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2011年8月

2011年8月30日 (火)

暁の明星 宵の流星 #156

次に目を開けた時、そこは乳を流したような白い世界だった。
ゆっくりと動かした足にもどかしい重みを感じ、ここ一面、踝(くるぶし)の所まで水が張っているのに気が付いた。
その足元を見やると、何やら小さく光るものが、その存在をアムイに主張していた。
目を凝らしながら屈むと、その光るものの姿がはっきりと目に現れた。
アムイはそれを手ですくうように拾うと、口の中で呟いた。
「鍵…」
掌(てのひら)に乗っている小さきもの。
一般的な鍵という形状を取ってはいなかったが、それが自分の捜していたものだということを、アムイは本能で認知した。
一見、どちらかというと変わった形の輝石のようであった。
陰陽を割ったような、その片割れの形。…一般的に勾玉と言われる形にそれは似ていた。
ただ、月のように丸い形を割ったというよりも、楕円を割ったような感じの細長い形だ。
それが黒曜石のように、力強い黒光りを放っている。

『暁の君よ、どうか闇を恐れるなかれ。
本来の真実を見抜く力を思い出したそなたなら、もうおわかりかと思うが、光が生まれたと同時に闇も生まれたのですよ。
光あればそれが影を作り闇となり、そして闇の中にこそ光が存在する。
光が強いほど闇は濃くなり、その闇を通して光を見出すのが宇宙の学び。
…魂の進化にとっては、それは必要な事…。
だから本来闇とは、それ自体何も恐れる事はないのです。
闇は光と同じように、ただ、そこにあるだけ。
その闇がその魂にとって悪しきものになるか、癒しの安息になるかは、そのものの心によるもの。
光と闇を通して魂は、様々なものを見聞きし、感じ取るのです。
己が光になるためには、闇はどうしても必要で、また、闇を通して光の世界を見出すのが己の成長となる。
人の苦しみや恐れ、憎悪、様々な負の感情を知ってこそ、そしてそれを乗り越える事で、人は優しく大きく成長し、この世の苦しみを理解でき、光となって悩める魂に手を貸す事ができるのです。
…だからこそ、闇や影、そして傷を恐れず向き合いなさい。その辛さや苦悩を昇華しなさい。
これからそなたがやらなければない事。そなた自身が課した、使命に立ち向かうためには、それが一番、重要な事です』

すでにクシティガルバ天の姿は何処にもなく、ただ、少年のような軽やかな声が、辺りに響いていた。

『ただ、ひとつだけ。
暗黒にだけは気をつけなさい。
暗黒は光が介入できない、真の暗闇の世界。
地獄の下のそのまた下。
そこには全ての負のもの不浄なものを溜め込んでいる魔界がある。
浄化しきれず光に帰る事ができない存在の棲む暗黒界。
一度取り込まれれば完全に抜ける事は難儀な、完全な光の世界と究極に相反する世界…』

アムイはクシティガルバ天の言葉をしっかりと胸に刻んだ。
天の慈悲に敬服すると共に、アムイの胸に熱く、忘れていた感覚が呼び戻されていく。

『……この地獄界で見聞きしたもの、体験した事は、元の世界に戻れば、大かた記憶が薄れると思うが、心配なさるな。
それはそなたが今生を生きるために、余計な知識や感情を持たせないよう、己自身が抑制しているだけだからです…。
されど、記憶になくてもしっかり魂には刻み込まれているもの。
だからそなたが必要な時には、いつでも魂は覚えていて、その時の感覚を引き出す事はできますよ。
此処で学んだ事は決して無駄にはなりますまい』


「ありがとうございます!本当に心から感謝します。
…これで、俺はキイの…みんなの元に帰れる…」
アムイの心は、全てのものに対しての感謝の念で一杯だった。
『だとしたら早く此処を出よう、アムイ。そろそろこの場が崩れそうだ』
父アマトの心配そうな声が耳に飛び込んできて、アムイははっとした。
そうだ…。早くしないと…。
でも、どうやって此処から元の世界に帰れるんだ?
『そのために私がお前の傍にいるではないか』
アムイの心内を読み取ったのか、アマトが苦笑しながら言った。
「あ、そうか…」
天上にいるはずの父が、無理をしてまで自分のために下に降りてきている意味を、アムイは思い出した。
『そのためのガード(守護)であり、ガイド(案内)だ。さぁ、こちらへアムイ』
アムイは父の声を追って、その方向に歩き出した。
『待て』
突然、クシティガルバ天が二人を呼び止めた。
『どうかされましたか?』
アマトの問いに、クシティガルバ天はこう答えた。
『時間ながない事を承知で提案する。
暁の君に、大地の花弁…命の蜜腺の感覚をもう一度呼びさまさせたらどうかと思うのだが…』
『…そうですね…ちょっと時間が気になりますが、折角ここまで来ていますし…。
確かにここで感覚を思い出させた方が、人界に戻った時、自分軸が立ちやすくなると思います…。
…キイが…もう一人の息子が、この子の目覚めを長い間待ち焦がれていて…。
それを思うと私は…』
「父さん…」
アムイは父の口からキイの名を聞いて切なくなった。その言葉に深い愛情を感じ取ったからだ。
そして父の気持ちも知らず、彼をずっと非難していた事、心無い暴言を浴びせた事を心から恥じた。
…こんなに、父は自分達を愛しているではないか…。
ああ、どうかそれがキイにも届きますように。
強靭な精神力で、様々な地獄を這い上がってきたと思うキイ。
だが、そんな彼でも、父への確執が完全に消えていない事を、半身であるアムイにはわかり過ぎるほどわかっていた。
『承知しました。とにかく少しでもいい、その感覚を持って人界に戻らせましょう。
…ただ、それをすると戻るときに厄介な事が…』
アマトが言い淀んだ。
『うーん、確かに』
と、クシティガルバ天も歯切れが悪い。だが、意を決したようにきょとんとしているアムイにこう言った。
『暁の君よ、とにかくある場所に導くから、その鍵で目の前の扉を開け、中を覗きなさい。
それで充分、そなたは密腺を感じる事ができる。
だが、すぐに扉を閉め、【太陽の神子(みこ)】の誘導で此処を出られよ。
そなたが再び密腺の感覚を取り戻した瞬間、ここは騒然とするかもしれない。
………なぜならそなたはその密腺を“気”…金環と転じ取り込むことのできる唯一の肉を持って生まれた者。
そなたの魂そのものが、甘美で大愛な”気”を発する…。それがこの餓鬼地獄でどういう結果を生むのかは…』
『とにかく時間がありません、後は私が説明します』
アマトの急かすような言い方に、クシティガルバ天も慌てて同意した。
『では頼みます。私も早く戻らねばなりません。
…暁の君よ、そなたの今生での働き、この獄界において見させていただきましょう。
さぁ、お行きなさい』
その言葉と同時にクシティガルバ天の存在が消え、代わりに突然目の前に、大きな真珠色の扉が出現した。
『早く、アムイ』
急かされたアムイは、ごくりと喉を鳴らすと、恐る恐るその鍵を扉の取っ手の下にある窪みにはめ込んだ。
グ、グググ…。
鈍い音がして、目の前の扉がゆっくりと左右に開き、アムイはその隙間を覗き込んだ。
「!!!」
ぱあっとした光が目に飛び込んだと同時に、なんとも甘い香りがアムイを包んだ。
目を凝らしてよく見ると、中央に淡い黄色がかった柔らかな乳色(ちちいろ)の泉が存在していた。
その中心では、コポコポと泡を生じさせながら、何かが湧き上がっている。
『これこそ大地の命の源であり、大地の力(エネルギー)…すなわち、天の神気“光輪”が変化して地に収まった“気”、すなわち“金環”だ』
アムイは圧倒するその存在が、己の元に流れ込むのを感じていた。
己の中の、奥深くに存在する同種のものが、それを歓迎し、答え、歓喜するのを戸惑いながら感じていた。
その戸惑いはいつしか懐かしさに転じ、この源の力(エネルギー)が、すでに己の中で太古から息づいていたという事を思い出された。

ワレはこの源泉にあって、命を生み出し育む力よ。
だから何も恐れるな。案ずるな。
すでに存在するこの力、いつまでもワレが共にあることを…

どこからともなく、そのような内容の意識がアムイの頭に流れ込んできた。
それは多分、この大地の意思なのではないだろうか。
アムイの目から、熱い涙が零れ落ちた。

俺は…!
何故、この感覚を忘れていたのだろう?
俺は。
幾度となく繰り返された転生に、何を学んできたというのだろう?
何故に。
自分自身でこの感覚に蓋をし、長い間盲目となって殻に閉じ篭っていたのであろう…。

アムイの感情は高ぶり、懐かしい魂の故郷に帰依したような感覚が呼び起こされた。

それはある意味、【暁の明星】の覚醒でもあった。

『アムイ!!』
アマトの切羽詰った叫びに、アムイは我に返った。
ぐらり…。
突如としてその場の空間が歪み始める。
それはこの空間の共有崩壊を意味していた。
そう、時間が来てしまったのだ。不浄なる獄界から空間を繫ぎ、この神聖な宮の扉を開け、密腺を溢れさせる事、それはすなわち…。
『早く扉を閉じろ、アムイ。閉じれば勝手に施錠するから!
この甘い“気”は獄界には刺激が強すぎる!
それが時間を早めた。早く、アムイ!』
アマトの叫びにアムイは慌てて扉を閉め、その場を立ち去ろうと振り返った。
だが、すでに場の崩壊は進み、ガラガラと足元から空間が砕けていくのに成す術もなく、アムイはそのままその場から弾き飛ばされた。
「父さん!」
『しっかりしろ、アムイ!強く念じろ!出口に戻れ、と!』
父の助言に従い、アムイはそのように強く念じた。

バァァァーン!!

