« 暁の明星 宵の流星 #159 その① | トップページ | 暁の明星 宵の流星 #160 その① »

2011年9月15日 (木)

暁の明星 宵の流星 #159 その②

キイが微かな異変に気が付いたのは、今まで胸に預かっていた小さな光の存在が消えてしばらくしてからだ。
思いがけずに自分はぐっすりと眠り込んでいたようだ。
全く自分らしくない。
月の光に癒されて、ふらりと散策していた森の中の大きな木の下に座ったのは覚えている。
そこから記憶が飛んでいるのだから、よほど疲れていたんだろう。
自分の胸から、大切な人間の一部がどこかに行ってしまった感覚に、キイは気が付き目を開けた。
どこに行った…?
キイはおもむろに身体を起こし、前にかかった長い髪を手ではらい、溜息をついた。
予感はしていた。
自分の片割れの存在がどんどん大きく感じていたからだ。
アムイはこの世界に戻ってきたのかもしれない…。
だとしたら、自分は確かめなければならないだろう。

地に囚われている愛する魂よ、お前は本来の自分を取り戻す事ができたのか?
この自分の手の中に戻ってきてくれたのか?

キイが小さな決意をし、その場からゆっくりと立ち上がった時だった。
「アムイ!」
自分の左側から、少女の声がする。
「アムイ!どこ?アムイ!」
「お嬢ちゃん?」
どんどん近づく声に驚きながら、キイは小さく叫んだ。
その声にイェンランも気がついたらしい、ガサガサ音を立てて、彼女の小さな黒い頭が草の合間からひょこっと現れた。
「キイ?」
少し遠慮がちで、かなり動揺しているというような声。
キイは保護欲を掻き立てられて、彼女を安心させるような優しい笑みを浮かべた。
「どうかしたか、お嬢ちゃん。…アムイに何かあったのか?」
いつもと変わらぬキイの優しい声に、イェンランは心底ほっとした。
有難さを感じつつ、彼女はキイに慌ててこう言った。
「ア、アムイがいないの!」
「いない?」
「ええ。ついうっかり私、寝ちゃって…。気がついたら姿がなかったの。
どうしよう、キイ。誰かにさらわれたって事、ないよね?」
彼女の震える指を、キイは無意識のうちに自分の片手で覆った。
ドキン、とイェンランの胸は高鳴る。
「…落ち着きな、お嬢ちゃん。
俺の感覚だと、どうやらあいつ、この世界に戻ってきたようだ」
「や、やっぱりそう?私もそんな気がして…」
「だから外に捜しに来たんだね」
彼女が慌てて頷くのを、キイは目を細めて見やると、優しく提案した。
「多分…そんな遠くには行ってはいないと思う。…ずっと肉体を使ってなかったんだからね。
一緒に捜してくれるかい?」

こうして快く同意してくれた彼女と、アムイを捜しに来たらこのざまだ。

目の前で絶世な美人と絡み合っている自分の片割れを見て、キイは憤りを抑えるのにかなり苦労していた。
月を背景にし、半身起こしているアムイに上から圧し掛かり、今にでも押し倒さんとするのは、紛れもなく…
「カ、カーラ…」
イェンランが目を見開いて口の中で呟いた通りだ。

畜生。
あいつ、言っていた事を実行しやがった。

普段の自分なら、見つけた次第、相手を引き剥がそうと躍起になる所だ。
だが、そうしてはならない、今の状況を崩してはならない、というような“気”が、まるで結界のようにその二人の間に張り巡らされていて、キイは一歩も動けなかった。
二人の世界を誰も壊すな、というような張り詰めた空気…。

面白くねぇ。
だが、ここで手を出しちゃいかん…。

噴き上がる激しい感情を懸命に堪える必要が、今のキイにはあった。
それは、自分の相方を信じきるという…、大事な最終段階でもあったのだ。

そしてキイは決意していた。
これからどんな行為を目にしようと、最期まで目を逸らさない、という事を。

...................................................................................................................................................................................

