暁の明星 宵の流星 #162 その②
普段は穏やかで、いつも隣で静かに微笑んでいるような…。
そう、彼の兄であるハウル荒波州知事長(あらなみしゅうちじちょう)と同じく温厚な人物に、自分はこういう顔をさせてしまっているのだ…。
その事実がアベルの罪悪感を益々煽り、居た堪れない思いで彼の激昂を無言で受け止めた。
「…貴方と【姫胡蝶】の噂は、隣国ですら広まっていますよ」
ぎりぎりと歯を食いしばった後、ライル大佐は吐き捨てるように言った。
「ま、それがどんな噂だか、おおよそ予想がつくが…。
かなり尾ひれがついているんだろうなぁ、とは思うよ。…噂というものはそういうものだ」
アベルは話が深刻にならないよう、わざと軽い口調で肩を竦めて見せた。
「…そうだとしても、一州の海軍提督が、面白おかしく噂されるのは…州民…いえ、政府とていい気分なものではありません。
…あの鋼鉄の防波堤と称される荒波海軍の…頂点である軍神アベル提督が…【姫胡蝶】の毒牙にまんまとやられ、堕落して骨抜きになっている…などと…」
最後の方は言い難そうだった。ライルの口調からして、きっと本州では…いや、大陸ではもっと卑猥で下衆な言われ方をされているのだろう。真面目で高潔な彼の事だ。どうにかこれ以上酷い言い回しにならぬよう、心を砕いているのが、ひしひしと感じられる。
「あの陥落不能な荒波海軍の提督が、いとも簡単に男の色香に陥落された…か?
そんな噂、勝手に言わせておけばいい。
しかも今は、海軍を放ったらかして、その男妾に入れ込んで蜜月の旅を満喫中、とかね。
かえってそう思わせていた方がこちらとしても都合がいいじゃないか。
俺が荒波を離れた理由は、君だって知っているだろう?」
アベルはちらりとライルの思い詰めたような表情を盗み見た。
あの何事にも冷静な彼の顔に、はっきりと憔悴の色が見て取れて、アベルは心の中で溜息を付いた。
彼の事を嫌いになったわけではない。正直に言えば今でも好ましい。
自分の理想どおりの男に成長した彼を、どうして自分が無下にできようか。
その彼をここまで追い詰めた自分にこそ腹が立つ。
本当のところ、ライルを大事にしたい気持ちが、今でもあるのは否めない。
だが……。
アベルは眉根を寄せた。
「…まさか君…、この俺がその下衆な噂通りなのかを確かめるためにここに来た、なんて陳腐な事は言わないだろうね?」
その言葉にライルの頬がぴくっと動き、みるみるうちに赤くなる。
なるべくアベルは、何の感情も感じさせないよう、いつもの調子で淡々と彼に接しようと思っていた。
だが、次のライルの言葉が、アベルの心を揺さぶった。
「……僕だけではない…。兄が…州知事があなた方の様子を見てくるように、と…。
いや、知事という立場は口実で、兄さんは個人的に貴方を心配して僕を寄こした。
………あのようなあばずれと…本当にそういう関係なのか、と」
「ハウルがそう言ったのか!?」
思わずアベルは立ち上がり、大声を出した。
「ハウルが…?嘘を言うなライル。
あのハウルがそんな理由で君を寄こすなんて…有り得ない…」
アベルの動揺を見て、ライルは腑に落ちたような表情をした。
「有り得ない?
…やはりそうだったんですね…。
……兄さんが…僕と貴方の関係をよく思ってない…。
いや、貴方に僕を諦めるようにと、兄さんが頼んだんでしょう?家のためとか言って。
その反動で…。
貴方が【姫胡蝶】と本当に愛人契約を結ぶと思っていなかったんですよ、兄さんは。
詳しいいきさつは教えてくれなかったけど、その事についてかなり動揺していたようだった。
本当にあの人は救いようが無い。
……ある意味、何でこうまで、いつも自分の都合のいい事ばかり押し付けるんだろうなぁって、思いますよ。
相手がどう思っているかなんて、あの人には本当は関係ないんだ」
「ライル!実の兄さんの事をそんな風に言うもんじゃない。
ハウルは自分の事よりも何よりも、相手の事を考えて行動する奴だぞ。
そうじゃなかったら、荒波の州知事長なんぞなれるものか」
「自分の事よりも相手の事…?ふっ…。
だから兄さんは貴方を捨てて家を取った、という事ですか。大を取るために小を切り捨てるような人だ。
家と母の事だけ考えて、貴方の心をないがしろにしたというのに?
片腹痛いですよ!
