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2011年11月

2011年11月26日 (土)

暁の明星 宵の流星 #165

しっかし、まぁ、なんという熱気だ。

アベルは男達の輪の中に入って、辟易した。
四方を囲む衝立(ついたて)からあぶれる人ごみを掻き分けて、アベルはさらにその奥へと進んだ。

ここは数千人もの人間をもてなせる規模の会場だ。
そのただっ広い会場の中央部分に、まるで一つの部屋を作るかのように、人の首くらいまでの高さの簡素な衝立で、四方をぐるりと囲っているブースがあった。そこはさながら野次馬のごとく人があふれている。
まあ、簡単な目隠し程度なその衝立の隙間から、中を覗こうとする人間達でごった返していた、というのが正しい解釈であろう。
そしてその見物客がほぼ全員男性で、その彼らの様子を遠巻きに、眉根を寄せて嫌悪丸出しの視線を送っているのは、必ずと言っていいほど女性であるのが、何かを象徴しているようだった。

何とかその衝立の中に入り込んだアベルは、そこが普通の応接間くらいの広さの空間であると知った。
ただ、割と広いその空間も、衝立を背にして外側をぐるりと囲んだ人々のせいで、思いのほか狭く感じる。
ざわざわとした喧騒の中、中央にしつらえてある円卓と長椅子には、十人くらいの人間がいた。
アベルの目は、その中で一番大きい長椅子に吸い寄せられた。
赤いベルベットのカヴァーをかけ、縁取りを豪華で煌びやかな細工が施してある優雅な風情の長椅子に、これまた艶かしく足を投げ出して腰掛ける、艶然と微笑む人間がやけに目に付く。
軽く半身を背もたれに寄り掛からせ、腰を下ろした部分から先は優美な曲線を描き、片足を組んだその浮いた白い裸足の足先には、赤い染料で爪が綺麗に彩られ、それを楽しそうに宙にぷらぷらと上下させている。
その足をうっとりするように見詰めている数多の男達。その中では食い入るように凝視し、彼の座る長椅子の前に跪いている2-3人の男達もいる。まるでお預け食らっている犬みたいだな、と、アベルは苦笑した。
それに彼らだけでなく、その赤い長椅子の周りには、うっとりとした顔、目をぎらつかせている者、舌なめずりしている者…など、どうやってもかなりの高位の者としか見えない様相の、様々な容姿と年齢の男達がずらりと取り囲んでいた。
その長椅子の上で、気持ちの読み取れないような微笑を湛えている妖艶な美姫。
確かに、一見すると、艶かしい美女が男を誘うように君臨しているように見える。
だが、長い薄茶の髪を零し、見るからに高価な女らしいドレスを纏っている、どこから見てもこの超一級の美姫は、驚くなかれ、正真正銘の男、なのである。

これが、噂の【姫胡蝶】……。

初めて近距離で見る、噂の魔性の男にアベルは目を丸くした。
間近ではないが、ここから見ても女にしか見えない。
(本当に、こいつ男か…?)

ほんの数メートル、人込みの中で垣間見る姿は、完全に女性の姿そのもので、アベルの心は別に動きもしない。
それよりも、己の近くで多勢の男をはべらせ、手玉に取っているような風情が鼻につく。
それでもハウルに意気揚々と言ってしまった手前、アベルは溜息を漏らしながらも、彼に近づこうと身をよじったその時だった。

「【姫胡蝶】、どうか、このわしのものになってくれまいか!
そなたに似合う、この金細工の髪飾りを受け取っておくれ。
もちろん、これだけではないぞ。わしと契約したあかつきには、そなたに豪華な城だってあつらえる所存じゃ」
一人の見るからに高位の(でもすでに隠居しているであろう)老人が、目をぎらつかせ、彼の前に進み出、足元に蹲った。【姫胡蝶】に献上するつもりなのであろう、手には高々と先ほど言っていた豪奢な髪飾りが掲げられている。
「何を言う。【姫胡蝶】、このような老いぼれよりも、是非、この私と。
私は北の国の王家筋の者だ。
この男よりも、もっといい暮らしを保障する。
これは大陸でも希少な貝でしか取れぬ、琥珀の真珠だ。ぜひ、これを受け取って欲しい」
そう言いながら、老人の反対側にいた中年の男が彼に進み寄って来た。
「いや、私は貴方に大陸でも珍しい涼雅(りょうが)という鳥を進呈しよう。
どうです?この鳥は私の南の国、火の鳥伝説のモデルになった鳥です。見事な尾羽でしょう?美しい貴方の肩に絶対に似合うと思いますよ。
だから是非、契約はこの私と」
と、先の中年紳士が言い終わらないうちに、今度は赤毛で身なりの派手な青年が口を挟んでくる。
「契約…?」
彼らだけではない、どう見ても富豪でそれなりに地位の高そうな連中が、姫胡蝶の周りを取り囲み、彼の気を引こうとそれぞれの贈り物を手に、躍起になっていた。
とにかくアベルは次々と現れる彼の求愛者?に目を丸くするばかりだ。
「ああ、美しい【姫胡蝶】!是非、是非、この俺と!
主(ぬし)が契約してくれたのなら、我が州の俺の土地、全てを好きにしてよいぞ!
どうだ?この花。これは我が州にしか生息しない、稀有な黄金色の胡蝶蘭だ。美しい主によく似合うだろう?
だからこの俺を選んでくれ!」
(げ、あれは隣州の知事じゃないか!……ああ…、なんていう腑抜けた顔…。
確か、彼には妻子も多数の愛人もいるっていう…無類の女好きだったよな…。
……とうとう女に飽きたか……)
アベルはその男達の中に知った顔を見つけて、益々驚き、脱力していくのを止められなかった。

「アベル!」
数多に群がる男達に気負わされて、当の人物に接見しようとする気持ちがぐらつき始めたアベルを見透かしたかのように、突然彼は肩を掴まれ振り向かされる。
もちろんそうしたのはハウルだ。彼はしばらく呆然とした後、慌ててアベルを追って来たのだった。
「もういい、帰ろう !」
ハウルの“引きずってでもこの場から離すぞ”とでもいう意欲のある顔を見た途端、アベルの脱力した気分が再び浮上した。
どうも一度ヘソを曲げてしまうと、素直になれない性格らしい。かえってハウルが情けない、すがるような目でアベルを見ていたのなら、状況は違ったかもしれない。州知事長としての、彼のプライドが災いした。
有無を言わさないぞ、という確固たるハウルの表情に、アベルの天邪鬼的感情がむくむくと顔を出した。
「帰る?何を言っている。
これは我が州に有益な考えだと思うが、州知事長はどうもお気に召さないとみえる」
「そんな…。だが、こんな状態じゃ、目的の人物とはなかなか話せないだろう。
少し頭を冷やして…、よく考えてから出直そう」
「そんな悠長な事を言っていたら、この先また、こんな有名人と会える機会があるかどうかわからないぞ。
お前は先に帰ってていいから」
「おい、アベル…!」
アベルはハウルの動向を遮るように、前方にいた見知らぬ野次馬に話しかけた。
「ちょっとすまない、教えてくれないか。
この騒動は一体何なんだい?あそこに群がっている人間は?契約って…」
振り向いた人のよさそうな男が、アベルの問いに興奮気味に答える。
「おや、ご存じない?
天下の【姫胡蝶】殿の新たな愛人の立候補者達だよ。
今まで【姫胡蝶】を囲っていた貴族の情夫が、例の石板を持ち出した事がばれてしまって、牢獄行きになってしまったからなぁ。つまり、今彼はフリーなんだよ。
だからこぞって彼と愛人契約を結びたい高位の人間が群がっている、というわけさ」
「そうそう、あの天下の【姫胡蝶】様だ。次に一体どんな大物を愛人に選ぶのか、みんな興味津々だよ」
その隣にいた若い男も、面白がっているような口調で話に入ってきた。
「愛人…契約?ああ、その為の契約ってことなのか…」
独り言のように呟くアベルに、先ほどの男が親切に聞きもしない事を詳しく話してくれた。
「俺も彼を独占できるほどの富豪だったらよかったけどなぁ。そしたらああいう風に立候補するんだが。
見なよ、ああして【姫胡蝶】に一番気に入った貢物をした人間が、次の愛人に選ばれるんだってさ。
噂には聞いていたけれど、男のくせにあれほどの美貌だとは思わなかった。
確かにあれじゃ、彼を取り合って一国を滅ぼしたっていう話も、満更嘘じゃないよな。
俺は男に興味なかったんだが、本物を見て考えが変わったよ。
女よりもうんといい思いさせてくれるらしいし、世継ぎとかいれば、一生女と出来なくなっても構わないって思ってしまいそうだ」
うっとりと、それでいて淫猥な眼差しで男は【姫胡蝶】を凝視する。
この男だけではない、野次馬として集まっている男達のすべてが、どうやら【姫胡蝶】の毒牙にかかってしまっているらしい。
男の身で、ここまで普通の男をも骨抜きにさせる魔力を持つ【姫胡蝶】に、アベルも少し興味が湧いてきた。
だが、アベルの好みとすれば、見た目が女みたいな所には興味がそがれる。だからかえって色恋抜きで接見するには、都合がよいと思えた。
だが、それは間近で彼と接していなかったゆえの甘い認識だったという事を、この後、アベルは嫌というほど知る事になる。


「そうか。じゃあ、彼に接見するには…この騒動が一段落しないと無理かな…」
アベルが呟くと、ハウルがあからさまにほっとした様子で、彼の腕を掴んで引っ張った。
「なら、落ち着いた頃に伺えばいいじゃないか。…さ、私達の席に戻ろう」
「いや」
「アベル?」
ハウルはアベルに拒否されて、目を見開いた。
「このままこの騒動の行方を見守らせていただくさ。面白そうじゃないか」
「面白そうって…」
戸惑うハウルに、アベルの悪戯心と好奇心に満ちた目が向けられる。
「せっかくここまで来たんだ。彼がどの男を選ぶのか、興味ないか?
もし、我々に協力を願うとしても、彼の愛人となった男も、少なからず影響がない、とも言えないだろう。
それに、のんびりと構えていたら、接見するチャンスを逃すかもしれないし」
アベルはそう言うと、ハウルの手を振り解き、人込みを掻き分けながら前に進んだ。
「アベル!」
「終わるまで待っていた方が、時間の節約でもあるだろ?心配するな」
再びアベルは意気揚々として、ハウルを置いて人の中に消えて行く。
「くそ…」
反対に訳のわからない嫌な予感に襲われたハウルは、舌打ちすると、またアベルの後を追い始めた。


