暁の明星 宵の流星 #166 その②
現れた年配の兵士、レザー大尉の言葉にアベルの表情が曇った。
レザーはアベルから離れると、すまなそうな顔で奥で背を向けるライルにこう言った。
「申し訳ございません、少々、提督をお借りしてよろしいでしょうか?
実は、港の管理官がぜひ提督にお会いしたいと申されまして」
「船に何かあったとか?」
ライルは心持ち顔を振り向かせると、努めて平静な声で問うた。己が取り乱している様など、昔馴染みのレザー大尉に見られたくないし、悟られたくもない。
せめてものプライドがライルを奮い立たせ、提督の参謀としての立場に戻ろうとする。
そのレザー大尉は、元はライルの実家であるリッツ家の護衛を務めていた男だった。
幼少の頃のハウルやライル達兄弟を直に護っていた男で、その軍人にしては温厚な性格が、子守役にも適任として、長年彼らに仕えてきた。
リッツ家の子供達が皆成長し、彼らの手が離れたと同時に、代々軍人の家柄だった彼は、アベルの父の勧めで再び軍に戻った。
実は彼はアベルの遠縁でもあり、またあの変わり者の父の数少ない友人の一人でもあった事から、リッツ家の子息達と同様、色々と個人的に懇意になってもらっている間柄であった。特にアベルが海軍のトップに立ってからは、よき理解者、相談役として軍部で支えてくれる事が多い。今回もまた、提督の公私共の補佐役として同行していた。
「…はぁ、それは管理官自らお話ししたいそうで…」
レザー大尉の歯切れの悪い言葉に、ライルとアベルは同時に眉をひそめた。
「わかった…」
しばらくして溜息と共にアベルはそう呟くと、後ろを向いているライルに声をかけた。
「申し訳ない、ライル大佐。……俺は少し席をはずさなくてはならない。だから…」
アベルはちらりと部屋の奥にある扉に視線を走らせた。その扉は自分とカァラの寝室に繋がっている。
ただでさえ不機嫌なカァラが、この状況を面白がる筈などないだろう。
本当は心の中で、レザー大尉が来てくれた事にほっとしていた。
もうこれ以上、ライルとの揉め事を続けていたら、どんな事になるのやら。
カァラの事だ。別に自分とライルの間柄に嫉妬するタイプではないだろうが、騒ぎが続くのはさすがにやばいだろう。
普段と違って今のカァラは、まるで月のものが来ている女性のように些細な事で苛つきを見せ、感情的になっていると言ってもよかった。できればそっとしておきたい。
「悪いが別の部屋で俺を待っていてくれないか?」
カァラが起きてくる前に、できるだけ早くライルをこの部屋から出さないと…。
アベルはそう思いながら引き出しから鍵を取り出すと、優しくライルの手にその鍵を握らせた。
「真向かいの部屋の鍵だ。たまに会議で使っているが、普段は誰も使っていない」
ライルは手渡された鍵をじっと見詰めていたが、ゆっくりと虚ろな顔でアベルを見た。
「すぐにその部屋に行く。だから…」
宥めるような優しい声で、アベルはライルに囁いた。
「いい子だから、大人しくそこにいてくれ」
しばらくぼんやりとアベルの顔を見ていたライルだったが、きゅ、と唇を噛むとゆっくりと頷いた。
「よし、いい子だ」
アベルはつい、昔、子供の頃のライルによくしてあげたように、くしゃっと頭を撫でてにっこりと微笑んだ。
つられてライルも引きつった微笑を返す。
一瞬だったが、まるで過去に遡ったような雰囲気が二人を包んだ。
「提督、お早く」
レザー大尉の声にはっとすると、アベルは彼と共に廊下に通じる扉に向かった。そして去り際に再びライルの方を見ると、「戻ったらゆっくりと話そう」と一言残して部屋を出て行った。
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「提督も、何かと心労が耐えませんなぁ」
二人きりになると、レザー大尉が突然砕けた様子でアベルに話してきた。
このような軽口を叩けるのも、部下の中ではレザー大尉くらいなものである。
「……あなたまでこの俺に辛言するのか…」
廊下を歩きながら、アベルはついぼやいてしまった。
何しろこの男は部下とはいえ、父親の親しき友人でもある。しかも自分の子供の頃をよく知っている。
その事が軍隊ではやりにくいというよりも、心強いのが本音であった。だが、今は少々それが気恥ずかしい。
