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2011年7月

2011年7月31日 (日)

暁の明星 宵の流星 #153

「おい、はっきり言ったらどうなんだ?
未遂だけど、俺は彼女に手を出そうとしていたんだぜ?」
叱るわけでもなく、咎めるでもなく、涼しい顔して隣にいるシータに、キイは投げやりな言葉をぶつけた。
いつもなら、女関係では特に説教くさいシータの筈なのだが、どうも調子が狂う。
あれほどイェンランには手を出すなと、口酸っぱく自分に言っていたのに。
「だってあれ、“脅し”じゃない」
シータはじっとキイの表情を窺うと、やんわりとこう答えた。
「う…」
「なぁに?アタシがわからないとでも思ってたの?
それとも、うんとアタシに怒られたかった?責めて欲しかったんだ」
「………」
シータの言葉に、キイはまるで幼子のようにぶすっとした。
(あららー。こういう顔は小さい頃と変わってないわねぇー)
シータはキイの隣で膝を抱えると、目の前で横たわるアムイを眺めた。
こうして見ていると、アムイもまた、初めて聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)に来た頃と、寝顔が全く変わっていない。
「今度はアムイが眠り姫になっちゃったわねぇ」
ポツリと呟くと、そのまま顔をキイに向けた。
「何だよ」
「だから聞くって言ってるじゃない、い・い・わ・け。
まー、相手がアタシだけど?たまには素直になってみれば」
「……」
横目でシータを睨みつけながら、キイは胡坐をかいて腕を組んだ。
「そりゃ、やり過ぎたと俺も思っているよ」
キイはそのまま視線を下に落とした。
「そうよねぇ、あんなに怖がらせて。
アンタ、特に女の前では、普段優しげに接するから、あれはビビッたでしょうねぇ。
……男性恐怖症が、益々酷くならないといいけど」
痛い所を突かれて、キイは言葉を詰まらせた。
「……アンタとしたら、お嬢を遠ざけるためにしたんでしょうけど、ね。
あそこまでしなくても、とアタシも思ったけど、……アンタのどうしようもない気持ちが伝わってきちゃったからさ」
最後の声は、キイに対しては珍しく同情的だった。
「まったく…。まだ子供だと思ってたのによー。突然あんなこと言われて、理性が吹っ飛びそうだったんだぜ。
…アムイの話をした後に、あんなこと言われてみなよ」
苦々しく呟くキイに苦笑しながら、シータは言った。
「そうよねぇ。
でも、いつまでもアンタの知っている女の子じゃないわよ、お嬢だって…。
もう立派に子供だって産める年齢だもの。……好きな男の力になりたいって言う気持ちを持ってもおかしくない」
「………好きな男か…」
「アンタとしてはきつかったと思うわよ。
大人の女だったら、お嬢はアンタの好みにどんぴしゃじゃない。
…まぁ、よく我慢したと思うわ」
シータの核心を突いた言葉に、キイはくーっと悶絶し、頭をかきむしって上を仰いだ。
「─…あー…っ!ほんっとまずかった!
あの娘(こ)とアムイが重なって見えたときには、ほんっとにヤバイと思ったくらいだ。
……あの娘(こ)を腕の中に閉じ込めたとき、我を忘れてしまいそうだった。
それを振り払うために、結果、お嬢ちゃんにきつく当たってしまったんだけど」
「いっそ、流されちゃえばよかったんじゃない?
お嬢みたいな子、滅多にいないと思うわよ。…彼女だってすぐに大人の女になるし、しかも容姿はアンタの好み。
…性格だって、アンタの理想そのものじゃない。…何の不都合があるの?
アムイだって相手がお嬢なら、きっと喜ぶんじゃないの」
しれっと言うシータに、キイはむかっときた。
「俺にそういうこと言うのかよ…」
「……アンタの気持ちも…わかる。
アムイには負けるけど、一体アンタと何年付き合ってるのよ。
アンタの寿命のことだって、アンタ達が抱えている宿命だって、悪いけどアタシにはわかっているわ。
それを踏まえてアンタがどう考えている、なんてこともね。
アタシはこれを承知で、あえてそう提言してるのよ。…アンタだって、幸せになってもいいんじゃない?アンタがアムイにそう思っているのなら、アムイだってそう願っているのよ」
キイは俯いて、ははっと力なく笑った。
「さすが、俺らのおっかさん。監視、っつーか、よく見てるよなー。
…おっと、ここで怒らないでくれよ?
珍しく俺は落ち込んで、お前に素直になってるんだからさ」
「確かに監視してますとも、ええ」
キイに倣(なら)ってシータも腕を組んで、顎を突き出した。
「だから怒んなって…。
だったら、話は早い。…お嬢ちゃんの気持ちはほんっとに嬉しい。
あんないい娘(こ)は、なかなかいねぇしよ。
だからこそ、俺が躊躇しているの、わかるだろ?」
「キイ…」
シータは呼びかけて、しばし沈黙した。キイの今の気持ちは、痛いほどわかっていた。
無言のまま、溜息をつくシータに、キイはふっと笑って、ぼそっと呟いた。
「お前だって、本当はわかってるんじゃん。
…俺が、どうしてお嬢ちゃんを突き離したのか…」
「……でも、可愛いじゃない。たった一回会っただけのアンタを追って、こんな危険なとこまで来て。
それともやっぱ、迷惑…?」
キイは胡坐を解き、片膝を付くとその膝に自分の顔をうずめた。
「迷惑…?それ以上に罪悪感の方が大きいんだよ。
あの娘(こ)を…結局巻き込んじまった事を…。
本当の事を言えば、最初からだ。嫌がるあの娘(こ)を無理やり元の世界に返した事もそうだが、アムイに自分の無事を知らせるために虹の玉を託した事も…」
「でもそれはお嬢の命を守るためでもあったでしょ?」
「そういう一面ももちろんあったさ。でもその半分は自分の目的も絡んでいた。
…今でももっと最善はなかったかって、悔やむ時がある」
「もう終わった事じゃない。…今更後悔しても仕方ないでしょう?それがあっての今じゃない。
問題はこれから。お嬢だってアンタと出会わなければ、今がなかったわけでしょう?
あの子はアンタと違って後悔なんかしていないわよ。……強い子よ…」
「だからといって、俺はお嬢ちゃんの気持ちを受け止められねぇよ」
俯いたまま、きっぱりと言うキイに、シータは言葉を詰まらせた。
「……俺は生涯、決まった女を作るつもりはない…」

キイはこれから今以上に熾烈になるであろう、自分に課せられた過酷な運命(さだめ)を思った。
自分の生まれ、自分の持つ力…。それを考えれば、これ以上人を巻き込みたくないのは、アムイと同じだった。
自分の女となる事…すなわち戦いに巻き込まれ、自分同様に標的にされると考えていい。
そんな危険な目には合わす事はできないし、自分の弱みになる存在は少なければその方がいい。
しかも自分はアムイと違って寿命が短いと定められている。己の運命をこれから乗り越えていかなくてはならないときに、恋をする時間はない。…ところどころに軽い恋はしても、キイは決めた女はいらないと頑なに思ってきた。
愛する対象という面では、アムイ以上の人間は、おいそれと現れるのは難しいであろうし、むやみに相手を悲しませるつもりもない。

「これから俺らに待ち受けるもの、俺らがしなければならない事…。
それを考えると、いくらあの娘(こ)を可愛いと思っていたとしても、これじゃ無責任な事になりかねない。
…特にお嬢ちゃんの場合、女を呪って男に嫌悪を抱いている。
だから尚更俺じゃ駄目だろう?特にああいう娘(こ)は気軽になんて抱けるような女じゃねぇ。
そう思うだろうお前だって」
キイはそう言って、片手で顔にかかる髪を後ろにかき上げた。
「お嬢ちゃんに必要なのは、こんな危ない状態で、未来もどうなるかわからないような男じゃねぇだろ?
しかもこんな、本心では別の人間を愛しているような奴じゃ尚更駄目だろう?」
疲れたような溜息が、キイの形のよい唇から洩れた。 
いつだって彼女の傍にいて、全身全霊で受け止める事ができて……。
今の自分はそんな覚悟もありゃしない、腰抜けな男だ。彼女が身を投げ出す価値すらない…。
そう自嘲気味にキイは話を続けた。
「あの娘(こ)自身を心から愛している誠実な男じゃねぇと、お嬢ちゃんは幸せにはならねぇし、傷も癒せないだろうよ。
どっしりと大きな愛で生涯を包んでやれる男じゃなきゃ、男に対する不信は掃えないさ…」
そして再び俯いて、今度は哀しげな微笑を浮かべた。
「…それに恋愛って、自分ばかりが幸せになっても意味はないんじゃないか?」
その言葉には、キイの切ない思いが詰まっていた。
裏を返せば、それだけキイは、イェンランの事を真剣に思っていると同じなのだ。
シータはそう感じて、もう何も言えなかった。
形はどうであれ、相手を思う気持ちには変わりはない。
キイにしろ、イェンランにしろ、…そしてアムイにしても。
「…悪かったわね、キイ。お邪魔して」
突然シータは立ち上がり、そんな彼をキイは見上げた。
「もういいのかよ」
「もういいわ。アンタの話を充分に聞いたから。
……ま、若い頃に比べて、幾分かマシになったとわかって安心したわ」
「何だよ、それ」
思わずキイは苦笑した。
「悪いが俺だっていい加減、いい大人になったんだぜ。伊達に歳食ってるわけじゃねぇよ」
いつまでも子ども扱いしやがって、というように、キイはシータを軽く睨んだ。
「いい大人というよりも、物分りがよ過ぎるいや~な大人になっちゃたみたいだけどね」
シータの辛口に、キイは一瞬口を尖らせたが、にっと笑うと、去っていく彼の背中に小さく叫んだ。
「…ま、ということだから、後はよろしく!」
その言葉にむっとして、シータはちらっとキイを振り向くと、小さな声で呟いた。
「ったく、後始末はいつもアタシ任せなんだから」
「何か言った?」
「いいえ、別に!」
言い方は悪いが、昔からキイの女性関係でのトラブルは、シータが尻拭いしているといっても過言ではなかった。
相手の女はキイを恨まないが(だから厄介ともいえる)、それでも色恋沙汰で騒動が起きると、その相手や家族、周りへのフォローをその度にシータがやってきたのだ。意外とアムイや同期生には知られていなかった事である。
元々色恋に潔癖な所があったシータが、尚更キイの女関係に対し、過敏なまでに批判してしまうのは、こういう事情もあったわけだ。

シータはぶつぶつしながらも、その場を後にして、数歩行ってから気が付いた。
入り口の近くの岩影に人の気配がする。
振り向くとその岩間に隠れるようにして、イェンランが声を殺して泣いていた。
(お嬢…)
彼女は泣く場所を探しているうちに冷静になって、やはりキイにもう一度会ってちゃんと謝ろうと思って引き返したのだ。
どこからかはわからないが、多分イェンランは自分とキイの話を聞いていたに違いないのだ。
シータは無言で彼女の傍に行き、優しく手を取った。
「………」
泣き濡れた目で見上げるイェンランの瞳に、シータが一指し指をそっと唇に当てている姿が映った。
「お茶でも飲もっか」
耳元で小さくそう言うと、シータはゆっくりと彼女の手を引いた。

洞窟の正面入り口にも近い所に、皆が寛げる広い場所がある。そこを通り過ぎて少し斜め右を上がって行くと、人が二人ほど通れるぐらいの、外に通じる割れ目があった。
無言のまま二人はそこを潜り抜けて外に出た。
外はまだ薄暗く、宝石のような星が空をきらきらと飾っている。
「待ってて」
シータはイェンランを近くの木の下に座らせると、再び洞窟の中に戻って行った。
イェンランは濡れた目を擦ると、輝く夜空をぼんやりと見上げた。
自分が気持ちを抑え切れなくて、激情のままにぶつけてしまった結果、彼を悲しませたと知ってかなり後悔していた。
……冷え込む空気が、かえって気持ちよく感じる。
しばらくしてシータが温かい飲み物を持って彼女の前に戻ってきた。
「はい」
彼女にコップを渡すと、シータ自身もコップを手にしながら隣に座り込んだ。
息を吹きかけながら、イェンランはコップに口をつけた。
温かな液体が喉を通り、全身に広がっていくようだった。
「落ち着いた?」
優しいシータの声に、イェンランは無言で頷いた。
申し訳ない気持ちと、恥ずかしい気持ちと…そして感謝の気持ちがないまぜだ。
「…聞いちゃったのね、アタシ達の話」
何の前置きもなく、いきなりシータがそう言った。
イェンランはじっとコップの中の液体を見つめる。自分の情けない顔がそこに揺らいでいた。
「私、キイの気持ちも考えず、何て浅はかな事を言ってしまったのかしら…」
ぽつりと彼女は呟いた。
「でも、それは自分の正直な気持ちだったんでしょ?」
イェンランはじっと押し黙り、しばらくしてから、こくんと小さく頷いた。
「本当に…好きなのね、キイの事」
憐れむでもなく、淡々と言うシータに、素直になっていく自分がいた。
「……自分でも、…自分にこんな激しい感情があるなんて知らなかった…。
あの時、自分が男に恐怖を感じているなんて事、これっぽちも思わなかったのよ?
むしろ、忘れていたみたい…。結局、キイが思い出させてくれたけど」
最後は自嘲気味にイェンランは語った。
「この激しい感情が男への恐怖のために来るのか、それとも違うものからくるのかいつもわからなくて、キイと会うたび動揺して…。でも、でも、キイのアムイへの気持ち…アムイのキイへの気持ちがわかって、私…」
イェンランは鼻をすすった。また涙が出てきてしまいそうだったのだ。
「居ても立ってもいられなくなって…」
「抱かれてもいいと思ったんだ。キイに」
「……誰でもそういう気持ちになるのかといったら、絶対に違うって、その時に気が付いたの。
…キイだから…相手があの人だから…。
同情でもなく、心から自分がそうしたいって…望んだのよ。抱かれたかったの」
我慢できなくなって、再び目から涙が零れた。シータはその様子に気が付いて、空いた方の手で、ゆっくりとイェンランの頭を引き寄せ、自分の肩に乗せた。兄のように(この場合は姉、のイメージの方が強いかもしれないが)優しく頭を撫でてくれるシータに安らぎを覚えて、イェンランは彼に感謝した。
「よかったわ」
「え?」
いきなり思ってもみない言葉を彼は呟いた。
「……このまま、お嬢は男の人を避けてしまうんじゃないかって、本当は心配していたのよ…。
ああいう事があって…。そんなにすぐには忌まわしい記憶はなくならないと思うけど、お嬢には幸せになって欲しいから。
大好きな人ができても、身体が拒んでしまうという恐れもあるだろうけど、相手が誰であれ、その怖さを忘れるくらいの感情を持てる相手に巡り会えたという事は、幸運だと思う…」
できれば、本当はそういう相手に、時間をかけて心から愛してもらうと…もっといいのだけれど…。
そうすれば男に対する恐怖心も、不信も、失った自信も…取り戻せるのではないかと。
シータは心の中でそう思ったが、彼女のために口には出さなかった。
「やはりキイへの気持ちは、他の人とは違う?」
シータの言葉をじっと聞いていたイェンランは、小さく頷くと、震えるような声で言った。
「……この気持ちが…ただの好奇心なのか…淡い恋なのか…よくわからなかったけど、こんなに自分の心をかき乱すような人に会ったのは…初めて…」
シータは小さく溜息をついた。
彼女の気持ち以前に、あの男も女も魅了するフェロモンの塊のような完璧な大人の男を目の前にしては、気の毒にも初心な少女には刺激が強過ぎるのは確かであろう。
当時15歳の無垢な少女が、彼に全てを持っていかれたとしても、仕方がないであろう。
「きっと、初めて会ったときから…好きだったんだわ」
イェンランは独り言のように呟くと、鼻をすすってから、自分の頬を掌(てのひら)で強めに叩いた。
「ごめんね、シータ。もう大丈夫よ。
…明日の昼のにはここを出て行くのよね?
それまでに、キイにもう一度謝るわ…。このまま気まずくなるのは嫌…だし…」
といって、イェンランは言葉を詰まらせた。

皆の話し合いで結局、船舶が目立たずに入港できる小さな港まで、これから皆で向かう事になっていた。
そこにはりシュオンの乗ってきた船がひっそりと停船しているのだ。
そして何とか船に乗り込めたら、そのまま全員で西の国へ行く。そしてキイ達はリシュオン達と別れ、中央国ゲウラを抜けて東の国に入る予定だ。……誰も何も言わなかったが、多分自分はそのまま西の国にいる事を、余儀なくさせられるだろう。
そう考えると、イェンランの小さな胸は千々に乱れた。
本音を言えば、このままキイの傍にいたい。ずっと離れたくない…という感情が沸き起こってくる。
…でも…。
キイの笑顔は少しでも見ていたい。…彼の冷たい表情のままで最後になってしまったら、きっと自分は後悔する。
彼といられるのは、もうわずかだと思えば、尚更、このままでいたくない。