やっとの思いで野次馬の最前方に出られたアベルは、ほっと一息をつくと、目の前の【姫胡蝶】をまじまじと観察した。
前よりも距離がぐっと縮まったおかげで、先程よりはハッキリと彼の姿を見る事ができる。
そこでアベルはおや、と思った。
ちょうど彼が退屈そうにあくびをかみ殺していたが、その気だるそうな顔立ちは、自分が思ったほど甘ったるい感じではなかった。
女装を趣味とする、または女役を好んでする男の中で、特に普通の男達が受けそうなタイプ、というのが、ほとんどが男臭くなる前の、中性的で、どちらかというと可愛らしくて砂糖菓子のような、本当に俗にいう女顔の少年、というイメージがあった。もちろん天下の【姫胡蝶】も、かなりの美貌と持てはやされている事から、そういう感じの少年なのかと思っていた。
だが、こうしてはっきりと彼の顔を拝める距離になって、初めて彼が甘いだけではない、どこか鋭利な感じの美貌の持ち主だという事に気が付いた。
美少年などという可愛い類のものではない。見るからに妖艶な青年の顔だった。
確かに、きちんと化粧を施された整った顔立ちは、はっとするほど美しく、しかも女らしい柔和な表情を作っていて、一見すると完全に女性そのものだ。
だがアベルは、その表情に隠された、彼の男としての色香を本能で嗅ぎ取っていた。それがただの美女を飛び越えて、大げさ言えば、性別を越えた正体不明な妖しさに繋がっている、とアベルは感じた。
それが自分にとってあまりにも意外だったようで、アベルは【姫胡蝶】を穴が開くほど不躾に見入ってしまっていたらしい。
突然、その視線に気が付いた【姫胡蝶】が、ぱっと顔を上げた。瞬間、ばちっと大きな音がして二人の目が合わさる。
アベルは驚いて目を瞬かせ、思いがけず彼の視線に囚われてしまった。
微かに不思議そうに向けた彼の瞳は、ガラス玉のように美しい灰色で、まるで銀鏡のようだとアベルは息を呑む。
そう、これが噂の邪眼…。何事も見通せる…魔の瞳…。

一方の【姫胡蝶】の方は、アベルに目を向けながら、近くにいる者に何やら話かけている。
様子からして、きっと自分の事を聞いているのだとアベルは思った。
そうこうしているうちに追いついたハウルが、再びアベルの手を取り、声をかけようとした時だ。
「さあ、胡蝶殿!もうそろそろお決めになったらいかがかな?
これではいつまでたっても埒が明きませんぞ」
一人の白い髭の紳士が、とうとう痺れを切らしてそう叫んだ。
「そうですよ、美しい【姫胡蝶】。どなたのものになられるおつもりか、早くはっきりしていただかないと」
「貴方の身はお一つだけ…。ゆえにその身を独り占めにする羨むべき男も一人、という事だ。
貴方がはっきりとしないと、いつまでたってもここが殺気立ってかなわん」
次々に彼の求愛者と思わしき男達が、口々にそう言い出した。
当の【姫胡蝶】は、表面的には困ったような微笑を湛えて彼らを見渡しているが、その中に面倒臭い、という表情が見え隠れしている事に気が付いて、思わずアベルは笑みを零した。
(意外と人間臭いじゃないか…。人形みたいにすました奴かと思ってたが)
面白い、とアベルが心の中で思ったその時、背後のハウルがアベルを突付いた。
「アベル、接見だけ、だぞ」
ハウルの声に不安な要素を見出しながら、アベルはわざとそっけなく答えた。
「当たり前だろ?貢物なんか持っていない俺と、どうこうなるわけないじゃないか。
それよりも、彼が相手を決めたら、タイミングを見計らって接近するぞ」
「本気なんだな」
「ああ、本気も本気。…彼の邪眼が本物ならば……」
と、突然アベルは声を失った。
彼の背中が緊迫した様子に訝(いぶか)しんだハウルは、不思議に思ってアベルの視線の先を見てどきっとした。
アベル達の回りも、その異変に気が付いてざわざわと騒がしくなっていく。
「そんな…でも、まさか」
ハウルは絶句しているアベルの代わりに呟いた。
何故ならば、その注目の的である肝心の【姫胡蝶】が、いつの間にやら長椅子から立ち上がって、真っ直ぐとアベルを見据えていたからだ。
「ひ、【姫胡蝶】殿…?」
驚きで唖然としたのは、アベル本人や、彼の周りに群がっていた求愛者達だけではない。皆、食い入るようにして彼の動向と、その対象である男を見守っている。
【姫胡蝶】はじっとアベルから目を離さないまま、彼の方にゆっくりと歩き始めた。
(な、何…?)
声もなく立ち竦んでいるアベルとハウルの周りから、さぁっと潮が引くように人混みが左右に割れて行く。
緊張しているアベルに【姫胡蝶】は一旦歩みを止めると、おもむろに一言、声をかけた。

「貴方にする」

どよっと、一斉に人々がどよめいた。

「な、なんだって?」
「だ、誰ですか、この男は!【姫胡蝶】!」
「そんな、馬鹿な…」
「この男は貴方の求愛者ではないではありませんか!」
悲痛な求愛者達の抗議の声に、アベルははっとして大声を出した。
「そ、その通りだ!あの…お言葉だが…。俺は別に君の愛人になんて…」
「でも貴方、私を求めていた…でしょ?さっきそういう顔をしていた」
初めて聞く、【姫胡蝶】の声。もっと女を意識して作った声かと想像していたが、それをいい意味で裏切られたような、心地の良い甘いテノールだった。
「それは…!でも俺は君の愛人というのではなくて…。まいったな、何かの間違いじゃないかい?」
「貴方が、いい」
【姫胡蝶】はきっぱりとそう言った。
戸惑っているアベルの目に、注がれる彼の意外なほど真摯な眼差し。
駄目だ、目を逸らす事が出来ない。
「ア、アベル…」
背後でハウルの慄くような声がした。何やらアベルをこの場から連れ出そうと、必死に自分に話しかけているようだ。しかし不思議とアベルの耳に、そのハウルの言葉は、はるか遠くの彼方で聞こえていた。
それほどアベルの思考は、珍しく失われていた。
何も言わないアベルに痺れを切らした【姫胡蝶】は、とうとう彼の目の前に、すっと白い右手を差し出した。
「言ったでしょう?私は貴方に決めたのです」
「で、でも、俺は何も君に貢物なんて…」
珍しくアベルは目の前の美青年に気負わされていた。
「そうですよ!【姫胡蝶】。何をお戯れを!
彼はこの見物客の一人ではないですか!
貴方の愛人としての資格は、貴方が気に入る貢物と、それ相応の生活の保障を約束できる人間だ。
何で、貢物も持っていない、どこの国のどんな地位の人間か、わからん奴を…!」
後方で、彼に全財産を投げ打ってもいいとまで断言していた老齢の富豪が、怒りもあらわにそう叫んだ。
「どんな人間…?」
【姫胡蝶】はその言葉にくすっと笑うと、こう言った。
「彼は東の荒波の海軍提督と聞きました。そうですよね?東の軍神、アベル=ジン提督」
彼の言葉に、周囲がさらに大きくどよめいた。
「荒波州の提督ならば、充分すぎるほどの地位ではありません?」
【姫胡蝶】は後方にいる自分の求愛者達に、そういいながら妖艶に微笑んで見せた。
「だとしても、俺はそういうつもりはないし、その証にほら、貢物なんて何もない…し…」
アベルの抵抗する言葉を遮るように、【姫胡蝶】は悠然とこう言った。
「貢物なら、あるじゃないですか」
「は?」
皆、彼の言葉に目を白黒させている。
「貢物…って、どこに…」

「ブル・ノ・ウェアールの輝石」

彼の一言が、再び周囲をざわめかした。
と、同時にハウルの顔から血の気が引いた。

「貴方の瞳、私が欲しかった青い宝石よりも綺麗だ」
「…え…?いや、その、…ええ?俺の目?」
「そう。その瞳、私だけのものにしたい。契約に同意してくれれば、その見返りに、この私の全てを貴方に捧げましょう」
彼の言葉には、暗に“青い瞳”とだけでなく、その持ち主の肉体をも欲しがっているようにも聞こえ、その淫らな印象が、周囲を羨望の伴う溜息の坩堝(るつぼ)に落とした。

「ちょ、ちょっと待て…」
アベルは自分が珍しく動揺しているのに、驚いていた。

どんな時にも、冷静な判断を欠かした事がないのが自慢だった筈では?
そう、どんな人間が相手であろうが、軍人の自分が翻弄されるなんて絶対有り得ないことだ。
しかも、相手は一見、か弱く見える女の姿をした…。

その動揺を知ってか知らないか、姫胡蝶は右手を差し出しながら、ずいっとアベルの前に進み出る。
間近に迫る、想像以上の彼の迫力に、情けない事に全く身体を動かす事ができないでいる。
アベルは引き込まれるようにして、【姫胡蝶】の顔を見詰め、ごくんと唾を飲み込んだ。

何ていう肌だ…。

彼の艶めく真珠色の肌に、アベルは否応なく見惚れていた。
こんな滑らかで、美しい肌をした男…いや、女でさえも、見た事がない。
魅惑的な桜色の唇。さらさらと流れる柔らかな絹のような髪。女顔負けの細い腰。白くて優美な脚線美。
確かに危険な美しさだ。女の姿に興味がない自分でも、素直に彼の姿を美しいと思える。
だが、他の連中はどれくらい気が付いているのだろうか?
それ以上に彼の、この誘うような瞳。邪眼と言われるガラス玉の目の奥に…。
全身で男を甘く誘っていながらも、その彼の瞳の奥に隠された、蒼白いほどの危険な焔を。

何故だ、どうしても彼から目を外せない…!

アベルの頭の片隅で、警鐘が鳴る。

やばい…これはやば過ぎる…。

これが噂の“魔性”、なのか。
男を捕らえ、虜にして、喰いつぶすだけ喰いつぶし、焼き尽くすだけ焼き尽くす……。

これが、悪名高き【姫胡蝶】の魔性の力だというのか。しかも、この俺が…!


彼はアベルのそんな心の葛藤に気が付いているのか、魅惑的に微笑みながら、彼の目の前に白い手の甲を突き出した。すでに二人の距離は、人が二人分入るほどの間しかない。
アベルが無造作に手を伸ばせば、簡単に彼の手を取ることの出来る距離…。

「アベル!」
ハウルの焦っている声が、はるか遠くに聞こえている。
聞こえているが、どうにもならない。
まるで、蛇に睨まれえた蛙、蜘蛛の糸に絡め取られた憐れな蝶…。果ては魔物に囚われた哀れな生贄の子羊か。
アベルの胸中に、そのような幻想が湧いてきて、恐れと誘惑のせめぎに眩暈がしそうになる。
それほど、彼の誘いは魅力的過ぎた。

どんな状況でも、冷徹に処理できるこの俺が…!
アベルは内心ショックを受けていた。
再び彼の頭で警鐘が鳴り出す。
それは今まで足を踏み入れた事も、感じた事もない世界に対しての恐れであるように。

い、け、な、い…。
この手を取ってしまったら、多分、もう、戻れ、ない…。

ハウルの引き止めようとする声と相まって、心の中でもう一人の自分が叫んでいる。
だが、その一方で、己の好奇心と未知への誘惑に抗えず、高揚する自分も確かにいた。
これが自分にとって、新たな世界へのきっかけか、それとも堕落への一歩なのか…、とても今は判断しかねる状態だった。だが……。
「さあ、提督閣下?」
誘惑者がさらに右手を自分の目の前に掲げ、艶かしく指を動かして促すように微笑んだ。その誘うような彼の扇情的な仕草は、アベルの背中に震えを走らせた。
「アベル、どうした?何故黙っているんだ!」
背中で切羽詰ったハウルの声がして、アベルを引き戻そうと動いた直後、その手を逃れるように彼の身体がふいに動いた。
「アベル?」

頭でずっと鳴り響いていた警鐘が、段々と遠のいていく。
代わりに彼の白い肌に己の手を這わせたい、という不埒な欲望が襲ってくるのに戸惑いながらも、アベル自身は気が付いていた。

きっと、その衝動に自分は抗えない。
きっともう、その肌に触れてしまったら、引き返す事ができなくなる…。

確信しているくせに、まずいと思っているのに、意思に逆らい吸い寄せられるように、自分の手が彼の白い手を取る。

「アベル!」

無意識のうちに触れた指先から、熱い電流のようなものが流れ、【姫胡蝶】の目の奥で、勝ち誇ったような光が煌いた。

.....................................................................................................................................


