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2012年2月

2012年2月23日 (木)

暁の明星 宵の流星 #168

自分が信じられない。

ライルは己の腕(かいな)の中に存在する人間の、艶かしい匂いに意識を支配されつつあった。
滑らかで、吸い付くような肌の感触に我を忘れ、どこまでもこのまま堕ちてしまってもかまわないという、欲望に引きずり込まれようとしていた。
思ったよりも温かな乳白色の肌に触れ、無意識のうちにその柔肌に吸い付き、激しく口づけたい衝動に駆られ、事実そうした。
甘美な劣情がライルの腰元から沸き起こり、相手の含み笑いを、どこか遠い意識の彼方で呆然と聞いていた。

「ほらね!男なんて、皆おんなじなんだよ」
甘いテノールの声が、ライルの耳をくすぐった。
「偉そうな事言ったって、あんたもただの男じゃないか…。
どうしてこうも、欲に弱いんだかね…」
カァラの呟く声には、少し投げやりな色が混じっていたが、囚われているライルには、気がつく余裕もない。
「はっ!見るからに真面目で貞淑そうなお坊ちゃんが笑わせてくれる」
表面では艶かしく男を誘っている風のカァラであったが、出てくる言葉は苛立って、どんどん険しくなってきていた。
「どうだい?泥棒猫の餌食になる気分は?
ああ、そうだ。一つ訂正してやるよ。あんたはアベルを俺と共有するんじゃない」
カァラは自分が止められなかった。
ライルの口づけを受けながら、感情は益々ヒステリックになっていく。
「あんたとアベルが俺を共有するんだよ…!!」
乾いた笑いと共に、カァラはそう吐き捨てた。

胸の奥に、ほのかに芽生えてきている喪失感には気づかないフリをして。


そうだよ。
どんなに偉そうな言葉を吐いたって、愛なんてものは欲望の前には無力なんだよ。
どんなに言葉で愛を語ったとしても、そんなもの永遠なわけがない。
何がアベルの伴侶だよ…。
お綺麗な事をほざいたって、結局こうして簡単に俺の色香に落ちるなんてさ。
心と肉体は別なんだ。
人は所詮、愛なんかよりも欲に流されちまう生き物なんだよ。


カァラは自分の中で、激しい絶望にも似た感情が渦巻いてくるのを感じた。
今まで感じた事のない…いや、あったとしても、頑なに封印してきた、その感情を。


一方……。

(アベル…?)
ライルのぼんやりとした頭に、するりとその名が滑り込んできた。
(アベル…。僕は一体…何をしているんだ?)
その名がライルの陶然とした意識を、正常に戻そうとする突破口となりつつあった。
しかしそうであっても、すでに欲望に滾る肉体を、すぐさま思うように自制できるわけがない。
ライルはそのまま欲望に引きずられながら、カァラの胸元に手を這わせ、緋色のガウンの袷をその手で押し広げた。そして本能のままに、彼の白い肌に唇を寄せようと顔を伏せる。
だがその直後、ライルは凍りついたように固まった。
彼の視線の先には、くっきりと愛の痕跡がいくつか散らばっていたからだ。
カァラの白い肌に浮かび上がるその鮮やかな赤。それはどう見ても、つけられて間もない激しい情事の名残であった。
(アベル…)
突如として、目の前が真っ赤になる。
ライルの脳裏に、この目の前の男と自分の愛する男の、絡み合う姿が生々しく浮かんだ。それは瞬時に猛烈な嫉妬の炎を呼びさました。
このくっきりとした痕跡は、相手の男の荒々しい情欲と、それを刻まれた者への執拗なまでの所有欲の証だ。
(僕には…!)
湧き起こった嫉妬の炎は、急激に怒りと憎しみに変化し、その激情が己の性欲を超えた。

「く、う…」
ライルは全身を震わせ、今触れている男の誘うような肌から、懸命に己の身体を引き剥がそうと躍起になった。
(アベルは僕に…こんな風に触れてくれなかった…)
恨みがましい思いが感情を支配しつつあった。
数少ない情事でさえ、まるで自分を腫れ物にでも触れるような抱き方だった事を思い出す。
冷静にもう一つの視点から見れば、それは自分を大切に扱ってくれているとも取れる。
だが、あの自制心の塊みたいな男が、このようなをものを夢中でつけてしまうほど、この男を求めたのかと思うと、底なしの闇に突き落とされた気分になった。
──そんなに【姫胡蝶】 との情事はいいものなのか…。


