暁の明星 宵の流星 #168
自分が信じられない。
ライルは己の腕(かいな)の中に存在する人間の、艶かしい匂いに意識を支配されつつあった。
滑らかで、吸い付くような肌の感触に我を忘れ、どこまでもこのまま堕ちてしまってもかまわないという、欲望に引きずり込まれようとしていた。
思ったよりも温かな乳白色の肌に触れ、無意識のうちにその柔肌に吸い付き、激しく口づけたい衝動に駆られ、事実そうした。
甘美な劣情がライルの腰元から沸き起こり、相手の含み笑いを、どこか遠い意識の彼方で呆然と聞いていた。
「ほらね!男なんて、皆おんなじなんだよ」
甘いテノールの声が、ライルの耳をくすぐった。
「偉そうな事言ったって、あんたもただの男じゃないか…。
どうしてこうも、欲に弱いんだかね…」
カァラの呟く声には、少し投げやりな色が混じっていたが、囚われているライルには、気がつく余裕もない。
「はっ!見るからに真面目で貞淑そうなお坊ちゃんが笑わせてくれる」
表面では艶かしく男を誘っている風のカァラであったが、出てくる言葉は苛立って、どんどん険しくなってきていた。
「どうだい?泥棒猫の餌食になる気分は?
ああ、そうだ。一つ訂正してやるよ。あんたはアベルを俺と共有するんじゃない」
カァラは自分が止められなかった。
ライルの口づけを受けながら、感情は益々ヒステリックになっていく。
「あんたとアベルが俺を共有するんだよ…!!」
乾いた笑いと共に、カァラはそう吐き捨てた。
胸の奥に、ほのかに芽生えてきている喪失感には気づかないフリをして。
そうだよ。
どんなに偉そうな言葉を吐いたって、愛なんてものは欲望の前には無力なんだよ。
どんなに言葉で愛を語ったとしても、そんなもの永遠なわけがない。
何がアベルの伴侶だよ…。
お綺麗な事をほざいたって、結局こうして簡単に俺の色香に落ちるなんてさ。
心と肉体は別なんだ。
人は所詮、愛なんかよりも欲に流されちまう生き物なんだよ。
カァラは自分の中で、激しい絶望にも似た感情が渦巻いてくるのを感じた。
今まで感じた事のない…いや、あったとしても、頑なに封印してきた、その感情を。
一方……。
(アベル…?)
ライルのぼんやりとした頭に、するりとその名が滑り込んできた。
(アベル…。僕は一体…何をしているんだ?)
その名がライルの陶然とした意識を、正常に戻そうとする突破口となりつつあった。
しかしそうであっても、すでに欲望に滾る肉体を、すぐさま思うように自制できるわけがない。
ライルはそのまま欲望に引きずられながら、カァラの胸元に手を這わせ、緋色のガウンの袷をその手で押し広げた。そして本能のままに、彼の白い肌に唇を寄せようと顔を伏せる。
だがその直後、ライルは凍りついたように固まった。
彼の視線の先には、くっきりと愛の痕跡がいくつか散らばっていたからだ。
カァラの白い肌に浮かび上がるその鮮やかな赤。それはどう見ても、つけられて間もない激しい情事の名残であった。
(アベル…)
突如として、目の前が真っ赤になる。
ライルの脳裏に、この目の前の男と自分の愛する男の、絡み合う姿が生々しく浮かんだ。それは瞬時に猛烈な嫉妬の炎を呼びさました。
このくっきりとした痕跡は、相手の男の荒々しい情欲と、それを刻まれた者への執拗なまでの所有欲の証だ。
(僕には…!)
