カァラの最悪な気分は、続き部屋にある応接間から聞こえる話し声によって増長した。
とにかく【暁の明星】こと、アムイ=メイのお陰で、自分の魂の奥から揺さぶられているような、平衡感覚が失われているような、そんな不安定な感情に翻弄され、珍しく吐くほどに不調であった。それなのに、さっきから誰かが耳障りに話をしている…。
「うるせぇな!」
カァラは悪態をつくと、臥せっていた寝台から飛び起きた。
緋色で光沢のある薄地のガウンを己の裸身に纏わりつかせ、腰紐を前で簡単に縛ると、文句を言うために扉の前まで大股で歩いて行く。
今朝、アベルは一人で仕事するからと、自分を苛立たせないようにそっと寝室を出て行ったのは知っていた。
しかも今日は誰も来る予定はない、来ても別室で応対する、と約束していたじゃないか…、と、ムカムカしながらカァラが扉のノブに手をかけた時だった。
「……どういういきさつかだったなんて、兄は決して僕には言わなかった。
貴方も僕にはっきりと説明してくれなかった。
でも…、ここに来て、はっきりしましたよ。
セドの王子を捜すという名目で、あのあばずれと契約したのは、貴方の、僕の兄への意地でもあったんだ」
扉の向こうで、聞きなれない若い男の声がして、カァラの手が止まった。
あばずれって…、ああ、俺か。
幾度となく、愛人の男の妻子や愛妾達に浴びせられてきた、罵倒の言葉のひとつだ。
扉の向こうから聞こえてくる若い男の声は、抑えていながらも、かなり憤っている様子だった。
「俺はそんな風に思われるような事を言った覚えもないぞ。…どうしてそんな…意地などと」
それに答えるように、アベルの落ち着いた声が返って来た。いや、それは表面的なことで、聡いカァラにはアベルがかなりうろたえているのに気が付いた。確信を突かれ、責められて慌てているといった方が近いか。
「貴方を何年近くで見てきていると思っているのですか?
貴方の性格ぐらい把握していなければ、貴方の右腕にはなれない」
「…ライル…、俺は」
「噂とどこが違うというのです?
部下に聞きました。…ええ、貴方が連れて行った部下の中には、僕の部下もいるのですからね。
ここに来た時に、彼が逐一報告してくれましたよ。
貴方とあのあばずれの淫らな有様を」
その言葉にアベルの片眉が上がった。
「言葉が過ぎる。誰がそのような事を言っている」
アベルの憤然としたような声が部屋に響く。
「違うというのですか?」
「どういう内容だ。はっきりと言え」
有無を言わさない冷徹な声。聞き慣れていないカァラは内心びくっとしたが、相手は意を介しているのか全く動じた様子がない。いや、それ以上にこのような彼には慣れているという風情で、臆することなく話し始めた。
「貴方は最初、荒波を発つ時に、こう説明していきましたよね?
セド王家最後の生き残りである王子を探す為に、あの悪名高い【姫胡蝶】と手を結んだ、と。
だけど詳しく僕には教えてくれなかった。まさか、貴方ほどの人があの卑しい男と愛人契約を結んでいたなどと!」
相手の男の唸るような声で、カァラはすぐにこの男がアベルの情人(こいびと)だと悟った。
はきはきと話す声が男らしさを際立たせ、怒りを抑えながらも、話し方にどことなく品性がある。
察するに彼は自分とは反対の、育ちの良い良家のご子息、といった感じなのだろう。
(ふん、何だよ…痴話喧嘩かよ…)
心の中で悪態つきながら、何故だかカァラの胸は掻き毟られた。だが、それは今自分が普通じゃない精神状態のせいだ、と決め付けた。何故なら、このような場面は、カァラにとって珍しくも何ともない状況だったからだ。
ただ、稀なのは相手が女ではなく、男であるという点だろう。
いや、名のある権力者には、小姓とか男妾とかいるのは当たり前になってはいるが、それでも相手は少年や、女々しい感じの男が多かった。得てして彼らは主人に忠実にしつけられているので、大人しくて従順である。女は牙を剥き出しにしてカァラに向かっては来るが、彼らは自分を恐れて傍にさえ寄り付かないのが多い。だから、こうして普通の男が自分の事を敵意剥き出しに語っているのが何となく不思議だった。
男は自分を賞賛こそすれ、敵対視される所以など、ほとんどが今までなかったのだから。
「兄に何て言われたか分かります?
“【姫胡蝶】と愛人契約を結びはしたが、それは形式上の事で、個人的な事ではない”って。
笑っちゃいますよね?