「そう、ね。明日の朝にはりシュオン王子が迎えに来てくれるそうだし…」
と、思い出したように言ったあと、シータは何かに気が付いたかのように、突然話題を変えた。
「ねぇ、リシュオンの事、どう思っているの?お嬢は」
いきなりそう質問されて、イェンランは面食らった。まるで思ってもみない問いだったからだ。
「リシュオン?何故彼の話になるの?」
きょとんとして自分を見つめるイェンランに、シータは咳払いした。
「何故って…。今ちょうど彼の名前が出たからよ。
だって最近のアンタ達って、すごい仲良しじゃない。…考えてみれば、王子だって充分に魅力的な男だわよねぇ」
シータはそう言いながら、キイの言葉を思い出し、彼女を身も心も守れるほどの器量の持ち主は彼しかいないように感じたのだ。多分…自分の勘だけど、王子だってイェンランの事を憎からず思っている筈だ。
…それに男性恐怖症になってからというもの、彼女は仲間であるアムイやサクヤにでさえも、一時距離を取っていたほどだった。それが最初はどうであれ、いつの間にかあっという間にリシュオンとは打ち解けて、まるで何でもないかのように、彼女は彼が近くにいても気にならないようなのだ。しかも普通に触っても拒否反応でないし。
「…あー…確かに…そう言われてみれば…そうかぁ」
煮え切らないイェンランの言葉に、シータは突っ込んだ。
「…ねぇ、ズバリ聞くけど、王子はどういう存在よ、お嬢にとって。
だって、彼だって立派な男じゃない。
…お嬢の傍に寄って平気なのは、年配である老師(昂老人)と、中性的なアタシ。
それはわかるわ。
じゃ、リシュオン王子は?どう見ても、魅力的な年頃の男性なんだけど」
「……そうかぁ…。そうよね。リシュオンも男の人…だよね…」
シータの指摘に初めて気が付いた、というようなイェンランの表情に、シータは目を丸くした。
「そうよ…。どう見たって…」
「私、今まで、そんな事考えても見なかったわ」
「そ、そうなの?」
イェンランは力強く頷いた。
「……うん。何だろう?私今までリシュオンが男の人だって事、忘れてたみたい!
最初は確かに男性だと思ったことあったんだけど…。
今は全然意識していない…みたい…。
男というよりも…大事な…気の合う友達?」
(そうか…。つまり王子の事は可もなく不可もなく、という事なのね…。まったく彼を男と感じていないわけだ。
というよりも、王子自身がお嬢に対してそう努力している?)
シータは溜息ついた。そういえば、前に王子に、性としての男を出さないようにお願いした事…あったっけ…。元々嫌らしさを感じさせない爽やかな人だったから、そういう気配りは簡単だろうと思っていたけど。いや、本当に彼が、イェンランに対して、ここまで完璧に異性を感じさせないように接するとは思わなかった。
(若いのに…、凄い男だわ)
シータは彼に感嘆した。ある意味キイとは違った、精神的にも大人の男だ。
(でもねぇ)
と、シータは心の中で呟いた。
気が合う仲良しの異性って、究極にはどちらかだものね…。
まるっきし完全に相手を異性と思えないか、何かのきっかけで異性と意識して恋に落ちるか…。
それは時間と、神のみぞ知ることになるんだろうけど、男と女の仲なんて、本当にどうなるかなんてわからないものよね…。
「シータ、どうしたの?」
まっすぐに自分を見つめるイェンランに、シータはにっこりと笑って見せた。
「何でもないわ。そっか、お嬢にとって王子は希少な男友達ってわけなのね。
そういう人はなかなかできないわよ、大事にしなさいね」
「うん、私もそう思う。リシュオンだと自分がまるで気負いしないの。
何か安心して自分のままでいられるというか…。
男でも女でもそういう人間って自分にとって貴重よね」
(それって…結婚相手には一番いいと思うけど)
余計な事を考えて、シータは内心苦笑いした。
「彼にはキイのような激しい気持ちは湧かないのね。穏やかな感じ…か。なるほど」
「何が言いたいのよ、シータは」
眉を寄せているイェンランの肩を、シータはポンポンと軽く叩くと、明るくこう言った。
「ううん、何も。…それよりもキイとは気まずくならないといいわね…。
それ飲んだら帰りましょうか。明日早いし」
「うん」
そうして二人は満面の星明りの中、無言のままお茶を飲みながら、しばらく空を見上げていた。

.......................................................................................................................................................................................................

物凄い力に引きずり込まれ、アムイは半分気を失っていたようだ。
激しい衝撃を全身に受けて、突然意識がはっきりとした。
「こ、ここは…」

熱い。
異常に熱い蒸気が方々から噴き上げ、それがこの場の温度を上昇させている。
周りはゆらゆらと、赤い影が陽炎のように舞い、ごつごつとした岩間と、赤茶けた砂が、ここが地獄の底だという事を暗に示していた。
痛む身体を庇いながら、アムイはのろのろとその場に立ち上がった。
耳元には人…いや、亡者の苦悶の叫びが耳に付き、ごぉおと何かが燃え上がる音が辺りに響き渡っている。

『お前か』
突然、前方から鋭い声がこだました。
『何だ、もっとマシな亡者かと思ったら』
後方でしゃがれた声がした。
慌てて見回すと、いつの間にか数匹の異形の鬼達がアムイの周りを囲んでいた。
色とりどりの恐ろしい顔をした鬼達は、じろじろとぶしつけな視線をアムイに送っている。
『魔王様』
一匹の茶色の鬼が前方に向かって叫んだ。
『大魔王様!』
後方で赤黒い鬼も叫んだ。
『こいつですぜ。…餓鬼地獄に穴を開けやがったのは…』
「穴…?俺は穴なんか…」
『けっ! 自分のした事に自覚がねぇっつのは、充分な罪状ですぜ、邪悪鬼魔王(じゃあっきまおう)様!』
「だから俺は何の覚えもな…」
と、アムイが言いかけた時、大きく地面がぐらぐらと揺れ、前方の岩の大きな扉がぐぉぉと開いた。
『自覚がないからこそ、罪となるのだ』
まるで地の底から湧き出るような恐ろしげな声が、その場を震え上がらせた。
『魔王様!』
囲んでいた鬼達は、急いでその場に蹲(うずくま)り、扉の先に対して頭を地に擦り付けるように下げた。
「魔…王…」
アムイは呟いて凍りついた。
開いた扉の奥の方には、自分の数十倍はあるかと思われる、巨大な魔神がこちらを睨んでいた。
異形のものの頭というに値するその恐ろしいほどの姿は、生前散々悪い事をして平気でいられたような、外道な人間すらも、震え上がらせるような容貌をしていた。
真っ赤な色をした皮膚には黄金色の体毛が生え、耳は尖り口は裂け、黄色い目はかっと見開いて、逃げ出す亡者を見逃すまいとしているようだ。頭上には華美な装飾品と、それに不釣合いな、ぐるんと巻き上がった大きな二本の角。鋭い牙の隙間から、先ほどの揺るがすような低い声が唸るように洩れた。
『我が獄に落ちた亡者は、我が獄の管轄である。
そんなこと、天のもの、黄泉のもの、獄界のものならわかっておる筈。
何ゆえにお前は此処とは違う波動を出した?唯一許される天界のものでもない。
…外部が迷い亡者を導くのは天界のものでしかできない筈じゃ。
お前の波動は天界のものではない…。もっと…そう、生臭い波動じゃ』
と、邪悪鬼魔王はアムイをじろりと睨み据えた。
『その異質な波動のために此処のバランスが崩れ、空間に穴が開いてしまった。
……大きな大きな穴じゃ。お前のせいだ。どうしてくれようか』
「俺…の?」
ごくりとアムイは唾を飲み込んだ。
地獄には地獄の、暗黙の規律があるのであろう。
多分、ラムウとの事を言っているに違いない。
「邪悪鬼魔王殿!本当に俺は知らなかったんだ!心からお詫びする。
だからどうか許してくれないだろうか!」
アムイは肝を据えて、この恐ろしい形相の魔王に主張した。
『許す?』
ぎろりと魔王はアムイをじっと見下ろすと、ふん、と鼻息を荒げた。
『そんな簡単に許されるのなら、地獄なんて必要ないだろうよ。
お前にはそれ相応の罰を与えねばならん…。ふうん、なるほどよなぁ』
魔王は顎に手をやると、ニヤリと笑った。
『お前、本物の霊体ではないな?というか、完全な死人ではないじゃないか。
おかしいと思ったのよ、この生臭さ…。半分生きている奴が、こんなとこに来やがったせいか。な~るほどねぇ』
「…どういう…」
『決めた!』
「え…?」
『お前、半分自分の魂を、元いる場所に置いてきただろ?だから冥界以降に来ている筈なのに、完全な魂じゃないわけだ。
かろうじて肉体と繋がる鎖が、お前を生と死の間を取り持っているわけさ。
ならばお前の罰は、その鎖を断ち切らせてもらう、という事にするかね』
と、面白そうに言うと、魔王はアムイの頭上に大きな手をかざした。
あ、と声を出す間もなく、アムイの頭は強烈な痛みに襲われた。
何かを、引きちぎられたような激痛…!!
アムイは声も出せないまま、頭を抱えてその場に倒れこんだ。

..........................................................................................................................................................................


「アムイ!!」

突然、洞穴でキイの悲鳴が響き渡った。
ちょうど一息ついて、戻ってきたシータとイェンランは顔を見合わせた。
「アムイ!!」
キイの声が先ほどと比べて、尋常でないほどに切羽詰っていた。
胸騒ぎがして、二人は慌ててキイとアムイのいる場所に駆け込んだ。
「どうしたの!?キイ!」
「アムイに何か…」
と、二人はアムイの様子を見てぎょっとした。
完全に血の気が失せている…。
キイに抱きかかえられ、がくりと頭を仰け反らしているアムイの顔は、一滴の血も流れていないかのように真っ白であった。
「キ、キイ、まさか…」
恐る恐る言葉をかけるシータに、キイは呆然と呟いた。

「……アムイの…心臓が…完全に止まった…」



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2011年7月28日 (木)

暁の明星 宵の流星 #152

《ほら、可愛い!》
闇夜に浮かぶ白い桜の花が、幻想的に揺らめいている。
目の前には、頬を染めて照れたような自分の顔が、鏡から覗いている。
ふと後ろを見ると、優しい笑顔と目が合った。
薄暗い中でぼんやりと浮かぶ、白い顔。
可愛らしくも、彼の人(かのひと)にも似たその笑顔は、どれだけ自分を慰めてくれていたか…。
《イェンは凄いわ。…だって、たった一度会った人なのに、ここまで想うことができるなんて》
羨ましそうな、それでいて哀しげな声が自分の心を掻き乱す。

《危ないから早く戻って来て、イェン!》
次には彼女の悲痛な叫びが聞こえてきた。
頭上にその叫びを聞きながら、自分はその声に返事する。
《私、確かめたいの!》
《え?》
《この気持ちが本当のものなのか。キイに会って、確かめたいのよ!
姐さん、ごめん。姐さんの言うとおり、ここにいれば普通に生きていられるのかもしれない。
でも、やはり私わかったの。ここは私の生きる場所じゃない!!
どんな事が待っているか、もしかしたら死ぬかもしれない。
・・・・でも。私きっと後悔しない。だってそれは自分が決めた事だもの!》
自分の心からの思いを、上で心配そうに見下ろしている相手に伝わったかどうかはわからない。
けど、自分は思いっきりその人に笑って見せた。
《人の決めた道を歩んで後悔するより、私は自分で決めた道を生きたい。
私・・・・アムイ達と一緒に行く》
《イェンラン・・・・・》
悲しそうな姐さんの声。涙を浮かべるその顔が最後だった。

笑って…姐さん…!私…。

ぼんやりと思った途端、イェンランは目が覚めた。
夢…。
珍しい…。今まで夢など見ても、ほとんど覚えていないのばかりだったのに…。
しかも久々に懐かしい人の夢だった…。
のろのろと起き上がると、イェンランは深い溜息をついた。
明日、出発するための支度をしていて、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
身体のあちこちに鈍い痛みがある。
もうずっと柔らかな布団の上で寝ていない。慣れたとはいえ、剥き出しの岩に草やボロ布を敷いた簡易寝床では、ちょっと変な向きで寝ただけで、すぐに身体の節を痛めてしまう。
でも。
と、イェンランは思った。
それは自分が今を生きている証拠のような気がして、鬱陶しくもその痛みが気持ちいい。

よくここまでやって来たなぁ…。
自分は本当に何て遠くまで来たのだろうか…。
とは言うものの、まるで何年も過ぎている感覚ではあるが、よく考えるとまだ半年ぐらいしか経っていないのだ。
娼館である桜花楼(おうかろう)を出てから、目まぐるしくも色んな事があった。
様々な出会いがあって…そして悲しい別れがあって…。
自分としても、こんなに冒険した事なんてなかったのではないか。
……怖い事も、苦しくて悲痛な事もあったけど、…あの時、衝動的だったとしても、アムイ達の後をついて来てよかった。
ただ。
イェンランはじっと自分の手を見つめた。
あの時の自分は、後に残された人の事なんて、これぽっちも頭になかった。
今になって、どんなに自分勝手な事をしてしまったのか…。悔いはないけど、胸が痛むのは確かだった。
  
ヒヲリ姐さん…。
あの後、どうしただろう…。あの場に姐さん一人だけ残して…。
もしや、きついお咎めになんかあったのではなかろうか…。
そう考えると、イェンランの小さい胸は罪悪感で震えた。

無我夢中でここまできて、かけがえのない仲間だった人間を失い、表では気丈に振舞っていたにしても、一人になると自暴自棄気味になって、ふと、桜花楼にいた時の頃をよく思い出すようになった。
あの頃も、先が闇ばかりで、まるで暗い夜道を歩いている気持ちになったものだった。
……特にサクヤの死は、イェンランにとって、最愛だった兄の突然の死と同様に衝撃だった。
自分が暗く、落ち込んで泣いている時に、いつだって慰めてくれたのは、姐さんの優しい声とあの微笑(ほほえみ)だった。
そして今は……。
イェンランの思い描く、先輩娼婦であったヒヲリの笑顔が、キイの満面の笑顔と重なった。
自分が好きになったのは、きっとこの彼の笑った顔がきっかけなのだと思う。
だからなのだろうか、ヒヲリにしてもキイにしても、彼らの悲しげな顔を見るのは辛かった。

イェンランは突然キイに会いたくなって、そっと自分の与えられた場所から抜け出した。
ここに来てからは、キイはアムイと同じ場所で寝食を共にしている方が多い。
話し合いが必要な時には、もっと広い場所…全員が集まれる場所で自分達と食事をしたり、たまにふらふらとしていたようだけど、ほとんど彼はアムイの傍から離れたくない感じだった。
昏睡状態の彼を何ともいえない表情でじっと見つめるキイに、イェンランはいつも胸が締め付けられるような痛みを感じていた。
キイに対する心配と…アムイに対する心配と…。そして認めたくは無いけれど、少しのアムイへの羨望と嫉妬のような感情…。それがないまぜになってイェンランの心を苦しめていた。
見るからに、キイの心はアムイにしかない。…それが身内からくる感情だとしても、そうでなくても、キイの心を独占しているのはアムイだけだと、ずっとそう感じていた。
それは前に、あのシヴァの息子、カァラの言った爆弾発言も相まって、イェンランの心を乱れさせた。

《あんたの心を地獄に落したのは、天に通じる身で実の弟を愛してしまったからだ》

《そうだとしたら、やはりあんたは罪な男だな。抱かれる女も可哀相に。
いや、あんたが自分の母親を思い、女に優しく、慈愛を込めて接しているのも、敬っているのもわかるさ。
だから女はあんたを憎まず恨まない。抱かれても文句はないだろう。あ、かえって感謝してるか。
でも結局あんたが、いくらその女に欲情しても、愛しく思っても、その相手を真に愛する事はできないでしょ。
その事に気づいた女は闇を見るだろうなぁ。それをわかってるが故、あんたはそういう闇に落ちそうな女とは寝ないよね。
本当にずるい》

その話を、自分が聞いていたとはキイは気が付いてなかったように思う。
キイもカァラの言葉は、挑発だと受け止めて、やんわりと対応していたように思える。
…でも…はっきりと否定した感じではなかったような…。

イェンランはぷるぷると頭を振った。
だから、どうなの?イェンラン。キイは否定しなかったと同時に、はっきりと認めていなかった筈よ。

そうと思っても、どうも二人が気になった。
当のアムイといえば、自分にとってこんなに神経を逆撫でする男はいないと前は思っていたほどだ。
アムイって嫌な奴…。キイとどういう関係よ…。
最初はそう思って反発していたが、色々な困難を共に越えてきて、いつの間にかサクヤ同様、大切な仲間となっていた。
今は反発心よりも、アムイには兄の様な信頼感と自分と通じる闇の部分が呼応し、身内のような感情すら彼に抱いている。だからこそ、自分がアムイに対して、妬みのような気持ちを持つ事に抵抗があった。
だって…あの二人は兄弟じゃないの…。それも複雑な。二人の絆が強いのは仕方が無い事なのよ…。
イェンランは何かとそういう想いが沸き起こる度に、自分に言い聞かせていた。
でも…。
それだけではない二人の苦悩した関係を、彼女はひしひしと感じていた。
それは女の勘という奴なのかもしれない。

