暁の明星 宵の流星 #165
しっかし、まぁ、なんという熱気だ。
アベルは男達の輪の中に入って、辟易した。
四方を囲む衝立(ついたて)からあぶれる人ごみを掻き分けて、アベルはさらにその奥へと進んだ。
ここは数千人もの人間をもてなせる規模の会場だ。
そのただっ広い会場の中央部分に、まるで一つの部屋を作るかのように、人の首くらいまでの高さの簡素な衝立で、四方をぐるりと囲っているブースがあった。そこはさながら野次馬のごとく人があふれている。
まあ、簡単な目隠し程度なその衝立の隙間から、中を覗こうとする人間達でごった返していた、というのが正しい解釈であろう。
そしてその見物客がほぼ全員男性で、その彼らの様子を遠巻きに、眉根を寄せて嫌悪丸出しの視線を送っているのは、必ずと言っていいほど女性であるのが、何かを象徴しているようだった。
何とかその衝立の中に入り込んだアベルは、そこが普通の応接間くらいの広さの空間であると知った。
ただ、割と広いその空間も、衝立を背にして外側をぐるりと囲んだ人々のせいで、思いのほか狭く感じる。
ざわざわとした喧騒の中、中央にしつらえてある円卓と長椅子には、十人くらいの人間がいた。
アベルの目は、その中で一番大きい長椅子に吸い寄せられた。
赤いベルベットのカヴァーをかけ、縁取りを豪華で煌びやかな細工が施してある優雅な風情の長椅子に、これまた艶かしく足を投げ出して腰掛ける、艶然と微笑む人間がやけに目に付く。
軽く半身を背もたれに寄り掛からせ、腰を下ろした部分から先は優美な曲線を描き、片足を組んだその浮いた白い裸足の足先には、赤い染料で爪が綺麗に彩られ、それを楽しそうに宙にぷらぷらと上下させている。
その足をうっとりするように見詰めている数多の男達。その中では食い入るように凝視し、彼の座る長椅子の前に跪いている2-3人の男達もいる。まるでお預け食らっている犬みたいだな、と、アベルは苦笑した。
それに彼らだけでなく、その赤い長椅子の周りには、うっとりとした顔、目をぎらつかせている者、舌なめずりしている者…など、どうやってもかなりの高位の者としか見えない様相の、様々な容姿と年齢の男達がずらりと取り囲んでいた。
その長椅子の上で、気持ちの読み取れないような微笑を湛えている妖艶な美姫。
確かに、一見すると、艶かしい美女が男を誘うように君臨しているように見える。
だが、長い薄茶の髪を零し、見るからに高価な女らしいドレスを纏っている、どこから見てもこの超一級の美姫は、驚くなかれ、正真正銘の男、なのである。
これが、噂の【姫胡蝶】……。
初めて近距離で見る、噂の魔性の男にアベルは目を丸くした。
間近ではないが、ここから見ても女にしか見えない。
(本当に、こいつ男か…?)
ほんの数メートル、人込みの中で垣間見る姿は、完全に女性の姿そのもので、アベルの心は別に動きもしない。
それよりも、己の近くで多勢の男をはべらせ、手玉に取っているような風情が鼻につく。
それでもハウルに意気揚々と言ってしまった手前、アベルは溜息を漏らしながらも、彼に近づこうと身をよじったその時だった。
「【姫胡蝶】、どうか、このわしのものになってくれまいか!
そなたに似合う、この金細工の髪飾りを受け取っておくれ。
もちろん、これだけではないぞ。わしと契約したあかつきには、そなたに豪華な城だってあつらえる所存じゃ」
一人の見るからに高位の(でもすでに隠居しているであろう)老人が、目をぎらつかせ、彼の前に進み出、足元に蹲った。【姫胡蝶】に献上するつもりなのであろう、手には高々と先ほど言っていた豪奢な髪飾りが掲げられている。
「何を言う。【姫胡蝶】、このような老いぼれよりも、是非、この私と。
私は北の国の王家筋の者だ。
この男よりも、もっといい暮らしを保障する。
これは大陸でも希少な貝でしか取れぬ、琥珀の真珠だ。ぜひ、これを受け取って欲しい」
そう言いながら、老人の反対側にいた中年の男が彼に進み寄って来た。
「いや、私は貴方に大陸でも珍しい涼雅(りょうが)という鳥を進呈しよう。
どうです?この鳥は私の南の国、火の鳥伝説のモデルになった鳥です。見事な尾羽でしょう?美しい貴方の肩に絶対に似合うと思いますよ。
だから是非、契約はこの私と」
と、先の中年紳士が言い終わらないうちに、今度は赤毛で身なりの派手な青年が口を挟んでくる。
「契約…?」
彼らだけではない、どう見ても富豪でそれなりに地位の高そうな連中が、姫胡蝶の周りを取り囲み、彼の気を引こうとそれぞれの贈り物を手に、躍起になっていた。
とにかくアベルは次々と現れる彼の求愛者?に目を丸くするばかりだ。
「ああ、美しい【姫胡蝶】!是非、是非、この俺と!