突如動きの止まったライルに、カァラはいぶかしんだ。
「おい、どうしたんだよ。今更やめられるのかい?」
まるで馬鹿にするような声に、ライルの頭にカァっと血が昇った。
(こ、の、なんで…なんでこんな奴に…!)
ライルはすべての煩悩をかなぐり捨てるかのように勢いよく息を吸うと、怒りに任せてカァラの身体を突き飛ばした。
「この、淫売!!」
よろけたカァラは寸でのところで踏み止まると、自分を突き飛ばした相手の顔を、一瞬、信じられないという表情で見やった。
当のライルは顔を真っ赤にし、目には悔し涙を浮かべ、荒い息を隠そうともしない。先ほどまで自分の色香に翻弄されていた、同じ男とは到底思えない形相である。
それどころか、再び彼はカァラの傍へと詰め寄ると、乱暴に襟首を掴み、怒りを露にまくし立てた。
「これでわかったぞ、この汚らわしい淫乱め!男なら誰でもいいんだってことが!」
激昂したライルの顔をぼんやりと見ていたカァラの表情が、徐々に険しくなっていく。
「男なら誰もがお前の思うとおりになるなんて、思い上がりも甚だしい!
何が魔性の【姫胡蝶】だ!ただの男狂いの男娼じゃないか!」

悔しかった。
ライルは悔しい以上に情けなくて、そして憎らしかった。
このような尻軽が、自分が幼い頃から憧れ、ずっとずっと愛してきた男の寵愛を受けているという事に。
ライルの切ないまでの激情は、そのはけ口を求めて目の前の男を攻め立てる。

耳を塞ぎたくなるほどの侮蔑の言葉をライルから多数浴びせられ、カァラの目が氷のように冷たくなった。
しばらくカァラはライルの言葉を受けていたが、ふっと口元を歪めると、いきなり笑い出した。
驚いたのはライルの方だった。
まさか罵りを受けている相手が、さも可笑しそうに笑うとは思わなかったからだ。
「なっ、何が可笑しいんだ!!」
生真面目で通っているライルにとって、この展開はあまり気分のいいものではない。
「あ、はは…は…、だって馬鹿みてぇじゃん」
カァラは笑いながら、嘲るようにふふん、と鼻を鳴らした。
「この俺様が、そんな言葉に傷つくと思ってるのがさ」

その尊大な言葉に、ライルの憎悪が増した。

(殺してやる…)
突如として湧き上がる思いもかけない殺意。
今、この細い首を力任せに絞めれば、この汚い男娼から愛する男を守れるかもしれない…。アベルを取り戻すには、これしかないのかも…。
ライルがそう思った時だった。
「俺が憎いだろ」
今にでも首を絞められそうだというのに、意に反して冷静に切り返されて、ライルははっと我に返った。
「殺したければ、やってみろよ。それであんたの大事な人が本当に戻るんならね」
その言葉に嘲笑の含みは一切なかった。不気味なほどに淡々と呟くカァラの表情からは、何も読み取れない。

そうだ。
この男を激情のままに亡き者にしたからといって、あのアベルが事実自分の元に戻るだろうか…?
どう見ても、今のアベルはこの男に夢中だ。こいつに目が眩んでるとしか思えない。
その恋敵を嫉妬に駆られて手にかける愚行を、あのアベルがどう思うか……?

ライルは浅ましい感情のままに行動しようとした自分を恥じた。
というよりも、誇り高くあれ、清廉潔白であれと、幼い頃から徹底的に躾けられてきた良家の子息としてのプライドが頭をもたげた。
対する相手がまだ自分を馬鹿にするか、感情に駆られているような態度だったら、多分、ライルも勢いで殺していただろう。
だが、こちらの事を見抜いているのだろうか、カァラは突然態度を変えて、冷然と彼に対峙したのだ。
その悠然とした風情に、彼の豪胆さが垣間見えたかのようで、ライルは瞬時に冷静に戻ったのである。
(まさか…こんな…男娼風情に)
無機質のような灰色の目に圧倒されて、ライルは罵倒の言葉を飲み込んだ。
襟首を掴む手が震える。
(こんな、こんな…)
自分がこんなに取り乱すなんて…。
この胸に広がる敗北感は一体何なのだ…。
情けなくて、悔しくて。
惨めで…!

「お、お前なんかにっ」
もうライルには限界だった。
「お前に何がわかる!!」
堰を切ったように己の思いを憎い相手にぶちまける。
「ぼ、僕はずっと…ずっと彼を見てきたんだ…!」
きつく瞑る目から涙が溢れ、絶望的な声が溢れた。
「…子供の頃からずっとだ。
お前にとって愛なんてお遊びのうちなんだろう。
あの人はお前にとってただのその場限りの愛人なんだろう?
けど。
ああ、だけど!
僕にとってあの人は…」
最後の声は、まるですがるようにカァラの耳に響いた。
「そうだよ、報われないのに、十数年も…、ずっとずっと彼を、彼だけを愛している…。
愛しているんだ…!どうしようもないほど、ずっと……!!」


カァラの胸の奥から、狂おしいほどの羨望が沸き起こった。

どれだけライルに罵られようが、今まで絶え間ない敵意を恋敵達から浴びていたカァラにとっては、大した事ではない。罵倒され、蔑まれても、罪悪感に苛まれる事もなかった。
どんな事を言われても、冷静に聞き流せるくらいの胆だって持っている。
自分があの悪名高い犯罪者の血を受け継いでいるために、己が悪であり続けなければ、この世に生き延びる事ができなかったという事実があった。
だからこそ、自分の中に羨望や罪悪感というものを持つ事。それはカァラにとって己の弱さを引き出す忌むべきものだ。