湧き起こった嫉妬の炎は、急激に怒りと憎しみに変化し、その激情が己の性欲を超えた。
「く、う…」
ライルは全身を震わせ、今触れている男の誘うような肌から、懸命に己の身体を引き剥がそうと躍起になった。
(アベルは僕に…こんな風に触れてくれなかった…)
恨みがましい思いが感情を支配しつつあった。
数少ない情事でさえ、まるで自分を腫れ物にでも触れるような抱き方だった事を思い出す。
冷静にもう一つの視点から見れば、それは自分を大切に扱ってくれているとも取れる。
だが、あの自制心の塊みたいな男が、このようなをものを夢中でつけてしまうほど、この男を求めたのかと思うと、底なしの闇に突き落とされた気分になった。
──そんなに【姫胡蝶】 との情事はいいものなのか…。
突如動きの止まったライルに、カァラはいぶかしんだ。
「おい、どうしたんだよ。今更やめられるのかい?」
まるで馬鹿にするような声に、ライルの頭にカァっと血が昇った。
(こ、の、なんで…なんでこんな奴に…!)
ライルはすべての煩悩をかなぐり捨てるかのように勢いよく息を吸うと、怒りに任せてカァラの身体を突き飛ばした。
「この、淫売!!」
よろけたカァラは寸でのところで踏み止まると、自分を突き飛ばした相手の顔を、一瞬、信じられないという表情で見やった。
当のライルは顔を真っ赤にし、目には悔し涙を浮かべ、荒い息を隠そうともしない。先ほどまで自分の色香に翻弄されていた、同じ男とは到底思えない形相である。
それどころか、再び彼はカァラの傍へと詰め寄ると、乱暴に襟首を掴み、怒りを露にまくし立てた。
「これでわかったぞ、この汚らわしい淫乱め!男なら誰でもいいんだってことが!」
激昂したライルの顔をぼんやりと見ていたカァラの表情が、徐々に険しくなっていく。
「男なら誰もがお前の思うとおりになるなんて、思い上がりも甚だしい!
何が魔性の【姫胡蝶】だ!ただの男狂いの男娼じゃないか!」
悔しかった。
ライルは悔しい以上に情けなくて、そして憎らしかった。
このような尻軽が、自分が幼い頃から憧れ、ずっとずっと愛してきた男の寵愛を受けているという事に。
ライルの切ないまでの激情は、そのはけ口を求めて目の前の男を攻め立てる。
耳を塞ぎたくなるほどの侮蔑の言葉をライルから多数浴びせられ、カァラの目が氷のように冷たくなった。
しばらくカァラはライルの言葉を受けていたが、ふっと口元を歪めると、いきなり笑い出した。
驚いたのはライルの方だった。
まさか罵りを受けている相手が、さも可笑しそうに笑うとは思わなかったからだ。
「なっ、何が可笑しいんだ!!」
生真面目で通っているライルにとって、この展開はあまり気分のいいものではない。
「あ、はは…は…、だって馬鹿みてぇじゃん」
カァラは笑いながら、嘲るようにふふん、と鼻を鳴らした。
「この俺様が、そんな言葉に傷つくと思ってるのがさ」
その尊大な言葉に、ライルの憎悪が増した。
(殺してやる…)
突如として湧き上がる思いもかけない殺意。
今、この細い首を力任せに絞めれば、この汚い男娼から愛する男を守れるかもしれない…。アベルを取り戻すには、これしかないのかも…。
ライルがそう思った時だった。
「俺が憎いだろ」
今にでも首を絞められそうだというのに、意に反して冷静に切り返されて、ライルははっと我に返った。
「殺したければ、やってみろよ。それであんたの大事な人が本当に戻るんならね」
その言葉に嘲笑の含みは一切なかった。不気味なほどに淡々と呟くカァラの表情からは、何も読み取れない。
そうだ。
この男を激情のままに亡き者にしたからといって、あのアベルが事実自分の元に戻るだろうか…?
どう見ても、今のアベルはこの男に夢中だ。こいつに目が眩んでるとしか思えない。
その恋敵を嫉妬に駆られて手にかける愚行を、あのアベルがどう思うか……?