主(ぬし)が契約してくれたのなら、我が州の俺の土地、全てを好きにしてよいぞ!
どうだ?この花。これは我が州にしか生息しない、稀有な黄金色の胡蝶蘭だ。美しい主によく似合うだろう?
だからこの俺を選んでくれ!」
(げ、あれは隣州の知事じゃないか!……ああ…、なんていう腑抜けた顔…。
確か、彼には妻子も多数の愛人もいるっていう…無類の女好きだったよな…。
……とうとう女に飽きたか……)
アベルはその男達の中に知った顔を見つけて、益々驚き、脱力していくのを止められなかった。
「アベル!」
数多に群がる男達に気負わされて、当の人物に接見しようとする気持ちがぐらつき始めたアベルを見透かしたかのように、突然彼は肩を掴まれ振り向かされる。
もちろんそうしたのはハウルだ。彼はしばらく呆然とした後、慌ててアベルを追って来たのだった。
「もういい、帰ろう !」
ハウルの“引きずってでもこの場から離すぞ”とでもいう意欲のある顔を見た途端、アベルの脱力した気分が再び浮上した。
どうも一度ヘソを曲げてしまうと、素直になれない性格らしい。かえってハウルが情けない、すがるような目でアベルを見ていたのなら、状況は違ったかもしれない。州知事長としての、彼のプライドが災いした。
有無を言わさないぞ、という確固たるハウルの表情に、アベルの天邪鬼的感情がむくむくと顔を出した。
「帰る?何を言っている。
これは我が州に有益な考えだと思うが、州知事長はどうもお気に召さないとみえる」
「そんな…。だが、こんな状態じゃ、目的の人物とはなかなか話せないだろう。
少し頭を冷やして…、よく考えてから出直そう」
「そんな悠長な事を言っていたら、この先また、こんな有名人と会える機会があるかどうかわからないぞ。
お前は先に帰ってていいから」
「おい、アベル…!」
アベルはハウルの動向を遮るように、前方にいた見知らぬ野次馬に話しかけた。
「ちょっとすまない、教えてくれないか。
この騒動は一体何なんだい?あそこに群がっている人間は?契約って…」
振り向いた人のよさそうな男が、アベルの問いに興奮気味に答える。
「おや、ご存じない?
天下の【姫胡蝶】殿の新たな愛人の立候補者達だよ。
今まで【姫胡蝶】を囲っていた貴族の情夫が、例の石板を持ち出した事がばれてしまって、牢獄行きになってしまったからなぁ。つまり、今彼はフリーなんだよ。
だからこぞって彼と愛人契約を結びたい高位の人間が群がっている、というわけさ」
「そうそう、あの天下の【姫胡蝶】様だ。次に一体どんな大物を愛人に選ぶのか、みんな興味津々だよ」
その隣にいた若い男も、面白がっているような口調で話に入ってきた。
「愛人…契約?ああ、その為の契約ってことなのか…」
独り言のように呟くアベルに、先ほどの男が親切に聞きもしない事を詳しく話してくれた。
「俺も彼を独占できるほどの富豪だったらよかったけどなぁ。そしたらああいう風に立候補するんだが。
見なよ、ああして【姫胡蝶】に一番気に入った貢物をした人間が、次の愛人に選ばれるんだってさ。
噂には聞いていたけれど、男のくせにあれほどの美貌だとは思わなかった。
確かにあれじゃ、彼を取り合って一国を滅ぼしたっていう話も、満更嘘じゃないよな。
俺は男に興味なかったんだが、本物を見て考えが変わったよ。
女よりもうんといい思いさせてくれるらしいし、世継ぎとかいれば、一生女と出来なくなっても構わないって思ってしまいそうだ」
うっとりと、それでいて淫猥な眼差しで男は【姫胡蝶】を凝視する。
この男だけではない、野次馬として集まっている男達のすべてが、どうやら【姫胡蝶】の毒牙にかかってしまっているらしい。
男の身で、ここまで普通の男をも骨抜きにさせる魔力を持つ【姫胡蝶】に、アベルも少し興味が湧いてきた。
だが、アベルの好みとすれば、見た目が女みたいな所には興味がそがれる。だからかえって色恋抜きで接見するには、都合がよいと思えた。
だが、それは間近で彼と接していなかったゆえの甘い認識だったという事を、この後、アベルは嫌というほど知る事になる。
「そうか。じゃあ、彼に接見するには…この騒動が一段落しないと無理かな…」
アベルが呟くと、ハウルがあからさまにほっとした様子で、彼の腕を掴んで引っ張った。
「なら、落ち着いた頃に伺えばいいじゃないか。…さ、私達の席に戻ろう」
「いや」
「アベル?」
ハウルはアベルに拒否されて、目を見開いた。
「このままこの騒動の行方を見守らせていただくさ。面白そうじゃないか」
「面白そうって…」
戸惑うハウルに、アベルの悪戯心と好奇心に満ちた目が向けられる。
「せっかくここまで来たんだ。彼がどの男を選ぶのか、興味ないか?