その途端、耳を劈(つんざ)くような爆音がしたかと思うと、アムイの意識は大きな衝撃に見舞われ、勢いよく引っ張られた。
「うぁああっ!!」
ぐるぐるっと、アムイはまた意識が回転し、物凄い力に引きずられて行った。
その間、うぉぉお、というような風の唸りか何者かの唸り声かが、アムイを追いかけるように迫ってきた。
『アムイ!此処を出るまで気をしっかりと持てよ!
お前の目覚めた密腺は、不浄なもの、亡者、地下と地上の全てのものを惹きつける!
特に己の事しか頭にない亡者や餓鬼は、お前の密腺伴う甘い光に救いを求めて蟻の様に群がってくるぞ!
人界の優しき者の情けにすがろうとする、浅ましき死霊のごとく…。
それは自己を決して省みない、己だけが救われたい、よくなりたい、という利己的な考えからたかってくるもの。
それらはその優しい情けを喰い潰そうとする、下賤な意識の集合。
気を許し、喰われるではないぞ!』
遠い所で、父の声がアムイの頭に響く。
『照らし出す、慈愛の光。闇夜を導く……の光。それがお前を…』
アマトの声がそこで途切れ、アムイは地に叩きつけられたような激しい衝撃に見舞われた。

「う…。く、くぅ…」
霊体であっても肉体と同じ激痛がアムイを襲った。
本当にどこかに落ちたようだった。
横たわる自分の体の痛みに、アムイは息が乱れ、目の前がちかちかしていた。
だが、父の言葉を思い出し、アムイはぶるっと頭を振ると、痛みを振り払うように無理矢理半身を起こした。
徐々に息も整い、痛みが引き始め、アムイは注意深く辺りを見渡した。

「此処は…どこだ…?」
そこは蒼く、寒々とした平原だった。所々に顔を出す岩は、全て氷でできている。
ふと横を向くと、今度は鬱蒼とした森林が目に入った。
かと思うと反対側はただ広い茶色の海だ。
後ろを振り向くと、遙か遠くに見覚えのある、不毛な、赤茶けた砂漠と氷が混在している冥界の地が、目に飛び込んできた。
…確かに此処は獄界の出口付近のようだ。だとすればこのまま、後方に向かえば、冥府へ出れる。
だが、それで冥界に行ったとして、冥府と人界の境は…何処に…??

『気を持て、アムイ。来るぞ!』
突然父の逼迫(ひっぱく)した声が頭に直接響いた。アムイは父の姿を捜すが何処にも見当たらない。
そう戸惑っている最中、ごぉぉ、と地鳴りがアムイめがけて突進してきた。
「なっ、何!?」
土煙を立て、恐ろしい音を轟かせながら、想像もできない数の様々な形態の亡者や餓鬼が、アムイの目前に迫ってきたのだ。
「う、ぉぉおおぉお…!!!」
前列に居た、武人の姿をしている骸骨が、大太刀を奮いながらアムイを襲った。
「やられるか!」
アムイは身を翻し、骸骨を蹴り上げ粉々にした。
『アムイ!気を抜くな!こやつらはすでにお前の匂いと光明に目が眩んでいる!
お前に取りすがって、甘い蜜を吸おうとやってくるぞ!』
父アマトの声だけが、アムイの意識に流れ込んでくる。
必死に抵抗しようとするアムイを捕らえようと、何百、何千という亡者が手を伸ばしてきた。
アムイは応戦しながらも、一向に途切れない亡者の執念にぞっとした。
『とにかく戦うよりも逃げろ、アムイ!私が方向を指し示す!
本体のない私は、直接お前の手助けができぬ。
とにかく死に物狂いで走れ!!』
アマトの叫びに、弾かれたようにアムイは走り出した。
ごぉぉ、ぐぅわぁぁ、と恐ろしい音と声が、アムイの耳元に突き刺さって来る。
『後ろを振り向くな、絶対振り向くな!こっちへ逃げ切れ!』
アムイは無我夢中で走り続けた。父の声が誘導する方向へ。
しばらくして、どこをどう走っているのか、アムイには全く検討も付かなくなっていた。
覚えのある冥界との境でない方向へと、進んでいるのには気がついていた。
もうすでにその場では、死霊と飢えた餓鬼が彼らを待ち構えていたからだ。
とにかくアムイは、アマトの存在をただひたすら追って走っていた。
ふと気がつくと、辺りは薄暗く、物寂しい景色が続いていた。
でもそれは不思議な事に、まるで闇に棲む獣が多数生息している、シャン山脈の森林に似ていた。
あまりにも人界の世界と違わない、ともすれば、気が付かないうちに地上に出てこれたのかと錯覚するような風景が広がっていた。
そのためか、走り疲れたアムイはつい、すでに人界…地上に戻れたように感じて、一瞬気を抜いてしまった。
「お帰り」
突如、アムイの耳元で女の声が囁いた。
「…えっ?」
あまりにも突然の事で、アムイはその声が自分の知っている人間のものかと、思わず確認するために後ろを振り向いてしまった。
『あっ…!この馬鹿っ!!』
父の警告も間に合わず、アムイは後ろを見てしまったのだ。

ぐぅぉぉぉぉぉーっ!!

その刹那、物凄い負のエネルギー体が、アムイを襲った。
アムイは声を出すのも許されず、数体の亡者に身体を拘束された。
(く、くそ!離せ!)
じたばたと、囚われた四肢を動かしたがびくともしない。
『アムイ!』
父アマトの声が遠くから聞こえる。どうやら自分は、この亡者らの霊体に取り込まれつつあるようだった。
「う、く…」(息が…!)
ぎゅうぎゅうと恐ろしいほどの締め付けが、アムイを翻弄させる。
その合間に、襲ってくる亡者達の怨念や、執念、そして身勝手な言葉がアムイの意識に侵入しつつあった。

≪早く、早く俺を連れて行け≫
≪私の事だけ助けて…!≫
≪ああ、うまそうな匂い、たまんねぇ≫
≪こんな奴より、俺を何とかしてくれよぉ≫
≪助けて!助けて!助けて!≫
≪此処にはいたくないよぅ、もうやだよぅ≫

(くそっ止めろ!あっちへ行ってくれ!!)
アムイは心の中で強く叫んだ。助けが欲しいのはこっちの方だ。
俺とした事が一生の不覚!
いくら今までの自分が、来る者を拒めない性格であったとしても、いい加減もう嫌だ。
アムイは悔しさの余り、心の中で思わず自分を罵倒した。
(ツメが甘いのは、全く直ってないのか、アムイ=メイよ!
これじゃキイに顔向けられない!いつまでたっても、未熟者って…!)
己の不甲斐なさに切れたアムイは、自分の力で数多の亡者を引き剥がそうと渾身の力を振り絞った。
怒りが亡者達の力を凌いだようだ。今まで動けなかった手足を駆使してアムイは大きく暴れ、数体投げ飛ばす。
が、自分に纏わり付く亡者に切りがなく、引き剥がしても投げ捨てようとも、一向に終わらない。
あわや、力が尽きそう…と、アムイが弱音を吐きそうになった時だった。

グァ!バキッ!!ダンッ!ドゴォォーン!!!

突如としてアムイの目の前で閃光が走り、それが巨大なうねりとなってアムイに纏わり付く亡者を蹴散らした。
『うぎゃぁぁーっ!』
『ひぃいーっ』
亡者達はアムイの目の前で、叫びながらどんどんその閃光になぎ倒されて行く。
一瞬、アムイは自分の身に何が起きたのかわからなかった。
その場で尻餅をつきながら、唖然とその様子を見ていると、閃光の奥で、人影が動いているのが見えた。
よく見れば、その閃光の元には白銀に光る太刀があり、誰かがそれを使って亡者たちを怒涛に切り倒しているようだった。
察するに、その人影が閃光を操り、襲われている自分を助けてくれたのだ。
でも、一体…誰が…?
ぼうっとしていたアムイは、一体の獣の姿をした亡者が、自分に襲い掛かってきた事に気がつかなかった。
「うあ!」
咄嗟に身構えるアムイに、亡者はその持っていた牙でアムイの喉元に喰らい付こうと巨大な口を開いた。

ガキッ!!