ライルは浅ましい感情のままに行動しようとした自分を恥じた。
というよりも、誇り高くあれ、清廉潔白であれと、幼い頃から徹底的に躾けられてきた良家の子息としてのプライドが頭をもたげた。
対する相手がまだ自分を馬鹿にするか、感情に駆られているような態度だったら、多分、ライルも勢いで殺していただろう。
だが、こちらの事を見抜いているのだろうか、カァラは突然態度を変えて、冷然と彼に対峙したのだ。
その悠然とした風情に、彼の豪胆さが垣間見えたかのようで、ライルは瞬時に冷静に戻ったのである。
(まさか…こんな…男娼風情に)
無機質のような灰色の目に圧倒されて、ライルは罵倒の言葉を飲み込んだ。
襟首を掴む手が震える。
(こんな、こんな…)
自分がこんなに取り乱すなんて…。
この胸に広がる敗北感は一体何なのだ…。
情けなくて、悔しくて。
惨めで…!
「お、お前なんかにっ」
もうライルには限界だった。
「お前に何がわかる!!」
堰を切ったように己の思いを憎い相手にぶちまける。
「ぼ、僕はずっと…ずっと彼を見てきたんだ…!」
きつく瞑る目から涙が溢れ、絶望的な声が溢れた。
「…子供の頃からずっとだ。
お前にとって愛なんてお遊びのうちなんだろう。
あの人はお前にとってただのその場限りの愛人なんだろう?
けど。
ああ、だけど!
僕にとってあの人は…」
最後の声は、まるですがるようにカァラの耳に響いた。
「そうだよ、報われないのに、十数年も…、ずっとずっと彼を、彼だけを愛している…。
愛しているんだ…!どうしようもないほど、ずっと……!!」
カァラの胸の奥から、狂おしいほどの羨望が沸き起こった。
どれだけライルに罵られようが、今まで絶え間ない敵意を恋敵達から浴びていたカァラにとっては、大した事ではない。罵倒され、蔑まれても、罪悪感に苛まれる事もなかった。
どんな事を言われても、冷静に聞き流せるくらいの胆だって持っている。
自分があの悪名高い犯罪者の血を受け継いでいるために、己が悪であり続けなければ、この世に生き延びる事ができなかったという事実があった。
だからこそ、自分の中に羨望や罪悪感というものを持つ事。それはカァラにとって己の弱さを引き出す忌むべきものだ。
弱さ。
それはすなわち己を滅ぼす元凶といってもいい。
カァラはずっと、子供の頃から強くなければならなかった。
凶悪犯の子である事実が、カァラに人としての感情を、倫理を、どんどん追いやった。そして環境が、生きる為には何でもするし、もちろん悪にでもなれという事を、これでもかと叩き込んだ。
だからこのように荒んでいる自分には、今まで培った己を崩す恐れのある感情なんて、もうすでに無くなっていると思っていた。
だからどんなに罵られようが、貶められようが、カァラはまったく傷つかなかった。
だが、おかしいのだ。
この、湧き上がる切ないまでの羨望。これって一体、何なんだ?
…暁の手に…アムイに触れられてから…カァラの心は、思いもしない感覚が顔を出すようになった。
それは…。
それは絶対、自分で感じてはいけない…、感覚。
「笑うなら、笑え。だけど、僕にはアベルしかいない。
何でお前はあの人を選んだ…。その場の気まぐれで、何であの人なんだ…」
呻くように吐露するライルの心情に、カァラはらしくもなく胸をえぐられた。が、これは己の錯覚だと、カァラの心はまだ抵抗する。
そんなカァラの様子には全く目もくれず、ライルは首を振りながらも思いの丈をぶつける。
「僕のアベルを返せ…、返してくれ。
お前には掃いて捨てるだけの崇拝者達がいるじゃないか。
アベルは…僕のアベルはお前のような軽薄な男とは全く違うんだ。
女のように着飾って、媚売って。…簡単に身体を売って。
お前のように、ただ快楽を求め、ちやほやされて面白おかしく生きているだけの奴になんか、アベルの傍に似合うわけがない。
簡単に相手を替えてしまえる、お前のような男に渡すわけにはいかないんだ!!」
握り締めた拳に力が込められる。思い乱れてライルは喘ぐように叫んだ。
「お前は必ず僕のアベルを傷つける!