もし、我々に協力を願うとしても、彼の愛人となった男も、少なからず影響がない、とも言えないだろう。
それに、のんびりと構えていたら、接見するチャンスを逃すかもしれないし」
アベルはそう言うと、ハウルの手を振り解き、人込みを掻き分けながら前に進んだ。
「アベル!」
「終わるまで待っていた方が、時間の節約でもあるだろ?心配するな」
再びアベルは意気揚々として、ハウルを置いて人の中に消えて行く。
「くそ…」
反対に訳のわからない嫌な予感に襲われたハウルは、舌打ちすると、またアベルの後を追い始めた。
やっとの思いで野次馬の最前方に出られたアベルは、ほっと一息をつくと、目の前の【姫胡蝶】をまじまじと観察した。
前よりも距離がぐっと縮まったおかげで、先程よりはハッキリと彼の姿を見る事ができる。
そこでアベルはおや、と思った。
ちょうど彼が退屈そうにあくびをかみ殺していたが、その気だるそうな顔立ちは、自分が思ったほど甘ったるい感じではなかった。
女装を趣味とする、または女役を好んでする男の中で、特に普通の男達が受けそうなタイプ、というのが、ほとんどが男臭くなる前の、中性的で、どちらかというと可愛らしくて砂糖菓子のような、本当に俗にいう女顔の少年、というイメージがあった。もちろん天下の【姫胡蝶】も、かなりの美貌と持てはやされている事から、そういう感じの少年なのかと思っていた。
だが、こうしてはっきりと彼の顔を拝める距離になって、初めて彼が甘いだけではない、どこか鋭利な感じの美貌の持ち主だという事に気が付いた。
美少年などという可愛い類のものではない。見るからに妖艶な青年の顔だった。
確かに、きちんと化粧を施された整った顔立ちは、はっとするほど美しく、しかも女らしい柔和な表情を作っていて、一見すると完全に女性そのものだ。
だがアベルは、その表情に隠された、彼の男としての色香を本能で嗅ぎ取っていた。それがただの美女を飛び越えて、大げさ言えば、性別を越えた正体不明な妖しさに繋がっている、とアベルは感じた。
それが自分にとってあまりにも意外だったようで、アベルは【姫胡蝶】を穴が開くほど不躾に見入ってしまっていたらしい。
突然、その視線に気が付いた【姫胡蝶】が、ぱっと顔を上げた。瞬間、ばちっと大きな音がして二人の目が合わさる。
アベルは驚いて目を瞬かせ、思いがけず彼の視線に囚われてしまった。
微かに不思議そうに向けた彼の瞳は、ガラス玉のように美しい灰色で、まるで銀鏡のようだとアベルは息を呑む。
そう、これが噂の邪眼…。何事も見通せる…魔の瞳…。
一方の【姫胡蝶】の方は、アベルに目を向けながら、近くにいる者に何やら話かけている。
様子からして、きっと自分の事を聞いているのだとアベルは思った。
そうこうしているうちに追いついたハウルが、再びアベルの手を取り、声をかけようとした時だ。
「さあ、胡蝶殿!もうそろそろお決めになったらいかがかな?
