暁の明星 宵の流星 #159 その①
もうすぐ冬が来るのだろう、意外に空気が冷たいのに、思わずぶるっと身体を震わせる。
月の光に誘われたアムイは、ひんやりとした外気に身を晒していた。
その肌を刺激する感覚。
今いる世界が実体を伴っているのだという事を、自分は感じたかったのかもしれない。
踏み締める草の音が、心地よく自分の肉体に響き、徐々にそれが自分の五感を研ぎ澄まそうとしてるようだ。
己を包むこの月の光のお陰か、やっと、物質の世界のものであると肉体が思い出してきた。
それでも、前とはどこかしら感覚が違うのを、アムイは気がついていた。
まるで生まれ変わったかのよう…。
肉体の感覚は鋭くなっていくが、内面はまだ夢を見ているような心地が続いていた。
目覚めたばかりのアムイには、先ほどまであの世で体験した事が、まだ生々しく残っているのだ。
あの世の者が言っていた通り、現実の世界に戻っていけば、いつかはあの世での記憶も感覚も薄れていくのだろうが…。
「ああ、戻ってきたんだ…」
声に出して言ってみる。声帯を通して、じんじんとした響きが全身を駆け巡る。
ふつふつと沸き起こる力。
これが本来自分の持っている力である事実を、アムイは月の光の中で噛み締めていた。
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月の光の中で佇む男の影。
闇夜を馬で走るカァラの邪眼が突然反応した。
その鮮烈なイメージは、カァラの確信を益々大きくさせた。
「見えた!」
興奮してカァラは叫ぶ。
自分はまだ【暁の明星】に直接会った事はないが、自分の父の記憶を覗いていた彼には、それが目当ての人間だとすぐにわかった。
やはり自分の予感は確かだった。思いのままに馬を走らせて正解だった。
カァラが向かっていた方向…それはキイ達が中間地点と選んだ野宿をしている場所…小さな洞穴がいくつもある森林だった。
カァラの感覚では、目当ての人物は今、無防備な状態で外にいるのに間違いなかった。
今まで彼の気配が全く感じられていなかったのに、突如としたこの圧倒される彼の“気”の感覚に、カァラは己の心臓が破けてしまうかと思うほどの衝撃を受けたのだ。
(これが…暁…)
カァラの期待は膨らんだ。
本当の事を言えば、自分はずっと宵の君にこだわっていた。
何故なら彼の代わりに自分が生ませられたといっても過言ではなかったから…。
初めて対峙した彼は、カァラの思ったとおりの清廉な魂(たま)で、見るからに天からの化身そのものだった。
だが結局その魂(たま)を、己の魅力で闇に引きずり込めなかった事に、自分は少々腹を立てていた。
本当ならば、宵の君は自分のような立場になっていた筈だったのに…。
そうすれば自分は生まれなくてよかったのに…。
カァラの気持ちはそこでいつも燻(くすぶ)り続ける。
だからキイを挑発するために、わざと彼の大事にしている相方の名前を出して煽ったのだ。
カァラにとって宵の相方である暁の存在は、あまり大したものではなかった。
だが、あの非道な父親を壊し、尚且つ虜にしている事で、カァラは改めて彼に興味を持った。
確かに邪眼では、宵と暁の関係を大体見ていたつもりだったが、宵の君に囚われていた彼にとって、それはただの二人の情報に過ぎなかった。そこに隠されている真実など、カァラにはどうでもよい事で…。
でも、暁に興味がある、と言ったときの、あの宵の君の動揺。
これが益々カァラの好奇心に火をつけたのだ。
もし…もしこの俺が、宵の大事な暁を自分の虜にしたのなら…。
そう思うと、わくわくして胸が躍る。
自分が繋がろうとしているこの二人を引き離すのも愉快だろう。
でも、それが自分の嫌いなあのティアンを喜ばすような事になるというのは、いささか面白くないけれど。
いきなり馬の足を速めたカァラに、こっそりと後を追っているリンガ王女一行も、只ならぬものを感じていた。
(もしやアムイを見つけたのでは?)
