは思わないが、キイの女性への崇敬の念はここで培われたのだった。
この肉体の自分を優しく受け止め、癒してくれた女達に、キイは心底ひれ伏した。
……どうあがいても、男の自分は女には敵わない…。
その思いが女好きと名を馳せる要因のひとつになったのであるが…。
彼女達の存在があって、キイは自分の心と身体のバランスを取り戻していった。
多分、おくてと言われるアムイでも、一番近くにいたからきっと気が付いていたに違いなかった。
だけど、女に対するトラウマが少なからずあるアムイにとって、自分の行動がどう思われるのかは、少々心配な所があったのだ。
…もう一人の自分であるアムイ。
今生、己が男として生まれてきたならば、きっとアムイも自分と同じ性質であるに違いなかった。
いくら女性性を強く隠し持って生まれたとはいえ、人は誰しも陰陽を持つ。
己にある男性の部分と女性の部分。
二つに分かれた魂だからといって、全てがばっさりと真っ二つに分かれるわけではない。
別々の人と生まれたからには、魂が別れても、それぞれが個として、全てを備えて生まれてくるのだ。
勿論、男性性が強いとされる自分だって、ちゃんと女を感じる部分を持っている。
アムイだって同じなのだ。
ただ、通常の魂の双子(と、通常では呼ばれる)とは、自分達が違うというのも痛切していた。
今生のアムイの魂は、女性性が強い要素を持つとしても、男として生まれた時点で、今生を男として人生を全うするべくために、地に降りた筈なのだ。
それは変えられない事実。…わからなかった当時は、どれだけ天を呪ったかしれないが。
「だけど…。まさかこいつも、俺と同じだったなんて…」
嬉しいのだろうか?それとも困っているのだろうか?
キイ自身、よくわからない感情だった。
「でも、俺はさ…。こいつには可愛い女の子と幸せな恋をして、将来は自分の家族を作ってもらいたいんだよな…」
気が付くと、キイの目に涙が浮かんでいて、イェンランははっとした。
「でも、キイは…?」
恐る恐るイェンランはキイに尋ねた。
「はは?俺?俺はいいんだよ」
「どうして…」
「…嬢ちゃんだって知っているだろう・…俺は長生きできないの」
キイの悲しげな笑顔が、イェンランの身を引き裂いた。
「だから、俺がここにいる間に、アムイの幸せな姿を見たいっつー願望があるんだな…。
ま、こんな物騒な世の中じゃ、いつになるかはわからないけどね」
「……」
「俺が安心してこの世を去れるように…。願わくば、こいつの幸せな笑顔を見ながら別れができるように…」
その時、激しい衝動がイェンランを襲った。
それじゃキイは?自分の命が短いからって…キイはこの想いを抱えながらこの世を去るというの…?
キイの、アムイへの深い思いに、イェンランは打ちのめされたと同時に、自分の心の奥底からこみ上げる激しい思いを抑え切れなくなって、動揺した。
この激しい感情は、一体何なの?
……本当に愛している人間が弟だから…今生はその愛が成就しなくても、それでいいの…?満足なの?
アムイだって…心の底ではキイの事を深く愛しているというのに…!
そう思うとキイが可哀想で、イェンランはどうしようもなくなった。
せめて…せめて自分ができる事があれば…。彼の力になりたい…。
そう思い立ってイェンランは気が付いた。
ある…。あるわ…!自分ができる事が…。
イェンランはきゅっと涙を呑み込むと、勇気を出してキイに言った。
女を忌み嫌い、呪ってきた自分が、たった一人の目の前の男に、こんな事を思うなんて…信じられなかったけれど。
でも、今は。
自分が女として生まれてきてよかったと、この時に初めて思ったのではなかろうか。
自分が、女の自分だからこそ、この人にできる唯一の事…。
自分がアムイと同じ、黒い髪に黒い瞳を持って生まれた事に、彼女は天に感謝した。
「…抱いて…」
「え?」
思ったよりもか細い声が、自分の喉から出た。
一瞬、キイは何を彼女が言ったのか、わからなかった。
「私を…アムイの代わりに…」
それでもキイは事情が呑み込めていないようで、不思議そうな顔で自分を見ている。
イェンランはもっと勇気を振り絞って、彼にはっきりと自分の気持ちを伝えた。
「私をアムイの代わりに抱いて、キイ。
…私なら…女の私なら、貴方のアムイへの想いを…」
キイは彼女が言わんとする内容に気が付き、固まった。
イェンランも、自分で何を馬鹿な事を言っているのかと理性では思っていた。だが、彼女の膨れ上がった感情は、もう抑え切れる状態ではない。
この激しい感情は何のだろう…。初めて襲うこの激しい思いに、イェンランは我を忘れていた。
「お嬢ちゃん…」
「キイ、私ならアムイと同じ髪と目の色をしているわ。…だから私をアムイと思って…」
「本気でそう言っているのか?」
キイの声色が変わった。冷たい、まるで氷のような…声…。
イェンランははっとして、彼の顔を初めて正面から見た。
「キイ…」
そこには初めて見る…いや、戦いのときに見た事がある…険しくて、冷たい顔があった。
イェンランの背に、冷たいものが流れた。
女である自分に対し、こんな怖いキイは初めてではなかろうか…。
「俺は同情されたくない」
「違うわ!」
冷ややかな彼の声に泣きそうになりながらイェンランは叫んだ。
違う、違うのよ、キイ。そうじゃなくて、私は…!