そう、俺は、自分であいつの柔らかい手を取ったんだ。
あの時は意志に逆らってと思っていたが、今にしてみるとそれは違うのではないか、と思う事がある。
今でも心の奥底では、ただ単にあいつの持つ魔性に取り込まれただけなのではないか、と自分を疑っている。
だがそうだとしてもあの時の俺は、確かに、“自分の意思で”カァラの手を取った。
そう、自分の意思で。本能のままに。

...................................................................................................................................


「契約成立だね」
【姫胡蝶】の嬉しそうな声が宴会場に響くと、その場は騒然となった。
野次馬達の驚きの喚声に混じって、求愛者達の阿鼻叫喚とも思える嘆きが渦巻いた。
ハウルは真っ青になって頭を抱え、当の二人はそんな周囲の様子に全く気が付かない、自分達だけの世界にいた。
「何故、俺を…?」
やっと口を開いたアベルの声は掠れていた。
「さあ、何でだろう?」
悪戯っぽく微笑む彼の表情に、アベルは不思議と胸が躍る自分に驚いていた。
今まで自分が触れた事のない、初めて味わうであろう世界。
堕落か、破滅か、はたまた逆転して深い悦楽か幸運か…。
答えの出ない賭けに、アベルははまってしまったような、そんな錯覚を覚えた。
今まで自制して、己をコントロールしてきた自分の人生に、大きな変化をもたらしてしまったような…。
恐れも、不安も、気の進まなさも、全て彼の肌に触れた途端、綺麗に消え去ってしまった事が、信じられなかった。

何故なら、彼がどうしても今までの自分の好みや理想と、あまりにもかけ離れていたから。
今までの自分なら、確実に避けてしまうようなタイプだったから。

それが巷で有名な、全ての男を虜にする天性の魔性のせいだとしても、アベルはもう他の男を笑えない。
今はただ、期待の眼差しで自分を見上げている、目の前の美貌の男しか頭に入らない。
自然にアベルもつられて、悪戯を企むような眼差しを向けながら、彼に笑みを返していた。

それはまるで、これから二人で何か起こそうとする、共犯者のような空気が漂っていて……。

........................................................................................................................................................

「それで、ちゃんと僕の話が聞こえていますか?提督」
アベルは我に返った。
声のほうを振り向くと、沈痛なライルの眼差しが、自分を突き刺すように向けられていた。

そう…。そうだった。
今、自分は、ライルと話をしていたんだった…。

思わず物思いに耽ってしまっていたのだろう。アベルはすまなそうな顔で、ライルに向かって言葉をかけた。
「ああ、…すまない。……噂の件、だったよな…」
「そうですよ」
ライルの声は限りなく冷たい。だが、その声が微かに震えている事に、アベルは再び申し訳ない気持ちで一杯になった。


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2011年11月13日 (日)

暁の明星 宵の流星 #164 その②

何度も繰り返すようだが、品行方正なリッツ家と違って、よく常識を超えている、と言われるジン家である。
が、まだ本家はそれでもマシな方だ。
本当にぶっ飛んでいるのは、アベルの実家である分家の方である。

本家にはアベルの父親デュークの長兄が家を継いでいたが、残念な事に伯父貴夫婦に子供ができなかった。
外に妾を囲っても、その間にも子供がいないので、多分原因は伯父の方にあったかと思われる。
結局子沢山であった弟の子供を養子に迎える事になって、アベルの2番目の兄テリーに白羽の矢が立ち、本家の家督を継ぐ事になった。もちろん、アベルの家は長男が継いで、今では小さな甥や姪に恵まれて、幸せに暮らしている。
弟達も独立し、それぞれ好きな道を歩んでいるし、未成年である末っ子の妹だけは、女子学校の寮に入っているので面倒な事はない。
だからアベルはそのような気楽な分家の三男として生まれ、これまた自由にさせて貰っているのは、天や家族に感謝しなければならない身の上だ。
自由な家風とされるジン家であるが、その中で特にアベルの父親であるデュークが、一番常識を逸脱した強烈な個性の持ち主で有名だった。現在彼は長男に家長を譲り隠居の身となっているが、まだまだ精力的だ。

他国や外大陸相手に身ひとつで貿易商を営み、今や大きな成功を収めているデュークは、かなりの富豪でもあり、とにかく派手な男だった。新し物好き、好奇心旺盛、情熱的で、商才に長けていた父は、もしかすると本家の人間よりも豊かな人生を歩んでいるのではないだろうか。
もうすでに60の齢も半分過ぎているだろうに、気持ちの若さだけは誰にも負けない。
家を長男に押し付けてからは、ずっと海に出てるか、世界を飛び回っていて、家に居つく暇もない。もちろん、最愛の妻同伴で、だ。
そのアベルの母はというと、先ほど話が出たように、もちろん荒波州の模範的な良家出身ののご令嬢ではない。
彼女は東でも南の国に近い、キサラ、という島国の一族の踊り子だった。
大陸では、南から西に向けて、美しい金髪と碧眼を持つ人種が多く存在する。
東と北には黒い髪と黒い瞳の人種が多く、確かに東ではそのような髪と目の色をした人間は目立つし、珍しい。
特に東でも、その南寄りのキサラ族は、西か外大陸から流れてきた少数の人種が、最後に流れ着いた島だという伝えもあって、たまに目を見張るほどの色素の華やかな人間が存在する。
そのキサラ族の島に行商に行った若き日のアベルの父が、まだ14歳だった踊り子の少女に心を奪われ、半ばさらう様にして故郷に連れ帰り、結婚した。
華やかな金髪に、海のように鮮やかな青い瞳。派手なのは容姿だけでなく、陽気で賑やかで、天真爛漫。身分を見ても、どこを取っても、豪族の奥方となるには不釣合いな少女だった。
他の豪族の偏見な目や、周囲の不評な反応に対して、何とジン本家はこの結婚をあっさりと許した。
それだけアベルの父親が彼女を溺愛し、妻に出来ないなら死ぬとまで、親族一同に脅しをかけたからだ。
元々常識に囚われぬジン一族は、半分困りながらも、だが半分は面白がって二人の結婚を許した。

ほとんど世界を飛び回って、たまにしか荒波に戻って来ない人間なら、騒ぎもそんなに起こすまい。
意外と踊り子の嫁も変わっていて、退屈しないかもしれない。
それ以上に、女が少ない大陸において、もう選り好みできるような状況ではないのではないか。
とにかく本人達が愛し合っているのだから、引き裂く方が無粋というもの。
本家はそのように納得して、二人を認めたのだ。

世間ではそのうち飽きて破局するだろうと誰しも思っていたが、予想に反してこの夫婦は絆が深く、七人の子供を儲けても、その子供達が成人に達しようが、ずっと蜜月が続いているという、珍しい熟年夫婦となった。
その夫が今でも、ぞっこんになっているその妻の容姿を、幸か不幸か、七人兄弟の中で完全に受け継いでいるのがアベルだけである。
輝く黄金の髪、深くて青い瞳。顔立ちはどちらかと言うと、放蕩貴公子と呼ばれた祖父に似ていたが、ぱっと見の派手な印象は母だった。そのおかげでアベルはかなり苦労した。見かけと違って、意外と硬派だったからである。
つまりある意味、熟年となってもその華やかさの衰えない母が、実はアベルの鬼門でもあった。

沢山子供を作っておきながら、彼女はいつも夫中心に動いていた。夫が仕事で他国や外大陸に行こうともなれば、必ずや自分がついて行った。というよりも、 若い妻を娶った夫の方が、ことのほか妻を離したがらず、手許に置きたがった。
夫中心に回る生活を、アベルの母は文句一つもなく、いや、かえって楽しんでいたともいえる。
そういう感じなので、どうしたって子供の事は、全て後回しで他人任せになってしまう。でも、それは育児放棄という意識はなく、多分に愛情が夫の方に流れていってしまった結果だろう。基本的には子供を思う優しい母親だった。
しかし、従来の派手で軽薄な行動が災いし、何かとトラブルメーカーだったのも、実は彼女だ。
それにとばっちりを食らうのは近くにいた子供達の常で、当の母親はけろっとしているし、頼りになる父親はいつも面白がってそれを見ていた。
アベル達にとって頭の痛い存在でもあるが、世間もよくわからない歳で結婚してしまって、今でも万年少女みたいな邪気のない彼女を、結局誰もが憎めず愛している。
ただ、母親というよりも、女である方が比重の高い彼女に、アべルは幼少から振り回され毒気に当てられていた。彼が女、というものが苦手となった発端が、彼女にあると言えるのは仕方のない事である。

唯一、彼女に救いがあるといったら、それは見た目と違って貞淑で、ずっと父親一筋である事だった。あれだけ軽薄で派手な美人で色気もある彼女なら、浮気の一つでも二つでのしそうな感じだが、この件に関しては一切ない。もちろん父の監視の目が光っている事もそうだが、雰囲気で誤解してよってくる男達の誘惑にも頑としてなびかず、徹底して追い払っていた。
だから女が苦手なアベルも、女という存在を嫌悪しなくて済んだ。いつも女全開で、子供の前でもセクシーな服装をし、化粧を塗ったくって、媚びるような甘ったるい声を出していても、、結局全てそれは父の為である事を、家族は皆わかっているのだ。

まぁ、女が苦手になったきっかけが彼女だったかもしれないが、アベルが男性を好きだと言う事実はまた別の話だ。

身近な女性がこの奔放な母だったという不運の上に、周りはほとんど男だった。
たまに母の友人や身の回りの世話をする女中やらいたが、アベルとはほとんど接点がなかった。というよりも、大声で笑い、化粧の匂いをさせて、やたらとでべたべた自分に触ってくる彼女らを、幼い頃からアベルは本能的に避けてきたからだと言ってよい。それも彼が幼少の頃から、女の子のような愛らしい容姿だった事も災いしていた。
もちろん、年上の男達も同じように構ってくるが、まだアベルには我慢できた。というよりも、男の中にいる方が安心したし、居心地が良かった。
思えば初恋も父に雇われた貿易船の若い船員だったし、その大人の彼に、全部ではないが恋の手ほどきを教えてもらった。アベルが早熟だったのは、そのせいもある。
ハウルはその事を知らなかったが、そういう経緯もあって、アベル自身、男の中での恋愛は至極当たり前の事だったのだ。