何故なら、右腕となったライルの事も子供の頃からよく知っていて、自分達二人の関係に気付いていた数少ない内の一人だったからである。
言い換えれば、親に二人の恋愛事情を知られている、といったような類の恥ずかしさに似ているかもしれなかった。
だが、レザー大尉の有難いところは、それを臆面に出さない事だった。
遠くから見守ってくれて、何かあると助言してくれる、物分りのいい出来過ぎた大人だと言える。それがいいか悪いかは別として…。
「辛言?何をおっしゃる。私は常に提督閣下の味方ですぞ」
にやっと口の端で笑うレザーに、アベルは肩を落とした。
「あなただって呆れている筈だ。…部下に手を出したこの俺を…大馬鹿だと」
その自虐的な言い方に、レザーはハァっと息を吐いた。
「ほぅ、貴方の気にしているところは“そこ”ですか。
……ライル様を受け入れなかったという事よりも、【姫胡蝶】に夢中になっているという事よりも?」
「レザー…。やっぱり辛辣だ…」
情けない声のアベルに、レザーは片眉を上げた。
いつもの彼なら、個人的な事には自ら首を突っ込まない性質(タチ)なのであるが、どうも今はこの不甲斐ない様子の提督閣下に色々と言いたいらしい。
「お言葉ですが、アベル?ライル様はただの部下ではございませんでしょう。
………まかりなりにも、現州知事長の弟君で、名家リッツの御曹司であられる…」
「そうだよ、わかっている。俺だって…」
「アベル提督」
レザーは苦笑いしながらこう言った。
「別に私は咎めているわけではないのですよ。…私の言い方に誤解されて、ライル様に手を出さなければよかった、などと思って欲しくない、という事です」
「レザー」
レザーはアベルの背を宥めるように軽く叩いた。
「私はあなたもライル様も大切なのです。
本音を言えば、お二方が一緒になられればそれは嬉しいし、そうでなくてもそれぞれがお幸せであればそれでいいのす。
ライル様の事、ただの遊びの相手として受け入れたわけですか?そうではないでしょう?」
アベルは軽く頷いた。
「一度も遊びだなんて思った事ない。……ライルを受け入れようとするには…実は相当な覚悟がいったから…」
思わず独り言のように呟くアベルを、レザーは慈愛のこもった眼差しで見詰めた。
「…わかっておりますとも。あなたはそのような浮ついたお方ではないですからね。
ただ、恋、というものはままならないもの。
……………人の心もままならないもの。
その事をライル様が受け入れてくださると…いいですねぇ…」
レザーもまた、独り言のように呟いて顎を撫でた。
「あまりご自分を責めないでいただきたい。
周りに何を言われようが、私は今のあなたが好きですよ。
むしろ、前よりも人間臭くて」
レザーはふふっと笑った。
「そうか?」
「ええ」
レザーはきっぱりと断言した。
「それが誰かの影響…と言いませんがね」
彼は再び思わせぶりにニヤリとすると、話題を急に変えた。
「それで、港の管理官の事なのですが…」
レザーはアベルと廊下を歩きながら仕事の話を再開した。だが、彼の胸中は実は複雑でもあった。
アベルにはああいう風に言ったが、本心では大切な二人の青年の行く末が心配だった。
(特にライル様は…。
真面目で、誠実で、努力家で)
ライルは子供の頃から一本気なところがあって、優等生でもある彼は、リッツ家の女主人にとって自慢の息子であった。
ただ、生真面目で固い所が、その女主人…ライルの母親とそっくりで、それはともすると自分の理想を裏切られると深い憎悪を生むであろう可能性が高いとレザーは危惧した。
もっと柔軟に…人生というものはそんな全てが思うとおりにならないものだという事を、そろそろ彼にもわかって欲しい。特に人間相手ともなれば…。
それを思うと、アベルも【己の感情、人生をコントロールする】という似たようなところがあったが、それが今は上手い具合にバランスが取れているようにレザーには見えていた。
人は思いがけない出来事に遭遇しても、それが抗えない大きな力を感じたら、一度素直に受け入れる事も大切なのではないかと、レザーは思っていた。
それが悲しみであれ、苦しみであれ、喜びであれ。……怒りであれ。
腹を括って一度受け入れ、内観する。そうして見えてきたものは、絶対に己の糧となる筈だ。
それからどう行動するかは、その人間の器によるであろうが。
(だからこそ、この件でライル様が成長されることを私は望んでいるのです…)