昔からあの人は狡かった。自分を押し隠して大事な事は全て人のせいだ。
で、今度は母のためだとか言って、僕を貴方から遠ざけようとした。
……本当はそんなの建前なくせに…。
自分の元恋人が、同じ男で、しかも自分の弟と人生を添い遂げようとするのを許せなかったんだ、あの人は!」
「ライル、落ち着け。そんな事はない。それは君の思い違いだ。
昔から君の兄さんは、公明正大で、いざとなったら自分を犠牲にしても厭わない人間だ。
俺はそういうあいつを今でも尊敬している。
それにあいつは…、ハウルとは本当にもう終わっているんだよ。
互いにあの時、話し合って納得して別れたんだ。
今はもう、同じ荒波を統治する、という目的で互いを高め合う…同士だと俺は思っている。
ハウルだって…」
じっと見透かすように見詰めるライルの瞳に、アベルは言葉を詰まらせた。
「…貴方に対して何の感情も、ない、と?」
「…そうだろう?【姫胡蝶】の件は、州知事長として心配になるのは仕方ない。
まぁ、現にカァラの奴は悪名高いからなぁ…」
ついアベルはニヤリとしながら気安くカァラの事をそう言い、その親密な声色にライルは益々頬を引きつらせた。
「…噂は本当ですね?先ほど部下に聞きました。
貴方とあの【姫胡蝶】がかなり濃密な関係だと…」
その事実を聞いた時の衝撃を、ライルは忘れられない。
まだここに来るまでは、ただの噂だと、自分の愛した人はそんな男ではないと、一縷(いちる)の望みにすがっていた。
ライルとしても、彼が今まで浮名を流してきた男だったと、知らなかったわけでは無い。
そうだとしても、それは彼がそれだけ魅力的だったとういうだけで、過去の事はライルは全然気にならなかった。
近くにいて気がついたが、彼は見た目と行動の派手さと違い、心根では情が深く、誠実で、根っからの軍人肌で意外に固いところがあった。
やれ冷徹だ、残酷だ、胡散臭いなどと巷で恐れられようが、彼自身を知る者は皆、それが誤解だと知る。
もちろん、敵には容赦は無いが、味方にはとことん懐が深い。
そのような提督を、海軍の者は全面的に信頼し、慕っているのが、軍に入ればすぐにわかる。
荒波海軍が東の海域随一の鋼鉄の防波堤とまで言われるくらい強靭になったのは、この若きアベル=ジンが提督になってからだ。彼を中心にして、海軍の団結力は半端なものではない。
それが、たった一人の悪名高き男に、その中枢が崩されている…などと諸外国に噂されるなどで、いつ荒波を攻略せんとする他州から襲われるかわかったものではない。
その危惧も相まって、提督補佐の一人でもあるライルが州知事長の命で様子を窺いに来たのである。
それが第一の目的であり、また、本心を隠す建前である事も、ライルにはわかっていた。
……兄である洲知事長も、自分も、それだけでない事を。
この目の前の男の真意を確認したかったのだという事を。
皮肉な事に、目的の要である【宵の流星】の件が、そのために後回しになっているのは否めない。
本当に、彼とは目的のためだけの手段としての関係だけなのか。
または噂通り、悪名高き魔性の男、【姫胡蝶】の毒牙にかかっているのか。
ライルは兄と対峙した時の事を思い出していた。
そのきっかけは、アベル提督と【姫胡蝶】の聞くも淫らな噂がきっかけだったかもしれない。
ライルはアベルが【姫胡蝶】と同伴し、わずかな部下を引き連れて北の国に向かった理由は、彼自身から説明されて知っていた。残された軍の事をジウ中将と共に任された手前、ライルは不安を抱えながらもアベルに従ったのだ。
それよりもアベルの態度がずっと引っかかっていた。
つい最近までは彼も自分に気を許してくれていて、生涯のパートナーとして一生傍にいたい、いられる、と確信していた。
事実、アベルの方も、相手が昔の恋人の弟で直属の部下という事もあり、ずっと遠慮して悩んでいたのを感じていたのが、何度か肌を重ねて、やっと自分の気持ちを受け入れると言葉にしてくれたばかりだった。
それがあの、【姫胡蝶】が【宵の流星】の出生を公にした衝撃の場で、アベルが久しぶりに兄と会ってからおかしくなったのだ。
《距離を置きたい》
