暁の明星 宵の流星 #153
「おい、はっきり言ったらどうなんだ?
未遂だけど、俺は彼女に手を出そうとしていたんだぜ?」
叱るわけでもなく、咎めるでもなく、涼しい顔して隣にいるシータに、キイは投げやりな言葉をぶつけた。
いつもなら、女関係では特に説教くさいシータの筈なのだが、どうも調子が狂う。
あれほどイェンランには手を出すなと、口酸っぱく自分に言っていたのに。
「だってあれ、“脅し”じゃない」
シータはじっとキイの表情を窺うと、やんわりとこう答えた。
「う…」
「なぁに?アタシがわからないとでも思ってたの?
それとも、うんとアタシに怒られたかった?責めて欲しかったんだ」
「………」
シータの言葉に、キイはまるで幼子のようにぶすっとした。
(あららー。こういう顔は小さい頃と変わってないわねぇー)
シータはキイの隣で膝を抱えると、目の前で横たわるアムイを眺めた。
こうして見ていると、アムイもまた、初めて聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)に来た頃と、寝顔が全く変わっていない。
「今度はアムイが眠り姫になっちゃったわねぇ」
ポツリと呟くと、そのまま顔をキイに向けた。
「何だよ」
「だから聞くって言ってるじゃない、い・い・わ・け。
まー、相手がアタシだけど?たまには素直になってみれば」
「……」
横目でシータを睨みつけながら、キイは胡坐をかいて腕を組んだ。
「そりゃ、やり過ぎたと俺も思っているよ」
キイはそのまま視線を下に落とした。
「そうよねぇ、あんなに怖がらせて。
アンタ、特に女の前では、普段優しげに接するから、あれはビビッたでしょうねぇ。
……男性恐怖症が、益々酷くならないといいけど」
痛い所を突かれて、キイは言葉を詰まらせた。
「……アンタとしたら、お嬢を遠ざけるためにしたんでしょうけど、ね。
あそこまでしなくても、とアタシも思ったけど、……アンタのどうしようもない気持ちが伝わってきちゃったからさ」
最後の声は、キイに対しては珍しく同情的だった。
「まったく…。まだ子供だと思ってたのによー。突然あんなこと言われて、理性が吹っ飛びそうだったんだぜ。
…アムイの話をした後に、あんなこと言われてみなよ」
苦々しく呟くキイに苦笑しながら、シータは言った。
「そうよねぇ。
でも、いつまでもアンタの知っている女の子じゃないわよ、お嬢だって…。
もう立派に子供だって産める年齢だもの。……好きな男の力になりたいって言う気持ちを持ってもおかしくない」
「………好きな男か…」
「アンタとしてはきつかったと思うわよ。
大人の女だったら、お嬢はアンタの好みにどんぴしゃじゃない。
…まぁ、よく我慢したと思うわ」
シータの核心を突いた言葉に、キイはくーっと悶絶し、頭をかきむしって上を仰いだ。
「─…あー…っ!ほんっとまずかった!
あの娘(こ)とアムイが重なって見えたときには、ほんっとにヤバイと思ったくらいだ。
……あの娘(こ)を腕の中に閉じ込めたとき、我を忘れてしまいそうだった。
それを振り払うために、結果、お嬢ちゃんにきつく当たってしまったんだけど」
「いっそ、流されちゃえばよかったんじゃない?
お嬢みたいな子、滅多にいないと思うわよ。…彼女だってすぐに大人の女になるし、しかも容姿はアンタの好み。
…性格だって、アンタの理想そのものじゃない。…何の不都合があるの?