兄はそうやって納得したつもりが、貴方は全く違っていたわけだ。
部下が言うには、暇さえあれば貴方はあの男妾を片時も離さず、始終親密に戯れている、しかもそれを隠そうともしないらしいじゃないですか」
「それは語弊だろ。職務以外で、だ。これでも公私のけじめはつけているつもりだ」
アベルは陰鬱に眉根を寄せた。
「という事は、否定されないわけですね…。はっ、貴方もただの男だったという事か。
しかも任務とは名ばかりで、あの下賤な泥棒猫は、しっかり貴方の愛人としての役目を全うしているというし」
「ライル…君には心底悪いと思っている。
だからといってこれ以上、貶めるような言い方はよしてくれ。
…確かに胡蝶と寝室を共にしているのを、俺は隠すつもりはない」
ライルの顔色が青ざめた。人から聞くよりも、やはり本人の口から告げられるのは相当痛い。
少しでも、というライルの望みが砕かれた。
そう、まだ多少自分に気持ちがあって、ほんの少しでもこの事実を隠す素振りを見せてくれたのなら。
なのにあまりにも堂々と自分へ謝罪し、【姫胡蝶】との関係を認められてしまうとは。
ライルの気持ちを知ってか知らないでか、アベルは淡々と話し始める。
「確かに最初はセドの王子の探索が目的だった。いや、今でもだが。
だからこそ胡蝶の邪眼がどうしても必要だったし、彼もセドの王子に思い入れがあるようで、…互いの利益が一致した。
だから愛人契約は、本当にその時の便宜上の事だけだったんだ。だからハウルも納得した」
ライルはアベルの固い表情に、つ、と鋭い視線を流すと、震える唇でこう言った。
「なのに…どうして?」
「どうして…か。そう言われてしまうと、本当の所、自分でもよくわからないんだ。
これがあいつの毒牙に掛かってしまった結果だ、というのなら、多分…いや、きっとそうなんだろうな。
だから俺は周りに何と言われようが、全く弁明するつもりもない」
アベルとして、それは本心だった。
魔が差した、と言ってしまえば身も蓋もないだろうが、確かにカァラの欲望を刺激する扇情的な誘いに抗えなかったのは事実だ。一度彼の肌を知ってしまうと、噂通りアベルも彼を手放せなくなってしまった。これが彼の魔性の威力と言ってしまえば、確かにそうなのだ。
巷の男と変わらず彼に欲情し、簡単に屈してしまったのが、自分らしくなくて笑える。しかも、この自分が他の人間に彼を取られることを恐れているなど…。
対照的に、男を堕落させる【姫胡蝶】にとっては、今まで付き合ってきた男達とアベルとには著しい相違があって、少々戸惑いを感じている。新たに選んだ愛人が、根っからの軍人肌だった、という事だ。
他の快楽主義の王侯貴族や、ガツガツしている成金どもと違い、己を自制するに長けているというか、律する事に熟練している男だった。その為に公私混同することなく、男を滅ぼすとされる愛妾カァラにしては、珍しくメリハリの利いた規則正しい生活を送る事となった。
それでもアベルにしては、普段の自分以上にカァラに溺れているのであるが。
当のカァラは自分の魅力が足りないのでは、と疑いつつも、自制心の強い男と暮らすのは、なかなか居心地が良い、と感じていた。アベルが業務に掛かりきりの時は、自分の好きな時間が持てるし、四六時中男の閨の相手をしなくて済む。
いつしかカァラもアベルの前では、全てではないが自分を飾る必要がなくなってきていた。
ただ、業務を離れると、この冷ややかな男はまるで火が付いたように変貌する。
寝室でのアベルの激しい行為を思い出し、思わずカァラの口元が緩む。
「だから、胡蝶との噂については、大げさな部分もあるだろうが、基本的には事実と認めよう。
だがそれは俺の私生活での事であって、公的にはなんら支障はない、と断言する。州知事長にもそう報告してくれればいい」
ライルの目が眇められるのを、アベルは心苦しく見詰めながら、声を落として話を続ける。
「このような事になってしまって…君には……個人的に申し訳ないと思っている。
……事後承諾のような形となってしまったが、こうなった以上は、君と親密な関係にはもう……」
じっとこちらを見据える彼の頬がピクリと歪んだ。
沈痛な面持ちで話を切り出したアベルに、普段穏やかなライルは、珍しくどうしようも収集の付かない激情に駆られた。
「冗談じゃない!」
ライルはとうとうアベルにその激昂をぶつけた。
「いくら公私混同しないとはいえ、軍隊という組織の中で提督が愛人を侍らし、プライベートだけといっても、始終あんな男と淫らな振る舞いしているのを、臆面もなく部下にも隠さないなんて…。
それでも軍の規律に支障がない、と言えるのですか?