だからこそハウルのお節介な心配事については、アベル本人にとって、本当に大きなお世話でもあるわけだ。

ハウルと付き合っていた当初は、アベルもその事については己の気持ちのままに過ごしていたので、何の疑問もなかったのだが、彼が女性と結婚してしまった事実は、思ったよりもアベルにダメージを与えていたらしい。
ハウルから勧められていたからではなく、世間一般の事情、として自分から意識して女性とも付き合ってみた…が、結局自分自身の性癖が露呈してしまう事となった。
これでは完全に女性との恋愛は無理だし、結婚するとしても、自分にとって政略結婚か、もしくは偽装結婚でしかない。
そう思った時、アベルの中で恋愛や結婚についての意識が薄れてしまった。

その経緯を知らないハウルに、当たり前のように女性との結婚を勧められても、アベルは苛付くばかりである。

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なかなか顔を向けてくれない彼に、再度ハウルはアベルの名を呼んだ。
「アベル…」
自分でも情けない声になってしまった、とハウルは思う。
昔の事を思い出してしまったせいか、じわじわとある感情が湧き上がってきて、それが突如として自分を襲ったのだ。
「すまない…」
突然、意気消沈したようなハウルの声とその言葉に、アベルは驚いて彼の顔を見た。
「何を謝る?」
アベルは話の流れからいって、ハウルは自分に無理矢理女性との結婚を強いた事に後悔して、謝罪の言葉を投げかけたのかと思った。しかし、それが全くの見当違いだった事に、アベルは驚きのあまり目を見開く事になる。
「…何をって…。
お前が私と…男と付き合っていたのが長かったから…。
多感な思春期だった頃に、私と深い付き合いをしていたせいで…。
だから…お前が女性に親しめないのは、私の責任かもしれない。
お前が昔から女性に馴染めない所があると知っていて、結局何もできなかった私のせいだ」
「おい、ハウル…」
半ばアベルは絶句して、信じられないような顔で、目の前にいる昔の恋人を凝視した。
「だってそうだろう?
お前がこのようになってしまったのは私のせいだろう?
多感な時期に男と親密な交際をしていたせいで、元々苦手だった女性を、益々遠ざけてしまう結果となって…。
だから結婚にも支障がきてしまったんだ」
アベルと付き合っていた当時、ハウルは好奇心から女の子や年上の女性と遊んだ事もあった。
だが、反対にアベルは女性との交流を、ことごとく拒絶していた。

ハウルにとっては、男と女は別物という意識があって、とりわけオーン教徒の母親の影響で、将来は“女と家庭を作る”のが基本として育てられてきた。だから普通に女性を受け入れられた。
それ以上に、この大陸では自分の子を産んでくれる女は貴重だ。
多数の女を囲う事ができるのは、王侯貴族でも力の強い者だけである。
それは弱肉強食の今の大陸では常識ではあるが、そのシワ寄せが少なからずきている事は、世間一般では痛切な問題ともなっている。
そのせいだけではないが、女が少ない地方では、一人の女を多数の男と共有しなければならなかったり、あぶれた男同士がくっつかざるを得ないという、状況が確かに増えてきている。
動物の世界でさえも、オスばかりになると、オスがメス化…表面的にメスの代わりをする事例だってある。それは自然な流れでもあり、切実な事だ。つまり今の大陸は、これに近い現象が起こっているというのはわけだ。
女が少ない上に、しかも一人の女が産む子供の数だって限りがある。
ハウルは一州の長として、子孫の繁栄にも力を注がなければならない。
その件もあって、一般常識としてなるべく、女性との結婚を望む事が当たり前なのだ、という意識が強かった。

だからアベルの意識が自分とは違うという事に、理解しづらい部分があったのかもしれない。いや、理解しようとしなかったかもしれない。それが普通の事だとハウルは思っていたから、きっとアベルも同じであろう、と思い込んでいた。

「…ハウル…お前、俺の相手が、男であるお前の弟だったと知って、そんなに衝撃だったのか?
──俺がずっと男であるお前と付き合ってきたから、女に馴染めなくて…結婚できないでいる。しかも生涯の相手に、お前の弟を選んでいた…。
それをまさか、全て自分のせいだと、責任を感じているとでも?」
アベルの方がショックだった。まさか、ハウルが自分に対して、そのような負い目を感じているとは思わなかった。
あれだけ愛し合い、長く付き合って、互いを理解していたつもりだったのに。
いや、互いに夢中だったから、目が眩んで見えていなかった部分があったという事か。
自分が愛した人間だ。別れたとしても惹かれる部分は変わらないし、今でも彼を尊敬している。だからこそ、アベルは落胆と虚しさを感じながら、ふつふつと憤りが心の底から湧いてくるのを感じていた。

「責任…?そうかもしれない。
だけど、荒波の州知事長として、昔の恋人として、お前を心配する気持ちは嘘じゃない。
お節介かもしれないが、私はお前に普通の結婚をして欲しいんだ。
女性が苦手なのが私のせいなら、できるだけ協力する」
「協力?」
アベルは思わずむっとする。嫌な予感がする。
「ああ、女性に慣れれば、きっとうまくいく。さっきも言ったが、今からでも遅くはない。
お前の花嫁候補を何人か私の方で手配しよう。
なるべくお前が拒否反応を起こさないような、慎ましやかな淑女を。
慣れればお前だって、情くらい湧くだろう?男と添い遂げるよりも、その方が有意義だと私は思う」
「待てよハウル!俺の気持ちはどうなんだよ。そんな勝手に」
「頼むよ、アベル。何人か女性と会ってくれ。その中の一人と結婚して欲しい。
そうすれば弟だって、完全にお前を諦める」
「ハウル!!」
怒りのあまり、アベルは大声を出して席を蹴って立ち上がった。

「どうかされましたか?」
そのあまりにもの剣幕に、近くで給仕をしていた世話係が、驚いて傍に寄ってきた。
「あ…いや、何でもない」
アベルは気まずそうにその世話係に苦笑して、すとんと再び席に座った。
「そうですか。…お飲み物がなくなりそうですが、お持ちいたしましょうか?
それとも何かお口直しに、甘い物でもいかがでしょうか」
「ああ、ありがとう。…じゃあ、何か果物でも持ってきてくれないか?できればさっぱりした物を」
「かしこまりました」
恭しく頭を下げた彼の肩越しに、偶然に大勢の人間が一箇所に集まっているのが目に入った。
アベル達がいるテーブルからかなり離れた、簡単な仕切りを立てたその場所に、はみ出るようにして数十人という男性達が群がって、時折、騒がしい声を上げている。会場の隅の席で、会話に夢中になっていたアベル達は、全く気が付いてなかった。
「あれは?やけに騒がしいね」
アベルは興味深そうに目を向けて、世話係りに聞いた。
彼はちらりとその場を見やると、「ああ」と小さく頷いて、興味津々なアベルに答えた。
「あれは姫胡蝶様のおられるブースです。いやぁ、殿方様が色めき立って賑やかでしょう?
…私も噂に聞いておりましたが、あれほど美しい方だとは…。
あ、申し訳ございません。つい…」
つい、個人的な感想を漏らしてしまった事に、世話係りは苦笑し、再びお辞儀をするとその場を離れた。

(姫胡蝶か…)
アベルは先ほど宴会場の奥のホールで、中央国ゲウラの役人と共にセドの王子の存在を明かしていた、髪の長い人物を思い起こした。かなりの遠方で見たので、その姿の細かい部分はよくわからなかったが、それでも彼が纏っていたオーラは妖しく輝いていた。長くて柔らかな薄紫色のローブに、花の刺繍を施した女性用のドレスに身を包み、どう見ても青年には見えないほどの艶やかさだった。
男が多い大陸において、好んで女性の格好をする男が多いのは珍しい事ではない。ただ単にその格好が好きなだけとか、女になりたいとか、様々な理由はあれど、ほとんどが彼のように女装し女の代わりをして、男に媚びて利益を得ようとする者が多い。
特に悪名高き姫胡蝶の、完全に女性のようなその有様。中身が男性だとわかっていても、それが鼻についていたアベルには、いくら周囲の男どもが大騒ぎしても、何の興味も湧かなかい存在だ。


「お前が怒るのも無理ないと、私だって思うよ」
ハウルの言葉でアベルは我に返った。そうだ、今ハウルと揉めていたんだっけ。
「思うなら何故、俺の気持ちも聞かないで、押し付けるように話を進めるんだ」
アベルは憤りも隠せず、唸るようにしてそう言った。
「そう…そうだね。その通りだ…」
打って変わったハウルの沈んだ態度に、続く反論の言葉が詰まった。
気落ちする風情が何とも儚げで、どうもアベルは昔からその様子に弱い。
「だけどね?アベルが女性と温かな家庭を作れば、弟のライルだって目が覚めると思うんだ…。
お前には強引に話を進めて、気分が悪いのは重々承知として、あえてお願いする。
私には、家と、荒波を守るという使命がある」
結局、そこか。
アベルは飲み込んだ言葉を溜息に変えた。だが、どうしてだか苛立ちは全く消えない。
「だから、その…。これは個人的な頼みというよりも、州知事長としての嘆願だと思ってくれないだろうか。
双璧の片方である荒波海軍提督に、相応しい妻を娶ってもらうのは、誰が聞いても正しい判断だと思うだろうし」

駄目だ。
もう我慢できない。

アベルの深くて青い瞳に、憤慨の色が色濃く現れた。
「ああ、そうですか。双璧である荒波海軍提督が、同じ軍の、しかも自分の部下で側近の男を、番(つがい)にしているというのは、そんなに体裁が悪いという事なのですね、州知事長殿」
「アベル」
ハウルは、冷や水をかけられたようにはっとした。
このような彼の冷酷ながらも、猛々しい態度を、滅多に向けられた事のなかったハウルは、内心しまった、と蒼くなった。
恋人として底なしに甘かったこの男は、今ではまかりなりにも、あの荒くれた海賊を打ちのめした、激しい闘志を持つ軍神とも讃えられる男であった。
相対する者に関して、場合によっては情け容赦ない人間だ、という事を忘れていた。
ハウルは内心冷や汗を掻き、珍しく慌てた。
もしかしたらこの男を、取り返しの付かないほどに怒らせてしまったのではないだろうか?
おそらく自分は少し自惚れていた。
アベルが昔と変わらず自分に友好的だったという事に、昔の気分で、気安く彼に踏み込み過ぎたのかもしれない。
ハウルは初めてアベルに対して恐れを感じた。
その青い瞳が、穏やかな海の青ではなく、氷のように凍るほどの冷たい青に変化していくのを、ハウルは血の気の引く思いで見詰めていた。初めて自分に向けられる、その冷たい眼差し。
慄きと共に、何故だろう、という疑問。恐ろしいのに、何でこんなに自分は、彼の瞳から目が離せないのか…。