そう思いながらとぼとぼと、アムイが安静にしている場所に向かって行くと、何やら中から不穏な空気をイェンランは感じ取った。
「キ…」
入り口の近くまで来て、キイを呼ぼうとイェンランが声を出したその時だった。
「アムイ!!」
キイの悲痛な声が中から聞こえる。
「しっかりしてくれ、アムイ!」
尋常でないその声に、イェンランは形振り(なりふり)構わず中に飛び込んだ。
「どうしたの!?」
見るとキイが取り乱してアムイの上半身を抱きかかえ、揺さぶっている。
「キイってば!!」
イェンランも慌てて二人の傍まで走って叫んだ。
「アムイっ!戻って来い!」
そう叫ぶとキイはアムイの口を自分の口で塞ぎ、懸命に人工呼吸をし始めた。
まさか…!息が止まった…?
ぞっとしてイェンランは必死になっているキイを見下ろしていた。
「ご、ごふっ!」
止まっていたと思われるアムイの息が吹き返したようだ。
ほーっとしてキイは脱力し、そっとアムイの身体を横たえた。
「だ…大丈夫?アムイは…」
イェンランはドキドキして、アムイの様子を覗こうとキイの隣にしゃがみ込んだ。
「ああ……嬢ちゃんか…。びっくりさせてごめんよ。大丈夫だ」
はぁーっと大きな呼吸を吐いて、キイは自分の手で額の汗を拭った。
「いつも…こんな容態になるの?」
イェンランは呟くようにキイに問いかけると、横になっているアムイに目を移した。
見ると、アムイは何事も無かったような顔で、規則正しい寝息を立てている。
「いつもじゃないけど…。ここ最近、たまに息が乱れる事はあったんだ。
本当の事を言えば、こいつから目を離せなかったんだ…」
「……だから最近、昂のおじいさんやシータが交代でアムイを見ていたのね」
「でも、一時的にも息が止まるなんて事、こんなに酷いのは初めてだ。
…一体、アムイの身に何が起きているんだ…」
キイはそうぶつぶつと言うと、白くて長いその形のよい指で、優しくアムイの髪を額からかき上げた。
イェンランの胸に、つくん、と小さな痛みが走る。
何なんだろう?羨ましい?本当は…その指で、自分に触れて欲しい…?
思わぬ衝動に、イェンランは打ち消すように思わず心の中で頭を振った。
「どうかした?お嬢ちゃん?…眠れなかったの?」
優しい声がイェンランの耳をくすぐり、彼女ははっと我に返った。
「え、ええ、まあ。…何か明日出発と思うと、落ち着かなくて…。
それよりも、アムイの方は大丈夫なの?こんな状態で動かしても…」
イェンランは自分の動揺を知られないよう、努めて平静な声でそう言った。
その言葉にキイは穏やかに微笑んだ。
「心配してくれてありがとうね。
…俺としても一抹の不安はあるけど、いつまでもここにはいられないでしょ」
そして再びアムイの方に視線を落とし、彼の頭に置いた手を愛しそうに動かした。
ゆっくりと撫でるその手の動きには、キイの深い愛情が込められていた。
きっと…長い間─。…長い歴史を感じさせる二人の醸し出す雰囲気に、イェンランは眩暈を起こしそうになった。
こんな事、聞いてはいけないのかもしれない。だけど、この時のイェンランは普通の思考が働かなかった。
思い切って今聞いてみよう…。いつも、本当は確かめたかったあの事を。
「ねぇ、キイ」
「何?」
「…アムイの事は…弟だから…好きなのよね……?」
突然、キイの手の動きが止まった。
「…その…二人は兄弟だから…」
「俺達の間に、兄弟以上のものを感じる?」
ぼそっと答えたキイの声色には、何の感情も見えない。
「………ご、ごめんなさいっ!私ったら変な事を…」
慌てて打ち消そうと振るイェンランの手を、キイは無表情のまま自分のもう片方の手で掴んだ。
「キイ…」
「お嬢ちゃんは鋭いなぁ」
「……」
俯いたまま、自嘲するような声でキイが言った。
イェンランの胸の鼓動が早まった。
緊張で手が震えるのを、イェンランは抑え切れない。
そんな彼女の様子をじっと感じていたキイは、ふっと笑うと、優しく彼女の手を離した。
「……なんてね。
そりゃアムイは俺のたった一人の血の繋がった弟だ。
他の誰よりも、愛するのは当たり前じゃないか?
それにお嬢ちゃんはシータに聞いているんだろ?俺が無類の女好きって事をさ」
「………うん…」
赤くなって俯く彼女に知られないよう、キイは切なそうな溜息を小さく漏らした。
「アムイは血が繋がっている以前に、生粋の男だよ?
どうしてそれ以上の感情を持てると思ったのかな…。
俺はね、男には欲情しないの。恋人にするなら、嬢ちゃんみたいな可愛い女の子がいいよ」
キイはニヤっと笑うと、硬くなっている彼女の手を優しくポンポンと叩いた。
「だけど…」
イェンランは何故か、キイにはぐらかされた様に感じて、思ってもみなかった問いかけを続けてしまった。
「アムイはどうなのかな…」
「どういう意味…?」
思わぬ質問をされて、キイは目を丸くした。
「キイが女好きっていうのは、アムイからも聞いて知っている…。
でも、アムイは?…考えてみればアムイが自分から女性に夢中になっているなんて話、聞いたこと無くて…」
と言いながら、イェンランはその時ヒヲリの事を思い出していた。
そういえば、【暁の明星】が桜花楼に通い始めたとき、ヒヲリ以外にも何人か相手を変えていたという話を聞いた事があった。だがそのうち、いつの間にか指名はヒヲリだけになった。…だから彼の意中の相手だと、その頃の桜花楼の皆はそう信じていた。
そう、あの時は誰もがアムイはヒヲリ姐さんに夢中だと…。
「それはさ。多分、君も感じていると思うけど、君と同じく異性に対してアムイはトラウマがあるんだ。
お嬢ちゃんほど重症じゃないけどね。かといって男好きでもないわな…」
「そうよね!虹の玉を持っている私を見つけるまでは、2年も桜花楼に通い詰めていたんだもん。
それでも相手は一人だけだったけど…。見境無く女の人に手を出すって感じじゃなかった…」
「見境無く…ね。まるで俺と反対だ。
という事は、こいつ、やはり馴染みの女がいたんだな?
な、どういう娘(こ)だった?こいつの通い詰めてた…」
今度はイェンランが目を丸くする番だった。
…何なの?この嬉しそうな顔は…。
自分の思い過ごしだったのだろうか…。自分が感じていた、二人の間にある空気…。
「なっ!なぁ、教えてくれよお嬢ちゃん。
どんな女の子?美人?可愛い?…スタイル良かった?
あ、そうか、桜花楼にいるんだっけ。そりゃ美人に決まってるよな」
まるで自分のごとくはしゃいでいるキイを見て、イェンランは益々腑に落ちない気分になった。
「まったく、こいつったら、ぜってー俺には教えてくんないんだもんなー」
口をへの字に曲げながら、キイは眠っているアムイの額を軽く小突いた。
「…ヒヲリ姐さんは…そりゃ桜花でも極上の美人だったわ。将来の最高級娼婦である【夜桜】候補だったんだから…」
「へぇ!ヒヲリさんっていうのか!しかも【夜桜】候補とは…。さすが俺の弟、大したもんだ!で?髪の色は?目は?」
キイのはしゃぎ様に面食らいながらも、イェンランは話を続けた。
「えっと…、目は優しい茶色で…髪は…そう、絹のように柔らかくて艶やかで…」
そう言いかけて、イェンランは目の前のキイの髪に目が吸い寄せられた。
肩にかかる、なだらかな絹のような…。
「長い…ブロンズ色の…髪…で…」
ああ、どうしよう…。
イェンランは戸惑った。ここに来て、キイの満面の笑みを見て、はっきりとわかってしまったのだ。
目の色こそ違うにしても、……そうか、そうだったんだ…。何で自分は今まで気が付かなかったんだろう…。
アムイの心の奥底を。この時、まるで雷に打たれたように彼女は悟ったのだった。
「……姐さんは…笑った顔が…素敵で…。まるで…」
気が付かないうちにイェンランはそのまま声に出していた。
「キイにそっくりだったわ…」
その言葉に、キイの顔が凍りついた。
あ、と思った時にはもう遅かった。珍しく動揺したキイがそこにいた。
「……俺に…」
長い沈黙の後、ポツリとキイが呟いた。
今までのポーカーフェイスがどこに行ったのかと思うほど、キイは呆然としていた。
困っているのか、それとも喜んでいるのか…そんな複雑な表情をしていた。
「ああ、キイ!ごめんなさい!私…!!」
突然頭を下げたイェンランに、キイは我に返った。
「え?何で?何で嬢ちゃんが謝るんだ?」
きょとんとしてキイは彼女を振り向いた。
「私…、私っ!…気が付いてしまったの…。
アムイの気持ち…。アムイがどうして姐さんだけ指名していたのかを…」
そして自分が引き出してしまったキイの本当の気持ちにも、彼女は後悔していた。
二人の間に、他人がずかずかと入り込んでいいわけがなかった。
その彼女の様子をじっと見ていたキイは、諦めたような微笑で一息つくと、優しくイェンランの肩に手を置いた。
「嬢ちゃんって、不思議な子だね…」
宵闇のような声…。イェンランが忘れられなかった甘くて低い声が辺りに響いた。
「え…?」
「君の前では隠そうと思っても、見破られちゃうんだなぁ…。
それだけ、真実を見抜く目がある、というのか…」
「キイ…」
キイは自嘲しながらも彼女から手を離し、緊張を緩めるように身体を伸ばした。
こんな…十も歳が下の女の子に…。大の大人の男が動揺を隠せないなんて…。
キイにとって、こんな事は滅多にない事だった。
そしてこんなに女性に対して素直になるという事も…。
彼女になら、自分の思いをわかってもらえるのではないかと、何故かキイは思った。
というよりも、彼女には下手に隠す事はできないと感じた。
キイはちょっと困ったようにイェンランを見て、微笑んだ。
彼女の黒い髪、そして、黒くて真っ直ぐに真実を見極める目…。
─本来の、アムイの姿が彼女と重なった。
「嬢ちゃんには、下手に隠しても駄目みたいだ」
「キイ…」
「今の俺の気持ち、きっと君にばれちまってるんだろ?
……そうだよ…。俺達は兄弟以上のものを互いに感じているよ」
イェンランは神妙な面持ちで、キイの告白を聞いていた。
「でも、それが情欲を伴う恋愛感情とはちょっと違うかもしれない。
何故なら、俺は完全に男には欲情しないんでね。…たとえ、心から愛している相手が男だったとしても」
淡々と語るキイの声が、かえってイェンランの哀れみを誘った。
「……特に血が繋がっていると知る前はさ…。ま、ガキの頃だけど、真剣にこいつと結婚しようと思ってたからなぁ…」
「そうだったんだ…」
「男が相手だと無理だと周りに言われてさ、それでも正式じゃなくたって男同士も結婚できると言って親達を困らせてた」
ははっと乾いた笑いをすると、キイは何とも言えない目で、アムイの寝顔を見つめた。
「……こいつが…アムイが男じゃなかったらなぁ…」
全ての想いが、その一言に詰まっていた。
「何度、そう思ってきたんだろうか…」
女のイェンランでさえ、見惚れてしまう様な悩ましげな横顔が、キイの苦悩を物語っていた。
「それはそれでね、人としての禁忌を犯す形となるわけで、…困るわけなのだけれども」
自分の心情を吐露する時でも、キイの声は不思議と穏やかだった。
まるでもう全て、その想いを昇華してしまったかのような、そんな声だった。
「でも…昔は異母兄弟でも結婚できたって…。母が違うと、きょうだいという感覚が薄くなるからって…」
「昔はね。王族なんか、そういう結婚多かったけど。血を濃くするために。
でも、今はそんな時代でもない。…生まれる子供の事を考えれば、やはり禁忌なんだ。
それに、アムイとは幼い頃から一緒で、…兄弟と教わらなくても近しい存在でもあったからね」
「…そう、ね」
イェンランは言葉に詰まった。キイの心情が、痛いほど辛い。
「……子供の頃の無邪気な気持ちのままで、俺は本当はずっといたかったんだがなぁ…。
人間って、本当に生きるためには色んな枷があるもんだね、嬢ちゃん」
思い出すように言葉を進めるキイに、イェンランは黙って聞き入っていた。
「お嬢ちゃんには軽蔑されちまうと思うけど、一番辛かったのは思春期に入った頃だった。
……隣で寝ているアムイも、きっと気が付いていた。
男ってさ、どうしようもないのよ。言い訳じゃないけど、……特に俺はこの世に初めて生を成し、肉体を経験した魂(たま)みたいなんだ。…人間の…若い男の性欲っていうものが、あんなに凄いものだとは、俺にもわからなかったさ」
ちらっとキイは、頬を赤らめているイェンランの顔を見て、慎重に言葉を選んだ。
「つまり、心と身体のバランスを取る事ができなかったのさ、当時の俺は…」
「…心は…アムイにあったって…こと?」
キイは頷いた。
「でも身体は女の身体を求めているんだ。自分がそうだという事を、この時に嫌というほど知って、衝撃を受けたなぁ」
男が数多い今の地上では、男同士で恋に落ちることは勿論、究極で言えば、男同士でも肉体的に繋がる事は簡単な世の中だ。…なのに自分はそれができない。…まるで判を押したような性質。
かといって、そのような自分の倫理が簡単に崩れてしまえば、それはそれでまた違った苦悩があったろうが。
「それで、人でなしの俺は、ついアムイに似た女を見ると、見境なくそういう関係になっちまう。
その都度、アムイの何も知らない顔を見るたびに自己嫌悪に陥って…。
その上、彼女達にも酷い事をしてさ…」
「キイ…」

いつの頃からだろう、共に寝台で眠るのが辛くて仕方なくなったのは。
それは隣で寝ている相手に欲情したからではない、できないからこそのジレンマだった。
かといって、隣で清らかに眠る最愛の人間に対して、そういう気持ちを持つ事も、きっと自分は耐えられなかった。
初めてアムイの眠る隣からこっそりと抜け出した夜、そして初めて女を抱いた時、欲望を満たされた身体とは裏腹に、何とも言えない罪悪感が襲い、キイは地獄に突き落とされた気持ちがしたものだった。
アムイの寝顔を見るたびに、湧き上がってくるこの感情…。
全てが、自分にとって初めての衝撃だった。

自分の身体が心を裏切る感覚…。
抑えようと思っても、抑え切れない本能…。

そしてキイはそれに耐え切れず、堪らなくなって女を抱きに行く。
初めは本当にその事に対して罪悪感を持っていた。
種の本能での性への衝動。
…だが、ある時キイは気が付いたのだ。
思いがけなくキイの身体に圧し掛かり、自分を翻弄させた、その狂おしいほどの衝動を、いつの間にか女達に癒して貰っていたのだという事を。
種を残すという、何ともシンプルな性の本能。
まるで獣のようだと、よくシータに言われていたけど、否定しない。
だってそれは肉を持ってこの世に生まれた、必要な欲望なのだから。
当時は自分が穢れているようで、そんな自分を嘆いたが、この肉を持って生まれた限り、それは乗り越えなくてはならない重要な事なのだ。
キイは母親の件もあって、最初はかなり自虐的だったが、彼女達の優しさに自分が答えていく事によって、その感情を乗り越えていった。
だからといって全て許されるとは思わないが、キイの女性への崇敬の念はここで培われたのだった。
この肉体の自分を優しく受け止め、癒してくれた女達に、キイは心底ひれ伏した。
……どうあがいても、男の自分は女には敵わない…。
その思いが女好きと名を馳せる要因のひとつになったのであるが…。

彼女達の存在があって、キイは自分の心と身体のバランスを取り戻していった。
多分、おくてと言われるアムイでも、一番近くにいたからきっと気が付いていたに違いなかった。
だけど、女に対するトラウマが少なからずあるアムイにとって、自分の行動がどう思われるのかは、少々心配な所があったのだ。
…もう一人の自分であるアムイ。
今生、己が男として生まれてきたならば、きっとアムイも自分と同じ性質であるに違いなかった。
いくら女性性を強く隠し持って生まれたとはいえ、人は誰しも陰陽を持つ。
己にある男性の部分と女性の部分。
二つに分かれた魂だからといって、全てがばっさりと真っ二つに分かれるわけではない。
別々の人と生まれたからには、魂が別れても、それぞれが個として、全てを備えて生まれてくるのだ。
勿論、男性性が強いとされる自分だって、ちゃんと女を感じる部分を持っている。
アムイだって同じなのだ。
ただ、通常の魂の双子(と、通常では呼ばれる)とは、自分達が違うというのも痛切していた。
今生のアムイの魂は、女性性が強い要素を持つとしても、男として生まれた時点で、今生を男として人生を全うするべくために、地に降りた筈なのだ。
それは変えられない事実。…わからなかった当時は、どれだけ天を呪ったかしれないが。


「だけど…。まさかこいつも、俺と同じだったなんて…」
嬉しいのだろうか?それとも困っているのだろうか?
キイ自身、よくわからない感情だった。
「でも、俺はさ…。こいつには可愛い女の子と幸せな恋をして、将来は自分の家族を作ってもらいたいんだよな…」
気が付くと、キイの目に涙が浮かんでいて、イェンランははっとした。
「でも、キイは…?」
恐る恐るイェンランはキイに尋ねた。
「はは?俺?俺はいいんだよ」
「どうして…」
「…嬢ちゃんだって知っているだろう・…俺は長生きできないの」
キイの悲しげな笑顔が、イェンランの身を引き裂いた。
「だから、俺がここにいる間に、アムイの幸せな姿を見たいっつー願望があるんだな…。
ま、こんな物騒な世の中じゃ、いつになるかはわからないけどね」
「……」
「俺が安心してこの世を去れるように…。願わくば、こいつの幸せな笑顔を見ながら別れができるように…」
その時、激しい衝動がイェンランを襲った。
それじゃキイは?自分の命が短いからって…キイはこの想いを抱えながらこの世を去るというの…?
キイの、アムイへの深い思いに、イェンランは打ちのめされたと同時に、自分の心の奥底からこみ上げる激しい思いを抑え切れなくなって、動揺した。
この激しい感情は、一体何なの?
……本当に愛している人間が弟だから…今生はその愛が成就しなくても、それでいいの…?満足なの?
アムイだって…心の底ではキイの事を深く愛しているというのに…!
そう思うとキイが可哀想で、イェンランはどうしようもなくなった。
せめて…せめて自分ができる事があれば…。彼の力になりたい…。
そう思い立ってイェンランは気が付いた。
ある…。あるわ…!自分ができる事が…。

イェンランはきゅっと涙を呑み込むと、勇気を出してキイに言った。
女を忌み嫌い、呪ってきた自分が、たった一人の目の前の男に、こんな事を思うなんて…信じられなかったけれど。
でも、今は。
自分が女として生まれてきてよかったと、この時に初めて思ったのではなかろうか。
自分が、女の自分だからこそ、この人にできる唯一の事…。
自分がアムイと同じ、黒い髪に黒い瞳を持って生まれた事に、彼女は天に感謝した。