これではいつまでたっても埒が明きませんぞ」
一人の白い髭の紳士が、とうとう痺れを切らしてそう叫んだ。
「そうですよ、美しい【姫胡蝶】。どなたのものになられるおつもりか、早くはっきりしていただかないと」
「貴方の身はお一つだけ…。ゆえにその身を独り占めにする羨むべき男も一人、という事だ。
貴方がはっきりとしないと、いつまでたってもここが殺気立ってかなわん」
次々に彼の求愛者と思わしき男達が、口々にそう言い出した。
当の【姫胡蝶】は、表面的には困ったような微笑を湛えて彼らを見渡しているが、その中に面倒臭い、という表情が見え隠れしている事に気が付いて、思わずアベルは笑みを零した。
(意外と人間臭いじゃないか…。人形みたいにすました奴かと思ってたが)
面白い、とアベルが心の中で思ったその時、背後のハウルがアベルを突付いた。
「アベル、接見だけ、だぞ」
ハウルの声に不安な要素を見出しながら、アベルはわざとそっけなく答えた。
「当たり前だろ?貢物なんか持っていない俺と、どうこうなるわけないじゃないか。
それよりも、彼が相手を決めたら、タイミングを見計らって接近するぞ」
「本気なんだな」
「ああ、本気も本気。…彼の邪眼が本物ならば……」
と、突然アベルは声を失った。
彼の背中が緊迫した様子に訝(いぶか)しんだハウルは、不思議に思ってアベルの視線の先を見てどきっとした。
アベル達の回りも、その異変に気が付いてざわざわと騒がしくなっていく。
「そんな…でも、まさか」
ハウルは絶句しているアベルの代わりに呟いた。
何故ならば、その注目の的である肝心の【姫胡蝶】が、いつの間にやら長椅子から立ち上がって、真っ直ぐとアベルを見据えていたからだ。
「ひ、【姫胡蝶】殿…?」
驚きで唖然としたのは、アベル本人や、彼の周りに群がっていた求愛者達だけではない。皆、食い入るようにして彼の動向と、その対象である男を見守っている。
【姫胡蝶】はじっとアベルから目を離さないまま、彼の方にゆっくりと歩き始めた。
(な、何…?)
声もなく立ち竦んでいるアベルとハウルの周りから、さぁっと潮が引くように人混みが左右に割れて行く。
緊張しているアベルに【姫胡蝶】は一旦歩みを止めると、おもむろに一言、声をかけた。
「貴方にする」
どよっと、一斉に人々がどよめいた。
「な、なんだって?」
「だ、誰ですか、この男は!【姫胡蝶】!」
「そんな、馬鹿な…」
「この男は貴方の求愛者ではないではありませんか!」
悲痛な求愛者達の抗議の声に、アベルははっとして大声を出した。
「そ、その通りだ!あの…お言葉だが…。俺は別に君の愛人になんて…」
「でも貴方、私を求めていた…でしょ?さっきそういう顔をしていた」
初めて聞く、【姫胡蝶】の声。もっと女を意識して作った声かと想像していたが、それをいい意味で裏切られたような、心地の良い甘いテノールだった。
「それは…!でも俺は君の愛人というのではなくて…。まいったな、何かの間違いじゃないかい?」
「貴方が、いい」
【姫胡蝶】はきっぱりとそう言った。
戸惑っているアベルの目に、注がれる彼の意外なほど真摯な眼差し。
駄目だ、目を逸らす事が出来ない。
「ア、アベル…」
背後でハウルの慄くような声がした。何やらアベルをこの場から連れ出そうと、必死に自分に話しかけているようだ。しかし不思議とアベルの耳に、そのハウルの言葉は、はるか遠くの彼方で聞こえていた。
それほどアベルの思考は、珍しく失われていた。
何も言わないアベルに痺れを切らした【姫胡蝶】は、とうとう彼の目の前に、すっと白い右手を差し出した。
「言ったでしょう?私は貴方に決めたのです」
「で、でも、俺は何も君に貢物なんて…」
珍しくアベルは目の前の美青年に気負わされていた。
「そうですよ!【姫胡蝶】。何をお戯れを!
彼はこの見物客の一人ではないですか!