提督閣下としてトップにいる方がこれでは、他の者に示しが付かないのではありませんか?
そんなこと、貴方ほどの人間がわからない筈ないでしょう!?」
「ライル」
ライルの顔は憤りのために朱に染まり、睨みつける目からは痛恨の涙が溢れそうになる。
「……君の言う事は正論だと思う…。だが、カァ…【姫胡蝶】は、セドの王子捜索にかなり貢献してくれている。今の所、彼が我々と行動を共にしているからといって、何も問題はない筈だ。
事実、彼はすでにセドの王子との接触に成功した」
「……アベル…」
“提督閣下”という呼び名から、昔のように彼の名前が自然とライルの口から出てきた。
憤慨と絶望と…、そして虚無感。ライルは髪をかきむしった。
「いくらこの任務にあのあばずれが必要だからといって、そいつと堂々と愛人関係を結ぶなんて…。しかもそれを実行してしまうなんて!……便宜上の関係だと僕や兄に綺麗な事を言いながら、その実裏では噂どおりの如何わしい関係に成り下がっている。
僕の知っているアベルは、こんな節操のない人間ではなかった!」
初めて見るライルの取り乱した様子に、アベルは驚いて目を見開いた。
一度放たれた憤怒の波は、なかなか収まらない。とうとう彼の目から涙が零れた。
「貴方が変わってしまったのは、男に媚売って生きているような、あの淫猥な男妾のせいだ!
あの時、貴方の言うことを聞かなければよかった!おとなしく貴方を、あの男と北の国へ行かせなければよかった!!」
わななくライルの口からは、相手を罵倒する言葉しか出てこない。頭を抱え興奮する彼を、アベルは落ち着かせようと咄嗟的に彼の両腕を取った。
「ライル!落ち着け」
「嫌だ!」
アベルに触れられた途端、ライルの身体は激しく反応し、そのまま彼の腕にすがりついた。
「そんなの、嫌だ!貴方をあんな奴に取られるなんて!!」
アベルは自分にすがりつくこの青年を、無下に引き離す事もできず、困窮した表情で彼の背を宥めるように優しく叩くしかなかった。
痛いほどライルの思いが伝わってくる。だが、従順で穏やかな彼をこのようにしてまでも、アベルの心に変化はなかった。かえって己の気持ちがはっきりしたような気がする。
……そう、本当の自分が求めていたのは………。
「セドの王子を捜すために、貴方が奴の愛人として利用される必要なんてないじゃないですか!
ただの協力者でよかったじゃないですか……なのに…なんで…。
あの男が欲しいのは、貴方の地位と金と……身体だけだ!
搾り取られるだけ絞られて、貴方も巷の男と同じく、塵のように捨てられるんだ!」
「ライル!」
「そんな事もわかってて、どうしてあの男を受け入れたんです?
荒波の軍神ともあろう方が…!僕の…僕の貴方が…」
ああ、むかつく。
何だよ、さっきから。
扉を隔てて立ち竦むカァラの気分が益々悪くなった。
今にでも二人の邪魔をしたい衝動に駆られ、咄嗟にドアノブに手をかけてカァラは苦笑した。
そんなの、いつもの事じゃんかよ。
ばからしい。
囲われた相手の妻やら妾やらに、幾度となく同じような誹謗を浴びせられ続けた自分が、何で今更…。
(そうだよ、何むかついてんだ、俺。んなの、いつも笑って受け流すくせに)
カァラはけっと小さく毒ついて扉に背を向けた。だが、ざわざわした気分は一向に収まらない。
そう、この様に嫉妬に駆られて取り乱す恋敵達を、いつもならどこ吹く風で嘲笑するカァラなのだが、何故か今回ばかりはムカムカして仕方がない。
きっとこれは、あの【暁の明星】の“毒”に当てられたせいで、いつもの自分じゃないからだ。
カァラはそう自分を納得させた。
確かに今まで付き合ってきた男達と、アベルはちょっと毛色が違うかもしれない。だがそれだって、自分の気まぐれの一つにしか過ぎず、たまたま物珍しいだけで彼を選んだだけだ。
ま、付き合ってみて、意外に昼夜問わずしっくりと居心地がいいと思ったが、ただそれだけだ。
(あ~あ、うざったい。早く帰ってくれねーかなぁ…こいつ…)
カァラは扉に背を押し付けて、扉の向こうで泣き喚く男の存在に苛つきながら宙を仰いだ。
(ったく、アベルもアベルだよ…。上手く誤魔化せばいーじゃん)
しかも今、自分の神経が尖っている時に、こんな騒動は真っ平ごめんだ。
カァラは腕を組みながらふと、ある疑問が湧き上がった。
俺は一体、どっちに苛ついているんだろう……。
アベルか?それともこのいいとこのお坊ちゃんらしき男にか?