一度も本気で人を愛した事などないお前に、僕やアベルの気持ちなど、わかる筈もないからだ。
アベルはずっと深くて激しい…でも苦しい恋をしてきたんだ。
…僕はそれを近くで見てきた。彼の愛情の深さ、情熱や苦しみも…ずっと僕の方がわかっている。
あれほど深く情愛に溢れ、一途である男の、傷つけられた時の深い悲しみさえ、お前には理解できないだろう。
人の愛を軽んじているお前は、確実に僕のアベルを不幸にする!」
今まで平然としていたカァラの顔色が変わった。
ライルの言葉は、カァラの中で沸き起こった羨望という感情を、憤りという形にに変貌させていく。
ずっと、ずっと鼻持ちならないと思っていたこの男の、何度も何度も繰り返す“僕のアベル”という耳障りな言葉に、カァラは激しく反応した。
(何だよ、こいつ…!さっきから僕のアベル、僕のアベルって…我が物顔で)
今まで、感じた事もなかったこの感情…。
この込み上げてくる相手に対する嫌悪こそ…、もう、完全に認めるしかない…。
カァラの、ライルへの憤りが、今まで避けてきた己の感情と向き合わざるを得ないという、不本意な状況に追い込んでいく。
「あんたこそ、俺の何がわかるっていうんだ…」
まるで唸るように、食い縛ったカァラの歯の奥から、別人のような声が洩れた。
《やめろ!》
カァラは心の底で己自身に怒鳴った。
「…ただの甘ったれたお坊ちゃんのくせに」
耳に届く自分の声は、まるで知らない人間のもののように聞こえた。
《いけない、やめろ!やめるんだ。
これ以上、口を開くな!!》
己の中のいつのも自分が、必死に阻止しようと怒鳴っている。
だが。だがそれに反して自分の口は勝手に動く。
「幸せな家庭に生まれ、恵まれた生活を送って…何事にもお綺麗でご立派にお育ちになって。
さぞかしお気楽極楽でお過ごしなさっているんでしょう、お坊ちゃま。
だからそんな甘っちょろい事を、平然と人に説教できるんですね。
…何が愛だ。何が恋だ。笑わせるな!!」
最後に激しく言い放つと、カァラはもの凄い力で掴んでいたライルの手を振り解いた。
思わぬ反撃に、ライルは驚きも隠せずその場に固まった。
カァラの顔はいつもの済ましたものでなく、完全に感情が剥き出している。
「お前こそ俺の何がわかる?
ぬくぬくと恵まれた環境の中で、明日の自分の生死に何の恐怖も感じず、どん底を味わった事のない奴に、この俺を批判する資格があるのか!!それだけあんたは聖人君子のように非のない人間だというのか!!」
こんなの、自分じゃない。
こんな、こんな感情丸出しの…みっともない…。
吐き出す言葉とは裏腹に、冷静な自分が戸惑っているのがわかる。
だが、走り出してしまった感情の暴走は、もう自分にも、あまつさえ他人ですら止められそうにもない所まで来ている。
「ああ、そうだ。偉そうに愛を語るお前こそわからないだろうよ!
温かな人の庇護を受けるのが当たり前に育った、恵まれている奴になんか!
父は極悪人、母は狂人だ!養い親だって名ばかりで俺を毎日弄んだ。
守ってくれる大人なんて、俺にはいやしなかった。皆が俺を物扱いした。
皆、俺を人間として扱った奴なんていやしねぇ!!