貴方の愛人としての資格は、貴方が気に入る貢物と、それ相応の生活の保障を約束できる人間だ。
何で、貢物も持っていない、どこの国のどんな地位の人間か、わからん奴を…!」
後方で、彼に全財産を投げ打ってもいいとまで断言していた老齢の富豪が、怒りもあらわにそう叫んだ。
「どんな人間…?」
【姫胡蝶】はその言葉にくすっと笑うと、こう言った。
「彼は東の荒波の海軍提督と聞きました。そうですよね?東の軍神、アベル=ジン提督」
彼の言葉に、周囲がさらに大きくどよめいた。
「荒波州の提督ならば、充分すぎるほどの地位ではありません?」
【姫胡蝶】は後方にいる自分の求愛者達に、そういいながら妖艶に微笑んで見せた。
「だとしても、俺はそういうつもりはないし、その証にほら、貢物なんて何もない…し…」
アベルの抵抗する言葉を遮るように、【姫胡蝶】は悠然とこう言った。
「貢物なら、あるじゃないですか」
「は?」
皆、彼の言葉に目を白黒させている。
「貢物…って、どこに…」
「ブル・ノ・ウェアールの輝石」
彼の一言が、再び周囲をざわめかした。
と、同時にハウルの顔から血の気が引いた。
「貴方の瞳、私が欲しかった青い宝石よりも綺麗だ」
「…え…?いや、その、…ええ?俺の目?」
「そう。その瞳、私だけのものにしたい。契約に同意してくれれば、その見返りに、この私の全てを貴方に捧げましょう」
彼の言葉には、暗に“青い瞳”とだけでなく、その持ち主の肉体をも欲しがっているようにも聞こえ、その淫らな印象が、周囲を羨望の伴う溜息の坩堝(るつぼ)に落とした。
「ちょ、ちょっと待て…」
アベルは自分が珍しく動揺しているのに、驚いていた。
どんな時にも、冷静な判断を欠かした事がないのが自慢だった筈では?
そう、どんな人間が相手であろうが、軍人の自分が翻弄されるなんて絶対有り得ないことだ。
しかも、相手は一見、か弱く見える女の姿をした…。
その動揺を知ってか知らないか、姫胡蝶は右手を差し出しながら、ずいっとアベルの前に進み出る。
間近に迫る、想像以上の彼の迫力に、情けない事に全く身体を動かす事ができないでいる。
アベルは引き込まれるようにして、【姫胡蝶】の顔を見詰め、ごくんと唾を飲み込んだ。
何ていう肌だ…。
彼の艶めく真珠色の肌に、アベルは否応なく見惚れていた。
こんな滑らかで、美しい肌をした男…いや、女でさえも、見た事がない。
魅惑的な桜色の唇。さらさらと流れる柔らかな絹のような髪。女顔負けの細い腰。白くて優美な脚線美。
確かに危険な美しさだ。女の姿に興味がない自分でも、素直に彼の姿を美しいと思える。
だが、他の連中はどれくらい気が付いているのだろうか?
それ以上に彼の、この誘うような瞳。邪眼と言われるガラス玉の目の奥に…。
全身で男を甘く誘っていながらも、その彼の瞳の奥に隠された、蒼白いほどの危険な焔を。
何故だ、どうしても彼から目を外せない…!
アベルの頭の片隅で、警鐘が鳴る。
やばい…これはやば過ぎる…。
これが噂の“魔性”、なのか。
男を捕らえ、虜にして、喰いつぶすだけ喰いつぶし、焼き尽くすだけ焼き尽くす……。
これが、悪名高き【姫胡蝶】の魔性の力だというのか。しかも、この俺が…!
彼はアベルのそんな心の葛藤に気が付いているのか、魅惑的に微笑みながら、彼の目の前に白い手の甲を突き出した。すでに二人の距離は、人が二人分入るほどの間しかない。
アベルが無造作に手を伸ばせば、簡単に彼の手を取ることの出来る距離…。
「アベル!」
ハウルの焦っている声が、はるか遠くに聞こえている。
聞こえているが、どうにもならない。
まるで、蛇に睨まれえた蛙、蜘蛛の糸に絡め取られた憐れな蝶…。果ては魔物に囚われた哀れな生贄の子羊か。
アベルの胸中に、そのような幻想が湧いてきて、恐れと誘惑のせめぎに眩暈がしそうになる。
それほど、彼の誘いは魅力的過ぎた。
どんな状況でも、冷徹に処理できるこの俺が…!