アムイだって相手がお嬢なら、きっと喜ぶんじゃないの」
しれっと言うシータに、キイはむかっときた。
「俺にそういうこと言うのかよ…」
「……アンタの気持ちも…わかる。
アムイには負けるけど、一体アンタと何年付き合ってるのよ。
アンタの寿命のことだって、アンタ達が抱えている宿命だって、悪いけどアタシにはわかっているわ。
それを踏まえてアンタがどう考えている、なんてこともね。
アタシはこれを承知で、あえてそう提言してるのよ。…アンタだって、幸せになってもいいんじゃない?アンタがアムイにそう思っているのなら、アムイだってそう願っているのよ」
キイは俯いて、ははっと力なく笑った。
「さすが、俺らのおっかさん。監視、っつーか、よく見てるよなー。
…おっと、ここで怒らないでくれよ?
珍しく俺は落ち込んで、お前に素直になってるんだからさ」
「確かに監視してますとも、ええ」
キイに倣(なら)ってシータも腕を組んで、顎を突き出した。
「だから怒んなって…。
だったら、話は早い。…お嬢ちゃんの気持ちはほんっとに嬉しい。
あんないい娘(こ)は、なかなかいねぇしよ。
だからこそ、俺が躊躇しているの、わかるだろ?」
「キイ…」
シータは呼びかけて、しばし沈黙した。キイの今の気持ちは、痛いほどわかっていた。
無言のまま、溜息をつくシータに、キイはふっと笑って、ぼそっと呟いた。
「お前だって、本当はわかってるんじゃん。
…俺が、どうしてお嬢ちゃんを突き離したのか…」
「……でも、可愛いじゃない。たった一回会っただけのアンタを追って、こんな危険なとこまで来て。
それともやっぱ、迷惑…?」
キイは胡坐を解き、片膝を付くとその膝に自分の顔をうずめた。
「迷惑…?それ以上に罪悪感の方が大きいんだよ。
あの娘(こ)を…結局巻き込んじまった事を…。
本当の事を言えば、最初からだ。嫌がるあの娘(こ)を無理やり元の世界に返した事もそうだが、アムイに自分の無事を知らせるために虹の玉を託した事も…」
「でもそれはお嬢の命を守るためでもあったでしょ?」
「そういう一面ももちろんあったさ。でもその半分は自分の目的も絡んでいた。
…今でももっと最善はなかったかって、悔やむ時がある」
「もう終わった事じゃない。…今更後悔しても仕方ないでしょう?それがあっての今じゃない。
問題はこれから。お嬢だってアンタと出会わなければ、今がなかったわけでしょう?
あの子はアンタと違って後悔なんかしていないわよ。……強い子よ…」
「だからといって、俺はお嬢ちゃんの気持ちを受け止められねぇよ」
俯いたまま、きっぱりと言うキイに、シータは言葉を詰まらせた。
「……俺は生涯、決まった女を作るつもりはない…」
キイはこれから今以上に熾烈になるであろう、自分に課せられた過酷な運命(さだめ)を思った。
自分の生まれ、自分の持つ力…。それを考えれば、これ以上人を巻き込みたくないのは、アムイと同じだった。
自分の女となる事…すなわち戦いに巻き込まれ、自分同様に標的にされると考えていい。
そんな危険な目には合わす事はできないし、自分の弱みになる存在は少なければその方がいい。
しかも自分はアムイと違って寿命が短いと定められている。己の運命をこれから乗り越えていかなくてはならないときに、恋をする時間はない。…ところどころに軽い恋はしても、キイは決めた女はいらないと頑なに思ってきた。
愛する対象という面では、アムイ以上の人間は、おいそれと現れるのは難しいであろうし、むやみに相手を悲しませるつもりもない。
「これから俺らに待ち受けるもの、俺らがしなければならない事…。
それを考えると、いくらあの娘(こ)を可愛いと思っていたとしても、これじゃ無責任な事になりかねない。
…特にお嬢ちゃんの場合、女を呪って男に嫌悪を抱いている。
だから尚更俺じゃ駄目だろう?特にああいう娘(こ)は気軽になんて抱けるような女じゃねぇ。
そう思うだろうお前だって」
キイはそう言って、片手で顔にかかる髪を後ろにかき上げた。
「お嬢ちゃんに必要なのは、こんな危ない状態で、未来もどうなるかわからないような男じゃねぇだろ?