鈍い鋼の音と同時に、寸前の所でその亡者が勢いよく吹っ飛んだ。

「!!」
アムイは目を見開いた。
立ち昇る土煙の向こうで、太刀を構えた人影がぼんやりと目の前に立っている。
驚くアムイに、その人影は意気揚々と言葉を発した。

「あ~あ、やっぱりオレがいないと駄目だねぇ。これじゃあ、おちおち退いてなんていられないよ」

この屈託のない、明るくて物怖じのしない喋り方…。聞き覚えのある声。
まさか…。

目を凝らしていると、徐々に土煙が収まって、その人影がくっきりと姿を現し始めた。
あらわになったその顔を見て、アムイは息を呑んだ。
相手はこちらを見てニコニコと笑っている。
アムイの目が潤み始めた。
そう、どんなにかもう一度、その変わらない笑顔に会いたかったか…。

「ね!結構オレって使えるでしょ?あ・に・き」
いつもと同じ得意げな言い方に、アムイの口元が震え、その懐かしい名が唇から洩れた。

「サクヤ…!!」

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2011年8月24日 (水)

暁の明星 宵の流星 #155

《暁の明星》とは多方面の意で例えられる天体の神名(かみな)よ。

暁を司る女神の存在が大きければ、太陽の神を虜にし、彼女を追った日の光が下界に朝をもたらす意となる。
だが、
明星の名の存在が大きければ、また違う意となるのを、お前は知っておるか。

明星…お前の明星が何を指すのかはわからぬが、それが金星であった場合、先の意味が異なる。
明けの明星(金星)は太陽と月の次に下界において激しく輝ける星。
至高天に逆らい、地に落ち、魔界の帝王と復活した元天神を意味する事もある。
すなわち破壊神。

荒ぶる神の金星は、天空との決着が付いてからは、愛と美の女神が代わりに誕生し支配する事になったが、それでも美しさには変わりない。
いつの世にでも、明け方の明星の存在は暁闇(ぎょうあん)であって、夜明け前が一番暗く、それが破壊を表すのか、新生を表すのかは、天のみぞ知ることよ。
ただお前の明星が違う星であっても、その暁闇(夜明け前の一番暗くて薄明るい時)という意が変わる事は決してあるまい。

暁の女神も夜明けをもたらす重要なお方である。

すなわちお前は光と闇の境界にいる者。どちらに傾くかはお前の御心に掛かっているわけなのだ。

だからこそよく聞くのだ、《暁の明星》の名を持つものよ。
お前の異名は夜明けを告げるもの。
暗き中に一粒の光をもって、全てを闇から光へと導く魂(たま)であることよ。
または闇の中にあって一筋の光明を持って、真実を見抜き導く存在であるということよ。

それだけは思い出せ。
それだけは取り戻せ。

お前に眠る真実の力を目覚めさせてみよ!

光。
アムイの目の前が一瞬真っ白な光に支配された。

これはキイの“光輪”とは違う、乳白色の光、だ。

雷鳴を受けたごとく、魔王であるのか誰なのかよくわからない先の声が頭に反響し、アムイの全身がしびれた。
光と共に目の前が開かれ、迫る怪鳥の姿が弾け飛び、ある姿が浮かび上がった。
アムイは目を疑った。
今、見ているものは現実のものなのか?これは真実なのだろうか。
呆然とその姿から目が離せない。それと同時に、自分の理性とは別のところで、何かが懸命に何かを感じていた。
それは目の前にある存在の感情。心。想い。…そして言葉。
それらが自分の中を駆け巡り、それが全て真実であると告げていた。

驚きが確信に変わった時、涙が自分の頬を伝っていくのを、アムイは止める事ができないでいた。
「ああ、お前…。何ていうことだ…」
居た堪れなくなったのか、気が付くと泣きながら呟いていた。

「さあ、お前には今、何が見えている?」
あの恐ろしいと感じていた邪悪鬼魔王の低い濁声が、何故か優しげに聞こえてきて、アムイは我に返る。
何故、地獄の魔王が自分にこのような事を言うのか。先ほどまで怒りを自分に向けていたのではないのか…。
などという疑問すら、今のアムイにはどうでもよい事であった。
魔王の言葉に気付きながらも、アムイの心は目の前の存在に引き付けられていた。

今までの恐怖の表情から一変して、徐々に憐れむような顔で涙を流すアムイに、そして魔王のいつもと違う様子に、周囲の鬼達は皆、言葉なくその場を凝視していた。
彼らの目には、ただアムイを今にでも喰らい尽くそうと、雄叫びを上げている恐ろしげな地獄鳥の姿があるだけだ。
興味津々とその場を見るもの、不安げに見守っているもの様々であるが、共通してこれから起こるであろう状況に、いや、どのような結果が待ち受けているのか、鬼達の眼(まなこ)は期待で輝いていた。

「お前…」アムイはぼそりと地獄鳥に向かって言った。
鬼達はざわめいた。
何故ならアムイが何やら呟きながら、唐突に怒り狂っている地獄鳥に手を差し伸べたからだ。
「おい…自分から喰われる気か?」
「まさか…あの恐ろしい鳥に情けをかける気なのか?」
「何考えているんだあの男は…」
「情をかけても通じない鳥だぞ…おかしいんじゃないか?」
口々に囁きあう鬼達に、魔王が大きな咳払いをした。
「うるさい、黙れ」
魔王のその一言で、騒いでいた鬼達はしん、と静まり返った。
そのせいか、やけに妙な緊張した空気が流れる。

「ああ…何ということだ…お前は、どうしてそのような姿になったのだ」
アムイは恐れもなくそう言うと、差し伸べた手で地獄鳥の首を抱き寄せた。
鬼達が驚いて息を呑む音が場内に響く。だが次の瞬間、鬼達はまた違った驚きでざわめき出した。
「クゥ…クゥルル…」
何と甘い声で鳴きながら、あの地獄鳥がアムイの絡めてきた腕に口ばしを摺り寄せているではないか。
「鳥が…!」
「あの大魔王様以外に懐くとは…!」
「まさか、そんな只の亡者に…」
「あやつは何者なんだ」
今度は鬼達の騒ぎも、魔王は何も咎めなかった。
ただ、満足そうに頷くと、大声でもう一度アムイに問うた。

「さあ、【暁の明星】よ。お前の心の目に何が映る?何が見える。
はっきりと今、ここで答えてみよ!」

アムイは鳥の緋色の羽毛に頬を摺り寄せながら目を閉じ、涙声でこう答えた。
「邪悪鬼魔王よ。この鳥は何故にこの姿になってしまった?
この鳥は天界の尊き楽園に住まう、極楽鳥(ごくらくちょう)ではないか。
何故、このような姿で、このような心で、このような状況に堕ちているのだ。
何故、この鳥は心の奥底で悲しみに暮れながら、ここで怒り狂っているのだ?」
その言葉に、場内の鬼達はその場で硬直し、固唾を呑んだ。
「俺にはこの鳥が、慈悲深き天神仏(てんじんぶつ)の飼う癒しの鳥以外何者にも見えぬ。
何故だ?どうしてこのような餓鬼地獄に堕ち、このような浅ましい姿で、亡者を喰らい続け焼き続けているのだ。
その度にこの鳥の心は破壊され、もう本来の姿が自分でさえもわからなくなっているではないか!」
アムイの目に映ったもの。それはこの目の前の鳥の本来の姿であったのだ。
緋色と山吹色、そして新緑色の翼と、長い尾を持ち、冠のような大きな赤いトサカを悠然と立て、静かで優美な青い瞳で自分を見ている…。その麗しくも毅然とした姿に、アムイは心から感嘆していた。
これがこの地獄鳥の本来の姿というならば、何とむごいことであろう…。
「何故?か?お前はこの鳥の心の奥底、本来の姿を見極めたのではないのか?」
邪悪鬼魔王の探るような言葉に、アムイはしっかりと目を開けて、巨大な鳥の目を覗き込んだ。
「魔王様、これは…」
魔王の傍にいた側近の鬼が、身体を震わせながら話しかけた。
「ふふ。さすが大地を司る“気”を持って下界に降りた者よ。
“金環”は下界に生きる全ての獰猛な獣すら、その安定によって懐柔する魅惑の宝じゃ。
この獄界においても、立派に通じるとは…。ともすれば暗黒魔界の魔獣すらも骨抜きにするやもしれぬ」
まるで独り言のように言う魔王の言葉に、鬼の顔色が変わった。
「では…!この獄界に穴を開けたという異種の波動というのは…」
「しっ!」
魔王は何か思うような顔つきで側近の鬼を黙らせ、すぐさまアムイの動向に意識を戻した。
じっと見つめていたアムイの目が、驚愕の色に変わる。