だから俺は一人で生きていくって決めたんだ」
《やめろ…。やめてくれ…!!》
カァラは暴走する自分に頼み込んだ。
これではまるで、自分が恵まれなかった恨み辛みを、他人に暴露しているみたいじゃないか。
…そう、あの、暁と。あいつと対峙して感じた…あの、惨めな小さい頃の自分の感情が、今。
ずっと、ずっと埋もれていた、自分でさえ知らなかった幼い頃の自分が、今、扉を開けて出てこようとしていた。
それは…己の弱さを、自分が忌み嫌っていた己の弱さを目の当たりにする瞬間でもあった。
「愛だって?そんなもので腹が膨れるのか!
恋?そんなもの、生きていくのには邪魔なだけじゃねぇか。
俺はな、今まで単にお気楽に生きて来たんじゃねぇ!!
毎日が必死だった!
生きるか死ぬか、毎日が戦いだったんだよ!!」
カァラの言葉に、ライルの血の気がみるみるうちに引いていった。
まさかの【姫胡蝶】に、己の身の上をぶつけられるとは思ってもみなかったという顔だ。
人を煙に撒いて、涼しい顔でその場を去っていくものだと思っていたライルは、異様に取り乱すカァラをただ唖然と見るしかなかった。
「あんたにわかるか?
ガキが、自分の力だけで生きていく為には、どんだけの事をしてきたか。
その日の食いもんを手にする為に、どんだけ手を汚さなくちゃならねぇか!!」
「お前…」
「そんな事に比べりゃ、人の愛人になって何が悪い?
そりゃただ身体を売るだけなら誰だってできるさ。
だが知らないだろう?
高位の相手の寵愛を一身に受けるには、並大抵の事じゃいかないんだよ。
それ相応の対価だって支払うんだ。
それが出来ない奴は、ただ単に相手に犯られて、飽きられたら捨てられるだけ。
しかも相手に恋なんてしたら、自分の身を滅ぼすだけだ。
俺がそんな事もわからない間抜けだと思っているのかよ。
ちやほやされて面白おかしく生きているだけだって?
あのなぁ、そういう奴もいるかもしれないけど、そんなの若いうちだけだ。
本物の高級娼婦だって、相手に釣り合うくらいの知識と教養、世渡りを身につけているもんだ。
この世の裏もよく知らない世間知らずのお坊ちゃんが、能天気にこの俺様に文句言うとはちゃんちゃら可笑しいぜ」
一気にまくし立てたカァラの息は上がり、目を野生の猫のようにぎらぎらとさせている。
「いくらあんたが俺を蔑もうが、非難しようが、現実ではあんたの大事なアベルは、この俺を選んだんだよ。
あの時、あいつだって形式だけの愛人契約でよかった筈なんだ。
だけどな」
意地悪い思いがカァラの歯止めを利かせなくし、自虐的な思いも込めて、思い切り相手を蔑むように笑ってみせた。
「組み伏せてきたのは、アベルの方だ。
アベルが激しく求めたのは、あんたなんかじゃない。この俺だ!」
「言うなっっ!!」
その言葉に我を忘れたライルが、カァラに掴みかかってきた。
大きく揺さぶられても、何故かカァラは抵抗する気になれなかった。
(殴るなら、殴ればいいさ)
もうやけくそだ。
今までこんな風に自分の感情を相手にぶつけた事なんてなかった。
いや、そうじゃない。
こんな感情があるなんて事を、自分は今まで封じて、なかった事にしていただけだ。
あの【暁の明星】…アムイとの邂逅が、己にもたらしたもの。
それは押し隠してきた小さな自分の解放だ。
苦しかった事。
辛かった事。
罪悪感も嫌悪感も。
惨めだった子供時代。
己に対する憐憫。
……誰も自分を本当に愛してくれやしない。その、絶望。
誰もが自分を心のない人形として扱った。
研究の為とか、もしくは情欲の対象としか触れてこなかった。
抱きしめられたって、いつも相手からは吐き気がするほどの欲望しか感じ取れない。
なのにその口から放たれる言葉はいつだって…。
好きだ?愛している?俺のモノになれ?