「…抱いて…」
「え?」
思ったよりもか細い声が、自分の喉から出た。
一瞬、キイは何を彼女が言ったのか、わからなかった。
「私を…アムイの代わりに…」
それでもキイは事情が呑み込めていないようで、不思議そうな顔で自分を見ている。
イェンランはもっと勇気を振り絞って、彼にはっきりと自分の気持ちを伝えた。
「私をアムイの代わりに抱いて、キイ。
…私なら…女の私なら、貴方のアムイへの想いを…」
キイは彼女が言わんとする内容に気が付き、固まった。
イェンランも、自分で何を馬鹿な事を言っているのかと理性では思っていた。だが、彼女の膨れ上がった感情は、もう抑え切れる状態ではない。
この激しい感情は何のだろう…。初めて襲うこの激しい思いに、イェンランは我を忘れていた。
「お嬢ちゃん…」
「キイ、私ならアムイと同じ髪と目の色をしているわ。…だから私をアムイと思って…」

「本気でそう言っているのか?」

キイの声色が変わった。冷たい、まるで氷のような…声…。
イェンランははっとして、彼の顔を初めて正面から見た。
「キイ…」
そこには初めて見る…いや、戦いのときに見た事がある…険しくて、冷たい顔があった。
イェンランの背に、冷たいものが流れた。
女である自分に対し、こんな怖いキイは初めてではなかろうか…。

「俺は同情されたくない」
「違うわ!」
冷ややかな彼の声に泣きそうになりながらイェンランは叫んだ。
違う、違うのよ、キイ。そうじゃなくて、私は…!
…私は…?
混乱したイェンランに、突然キイの手が彼女に伸び、その場に強い力で押し倒された。
「キイ!?」
悲鳴に似た声を発して、イェンランはキイの屈強な身体に覆い被された。
まるで組み敷かれ、逃げ場を失った獲物のようだ。
イェンランは力強いキイの身体の下で小さく震えた。
見上げると、キイの冷たい、そしてぎらぎらと獣のような目とぶつかった。
心臓が早鐘のように鳴り響き、彼の柔らかな絹のような髪が一房、自分の顔にかかる感触を感じながら、イェンランは身を強張らせた。
「キ、キイ…。あの…」
声も身体と共に震えている。
怒らせた?どうしてそんな怖い顔で私を見るの?キイ…。
私は…同情じゃなんかじゃない…私は…!私は…貴方…のこと…。
そう言おうとしても、声が出ない。キイの険しい表情に、呑み込まれてしまっているようだった。

「本気でそう思っている?」

いつもの優しくて甘い声とは打って変わった、恐ろしい声だった。
イェンランはごくり、と唾を呑み込んだ。

「華奢な首だな…」
ポツリとキイはそう呟くと、じわっと彼女の細い首に左手を這わせた。
ぞくっとイェンランの肌が粟立った。
「後悔しないの?」
キイの声からは彼の考えはわからない。
「本当に?」
そう言いつつキイは、もう片方の手で、力任せに彼女の足を押し開いた。
「きゃあ!!」
思わずその激しさにイェンランは悲鳴を上げた。
だが、キイは容赦せず、硬い身体を彼女に押し付けた。
その優美な風情から、どうしてこんな力があるのか…。
それよりもイェンランが驚いたのは、キイの思ったよりもがっちりとした男性の身体つきだった。
中性的な顔から想像できない、彼の筋肉質で、強靭なその肉体。
想像以上にキイは男だった。
その感触が、自分が強姦されそうになった時の忌まわしい記憶を思い出させた。
やっと、やっと自分で封じたと思っていた男への恐怖…!!
それが彼女を襲った。
怖い…!
どうあがいても、力で自分を征服しようとする男の力…!!
イェンランは耐え切れなくなって、そこから逃げようと抵抗を始めた。
「いや!!」
思わずイェンランは叫んでいた。
「いやぁっ!!」
暴れてもがっちりとキイの身体に封じ込められて、イェンランはパニックになった。
気がつくといつの間にかキイの身体の下でむせび泣いていた。
「怖いか?」
冷ややかなキイの声が、耳に響いた。
「男が怖いくせに、そんなことを簡単に男に言うもんじゃない」
その低く唸るような声が、彼女を益々怯えさせた。
こんな…こんなに怖いキイは初めてだ…。
恐る恐る、イェンランは涙で濡れた目を彼に向けた。
無表情なキイの顔が、イェンランを見下ろしていた。
「君がアムイの代わりになる筈がない。
そんな軽はずみなこと思うような女は御免だ。
男を馬鹿にするな!」
その吐き捨てるような科白に、イェンランはショックを受けた。
(軽蔑された…)
イェンランは恐怖よりも、激しい羞恥に襲われ、キイに軽蔑された事が居た堪れなくなった。
ぶわっと大粒の涙が両目から零れると、イェンランはキイを押しのけ、立ち上がった。
今度はキイも、いとも簡単に彼女を解放してやった。
「ごめんなさい!」
泣きながらイェンランは叫び、真っ赤になりながらその場を逃げ出すように駆け出した。
恥ずかしくて、イェンランはどうしていいかわからなかった。
何て浅はかな事を言ってしまったんだろう…。
(馬鹿!ばかばかばかっ!私のばかっ!!)
イェンランは心の中で自分を罵倒しながら、一人で泣ける場所を求めて洞窟内を走った。

残されたキイは、片膝をついて、哀しそうな顔で彼女が去った方向をぼんやりと見ていた。
「あ~あ、泣かせちゃった」
その方向から、ひょこっとシータが顔を出した。
キイはけっと自虐的に笑った。
「何だ、いたのかよ。よく止めなかったな。
ああ、そうか。……やり過ぎだって…お説教かい?」
それにはシータは何も答えず、無言のままキイの隣に座った。

「聞くわよ」
「へ?」
「言い訳」

シータの言葉に、キイは益々自己嫌悪に陥った。

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2011年7月23日 (土)

暁の明星 宵の流星 #151

《いいですか?アムイ。いつも言っているように、外では私の事を父と呼びなさい》
《ごめんなさい…お父さん…》

幼いアムイはいつもの癖で、うっかり外出中に彼の事を名前で呼んでしまう事が多かった。
その度に彼に諭された。
滅多に笑わない端正な顔で。
凛とした佇まい。誰もが憧れ羨むような清廉さで。
アムイにとって、彼は生涯の英雄(ヒーロー)だった。
こういう人間に自分もなりたい、こういう武人に自分もなるんだ…。アムイはいつもそう思っていた。
無口で、何をするにも格好よくて、強くて、いつも無表情で何を考えているのかわからなかったけど。
だけど思えばそんな彼は、近くに父アマトがいる時だけ、穏やかで、優しい笑みをたたえていた…。
大人になった今ならその意味もわかるが、幼いアムイはまだ無邪気で、素直に父と共にいる時の彼が好きだった。
父が傍にいれば、いつも彼は滅多に見せない微笑を見せてくれるから…。
その時だけは、自分にも優しい声で、優しい笑顔を向けてくれるから…─。

アムイの幼い記憶の中での、東の将軍ラムウはこのようなものだった。

生涯の憧れ、生涯の師匠…。
18年前に自分の大事な父を目の前で殺し、さらに自分を貶め、否定した言葉を投げかけられ、アムイの心をずたずたにした彼…。そのショックが自分を封印するきっかけになった原因だったとしても…。
それでもアムイの心の奥底では、彼を恐れてはいても、完全に否定できなかった。
無意識のうちにアムイは、彼の姓を名乗るのを許していたからだ。
それだけが、ラムウと自分の唯ひとつの繋がりのように思っていたのかもしれない。
もちろんその事に気がついたのは、大人になって記憶の封印を解いてからではあったが、完全に自分を否定されたあの時の心の傷は生々しく残っており、今でも震えるほど彼が恐ろしくもあった。

その、アムイの鬼門ともされる人物が今、このような場所で、このような憐れな姿で、自分の目の前にいた。


『アマト…さま…』


「ラムウだ…!間違いない…」
アムイの声は震えていた。
まさか、こんなところで彼の魂と出くわすとは…!

ラムウと思われる亡者は、傍にいるアムイには全く気が付かないようであった。
何やら呪文のような言葉をずっと呟いている。
耳に飛び込んできたその言葉は、アムイの全身を凍らせるほどの威力があった。

『……さま…』
どこから声が出ているのか、しゃがれてくぐもった声…。あの朗々として、凛としたラムウの声とは思えない。だが…。
『どこ…に…おられるのです…。アマト…さま…』
アムイは目をぎゅっと瞑った。
『どなたか…私の王子を…ご存じないか…。アマトさま…私の王子…。どこに?ああ、どこにおられるのか…!』
間違いない、父の名を呼び、探し回っているのがその証…。
彼の声は悲痛な叫びとなってアムイを揺さぶった。
『アマトさま、本当にどこにおられるのか…!酷い目にあっておられるのではないか?
ああ、それともさ迷って心細い思いをされているのではないだろうか…?
誰か…ああ、神よ!私をアマトさまの所へ!お守りしなくては、この私がお守りしなくては…。
私の神王、私の王子…。アマト様を裁かれるなら、私を…代わりにこの私を…』
思わずアムイは耳を塞ごうとした。
きつく瞑った目からは、じわっと涙が滲み出た。

ここまでラムウは自分の父を…!!
死してまでして…。気が付いているのかわからないが、己がこの地獄に落ちてまでも…!

「ラムウ…」
食い縛った歯の隙間から、彼の名がもれた。
「ラムウ…やめてくれ。もうやめてくれ…」
この自分の声が、キイのように父から譲られたものなら、ラムウは外の存在に気が付いてくれたかもしれないだろう。だが…。
ラムウの魂は目の前のアムイには全く気が付いていないようだった。
ふらふらと、そしてぶつぶつと言葉をくり返し、どこへ行くともなくさ迷い続ける。
これが東の鳳凰とまで呼ばれ、国で賞賛された男の末路なのか!
アムイはゆっくりと目を開け、その事実を逃げずに受け止めようとした。
彼の憐れな姿が涙でかすむ。
アムイが呆然とその姿を見ていた時だ。
今までぱたりと止んでいた父アマトの声が、頭上の方で辛そうに響いた。
『……ラムウはこのままだと、無意識にも無間地獄に落ちてしまう…』
「父さん?一体今まで…」
『……すまない…アムイ…。どうしても辛くて、言葉が出なかったんだよ…。
ラムウは私の…大事な人間でもあったんだからね…』
「自分を殺した人間でも…?」
思わずアムイは正直な気持ちをアマトに問いかけた。
『…そうだ。いくら身勝手な行動だったとしても、彼は彼なりに私を思っていた。
…それは最期の時に嫌というほどわかったからね。…それに彼をこうさせてしまった原因は自分にもあるから…』
父の苦悶した声で、父が、いや父もかなり心を痛めているのがアムイにはわかった。
子供の自分ではわかり得ない…生前の二人の歴史があるのだろう。きっと自分以上に辛いに違いないのだ。
アマトの苦しそうな声は、アムイの心をかき乱しながらも続いていく。
『ラムウは死んでからも…ずっとあのまま、自分の心に囚われているままで。…その想いが強すぎて、それに固執し過ぎて、現実の世界に気が付けない…。だからここから出られない。混沌と、さ迷い続けている…』
そしてアマトは一息つくと、涙声で息子に語った。
『…もう…私すら彼はわからないんだよ…。何度も彼を此処から救いたくて、私は一生懸命語りかけた。
だけど、私の声は彼には届かない。それだけ今の私と、彼の間には深い隔たりがあるんだ…』
「父さん…」
父の悲しみを知って、アムイは居た堪れなかった。
その沈痛な言葉で、アムイは悟った。父がどれほど彼を思って、心を砕いてきたのかを。
だがきっと、ありのままに映し出されるこの世界では、いくらラムウが死して父と共に居たいと望んだとしても、波動が合わなければ会える筈もない…。しかも特に自分を殺すという一番の契約違反を犯しているとなると、その死んだときの思いが強すぎて、それに囚われ、自分か誰かに気付かされない限り、永劫に繰り返す地獄に落ちる。
…まさに、今のラムウであった。


彼は生前、敬虔なオーン信徒であり、それ故に盲目で高潔過ぎた。
それが過ぎたために客観性に乏しくなり、自分の物差しでしか周囲を測れなくなっていたのだ…。
大いなるものを信仰し、糧とし学びとするのは素晴らしい事であるが、それが組織となる宗教となると、難しくなるのは世の常である。
宗教が悪いとは言わない。が、それも全て調和の世界では、バランスの上に立っている。
何事もその調和や中庸が必要なのである。
信仰が過ぎ、宗教に陥れば、それは己の視野を狭くすると同じ。
バランスを欠き、真実にも気付けずに、崩壊する危惧も出てくるものだ。
─だから彼は己の世界しか見えない地獄にいる。
死しても尚、これが全てだと思い込んだ自分だけの想念の世界から抜けられないのだ。
どれだけ外の世界が広いのかも、見方を変えればどれだけ楽になるのかも、思い込み激しく、執着の過ぎた魂にはわかる筈もない…。
それはきっと己が気付くまで、自分自身で囲う、永遠と続く魂(たましい)の檻のようなものである。


「…どうしたら、いい?俺、どうしたら…」
アムイは震える唇で、そう呟いた。
父と同じく、アムイだってこんな彼を放っておける事なんて出来る筈もないのだ。
ぼんやりとしたラムウの憐れな姿。その姿が生前の光り輝くばかりの彼の姿と重なった。
「ラムウ!!」
その時のアムイは、彼への恐怖よりも、懐かしさが、切なさが勝っていた。
無意識のうちに、アムイはラムウの身体(ここでは霊体であるが)に衝動的に飛びついていていた。
彼の縮こまった背を抱きかかえるようにして、アムイはしがみつき、揺さぶった。
「ラムウ!!目を覚ませ!俺だよ、アムイだ!!」
それでもラムウの魂は、ぶつぶつと言葉をくり返し、目はうつろで何も映ってはいない。
「ラムウ!気が付いてくれよ!ここから早く目を覚ましてくれ!!」
アムイは泣きながら、彼の背を抱きしめた。
まるで嘘みたいだ。
本当にこれが自分の憧れていたラムウなのか…。
自分よりも遙か大男と記憶していた生前の彼と違って、今、感じている彼はまるで老人のように枯れ果てて弱々しく、大人になった自分がすっぽりと余裕で抱きかかえられるほど小さく…。
「頼む、頼むよ、ラムウ…。父さんだって、こんな貴方を望んでなんかいやしない。
こんな貴方を見て、どれだけ悲しんでいるか…」
泣いても叫んでも、全くといっていいほど相手に届かないもどかしさをアムイは痛感した。
「頼むから、この檻から出てきてくれよ…。外の世界に気付いてくれ!
本来の自分に戻ってくれよ…!!」
そう叫んでアムイははっとした。
(本来の自分に…)
突如として、泣きそうなキイの顔が脳裏に浮かんだ。
(ああ、キイ!!)
アムイはキイの言葉無き積もり積もった思いを、自分も同じ立場になってやっと理解したのだ。
─…キイの悲痛なまでの自分への深い思い。今実感を伴って、はっきりとアムイは悟った。

《待ってる…》

アムイの心にキイの言葉が突然響いた。
(キイ…?)
顔を上げたが、もちろんキイの姿は無い。

《待ってる…。俺は待ってるぞ…》

父と似た声─…だけどもうアムイには、キイと区別がつくようになっていた。
ずっと父と会話していたからか、それとも、やはり自分の片割れ。魂が本能的に察知したのか…。
とにかく、はっきりとアムイはキイの溢れる想いを、何故か今この時になって全身で受け取ったのだった。

《お前が自分の殻を壊して抜け出して、自分の目で外界を見、本来の自分を取り戻し、再びこの俺の元に戻るのを。
この地獄から這い上がり、この高見を昇り、再び俺と共に肩を並べてられる事を。
ずっと…ずっと…俺は待つ─…》

(キイ…!)
深い、深いキイの自分への切ないまでの想いを今、アムイは全身に感じていた。
わかっていたようで…本当は全く気付いてなどなかったのだ。
キイが、これほどまでに自分の目覚めを待ち望んでいた事を…。

(今のラムウはまるで…俺と同じじゃないか…)
きゅっとアムイの心が痛み出した。
そう。自分の思い込みが生んだ恐怖という殻…檻に閉じ篭り、己を見失って外界に出る事が出来ない…。
囚われているものは違っても、その感情に翻弄されている。
まるで今の自分と似たような状態のラムウと再会し、キイと同じ立場になってみて初めてわかったのだった。
(キイ…ごめん。本当にごめん。…お前にこんな思いを、俺はさせていたのか…!)
涙ながらにアムイは決意した。
ラムウを呼び戻すには、並大抵の思いでは駄目だろう…。
アムイはしっかりとラムウの両肩を掴むと、幼い頃に彼と過ごした数々の思い出を思い起こし、その感情を言葉と共に、ありったけの思いを込めて彼にぶつけた。
「思い出して、ラムウ!俺とキイと、そして父さんと。そして皆と共に旅をした事を。
俺は楽しかった。貴方と共に過ごせて、本当に楽しかった。
いつもラムウは小さな俺を肩に乗せてくれたよね?
剣だってたまに教えてくれたじゃないか!
ラムウはいつだって一番強くて、頼りになって…」