そうか…!そうなのか…。
アムイの心に、鳥の全てが流れ込んできた。
この鳥の、極楽での幸せそうな姿から、主である天神との仲睦まじい様子など…。
そして…そして…。
アムイは感動で言葉に詰まった。だが、これは声に出して告げねばならぬ事だった。
何故なら、それは鳥を本来の心に戻し、己の使命を覚醒させるために必要であると、アムイ自身の魂の奥から涌き出た答えであったからだ。

アムイは意を決して邪悪鬼魔王の顔をひたと見つめた。
不思議な感覚がアムイを包む。
そう、このような気持ちになるのは、今が初めてではない。
このような感覚に支配されるのは、何度もあった事だ。
ああ、何故に俺はこの事を忘れていた?
それこそ鳥の本来の姿を見知ると共に、己本来の感覚を、アムイ自身が思い出し、取り戻した瞬間であった。
アムイは魔王を見据えながら、はっきりと朗々とした声で告げた。

「この鳥は、魂の救済のために極楽浄土にて自ら高い地位を退き、地の奥に向かわれた天神仏殿の愛鳥。
元は極楽鳥、名は友禅(ゆうぜん)。
このものは慕う天神仏殿の深い慈悲に感銘を受け、その方を追って獄界に自ら降りた。
このものの使命は穢れし亡者の浄罪。
あまりにもの多大な不浄を飲み込んだがために、己の存在を、使命を、志願を忘れ、己を失って怒りと悲嘆に暮れている」
そこで一息つくと、アムイは友禅に向き直った。
「だが、本当のお前の御心はそうではないであろう?
思い出すのだ、友禅。
涙を呑み、己を奮い、炎の地獄鳥と化して獄界に堕ちた亡者を浄化の炎で焼き戒め、亡者を喰いながらその亡者の魂の穢れを喰う事を、自ら願い、この身を捧げた覚悟を、思い出せ!
地獄鳥よ、それがお前の本来の姿だ!」

「見事じゃ!!」

アムイが言い切った瞬間、邪悪鬼魔王は膝を叩いてそう叫んだ。
その途端、今まで見えていた獄界がパーン!と弾け飛び、空間が歪み始めた。
驚いてその様子を眺めていたアムイに、周囲にいた鬼達が手を叩き、狂喜乱舞して誰もがアムイを讃え始めた。

「見事じゃ!」
「見事じゃ!」
「お見事じゃ!」
「素晴らしい!」
「見事なものよ、暁の君!」
「お見事である!」
「さすがじゃ!」

四方八方から歓喜の声が反響しては揺れ動く。
その歓喜の声が沸きあがるほど、先ほどまで自分の居た真っ赤な世界が、ガラス破片のようにバラバラと崩れ落ちていく。全て崩れ落ちた後には、薄明るい、静寂な藍色の世界が四方に広がっていた。
それは、ほの暗いのに全く邪気を感じさせない、安らぎさえ感じさせる静寂な世界だった。
…到底、地獄界とは思えない清純で厳かな空間である。

何事が起こったのかと目を丸くしているアムイに、魔王が嬉しそうにアムイを讃えた。
「よくぞ本来の姿を見破った!何と素晴らしい魂(たま)であろう!
それにしてもよくもまぁ、天も思い切った事をなさる。これほどの魂(たま)を…」

気が付くと、沢山いた鬼達がいつの間にか、藍色の水面に浮かぶ蓮華の花と化していた。
所々その空間に、小さな光が煌いている。
不思議だった。前にも来た事のあるような世界…。
アムイの心も同じくその静けさと同化していく。

「…ここは…?一体、何が起こったんだ?」
完全に大人しくなった地獄鳥に寄り添いながら、アムイは目の前の邪悪鬼魔王に問うた。
「お前が真実を見抜いたからじゃ、暁の君。
この世界は本来の場所、でもある。…だが、そんなに長くは維持はできないがね。
それよりも、よくぞ来た。ずっとお待ち申しておりましたぞ」
じっと魔王を見ていたアムイはハッとした。
「あ、あなたは…まさか…」
魔王は笑った。
「はは。見破られてしまったかね、わしも」
醜悪で恐ろしげな姿をしていても、アムイには見えてしまったのだ。
この獄界で3本の指に入るほど恐ろしい魔王の正体……本来の姿が。

「貴方は…。極楽浄土から獄界に降りたという天神仏殿…【大地の宮】…クシティガルバ…天…」

アムイがポツリと呟いたその途端、巨大な邪悪鬼魔王の身体の中心に光が走り、それが魔王の身体を真っ二つに割った。
驚愕して目が離せずにいたアムイは、その二つに分かれたその中心にそろそろと歩み寄った。
その分かれた中心をよく覗いてみて、アムイは再び驚いた。
アムイの目線の先、30センチほどの場所で、手のひらサイズの小さな天神仏らしき姿が浮いていて、じっとこちらを向いていたのだ。

『参りましたなぁ。我が異名を二つまで見破られてしまうとは。
さすがに私もお手上げです、アムイ=セドナダ』
その姿は清純として、凛として、全身が真珠色に輝いていた。
乳白の衣に身を包み、長いと思われる絹の髪を頭頂に丸く纏め上げ、その白くて穏やかな表情のお顔は、やや半眼で長い睫が陰影(いんえい)を作り、それがこの天神仏を両性に見せていた。ただ、朗々とした若い声は、少年のように聞こえた。
その立ち姿はほっそりとして雅にて、ある意味年齢不詳だ。大人と子供の中間のような姿。
確かにその清純な御姿は、幼い子供のようであり、また熟練した大人のようでもあった。
不思議な、としかいいようのないその存在…。
この御方が最高天の位を戴きながら、荒んだ魂の救済のために、自らを地に落として地獄を行脚している尊い存在であるのか。
実はこの時、アムイは聖天風来寺でこの天神仏を学んだ事を思い出していたのだ。

《“クシティガルバ天”は大地が命を無条件で包み育むと同様に、その大いなる慈悲でもってもがき苦しむ魂(たま)を自らの身を穢してまでも救おうとする、そのためならどんな不浄をも厭わぬ強靭なお方である。だからここでの教典は【大地の宮】と呼ばれる。(※クシティ=大地。ガルバ=子宮の意)
救済のためにその御姿を様々なものに変化させ、臨機応変に奈落を渡る。
いくつもの分魂で、姿を変えながら奈落を支えるその方の本当の姿は、まだ幼き子供の姿とも、妙齢な母神の姿ともいわれる…。個人的に思うにこの天神仏殿が、人に一番身近で、慈愛と強靭な御心を持つお方である》

当時の講師である僧侶の言葉が、自分の頭にはっきりと反芻された。この教えがアムイのひらめきと繋がって、名前を導き出せたのだ。
もちろんこの御方の異名は、世界各国に散らばって、この二つだけではない。
有名な天神仏には当たり前の事であった。
国も変われば、天神仏の名も変わる。
働きが変われば、もちろんそれに合わせて名も変化するのが常であった。