ちゅっと軽く音を立てながら、カァラはアムイの唇を吸った。
甘い芳香がカァラの五感を刺激し、口づけを深くするに従って、自分にしては珍しくその行為に溺れそうになる。

違う…。

カァラの頭の片隅で、警鐘が鳴った。
確かに【暁の明星】の唇は魅惑的だった。己の父親が夢中になったのも無理はない、と思ったくらい。
でも、違う…。
その思いが口づけるたびにカァラを支配していく。
自分の技巧を駆使して、男を昂ぶらせる事など、いとも簡単な筈だった。
だが、両手で相手にあらゆる愛撫を施しても、肝心の相手の反応がない。
妖艶な仕草とは裏腹に、カァラの内心はかなり焦燥に駆られていた。
ここまでして全く反応がない事に、カァラはプライドをいたく傷つけられ、とうとう痺れを切らした。
カァラは唇を離すと、勢いよくアムイを押し倒し、激しく言い放った。
「おい!あんた不能か?」
噛み付くようにそう怒鳴って、カァラはアムイの顔に自分の顔を近づけた。
アムイは困ったような顔をして、カァラを見つめた。
その目に宿る慈愛の色に、カァラは完全に頭に血が昇った。
「何だよ!そんな憐れんだような目で俺を見て…」
「憐れんでいる…?」
「見るな、見るなよっ!そんな目で…」
カァラはアムイの首に顔を埋めて揺さぶった。
「落ち着けよ」
アムイの声は至って冷静だった。それが尚更、カァラを落ち着かせなくする。

マズイ…。

カァラはごくっと唾を飲み込んだ。
許せない。俺を支配しようとするなんて、許せない。
そんな思いがふつふつと沸き起こり、ふっと息を吐くと、きゅっとくちびるを噛み締め、再びアムイの顔を見る。
(……あんたの心を見てやる…)
どうしてそう思ったのか、アムイの深く引き込まれそうな瞳を見て、カァラはそう決意した。
反抗する感情と、手を伸ばしたいという誘惑。
初めて自分に起こっている激しい感情の渦に、カァラは翻弄され始めていた。
キッと彼はアムイの目を見据えると、ふたたびアムイの唇に自分の唇を寄せた。
繋がる部分から、相手の“気”が流れ込んでくる感覚に、カァラは喉を鳴らした。

これが、俺の親父を夢中にさせた…暁の“気”…。

それは普通に“金環の気”だ、と言われてしまえばそうだった。
だが、それがアムイ自身から発せられるものは、想像もつかなかったほどの芳醇な香りだった。
この人間だからこそ。
そのような言葉がカァラの頭にこだました。

この男は普通じゃない…。

そう思ったのは、カァラが深く、アムイの深層に潜り込もうとした時だった。

ミルク色の、なんとも言えない甘美な泉。魅惑の果実。
そして、誰もが焦がれ、その甘い世界に浸りたくなる…帰りたくなる…至福の宮。
男であり、女であり、父であり、母である。
それは魂が知っていた。
分け隔てのない、至上至極の愛の泉。

カァラは無意識のうちに、その甘美なものを味わおうと、どんどんアムイの奥へとのめり込んでいく。

魂は知っていても、今生での自分が味わう事のなかった…自分にとって…禁断の…。

突然カァラの脳裏に、女の冷たい手の感触が甦ってきた。

(そうだよ…こんな甘くて、あったかいものに触れられた事なんて…生まれてから一度もなかった…)
漠然とそう思いながら、カァラは今触れている男の温もりに安らぎさえ覚え、貪欲に貪りたくて両手で相手の身体をまさぐった。
(気持ちいい…)
それは肉体を突き抜ける快感とはまた違う、精神的な悦楽と言ってよかった。
その感触にカァラは夢中になる。


物心ついた時には、自分の周りは大人だらけだった。
彼らは事務的にしか自分に触れてこなかった。
《食事が済んだら、このクスリを飲むように》
《身体を洗ったら、ここに横になって》
入れ替わり立ち代り、無表情な大人達は自分に勝手に指示し、まるで物のように扱った。
一体、自分の何を調べているんだろう…。
幾度となく繰り返すその扱いに、カァラは慣れ切ってしまって、すでに何も感じなくなっていた。
それでも初めの頃は、自分は母親と共に暮らしていた。
昼間は研究所なる場所に連れて来られ、夕方には敷地内にある屋敷に、母親という女のいる部屋に帰された。
だけど自分は優しく抱かれた記憶はない。
疎ましく思われているというのは、歳を重ねるにつれてわかってきた事だ。
その女はいつも汚いものを見るような目で、自分を見ていた。
《 穢れた子供》
そう言って蔑むような目で自分を見下ろす。
それでも自分はその女の庇護を、初めは求めていたように思う。
夜になるといつも一人、自分の部屋に閉じ込められた。
火事になるといけないからと、灯りもつけない真っ暗な寒々とした部屋に。
何度、その女を泣いて呼んで、恐怖を訴えてきただろうか。
それでも女は来なかった。
たまにやって来る、父親という男との享楽に耽っていたからだ。