アムイの執拗な叫びに、ラムウの身体がしばらくして反応した。
今まで呟いていた呪文のような言葉が止んだのだ。
「ラムウ?」
期待を込めて、アムイはラムウの正面に回り、彼の顔を覗き込んだ。
ふるふると彼は震えると、うつろな灰色の目をゆっくりとアムイに向けた。
「ラムウ!」
まさか…自分に気が付いてくれたのでは…。
アムイの淡い期待も、次の彼の言葉で、一気に吹き消されてしまった。
『おお、これは…。どなたか存ぜぬが、教えてくれぬか。今、人を探しているのだが…。』
「ラムウ…」
自分の呼びかけが、完全に彼の耳には入っていない様子であった。
誰かが話しかけていた事に気が付いたにしても、その内容までは彼の頭には届いていないようだ。
『これはよい所でお会いした。
─アマト=セドナダ…。
この者なのだが、どこかでお会いした事はないか』
「おい、しっかりしてくれ!俺だよ!アムイだよ!!わかるか!?」
アムイは必死になってラムウを激しく揺さぶった。
だが長い間、自分の檻に入っていたラムウに、すぐにわかれというのは無理な様であった。
『あの方は一体どこにおられるのか…。私はあの方をお捜ししなければ…。
この身に代えてもお守りし、神の許しを請いに行かなければならないのです。
早く見つけなければ。きっと心細い想いをされているのに違いない…』
「ラムウ…俺の事がわからないのか…」
悲嘆に暮れたアムイは、むなしくなって彼を揺さぶるの止めた。
そんな簡単には、彼の長くて深い、囚われている思いを解放するなんて事はできないのだろう。
だが、自分の呼びかけを理解してないとしても、それでも他者であるアムイの存在に気付いたのは、いい傾向なのではないだろうか?
アムイはそう思い立って、やり方を変えてみた。
今まで自分の思いの丈だけを相手にぶつけていただけなのを、今度は相手の気持ちに同調してみようと思ったのだ。
「……わかった。貴方は人を捜しているんだね。その人が、どんな人か教えてくれないか?
貴方がここまで思うほど、きっとその人は素晴らしい人なんだろうね」
アムイの優しい問いかけに、ラムウが一瞬ピクリと身体を震わせた。
「貴方の、大事な人…なんだろう?…早く、その人に会いたいのだろう?」
『………そう……。私は……』
ラムウの身体が小刻みに揺れ、自分からアムイの身体に手を差し伸ばし始めた。
(ラムウ…!)
自分の問いに反応した!
アムイは咄嗟に彼のその手を取った。
「私は?」
『会い…たい…』
「……ラムウ…」
『お会いしたい…あの方に…!会って…会って…。……お詫びしたい…』
震えながらラムウは、徐々にアムイにすがりついた。
『ああ…、お詫びしなければ…!』
「詫びる?誰に?…神に?」
『神…?いや、違う。…あの方に、アマト様に、全てに…!私はお詫びしなければ…』
思いも寄らない彼の言葉に、アムイは一瞬声を詰まらせた。
ラムウの震えは、彼の魂の中心からくるものの様であった。
今まで頑なに囚われていた思いが、他者の存在に気付いた事で、崩れてきたのだ。
そして、アムイの自分に同調する波動に誘導されるように、本人の素の魂が現れ始めたようだ。
『そう、だ。私はどうして…此処にいる?私は…ずっと…お詫びしたかった…のに…』
枯れたような声色が、徐々に力強さを帯びてきた。
アムイはその言葉が、ラムウの本当の魂の声に感じられた。
そう、長き執着の思いに囚われていたとしても、本人の魂の深い部分、本質ではきちんと自分をわかっていたのだ。
アムイはきつく、ラムウの手を握り、万感の思いを込めてこう言った。
「貴方はもう、わかっている。本当の意味を元々知っている。
……悪い夢はもう過ぎたんだ…。この世に来ても尚、囚われなくてもいいんだよ。
手放そう、その執着を。そうすれば、きっと、貴方が真実に会いたい人に絶対会える。
ちゃんと自分の思いが通じる。自分がこれから本当にどうしたらいいかだってわかる。
心の底から詫びれば、己のした事を認識すれば、きっと…」
最後はまるで自分自身の御魂(みたま)に言い聞かせているようだった。
「新たに自分をやり直せる事だって…可能な筈だ」
アムイの頬は再び涙で濡れていた。
今まで通じなかった思いがこうして繋がり、波動が高まっていく様を、小さな感動を伴ってアムイの心を震わせ、それが涙となってこぼれた。
その涙は先ほどとは全く違う、慈愛の涙、そのものであった。
その雫は頬を伝い、ぽとっとラムウの手に落ちた。
『ああ…ああ…』
ラムウの手が輝き始めた。彼は信じられない、というような表情で、その自分の手を見ていた。
「貴方の大事な人に、自分の魂が叫ぶ本当の気持ちを伝えよう…。
だから此処から出ておいで…。
ラムウ、貴方の大事な人の魂は…ずっと、ずっと長い間、貴方が目覚めて真実に気付く事を、ずっとずっと待ち望んでいるんだよ。それをわかって欲しい。その人の貴方への思いを。─大きな愛を…」
『ああ!アマト様!!』
ラムウの空虚な目に光が戻り、彼の目からも涙がこぼれた。
その涙はどんどん溢れ、とめどなく流れていくと同時に、彼の体が光輝き始めた。
「ラムウ…!」
徐々に彼の魂は、ずたずたの悲惨な姿から、生前の、輝くばかりの美しい姿と戻っていった。
アムイはただその光景を、感動を持って言葉も無く見守っていた。
『そうです…。私はあの方にずっと詫びたかった。
あの方を、自分の愚かで浅はかな…自分勝手な思いで…。結局壊してしまった…!
自分の思い込みで、あの方の“生”を無理やり絶ってしまった…!
お詫びしてもしたりないほど…。そうだ、私はずっと、あの方を捜して、謝りたかったのだ…!』
「…よかった…。そうだね、それが貴方の魂が本当に望んでいた事なんだね…」
『それから…それから…私はたくさんの者達にも謝罪し、償わなければならない…!
私が真実に対して盲目だったために、傷つけた数多(あまた)の魂に…!!』
「ラムウ!」
アムイは嬉しかった。心底喜びに震えた。
目の前の彼は、自分が生前覚えていた彼の姿、美しい姿そのものであった。
『……ありがとう…』
ぽつりとラムウの魂はそう言うと、アムイの手を握り返した。
『どこのどなたかは存じませんが、私の目を覚まさせてくれて、本当に感謝する…。
どうお礼を言ったらいいか、わからないくらいだ』
「ラムウ、俺は…」
胸が苦しくて、言葉が出ない。
(…ここまできても…ラムウは俺の事がわからないのか…)
アムイは嬉しい反面、落胆した。
確かに彼が覚えているだろう自分は、年端も行かない子供であった。
だとしても、父アマトによく似ていると誰しもが言う今の姿、それすらもラムウにはわからないというのであろうか。
素の魂に戻りつつある彼には、そのような今生の、仮の器である人の姿などには、関心が無いのかもしれないのかもしれない。だがそうだとしても、ラムウにとっての自分が、その程度しかない存在であったという事に、アムイはがっくりと気落ちした。
輝かしく微笑みすら浮かべ始めたラムウの表情とは逆に、アムイの顔に陰りが見え始めた。
いけない、と思っても、あの時の感情が思い起こされた。
……この目の前の人に、疎まれ、蔑まれ、否定された時の、あの苦しくも哀しかった感情が再び…。

『………そういえば…』

落ち込むアムイに突然、ラムウは思い出したかのように呟いた。
『あの子はどうしただろうか…』
その言葉に、暗く沈んでいたアムイの心はどきっと早鐘を打った。
『私には償わなければならない魂はたくさんあるが、……そうだ…。何で私は今まで忘れていたのだろう』
「あの子…って…」
アムイの呟きに気付いているのかいないのか、それはラムウの表情からは推し量れなかったが、彼は穏やかで、悲しそうな声で言葉を続けた。
『…ああ…そうだ…。あの子がいた…。
あんなに純真無垢で、優しかったあの子を…』
「……」
『私には義理の息子と契った子がいた筈だ…。
どんなにあの子を愛したくて、でもできなかった自分が本当に悔やまれる…。
それなのに、あの子は本当にまっすぐに、こんな穢れた私に純粋な思いを寄せてくれていた…。
なのに、ああ、それなのに…。
目くらな私はあの子を思い切り傷つけてしまった…。自分の置かれた状況で、私はその子を忌むべきものと信じ込んでいたんだ…。だけど、本当はそうじゃなかった…。本心では、あの子を…私はあの純真無垢な天の子を…』
繫がれた手から彼の想いが映像となって、アムイに雪崩れ込んでくる。
初めて小さな身体を抱き上げた時の事、優しく頭を撫でてあげた事…。そしてその子を肩に乗せた時の小さな重み…。
父らしい事をそんなにしたわけではなかったが、ラムウの思いは、その子供と過ごした優しい時間に溢れていた。
『愛していた…。あの子は自分にとって必要な子だったんだ…。
闇に向かおうとする私の、最後の抑制だった…。あの子は…』
ラムウの目から、解放の涙が流れ落ちた。
『あの子は私を、良心に戻す最後の鍵だったのだ…。
なのに…愚かな私は全く…気が付いていなかった…』
「ラ、ラムウ……」
『ああ、そこの方よ、お願いがある』
ラムウは他人行儀に目の前にいるアムイに語りかけた。
『もし、もし私の義理の息子に会うような事があったら、どうか伝えていただけないか』
アムイは息を呑んだ。
彼にとって、その義理の息子は多分、永遠に小さな子供のままなのかもしれない。
だから目の前にいるアムイが、その子供だったとは、彼の頭にはこれっぽちもないのだろう。
『…お前を傷つけ、苦しめて、悲しい思いをさせてすまない、と。
許してくれなくていい、だがいつか、この私が己自身を取り戻し、魂の刑期を終えたら必ずお前を守ると約束すると。
必ずや自分がした罪を償うと…。
そして、本当は愛していたと…』
「ラムウ!?」
そう言いながら、ラムウの身体が光の粒子に包まれ、消え始めた。
ふと、彼の背後、上のほうに目をやると、小さくも暖かな白光が現れていた。
それはまるで、気が付いたラムウの魂を喜んで迎えに来た、彼の案内人(ガイド)のようだった。
『不思議だな』
消えかかるラムウの手を懸命に追うアムイの手を眺めながら、彼は呟いた。
『何故だろう、あの子と同じものをそなたには感じる…。
この懐かしい、柔らかで芳醇な波動…。
だからなのか、最後にあの子の事を思い出せた。
よかった。本当にありがとう…』
「ラムウ、待って!その子供は俺だよ!今、目の前にいる俺なんだよ!」
うっすらと小さな光に戻りつつあるラムウに、アムイは叫んだ。
『………絶対に…伝えて…。そう…その子の名前は…確か…』
声もどんどん小さくなって、途切れ途切れになっていく。
「ラムウ!!」
アムイの手が宙を掴んだ。
『そう…アムイ…』
遙か彼方で聞こえたのが最後、気が付くとラムウの存在はこの場から綺麗に消えていた。
アムイは宙を掴んでいた己の手を、ただ呆然と眺めていた。
“愛していた”と、その言葉がアムイの心を温かく包んでいく。
(ラムウ…)
思わぬラムウの心を知って、アムイに満たされた思いが湧いてくる。それがひとつひとつ、アムイの心に刺さっていた棘を溶かし始めた。アムイは俯きながら、差し出していた己の手をゆっくりと下ろした。
救われたのは、相手だけではなかった…。
自分もまた彼によって、自分を傷つけた本人のお陰で、心の傷を癒されたのだ。
(…もう、伝わっているよ、ラムウ。俺の心に。お前の本当の思いが…)

その時、アムイの中心から熱い思いが沸き起こってきた。

“本来の自分自身に戻るんだ”

誰とは無く、そう何かが言った。

“いや、戻れる。魂の本質に、自分を戻す事ができる…”

それは自分の魂の源の声であったか、それがアムイに気力を呼び戻していった。


『ありがとう、アムイ』
呆然と佇むアムイに、やっと父アマトが呼びかけた。
「あ…」
父のその小さな声に、アムイは我に返った。
「父さん…そこに居たんだね…」
感慨深げにアムイがそう言うと、アマトは申し訳ないようにこう言った。
『……本体が別にある私には、地獄にあるラムウの魂には声は届かない。
だから、私は見守る事しかできなかった…。すまないな、アムイ。そしてありがとう…』
「父さん…。でも、よかったね。完全ではなかったけど、声、届いたよ、ラムウに」
アムイの言葉に、アマトは頷いたようであった。
『そう、直接ラムウの魂に働きかけるには、私は遠く成り過ぎた…。
もしかしたら、近くに存在できるお前なら、と私は希望を抱いていたのだよ。
お前が直接飛び込んでくれたお陰で、ラムウは気付くきっかけができた。
…これから本来の自分の行くべきところで、罪を償い、禊ぎ祓いながら己の魂を磨いていくこととなるだろう…。
それが上手くいけば、再び生きた世に転生し、人生をやり直す許しも与えられるだろう…。
本当に、本当にありがとう、アムイ』
そこでアムイは、此処に来る時に言いかけていた父の言葉を思い出した。
「そういえば、父さんは何か言いかけたよね? ほら、此処に出る直前に…」
アマトは一息つくと、アムイに説明し始めた。
『実は、必ずやお前はラムウの魂と出会うと私は思っていた。
それが何故かと言うと…。
─あの時言いかけたのは、自分が死した後、追うようにラムウが自ら命を絶ったとき、彼の負の波動がお前を揺さぶり、そのせいで鍵を失ってしまったということだ…。私は宙でそれを見ていたのだよ』
「なんだって…。それじゃあ…」
『鍵は翻弄されたお前から飛び出し、嘆き苦しんでいるラムウの魂の波動に引きずられ、共に地の底に落ちていった…。
最初は何を見たのかわからなかったのだが、……しばらくして己も地の底で禊した後、天に向かうときに全て悟った。
だから必ずや鍵の行方は、ラムウの魂の近くにあると思っていた…』
父の説明に、アムイの魂も納得した。
「そうか…。だから俺は無意識のうちに…引かれるようにしてこの地獄の近くに流れ着いたのか…」
『天から預かりし万物の鍵は、持ち主であるお前にしか見つけられはしない…。
惹かれるようにして此処に来て、さ迷うラムウを見つけたということは、鍵はこの地獄にあるということなのだな…』
父アマトもまた、自分が腑に落ちたように呟いた。
『だから必ずお前はラムウと出会うと思っていた…。
私だって彼を救いたくて、何度も魂に話しかけた…。だが、ラムウは私すらわからなくなってしまっていた。
お前にもわかったと思うが、それだけ深い、自分だけの思い込みの檻にはまってしまっていた。
自分が天に上がってからは、尚更私の声も届かなくなってしまった。
この魂は、地獄の底…入り口でさえ、もう行く事は出来ないから…。
何かのお役目、天から許されない限り、此処には天界の者は入れない』
「だから俺のガイド(案内)を買って出てくれたの?」
『一番の理由は、お前の魂を自分が守りたかったからだけどね、アムイ。
…キイの時は何もしてやれなかったし、生き残ったお前が闇の中で苦しんでいるのもよく知っていた。
だからお前ともう一度、直接話もしたかった。…お前がラムウのように、自分の檻に入ってしまっていた時は、いくら私達が語りかけても、全く届かないだろうしね』
「父さん…」
父アマトの深い愛情に、アムイは素直に喜んだ。
そう、自分はこうして、ちゃんと愛されてきたんだ…。
父さん、ラムウ、キイ、そして…。
アムイは頭を振ると、意を決したようにアマトに言った。
「必ず俺は、鍵を見つけてみせる。…ラムウが此処にいたという事はきっと、いや、絶対にここら辺りにある筈だ。
必ず見つけて…そして、戻る!
皆の…キイの元へ」
『そうだ、アムイ。私は…』
父の声がほっとしたような響きで言いかけたその時、何か地の底からごぉぉ、という唸りが昇ってきた。
「な、なんだ!?」
アムイが言ったと同時に、突然地が揺らぎ、どこぉんと大きな音と共に地面が崩れた。
「うわぁあ!」
アムイの身体は高く放り出された。そして身を翻したアムイは、どんどん崩れる地面に足場を探して、壊れる岩と岩の間を飛び跳ねた。
周りに気が付くと、驚く事に地面だけでない、この世界自体が崩壊を始めていたのだ。
「父さん!!」
アムイは助けを呼んだ。
『アムイ!!どこかに、どこかつかまる所を探せ…、アムイ!』
父の声がどんどん遠くなっていく。
「マジ、かよ…!」
思わずアムイは呟いた。
『アムイ─……!…─!!』
遙か遠くで父の声がしたかと思うと、ぶつっとその存在が途切れた。
「とっ、父さん!!?」
まさか!まさかガイド(案内)の存在が消えるなんて…。そんな事が…!
アムイの背に嫌な感覚が走った。
崩れる世界に、アムイは今、飲み込まれそうになっていた。
「く、くそ!」
もがき抜け出そうとするアムイをあざ笑うかのごとく、崩壊した世界は今度、物凄い力によって下の方へと吸引され始めた。
「う、うわ!」
もちろん、アムイも共に、大きな力で地の底の底(アムイは本能的にそう感じた)に引っ張り込まれていく。
「う、わぁぁぁーっ」

≪誰がこの場を荒らしていいと言ったのか!!≫

吸い込まれていくアムイの耳に、突然ドスの効いた声がつんざいた。

≪わしの許可なしに、何故にこの場以外の異質な波動を出し、此処の秩序を乱したのか!!≫

(こ、これは…)
アムイの脳裏に、あの小さな邪鬼の言葉が甦ってきた。

“そうさね。餓鬼地獄を担当されてる魔王様だ。おっかねぇぞ。
地獄でも3本の指に入る怖さだ”

(ま、まさか)
アムイは焦った。

“………まぁ、なるべく邪悪鬼様にもお会いしないよう、目的を果たしなね。
地獄一凶暴な怪鳥を飼っているんだ。機嫌を損ねたら本当にあの方は恐ろしいからさ”

≪この場を崩壊した者を、許すわけにはいかん!!
地獄鳥の餌としてくれるわ≫

その恐ろしい怒声は、地の底、奥深くからビリビリと世界を震わした。

アムイは身震いし、腹を括った。

もう間違いない。
自分は今、この餓鬼地獄担当の魔王である、邪悪鬼魔王(じゃあっきまおう)に召喚されつつあるのだ。
地獄でも3本の指に入るというほどの…地獄の大魔王に…!