しかもこんな、本心では別の人間を愛しているような奴じゃ尚更駄目だろう?」
疲れたような溜息が、キイの形のよい唇から洩れた。
いつだって彼女の傍にいて、全身全霊で受け止める事ができて……。
今の自分はそんな覚悟もありゃしない、腰抜けな男だ。彼女が身を投げ出す価値すらない…。
そう自嘲気味にキイは話を続けた。
「あの娘(こ)自身を心から愛している誠実な男じゃねぇと、お嬢ちゃんは幸せにはならねぇし、傷も癒せないだろうよ。
どっしりと大きな愛で生涯を包んでやれる男じゃなきゃ、男に対する不信は掃えないさ…」
そして再び俯いて、今度は哀しげな微笑を浮かべた。
「…それに恋愛って、自分ばかりが幸せになっても意味はないんじゃないか?」
その言葉には、キイの切ない思いが詰まっていた。
裏を返せば、それだけキイは、イェンランの事を真剣に思っていると同じなのだ。
シータはそう感じて、もう何も言えなかった。
形はどうであれ、相手を思う気持ちには変わりはない。
キイにしろ、イェンランにしろ、…そしてアムイにしても。
「…悪かったわね、キイ。お邪魔して」
突然シータは立ち上がり、そんな彼をキイは見上げた。
「もういいのかよ」
「もういいわ。アンタの話を充分に聞いたから。
……ま、若い頃に比べて、幾分かマシになったとわかって安心したわ」
「何だよ、それ」
思わずキイは苦笑した。
「悪いが俺だっていい加減、いい大人になったんだぜ。伊達に歳食ってるわけじゃねぇよ」
いつまでも子ども扱いしやがって、というように、キイはシータを軽く睨んだ。
「いい大人というよりも、物分りがよ過ぎるいや~な大人になっちゃたみたいだけどね」
シータの辛口に、キイは一瞬口を尖らせたが、にっと笑うと、去っていく彼の背中に小さく叫んだ。
「…ま、ということだから、後はよろしく!」
その言葉にむっとして、シータはちらっとキイを振り向くと、小さな声で呟いた。
「ったく、後始末はいつもアタシ任せなんだから」
「何か言った?」
「いいえ、別に!」
言い方は悪いが、昔からキイの女性関係でのトラブルは、シータが尻拭いしているといっても過言ではなかった。
相手の女はキイを恨まないが(だから厄介ともいえる)、それでも色恋沙汰で騒動が起きると、その相手や家族、周りへのフォローをその度にシータがやってきたのだ。意外とアムイや同期生には知られていなかった事である。
元々色恋に潔癖な所があったシータが、尚更キイの女関係に対し、過敏なまでに批判してしまうのは、こういう事情もあったわけだ。
シータはぶつぶつしながらも、その場を後にして、数歩行ってから気が付いた。
入り口の近くの岩影に人の気配がする。
振り向くとその岩間に隠れるようにして、イェンランが声を殺して泣いていた。
(お嬢…)
彼女は泣く場所を探しているうちに冷静になって、やはりキイにもう一度会ってちゃんと謝ろうと思って引き返したのだ。
どこからかはわからないが、多分イェンランは自分とキイの話を聞いていたに違いないのだ。
シータは無言で彼女の傍に行き、優しく手を取った。
「………」
泣き濡れた目で見上げるイェンランの瞳に、シータが一指し指をそっと唇に当てている姿が映った。
「お茶でも飲もっか」
耳元で小さくそう言うと、シータはゆっくりと彼女の手を引いた。
洞窟の正面入り口にも近い所に、皆が寛げる広い場所がある。そこを通り過ぎて少し斜め右を上がって行くと、人が二人ほど通れるぐらいの、外に通じる割れ目があった。
無言のまま二人はそこを潜り抜けて外に出た。
外はまだ薄暗く、宝石のような星が空をきらきらと飾っている。
「待ってて」
シータはイェンランを近くの木の下に座らせると、再び洞窟の中に戻って行った。
イェンランは濡れた目を擦ると、輝く夜空をぼんやりと見上げた。
自分が気持ちを抑え切れなくて、激情のままにぶつけてしまった結果、彼を悲しませたと知ってかなり後悔していた。
……冷え込む空気が、かえって気持ちよく感じる。