一方、ハウルの恐れを知ってか知らないか、アベルの口調はどんどん険しさが増してくる。
「わかった。州知事長がそう仰るのなら、自分も考えるとしよう」
アベルはそう言って、苦虫を潰したような顔で、席から立ち上がった。
「アベル…?」
ハウルは彼の様子に慌てて、自分も席を立った。
「だけど悪いが、俺はどうしても女が苦手だ」
「アベル」
ハウルが止めようとするのを押しのけて、アベルは席から離れた。
どうしようもなく、どうにでもなれという捨て鉢な気持ちだった。
「アベル!どうしたんだ?一体、どこへ…」
アベルは自分を掴もうとするハウルの手を振り払いながら、ずんずんと会場の中央に進む。
その態度に、ハウルは益々不安を募らせ、彼が何をするつもりか見当もつかずに追いかけた。
「なあ、私が怒らせたのなら謝るよ。さっき言った事も、撤回してもいい。だから…」
「撤回?そんなに州知事長殿は、自分の考えを簡単に曲げられる方なのか?
貴方にとって、州と家が一番大切な事なのでしょう?
なら、この海軍提督にも、断固とした信念を貫いたらどうか」
まるで他人行儀な、冷たい言い回し。
ハウルは必死になってアベルを宥めようとするが…。
アベルが歩いて行く先々で、数少ない御婦人方の溜息が洩れる。その羨望の混じった眼差しを意に介する様子もなく、アベルは中央の先で群がる男達の集団に向かって行く。
ハウルは息を呑んだ。だってその男達の先にあるのは…。

「おい、どこに行こうって言うんだ、アベル!」
ハウルは思い余ってアベルの肩を掴んで振り向かせた。
「どこにって?決まっているじゃないか。
これから天下の姫胡蝶様に接見しようと思っているんだよ」
「何だって?」
先ほどまで考えてもいなかった行動に、アベルは無性に駆られていた。
「かの有名人に、挨拶しなければならないだろう?仮にも有意義な情報を東にもたらしてくれた御方だ。
荒波州提督として、礼の一つも言わねばなるまい?」
「何を言っているんだ、アベル。どうして突然そんな事を…。
姫胡蝶は、男を惑わすという魔性の存在だという噂じゃないか。
それにあれは男だ。いくら女のような格好をしているからといって…」
「だから都合がいいんじゃないか」
「は?」
「悪名高き、一国を滅ぼしたとも言われる美貌の持ち主だぞ、姫胡蝶は。
男のくせに、300年前に実在した、王をたぶらかして国を滅ぼした寵姫、【胡蝶蘭貴妃(こちょうらんきひ)】の再来、とも言われ、寵愛を賜った小国の王に、そこから異名を戴いたというではないか。
先ほど遠めで見かけたが、なるほど、そこらの女性より女らしい風情だった」
ハウルはアベルが何を意図しているのか、まだよくわからないでいたが、ずっと嫌な予感はしていた。
「だから…?」
おずおずと尋ねるハウルに、アベルは思い切りニヤリと意地悪く笑ってみせた。
「好都合だと思ったのさ。お前があんまり女と付き合えと煩いから、俺も模索してみたんだ。
いきなり本物の女をあてがわれて拒否反応を起こすより、とりあえず中身は男だが、見た目はまるっきし女である彼に慣らされれば、少しは俺の化粧嫌いも、女に対する拒絶も緩和されるんじゃないか?
その方が、せっかく女を紹介してくれるお前の顔も潰さなくて済むだろう?」
ハウルは唖然とした。
「つまりお前は、その……女性を克服する為に…」
「そう、その前に彼と接して、女の臭いに免疫をつけようと思う。
まだ男である彼の方が、すんなりと馴染めそうだからな」
そう言ってハウルの手を自分の肩から外し、再び歩き始める。
呆然としていたハウルは、はっとすると、また慌ててアベルを追いかけた。
「何を考えているんだ、アベル。
噂ではあの男と寝たら、生涯女を抱く気が失せるとまで囁かれているほどの魔性の男だぞ。
お前…まかり間違ってそんな男の毒牙にかかってでもしたら…」
「はっ、生涯女を抱けなくなる?」
アベルの口から乾いた笑いが洩れる。自分にとって、そんな事恐れるに足らない事だ。かえって好都合な話じゃないか。
だが、どうしても妻子を持って欲しいハウルとしては、最悪な事であろう。
自虐的な笑いが、アベルを支配していた。
彼は心の中で嘲りながら、もっともらしい考えをハウルに投げかける。
「いいじゃないか。別に、向こうだって簡単に取って食おうとはしないだろ?
それよりも、魔性の男、姫胡蝶は邪眼の持ち主だという話もあるな。
どちらかというと、そっちの方が気にならないか?」
「え?それってどういう…」
「彼の邪眼に協力してもらう、というのもいい案じゃないか。
俺達…いや、ここにいる人間全て、セドの王子を手に入れたいと思っているだろう?
だからこそ、彼に協力を仰げるいい機会だと思うわけだ。
…セドの王子を、その邪眼で捜してもらう為にね…」
ハウルは絶句した。まさかアベルがそこまで考えていたとは思わなかった。

アベルとしては、まさにその場の思い付きだったのだが、言葉をなくしているハウルの様子を見て、少し溜飲が下がったような気がした。
「ということで、俺は彼に挨拶してくるよ」

少し気分を良くしたアベルは、呆然と立っているハウルに片手をひらひらさせると、意気揚々と大勢の輪の中に入って行った。
 

 

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2011年11月 5日 (土)

暁の明星 宵の流星 #164 その①

「おい、ハウル。お前知っていた?今年入寮する新入生の中に、ヒヨコちゃんがいるんだって」
「ヒヨコちゃん?」
「あれ、覚えてない?ほら、何年か前に、親の都合で他の学校に転校したちっちゃい子、いたじゃん。
あの有名なジン家の三男坊だよ。リッサ家のお前の方が、よく知っているんじゃないの?」
ジン家、と聞いて、ハウルはやっと思い出した。
「……ああ、そういえば、いた。
テリー先輩の弟だよな?確か一つ下の…。あの黄色い頭の子か」

確かに三大豪族は、親戚付き合い並に親しい間柄で、幼少の頃、たまに親達が集まった時には、よく子供達だけで遊んだ。だが、本当の事を言うと、そんなにべったりと親しいわけでもない。ジン家を内心よく思っていない母親に、たまに遊ぶならいいが、あまり彼らと深く親しくしないよう、言われていたからだ。
その当時はどうしてだろう、と思っていたが、どうやらハウルの母は、特にジン家の奥方…つまりアベルの母親…と、どうも反(そり)が合わないらしいのだ。

アベルの母であるミンティア=ジンは、荒波社交界の中でも異端な存在で、見るからに浮いていた。
いつも奇抜な格好で己を飾り立て、派手で奔放な姿は、決して社交場に来る様な上品な奥方風情ではない。それだけでも、ハウルの母は眉を顰(ひそ)める所なのに、その上、言いたい事ははっきり言うし、やりたい事はどんどんやるし、元々踊り子だっただけあって、色っぽい振る舞いが見るからに蓮っ葉なイメージを彷彿させている事も、益々彼女の気分を害するに充分であった。
それでもまだ本家でなく分家の奥方、という事で、周囲の奥方連中からは、あからさまな中傷は受けずに済み、かえって気さくで邪気の無い性格が幸いし、上流階級では意外と彼女のファンがいて、それが取り巻きのようになっていた。
もちろんそれすらも、ハウルの母としては面白くない事実であろう。
だがハウル自身は、そのアベルの母筆頭に、ジン家の人間は嫌いじゃなかった。
自分の母が眉根を寄せる存在だとしても、自由で陽気な、常識に囚われない明るいジン家の人々といると、子供心に楽しかったし、自分の家では余り感じない、開放感を味わえた。
長子であった自分は、どうしても早熟でませていて、上に兄弟がいない事もあり、当時は年上の少年といる方が楽しかった。だから年下や弟達よりも、もうすでに成人に近かったゴツラ家兄弟達や、すぐ上のアベルの兄達の輪の中ばかりにいて、ほとんど下と遊んだ事がない。それでも親に命令されて、小さい子達の面倒をみた事があるが、確かにその中に、小さくて可愛い黄色い髪の子がいたな、と思い出した。
その子は東では珍しい金髪と、青い目をした人目を引く子で、一人その浮いた容姿から、多少引っ込み思案で内気な所があった。背丈も自分の2番目の弟と同じくらい小さくて幼かったので、ずっと弟と同じ歳かと思っていたくらいだ。それが初等部になって、その子が自分とたった一つしか違わない事にハウルはとても驚いた記憶がある。

「へー。あの子、ヒヨコちゃんって呼ばれてたのか…」
「そうそう、上級生の間で、まっ黄色の癖っ毛をふわふわさせて、ちょこちょこと歩く姿がヒヨコみたいで可愛いってさ、ちょっとしたアイドルだったんだぜ」
「なるほど」
「だけど、入学してすぐに両親の都合で転校しちゃったろ?
その時の上級生達の落胆ぶりったらさぁ。俺、兄貴が高等部にいるからよく知ってんだ」
同級生でルームメイトの少年は、鼻の上に散らばるそばかすを擦りながら、ハウルに説明した。
「だから高等部の先輩方が、最近騒がしかったのは、そのせいだったのか…」
ハウルは納得した。毎年、新入生が入塾する頃になると、アイドルを求めて上級生が色めき立つのは良くある事だ。だが、やけに昨年以上に盛り上がっているなぁと、最近ハウルは不思議に思っていたのだ。
「じゃ、その子は中等部からこの学園に戻ってくるのか」
「そういう事情、お前の方が詳しいと思ったけどな」
ハウルは肩を竦めた。
「この所、勉強に専念したいからって、家に帰っていないからね」
というよりも、家に帰っても母がジン家の話をしたがらないのだから、耳に入りようがない。


貿易商を営んでいる分家のアベルの父は、やり手の経営者としても有名な人物だった。
人に任せるよりも、持って生まれた好奇心のせいか、自分の目と耳で確かめなくてはいられない性格のようで、自社専用の貿易船で自ら買い付けに行ったり、他国と交渉したりしていた。だからよく、交渉する相手が変わるたびに港も変えるので、ぐるぐると拠点を移動しては、まだ年端のいかない子供だけが、それにつき合わされていた。
後からアベルから話を聞いた所によると、当時は親の都合で振り回された生活が、5年以上も続いた様で、その半数が船の上で生活していたらしい。だから本当は陸よりも、海の上の方が落ち着くんだと、アベルはよく零していた。
その時、すでに初等部中学年と中等部にいたアベルの兄二人だけは、すでに入寮していた事や、ジン一族本家の意向もあって、この学園に留まっていた。だからハウルとしては、その一つ下のヒヨコちゃんよりも、2学年上のアベルの兄、テリー=ジンの方が馴染み深かった。それでも同じ寮にいても、高等部と中等部は階が別れているので、彼が高等部に上がってしまったからは、ほとんど接触がなくなっていた。
だから、彼の弟達がこの学園に戻ってくるという話も聞いていない。
「どんな感じになってると思う?当時のまま、ヒヨコちゃんって感じかな。
あれだけ珍しい髪と目の色をして、目立つくらい可愛かったんだ。
あのまんま成長したら、完全に上級生に狙われるだろうね。
そしたらこの寮もアイドル争奪戦で煩くなるんだろうなぁ…」
級友はやれやれという風に、頬杖を付いて溜息を漏らした。
男ばかりの寮生活に、刺激を求めるのは仕方ないと思うが、いささか常識を逸脱するような振る舞いは、ハウルも賛成しかねない。できれば心穏やかに、寮生活を送りたいもので…。
そう思うのも、やはり自分も入寮した頃は(初等部だったが)、そういう上級生のターゲットにされて嫌な思いを散々したからだ。
今では寮生活が他の学生よりも長く、古株のような存在になっているハウルである。
もちろん、持ち前の頭と要領の良さで、最高権力者である寮長や生徒会を味方に付けた事によって、自分に不埒な思いで近づく輩がぱったりといなくなった。お陰で平和な学園生活を送れているのはありがたい。
だからこれから入寮してくる、(少し)幼馴染でもあるそのヒヨコちゃんが、どんな目にあうかと思うと、ちょっと可哀そうな気がした。