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2011年7月17日 (日)

暁の明星 宵の流星 #150

無我夢中で父の存在を追いかけていたアムイは、いつの間にか最初に居た場所に戻っているのに気が付いた。
広大な赤茶けた不毛の地…。
再び寒さが自分を襲い、思わずアムイは己を抱きしめた。

偉ぶらず、優しく諭すような話し方…確かにあれは自分の父だった。
父の魂(たま)に会うなんて…やはりここは黄泉の国なのか…。
アムイは今自分が立っている、寒々とした光景を確認するかのように見渡した。

『落ち着いて、今の状況をよく見なさい。そうすれば次にする事が自ずとわかってくるだろう』
耳元で…いや、あれは魂(たま)直々に届いた声であろうか。アムイは父の慈愛に満ちた言葉を思い出していた。

その場所は最初に居た時と変わらず、赤茶けた不毛の大地が延々と続き、所々に凍りついた岩石が転がっていた。
半分砂漠で半分が氷の世界。赤黒い空に浮かぶ、鈍色の雲。
ここに存在する己の不安定さ、不確かさ…が、今立っている所があの世だということを物語っている。
改めてこの場を観察していて、今まで見えていなかったものがはっきりと見えてきた。
ひび割れた大地の隙間からおぞましい空気と共に、死人の嘆きが噴出している傍で、数匹の異形の者がうろうろしていた。
かと思うと、ふと横を見れば延々と続く人々の行列が目に入る。
様々な衣装と人種…見るからに死者だとわかるその一行の行き先は、前方に広がる大きな黒い山にぽっかりと開いている、赤黒い光が放たれている洞穴の入り口だった。
アムイでなくとも、冥府か地獄か、どちらかの入り口だろうと安易に想像が付いた。
氷と砂漠が相乱れているこの場にも大きな金色の川が流れていて、そこを必死に泳ぎ渡る死人も幾人か目にした。

……どう考えてみても、聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)で風来教典を学んだときの、あの世…冥府の国の様相と酷似している。
やはり自分は黄泉の国…冥界へと来てしまっているようだ。
そして多分、ここは冥界と地獄の正統な境目…。
死して振り分けられた魂(たま)が連れてこられる所…。

アムイはやっと冷静に頭を働かせられるようになった。
自分は望んで此処に来た…。本当は地獄を希望していたのだが、結局は地獄ではなく、この境目の冥界で漂っていたらしい。
そして、自分の魂の存在を嗅ぎ取ったミカ神王大妃の亡霊が、地の底へと自分を引きずり込んだのだ。
生臭い血の海を思い出して、アムイは思わず吐き気を催した。
肉体がないはずなのに、ここでも普通に体の感覚が残っているのには驚いていた。
でも、よかった。
あの時、黄色い小さな光が誘導してくれなかったら、自分はずっとあの場所を彷徨っていたであろう。
と、ここでアムイは可笑しくなった。
あれだけ地獄の炎に焼かれる覚悟で奈落に落ちた筈だったのに…。
念願の地獄に行けたはずが、結局抜け出せてほっとしているなんて…。

「俺はまだ…救われたいと思っているのか…」

他人事(ひとごと)のように呟いて、アムイの目から一筋の涙がこぼれた。
サクヤを死なせてしまったのに、まだ自分は救われたがっているのか…。
アムイの両の目から、とめどなく涙が溢れた。
(…何で俺なんか助けようとしたんだよ、サクヤ…)
アムイは片手で自分の顔半分を覆った。
(こんな俺なんかのために…、馬鹿だよ、お前。
いつだってそうだった…。お前って奴は、自分の事よりも、最後には他人の事ばかり優先して)
二人で過ごした短い日々を、アムイは思い出して嗚咽した。
邪険にしても、冷たくしても、無邪気に自分に向かってきてくれたサクヤ。
罪深い自分の運命に巻き込みたくなくて、わざと遠ざけていたのに…。
結局は自分と関わったために若い命を犠牲にさせてしまった。
(すまない、サクヤ。守ってやれなくて…。
俺がもっと強かったら…しっかりしていれば…お前をあんな…)
アムイはサクヤの最後の時を思い、耐え切れなくなってその場に蹲った。

サクヤの事だ、あの状況で咄嗟に判断したのだろう。
自分がああ行動すれば、皆が助かると踏んだんだ。
結果、俺を助けるために身を投じたようになってしまったが、あいつはそれ以上に戦いを終わらせようとした。
体内の穢れ虫を利用して、自分自身を武器にして敵に打撃を与えれば、苦戦している皆の役に立てると決意したに違いないのだ。
きっとその時のサクヤには、自分の命の事すら頭になかったに違いない。
あいつは…そういう奴だった…。

アムイは冷静に考えようとすればするほど、これからどうしたらいいのかわからなくなってしまった。
…そう…これから、この自分はどうしたいのか、どこへ向かえばいいのか…。
この、黄泉の国で。
冥府と地獄の境目で。
かといって元の世界に戻るには、まだ気力が足りないようにも思えた。
…何が何でも帰りたいという思いの強さが、今のアムイにはほとんどといっていいほどなかった。
その世界で、自分の大切なキイがどんな思いで自分を待っているかという事も、今のアムイには感じ取る事ができない。
それだけアムイの心の傷は深かった。
それだけ己の不甲斐なさを呪っていた。

「父さん…」
俯いたアムイの口から、自然とその名が出た。

《そうすれば次にする事が自ずとわかってくるだろう。…その時になったら私を呼べばいい》

「わからない…。わからないよ、父さん…。益々わからなくなってきた…。
俺は…次にどうしたらいいんだ…。こんなんじゃ、父さんを呼べないよ」

《私はお前の近くにいて、必ずお前の声に答えよう》

アムイの目から、また涙がこぼれた。
肉体レベルでの涙の封印が解き放たれてからというもの、霊体(だと憶測する)でも涙が出やすくなってしまっているのか。
アムイは今まで抑えていた分を取り戻そうとするかのように簡単に泣けた。
「…父さん…。会いたいよ、父さん…。
さっき言ってくれた言葉が真実なら、いますぐにでもここに来てくれよ…。
こんなに自分を見失っている俺だけど…」
アムイが切望したような声でそう言った時だった。

『完全に私の存在を確信してくれたね』

「父さん!?」

耳元であの低くて懐かしい声が響いて、アムイは慌てて顔を上げ、辺りを見回した。
すると、アムイの前方で、淡く輝く楕円形の光が現れた。
「…と、父さん…?」
アムイは呆然としながら、その淡い光を凝視した。
淡くて優しい光は、うっすらと形を作り始め、ぼんやりとした人の姿となった。
細身で優美な男性の姿であるのがわかるが、不思議な事に顔がわからない…。
だが、その優しい波動で、その存在が自分の父親だという事がわかる。
アムイは懐かしい父の顔を見たくて、その存在に近づこうとした。

『アムイ、残念だが、私の顔は見えないのだよ』

父の寂しそうな声がアムイの心に響いた。

「どうして…?」
『今ここにいる私は分魂なんだよ。
私の本体は天上にあって、分魂でさえここまで降りてくるのが精一杯だった…』
「天上…って…」
それは多分、この地獄の境目よりも遙か上の世界…。アムイにも安易に想像がついた。
父の魂(たま)は今、天上界にあるのだ。
…地上界において犯罪人とされた父の魂は、死して天界にいる…。
『魂となった私は、この荒い波動には耐え切れず、本来ならばここまで来れない…。
それが天の定め…天地界の秩序でもある。
だがお前自身が私の存在をしっかりと確信してくれたお陰で、お前の傍にこうして形として具現できた』
アムイの父、アマトの魂はそう言うと、ぼやけた姿のままでアムイの頭に手をやった。
不思議と、感触はそこにあった。
現実では魂同士の触れ合いであろうが、その感覚はまるで肉体を持っているときと全くと同じであった。
アムイはその感触に安らぎを覚えて、ゆっくりと目を閉じた。
「…ここまでして…どうして俺に会いに来てくれたの…」
アムイの小さな呟きに、アマトが微笑んだ気配がした。
『……必要だったからだよ、アムイ…。お前がここに来るのは、前からわかっていた事だったのだ。
そのために私はここに来た。天界に願い出て、お前を守護するために』
その言葉にアムイは驚いて目を開け、父アマトの光体を見上げた。
「前からわかっていた…?俺が奈落に堕ちる事が?」
アムイの強い口調に、なだめるように父の手が優しく動いた。
『きっかけはどうであれ、いつかは必ずお前はここに来なければならなかったのだ。
…それをお前は、まだ思い出していないから混乱しているだけなんだよ。
よく…自分の気持ちを見つめてごらん…。思い出そうとしてごらん。
─何故自分がここに来たのかを。
どうして無意識のうちに地獄に行こうとしていたのかを』
父の問いかけに、アムイは詰まりながらこう答えた。
「どうしてって…。それは自分の罪が重いから…。もうこれ以上運命に翻弄されたくないから…」
自分を裁いてもらおうとして、と言いかけたときに、突然言葉を遮られた。
『本当にそれだけかい?…それはお前が地上で生きてきたしがらみから来る魂の叫び。
その理由も確かな事だろう。
…だが、その表面だけでない、もっと意識の奥深く、お前の魂(たま)自身が持つ理由がある筈だ』
己の意識の奥深く…?魂が持つ理由…?
アムイの頭は必死になって記憶の糸を手繰り寄せていた。
『そう。答えはお前自身が知っている』
アマトはゆっくりとアムイの横に移動すると、優しく息子の肩を抱き寄せた。
『ゆっくりと、自分の魂に問いかけてごらん。自分自身を取り戻すために。
…子供の時に失われた記憶、遙か彼方の昔の記憶を…─』

遙か彼方の…?

そうだ。何だろう?心の奥底、確かに何かがひっかかっている。

─自分自身を取り戻す…?

突然アムイは思い立った。
そうだ、確かに今の自分には軸がない…。まるで暗闇を模索しながら歩いてきたような今生。
闇の中で硬い殻を自分で覆い、人を寄せ付けず、本心を外の世界から遮断して。
キイの存在のお陰で、かろうじて今生を生きてきたが、それは本当の自分だったのだろうか。
いや、偽りの自分も、自分自身には変わりはない。
ただ、本来の自分は、まだ人々の闇の中に一筋の光を見出し、その光と共に生きようとしてはいなかったか?

…アムイは徐々に思い出していった。

思えばあの時からだ。
それは自分が幼い頃。
自分が恐怖の中、己を守ろうとして閉じ込めた闇の箱、闇の扉。
突然何かを無くしてしまったという喪失感…。
怒涛の絶望の中で、受け切れなかった眩しい天の光。

アムイの脳裏に、あの時の激しい光の渦が甦ってきた。

ああ…!!

あれは18年前、キイの“光輪“がセドの国を包んだあの日…!!
俺はあの時何かを失った……!!

アムイの全身が震えだした。いや、これは魂の震え。
今、アムイははっきりと大事な事を思い出したのだ。

「鍵…!」

うわ言のように突いて出た言葉だった。

「鍵はどこにいった…?」

呟いて、はっと我に返る。
「鍵って…」
それは自分でも思いもしなかった答え、であった。
再びアムイの頭は混乱した。
確かに。確かにとても大事なものだ。
とても大切で、それがあるからこそ自分が自分でいられたのだ。
…鍵…そう、俺は生まれながらに鍵を持っていた…。
その鍵は、自分の魂と共に地に降りた…!


『そうだよ、よく思い出したね、アムイ』
ほっとしたような声が、アムイの思考を中断させた。
「父さん、俺…。何か持っていた…。俺の魂は何かを持って地上に生まれた。
それがあの時…!父さんが殺され、キイが暴走始め、俺がショックで心を閉じた…あの時に…!!」
アマトの心地よい声がアムイの耳元をくすぐった。
『お前の鍵、だ。お前が天界から持ってきた鍵。
キイと同じく、ある場所を開くために授かってきた天上の鍵』
アムイは大きく溜息をついた。
「そう、だ。あれがないと…俺は完全にキイを受け止め切れない…」

『お前達が何故に高位の“気”を持って生まれたと思う?
キイは“光輪”、お前は“金環”。…そして鍵。
それは地上において、各々の“気”を管理するため。
キイは“光輪”を管理する、天界にあるすべての扉の鍵、天空の鍵を。
お前は“金環”を管理する、大地の奥に存在するある場所の…』

父の音楽のようなゆったりした語りかけに、アムイは腑に落ちていく感覚に支配されていった。

「あの光の渦の中、俺は無くした…。自分の大事な鍵を…。いや、落としてしまった」
ごくり、と喉を動かした後、アムイははっきりと言い切った。
「…この地の底に」
『そうだよ、アムイ。お前はこの黄泉の国に、あの大地の鍵を落としてしまったのだ』
「大地の鍵…」
『天地万物(てんちばんぶつ)の鍵だ』


天と地を繫ぐために必要な力は、あまりにも巨大で、
ただのヒトが治められるわけがないのです。
それ相応の魂が、天上界での許しを経て、
万物の鍵を持たなくては、その力を使える筈もございません。
天地万物の鍵。
それを持つ者、天地の力を管理する資格があるという事です。


何故かアムイの脳裏に、そのような言葉がこだました。
誰に言われたのか、それとも自分の中にある魂の核が言ったのか、それは定かではなかったが、そのお陰でアムイは自分がここに来た本来の目的の一つを思い出したのだった。

「父さん…。落としてしまった鍵の行方…、まさか地獄にまで落ちてしまったなんてこと…」
父はしばし黙っていたが、言いにくそうにこう言った。
『お前が大人になるまでの年月、色々と鍵はこの辺りを移動していたようだ。
多分、お前の思うとおり、鍵は奈落のどこかにあるだろう』
「だから…父さんが俺のガード(守護)のために…」
アムイの顔に、決意の表情が表れた。
「…探さなくては…」
大きな衝動が、アムイを支配しつつあった。
自分が無くしてしまった万物の鍵。…キイのために、自分を取り戻すために。
アムイはふらふらと立ち上がった。そうだ。
「運命に立ち向かうためにも…!!」
今まで枯渇していた勇気が、目的が見えたお陰で、足元からじわじわと湧いてくるようだ。
とはいうものの、これからどうしたらいいのか、アムイにもまだよくわからない。
取り合えず、地獄の入り口に向かわなければならないだろう。
そう決意して、のろのろと歩き始める。
だが、ぱっくりと開く山の麓に覗く地獄への入り口に向かおうとして、アムイは父アマトに止められた。

「どうして?父さん。とにかく地獄へ行かないと」
父の分魂が自分と共にあるとわかってから、アムイにはある種の安心感が生まれていた。
再び地獄に向かう事さえ、先ほどの死霊との攻防を思い出しても、不思議と平常な自分がいる。
それも父の存在があってからこそだ。まるで昔の何も恐れも穢れも知らない子供の頃に戻ったような気がする。
その安心感の源(みなもと)がこう言った。
『あの入り口は死者のためのもの。お前は違う。
下手にあそこを通って、地獄の正規の門番に、お前を死者と認識されてはやっかいだ。
あそこではなく、他の入り口から行こう』
そう言うアマトの姿が再び揺らぎ、地獄の境目に近くなるにつれ、彼は徐々に光の玉と化身していった。
「父さん?」
『これから先は、私の本体の光が届きにくい場所になる。
分魂ですら人の形を保つのも難しい。
…奥に行くほど、私の姿は見えにくくなるが、存在はお前の傍についているからね』
アムイはこっくりと頷いた。
父の気持ちが嬉しかったし、頼もしかった。
アムイとしては、“一人で行け”と言われれば、覚悟の上、それでも構わなかった。
でもこれから向かうのは、光のガード(守護)のガイド(案内)なくては、元の世界に戻れないとされる地獄の世界。
アムイは詳しく知らなかったが、そういう取り決めであったのだ。
天地界の掟は、自然の摂理、万物の法に従っているものだ。