《この間の言葉は忘れてくれ》
それだけ言って彼は、あの男を堕落させ破滅させる男妾と、北に潜伏しているという【宵の流星】の情報を追って、北の国に行ってしまった。その後に流れてくる二人の噂はライルにとって聞くに堪えない内容ばかりだった。
《あの鋼鉄の荒波海軍提督が、魔性の男を囲って骨抜きになっている》
《片時も愛人を離さず、毎夜のごとく淫らな行為に耽っているようだ》…とも。
任務だからと、噂を一笑に付していたライルも、アベルの態度もあって不安が頂点に達していた。
そんな時に兄から呼び出され、この噂は本当なのかと探られた。
反対にライルは今までの疑問を兄にぶつけた。州知事ではなく一人の男として答えて欲しかった。
アベルの態度が変わったのは、絶対に兄が関係していると己の勘が訴えていたからだ。
その時に兄は家の事を持ち出した。母親に心配かけるな、とか、ジン家と自分達の家は違う、とか…。
ライルはピンときたが、結局、兄には色々と誤魔化された。
誤魔化されはしたが、兄は州知事長としてアベルの素行を確認し、羽目をはずさぬよう勧告する所存だと明らかにした。
ライルは「ならば自分で確かめてくる!」と啖呵を切ってここまで来たのだ。
最初に自分を、あれほどアベルから遠ざけようという態度が見え見えだった兄が、州知事長の勅命という文書を出すのに、躊躇うのではと思っていた。だが、兄のハウルはあっさりと勅書にサインをした。その手が微かに震えていた事を、弟である自分が見過ごすわけなどなかったが。
…結局、今ではライルが提督としてのアベルに一番近しい人間なのだ。州知事長という提督と対等の立場であれど、ただそれだけの関係なんだという事実を、今更ながらにハウルは痛感したらしかった。
どんなに家督であるハウルやリッツ家の人間が、ライルをアベルから引き離そうと策略しても、今の彼は提督補佐官。
…この位置まで来るのに、どれほど苦労したのか。兄も皆も、ライルの覚悟を見くびり過ぎている。
……そう、彼を追って10年以上、だ。兄とアベルが付き合っているときから…。
それほどライルの思いは深かった。
アベルがどうハウルの事を思っていようが、実の血を分けた兄に関しては、弟である自分の方がよくわかっているつもりだ。
本当は自分をいつも押し隠して、自己完結するような小心者。
欲しいものを欲しい、と言えない、臆病者のくそ真面目な男。
……確かに洲知事長として優秀で適任なのは、若くして頂点に立った実績から、誰もが認める事だ。
有能な指導者。理想の家長。模範的な夫。自慢に値する息子。…きっと兄ならまるで判を押したような完璧な父親にもなるだろう。
………話し合って、納得して別れただって?
長い年月がそう思わせるんだろう、とライルは意地悪く思う。
兄は世間の正論を振りかざして、恋人を追い詰めたに違いない。
どういう話が二人の間にあったかは知らない。だが、その時のアベルの悲嘆な有様を、偶然目撃してしまったライルには、その言葉が虚偽に聞こえる。
兄も泣いていたが、その後、一人取り残されたアベルの嗚咽を堪えて泣き崩れている姿に、少年だったライルは心をえぐられる様な痛みを感じていた。
青年の頃のアベルは明るくて屈託も無い、きらきらと輝く金色の髪と同様、周りを照らす太陽のような人だった。その彼をライルはいつも眩しく見詰めていた。
その彼に陰鬱な空気が纏わり出したのは、やはりハウルと別れてからだ。
だからどうしても、ライルは身内という事も相まって、兄を良く思えなかった。
それ以上にアベルの口から、兄の良さなんか聞きたくも無かった。
ライルは目の前の恋しい相手に目を向けた。
自分でも呆れるくらい、この男に恋焦がれている。
ライルの夢は、ただアベルの恋人になるだけでなく、彼の手となり足となり、公私ともに彼を支える唯一の人間になる事だった。身体だけでない、魂からの深い結びつきを、生涯持ちたいと切に願ってきた。
ここまで懸命に追いかけ、やっとこの手にする事が出来ると思っていた矢先…。
ライルはぎゅ、と強く目を瞑った。
怒りが全身を駆け巡る。
なのに、たったひと月前にあったばかりの…しかも悪評高いふしだらな男と…!