だが、それは自分の単なる杞憂であった事に、その後ハウルは思い知らされる。


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「喧嘩だ、喧嘩だ!」
生徒達の叫ぶ声が、穏やかだった晴天の広場に反響する。

それは入学式も終わって、新入生歓迎会が始まろうとする直前に起きた。
一学年上のハウル達が恒例の幹事となって、中等部に進学する、しかもこれから共に寮生活を送ろうとする新入りの歓迎会を、学園の園庭で催す事になっていた。その準備で右往左往していたハウルは、突然の喧騒に驚いてその場に駆けつけた。
「一体、何事だ」
騒ぎを収めようと、もうすでに野次馬で人だかりになっている場所を掻き分け、突き進んだ彼の目に、見るも鮮やかな黄金の色が飛び込んできた。

「二度とお袋の悪口を言うな!
言ったら今度はそれだけじゃ済まないからな!!」
それは今激昂している少年の、日の光を受けてきらきらと輝くばかりの髪の色だった。
「だって、本当の事じゃないか!お前の母親、ごてごて着飾って変な格好してさ!さすがふしだらな踊り子だっただけあるって、僕の両親が言ってたぞ」
目の前には顔を殴られたであろう相手の少年が、崩れるようにして尻餅をつき、金髪の少年を悔しそうに見上げていた。
「何?もう一回、言ってみろ」
金髪の少年が目を眇めて、凄みのある声で言うと、相手の少年の顎に自分の靴先を向けた。
今にでもその足を蹴り上げそうな迫力に、相手は青ざめ口を閉ざした。
「おい、やめろ…」
ハウルが声をかけようとして前に進んだその時、その少年がふっとハウルの方を振り向いた。

「……ブル・ノ・ウェアールの…輝石…」

彼の、その力強くも意思の強そうな瞳と、自分の目が合わさった途端、吸い込まれてしまうような感覚に、ハウルは一瞬、息が止まった。
その瞳は信じられないほど青い。
その青は、大陸でも最も美しい海域と賞賛される、南東の果てにあるブル・ノ・ウェアールの海を彷彿させた。
いや、正確には自分はその海を見たことはない。が、大陸全土で発掘される全ての青い輝石の中で、その海と同じ美しさを持つ青が、最高の青だと格付されているのは、誰もが知っている事である。
だからその輝石になぞらえて、美しい碧眼の持ち主を『ブル・ノ・ウェアールの輝石』と称するのは、最高の賛美であった。
裕福なハウルの実家にも、母が輿入れした時に父が贈ったとされる『ブル・ノ・ウェアールの青』、と判定された大粒のサファイアを何度か見た事があるが、それよりも彼の瞳の方が美しい気がする。

それよりも相手を気負わすような、力強い眼力。
それが周囲を圧倒しているのは確かだった。

「マジかよ…」
いつの間にか、同じように喧嘩を止めようと駆けつけてきた、同室の級友が自分の背後で呟いた。
「信じられない…!あのヒヨコちゃんが大きくなって、鷹になっちまうとはね…」
「じゃあ…彼が」
ハウルは絶句した。いや、この髪の色、目の色。間違うわけもないのは、自分だってわかっていた。だが、幼い頃の面影しか知らなかったハウルにはかなりの衝撃だった。
彼の名前を呼ぶにも、喉が引きつる。
「彼がアベル…ジン?」


..................................................................................................................................................................................

確かに今の彼を、誰もヒヨコちゃん、なんて呼ぶ人間はいないであろう。
小さかった身体は、ここ数年で勢いよく成長したのか、クラスの中でも割と背の高いハウルと並ぶ勢いだし、どこで鍛えたのかと思うようなしなやかで柔軟な身体に、長い手足がバランスよく映えて、輝く金髪が縁取る端正な顔立ちが、すでに可愛らしいを通り越している。それよりも、彼の気性が、ハウルを一番驚かせた。
内向的で、いつも兄達の後をちょこちょこ付いて回っていた小さい頃と、全く変わっていた。
長年の放浪?生活が彼を逞しくさせたようだ。
はっきりと通る声、物怖じしない性格。頭の回転が速く、適格な判断力もあって、意外と世話好きだった。
これではアイドルというよりも、プリンスといっても文句のない存在だ。
事実、彼の迫力に気後れして、上級生達は誰も彼をどうこうしようとする気力は失われていた。
でもそれは人気がないという事ではなく、まるで高嶺の花を愛でるような雰囲気に変わっただけである。
事実、彼が中等部に入ってから、瞬く間に学園の中枢である生徒会から一目置かれ、ハウルと同じく出入りを許可された。
中等部の生徒が、高等部の生徒会に出入りを許された、という事は、将来の生徒会の役員と期待されている、という事だ。
もちろん、彼らが高等部に上がってからは、それぞれ半分ずつ、ハウルとアベルが交互に生徒会長を務めた。

そのような学園の花である二人が、一緒にいる時間が増えるにつれ、惹かれ合わない方が無理である。
ただ、その恋は、ハウルの家の手前、公にはできなかったのだが…。


.......................................................................................................................................................................

二人の関係は、時間差で卒業し、ハウルが大学院、アベルが海軍にと別れても続いた。
だが、二人の付き合いが、微妙に十代の頃と変わったのは、将来の話が出始めてからだった。

寮生活を卒業してから家に戻ったハウルは、改めて自分の恋が、自分の家族に、特に母親に祝福されるものではない事を、身を持って知った。
ジン家の人間、というだけではない。相手が男だという事が、一番の問題だった。それがハウルを現実に引き戻したのかもしれない。何年もハウルの心は揺れ動いた。家の為を考えれば、いつかは別れなくてはならないと思っても、ハウルはアベルを手放す事ができなかった。そう、父親が亡くなるぎりぎりまで。


一方、アベルはハウルの家の事情を知って、軍に入って間もない頃に、自由な家風である自分の家族にさりげなく聞いた事があった。
「俺の結婚に規制はある?」
食後の団欒中に、突然息子から何を聞かれたのかわからなくて、きょとんとしている父親に対し、動物並みに勘が冴える母親はすぐにピンと察したらしく、緊張する自分ににっこりと笑ってこう言ったのだ。
「アーちゃん(いくつになっても、母親は自分をこう呼ぶ)が連れてきた人は、誰であろうと歓迎するからね」
「……男でも?もしも結婚できない相手でも?」
「いいんじゃないの。だって、アーちゃんが選んだ人だったら、男でも女でも間違いないでしょ?
これだけ兄弟がいるんだもの、跡継ぎの問題だって何とかなるでしょうし。要はアーちゃんが幸せであれば、それでいいのよ」
呑気な言葉に、アベルは肩透かしを食らった。
「それでいいわけ?」
「おう、いいぞ。別にうちは分家だし、父さんも母さんも好き勝手生きてるし。
ま、お前を信じているっていうのもあるけれど、ただ、自分を偽るような結婚だけはして欲しくないよなぁ。
ほら、私達みたいに、心が求める運命の相手と添い遂げた方が、幸せだとわかっているんでねぇ。
なっ?ミーちゃん」(母の名前がミンティアだからだ)
父親の言葉に嬉しそうに母親が頷く。
「さすが私のデュー君!」(父の名前がデュークだからだ)
気持ちが昂ぶった二人は、手を取り合ってうっとりと互いを見詰め合う。
「ミーちゃん♪」
「デューくん♪」
今にでもキスしようという勢いの二人に、アベルは顔を赤らめて席を立った。
そうしていつものごとく、子供の前でも恥じることなく、いちゃつく両親を片目で見ながら、アベルはその場からそそくさと退散した。

当時のアベルはここまで自分の家と、ハウルの家が両極端だと知って、絶望的な思いに囚われた。
確かに風来坊な両親は、分家だという事も手伝って、自分の意思を尊重し、何かと優先してくれる。(ある意味、それを放任だという人もいるが)
そうだからとて、自分だって男だ。他の誰よりも野望はある。
機会があれば出世のために、政略結婚だって厭わないと思う。
それが両親の顰蹙(ひんしゅく)を買おうとも、いや、最終的にはアーちゃんの決めた事だから、と言って、渋々許してくれそうだが、昔から将来の事は自分で責任を負う覚悟は持っているつもりだ。

…しかしここまでハウルと自分の家の違いを、実感したのは社会に出てからで、その現実は思ったよりも厳しかった。
学生の時は、自分達の事だけを考えていればよかった。だが、社会に出ればそんな事は言っていられない。
周りの意向が、互いの運命を翻弄する事になるのに、時間は掛からなかったのである。
たとえ自分の親が、味方になってくれるだろうとわかっていても。


.....................................................................................................................................................................................

今考えれば、結局俺は周囲の重圧に負けたんじゃないか…!

久し振りに再会した中央国で、ハウルの話から逃げるように目を逸らしたアベルは、冷静になろうとして目をぎゅっと瞑った。
だが、かえって様々な思いに襲われて、どうも心が苛立つのが収まらない。

ハウルもまたアベルと同様、昔の事を色々と思い出していた。
彼の心は一瞬、初めてアベルを意識した、あの13歳の時に飛んだ。

顔を逸らし、目を頑なに瞑るアベルの横顔を見ていると、どうしても切ない思いが込み上げてくる。

ブル・ノ・ウェアールの輝石…。

そう讃えられる彼の瞳を、もう一度見たい。
そしてその瞳が、再び自分の姿を映して欲しい…。

ハウルは衝動的にそんな感情に囚われて、再び彼の名を口にした。
「アベル…」
だがその声は、先ほどみたいな責め入るようなものではなく、昔のような甘みのあるものとして、アベルの耳に切なく響いた。

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2011年11月 3日 (木)