しばらくしてシータが温かい飲み物を持って彼女の前に戻ってきた。
「はい」
彼女にコップを渡すと、シータ自身もコップを手にしながら隣に座り込んだ。
息を吹きかけながら、イェンランはコップに口をつけた。
温かな液体が喉を通り、全身に広がっていくようだった。
「落ち着いた?」
優しいシータの声に、イェンランは無言で頷いた。
申し訳ない気持ちと、恥ずかしい気持ちと…そして感謝の気持ちがないまぜだ。
「…聞いちゃったのね、アタシ達の話」
何の前置きもなく、いきなりシータがそう言った。
イェンランはじっとコップの中の液体を見つめる。自分の情けない顔がそこに揺らいでいた。
「私、キイの気持ちも考えず、何て浅はかな事を言ってしまったのかしら…」
ぽつりと彼女は呟いた。
「でも、それは自分の正直な気持ちだったんでしょ?」
イェンランはじっと押し黙り、しばらくしてから、こくんと小さく頷いた。
「本当に…好きなのね、キイの事」
憐れむでもなく、淡々と言うシータに、素直になっていく自分がいた。
「……自分でも、…自分にこんな激しい感情があるなんて知らなかった…。
あの時、自分が男に恐怖を感じているなんて事、これっぽちも思わなかったのよ?
むしろ、忘れていたみたい…。結局、キイが思い出させてくれたけど」
最後は自嘲気味にイェンランは語った。
「この激しい感情が男への恐怖のために来るのか、それとも違うものからくるのかいつもわからなくて、キイと会うたび動揺して…。でも、でも、キイのアムイへの気持ち…アムイのキイへの気持ちがわかって、私…」
イェンランは鼻をすすった。また涙が出てきてしまいそうだったのだ。
「居ても立ってもいられなくなって…」
「抱かれてもいいと思ったんだ。キイに」
「……誰でもそういう気持ちになるのかといったら、絶対に違うって、その時に気が付いたの。
…キイだから…相手があの人だから…。
同情でもなく、心から自分がそうしたいって…望んだのよ。抱かれたかったの」
我慢できなくなって、再び目から涙が零れた。シータはその様子に気が付いて、空いた方の手で、ゆっくりとイェンランの頭を引き寄せ、自分の肩に乗せた。兄のように(この場合は姉、のイメージの方が強いかもしれないが)優しく頭を撫でてくれるシータに安らぎを覚えて、イェンランは彼に感謝した。
「よかったわ」
「え?」
いきなり思ってもみない言葉を彼は呟いた。
「……このまま、お嬢は男の人を避けてしまうんじゃないかって、本当は心配していたのよ…。
ああいう事があって…。そんなにすぐには忌まわしい記憶はなくならないと思うけど、お嬢には幸せになって欲しいから。
大好きな人ができても、身体が拒んでしまうという恐れもあるだろうけど、相手が誰であれ、その怖さを忘れるくらいの感情を持てる相手に巡り会えたという事は、幸運だと思う…」
できれば、本当はそういう相手に、時間をかけて心から愛してもらうと…もっといいのだけれど…。
そうすれば男に対する恐怖心も、不信も、失った自信も…取り戻せるのではないかと。
シータは心の中でそう思ったが、彼女のために口には出さなかった。
「やはりキイへの気持ちは、他の人とは違う?」
シータの言葉をじっと聞いていたイェンランは、小さく頷くと、震えるような声で言った。
「……この気持ちが…ただの好奇心なのか…淡い恋なのか…よくわからなかったけど、こんなに自分の心をかき乱すような人に会ったのは…初めて…」
シータは小さく溜息をついた。
彼女の気持ち以前に、あの男も女も魅了するフェロモンの塊のような完璧な大人の男を目の前にしては、気の毒にも初心な少女には刺激が強過ぎるのは確かであろう。
当時15歳の無垢な少女が、彼に全てを持っていかれたとしても、仕方がないであろう。
「きっと、初めて会ったときから…好きだったんだわ」
イェンランは独り言のように呟くと、鼻をすすってから、自分の頬を掌(てのひら)で強めに叩いた。
「ごめんね、シータ。もう大丈夫よ。
…明日の昼のにはここを出て行くのよね?