位が高くなればなるほど、働きが大きく多くなればなるほど、呼び名が増えていく。
それは人間界だけでなく、天界でも、獄界でも、はたまた暗黒界でも同様の事。

『暁の君よ、そなたの心の目を開かせたくて、乱暴な振る舞いをして申し訳なかった。
…頭のよいそなたの事だ、我が愛鳥、友禅がそなたの現実(いま)を写していたのはわかったであろう?』
そう言ってクシティガルバ天は微かに微笑んだ。
その微笑が不思議とキイと重なって、アムイの胸に温かいものが流れた。
「…ああ…、そうです…。友禅は俺と同じだ…」
胸が苦しくなって、また涙が出そうだった。
『どれほど自分が崇高な志を持って地に降りたのか、己の魂(たま)の輝きがどれだけのものかを、人間(ヒト)は忘れてしまうものだ。それは地上において、己の魂を磨き、学びを深め、進化するためでもある』
「そうです」
クシティガルバ天は頷くと、そのまま話を続けた。
『そしてたまに、天界からそのまま人間(ヒト)の世を憂い、手を貸そうとして自らの波動を下界に合わせ、地に生まれる天神もいる。…だが、波動を下げ、肉を持って生まれるという事が並大抵な事ではないと、肉体を持って初めて身に沁みる事になる。そしてその何とも言えぬ不自由さに、愕然とするのだ。そうして幾人もの天神が、粗暴な下界の波動に翻弄され、傷つき、志を忘れ、どれだけ闇に落ちて行ったことか…。私はこの獄界において、幾度もそれを見てきたのである』
クシティガルバ天の悲痛な波動が、直にアムイの心に触れた。
この御方は、こうして幾人もの地に堕ちた天神にも、救済の手を差し伸べてきたのであろうか…。
『想像を絶する肉界の苦行に、純真無垢な魂(たま)の中には、耐え切れないのものも多い。 
あまりにもの辛さに、目を閉ざし、心を殺し、いくら本人の魂の輝きを思い出そうとさせても無理なのものが多い。
それほどまでに、現状の人界の調和が狂っているのだ。波動が荒んでいるのだ。
お前も、今までそうであったろう?』
その通りだった。アムイは俯いて、目の前の天神仏に何も言えなかった。
『我が鳥もお前も、その現状の辛苦に翻弄され、本来の自分を見失っておった。
もちろん、そのようなものばかりではない。
お前の半身である宵の君のように、どれだけ荒波にもまれようとも、その強靭な御心で、幾度も闇から這い上がったものだっている。宵の君はお前の魂の片割れ。…ならばお前だって同じくできる筈。
闇を恐れず、本来の自分の御心を思いだすだけでよいのだ。
…そうであろう?太陽の神子(みこ)よ』
突然出てきたその名にアムイは思わず顔を上げた。
『その名で呼ばれるのは何故か慣れません』
「父さん!」
アムイは驚いた。いつの間にかクシティガルバ天の傍に、父アマトが立っていたのだ。
しかも半透明であるが、その懐かしい姿をアムイの前に晒してくれていた。
…ただ、やはり本体はかなり遙かにあるのであろう、最初の頃のように顔だけはぼんやりとしてよくわからない。
「父さん!一体何処へ行っていたんだ?それに光の玉でもないし…」
目を丸くしている息子の魂に、アマトは優しい声でこう語った。
『悪かった、アムイ。
この御方の本来の姿に会わせる為には、どうしてもお前を一人で行かせなければならなかった…。
お前一人の、お前自身の力で、この場を切り抜けるのが必要だったのだ。
お前には私が見えていなかっただろうが、私はずっと、お前を見守っていたのだよ。
ちゃんとガイド(案内)として、お前の傍にいた。…気付かなかっただろうがね』
「そう…だったのか…」
アムイは張り詰めていた気が緩んだのか、その場にへなへなと腰を下ろした。
そのアムイの目の位置を追って、クシティガルバはふわっと移動し、アマトもアムイの前に身を屈めた。
『手荒な真似をして申し訳なかった暁の君よ。
そなたが本当に天が定めし魂(たま)であるか私は知りたかったし、またこの獄界において、私の本来の姿をただで晒すわけにはいかなくてね。
……見た目やまやかしでなく、相手に正体を見破られない限り、真の姿を現すことはできない。
此処は現実に地獄界、奈落である。この不浄の場では無防備に本体を晒すと危険でもあるからだ。
今居るこの平穏な場も然り。我が本質を晒す為にだけ現れた、獄界の中の清浄な場。
……ここに居る間は安心して話ができる。ただし、そんなに長く維持はできないが…』
アムイは感慨深く溜息をついた。
「それじゃあ、俺は…」
アムイの言葉にクシティガルバ天は大きく頷き、満面の笑みを向けた。
『お見事であった、暁の君よ。本来のそのお力、目覚められて喜ばしい限りよ』
「本来、の、ちから…」
戸惑う自分に、父アマトがくすっと笑ったような気がした。
『おや、完璧に発揮しておいて、お前はまだ気付いていないのか?
あれだけ私がお前に諭していたというのに…』

≪お前の異名は夜明けを告げるもの。
暗き中に一粒の光をもって、全てを闇から光へと導く魂(たま)であることよ。
または闇の中にあって一筋の光明を持って、真実を見抜き導く存在であるということよ≫

「じゃあ、あれは父さんが!?」
雷鳴を受けたごとく頭に響いた、誰なのかよくわからない声。
アムイの頭にはっきりと、その時の声が語っていた内容が甦った。
あれは父が自分に語っていた言葉だったのか…。
『真実を…いや、真理を見抜く目を持っている…。それがお前の異名の意味のひとつだ』
初めて聞いた自分の異名の意味。
アムイの心に震えが湧き起ってきた。
『よく思い出した。これであと、お前が探し求めているものを手にすれば、本来の自分を取り戻す事ができる筈。
……本来の自分の役割も、使命をも』
「父さん…」
表情はわからなくとも、父が喜んでいる事はわかった。
二人の穏やかな波動を、近くにいたクシティガルバ天は、しばしその“気”を堪能していたが、小さく咳をすると再び口を開いた。
『さて。もう時間もあまりないから手短に言う。
暁よ、そなたが探しているもの…。
天から預かりし物であれば、お前が此処で願えば簡単に手に戻るであろうから心配なさるな。
ただし、時間がないのは肝に銘じよ』
厳かなその言葉に、アムイは力強く頷いた。
『もたついていたら、元の世界に戻れなくなるぞ。
そなたを待ち焦がれている人間がいるのを忘れてはならぬ。
そなたには、人界でやる事が山程ある筈だ』
「はい、肝に銘じます」
アムイの明瞭とした返事に、クシティガルバ天は満足げに頷くと、再び穏やかな表情をしてこう言った。
『では、最後に私からこれを差し上げよう』
「え…?」
クシティガルバ天は目を見開くアムイの目前に、一本の緋色の矢と、円球であるが頂点をつんと尖らせた珠を出現させた。
「これは…」
緋色の矢と珠がアムイの手に渡った。
『これは破魔矢。…全ての魔を打ち破り貫く魔除けの矢でもある。
そしてその珠は、現世での願いが叶うのを助ける宝珠である。ただし、真理正統に基づく願いに限られるが…』
見えない世界で貰った品は、現世に戻れば見えなくなるが、ちゃんと魂の中に保管してあるものだ。
アムイはそのいただいた宝を、大事に大事に胸に仕舞った。
『さぁ、これでそなたはこの私と繋がりを持てた事になる。
大地の花弁、神聖な宮を預かる鍵の持ち主よ。
【大地の宮】と呼ばれる私といつでも通じる事ができる。
何かあったら私に請いなさい。
これでそなたは地とも完全に繋がる事ができるであろう』
アムイははっとして目の前のクシティガルバ天を見やった。

「………完全に…俺が地と繋がる…」

アムイがそう呟いた途端、突然藍色の水面に浮かんだ蓮華の花が散った。
幾千とも幾万ともいえるほどの淡い薄桃色の花びらが舞い、アムイの視界を遮った。


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2011年8月21日 (日)