…私は…?
混乱したイェンランに、突然キイの手が彼女に伸び、その場に強い力で押し倒された。
「キイ!?」
悲鳴に似た声を発して、イェンランはキイの屈強な身体に覆い被された。
まるで組み敷かれ、逃げ場を失った獲物のようだ。
イェンランは力強いキイの身体の下で小さく震えた。
見上げると、キイの冷たい、そしてぎらぎらと獣のような目とぶつかった。
心臓が早鐘のように鳴り響き、彼の柔らかな絹のような髪が一房、自分の顔にかかる感触を感じながら、イェンランは身を強張らせた。
「キ、キイ…。あの…」
声も身体と共に震えている。
怒らせた?どうしてそんな怖い顔で私を見るの?キイ…。
私は…同情じゃなんかじゃない…私は…!私は…貴方…のこと…。
そう言おうとしても、声が出ない。キイの険しい表情に、呑み込まれてしまっているようだった。
「本気でそう思っている?」
いつもの優しくて甘い声とは打って変わった、恐ろしい声だった。
イェンランはごくり、と唾を呑み込んだ。
「華奢な首だな…」
ポツリとキイはそう呟くと、じわっと彼女の細い首に左手を這わせた。
ぞくっとイェンランの肌が粟立った。
「後悔しないの?」
キイの声からは彼の考えはわからない。
「本当に?」
そう言いつつキイは、もう片方の手で、力任せに彼女の足を押し開いた。
「きゃあ!!」
思わずその激しさにイェンランは悲鳴を上げた。
だが、キイは容赦せず、硬い身体を彼女に押し付けた。
その優美な風情から、どうしてこんな力があるのか…。
それよりもイェンランが驚いたのは、キイの思ったよりもがっちりとした男性の身体つきだった。
中性的な顔から想像できない、彼の筋肉質で、強靭なその肉体。
想像以上にキイは男だった。
その感触が、自分が強姦されそうになった時の忌まわしい記憶を思い出させた。
やっと、やっと自分で封じたと思っていた男への恐怖…!!
それが彼女を襲った。
怖い…!
どうあがいても、力で自分を征服しようとする男の力…!!
イェンランは耐え切れなくなって、そこから逃げようと抵抗を始めた。
「いや!!」
思わずイェンランは叫んでいた。
「いやぁっ!!」
暴れてもがっちりとキイの身体に封じ込められて、イェンランはパニックになった。
気がつくといつの間にかキイの身体の下でむせび泣いていた。
「怖いか?」
冷ややかなキイの声が、耳に響いた。
「男が怖いくせに、そんなことを簡単に男に言うもんじゃない」
その低く唸るような声が、彼女を益々怯えさせた。
こんな…こんなに怖いキイは初めてだ…。
恐る恐る、イェンランは涙で濡れた目を彼に向けた。
無表情なキイの顔が、イェンランを見下ろしていた。
「君がアムイの代わりになる筈がない。
そんな軽はずみなこと思うような女は御免だ。
男を馬鹿にするな!」
その吐き捨てるような科白に、イェンランはショックを受けた。
(軽蔑された…)
イェンランは恐怖よりも、激しい羞恥に襲われ、キイに軽蔑された事が居た堪れなくなった。
ぶわっと大粒の涙が両目から零れると、イェンランはキイを押しのけ、立ち上がった。
今度はキイも、いとも簡単に彼女を解放してやった。
「ごめんなさい!」
泣きながらイェンランは叫び、真っ赤になりながらその場を逃げ出すように駆け出した。
恥ずかしくて、イェンランはどうしていいかわからなかった。
何て浅はかな事を言ってしまったんだろう…。
(馬鹿!ばかばかばかっ!私のばかっ!!)
イェンランは心の中で自分を罵倒しながら、一人で泣ける場所を求めて洞窟内を走った。
残されたキイは、片膝をついて、哀しそうな顔で彼女が去った方向をぼんやりと見ていた。
「あ~あ、泣かせちゃった」
その方向から、ひょこっとシータが顔を出した。
キイはけっと自虐的に笑った。
「何だ、いたのかよ。よく止めなかったな。
ああ、そうか。……やり過ぎだって…お説教かい?」
それにはシータは何も答えず、無言のままキイの隣に座った。
「聞くわよ」
「へ?」
「言い訳」
シータの言葉に、キイは益々自己嫌悪に陥った。
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