暁の明星 宵の流星 #163 その②

《君を取ると言っているのは…本当なのか?》

ハウルの咎めるような声に、アベルは手が冷たくなるのを感じた。
いや、ハウル自身、そういうつもりではなかったが、結果的に責めるような声色になってしまって、次の瞬間、唇を噛んだ。
「ライルがお前にそう言ったのか?」
やっとの思いで開いたアベルの口調は、思ったよりも重いものになってしまった。
「…ああ。私にだけはね」
ハウルはふぅっと溜息を付くと、疲れたように答えた。
かなりその事で、ライルと言い争いになったのだろうか。彼の眉間には深いしわが寄っていた。
「……そうか。…ライルが…」
アベルが詳しい事を話さない事に苛立ったのか、隣で言い淀んでいる本人に向けて、ハウルはまくし立てた。
「…折角の良縁なんだ。お前だって、わかっているだろう?
この大陸では女が少ない。特に東は他の国に比べて絶望的に少ない。
……という事は、家柄の良い娘の数だって、そうそうあるものじゃないのは、お前だって知っている筈だ。
荒波だって、身分の高い娘の数が少なく、引く手数多で競争率が高い。
これからはもう、州単位ではなく、国単位で物事を進めなければならないだろう。
しかも他州、他国の令嬢を嫁に貰うのだって、段々と厳しくなっている現状だ。
それは他の州だって同じ事を考えているからだ。…このままだと、血が途絶えてしまうからね。
だから互いの取引や利益も兼ねて、やっと隣州である清流の豪族の娘と縁繋がりができたんだ。
相手の令嬢はライルを一目見て気に入ってくれた。他にも山のような縁談の中から、荒波の州知事長の弟を選んでくれたんだ。……母も、一族の者も諸手を上げて喜んでいたのに…、ライルの奴…」
そこでハウルは手にしていた杯をぐっと空けると、大きく息を吐いた。
「すまん。つい、興奮してしまった…」
こめかみを手で揉みながら、ハウルはぼそっと呟いた。
彼の焦燥は、隣のアベルにもはっきりとわかる。わかるからこそ、辛かった。
まるで、二人が別れた時のように、どっしりと大きく圧し掛かる重圧。……海軍という、ある意味世間から隔離された男の世界にずっと身を置いていたアベルは、長い間、この重圧を忘れていた。
「とにかく母が嘆き悲しんでいて、見るのも辛い。…ライルは末っ子で、兄弟の中で一番溺愛されていたからね。
まさか…高等部を卒業してすぐに、皆の反対を押し切って海軍に入るとは思わなかった。
あれだけ母が危険な仕事は嫌だと狂ったように引き止めたのに、ライルは頑として従わなかった…。
あの時私は、ライルが男として誇りのために軍に入隊したんだ、骨のある奴だと、そう感心して、あいつの味方になって周りを宥めてきた。ただ、そのままでは母達を説得できないから、ライルには五年の猶予をつけた。五年経ったら自分の秘書とするつもりで…」
「…………」
ハウルは顔を上向かせ、左腕で自分の目元を隠した。
「約束の五年経っても、再三、家族が軍を辞めろと言っても、あいつは最初から戻ってくる気はなかったんだな…。
それが…まさか…。お前を追いかけていたとからとは…。
…思ってもみなかった」
最後の声は掠れていた。
アベルは深く吐息を零すと、俯き加減にした自分の頭を片手で支えた。
「だから縁談を進めたのか」
「ああ、進めた。とにかく母を筆頭として、ライルを軍から取り戻したかった。
あいつには内緒で相手と引き合わせて、有無を言わさず婚約させ、式の日取りまでも勝手に進めた。
結局それがライルの逆鱗に触れて、家は大変だったよ」
アベルは最近のライルの様子がおかしかった原因はこれだったのか、と腑に落ちた。
いつも控えめだったあの彼が、このひと月、激情に駆られたように自分に挑んできた。
それまで自分の手となり足となり、忠誠の限りを尽くしてくれて、もちろん、彼の自分に対する特別な好意を隠そうとはしなかったが、それでもまるで探るような、慎重な態度が続いていた。
だが、ある日を境にして、急にライルは積極的に動いた。
体の関係が出来たのも、躊躇するアベルをライルが押し切ったからだった。
それもこれも、家の決めた縁談が、思いの他ライルを追い詰めていたのは、ハウルの話から安易に想像できた。
アベルは目を閉じた。
ライルと恋愛したら、こうなる事は目に見えていたじゃないか…。
わかっていたつもりだったが、アベルはどうしてもライルの情熱を拒む事ができなかったのだ。
「でも、さすがにライルの奴、母の前では本当の事を言わなかった。でも、納得できなかった私は、あいつを問い詰めて本音を聞いて愕然としたよ…。わかっているだろう?アベル。
母は敬虔なオーン信徒だ。…同性同士の恋愛は決して認める事ができない」

女の少ない大陸において、男同士の恋愛は世間では当たり前になっている。
生理的、または宗教的に受け入れられない者以外、別に男同士で所帯を持っても、誰にも後ろ指を指される事もなく、堂々とできる環境にある。もちろん、国によって制度は違えど、正式ではないが結婚も可能だ。
荒波州は特に女性が少ない為、その家の養子となる事で、暗黙で男同士の婚因が認められていた。
だから、別に同性愛者でも何も恥じ入ることではないのだが、子孫繁栄という意味では、大きな問題も孕んでいるのも事実だった。
ハウルと別れた事情も、この件が大きい。
特にハウルの母親は、あの神国オーン出身者の、生粋のオーン信徒であった。
オーン教に殉じる聖職者は、完全に性の営みを禁じられているが(なので戒律の最も厳しかった宗教戦争前までは、当たり前の様に強制的に男女とも去勢させられる者が多かった。今は人道的思想を優先する為、希望者のみとなっている…つまり、現在では肉欲を克服するも精神力の鍛錬を重視、という教えになっているらしい)、ただの信徒は正規の結婚のみが許されている。つまり、神の前で誓った相手を唯一とするという教えの為、愛人を作る事はもちろん、相手と死別しても後添えを持つ事すら許されないのだ。結婚したら生涯その相手ただ一人だけと添い遂げる。性的快楽の為の性の営みすらも禁じられ、唯一子供を授かる行為としてのみ許される。
だからこそ、子を生す事が不可能な同性同士のカップルは、快楽を追い求めているという理由で、もちろん忌み嫌われた。
どうしてこのような教義になってしまったのかは、色々と要因はあるだろうが、とにかくオーン教義では、性交渉は子を儲ける為だけの神聖な行為であり、いくら愛情を確認する営みであったとしても、その目的以外での性交渉は禁忌なのである。
それ故に、オーン信徒は異常に潔癖な者が多い。
だからハウルの母親が、同性同士の恋愛関係を忌み嫌うのは仕方がない事だった。
元々リッサ家はハウルの優等生ぶりからして、代々格式やしきたりを重んじ、世間の模範となるよう、清廉潔白なお堅い家柄であった。だから先代のハウルの父は、好んでオーン神国出身の女を妻に娶った。敬虔なオーン信徒であれば、生涯、不貞を犯さないであろうというのが第一の理由だった。
リッサ家は、州もしくは東の中で最も崇高で清廉潔白な、周囲からの尊敬を集める存在でなければならない、という家訓すらあるのだ。

それに対して、アベルのジン家、というのは奔放で、世間の常識にあまり囚われない、自由な家風の家柄で有名であった。
もちろん、人非道的で法に背くような事は決してしないが、自由で発想のユニークな人間が多く、それが代々斬新な風を運んできては、改革を率先して施すような家系だった。
故に、リッサ家とジン家、というのは昔からまるで水と油のようなものだ、と揶揄されていた。
そして荒波三大豪族のもう一つであるゴツラ家は、その水と油である両家を繫ぐ、昔から潤滑油のような存在だった。

荒波、という一つの州を統治していく上でこの三大豪族は、牽制し競争しながらも、互いに協力し合わなければならない、という事をよくわかっていた。いつ、他州他村から、又は他国から攻め立てられるやもしれない世の中の情勢。
内心ではよく思っていない所があっても、表向きはとても友好的であった。
今でもお互いの絆を強くするために、三家の間では婚姻関係を結ぶ事すら当たり前に行われていた。
三家それぞれが独立しながらも親戚関係となって、荒波を支え合ってきたのは昔からだ。(近年では娘が生まれる確率が減ってきているため、それすらもままならなくなってきているが)
だから、水と油のようなリッサ家とジン家も、対立しやすいが表向きは仲良しを装っていた。それも温和なゴツラ家が、文字通り潤滑油の役割をしてくれていたという事実もあるけれども。

だが、そんな事情は子供達の間ではほとんど関係ない。
確かに親達が互いの家の事を色々と吹き込んではいても、良家の子女が通う、中等部から一貫した全寮制の学校の中では、あまり影響なかった。
幼馴染で級友で。特に年齢の近い子同士は、ライバルになるか親友になるか、そのどちらかが多かった。

敬虔なオーン教徒の母を持つ、ハウル=リッサは文字通りの優等生で、クラスを纏め上げるに長けた少年であった。眉目秀麗、品行方正、生まれながらリーダーたる素質を持っていた。かといって、がちがちの秀才でも、驕り高ぶった暴君でもなく、その場をなごませるような、人好きのする性格で、全校の人気を一身に集めていた。
戒律の厳しいとされるオーン教徒の母に育てられ割には、神経質なほど周囲に対して潔癖でないのは、元々リッサ家が聖天風来寺(聖天ふうらいじ)系宗派の檀家である事が大きい。
宗教戦争以来、宗教の自由が認められている大陸では、個人の宗教には寛容であるため、家族が別の宗教を持つ事にも寛大で、その両方の教えを聞き育っているハウル達兄弟は、片方の教義だけに偏ることなく育てられた。お陰でハウルは寛容でバランスよく成長した。それは荒波の賢母と称される、ハウルの母の力が大きいのは周知の事実だった。
ただそれは、世間の常識と彼女の目指す人間の幸せの定義が基本にあって、それに外れる事は認められない厳しさも彼女にはある。
だから特に、同性愛や同性婚が世間的に認められていようが、表面では寛容に振舞っていても、真の部分で彼女には耐え難い嫌忌な事であった。
だが、嫡男と生まれたハウルは、他の子よりも早くに自立を促されて、特例として初等部中学年から親元を離れ、寮生活を送っていた。それがある意味、偏見に振り回されずに済んだ一因となった。彼は幼い頃に聞いていた母の教えも知ってはいたが、それが嫌悪感や罪悪感を伴うほどに、抑えつけられたものにならずに成長した。
だから、ハウルの初恋の相手が身近な同性になったとしても、それはとても自然な事で、別に何の呵責を感じる必要がハウルにはなかったのだ。……もちろん卒業して家に戻るまでは。


ここ近年、顕著に女の数が少なくなっている荒波では、女性を確保する為に、保護という名目で、許された男性以外から隔離されて育てられるのが習慣としてあった。もちろん、男女の交流として、年に数回、学校の行事で異性と触れ合う機会だってある。が、学校を卒業するまで、異性との交際は禁止されていた。
特に貴重とされる家柄の良い女性は、卒業まで清い体で、慎み深くと教育され、卒業後は家の決めた男に嫁ぐのが当たり前だった。だから貴重なご令嬢達は、年頃になると、他の家柄の良い男性達から値踏みされる為に、社交界という場でデビューを飾る。その中で双方の家が認めれば、在学中に婚約する者も数多くいた。とにかく女の数が少ないのだ。男達はこぞって早めに相手を確保しようと、躍起になるのが常だった。

だからハウルもアベルも、年頃になって他の良家の子息達と同じく、義務として何度かそういう社交場に訪れてはいた。
そして決まって令嬢らの注目は、この目立つ二人のハンサムな青年であり、こぞって彼らと近づこうと必ず群がった。
そういうこともあって、二人は決して女性と接触していなかったというわけではなかった。
ただ、アベルにとっては苦痛な時間であったのが、ハウルはそうでもなかった、という事だ。