暁の明星 宵の流星 #154

何かを引き千切られたかのような激しい痛みがアムイを襲った。
痛みが酷すぎて声も出ず、自分はそのまま意識を手放したらしい。

「旦那」

遠い所からどこかで聞いたような声が、意識に響いた。
「旦那」
まるで自分を呼び戻そうとするその声が、段々近づいてくる。
「旦那、しっかりしておくれや」
気が付くと、身体を揺さぶられているような気がする。
そう…だ。
自分は確か、餓鬼地獄に落ちて、その獄の責任者である……魔王に…確か…。
「旦那ってば!!」
その声が耳元で強く響き、アムイははっとして目を覚ました。
「お、お前は…」
頭がガンガンして、尚且つ開けた目がちかちかする。
まだ微かに痛む頭頂を手で庇いながら、アムイはゆっくりと起き上がった。
視線を下に落とすと、見張り役として入り口にいた、先ほどの邪鬼が大きな目をしてこちらを見つめていた。
「俺は…」
「ああー、ホントに亡者の魂(たま)になっちまって…。
ガイド(案内役)の方はどうされたんすか?何でこんなことに…」
「亡者の魂って…!じゃあ俺は」
「邪悪鬼(じゃあっき)様の怒りに触れなさったね?あの方は中途半端がお嫌いな方でね。
まあ、それはいいとして、何をしたのかは知りませんが、ちょっとまずいことになってますだね」
「見張り役のお前が何でここに…?
という事は、俺は入り口に戻ってきてしまったのか…」
と、頭を抑えながら、きょろきょろと辺りを見回すアムイに、邪鬼が溜息混じりにこう言った。
「いんや。餓鬼地獄の上部、“待合の間”におるだね。
ここは魔王様に直に呼び出される極悪人が、一時閉じ込められる檻さ。
オラは旦那を案内した責で、ここに呼ばれたがや。
詳しいことを報告する義務があってね」
「…そうだったのか…。申し訳ない、お前に迷惑が掛かってしまったな…」
「オラのことはご心配無用ですよ、旦那。
意外と此処は、役回りの鬼には事務的な扱いをするでね。
問題なのは旦那の方ですよ。
これから魔王様の前に引っ立てられて、どのようなことをされられるか…」
ちょこんと正座して自分を見上げる餓鬼に、憐れむような表情が浮かんでいる。
「どのような…。地獄鳥の餌にでもされるのかな…」
「旦那は肉界(地上、人界のこと)に戻るお気持ちはあるのですかえ?」
アムイの呟きには答えず、いきなり餓鬼は問うた。
「もちろんだ。此処で目的を果たしたら、俺は必ず戻らなければ…」
と、アムイは言いかけて、今更に、自分の状態が本当にまずいのだという事に、はっきりと気が付いた。
「ならば尚更、オラの言う事を聞いておくれや。
旦那は肉界でつけられた名以外に名前をお持ちかい?」
「名前?それが何を…」
「この獄界の者達に、肉界で生まれたときにつけられた名を絶対に教えてはいけませんよ。
そうなれれば、魔王様に肉界での名を掴まされ、その名を与えられた元の世界には戻れなくなる。
…つまり、完全に死人になるっつー、しかも、最悪にもこの獄界から逃れなくなるね」
「そうなのか」
アムイは驚いて邪鬼の顔を覗き込んだ。
「はい。何せその世界で生まれた時につけられた名は、その魂(たま)の符号ですからに。
その名から魂の全てを引き出すこともできるし、その名が付いていた肉界での全てを読み取れますからね。
名って不思議なんすよ。
…一応、名がわからなくとも、魂(たましい)本体を読み取れることもできるんですがね。それをするには天界の情報書庫を開けなくちゃならんで意外とやっかいなんすよ、下々のもんには。でも、その時に付けられた名がわかれば、そこからその魂の情報を読み取る事ができるんで、素性を明かされてまずいお方は、必ずや本当の名(真名・まな)を名乗りませんね。相手に己を明かされてしまうんで。しかも最悪の場合、相手に支配される恐れもありますんでね。
まぁ、そういうこともあって名のない亡者は結構面倒らしいです」
確かに高位になればなるほど、呼び名が増えていく者がいる。そして滅多に本当の名を口に出さない。
口にするのは親、親戚か、家族。親しい友人くらいだろうか。
それはこのことから来ているのかもしれないな、と、アムイは率直にそう思った。
「なら、絶対に名前を教えなければいいんだな」
アムイの問いに邪鬼はウンウンと頷くと、こう聞いてきた。
「旦那は異名をお持ちかね?」
「異名?」
そういえば、付けられた名以外に名があるか、と聞かれていた事をアムイは思い出した。
「肉界でも、この世界でも、天でも。高位のものが与えたもう一つの名は、魂を牛耳られなく、かつそのものを表せるという便利なものだて。…ま、肉界ではあまり持っているものが少ないと思うんで、役職名でもあだ名でも何でもよいんだが…」
「異名は…持っている…」
ポツリと言うアムイに、餓鬼はぱっと明るい顔になった。
「なら、名を聞かれたらそれを言えばいいがや。
そうすればそれ以上本当の名を追求されずに済みますよ。 
それだけ高位のものが与えた名というのは、全世界に通用するありがたいものだね。
…ということは、やはり旦那は……」
「何だ?」
目を丸くするアムイに、餓鬼は言いかけて笑いながら首を振った。
「いや、何でもないすよ。ま、正規な異名をお持ちなら、大丈夫でしょ。
まかりなりにも地獄の魔王様には、その場でつけた場当たりな名は通用しませんですからね。
それが嘘か真かを見抜くお力は物凄いものだて。ま、それがお役目のひとつだから当たり前なんでしょうけど」
そこで餓鬼は屈強な茶色の鬼に呼ばれて、その場を去ることになった。
去り際に、餓鬼は小声でアムイに言った。
「いいですか。獄界でも時間は流れておりますに。2回目の夜になる前に、できれば此処を出て下せ…。
そうしなければ、旦那は肉界での死を迎えます。元に戻るのが厳しくなる。
オラもなるべく、穏便に済ませるよう、魔王様に取り計らってみるがね」
「すまないな…そこまでよくしてくれて…」
「いんや。旦那を此処に案内したオラの責任もあるがや。…じゃあ、頑張って」
餓鬼はそう言って片目を瞑ると、ひょこひょことその場を去って行った。

しばらくして、アムイは大柄な赤い鬼に連れられて、邪悪鬼魔王(じゃあっきまおう)の広間に通された。
そこはただ広いホールのような場所で、ドーム型の天井 には、まるで絵の具で塗りたくった様な天体の様子が描かれていた。よく見ると、そこから人の形をした亡者が、何人も縄で吊るされている。
そして、広間の奥には巨大な玉座にこれまた巨漢な体躯をした魔王が鎮座して、こちらをじっと睨みつけていた。
その魔王の周りには、赤や茶、緑などの様々な色の鬼達が控えていた。
まるで値踏みするような鬼達の視線。ここに入ってアムイは、一斉に彼らの注目を浴びた。 
気が付くと目の前だけでなく、後方にも鬼が多数、自分の様子を窺っていた。どうも野次馬らしい。
「どうだね、霊体だけとなった感想は」
邪悪鬼魔王の裂けた大きな口から、唸るような低い声が響いた。
「此処での声がよく聞こえるようになった」
アムイは抑揚のない声で答えた。
まっすぐに見据えるアムイに、邪悪鬼魔王は興味津々な眼差しを向けた。
「面白い男よの。このわしの前で顔色一つ変えぬ。
さて、どうしてくれようか。ここでの落とし前を」
「………それは知らなかった事といえ、本当に申し訳ないと思っている。
でも、俺にだって色々とあるんだ.、って言うか、俺の魂(たま)を肉から無理矢理引き千切るだけじゃなかったのか?
一応それでチャラになったのでは…」
「口答えとは生意気な。ここで扱いしやすくするために、お前を霊体にしたんだ。
文句言うな。
…まぁ、いい。お前、人界での名前は何という?」
そう言いながら邪悪鬼魔王は、目の前にある机の上に広げている大きな台帳に、朱色の羽がついたペン先を向けた。
「………暁…の明星」
アムイのぼそっとした返事に、周囲の鬼達はどよめき、目の前の魔王は片眉を上げた。
「それは異名じゃな。ふぅん、誰かに入れ知恵でもされおったか」
と、魔王はニヤリと口の端を上げた。誰かを思い出している様子だった。
多分先ほど報告にいった邪鬼の事を思い返していたのであろう。
しかし、思わぬところで、アムイの異名を聞いた鬼達のどよめきは一向に納まらなかった。かえって興奮して各々好き勝手に喚き、喧騒はまったく止みそうにも無い。
「おい、聞いたか!【暁の明星】だとよ!」
どうやらその理由は、アムイの異名にあるらしかった。
「【暁の明星】とな?何とまあ、どえらい名前の奴がきたもんじゃ」
「暁っていったら男を惑わす女神の名前じゃねぇか、男なのに女神の名がくっついているのかよ!」
「いやいや、肉界では男にも暁くらいつけてるようだぞ」
「だけど、絶世な美女の神だぜ、暁を司る女神はさー。まぁ、肉界で知ってる奴いるかはわからんが」
鬼達の半ばからかうような会話に、アムイはむっとしながら問うた。
「ここでは暁という女神が定番なのか?人界では暁とは、夜明け前という意味で扱っている言葉だが」
「だから夜明け前を担当する女神なんだよ、暁姫は。オイラは見たことないが、えらいベッピンさんらしいぜ。
何ていうか…男の欲望を目覚めさせるために生まれてきたようなお人らしい」
「ま、彼女がいないと、天空で朝の訪れが来ないとも言われているしなぁ。
天体でいう太陽の君も、姫にはぞっこんだからさー。だから彼女を追いかけて追いかけて肉界に朝をもたらすわけなのよ」
ニヤニヤしながら好き勝手に言っている鬼達を一瞥すると、アムイは正面にいる魔王に険しい顔を向けた。
「それが俺の異名と何の関係があるんだよ。いくらこの世界では女神の名前だからといって、人界では関係ない」
「まぁ、そうだ。だがなぁ、此処じゃ女っけが皆無なんでね、鬼達がざわめくのも無理はない。
特に暁姫は夜明けを担当するために妹姫の月の女神と共に夜に存在する。
闇に棲むこやつらがお目にかかれる可能性の強い女神の一人でね。
しかも若くて色気たっぷりな多情な女神とくれば、この界隈で人気なのは仕方あるまい。
その名前と同じ者…しかも男が来たんだ。興奮するのも無理なかろうよ」
邪悪鬼魔王は無表情に言うと、さらさらとペンを紙に走らせながら話を続けた。
「それにこれは異名であろう?人界での異名は高位の者…特に天体の名は、それに加え徳の高い者しか付けられぬ格別なもの。その者がこの事を知らずして付けるわけがない。異名とはあらゆる意味が込められて然るべきなのだ」
魔王の意味深な言い方に、アムイは益々眉根を寄せた。
そういえば、いつの間にか異名が付いていたな、と。今更ながらアムイは思い出した。
幼い自分を脅かしたあの日から、数ヶ月間は記憶が曖昧だった。
気がついたら聖天風来寺(しょうてんふうらいじ)で当たり前のようにこの名で呼ばれていた。