《おい、カァラ、お前の“気”を調べてやる。こっちへ来い》
ある夜、ふらりと家に立ち寄った父親と言う男は、幼い自分にこう言い、その夜は母ではなく自分を部屋に連れ込んだ。
女の憎しみのこもった眼が自分に向けられるのを、肌でじりじりと感じながら。
享楽的で、気まぐれで、その吸気という体質のために、相手を意のままにしてしまうその男は、確かに見た目は危うい魅力のある人間だった。
だが、道徳心という欠片を全く持たない男で、その時、その男に自分がされた振る舞いを自分は今でも思い出したくない。
ただ、いたく自分の“気”と身体がお気に召したのか、それ以来、頻繁にこの男は自分に会いに来るようになった。
この事が、すでにこの男に囚われていた女を、狂気に走らせたのには充分だった。
《お前なんか、いなくなればいい》
母親は美しい女だった。その美しい顔を嫉妬で歪め、まるで獄界の鬼のような顔で、自分の首に指を這わせた。
《私よりお前を得るために、私はお前の父親に無理矢理快楽の奴隷にされた。
お前のせいで、私の人生は狂わされた。
ああ、憎い。
元凶であるお前も、私を蹂躙し思うままに私を従わせるあの男も、それをけしかけたあの男も!
憎い、憎い、憎い!
あれだけ私を利用するだけ利用して、結局は道具のように捨てられた。
この気持ちがお前にわかるものか。
…何のために、私は女の身でありながら……気術を習得してきたのか……!!》
悲痛な叫び。
自分の首を徐々に締め上げる指の感触よりも、その呪いの口上の方が恐ろしかった。
その時の恐怖で、カァラのもう一つの目が覚醒し、発動した。
自分の見た女の姿は、自尊心と、快楽によって崩される自己との葛藤で、埋め尽くされていた。
未曾有の自己嫌悪と囚われた思い。嫉妬と後悔と欲望と独占欲…そして憎悪。
これほどの負の感情の坩堝(るつぼ)をこの先にも見たことはない。
男に無理矢理従わされ、快楽によって支配され、欲しくもない子供を生まされ、面倒を見させられ、不本意なのにいつのまにか心まで虜にされていた男への執着。…そんな自分自身への嫌悪。
その憎悪の象徴がカァラだった。
延々と続くかのような、哀しいまでの痛みと苦しみ。
…気がついたら女は自滅していて、すでにこの世界の住人ではなくなっていた。
くっきりとカァラの細い首筋に、指の痕を残して。

後から聞いたことだが、母親はカァラの自己防衛で発動した邪眼の波動をもろに被り、今まで父親であるシヴァに吸気されていた事も相まって、脆くなっていた生気が枯れてしまったらしい。
ある程度自由の利く中央国ゲウラの役人の娘として生まれた母親は、美貌と才知を持ち合わせていて、あの初の女元老院といわれる、ゼムカのザイセム王の娘として有名なフィオナ嬢のように、将来を有望された存在だったと聞いた。
それが、なまじっか気術の才能があったために…。
女としても稀有な最高位の気術取得者として、あの闇の気術士ティアンに目を付けられたのだ。
その非道なティアンの勝手な思惑で、実験体として生まれた自分だったが、母譲りの美貌が災いし、美少年趣味のティアンの夜の奉仕もさせられる事になったのは、母親が亡くなってすぐの事だった。
さすがに研究の都合もあって、父親と同様、最後の線まではいかなかったが、ここでティアンと接する内に、彼の野望と欲望を目の当たりにしたのだ。

キイ・ルセイ=セドナダという少年への飽くなき欲望である。

自分はこの子の身代わりだったのか…。
そう理解するのに時間はかからなかった。
ティアンが触れてくるたび、カァラの邪眼は面白いほどにこの男の真実を映してくれたから。
そうしてカァラの幼い心に、しっかりとキイ…【宵の流星】の存在が刻み込まれたのだ。

成長するにつれ、己の立場が理解できてくると、カァラにはやけに冷めた目で世の中を見るクセがついていた。
邪眼で世の中の汚い部分を見続けたせいか、いや、この能力のお陰で、異常な日常を送るカァラは、精神的に壊れずに済んだのかもしれない。

何も感じない。
何も信じない。

腐肉な事に、この世に生まれた事を呪いながらも、生への執着は人一倍あったようだ。
生きている限りは、この世にあらゆる意味で君臨したい。
誰にも脅かされず、そして誰も自分を支配せず。
自分を道具のように扱い、支配した数多の人間達に、いつまでもいい様にされたくない。
今度は自分がそいつらを支配し、駒のように扱うんだ。
快楽を与え、相手を意のままにするという父親譲りの力が自分にもあると知ってから、カァラは自分の思うとおりに生き、何事にも浸食されずに生きてきた。……そうしなければ、きっと自分は生きて来れなかった…。