そう思うとリンガの心は焦燥で焼け付くようだ。
(姫胡蝶、貴方の考えはわかっているわ!
アムイに手を出していいのは、このわたくしだけよ!
絶対、阻止してやるんだから!)
リンガはそう息巻いた。
その気迫は、彼女の背中を追いかける二人の従者にもひしひしと感じられた。
(ああ…完全に頭に血が昇ってらっしゃる…)
王女の幼き頃からの護衛であるモンゴネウラは、困ったように舌打ちした。
こうなると彼女は誰にも止められない。この自分でさえも…。
男に対していつも余裕である我が王女は、一体何処にいってしまったのか…。
その彼女をここまで盲目にさせる【暁の明星】を、モンゴネウラは心底脅威に感じた。
この男の存在が、将来王女にとって禍因(かいん…わざわいの起こるもと)となるのではないか。
モンゴネウラはふと、そのような嫌な予感に襲われて、冷や汗をかいた。
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【暁の明星】と思われるその“気”の存在が、段々とカァラに近づいてくる。
煌々とした満月。
その月の光のせいで、周りの星はかすんで見え 、心なしかつまらなそうにしている。
勢いよく馬を走らせていたカァラは、ある場所に差し掛かると突如として馬を止め、勢いよく降り立った。
「姫胡蝶様」
追ってきた彼の護衛も慌てて馬から飛び降りる。
「しっ!」
カァラは護衛を制すると、素早く小さな声で命令した。
「ここから先は俺ひとりで行く。お前は馬を見ていてくれ」
「し、しかし」
「大丈夫。何かあったらいけないから、ここで待機していてくれ」
有無を言わせないカァラに、護衛も黙って従うしかなかった。
カァラは逸る胸を抑えつつ、草木を掻き分け、目当ての人物の元へと急いだ。
カサリ…。
少し奥まった茂みから出た瞬間、カァラは息を呑んだ。
(いた…!)
茂みを抜けた先は、小高いなだらかな丘が続き、柔らかな草がまるで絨毯のように敷き詰められていた。
目の前に開けた景色は、そこだけ何者かが集まるような広場のようで、鬱蒼とした森林がその場を囲うようにぐるりと存在していた。小さいけれど、空を見るには絶好な場所だ。
事実、前方で浮かんでいるまぁるい大きな月は、何の障害物もなく、その美しい姿を煌々と晒している。
珍しくカァラはワクワクしていた。
何か宝物でも見つけたような、そんな高揚感が彼を支配していた。
その原因である人物が、月を背にし、片膝を立てた格好で腰を下ろし、じっと目を瞑って月の光を堪能していた。
初めて見るその男が、目当ての人物だとカァラは確信した。
自分が思っていたより、意外と男らしい容姿をしている。
宵の君とは全く違う、でもどこか似ている所がある、普通に見ても、精悍で綺麗な顔立ちの、とても魅力的な男だ。
黒い髪は襟足まで長く伸び、それがさらさらと風に揺れている。
カァラはゆっくりと彼に近づくと、そっと両膝を付いて相手に顔を近づけた。
「【暁の明星】?」
耳元で、囁くように呼んでみる。
ピクリ、と彼の瞼が微かに動いた。
まだ夢うつつだったアムイの耳に、艶やかな吐息と共に自分の名が聞こえてきた。
うっすらと目を開けると、そこに少女のような可憐な顔が、こちらを興味津々と覗き込んでいるのが目に映った。
「お前は?」
アムイは思わずそう尋ねていた。
なんて吸い込まれそうな黒い瞳…!
カァラは息を吸い込んだ。どうしてだが胸の動機が激しくなった。
だがその反面、カァラの邪眼はしっかりと目の前の男を観察していた。
その眼に映るもの……怒涛の情報が互いを飛び交い、互いを探る沈黙の時間が過ぎていく。
しばし、言葉なく互いに見詰め合った後、最初に口を開いたのはカァラだった。
「…あんた…、かなり業の深い魂(たま)をしているね…」
それは率直な感想だった。
何だ?