《ねえ、キイ?皆がおれのこと、暁って呼ぶんだけど…》
いささか不思議になって、門下生となったその夜、隣で寝ていたキイを起こして聞いてみた。
《異名を貰ったらしいよ》
事も無げに言うキイに、自分は益々不思議に思ったものだ。
《い…みょう?って、何…?》
《高位の者から授かりしもう一つの名さ!
お前は“暁の明星”。俺は“宵の流星”。
武人として武道を極め、名を馳せるには格好の名だろ!?
しばらく世間で使う時は、俺はこの名を使おうと思ってるんだ》
《…どうして…?》
自分の呟きに、キイはアハハ、と高笑いすると、自慢げにこう言ったのだった。
《だって、カッコイイから!》

今思えば、あんな事を言ってはいたが、多分あのキイの事だ。
自分達の素性を隠すために、少しでも異名で世に出たかったのかもしれない。
だがこんな所で、この異名がこのように役立つとは、あの時は微塵にも思ってもみなかったが…。
と、ぼんやりとそう思ったアムイに、魔王の声が耳に届いて我に返った。
 
「…しかも明星…とな…。ふぅーん」
「何だよ…」
アムイは思わずぼそっと口の中で呟いた。
まるで、その異名から自分の全てを読み取られているという不快さ。
今、それをひしひしと感じていた。
しばらくして、突然魔王のペン先が止まった。
「ほう、お前があの噂の魂(たま)であったか」
「………?」
勝手に一人で納得している魔王に、アムイは苛立ちを覚えた。
しかも、何故か天下の大魔王に対し、段々と恐怖心が薄れてきている自分にも驚いていた。
「おい、一体何の事を言っているんだ?」
言葉使いも乱暴になり、その都度魔王の側近と思われる鬼達に睨まれる。
だが、魔王はアムイの態度にはお構いもなく先を進めた。
「それでも罪は罪じゃな…さぁて、どうしてくれようかのぉ」
じぃぃ、と探るようにアムイを見ていた魔王は、ニヤ、とまた口の端で笑った。
「わしの鳥に一度喰われてみるかね?」
「…は?」
「この広い地獄界の中でも、最高の凶暴さと美しさを持っておる。
いつの間にか此処に住み着いた緋色の怪鳥でね。今はわしが飼っておる。
…こやつの真名はわからぬが、ここでは炎獄の地獄鳥(じごくちょう)と皆は呼んでるな」
と、魔王が言い終わらぬうちに、鬼が両脇からアムイの腕を拘束し、がっしりと逃げられないよう力を込めた。
(…やはり鳥に食わせる気かよ…)
はぁっと溜息をついて、アムイは首を振った。
「恐ろしいであろう?霊体とはいえ喰われている最中は、肉を引き千切られる感覚そのままだからなぁ。
耐え切れるかな?生きたまま喰われるというその恐怖と激痛の再現に」
「………」
言葉無く己を睨み続けている目の前の男に、魔王はニヤリとすると、顎で手下の鬼を促した。
「連れて行け」
その言葉に、両脇の鬼達は物凄い力でアムイを引っ張り立てた。
「随分と乱暴だな」
アムイは顔を歪めると、目の前の魔王に文句を言った。
「口の減らない男だ」
魔王が呆れたようにそう呟いた時だった。

グワァァァーン!!!

鈍い音と共に、ホール全体が大きく揺れた。
「なっ、何だ!?」
「まさか…」
周囲の鬼達も血相を変えてどよめいた。
天井がゆらゆらと揺れ、吊り下がっていた亡者が幾人か落ちてくるほどの衝撃だった。
「またか!」
思わず邪悪鬼魔王は叫んでいた。

ドゴォォォーン!

その衝撃はなかなか止まず、短い間隔を空けて、何度も恐ろしげな音と共にその場を揺さぶり続ける。
「た、大変ですっ!魔王様」
揺れに翻弄されながら、一匹の鬼が息を切らして駆け込んで来た。
「また暴れだしたのじゃな?」
「はいぃーっ!でも今回は全く他の者も手がつけられませんっ!
魔王様、どうかお助けください!」
よほど慌てていたのか、その鬼は勢い余って魔王の足元に頭から突っ込んで転がった。
「うむ。仕方のない」
邪悪鬼魔王はそう呟くと、うんしょ、と巨大な身体をその場から起こして立ち上がった。
その様子を呆然と眺めていたアムイを、魔王はじろりと見下ろすと、その大きな手でアムイの胴体を掴んだ。
「なっ!何する…」
「お前も一緒に来い、好都合だ」
「は?」
きょとんとしているアムイには目もくれず、魔王は重たい身体をどしどしと言わせて歩き始めた。
「おい!どこへ行くんだ?俺に何しようとするんだよ!」
アムイは魔王の手の中でもがいたが、全く微動だにしない。
みしみしと揺れる廊下を過ぎると、突然外に出たのかと思われるようなただっ広い空間になった。
そこは真っ赤な世界だ。
溶岩が吹き荒れるような殺伐とした不毛な場。
噴き上がる熱い蒸気。熱砂まみれでのたうち苦しむ亡者達。
折り重なるように高く積まれた霊魂の山。
…その彼らの上を踏み潰すかのように大暴れしている、緋色の巨大な怪鳥が目に飛び込んできた。
真っ赤な火の様な舌を鋭い口ばしから覗かせ、何ともいえない奇声を発している。
まるで人の赤子のような甲高い鳴き声。
全身は緋色の羽毛に覆われ、その羽を大きく広げ動かすたびに熱風が周囲を巻き込み、炎が立ち昇る。
その姿は一見すると、まるで伝説の東の鳳凰。いや、煉獄の炎を火龍と共に操る火の鳥である不死鳥に似ていた。
(※鳳凰は元は風の属性である東の守護神であるが、南の火の属性である朱雀と混同されて、火の鳥・不死鳥となって火龍と共に南の国の守護神ともなっている。なので、東では鳳凰は風の鳥、南になると火の鳥とされる。ただその姿は緋色の羽毛ということで共通されているが、鳳凰は雌雄があって、鳳が赤で凰が青色をしているされ、単性である不死鳥は赤い翼を持つとされる)
教典絵巻でしか知らないその姿を思い浮かべたアムイだが、やはり地獄にあって地獄鳥と云われるだけある不気味な姿に思わず目を背けた。
目は血走って黄色く不気味に光り、己の出す炎に焼かれたのか所々に剥げて黒くなった所があり、頭頂 には盛り上がった瘤があり、お世辞にもその姿は見られたものではなかった。
同じ火を扱う鳥とはいえ、絵巻に描かれている神鳥のような崇高な美しさが微塵にも感じられない。
ただ、その緋色の羽だけが、この地獄の中にあって、唯一讃えられるものかもしれない。
そう思い直して、アムイは恐る恐るその鳥をもう一度直視した。

ギャァァァーッ
ギィァァァ!

地獄鳥は興奮して鳴きながら、足元の亡者を踏み潰し、炎で焼いた。
その度に焼かれる亡者の阿鼻叫喚が周囲を揺るがす。
さながらに、これこそが地獄絵。アムイの喉が緊張のために上下に動いた。
その様子に気が付いてか、邪悪鬼魔王は面白そうな顔で、アムイを覗き込んでこう言った。
「たまにこの鳥はわしの思うようにならなんだ。
どうも発作的に苛付いて当り散らすようなのじゃな。原因はわからんが。
で、いつもは鬼どもや罪人を餌にして黙らせるんじゃが、丁度いい。
お前、こいつに何回か喰われてやってくれんか」
「な、何回か!?おい、さっきは一度って…」
「こうなったらわしでも手に負えんからなー。お前のような新鮮な亡者なら、鳥も満足しそうだ」
魔王の勝手な言い草に、アムイはカチンときた。
「このっ!離せ!!そんな簡単に喰われてたまるか!!」
自分の手の中で大暴れするアムイに、呆れたような溜息を付くと、いとも簡単にアムイを地獄鳥の前に放り投げた。
「うぁ!」
アムイは弧を描きながら、何と鳥の後ろ首辺りに落ちた。

キェェェー!