レザーはそう心の中で呟くと、そっと人知れず目を伏せた。
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残されたライルは、しばし呆然と、彼の出て行った扉を見詰めていた。
《すぐにその部屋に行く。だから…》
宥めるような優しい声。
《いい子だから、大人しくそこにいてくれ》
まるで海のような深い青の瞳が揺らぐ。
《よし、いい子だ》
自分の頭をくしゃっと撫でて、昔と同じくにっこりと微笑んでそう言ってくれた…。
ライルはそっと、彼に触れられた自分の髪に手を当てた。じんわりとそこだけが温かい…。
幼い頃、兄達に置いてけぼりにされていつも泣いていた自分に、すぐに気がつくのはいつもアベルだった。
『ほら、泣くな』
そう言っていつも頭を撫でて、構ってくれたのもアベルだ。
アベルの華やかな容姿に見惚れ、思わず泣き止めば、今度は力任せにくしゃくしゃっと人の髪をかき回す。
『ようし、いい子だ!次は笑ってみろ、ライル。ほら』
考えてみれば、兄弟とはいえどこか他人行儀でよそよそしい兄達よりも、他人であったアベルの方がいつも自分に親身になってくれていた。
それが、単に彼の世話好きで子供に優しい性分であったとしても。
沢山の弟達のひとりと思って、放っておけなかったのかもしれないとしても。
ライルにとって、アベルは最も近しい憧れであった。
いつしかそれが恋心になったとしても、仕方のないことだったのかもしれない。
最初は、ただ単に憧れているだけの年上のお兄さんだった。だが思春期にさしかかって、自分の長兄と抱き合っている場面を偶然見てしまってから、彼に対する自分の気持ちに気付いてしまった。
ショックだった。
誰にも言えなかったし、悟られたくなかったから、表面的には何でもないように過ごしていたが、ライルの衝撃は何年も続いていた。
兄と憧れの君の関係以上に、それを知った自分の本心の方がショックだったのだ。
ライルは何年も、実の兄に対する激しい嫉妬と憎悪に苦しんだ。
胸を掻き毟られるほど…。それほど自分の中に激しい感情が潜んでいた事に対する衝撃だ。
そのどす黒いものが、今またライルの奥から湧き起こってくる。
兄が彼と別れ、やっと手に入れる事ができると思った矢先…。
「アベル…。もう、遅いよ…」
だって、もう自分は彼の肌を知ってしまった。
柔らかで魅惑的な唇の味だって知ってしまった。
昔、どれだけ彼と触れ合う兄を羨んだか。その果てにやっと手にした幸せだったのに。
つかの間になってしまった。でも、もう自分は戻れない…。
「昔のような関係には…もう…」
戻れないのではない。戻りたくない、だ。
思わずライルの目の奥から、じわりと温かいものが湧いてくる。
絶対、諦めるものか…。
そう心の中で決心し、アベルから預かった鍵を手の中で握り締めると、意を決してライルは出口の方に進み出て、扉の前に立った。
《戻ったらゆっくりと話そう》
そう最後に言ってくれた。
という事は、自分とじっくり話をしてくれる気持ちが、まだ彼にはあるということだ。
(アベルが部屋に来たら)
ライルの心臓が早まる。
(必ず、説得してみせる。…泣き落としでも、強引に迫ってでも)
途端に嫌な考えが脳裏に浮かぶ。
説得できなかったら…彼を刺して…自分も後を追う…?
発作的に浮かんだその情景に、ライルは背筋がぞっとした。
(馬鹿な、一体僕は何を考えているんだ!)
まだわずかに残っている己の理性が叫んだその時だった。
「なぁ、いつまでそこにいるつもり?出るか残るかどちらかにしてくれる?」
背後で不機嫌な声がして、ライルは弾かれたように後ろを振り向いた。
「扉の前で突っ立ってるの、邪魔なんだけど」
部屋の奥、多分察するにそれは寝室であろう扉がいつの間にか開いていて、そのすぐ脇の壁に腕を組んで寄り掛かる髪の長い人物が、じっと自分を睨みつけている。
ライルの胸がぎゅっと締め付けられた。
緋色のローブを素肌に纏った姿は、一見、女のようだが、その合間に除く白い胸元は完全に男であった。
しかもアベルの部屋の寝室から姿を現したということは…。
「お前…【姫胡蝶】…」
喉から引きつるような声が出た。
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