思い出したくもない、自分の過去を…どうして…今になって記憶が…。
まるで誰かに自分の事を知られているような…知られて…。

その時カァラはハッとした。
相手を覗き、支配しようという自分が、反対に暁の魅惑の“気”に陶酔し、その気持ちのよさから己を晒しつつあるのに。

(怖い…!)
突如として、カァラは物凄い恐怖に襲われた。
(引き込まれる!!)
カァラは初めて得体の知れない恐慌に襲われ、自分を見失いそうになった。
(取り込まれる!この男に!やだ!やめて!)


物陰で二人を無言で見ていたキイとイェンランは、カァラの様子がおかしい事に気がついた。
蒼白となったカァラが、勢いよくアムイから自分の身体を引き離したからだ。

ちょうどその時、カァラの後を追いかけてきたリンガ王女一行も、現場に到達した。
キイ達のいる場所の反対方向からやってきた彼女らも、カァラがアムイの上に跨って、押し倒している光景がすぐに目に入った。
直視したリンガはかぁっと頭に血が昇り、二人を引き離そうと弾丸のごとく躍り出ようとした。
「お待ち下さい、王女!」
彼女を後ろから抱き上げ、制止したのは護衛のモンゴネウラである。
「何するの、モンゴネウラ!どうして止めるのよ!」
真っ赤になっていきり立っているリンガに、モンゴネウラは冷静に指摘した。
「何か様子がおかしいですぞ」
「えっ?」
「確かに、姫胡蝶殿(ひめこちょうどの)の様子が…」
隣にいたもう一人の護衛ドワーニ将軍も、アムイとカァラの様子にいぶかしんだ。


アムイから身体を引き剥がしたカァラは、確かに傍から見ても様子が変だった。
じっとりと嫌な汗を噴出し、ぶるぶると全身震えている。
「どうした?」
下からカァラを見上げていたアムイは、きょとんとした顔でそう言った。
(お、親父の二の舞いになる所だった…)
呆然とカァラはそう思い、自分で自分の身体をきつく抱きしめた。
身体の震えが止まらない。
この恐怖は、自分が自分でなくなりそうな、いや、知らない世界に引き込まれそうな、そういう恐怖に似ていた。
例えば、普通の人間ならば悪しき事や、魔の囁き、破滅の世界に足を踏み入れるとなると、抵抗の気持ちと共に未知の世界への恐怖に慄く。悪の道への甘美な誘惑に引きずられそうな、今までの世界が壊されそうな、そのような葛藤もまた然り。
それが今、カァラ自身に起こっていたのだ。
元々魔性の世界の住人だったカァラにとって、悪魔の誘惑というのは、何の抵抗もない事だ。
だからこのような自分が、反対に至福の愛の誘惑に、根強い恐怖を抱くのは、至極当たり前であった。
何故ならそれは、今の自分を否定されると同じだからだ。

そう、自分が今、この男によって引き込まれそうになった…蜜腺…。
自分が今まで遭遇した事が無い、至福で無欲な愛という、未知の感覚だった。

「カァラ?」
名前を呼ばれ、まるで自分を労わっている様な優しいしぐさで、アムイは彼の頬に指をはしらせた。
びくっとしてカァラはその優しい感触に身を竦める。
未知の感覚への恐れが色濃く現れている瞳は、アムイの慈愛に満ちた表情を映す。
アムイはゆっくりと半身を起こすと、自分の膝の上で震えているカァラに、まるで怯える動物を宥めるような素振りで、優しく触れた。
温かな掌でカァラの顔と頭を撫でながら、まるで泣きじゃくる子供をあやすような口づけを、彼の髪と頬に落とした。
カァラの震えは止まらない。止まらないどころか、益々息が上がってくる。
「やめろ…!」
耐え切れなくなって、カァラは叫んだ。
「触るな!俺をそんな風に触るな!」
カァラは激昂し、アムイの手を払いのけようとし、頭を左右に振った。
居心地の悪さに、カァラはこの男から逃げ出したくなった。
なのにどうしてか、一方ではその手に陶酔し、もっと味わいたくなる自分がいて、カァラは愕然とした。
今まで自分をこのような手で触れる男…いや、人間はいなかった。
誰もが冷たく心のない手で、または欲望に滾った手でしか自分に触れてこなかった。
……そんなものだと、自分は思っていた。
だから初めて無欲で何の見返りもない手で触れられて、カァラはパニックになったのだった。
それは親が子供を無条件に愛するような感覚。
カァラが一度も触れた事もない、味わった事のない……感覚。


こんなの、嫌だ…!