何それ……。
愛?愛って何だよ。
ただ、あんた達は俺の中に欲望を放ちたいだけなんだろう??
ただ俺の肉体に執着しているだけなんだろう?
それを愛というならば、俺はそれでもいいよ。
求められないよりは、求められた方がいい。
男である俺を欲しいというなら身体だけくれてやる。
女の中に精を放ち、望まない子供をつくるよりは。
……俺と同じ……不幸な子供を増やすよりは。
小さな自分の本音を、カァラはまるで人事のように感じていた。
それは、アムイに指摘されたとおり、全ての生への呪いだ。
もう、いい。
もう潔く認めるしかない。
カァラはライルの拳を受ける覚悟で目を閉じた。
自分は、嫉妬したんだ。
この男の、アベルへの一途な思いに。
自分にはない、いや、認めようとしなかった、純粋に相手を恋うる気持ち。
長く、ただ一人を深く想うその心に、激しい妬みと羨望を覚えた……そんな自分が許せなかった。
そんな自分が酷く惨めで、消してしまいたかった。
どんなに数多の男を傅かせたとしても、自分には手に入らない…その純粋な想いを。
それどころか、どこかで恐れている。
この封印していた気持ちを知ってしまったが最後、今までの自分が崩れてしまいそうだから。
だが、……もう、認めなくては…いけないのだろうか?
どんなに……自分が幼い頃から、不確かな愛、というものを切望し、本当は求めていたという事実を。
その己の弱さを認めたら、もう自分には邪眼の効力は無くなるかもしれない。
何故ならその力は多分、己の憎悪と悪意から生み出され、外敵から身を守るために発動したに違いない力だからだ。
……愛、というものを知らず、“信じない”“不要だ”、と決めた自分に与えられた、この世で生き抜くために必要な魔の力…。
カァラの頭にふっとアベルの姿が浮かんだ。
(それを失うという事は、俺はただの惨めで無力な人間に戻る、という事だ。
アベルだって、この俺の能力があるからこそ、俺に利用価値を見出しているというのに…。
きっと力のない俺の事など、簡単に切り捨てる筈だ。
そうなったら、…俺は?
俺はこの先、どうやって生きていったら、いい?)
カァラの心の葛藤を知らないライルは、激情のまま彼を殴ろうと拳を宙に掲げた。
相手が一切の力を抜いて、されるがままになっているなど、全く気がつかないままに。
ライルの手が振り下ろされた。
その風を頬に感じたカァラは、初めの衝撃を大人しく待つ。
が、その刹那。
「やめろ!ライル!!」
いきなり扉が乱暴に開く音がし、叫びながら走り寄ったかと思うと、二人の間に誰かが強引に割って入って来た。
その聞き慣れた声にはっとして、カァラは目をあけて喉を詰まらせる。
目の前には見慣れた広い背中があった。
(アベル…)
アベルが、二人の間を遮るように身を滑らし、殴りかかろうとするライルの腕を左手で遮りながら、右腕を使ってカァラの華奢な身体を己の背に収めようとしていた。
それは傍から見れば、どう見ても、身を挺してカァラを庇おうとする行動だった。
「おやめ下さい!!ライル様っ!!」
いつの間にかライルの背後にはレザー大尉がいて、興奮状態のライルを必死に止めようと羽交い絞めにしていた。
「アベル!」
ライルの叫びに、絶望の色が濃くなった。
「こいつは貴方を、ただの色欲の対象にしかしてない!
貴方の事など、露ほども愛してなんかいやしないっ!!
なのにどうして!
どうしてこの僕を止める?どうしてこいつを庇うんだ、アベル!!」
アベルに食って掛かろうとするライルを、レザーは必死で押さえ込んだ。
「どうか、どうか落ち着いて下さい、ラ、ライル様…」
「こんな奴と一緒にいて、貴方が幸せになるわけがない!