それまでに、キイにもう一度謝るわ…。このまま気まずくなるのは嫌…だし…」
といって、イェンランは言葉を詰まらせた。
皆の話し合いで結局、船舶が目立たずに入港できる小さな港まで、これから皆で向かう事になっていた。
そこにはりシュオンの乗ってきた船がひっそりと停船しているのだ。
そして何とか船に乗り込めたら、そのまま全員で西の国へ行く。そしてキイ達はリシュオン達と別れ、中央国ゲウラを抜けて東の国に入る予定だ。……誰も何も言わなかったが、多分自分はそのまま西の国にいる事を、余儀なくさせられるだろう。
そう考えると、イェンランの小さな胸は千々に乱れた。
本音を言えば、このままキイの傍にいたい。ずっと離れたくない…という感情が沸き起こってくる。
…でも…。
キイの笑顔は少しでも見ていたい。…彼の冷たい表情のままで最後になってしまったら、きっと自分は後悔する。
彼といられるのは、もうわずかだと思えば、尚更、このままでいたくない。
「そう、ね。明日の朝にはりシュオン王子が迎えに来てくれるそうだし…」
と、思い出したように言ったあと、シータは何かに気が付いたかのように、突然話題を変えた。
「ねぇ、リシュオンの事、どう思っているの?お嬢は」
いきなりそう質問されて、イェンランは面食らった。まるで思ってもみない問いだったからだ。
「リシュオン?何故彼の話になるの?」
きょとんとして自分を見つめるイェンランに、シータは咳払いした。
「何故って…。今ちょうど彼の名前が出たからよ。
だって最近のアンタ達って、すごい仲良しじゃない。…考えてみれば、王子だって充分に魅力的な男だわよねぇ」
シータはそう言いながら、キイの言葉を思い出し、彼女を身も心も守れるほどの器量の持ち主は彼しかいないように感じたのだ。多分…自分の勘だけど、王子だってイェンランの事を憎からず思っている筈だ。
…それに男性恐怖症になってからというもの、彼女は仲間であるアムイやサクヤにでさえも、一時距離を取っていたほどだった。それが最初はどうであれ、いつの間にかあっという間にリシュオンとは打ち解けて、まるで何でもないかのように、彼女は彼が近くにいても気にならないようなのだ。しかも普通に触っても拒否反応でないし。
「…あー…確かに…そう言われてみれば…そうかぁ」
煮え切らないイェンランの言葉に、シータは突っ込んだ。
「…ねぇ、ズバリ聞くけど、王子はどういう存在よ、お嬢にとって。
だって、彼だって立派な男じゃない。
…お嬢の傍に寄って平気なのは、年配である老師(昂老人)と、中性的なアタシ。
それはわかるわ。
じゃ、リシュオン王子は?どう見ても、魅力的な年頃の男性なんだけど」
「……そうかぁ…。そうよね。リシュオンも男の人…だよね…」
シータの指摘に初めて気が付いた、というようなイェンランの表情に、シータは目を丸くした。
「そうよ…。どう見たって…」
「私、今まで、そんな事考えても見なかったわ」
「そ、そうなの?」
イェンランは力強く頷いた。
「……うん。何だろう?私今までリシュオンが男の人だって事、忘れてたみたい!