ごろごろと転がる岩を乗り越えながら、アムイは地の裂け目へと近づいて行った。
異様な臭気が鼻腔を刺激し、ごおおと唸る風の音が、ここからが地獄であるという事を主張している。
『おんや、旦那』
突然アムイは足元で誰かに呼び止められた。
その声の主に目を留めると、それは邪鬼と呼ばれる小さな鬼であった。
『旦那は珍しいほど綺麗だねぇ。…こんな所に来るような、餓鬼(亡者)じゃねぇなぁ。
何か理由(わけ)あり?』
邪鬼にも色々な姿のものがいるが、この小鬼(しょうき)は丸っとした玉ねぎのような顔かたちをして、丸くて大きな、端が切れ上がったような猫のような緑色の目を持ち、上を向いた申し訳ない程度の小さな鼻と、その反対に大きくて、鳥のくちばしのような尖った口をしていた。頭に乗る小さな角と、身体は小さな幼子のようにずんぐりと寸胴な愛嬌のある体形で、それがアムイに親しみを感じさせた。
しかも威嚇するようでもなく、淡々と話しかける様子に、アムイは警戒心を解いた。
「お前はここの見張り役か?…この先を降りて行けば、地獄に入れる?」
確か、黄泉の国の世界に詳しいとされる聖天経典に、地獄へ通じる多くの境目には、必ずそこを守る門番か、餓鬼(罪深き亡者)や魔物達が逃げ出さないように目を光らせている見張り番がいると書いてあった。
先ほどからうろうろしていた異形のもの。ここが地獄の境目であれば、それらはここを見張る邪鬼…夜叉神(やしゃじん)と呼ばれる改心した鬼神─善神─である筈だ。ならばこの邪鬼も夜叉神であって、自分に害をなさないだろうと思った。
『地獄に入るぅ?』
邪気は素っ頓狂な声を出すと、むぅ、と困ったような顔をした。
『見たとこ、旦那は餓鬼となる魂ではないからなぁ。
あ、餓鬼ってわかる?生前でもそうであったように、死してまだまだ欲望や飢えや渇きを手放さなかった魂…亡者のことだよ』
「ああ、知ってる。生前に私利私欲に耽ったり、強欲で執着の激しい者が堕ちて転生する地獄の鬼だろ?」
『何だ、知ってるんじゃん。
というかさ、生前でもそういう強欲とか執着とかの悪心を捨てきれないとさー、死してここに来てもなかなか捨てられない亡者がわんさといるわけなのさよ。
ここはそういう魂が来る地獄界の入り口なの。地獄にはまった魂は餓鬼となってそこでもがき苦しむ…。
天からの恩恵か、その悪心を削ぎ落とさんと苦行し、最終段階の煉獄に行くまでにゃあ、長く留まる獄となる。
黄泉にいる間にさくっと改心してそんな荷物なんか放り出しゃいいのによ。
人間って、哀れな存在だよな。自分らがその荷をしょってるから魂が重くなって上に上がれないってのがわからないの。そうやって地獄に来ていることすらわからないで半数が怯えている。
結局は自分で選んでここに来ちまっているっていうのがさ。それに気付いた魂は何とか手前で踏みとどまるんだが』
「それでも罪を償うために、獄界に行く魂だってあるだろう?」
アムイの問いに邪鬼はけけっと笑った。
『そうさね。だが、ここは罪を償うというよりも、己の波動のレベルによって振り分けられた世界でもあるだね。
まー、強いていれば裁くのは己自身の御魂(みたま)様だろうがよ』
「御魂様?」
『元は皆、神様の分魂よ。魂の奥深くには誰だって必ず神様がおるに。
自分で自分を偽る事はできないし、己の御魂様には、欺こうとしてもできないっちゅー事さね』
「………」
アムイは自分の顎に手を当てて、じっと考え込んだ。
『だからさ、さっきも言ったように、ある程度の穢れや罪悪感はあるとしても、ここに来るような魂には見えないんだよ、旦那は』
「俺は人を殺している。それでもか?」
『う~ん、地獄といってもたっくさんあるからねぇ。
生前どんなに聖人君子と崇められた人間でも、ここでは素の魂に戻り、穢れてればそれだけ獄に落とされる。ある意味公平だね』
邪鬼はアムイの様子を興味津々に眺めながらこうも言った。
『あのさぁ。旦那が本当の亡者であったら、それ相応の場に自ずと行っている筈だから、そんな質問、しないと思うけどね』
アムイはふうん、と邪鬼のしたり顔を見返した。さすが地獄の見張り役。
自分が完全な死人でない事に気が付いているようだ。
「じゃあさ、…此処は地獄の境といっても、地獄の先端と言われる煉獄じゃないのか?
ほら、お前も言っていたろう?地獄の最終段階だって」
やっと口を開いたアムイは、今度は自分の素朴な疑問を口にした。
『煉獄はねぇ…。罪の軽い亡者、穢れの軽い亡者が上界に行くときに禊(みそ)ぎ祓う、最終段階の浄化の炎獄(えんごく)だよ。
場所など決まった所はないのさ。その霊魂が必要になったら自ずと扉が現れるんだ。
此処は業突く張りで、執着心の固まりの魂が集まる獄だよ。
…なんね?此処に誰か知り合いでも堕ちているのかね?』
邪鬼の問いにアムイは苦笑した。確かに、此処に落ちた知り合いは多そうであるが…。
と、アムイはふと思った。
では、自分が気が付いたら此処に居たというのは、探している鍵が此処に迷い込んでいる、という事なのだろうが、何故に鍵は此処に落ちたのだろうか?しかも強欲で執着の強い魂が集まる、この餓鬼地獄に。それともただの偶然にか。
『まぁ、そうだとしたって、無謀といっちゃ無謀やね。
悪い事は言わないよ。できたら元居たとこに帰った方がいい。
そんなお綺麗な魂で、餓鬼地獄に入ったらどうなると思う?此処はあらゆるものに固執し、飢えた魂がうじゃうじゃしてるんだ。金、食、贅、色、美、性、…そして愛。ずっと飢え続けている餓鬼どもに、旦那喰われちまうよ』
やはりこの見張り役は夜叉神だ。さりげなく異質である魂のアムイを元に戻そうと誘導している。
「だとしても、俺は行かなくちゃいけないんだ。…行って、自分が無くしたものを探し出さなければ…」
アムイの決意に、邪鬼が不服そうな表情で反論しようと口を開いたと同時に、アムイの背後から父アマトの声が響いた。
『申し訳ない、見張り役の方。この者を地獄に案内してはもらえないか』
「父さん…」
その声に邪鬼は驚いて辺りを見回し、アムイの後方でちかちかと光る小さな球体を見つけて、目をぱちくりさせた。
『なんだ!旦那はガード(守護)の御方が付いてなされるのかい。それを早く言って下さいよ。
しかもその光の輝き、天上の御方やね。ならば邪悪鬼魔王(じゃあっきまおう)殿も何も言うまいね。
こりゃ、失礼、失礼』
かかか、と小さいくせに豪快に笑うと、邪鬼はぴょぉん、と、飛び跳ねた。
「じゃあっき…まおう…?」
『そうさね。餓鬼地獄を担当されてる魔王様だ。おっかねぇぞ。
地獄でも3本の指に入る怖さだ。…一番は…この地獄と黄泉の総責任者様だがね。……●▲※ 大王様』
それが誰を意味しているのか、アムイは何となくわかった。
これも教典を読めば、誰だってわかるレベルだ。
だが、先ほど出た名に、アムイは心当たりがなかった。という事は、教典でも把握できていないお役目の地獄の王がいるという事か。
『そうとなったら途中まで案内するでよ。…ただし、なるべくひっそりとな。
でないといつ、貪欲な餓鬼どもに襲われるかしれないからさ。
………まぁ、なるべく邪悪鬼様にもお会いしないよう、目的を果たしなね。
地獄一凶暴な怪鳥を飼っているんだ。機嫌を損ねたら本当にあの方は恐ろしいからさ』
『恩に着る。見張り役殿』
アマトの言葉に、邪鬼はへへっと照れ笑いして頭を掻いた。
『んじゃ、付いて来なよ。悪いがオラも見張りを長くサボるわけにはいかないんでね。
本当に入り口の先までだよ?』
アムイは邪鬼の言葉に頷いて、ピョンピョンと跳ねる彼の後に付いて、岩間を走り出した。
邪気はそのまま荒涼とした大地の裂け目に身を滑らし、勢いよく地の奥深くへと降りて行く。
もちろん、アムイも邪鬼同様、軽々と身を滑らせた。冷たい霊気が頬を弄(なぶ)り、段々と下に落ちていくにつれて熱気か何かで熱くなってきた。
(これが本当の地獄の炎)
高位の気である“煉獄”とは似ていて否なる熱さであった。
降りていく自分の足元をふと見ると、幾多もの穴からぼこぼこと真っ赤なマグマらしきものが沸き出している。
それが熱となって、風を起こし、アムイを弄っていたのだ。

その暑さをしばし我慢すると、ようやく足元が地面に着いた。
前方を見ると、邪鬼が先の方でおいでおいでと手招いている。
急いで傍に寄ると、邪鬼はスッと一つの洞穴を指差した。
『ここが入り口の一つさね』
見るとぽっかりと口のように開いた穴は、暗闇に支配され、ここではよく中の様子が窺えない。
『他んとこよりも、こっからのが一番静かだ。…まぁ、さ迷い続けている亡者もちらほらと紛れ込んでいる事もあろうがね』
アムイはごくりと唾を呑み込んだ。この場は暑さでうだるようなのに、背筋がぞくぞくと寒くなる。
『お目当てのものが見つかればいいね、旦那。じゃ、オラはここで…』
邪鬼はくるんと身を翻すと、ニヤリと笑ってこの場から消えた。
残されたアムイとアマトの光は、恐る恐ると真っ暗な入り口に入って行く。

『アムイ』
暗闇を慎重に前進する息子に、アマトが呼びかけた。
「何?父さん」
『お前の探す鍵の事なのだが…』
言いにくそうな父の声に、アムイは首を傾げた。
『…実は…私に覚えがあるのだ…。あの時、お前が鍵を落とした時の事を』
「どういう意味?」
『…すでに息絶え、霊となった私は…。その後、気になるものを見たんだ』
「え…?」
突拍子もないアマトの言葉に、アムイは益々いぶかしんだ。
『実はあの後…』
と、アマトが言いかけた時、突然アムイの視界が広がった。
「凄い…」
思わず呟いてしまったほど、そこは不思議な世界が広がっていた。
上下が逆さまになったような所があったかと思うと、ドーム型の天井が広がり、まるで写し絵を切り貼りしたような様々な空が埋め尽くされていた。…天井と思ったのは目の錯覚だろうか。刻々と変わる色合いによって、暗くなったり明るくなったりしていた。そこには星も点滅して見え、うごめく雲もあった。
足元には絵の具を塗りたくったような、原色の砂利が無数に敷き詰められている。
もっとおどろおどろしい場所を想像していたアムイにとって、この光景は禍々しくも美しく瞳に映った。
ふらりと言葉なく前を進むと、確かに数名、さ迷っていると思われる亡者がうろうろしていた。
髪を振り乱し薄汚れ、かろうじて人の姿を留めてはいるが、皆やせ衰えてふらふらと歩く姿は、生前の者とは違い過ぎる。
皆、ぶつぶつととめどなく言葉を呟き、何かに囚われている様で、周囲に全く目がいかないようだ。
その証拠にアムイがこの場に現れたというのに、誰一人とてその存在に気がつかなかった。
「此処は…本当に地獄なのか?」
アムイの言葉に、アマトが答えた。
『…まだ此処は地獄の入り口部分なのだろう…。どうだ?アムイ。
何か惹きつけられるものはないか?』
「惹きつけられるものか…」
と、アムイが呟いたその時だった。
ある一人の亡者に、何故かアムイは強烈に目を引かれたのだ。
自分の左斜め前方、枯れ果てた木々の合間をふらふらとさ迷う亡者。
……真っ白なぼさぼさとした長い髪に、ぼろぼろの服で腰を屈め、よろよろと歩く姿は、一瞬見るとまるで弱った老人のようであった。
「あれは…」
不思議な事に、さっきまで会話していた父の声がぱったりと止んでいた。
ふらふらと引き寄せられるようにアムイはその亡者に近づいた。
そしてその亡者の顔をよく見ようとして、アムイははっとした。
亡者はぶつぶつと何かを呟いていた。
その言葉に驚愕すると共に、崩れかけたその顔を見て確信した。

「─ラムウ…!」
懐かしくも恐ろしくもあるその名が、アムイの口から突いて出た。

《アマト…さま…》
疲れたようなしゃがれた声が、アムイの心を揺さぶった。

「──ラムウ!!」

間違いない。アムイの目の前にいるこの亡者は…。

生前“東の鳳凰”と一世を風靡した、セド王国の将軍だった男…─。
そして父の守護者であり、清廉潔白で敬虔なオーン信徒と誉れ高かった男。
ラムウ=メイ…その魂であった─…。


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2011年7月 3日 (日)

暁の明星 宵の流星 #149

次の日、南の大帝ガーフィンは、先に連行されたティアン達を追って、朝早く北の国を出発しなければならなかった。
「本当にこれでよろしかったのですか?ガーフィン様」
朝もやの中、イアン公の庭先で、モンゴネウラが遠慮がちにガーフィンに言った。
「仕方ないだろう?ああもきっぱりと言われてしまったら」
苦笑してガーフィンはお供の者に自分の荷物を手渡した。
「少し甘いのではありませんか?…あの時は俄然リンガ様を連れ帰ると…」
「すまないな、モンゴネウラ。早めにこっそりと手紙でリンガの様子を忠告してくれていたのに。
またお前にも苦労をかけてしまうが…」
その言葉に、モンゴネウラは慌てて首を振った。
「滅相もございません、大帝。そんな事、苦労のうちにも入りませんが…。
しかし…ここまで、王女のお気持ちが真剣だったとは…」
日々の報告はドワーニの仕事であったが、【暁の明星】の素性や、彼らを取り巻く諸々の事件で、モンゴネウラは個人的に大帝に文書を出したのだった。はっきりするまでアムイ=メイの素性を兄大帝には伝えない、というリンガ王女との約束を、こっそりと破った事になるのだが、それだけ父代わりのモンゴネウラは彼女が心配だったという事だ。特に彼は大帝とセドの王子の件も目の当たりにしていたという事情もあった。
できればモンゴネウラはここで彼女に引き返して欲しかったのである。
「いい加減、私もあいつには甘いなぁ、と思うよ。しかもかえってあいつの意欲に火をつけてしまったようだ。
こうなったら誰にも止められん。お前も分かっているとは思うが、私も半分諦めた。
ならば私も気持ちを切り替えるしかあるまい?リンガには国のために少し働いてもらう。
…もちろん約束したとおり、危険が迫ったら必ずすぐに引き返してもらうが」
傍にいたドワーニが力強く頷いた。
「…宵の件があるので、このまま軍を撤退するのは気が引けるが、一応北の王との約束なのでね。
…国に戻ったらもう一度、この件を検討さぜるを得ない。だが、そうしている間に出遅れるのもかなり痛い。そこでだ…」
ガーフィンは声を潜めた。
「妹は必ず暁と接触を試みるだろう…。ま、それが目的だからな。
ということは、必ずや暁の傍には宵がいる筈だ。
…暁の事はお前達に任せるとして、宵の捕獲には私の隠密を置いていこう。
お前達の目の前には現れないが、リンガが何かあったとき、力になれとも命じてある」
「大帝、それでは貴方様の御身辺が…」
ドワーニが慌ててこう言った。先代の大帝から、ずっと片腕として努めてきたドワーニである。
肝心の大帝の警護が薄くなったら元も子もない。
「心配するな、ドワーニ。私とて、右腕のお前がいてくれないのはいささか心細いが、新たな側近をすでに配置しておる。ティアンの後釜と、護衛官をね」
そう言うと、大帝はドワーニの肩に手を置いた。
「…リンガを頼むぞ。父君と同様、命を懸けても妹を守れ」
「はっ!もちろんであります!」
屈強な大男であるドワーニは、大帝を敬うために南軍の正式な敬礼をした。
頷いたガーフィン大帝は、そのまま隣にいるモンゴネウラに顔を向けた。
「モンゴネウラ、本当に悪いな。…せっかく心を砕いてくれたのに。
…ここまで来たら、最後までリンガの思うとおりにさせてやろうと思う。…結果が本人にとって意に沿わないものになったとしても、お前が傍についているなら大丈夫だろう。…それに…」
ガーフィンは自分に言い聞かせるように力強く言った。
「南の帝国の王女としてのプライドを信じようと思う。まかりなりにも自分の妹を信じてやれなくてどうする?
だが、あれも父君の子だ。…先日の馬の件のように、感情のまま暴走しないとも言い切れない。
その時こそ、お前の冷静さが頼みになる。…よろしくな、モンゴネウラ」
「もちろんです」
モンゴネウラは恭しくガーフィンに頭を下げた。

こうして南の大帝は、まだ部屋で休んでいるリンガとお供の二人、そして数名の隠密を北の国に残し、早々と南の国へと戻っていった。
だが、その帰国する途中、とんでもない事態が彼らを待ち受けているとは、この時の大帝一行には思いも寄らなかった。

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「もう出発してしまったの? …起こしてくれればよかったのに」
しばらくして朝食のために、リンガ王女があくびを噛み殺しながら寝室から出てきた。
「大帝がゆっくり休まれるように、とのことで」
先ほど屋敷の召使いが持ってきていた朝食を乗せたトレーを、ドワーニがかいがいしくリンガのために外のテラスに運ぶ。

外は珍しく暖かな日差しが降り注ぎ、秋とはいえまるで春のような陽気に、リンガの心も久々に解放されていた。
「これはこれは、リンガ王女。今朝は随分と明るい顔をされておられる」
先にテラスで朝食を取っていたモンゴネウラが、お茶を啜りながら彼女に声をかけた。
「そ?…言いたいことがあるのなら、はっきりしたら?
兄君から聞いているんでしょう?わたくしの決意」
そう言いながらリンガはモンゴネウラの目の前に座った。 
「もちろんですとも」
「ねぇ、モンゴネウラ。貴方も知っていたんでしょう?。
父君と【セドの太陽】の因縁。…知らなかったのは…多分わたくし一人ね」
ドワーニが目の前に置いてくれた朝食を口に運びながら、リンガはぼそっと言った。
「どう思いましたか?王女」
表情を崩さず、モンゴネウラはさりげなく聞いた。
「そりゃショックに決まっているじゃない。
…父君に似ていると言われて、わたくしが嬉しくないの、長い付き合いの貴方だってわかってるでしょ?
何も好きになる男まで似なくてもいいじゃないのーって。でもかえって腹が据わった気分」
「ほう」
「わたくしは絶対に父君のようにはならないわ。
考えても御覧なさいよ?この南の王女、リー・リンガが男に溺れる?身を滅ぼす?
おかしいじゃないの。そんなことになるわけ無いじゃない。
父君のお陰で目が覚めたわ。
身を滅ぼすのは相手であって、わたくしじゃない。
このプライドにかけても、きっとアムイをわたくしの虜にして意のままにしてみせるわ!」
そうはっきり言う彼女に、モンゴネウラは同意するように頷いたが、心の中では苦笑していた。
……この科白、昔同じように誰かから聞いたような気がするが…。
それがことごとく打ちのめされて、彼の君は気が触れてしまったのだが…。
確かに大帝の言うとおり、もうここまできたら本人の気が済むまでやらせるしかない。
「もちろん、相手が駄目だとなったら、潔く手を引かれますでしょうな?
恋の達人はそこの所が肝心ですぞ?」
「…わかってるわよ…。兄君から聞いてるんでしょ?
これ以上深入りしたら危険だと思ったら必ず引き返すわ。
そのために兄君は貴方達二人をわたくしに残してくださったんだろうし。
大丈夫!わたくしの女のプライドに賭けても、一人の男のために自分を見失うなんてこと、絶対にしないから」
彼の前ではっきりと宣言すると、リンガはにっこりと笑った。
その邪気のない笑顔に、モンゴネウラはこっそりと溜息をついた。
今のアムイが意識不明だと知ったら、ここまで余裕があるかどうかは怪しいものだが、彼女は今までの経験上、どうにでもなると信じていた。
だが、彼女の中に不安な要素があるのを、長い間一緒だったモンゴネウラは見抜いていた。
彼女の中で、プライドが勝っているときは安心だ。だが…。
先帝もそうだったが、激情のまま突っ走りがちな典型的な南の人間。
また、あの時のように暴走しないとは限らないという不安があった。
だからこそ…。身近な自分がしっかりしなければ…。
モンゴネウラは今まで以上に決意を固めた。