僕は、僕は…認めない。
絶対に認めるもんか!!」
レザーの制止の言葉すらも、興奮しているライルには届く筈もない。しかも、目の前で愛する男が恋敵を庇うような素振りをしているのだ。誰だって怒りで我を忘れていても仕方ないだろう。
自暴自棄にすらなっているライルは、言いたくもない事を、結局アベルにぶちまけた。
それが、アベルにどんな影響をもたらせるかも知らずに。
「その証拠に、こいつがこの僕に何をしたか教えてやるっ。
色目を使ったんだ、アベル。
貴方に囲われながら、この僕を簡単に誘惑しようとした。
自分から僕の胸にすがり付いて、一度寝てみないかと誘ってきたんだ!
甘えた声を出して。その汚らわしい手で僕に触れてきた」
ライルはただ、相手の男がどれだけ不実であるかを訴えたかった。
今入れ込んでいる相手の本性に気付き、どうにか目を覚まして欲しかった…。本当にただ、それだけの気持ちで、自分がどれだけ思慮に欠ける言葉を放っているのか、わかってなどいなかった。
「あのまま僕が正気に戻らなかったら、こいつは僕を床に押し倒して…」
アベルが目を険しく眇めたのに、レザー大尉は大きく息を呑んだ。
「ふん、何言ってんだ。押し倒す勢いはあんたの方だったろう?
夢中で俺の首にむしゃぶりついてきたくせに」
「ひ、【姫胡蝶】殿!!」
売り言葉に買い言葉、だ。
アベルの背後で応戦するカァラに、ぎょっとしたレザーが慌ててカァラの名を叫んだ。
「なっ、何だと!この淫売めが!」
「ライル様!!」
今度はライルの言葉を遮らざるを得なかったレザーだけが、目の前のアベルの危険な様相に気がついていた。
当の二人が互いの牽制で全く気が付いていない、今にでも爆発しそうなそのアベルの凍りつくような波動を、まざまざと感じ取っていたレザーは、もうこれ以上彼を刺激しては危険だと察知した。
「お願いです、ライル様も【姫胡蝶】殿も!もうこれ以上口を開けてくださるな!
ああどうか、冷静になってくだされ!このレザーに免じてどうか…」
レザーの尋常ではない必死な嘆願に、やっと我に戻った二人は、同時に出掛かった言葉を引っ込めた。
「……わかった…」
しばらくして、アベルの感情を抑えたような声が、重苦しく部屋に響いた。
レザーだけにはわかっていた。
彼が、どれほどの自制心を働かせ、今にでも爆発しそうな危険な波動を押さえ込んだのかを。
「お前達が争っている事は、よくわかった。
だが、いい加減に落ち着いてくれないか、二人とも」
底冷えするような冷たい声に、ピン、と張り詰めた空気がその場を包んだ。
「…ライル、君は俺の優秀な佐官であるという立場を、もはや忘れているのではないだろうな?
私事ではなく、君に頼みたい事がある。
俺に対する話は、機会があったら後でゆっくりと聞いてやる。……ただし、今は私情は抜きだ」
ライルはびくっとして、アベルの顔を見た。そして、自分が私情に走って、愚かな醜態を晒していた事に気が付いて、顔を赤らめた。
「じゃ、俺はもう行っていいだろ?」
気まずい沈黙の後、最初に言葉を発したのはカァラであった。
「いや、カァラ。お前にも用がある」
この場を離れようとするカァラの腕を掴むと、アベルは有無を言わせないほどの強い力で引き戻した。
「何の用だよ!痛っ、ちょっと離せよ、この馬鹿っ」
もうすでに言葉使いからして、あの優美な【姫胡蝶】らしくない。それだけ今のカァラには、己を華美に演出する力が残っていなかった。
とにかく、疲れた。頭がガンガンする。もう休みたい…。
そんな心情がモロに顔に出ていたのか。それにすぐさま気付いたアベルの眼差しが、一瞬、緩んだ。
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