だがすぐにまたカァラは自分の思いを打ち消した。
ばかばかしい。
こんな気持ちになるのは、絶対暁と接した後遺症に他ならない。
全て。全てがあいつのせいだ。…あいつが俺に……あんな風に触れなければ。
カァラは口惜しそうにきゅっと唇を噛んだ。
「すでにセドの王子と接触できたのなら、もういいではないですか、アベル。
兄だってそこまでセドの王子に固執していたわけではない。将来、その王子が頭角を現したときに、荒波は荒波で正統に対応していけばいいと、僕も兄もそう思っている。この荒れた東の国に荒波の存在を示すには、かえって姑息な手を使わずに正々堂々と構えている方がいい。我が州にそれだけの力が備わってきているのは、貴方だってわかってる筈だ」
「…ああ…。だからこそ東を統一するには、決定打が尚更必要なんだよ。……神の子孫、と呼ばれた存在が…我々の手にあれば、今度こそ荒波が東を…」
「もう、その話はいいです!」
ピシャリとライルはアベルの話を遮った。そして震えながら、思いつめた顔になる。
「…貴方の考えはわかりました……。では、もうこの任務を終わらせてください」
「おい、何を言って…」
涙も拭かず、ライルはじっとアベルを見詰め、吐き捨てるように言った。
「事実、セドの王子の安否を確認したのだから、もうやめにしましょう!
兄とも話はついています。僕に一任してくれると。
だから僕は決めてきたんです」
一瞬言葉を飲み込むと、ライルはアベルに抱きついた。長身のアベルより、ライルの方が心持ち低い。
ライルはアベルの肩に顎を乗せ、耳元で震える声で囁いた。
「貴方と【姫胡蝶】の噂が事実であれば、必ずや貴方を連れ戻そう…。もし噂どおりに貴方が魔性の虜に囚われているだなら、そこから救わなければ、と」
「ライル、どうか聞いてくれないか…」
「お願いだ、アベル。僕と一緒に荒波に帰ってください。
まだ…間に合う。本来の貴方に戻る事ができる」
「本来の俺…?どういう俺だろうな、それは」
アベルの自嘲するような問いに、ラウルの手の力が強まった。
「貴方は荒波の強き英雄だ。何事にも囚われず、ご自身の意思で、自分も他人も…大海をも思いのままに制御していく。
そんな貴方が、一人の男に堕落するなんて許せない。貴方の相手は貴方を貶める存在ではなってはならないんだ」
「それはだな…」
アベルが何やら反論しようと口を開こうとするが、ライルはそれを阻止するかのように、必死にアベルの背に手を回そうとする。だが、冷静に話そうと考えるアベルは申し訳なさそうに、彼のその手を、身をよじって拒否した。
途端、ライルの顔に絶望の色が濃く表れる。
「すまない、ライル…。俺は本当に…」
アベルが断固とした表情で、彼に自分の今の気持ちを告げようとした時だった。
「提督閣下、お取り込みの最中に申し訳ございません」
突然、廊下側の扉の向こうから慌てた初老の男の声がして、二人は弾かれるようにぱっと離れた。
「あ…、ああ、大尉か。どうかしたのか?入りたまえ」
アベルの声に一呼吸置いてから扉が開き、そこから年配の上品そうな兵士が足早に入ってきた。
取り乱しているのを必死で立て直そうと後ろを向き、何気ないように佇んでいるライルに、その男は優しい目でちらりと見やると、何も気がつかない素振りでこう言った。
「ライル様、お久しぶりでございます。
お見えになっていると聞き、ご挨拶にと思ったのですが、その前に急遽提督に用がございまして。
お話の最中に突然伺いまして、大変申し訳ございません」
男は申し訳なさそうに笑うと、深々とライルにお辞儀をした。
「…あ、ああ…本当にひさしぶりだな、レザー。お前も変わりないか?」
「はい、おかげさまで」
レザー大尉は短く答えると、素早くアベルの近くに寄って耳打ちした。
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