「で、これからどうなさるおつもりか?」
モンゴネウラは、隣でデザートを口に運ぶドワーニを横目で見ながらリンガに言った。
「ずっと一晩、考えていたのだけど」
リンガはぐいっと身を乗り出した。
「…姫胡蝶(ひめこちょう)…カァラの後を追おうと思うの」
「ひっ、姫胡蝶ど、殿、の後を、ですか!?」
何故かドワーニが顔を赤らめ、思いっきりむせながら慌てて言った。
リンガはどうしてそこで動揺するのよ、というような目で、ぎろりとドワーニを睨むと、すぐにモンゴネウラに視線を移してこう言った。
「怪しいのよね、あの男」
「怪しい?」
「そう。私との話で、アムイの事、かなり気にしてるようだった。
…しかもあれ、並々ならない関心よ。
本人は冗談めいて言っていたけれど、あれ、わたくしには本気に思える。
…彼はアムイに用があるようよ。必ず彼を見つけるって…」
「そのような事を、あの姫胡蝶殿が仰ったので!?」
「もうっ!うるさいわよ、ドワーニ!」
ドワーニの素っ頓狂な声に、リンガは思わず片耳を押さえた。
「つまり、彼らの動向をこっそりと探っていれば、おのずと暁達の居所がわかるかも…と」
モンゴネウラの淡々とした言葉に、リンガは思いっきり頷いた。
「そういうこと!」
「確かに、その方が確実に暁を捜す事が出来るでしょうな…」
(そう、並の人間では見えないものが見えるという、目を持つとされる彼ならば…)
モンゴネウラはざっと考えた。
「王女の言うとおりです。…そうとなったら、これからすぐにでも出発しましょう…。彼らが暁を追って、もうすでにこの町を出たかもしれない」
「姫胡蝶殿を追う…」
にやけた顔をしているドワーニを、面白くない顔でちらりと眺めてから、リンガはモンゴネウラに同意した。
「では早速支度しましょう。…絶対にあの男の毒牙からアムイを守ってみせるんだから…」
あの挑戦的なカァラの目を思い出して、リンガは唸った。
(せいぜいアムイを見つけて頂戴。見事横からさらってみせるから!)
リンガの益々意欲的な顔を見て、再びモンゴネウラは人知れずに溜息をついた。


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「わかった。では、そのように計画を進めよう…。
リシュオン、申し訳ないが、よろしく頼む」
キイはほっと息を吐くと、ゆっくりとその場から立ち上がった。
つい先ほどまで、洞窟で一番広い場所で全員が集まり、今後の事を話し合っていたのだ。
結局話し合いの結果、自由な身となったリシュオンの好意に甘えよう、と言う事になり、ここから西寄りにある小さな港から西の国経由で東に向かおう、という事になった。かなり遠回りになるが、意識不明の人間を連れては、これしか手段がなかった。
「それでも、とにかく船に乗ってからですが…、状況によって上手くいけば、このまま東に行けるかもしれません。
問題はこの場から上手く港まで出れるかどうかですね」
リシュオンの言うとおり、この洞窟からでは結局シャン山脈側しか出れないため、あえて再び出入り口を塞いだ鍾乳洞の方から出て、未開の山を下り、港町まで行くしかなかった。しかも意識がない大人を連れて…。
「これ以上いつまでもここにいるわけにはいかないだろう。
もうかれこれひと月になろうとしている。
できれば、次の満月になるまでには、ここを出て行きたいと思う」
「次の満月…。あと二日しかないじゃない。…大丈夫?リシュオン」
キイの話に、シータがリシュオンに振り向いた。
「ええ。とにかく私は今からここを出て、準備をしてきます。
ついでに周辺の調査もしてきます。…あの南軍が撤退したらしいですし、身近に迫る敵はないと思いますが、このような情勢です。いつ誰に襲われるともわかりません。念には念を入れて慎重に事を運びますので、ご安心ください」
「西の国の王子である君に、このような手を煩わせて、本当に申し訳ない」
キイが頭を下げた。
「止めて下さい、キイ。…自分の意思でやっている事ですなのですから」
リシュオンは爽やかに微笑むと、護衛を伴ってこの場を去った。
「私も急がなくちゃ。とにかく荷造りよね」
残されたイェンラン達は、気を入れ直し、急いで準備に取り掛かった。
キイは皆に促され、アムイの支度を任された。
ほとんどの時間、アムイの傍にいるキイは、彼の微妙な変化にも敏感であった。
かろうじて繋がっている魂の鎖のお陰で、アムイの息が止まることなく、一見すると深い眠りについているように見えた。
一時期は深手のせいで、顔色もかなり悪く、仮死状態気味でまるで死人のようであったが、キイの癒しの力のお陰で、肉体はかなり回復していた。そう、肉体は…。
昂老人に助け出され、キイが今預かっている子供のアムイは、小さな光となって今もキイの胸の中で抱きかかえられ、癒されている。
…いつかアムイの目が覚めたら、この子を返さなくてはならない…。
その日まで、傷ついたこの子を大切に守らなければ。
キイはアムイの寝顔を見ながら、心底思っていた。
(……アムイよ。お前は今、どこら辺をにさまよっているのだろう…。少しでも、俺の声が届くといいのに…)
キイはそう思って、いつものごとくアムイの傍らに膝を付き、彼の手を取り語りかけた。
声を出して話しかければ、いつかはアムイに自分の声が届くのではないかと思って。

「戻ってきてくれ、アムイ。
…俺も、皆も…そして小さなお前自身も、この世界でずっとお前が戻るのを待っている…」

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気がついたら自分の意識は、混沌とした記憶の渦に放り出されていた。

目の前に広がる光の洪水。

《私はこの子、女の子かと思ってたのよねぇ…》
柔らかな女性の声が、心地よく耳に飛び込んできた。
《どちらでもいいじゃないか。とにかく元気に、無事に生まれてよかったよ。
ねぇ、アムイ》
聞き覚えのある声がしたと思うと、優しく口付けられた。

懐かしさが、胸いっぱいに甘く広がっていく。

《この子、貴方に似ているわ。黒い髪に黒い瞳》
《鼻は君だね、うん、なかなかの美男子だな》
《いやだ、まだわからないわよ。生まれたばかりなのに》


(父さん!母さん!)

《…ずっと、ずっとお前に会えるのを待っていたんだよ…》

白い世界の中、声だけがアムイの頭に響いていく。

《とても嬉しいよ、ネイチェル。…この子に大きな物を背負わせてしまうかもしれないけど…。
でも、私達の所に降りてきた子だ。私達がいる限り、この子を守って、愛してあげようね》
《そうよね!この子は私達を選んできてくれたのよね!》
《ああ、そうさ。この世に生まれる命は、全て意味を持って生まれて来るんだろ?》


両親の会話なのだろうか?この優しい波動に、アムイは涙が出た。

…自分はこんなにも親に望まれ、愛されていた…。

現状の、生きていく辛さのせいで、忘れていた暖かなものを、アムイは思い出した。

《結婚しよう、アムイ。愛するものはずっと一緒にいなくちゃいけないんだ》
(キイ…!)
《もう、俺達は離れてはいけないんだ。俺とお前は二人で一人なのだから》
幼いキイの声がアムイを包む。

ぐるぐるぐるぐる…。
アムイの魂は回転し、自分の意思とは別の、あらゆるところへと移動していく。
まるでスイッチを切り替えるかのように、あらゆる場面、あらゆる言葉が現れては消え、現れては消え…。
アムイは圧倒するような過去の記憶に翻弄されていた。

(ああ、俺は…どこに行くんだろう…。このまま…黄泉の国に漂うのだろうか?)

死の間際、走馬灯のように今までの人生が見える、と、誰かが言っていたような気がする…。
ということは…自分はもう……。

《アムイ…俺を忘れるな…》
キイの言葉がアムイの胸を刺す。
《どのような世界にいても、俺の存在はお前と共にある…》
ああ、キイ!!
アムイは心からキイに申し訳ない、と思った。
彼の事を思っていたようで、本当は自分の事で精一杯だった…。

優しい気持ちから、段々と自分の記憶が大人のものになるにつれて、アムイの心はどんどん暗く、重く、沈み始めた。

まるで、暗闇の中を歩いていたような日々。
出口を求めながらも、成す術も無くそこに身を縮めていた自分。
他人の冷たい視線、妬みや憎悪の波動、そこから自分を守るために、どんどん殻を厚く覆っていった…。

何故、自分はこうして苦しみながら生きてきたんだろうか…。

何故、自分は自分を貶め、疎まれていると潜在的に思ってきたんだろうか…。

《兄貴、駄目だよ。いつもそんな顔しちゃ》
サクヤの声がはるか彼方でしたような気がした。

サクヤ…俺は…お前が羨ましかった…。

アムイはぼんやりとそう思った。

俺にはない強さを、お前は持っていた。
俺が、このようにして生きたい、と思っていた心の強さをお前は持っていたんだ。
(…ごめん…。お前を殺したのは俺だ…。お前を巻き込んだのは…)
再びアムイは、失意の底にいた。
溢れ出る罪悪感を、止める事ができない。
(俺はどうしようもない人間だ…。どうしようもない臆病者だ)
愛する者を失う恐怖に耐えられない弱い自分から必死で逃げてきた。
この心の弱さ。
いくら戦いが強くても、真の勇者とはなれない…。

アムイの心は泣いていた。
現実の世界で封印していた涙が解放されたと同時に、心の涙が雨のごとくずっとアムイの心の中で降り続けていた。
それは必要な解放を意味していたが、今のアムイにはわからない。
ただ、涌き出る様々な感情に翻弄され、見つめ、受け流すので精一杯であった。

温かい…。

まるで気が遠くなるような時間、己と向きあっていたような気がしていたアムイは、気がつくと、騒々しい記憶の渦から離れ、いつの間にか静かな場所で横たわっていた。
しかも先ほどの、あの身を切るような寒さとは打って変わって、その場所は柔らかな波動に包まれ、やすらぎすら感じる。
まるで、真っ暗で凍えるような洞窟を抜けた後に、優しい光のぬくもりに包まれているような…。
そう、それは陽だまりに抱(いだ)かれているかのように…。
抱かれている?
アムイはおぼろげに気がついた。
自分の傍に、誰かいる…。それは本能で感じた事だった。
その誰かに、アムイは抱かれている感覚を持った。
確かめようとしたが、疲れているのか思うように動けない。

おぼろげな意識の中で、アムイはその誰かに頭をなでられているような、そんな感覚を持った。
そう、まるで子供のように優しく膝枕をされているような感覚…。

だけど、一体ここはどこだろう…。

この時になって、アムイは自分が奈落の底に落ちたのを思い出した。そう、自分自身が望んで…。
死霊に引きずり込まれ、血の沼に落とされ、凄惨な世界から黄色の光を目指し…。

俺は奈落から…あの暗闇から出られたのだろうか?

アムイの目から再び涙が零れた。

自分の…愚かさを…自分の情けなさを思って。
自分が望んだ事なのに、結局逃げ出したのか…。

アムイは自分から奈落に落ちた意味を見失っていた。いや、まだ本当の意味に気付いていなかった。

『自分を責めては駄目だ』

耳元で、優しい声が響いた。
どこかで聞いた…懐かしい…声…?
ああ、この心地よい響きは…。

『お前は充分、苦しんだ。よく頑張ってきた。だからもう、いいんだよ。
もうここから抜け出ていいんだ…』

低く、甘く、囁くような…宵闇のような声が、アムイの耳をくすぐった。
自分の髪をなでる、その声の主の指の感じが、目に見えていなくてもなんとなくわかる。
白くて、形がよくて…長い指。
そう、いつもの馴染みあるこの感覚…。

(…キイ…?俺は戻って来てしまったのか…?)
昔、こうしていつも自分の髪を撫でてくれ、子守唄のように囁いてくれたキイを思い出し、アムイは心の中で呟いた。

『これ以上、自分を傷つけなくていいんだよ。
…お前はこれから、自分の足で自分の人生を歩けるようになる』
「でも、もう疲れた…。俺は逃げたんだ…、自分の背負うものの大きさに。
こんな情けない奴…、お前だって軽蔑するだろう?」
アムイは自然と言葉が出ていた。
そう。キイに軽蔑されても、仕方がないほど、情けない自分…。
「お前はいつだって逃げなかった。いくら心の地獄に落ちようが、いつもそのつど這い上がってきた。
…でも、俺は駄目だ。お前と違って、一向に駄目な人間だ。
ずっと逃げてきたんだ。ずっと暗い淵の中で…もがき苦しんでいた…。
でも、もう疲れたんだよ…」
泣き言だという事はわかっていた。だが、キイの前で、もう自分の本心を隠す事はできない。
「……俺が父さんを貶め、自分の生まれを呪い、お前にばかり迷惑かけて…。
だけどそれ以上に、近しい人間が自分のせいで死んでいくのを、俺はもう耐えられないんだ」
『それでも』
優しく染み渡る声は、頑ななアムイの心を、少しづつ溶かしていく。
『ずっとそうして闇を見続けてきたお前は、後は気が付くだけだ』
「気付く?」
『そうだよ。…闇の中から光を見出せるという事。闇の中に光が存在する事。
お前はもう知っている筈だ。
魂の奥深く、幾度も転生を繰り返し、長い時間をかけてやっとここまで来た。
闇を通して光の世界を見出し、お前自身が光となって存在するには時間が必要で、それは生みの苦しみと同じ、全て自分で望んで課した事だ。
お前がこれまでいくつもの転生を経験し、制限や試練、哀れを学んできたのは、何のためか?それを乗り越える事でお前は優しく大きく成長し、人の苦しみを身をもって理解でき、助ける事ができる。
学びが大きければ大きいほど、大きな収穫と成長がある。それこそが魂(たま)の鍛錬…。
アムイ、闇を恐れずによく見てごらん。お前なら見える筈なのだ。
闇はただ、そこにあるだけ。光が生まれたと同時に闇も生まれた。
人は両を抱え、調和をとってこそ真の光の世界を歩く事ができる。どちらに偏りすぎてもいけない。
お前はそれを学ぶために、ここまで来たのではないのか?』
しっとりとした声が、まるで魔法のようにアムイの傷ついた魂を修復していく。
「学ぶ…」
『そう、人にとって闇もまた必要である。…光が必要と同じく…』
そこで自分を撫でていた指の動きが止まった。
『ここまで来たら、後は思い出すだけだ、アムイ。本来の自分を取り戻すために、お前はここまで来たんだよ』
アムイはここで、違和感を覚えた。
ずっと今まで、自分は元の世界に戻り、キイと話をしているとばかり思っていた。
相手との会話で、意識がはっきりしてくるにつれ、その違和感は益々大きくなっていく。
まさか…まだここは黄泉の国なのか?…では、今自分が話している相手は…?
声は確かにキイに似ているが、よく考えてみたら、あいつは自分にこういう喋り方はしない…。
アムイの心の動揺とは無縁に、声は続く。
『落ち着いて、今の状況をよく見なさい。そうすれば次にする事が自ずとわかってくるだろう。
…その時になったら私を呼べばいい。
私はお前の近くにいて、必ずお前の声に答えよう』
アムイの魂の心臓は早鐘を打っていた。
キイのようでいて、キイとは別の優しいこの感触。懐かしい響き。
ずっと昔から知っていた…この波動は…。
まさか…!

ふいに声が遠のき始め、その存在が自分の傍を離れ始めたのを、アムイは感知した。
(待って!)
アムイは心の中で叫び、力を振り絞って身体を起こした。
ずっと自分がキイだと思っていた、この声、指の感触…。これこそ昔、自分をいつも慈しんでくれていた…。

『光の象徴であるキイ、あの子でさえ、この地に降りて肉体の枷をはめられ、制限を与えられて深い闇を見たからこそ、己が光となる事ができた。
闇を通して光を見出すのは宇宙(あま)の学び。
人の闇や影を知ってこそ、光となって大きな成長と繋がる。
─だからお前も、闇や傷を恐れずに向き合いなさい─』

どんどん離れていく声を追って、アムイはその場から駆け出した。
(お願いだ、待ってくれ…)

『どのような事も、天は乗り越えられない試練は与えない。それは自分で決めて来た事だからだ。
…もし、それらに負けるのであれば…それは自分がその事に気付けなかっただけ…』

「待って!」
ようやくアムイは叫ぶ事ができた。
追いかけている自分の全身が震えているのに気が付く。
早く、早く追いつかなくては。
必死でアムイは消えかかる存在に呼びかけた。
「お願いだ、待ってくれ!」
心の奥で最も会いたかった、だが、もう会えないであろうと思っていたその人の事を。

「父さん!」

アムイの声は万感の思いを込めて空間にこだました。

「待ってくれ!父さん!!」

アムイははっきり悟ったのだ。
そう、今まで自分の傍にいてくれたのは…他でもない、自分の父、【セドの太陽】の魂であった事に。

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