嫌だ、嫌だ、嫌だ…!!

こんなの俺じゃない。

お願いだから、そんな手で俺に触らないで。

そんな感覚、俺に教えないでくれよ!!

悲痛なまでの感情が、動揺しているカァラに襲い掛かる。

知りたくない。いや、知っては駄目だ。
こんな感覚、知りたくもない。

カァラは己を守るように、ぎゅっと眼を瞑り、両手で自分の耳を塞ぐ。

小さな小さな自分が、蹲って泣いている映像が脳裏に浮かんだ。

今更そんな感覚、知りたくもないよ。
知ってしまったら、気づいちまうじゃないか。
自分がどれだけ惨めだったか。
自分がどれだけ傷ついていたのか。
……自分がどれだけその感覚に飢え、与えられない無念さに涙し、絶望していた事を。

お願いだ、思い出させないで。
小さい頃の自分を。
封印していた自分の心を。
暴かないで。
自分がどれだけ不幸な子供だったかを。
その甘美な誘惑で、俺を翻弄しないで。

そんなことをしたら、やっと繕ってきた自分の鎧が崩れてしまう。
惨めな自分を思い出したら、ここまでやってきた自分が壊れてしまう。
甘い汁を知って、自分がどうなるかも怖い。
あの女のように、わずかな愛なんてものにしがみついて、失う事を恐れて、破滅した。
なりたくない…。あんな風に、愛に支配されたくない。


嫌だ、そんなの嫌だ!!!

カァラの恐怖は、極限にまで達していた。
理性では止められない涙が頬を濡らす。
自分が今まで築き上げてきた世界が、完全に崩壊してしまいそうな恐怖。
バラバラになりそうな感情の葛藤。

…そう、こんな感覚を知ったら、自分はもう、今までのようにいられない…。

「怒り…」
突然ポツリとアムイが呟いた。
カァラはびくっとしてアムイの顔を見る。
「お前を今まで生かしてきたのは…怒りだ」
見る見るうちに血の気が失われる。
この男によって、自分が暴かれていく。
怒り…。そう、怒りだ。
「お前は自分と、この世の全てに怒りを感じている。
母という女への怒り。
それがお前が女という性を憎んだ結果だ。
父という男への怒り。
それがお前の男という性を呪った源だ。
…お前は…自分が男の身で女となる事で、両の性に怒りを感じ、呪っている」

「俺は…。違う、そんな事はない…!俺はただ…ただ…」
カァラは動揺したが、それを認めたくなかった。
認めたら、自分をなくしそうで、支配されそうで。……壊れてしまいそうで。

「お前が無意識のうちに、男である自分が女の役割を喜んでするのは、その結果、お前自身のように呪われた子供を作らないで済むからだ。……自分が女になれば、そうして男を取り込めば、子供を作らず、快楽だけを貪れるから。
お前はあまりにも母…女を忌み嫌っているために、女の中に入れない。
女を拒否する。
そうしなければ、否応なく子供ができてしまう。それが怖いからだ。
だから自分が女となって、男を受け入れる。そうすれば子供はできない。
しかも男を自分の虜にさせる事で、男も自分の子供を作れない」

カァラは冷たいもので心臓を鷲掴みにされたような気がした。
雄弁となったアムイの声だけが、静寂な森に響き渡る。
カァラだけでない、その言葉を耳にした誰もが、息を詰めて身体を強張らせていた。
抵抗を続けているカァラに、アムイは責めるでもなく、説教するでもない、ただ、あるがままの声色で、はっきりと告げた。

「こうしてお前は父母を、世の中を、生命(いのち)を呪って生きてきた。
そうしなければ、この生き地獄で生きていけなかったからだ。
その怒りが活力となって、お前自身を生かしてきた。
自分の存在理由に憤り、魔と同化する事によって、世の中の全てに復讐しようとしている」

動けないでいるカァラに、アムイは追い討ちをかけるようにして静かに言った。

「君の中で小さな子供が泣いている。ずっと…辛かったんだね…」
カァラの何かが弾け、物凄い勢いで自衛本能が働いた。

「うるさい!…わかったような事、言うな!!」
カァラは大声で叫び、アムイの手を振り払った。


にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ
にほんブログ村

|

« 暁の明星 宵の流星 #159 その① | トップページ | 暁の明星 宵の流星 #160 その① »

自作小説」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 暁の明星 宵の流星 #159 その②:

« 暁の明星 宵の流星 #159 その① | トップページ | 暁の明星 宵の流星 #160 その① »