アベルは内心ショックを受けていた。
再び彼の頭で警鐘が鳴り出す。
それは今まで足を踏み入れた事も、感じた事もない世界に対しての恐れであるように。
い、け、な、い…。
この手を取ってしまったら、多分、もう、戻れ、ない…。
ハウルの引き止めようとする声と相まって、心の中でもう一人の自分が叫んでいる。
だが、その一方で、己の好奇心と未知への誘惑に抗えず、高揚する自分も確かにいた。
これが自分にとって、新たな世界へのきっかけか、それとも堕落への一歩なのか…、とても今は判断しかねる状態だった。だが……。
「さあ、提督閣下?」
誘惑者がさらに右手を自分の目の前に掲げ、艶かしく指を動かして促すように微笑んだ。その誘うような彼の扇情的な仕草は、アベルの背中に震えを走らせた。
「アベル、どうした?何故黙っているんだ!」
背中で切羽詰ったハウルの声がして、アベルを引き戻そうと動いた直後、その手を逃れるように彼の身体がふいに動いた。
「アベル?」
頭でずっと鳴り響いていた警鐘が、段々と遠のいていく。
代わりに彼の白い肌に己の手を這わせたい、という不埒な欲望が襲ってくるのに戸惑いながらも、アベル自身は気が付いていた。
きっと、その衝動に自分は抗えない。
きっともう、その肌に触れてしまったら、引き返す事ができなくなる…。
確信しているくせに、まずいと思っているのに、意思に逆らい吸い寄せられるように、自分の手が彼の白い手を取る。
「アベル!」
無意識のうちに触れた指先から、熱い電流のようなものが流れ、【姫胡蝶】の目の奥で、勝ち誇ったような光が煌いた。
.....................................................................................................................................
そう、俺は、自分であいつの柔らかい手を取ったんだ。
あの時は意志に逆らってと思っていたが、今にしてみるとそれは違うのではないか、と思う事がある。
今でも心の奥底では、ただ単にあいつの持つ魔性に取り込まれただけなのではないか、と自分を疑っている。
だがそうだとしてもあの時の俺は、確かに、“自分の意思で”カァラの手を取った。
そう、自分の意思で。本能のままに。
...................................................................................................................................
「契約成立だね」
【姫胡蝶】の嬉しそうな声が宴会場に響くと、その場は騒然となった。
野次馬達の驚きの喚声に混じって、求愛者達の阿鼻叫喚とも思える嘆きが渦巻いた。
ハウルは真っ青になって頭を抱え、当の二人はそんな周囲の様子に全く気が付かない、自分達だけの世界にいた。
「何故、俺を…?」
やっと口を開いたアベルの声は掠れていた。
「さあ、何でだろう?」
悪戯っぽく微笑む彼の表情に、アベルは不思議と胸が躍る自分に驚いていた。
今まで自分が触れた事のない、初めて味わうであろう世界。
堕落か、破滅か、はたまた逆転して深い悦楽か幸運か…。
答えの出ない賭けに、アベルははまってしまったような、そんな錯覚を覚えた。
今まで自制して、己をコントロールしてきた自分の人生に、大きな変化をもたらしてしまったような…。
恐れも、不安も、気の進まなさも、全て彼の肌に触れた途端、綺麗に消え去ってしまった事が、信じられなかった。
何故なら、彼がどうしても今までの自分の好みや理想と、あまりにもかけ離れていたから。
今までの自分なら、確実に避けてしまうようなタイプだったから。
それが巷で有名な、全ての男を虜にする天性の魔性のせいだとしても、アベルはもう他の男を笑えない。
今はただ、期待の眼差しで自分を見上げている、目の前の美貌の男しか頭に入らない。
自然にアベルもつられて、悪戯を企むような眼差しを向けながら、彼に笑みを返していた。
それはまるで、これから二人で何か起こそうとする、共犯者のような空気が漂っていて……。
........................................................................................................................................................
「それで、ちゃんと僕の話が聞こえていますか?提督」
アベルは我に返った。
声のほうを振り向くと、沈痛なライルの眼差しが、自分を突き刺すように向けられていた。
そう…。そうだった。
今、自分は、ライルと話をしていたんだった…。
思わず物思いに耽ってしまっていたのだろう。アベルはすまなそうな顔で、ライルに向かって言葉をかけた。
「ああ、…すまない。……噂の件、だったよな…」
「そうですよ」
ライルの声は限りなく冷たい。だが、その声が微かに震えている事に、アベルは再び申し訳ない気持ちで一杯になった。
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