宵の君と元は同じ魂(たま)の筈なのに、まったく違う…。
宵の君…キイの魂(たま)は天上の香りがし、ある意味まっさらな純度の高い印象があった。
だけど、この男の魂はその真逆。……あらゆる艱難辛苦(かんなんしんく)を受けてきた印象だ。
まるで地に沈み込みそうな、重くて、でもそれが魔のものとは違う、鍛錬され熟成した重みがある。
これだけの業…。一度や二度の転生ではこうはいかないであろう。
まるで…。そう、これはまるで…。
「…まるで、大地の引力に囚われて、転生を繰り返してきたみたいな…」
カァラの独り言のような言葉に、アムイはふっと笑った。
その笑みが、何故かカァラの心をざわつかせる。
「だけど、それがもう今生では究極となって……清算されるための…最終段階…。
ああ、そうか…」
カァラはごくり、と喉を鳴らした。
「だから天と地に分かれたんだ…。究極に…引き合い支えあうために…」
「お前はシヴァの息子か?」
突然そう言われて、カァラは言葉に詰まった。
「キイから少しお前の事を聞いていた。それに…シヴァと似た波動を感じる…。だからわかった」
淡々とした語り口調に、カァラはいつもの調子が出ない自分に焦りを感じた。
「そう。あの時はあんたに会えなくて残念だったな。…ずっと部屋に引き篭もっていて姿を見なかったし、会いたくて仕方なかったよ…」
カァラはなるべく色っぽくなるように、声色を甘ったるく変えてアムイの耳元で囁いた。
「何が目的?」
なのに全く動揺した素振りの無い声。カァラはむっとした。
自分の色香に惑わされない男がいるなんて信じられない…。
いや、いたっけ一人。
この自分をひと目で男と見抜いた…あいつと。
プライドが許さないカァラは、気を取り直すと、まるで誘惑するように艶かしく指をアムイの頬に滑らした。
「目的?もちろんあんた…暁殿(あかつきどの)に決まっているじゃないか。暁殿…というよりも暁の君(あかつきのきみ)だよね?あんたも立派な王子様だっけ」
「それが?」
「……俺、宵の君に振られてしまったんだよ。
弟のあんたが慰めてくれる?」
「………」
じっと自分を見つめる目に、何だか落ち着かない。だが、そんな事にひるむような自分ではない。
カァラはぐいっとアムイの身体に跨る様にして、大胆にも身体を密着させ、顔を近づけた。
「……あんたは…誰かさんみたいに男が絶対に駄目、ではないでしょ?」
アムイは身じろぎもしないで、カァラの身体を受け止めている。
「女みたいな男なら…大丈夫そうだよ」
この俺みたいなねと、カァラはクスリと笑うと、大胆にもはっきりと言った。
「…ねぇ、俺を抱いてみない?…これだけ業の深い魂だもの。
あんたには大した事ない経験だろ?…一緒に…闇に堕ちようよ、俺と」
魔性の囁き…。カァラは今まで何人の男をこうして己の魔性に引きずり込んだのだろう。
甘美な地獄に甘んじて落ちていく男達。
カァラは何人もそうして数多の男を毒牙にかけてきたのだ。
いつだって、自分にかかればどんな男でも自分に支配される。
それに気が付いたのは、一人でティアンの研究所を飛び出した10歳の時から、2年経ってからだった。
もう、何もかもが嫌だった。
研究の対象として大人達におもちゃにされるのも、ティアンの性癖につき合わされるのも、…そしてたまにやってくる実の父親の、子供を子供と思っていない仕打ちも。
路頭に迷っていた自分を最初に拾ってくれたのは、羽振りのいい商人の中年の男だった。
最初は善意で自分を助けてくれたものだと思っていた。
その男にくっついて各国を回って2年目の夏、その男に無理矢理慰み者にされたのだ。
その様な行為は、途中までなら何度となく研究所で繰り返されていたから、カァラには何の気持ちも湧かなかった。が、その時に男は所詮考えている事は皆同じなどと、まるで女のように思ったのは覚えている。