最初は確かに男性だと思ったことあったんだけど…。
今は全然意識していない…みたい…。
男というよりも…大事な…気の合う友達?」
(そうか…。つまり王子の事は可もなく不可もなく、という事なのね…。まったく彼を男と感じていないわけだ。
というよりも、王子自身がお嬢に対してそう努力している?)
シータは溜息ついた。そういえば、前に王子に、性としての男を出さないようにお願いした事…あったっけ…。元々嫌らしさを感じさせない爽やかな人だったから、そういう気配りは簡単だろうと思っていたけど。いや、本当に彼が、イェンランに対して、ここまで完璧に異性を感じさせないように接するとは思わなかった。
(若いのに…、凄い男だわ)
シータは彼に感嘆した。ある意味キイとは違った、精神的にも大人の男だ。
(でもねぇ)
と、シータは心の中で呟いた。
気が合う仲良しの異性って、究極にはどちらかだものね…。
まるっきし完全に相手を異性と思えないか、何かのきっかけで異性と意識して恋に落ちるか…。
それは時間と、神のみぞ知ることになるんだろうけど、男と女の仲なんて、本当にどうなるかなんてわからないものよね…。
「シータ、どうしたの?」
まっすぐに自分を見つめるイェンランに、シータはにっこりと笑って見せた。
「何でもないわ。そっか、お嬢にとって王子は希少な男友達ってわけなのね。
そういう人はなかなかできないわよ、大事にしなさいね」
「うん、私もそう思う。リシュオンだと自分がまるで気負いしないの。
何か安心して自分のままでいられるというか…。
男でも女でもそういう人間って自分にとって貴重よね」
(それって…結婚相手には一番いいと思うけど)
余計な事を考えて、シータは内心苦笑いした。
「彼にはキイのような激しい気持ちは湧かないのね。穏やかな感じ…か。なるほど」
「何が言いたいのよ、シータは」
眉を寄せているイェンランの肩を、シータはポンポンと軽く叩くと、明るくこう言った。
「ううん、何も。…それよりもキイとは気まずくならないといいわね…。
それ飲んだら帰りましょうか。明日早いし」
「うん」
そうして二人は満面の星明りの中、無言のままお茶を飲みながら、しばらく空を見上げていた。
.......................................................................................................................................................................................................
物凄い力に引きずり込まれ、アムイは半分気を失っていたようだ。
激しい衝撃を全身に受けて、突然意識がはっきりとした。
「こ、ここは…」
熱い。
異常に熱い蒸気が方々から噴き上げ、それがこの場の温度を上昇させている。
周りはゆらゆらと、赤い影が陽炎のように舞い、ごつごつとした岩間と、赤茶けた砂が、ここが地獄の底だという事を暗に示していた。
痛む身体を庇いながら、アムイはのろのろとその場に立ち上がった。
耳元には人…いや、亡者の苦悶の叫びが耳に付き、ごぉおと何かが燃え上がる音が辺りに響き渡っている。
『お前か』
突然、前方から鋭い声がこだました。
『何だ、もっとマシな亡者かと思ったら』
後方でしゃがれた声がした。
慌てて見回すと、いつの間にか数匹の異形の鬼達がアムイの周りを囲んでいた。
色とりどりの恐ろしい顔をした鬼達は、じろじろとぶしつけな視線をアムイに送っている。
『魔王様』
一匹の茶色の鬼が前方に向かって叫んだ。
『大魔王様!』
後方で赤黒い鬼も叫んだ。
『こいつですぜ。…餓鬼地獄に穴を開けやがったのは…』
「穴…?俺は穴なんか…」
『けっ! 自分のした事に自覚がねぇっつのは、充分な罪状ですぜ、邪悪鬼魔王(じゃあっきまおう)様!』
「だから俺は何の覚えもな…」
と、アムイが言いかけた時、大きく地面がぐらぐらと揺れ、前方の岩の大きな扉がぐぉぉと開いた。
『自覚がないからこそ、罪となるのだ』