甲高い声を発すると、鳥は首を左右に動かしてアムイを足元に振り落とした。
「ぐ!」
アムイは咄嗟に身体を縮め、我が身を守るように転がった。
そのお陰で痛みは少なく、すぐに逃げ出せそうだ。
そう判断して、立ち上がろうと顔を上げた途端、目前に鳥の顔があってアムイは仰天した。
じっとこっちを窺うように、鳥は首をもたげ、自分の顔を覗き込むようにこちらを見ている。
アムイの背に、冷たいものが流れたような気がした。
(…ふっ。霊体だけとなってる筈なのに、身体の感覚は人界と変わらないんだな …)
自分を喰おうとしている鳥を目の前にして、いささかどうでもよい事を、アムイは頭の片隅でぼんやりと思っていた。
すると突然、細めていた鳥の両目がくわっと見開き、地獄鳥は細高い声でキェーと長くひと鳴きすると、がばっとその大きな口ばしを開いた。
「!!」
アムイの身体が硬直し、鳥の喉から針のように飛び出てくる赤い舌に、恐怖のあまり思わず目を瞑って顔を背けた。
そんな彼に、遙か遠くから、楽しんでいるような魔王の声が耳に轟いた。
ところが魔王は、アムイに蔑むような言葉を浴びせるわけでもなく、思いも寄らぬ問いかけをしてきたのだ。

「さあ、主(ぬし)がまことの【暁の明星】という名を授かりし者であるのならば、答えは簡単にわかる筈であろう?
…夜明け前の明るき星なら、その真実を見抜く目で、全ての理(ことわり)、全ての本来の姿が…」

何故か、その邪悪鬼魔王の言葉を聞いた途端、固まっていたアムイの指に力が甦った。

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「これは完全に仮死状態に陥っておるのう」
キイ達の知らせを受けて、ざっとアムイを診た昂老人(こうろうじん)は、深い息を漏らした。
「仮死状態…」
呟くキイに、昂は頷きながら説明した。
「うむ。大体、奈落に落ちると宣言しながらも、息があったというのがそもそも不思議じゃった。
普通は死後の世界、とりわけ地獄界に行くとなると、完全に一時、ここで肉体を捨てねばならないのだ。
つまり魂が身体から完全に抜けた状態になるという…な」
「じゃ、何で今までアムイは息があったんだ?」
昂はじっとキイの顔を眺めると、いきなりトン、と人差し指で彼の胸元を突付いた。
「もう一人のアムイは、お主のここにちゃんとおるかね?」
キイはハッとした。そうだ。
確かに今、自分の中でアムイの傷ついた子供の心を預かっている。
そうか…!だからこの子の魂が地上の自分の中にいるために、それが今生の繋がりとなっていたのだ。そのために、冥府へ行った筈のアムイの霊魂が完全に肉体から離れていなかった…。細い鎖で繋がれていたのはそういう事だったのか…。
「では、何故?何でいきなり息が止まった?」
そう、そのかろうじて繋がっていた鎖が突然切れたのだ。だからアムイは完全に息が止まった。
「憶測するに、唯一つ。
…わしも死後の世界には詳しくないからはっきりとはわからぬが、本当にアムイは地獄界に落ちたのであろうと。
多分何者かによって、霊線の絆を断ち切られたか…」
その言葉に、その場に居た誰もが恐ろしさに震えた。
「アムイ…」
「とにかくアムイの身体を冷やしておかないと駄目じゃ。
今は呼吸も止まり、脈もなく、身体も低体温。どう見ても死体と変わらんが…。
魂が戻れば蘇生する可能性あるわけじゃからな、それまで肉体の状態を維持しておかなければならん。
その反対に仮死状態といえど、このまま魂(たま)が戻らなければ肉体も完全に死を迎える。
そうすりゃお主の中にいる幼いアムイの心も本体を追って冥府へ行かざるを得ないであろう。
……長く持って1週間…。これから寒くなる時季で助かったわい」

こうしてキイ達i一行は、迎えに来たリシュオン達と共に、彼らが停船している小さな漁港を目指していた。
その漁港を少し行った所に小さな入り江があり、そこだと中型の船なら難なく目立たずに停船できた。
リシュオンは北の王の計らいで、この場所を提供してくれた事に感謝した。
北の王ミンガンは、自分達が今、大陸の運命を将来左右するであろう人物と関わっているという事に、薄々感じていたらしかった。しかし、彼は何も詮索せず、西の王子であるリシュオンを信頼してくれて思うようにしてくれた。
「とにかく、かえってアムイが仮死状態になったのは都合よかったかもしれませんよ」
リシュオンは、昂老人が加工した特殊な布(食べ物などを保存するために作った薬品を染み込ませたもの)にくるまれ、キイに背負われたアムイをちらっと見やった。
それに対し、昂老人も同意して頷いた。
「そうじゃの。…南軍の存在が消えたとはいえ、他に誰に狙われているかわからぬ。
特にアムイの“金環の気”。既存している高位の“気”である故に、微量に洩れても目立ちやすい。
封印されておらぬ今の状況では、ちょっとした事でアムイの存在に気が付かれてしまう筈じゃ。
…気術に精通しておる者、アムイの“気”を知る者、それに…邪眼を持つ…あの若者なら、いとも簡単に探られてしまう恐れがある」
邪眼を持つ若者とは、はっきり明言しなくとも、それがシヴァの息子、【姫胡蝶】カァラを指すのは、誰もがわかっていた。
確かにあの男ならば、アムイの微かな“気”を追って、自分達の居場所を嗅ぎ付けて来るだろう。
…キイは、アムイに並々ならぬ関心を抱いていたカァラに危機感を持っていた。
ティアンがいない今、一番の脅威は彼かもしれなかった。
(カァラ…か。つまりあいつの後ろにいる、荒波州…。これは一段と気を引き締めねぇと)
ずしりと重いアムイの身体を感じながら、キイはきつく唇を噛み締めた。
「さぁ、もう少しで今夜野宿できる場所に到達します。…キイ、大丈夫ですか?」
リシュオンの労(いた)わる様な言葉に、天下無敵の【宵の流星】は不敵に笑った。
「誰に向かって言ってるんだい?リシュオン。アムイの一人ぐらい、何ともねぇよ」
「そうですか…?なら、いいのですが…」
キイにそう言われても、確かに死人同様の、自分と同じくらいの体躯の人間を背負って山を下っているのだ。
彼への身体の負担は計り知れないものがあるだろう。リシュオンでなくても、誰もがそう思った。
それで何人かが交代を申し出たが、キイは頑としてアムイを他人の手に渡さなかった。
そんな彼を傍で見ていたイェンランの胸はざわめいた。
キイのアムイへの深い愛着を、その態度で生々しく感じ取ったからだ。

とにかく山の麓(ふもと)一歩手前、この森林の中で一行は夜を明かさなければならなかった。
漁港に行くまでは丸々二日以上はかかる。早馬で不眠不休で来ても、一日では足りない場所にあるのだ。
特に仮死状態の人間を連れての強行軍。慎重に進むしかなかったのである。
(アムイ…。早く俺の所に戻って来いよ)
キイは心の中で呟くと、薄暗くなっていく空をふと見上げ、そこに白くて丸い存在を確認すると小さく溜息をついた。
(今宵は珍しく、先月同様、満月が見事に姿を現しそうだ…)
月…。ネイチェルとサクヤが逝ってしまった時に、その妖しげな光を注いでいた闇を照らす存在…。

どうか月光の君よ。
闇を模索する魂に、慈愛と導きの光を与えたまえ。
そして月を支配する女神よ。
その光をもって今生の世界に辿る道筋を照らし出したまえ…。

真摯なキイの祈りが天に通じたのであろうか。その答えの代わりに一筋の小さな星が夕闇を流れた。
でもそれは、他の誰もが見落としてしまうほどの、本当に本当に小さな流星であった。


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思わぬ邪悪鬼魔王の言葉に、緊張で固まっていた関節が緩んでくるのを、アムイは不思議に感じていた。

「心の目でしかと見よ!お前が真に暁の申し子であるのなら、その目で真実を見抜ける筈なのだ」

何故、魔王はこれから喰われようとする自分に、このような事を突然言い出したのか…。
霊魂である筈のアムイの心臓が熱く高鳴り、魔王の言葉を受けて、同時に強く瞑っていた目を恐々と開き、鳥の正面を見据える。
何かが…。忘れていた何かを思い起こそうとするかのように、アムイは目を細めた。

「さあ、暁よ。お前の心の目に何が映る?何が見える」

せかすような魔王の声に、アムイは口元を震わせた。
「何が…?何が…って………!」
目の前では気が狂ったように威嚇する怪鳥の恐ろしげな顔が迫ってきていた。

その瞬間だった。
まるで突然落雷を受けたような衝撃をアムイは全身に受けた。
いきなり、目の前が大きく開けたような感覚がアムイを襲ったのだ。

「ああ、お前…」

突然、鳥の顔を見つめていたアムイの目から涙が零れた。

「何ていうことだ…」


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