だが、ここで自分を抱いた男の変化を目の当たりにし、カァラは自分の肉体が武器になる事を知った。
必ず自分を抱いた男は自分に心酔し、溺れ、意のままになっていく。
それがカァラは面白くて仕方がなかった。
結局、その自分の魅力に気付いたカァラは、幾人もの男達の間を渡り歩き、彼らを争わせながら、相手の格をグレードアップしていったのだ。
眩いばかりの美貌と若さの17歳の時、小国の王が自分を見初め、女のように着飾らせ【姫胡蝶】などと異名まで付けて、溺愛してくれた。カァラにとって、初めての居心地のよさを感じていた場所だった。…でも結局、その国を滅ぼしてしまった。
男達が自分を取り合い、自滅した。
そして転々と男達の間を渡り歩き……。今は東の荒波州の提督に囲われている身だ。
カァラはわざと挑発するように、アムイの頬をぺろっと舐めた。
「俺ならあんたに最高の快楽を与え、嫌な事を全て忘れさせてやれるよ。
どう?堕ちてみない?」
カァラをじっと見つめていたアムイは、重い口を開くと、思ってもみない言葉を発した。
「………そこまで言うのなら好きにすればいい。
…俺は逃げも拒絶もしない、お前の気の済むまで…黙って受けてやるから」
その真意の読めない言葉と表情にカァラは苛立ちを覚えた。
「わかった…!じゃあ好きにさせてもらうよ」
そう答えて、カァラは自分の柔らかな赤い唇を、アムイの唇に重ね合わせた。
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《好きにすればいい…》
思わぬアムイのその言葉を耳にした二人は、ぎょっとしてその場に立ち竦んだ。
森林の端、ある大きな木の陰で、キイとイェンランは声も出ず、月明かりに照らされた妖艶な雰囲気な二人の様子を凝視していた。
アムイの一見投げやりとも思えるその科白にキイは耳を疑い、その場を動けなかった。
「キ、キイ…?」
後ろにいたイェンランが、おずおずと彼を見上げながら小声で呟く。
そんな彼女に、キイは無言で静かにするように手で制した。
いつものキイならば、アムイに魔の手が迫っていれば、血相を変えて阻止する所である。
だが、何故かその時のキイは、自分がその現場に乗り込んではいけないような、そのような感覚がふつふつと湧いてきて、自らの足を硬直させた。
それは次の瞬間に起きた、二人の濃厚なキスシーンを目の当たりにした事も関係があるかもしれなかった。
(嘘…!アムイ!?)
イェンランも息を詰めて、二人の行為を信じられない思いで見つめていた。
張り詰めた、他者を寄せ付けない二人だけの世界がそこにあったのである。
艶かしい吐息の合間に、悩ましげなカァラのささやきが月夜に響く。
「宵の君と、俺…。光と闇の、どちらを選ぶ?
…完全に今生、肉体的に結ばれない相手と、あんたに最高の快楽を与えられるこの俺と。
ねぇ、答えてよ、暁の君……、俺のアムイ…」
その言葉に、キイが勢いよく息を吸い上げたのに、イェンランはどきっとした。
彼の拳が、白くなるほどきつく握られ、微かに震えている。
(キイ…)
いけないと思いつつ、イェンランはそろりとキイの顔を見上げて息を呑んだ。
そこには、死にそうな思いでじっと何かに耐えている、悲痛な面持ちの白い顔があった。
こめかみからは汗が浮き出て、目は眼光鋭く前方を睨み、きつく結ばれた口元が微かに震え、何かの衝動を懸命に押さえ込んでいるその姿…。
今まで彼女が見たこともない、知らない顔の男がそこにいた。
まるで見てはいけないものを見てしまったかのように、イェンランはすぐにキイから視線をはずした。
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