彼の苦悩する悲痛な表情を、アベルは複雑な思いで見入っていた。
ライルに対する申し訳なさを感じながら、面立ちの似ている彼に、どうしても若き日のハウルと重ねてしまい、そんな自分に嫌気を感じていた。
そう、10年前のあの時も…。
ハウルは辛そうに目を固く閉じていた。
懸命に、湧き上がる感情を押し殺そうと戦っているかのように。
《お前の気持ちは…変わらないんだな?この俺が、結婚してもこのまま関係を続けたい、と望んでも》
その言葉で、堪えていた彼の目は見開かれ、大粒の涙が溢れた。
自分の行き場の無い感情を、どうしても抑え切れなくなった自分は、わざとそういう意地の悪い言い方をして…すぐに後悔した。
彼の澄んだ茶色を帯びた黒い瞳からはらはらと綺麗な涙が零れ落ちる。
アベルは我慢できなくて、つい、いつものように彼の頬から涙を掬い取るように指を走らせた。
幼い頃から共に過ごしてきたアベルにはわかり切っていた事だったのに。
結婚しても…関係を続ける事が出来るほど、ハウルは不誠実でも要領のいい奴でもない。
その真面目で、真っ直ぐな気質が好きだった。
派手な外見とは違って、意外に気難しくて無骨な自分をいつもサポートしてくれた。羽目を外す事が多い自分を、いつも優しく包んでくれる…。そんなハウルをアベルは幼い頃から愛してきたのだ。
嫡男のハウルが家督を継ぐ事は、初めからわかっていた事実だった。
恋に盲目だった二人だったが、今思うとどこかしらでいつかはこうして離れなければならない事を覚悟していたような気がする。
……責任感の強いハウルが、家や母親を捨ててまで、自分についてきてはくれないだろう、という思いも少なからずあった。
それ以上にハウルには、州知事長になる、とういう長年の夢があった。
荒波の頂点である州知事長と海軍提督。
この双璧の地位は、代々リッツ家、ゴツラ家、ジン家、という荒波三大豪族が奪い合ってきたものだ。
決定権は政府中枢の名誉役員達にあるが、その選定方法はあらゆる面で公平に、また本人の実力を元に選定されるのだ。
文字通り、選び抜かれた超エリートである、というのは誰しもが認めるところだ。
そうでなければ東で2番目に大きい荒波州を任せる事はできない。
もちろん、過去にその3大豪族以外に優れた人材がいれば、ただの官僚でも選ばれる事もある。だが、ほとんどはこの3大豪族の人間の誰かが選ばれるというのが多かった。
ハウルは、祖父の代からその地位を、他豪族に奪われていた事もあり、並々ならぬ執念があったのだ。
その為にハウルが血反吐を吐くほどの努力をしてきた事を、アベルはずっと知っていた。
彼が州知事長になる事…。それがいつしか、アベルの夢にもなっていたのだ。
その為にはきちんとした家庭を持ち、模範的な家督の長であった方が有利である事もわかっていた。
アベルは沈痛な面持ちで、ライルの顔から視線を外した。
ライルはハウルとの事をどう思っているのかわからないが、これは互いに自分達の未来の為に決めた事なのだ。
感情ではどんなに辛くても、アベルにはハウルの夢も将来も壊す考えはさらさらなかった。
それが正しかったと思ったのは、別れて一年も経たないうちに、彼が念願叶って史上最低年齢で洲知事長に任命された事を聞かされた時だった。
……もちろん、彼が他の人間と結婚して、自分がもう彼の傍にいる事ができないという虚無感は、実際に何年も引きずってはいたけれど。
アベルは考え込むようにして腕を組み、そのまま何気なく窓の外の景色を眺めた。
外はもうすでに薄暗くなってきていて、空にはちらほら星の姿が見え始めている。
そしてひと月前に久しぶりに会った、昔の恋人の事を思い出してみる。
事務的な事で書面や言葉を交わすのは多くても、個人的に話をしたのは、あの時が本当に何年かぶりだった。
…懐かしい痛み。
でも感傷はそれだけで、話せば昔の気安さがすぐに戻ってきたのに驚いた。
別れてからの長い年月は、いい意味で関係の変化をもたらしている、とアベルは解釈した。
それに元々が互いをよく知る幼馴染でもあったのだ。
互いに嫌いで別れたわけでもない。
州知事長と海軍提督。その双璧の立場で互いを支えあえる事で、彼との恋愛は昇華したという気すらしてくる。
彼との会話はただ懐かしくて、心地いいものだった。
ただ、その会話がライルの話題となってから、二人の間に流れる空気が怪しくなってきた。
それでも互いにいい大人であった二人は、それを押し隠し、常に冷静に話を続けていたのだが…。
結局、半ば彼と言い合いにもなって、アベルは思ってもみない行動を取る事になってしまったのだった。
それは彼への意地か、あてつけか。
それとも別の感情が働いたのか。
いつも沈着冷静に事を運ぶこの自分が、かなり感情的になっていたのは否定できない。
衝動的にあんな事をした自分が信じられなかった。
結果、悪名高き【姫胡蝶】が次の愛人として自分を選ぶとも…その時までは、全く思いもしなかった…。
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