初恋で、しかも激しい恋の相手は男であったが、ハウルにとって恋に落ちた相手がたまたま同性だっただけで、彼は普通に女性も愛せる男だった。
だが、アベルはそうじゃなかった。
その事実を確信したのは、ハウルと別れてしばらく経ってからだった。
幼い頃から男の中だけで育ったからか、もしくはその環境が居心地がいいから女性に興味が湧かないのかと、アベルはぼんやりと思っていた。ハウルが言うように、それ相応の年齢になれば、普通に女性を相手できるとも信じていた。
だが、ハウルとの失恋で心に穴が開いていたアベルが、それを埋めようと色々な人間と付き合ってきた結果、自分が男しか好きになれない事を、身を持って知ったのだ。そう、何人か女性とも付き合ってみた事がある。だが、全く駄目だった。
その事実はもちろん、別れてから会っていなかったハウルは知る由も無く、今でもアベルは自分と同じく、普通に妻を娶れる男だと信じている。
その事実を、今更自分からハウルに告げるのもおかしいと思い、再会して、いや、役職上での付き合いでも、その話には触れないできた。彼はもうすでに他人となった相手だ。友情は残っているとしても、お互いの個人的な事情を晒すような間柄ではもうないのである。

できれば触れたくない事実を、ライルの話が出た時点で言わざるを得ないと、アベルは緊張し、覚悟した。
彼にどう思われようが、もう恋人ではない男だ。どう思われたっていいじゃないか…。
ただ、彼が州知事長としてどう判断するかだけだ…。
アベルはそう自分に言い聞かせ、ライルとの事を説得する為にも、ハウルにそれを告げようと口を開きかけた。
だが、それよりも早くハウルが先に口を開いた。
「なぁ、アベル。何も男と一緒にならなくてもいいじゃないか。
お前だったら、いくらだって良縁引く手数多だろう?何も、私の弟とでなくとも……」
「………」
「君が昔から女性が苦手なのは知っているさ。だけど、きっとまだいい出会いがないだけなんじゃないか?
よく考え直してくれよ。
生涯の連れ合いを男と…なんて、まさかお前だって、そう真剣に考えているわけじゃないだろう?」
「…ハウル……」
当の本人から、そんな言葉を聞かされるとは思っていなかったアベルは、思いの他ショックを受けた。
そうか…ハウルにとっては、男である自分との交際は、真剣ではなかったという事だったのか…。
アベルの身体がすうっと冷たくなっていく。
自分にとっては、全てをかけた恋だった。ハウルだって互いを思い合う気持ちには嘘はなかったと信じ、そうやって自分を慰めてきた。…そう、互いに嫌いになって別れたわけではない、相手の為と信じて終わらせたのだから…。
だが、今の言い方だと、ハウルの中では男同士の恋愛は全て遊びで、生涯の相手は女性で無ければいけない、という風に聞こえる。それがまるでナイフを胸に突き立てられたかのような痛みを伴ってアベルの心に突き刺さった。
一方、自分の主張に必死になっていたハウルは、アベルの心の変化に、まったく気がついていなかった。
相手の心情を詠み、的確に汲む事が得意であるハウルらしかぬ失態である。
実はそれだけ、内心ハウルは動揺していた。
どうかしている。ライルの口からアベルへの想いを打ち明けられた時から、ずっとずっと胸の奥が痛み、腹の底に重苦しい黒い塊が蠢いている感じがしている。
その苦い思いが噴出さないよう、必死になってハウルは己と戦っていて、余裕を無くしていた。それが、アベルの気持ちを頑なにさせてしまう結果となって…。


「悪いが、俺は女よりも男の方がいいんだ」
アベルは唸る様にして、やっとの思いで言った。
「だから、それはまだそういう女性と出会ってない、っていうだけだろう?
男ばかりでむさくるしい軍隊にずっといるんだ、女慣れしていなくて当然。
元々お前は、女性相手には無骨な感じだったからなぁ」
ハウルはまだ臆することなく、軽い調子でアベルの告白を一蹴した。いや、正確にアベルの重大な告白とは伝わっていなかった。そうしてどんどん、ハウルは自分の都合のいいように解釈して、自ら墓穴を掘っていった。
「だからそうじゃなくて…」
「いいや、そうだ!
お前は昔から、女性の高めの声が苦手だ、やれ化粧臭くて気分が悪くなるとか言って、いつも逃げてばかりだったじゃないか。だからそうではない女性を捜した方がいい。そういえば私の妻の親戚に、控えめで落ち着いた少女がいたな。
どうだ?その子に会ってみないか?まだ15歳だから化粧っけも無い素朴な娘だ。今からその様に教育すれば、お前の好みに育て上げる事もできるぞ」
「おい、ハウル…」
うんざりしたような目で見上げるアベルをわざと無視して、ハウルは明るく話を進めた。
「今からその子をお前の最高の妻になるよう、家内に教育してもらってもいいな。
荒波の提督がいつまでも独身というわけにもいかないだろうし、お前ほどの男には最高の伴侶が必要だ」
「ハウル!そうじゃない。
俺は生涯女と結婚するつもりもないし…したくもない。
その…男以外とは」
「お前は自分で女が駄目だと思い込んでいるだけなんだよ。
何なら今度、各国の令嬢を集めてお前の結婚相手を見つけようか。
そうだ、それもいい考え…」
「ハウル!」
アベルの苛立ちは頂点に達していた。その剣幕に、ハウルは自分が先走って喋っていた事にやっと気づき、瞬間、表情を歪ませた。
「頼む、俺の話を聞いてくれよ…」
疲れたようにアベルが話そうとするのを、ハウルは感情の無い声で呟くように遮った。
「話すって、ライルの事か?」
先ほどと打って変わったハウルの様子に、抗議しようとしたアベルは思わず口をつぐんだ。
「どうしてライル、なんだ。
家族の反対を押し切って軍に入っただけでも頭が痛いのに、その上男のお前と添い遂げる…?
……いや、お前が上等の男だという事は、この私が一番よく知っている。
お前の伴侶になる人間は、男だろうが女だろうが、きっと幸せになるに違いない。
だけど…」
ハウルは苦渋に満ちた顔で、アベルをひた、と見詰めた。
「頼む、ライルだけは勘弁してくれ。あれはリッサ家の男だ。
しかもあいつは母が一番溺愛していて…。男のために家を捨てると言っているのを聞いたら、きっと母は壊れてしまう…」
アベルはここまでハウルが、家や母親を大事に思っている事に、今更ながらに思い知らされた。
やはりハウルにとって、家が第一。自分は二の次だった。
そんな事は昔からわかっていた筈だったけど…。
アベルは思わず苦笑した。

《家を捨てても構わない。貴方が手に入るなら、リッサの名なんて簡単に捨てられる。
僕は兄とは違う。僕は貴方だけが欲しいんです》

ハウルとは対照的な言葉を、懸命に自分にぶつけるライルの姿が脳裏に浮かぶ。
彼のために何とかリッサ家を説得しようという心が、揺れ動いていた。
はっきり言ってアベルはこの期に及んで迷っていた。
このまま家の反対を押し切って、彼と一緒になる事は、本当にライルの為なのだろうか?と、ふと、昔からの悪い癖が出てしまった。
相手を大切に思えば思うほど、自分が身を引いてしまう癖、だ。
だがそれは違った角度から見れば、アベルはそれほどライルを欲しがっていないという事ではないだろうか。相手の為と思って、手放せられるほど、アベルはライルに執着していないとも言える。ただ、当のアベルは今までの自分がそうであった為、その事に全く気が付いてなどいないようだったが…。

だからここに来て、はっきりとハウルの口から難色を示されて、アベルは心が大きく揺れ動いた。あれほど、ライルの一途な気持ちが嬉しい、愛しいと思っていたにも関わらず、だ。

「本当に頼む、アベル。男のライルではなく、お前にもきちんとした妻を娶って欲しいんだ。
そのうちお前だって子供ができれば、その選択に間違いは無かったと、絶対に思うよ」
アベルはその言葉に引きつるような痛みを感じて、咄嗟に息を飲み込んだ。
役人の噂で、彼の妻が妊娠している事は、おいおい耳に入ってはいた。それをまだ本人の口から聞いていない事を、アベルはいいのか悪いのか、複雑な思いを持っていた。それをこんな形で実感するとは…。
昔からハウルはこうして常識を振りかざして人を説得するような所があった。
幼馴染みであるアベルは、自分にはない彼のそういう常識的な感覚を羨ましいと思い、今でも憧れている部分もある。だが、それはハウルから見ている常識であって、アベルとは全く違う価値観だという事を、ハウル自身は気が付いていないようだった。彼と離れ、己を振り返って過ごしてきたアベルには、すでに理解していた部分であるが、やはりその事実を目の当たりにすると、結構辛いものがある。結局、ハウルと自分は、家と同じく水と油だと思い知らされたからだ。
そうだとしても、アベルにとってハウルは一度でも愛した人だ。そのハウルの苦悶した表情を、アベルはできれば見たくない。だが、この理不尽だと思う気持ちは何なのか。
その苛立ちも相まって、アベルも冷静さを欠き、ハウルに対して反発心がふつふつと芽生え始めてきた。

「だから俺は女は苦手だと言っているだろう!」
突然激昂したアベルに、今度はハウルが息を詰めた。
「申し訳ないが、俺は女は駄目だし、子供だって別に欲しかないんだ。
俺はお前とは違って、世継ぎの問題も背負わないし、俺がどういう人生を歩もうが、俺の家は何も文句を言わない。これからだって俺は誰の指図も受けず、自由に生きる」
きっぱりと言い切ったアベルに、思わずハウルは羨望の眼差しを向けてしまった。
まるで大海のように、我が道を自由に生きる男。誰も彼を縛る事が出来ないであろうという、気高さ。
ハウルはこういう時のアベルがたまらなく好きだった。女性には感じない、崇高なほどの美しさを感じてしまうのだ。
だが、だからといって、ここで自分を引っ込めるわけには、己のプライドが許さなかった。
「(女と)結婚もした事もないのに、そんな事を言うなよ。
お前はほんのちょっと付き合っただけで、女が駄目だと思い込んでいるだけだ。
仕方ないよ。周りはほとんど男だったし、男同士の方が気安いのは認める。
でも、いくらお前が分家の子息だからといって、お前は荒波海軍提督なんだぞ。それが世継ぎも作らないというのは、みすみす出来のいい血を絶やしてしまう事であって、もったいないとは思わないか?」
「……ハウル!」
「私だけではない。周りの参謀だって心配している事だ。
荒波の双璧の片方も、州民の模範とするような理想的な家庭を持った方が、これから動乱と化すであろう大陸に向けて、州民の政府への印象が良くなり、益々州としての団結力が強まる事を、彼らだって望んでいる 」
アベルは唇を噛んだ。個人的な事を、とうとう公の事にすり替えて説得し始めてきた。
昔からハウルのそういう所が憎い。幼少の頃から、このようにハウルに出られると、アベルはたちまち弱くなってしまうのだ。

(参ったな…。このままだと、いつものようにハウルに言いくるめられてしまうぞ)
困ったアベルは、口をへの字に結び、相手から目を逸らして考え込んだ。

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