まるで地の底から湧き出るような恐ろしげな声が、その場を震え上がらせた。
『魔王様!』
囲んでいた鬼達は、急いでその場に蹲(うずくま)り、扉の先に対して頭を地に擦り付けるように下げた。
「魔…王…」
アムイは呟いて凍りついた。
開いた扉の奥の方には、自分の数十倍はあるかと思われる、巨大な魔神がこちらを睨んでいた。
異形のものの頭というに値するその恐ろしいほどの姿は、生前散々悪い事をして平気でいられたような、外道な人間すらも、震え上がらせるような容貌をしていた。
真っ赤な色をした皮膚には黄金色の体毛が生え、耳は尖り口は裂け、黄色い目はかっと見開いて、逃げ出す亡者を見逃すまいとしているようだ。頭上には華美な装飾品と、それに不釣合いな、ぐるんと巻き上がった大きな二本の角。鋭い牙の隙間から、先ほどの揺るがすような低い声が唸るように洩れた。
『我が獄に落ちた亡者は、我が獄の管轄である。
そんなこと、天のもの、黄泉のもの、獄界のものならわかっておる筈。
何ゆえにお前は此処とは違う波動を出した?唯一許される天界のものでもない。
…外部が迷い亡者を導くのは天界のものでしかできない筈じゃ。
お前の波動は天界のものではない…。もっと…そう、生臭い波動じゃ』
と、邪悪鬼魔王はアムイをじろりと睨み据えた。
『その異質な波動のために此処のバランスが崩れ、空間に穴が開いてしまった。
……大きな大きな穴じゃ。お前のせいだ。どうしてくれようか』
「俺…の?」
ごくりとアムイは唾を飲み込んだ。
地獄には地獄の、暗黙の規律があるのであろう。
多分、ラムウとの事を言っているに違いない。
「邪悪鬼魔王殿!本当に俺は知らなかったんだ!心からお詫びする。
だからどうか許してくれないだろうか!」
アムイは肝を据えて、この恐ろしい形相の魔王に主張した。
『許す?』
ぎろりと魔王はアムイをじっと見下ろすと、ふん、と鼻息を荒げた。
『そんな簡単に許されるのなら、地獄なんて必要ないだろうよ。
お前にはそれ相応の罰を与えねばならん…。ふうん、なるほどよなぁ』
魔王は顎に手をやると、ニヤリと笑った。
『お前、本物の霊体ではないな?というか、完全な死人ではないじゃないか。
おかしいと思ったのよ、この生臭さ…。半分生きている奴が、こんなとこに来やがったせいか。な~るほどねぇ』
「…どういう…」
『決めた!』
「え…?」
『お前、半分自分の魂を、元いる場所に置いてきただろ?だから冥界以降に来ている筈なのに、完全な魂じゃないわけだ。
かろうじて肉体と繋がる鎖が、お前を生と死の間を取り持っているわけさ。
ならばお前の罰は、その鎖を断ち切らせてもらう、という事にするかね』
と、面白そうに言うと、魔王はアムイの頭上に大きな手をかざした。
あ、と声を出す間もなく、アムイの頭は強烈な痛みに襲われた。
何かを、引きちぎられたような激痛…!!
アムイは声も出せないまま、頭を抱えてその場に倒れこんだ。
..........................................................................................................................................................................
「アムイ!!」
突然、洞穴でキイの悲鳴が響き渡った。
ちょうど一息ついて、戻ってきたシータとイェンランは顔を見合わせた。
「アムイ!!」
キイの声が先ほどと比べて、尋常でないほどに切羽詰っていた。
胸騒ぎがして、二人は慌ててキイとアムイのいる場所に駆け込んだ。
「どうしたの!?キイ!」
「アムイに何か…」
と、二人はアムイの様子を見てぎょっとした。
完全に血の気が失せている…。
キイに抱きかかえられ、がくりと頭を仰け反らしているアムイの顔は、一滴の血も流れていないかのように真っ白であった。
「キ、キイ、まさか…」
恐る恐る言葉をかけるシータに、キイは呆然と呟いた。
「……アムイの…心臓が…完全に止まった…」
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