弱さ。

それはすなわち己を滅ぼす元凶といってもいい。
カァラはずっと、子供の頃から強くなければならなかった。
凶悪犯の子である事実が、カァラに人としての感情を、倫理を、どんどん追いやった。そして環境が、生きる為には何でもするし、もちろん悪にでもなれという事を、これでもかと叩き込んだ。
だからこのように荒んでいる自分には、今まで培った己を崩す恐れのある感情なんて、もうすでに無くなっていると思っていた。
だからどんなに罵られようが、貶められようが、カァラはまったく傷つかなかった。


だが、おかしいのだ。

この、湧き上がる切ないまでの羨望。これって一体、何なんだ?

…暁の手に…アムイに触れられてから…カァラの心は、思いもしない感覚が顔を出すようになった。
それは…。
それは絶対、自分で感じてはいけない…、感覚。

「笑うなら、笑え。だけど、僕にはアベルしかいない。
何でお前はあの人を選んだ…。その場の気まぐれで、何であの人なんだ…」
呻くように吐露するライルの心情に、カァラはらしくもなく胸をえぐられた。が、これは己の錯覚だと、カァラの心はまだ抵抗する。
そんなカァラの様子には全く目もくれず、ライルは首を振りながらも思いの丈をぶつける。
「僕のアベルを返せ…、返してくれ。
お前には掃いて捨てるだけの崇拝者達がいるじゃないか。
アベルは…僕のアベルはお前のような軽薄な男とは全く違うんだ。
女のように着飾って、媚売って。…簡単に身体を売って。
お前のように、ただ快楽を求め、ちやほやされて面白おかしく生きているだけの奴になんか、アベルの傍に似合うわけがない。
簡単に相手を替えてしまえる、お前のような男に渡すわけにはいかないんだ!!」
握り締めた拳に力が込められる。思い乱れてライルは喘ぐように叫んだ。
「お前は必ず僕のアベルを傷つける!
一度も本気で人を愛した事などないお前に、僕やアベルの気持ちなど、わかる筈もないからだ。
アベルはずっと深くて激しい…でも苦しい恋をしてきたんだ。
…僕はそれを近くで見てきた。彼の愛情の深さ、情熱や苦しみも…ずっと僕の方がわかっている。
あれほど深く情愛に溢れ、一途である男の、傷つけられた時の深い悲しみさえ、お前には理解できないだろう。
人の愛を軽んじているお前は、確実に僕のアベルを不幸にする!」
今まで平然としていたカァラの顔色が変わった。
ライルの言葉は、カァラの中で沸き起こった羨望という感情を、憤りという形にに変貌させていく。
ずっと、ずっと鼻持ちならないと思っていたこの男の、何度も何度も繰り返す“僕のアベル”という耳障りな言葉に、カァラは激しく反応した。
(何だよ、こいつ…!さっきから僕のアベル、僕のアベルって…我が物顔で)
今まで、感じた事もなかったこの感情…。
この込み上げてくる相手に対する嫌悪こそ…、もう、完全に認めるしかない…。
カァラの、ライルへの憤りが、今まで避けてきた己の感情と向き合わざるを得ないという、不本意な状況に追い込んでいく。


「あんたこそ、俺の何がわかるっていうんだ…」
まるで唸るように、食い縛ったカァラの歯の奥から、別人のような声が洩れた。

《やめろ!》
カァラは心の底で己自身に怒鳴った。

「…ただの甘ったれたお坊ちゃんのくせに」

耳に届く自分の声は、まるで知らない人間のもののように聞こえた。
《いけない、やめろ!やめるんだ。
これ以上、口を開くな!!》
己の中のいつのも自分が、必死に阻止しようと怒鳴っている。
だが。だがそれに反して自分の口は勝手に動く。

「幸せな家庭に生まれ、恵まれた生活を送って…何事にもお綺麗でご立派にお育ちになって。
さぞかしお気楽極楽でお過ごしなさっているんでしょう、お坊ちゃま。
だからそんな甘っちょろい事を、平然と人に説教できるんですね。
…何が愛だ。何が恋だ。笑わせるな!!」
最後に激しく言い放つと、カァラはもの凄い力で掴んでいたライルの手を振り解いた。
思わぬ反撃に、ライルは驚きも隠せずその場に固まった。
カァラの顔はいつもの済ましたものでなく、完全に感情が剥き出している。
「お前こそ俺の何がわかる?
ぬくぬくと恵まれた環境の中で、明日の自分の生死に何の恐怖も感じず、どん底を味わった事のない奴に、この俺を批判する資格があるのか!!それだけあんたは聖人君子のように非のない人間だというのか!!」

こんなの、自分じゃない。
こんな、こんな感情丸出しの…みっともない…。

吐き出す言葉とは裏腹に、冷静な自分が戸惑っているのがわかる。

だが、走り出してしまった感情の暴走は、もう自分にも、あまつさえ他人ですら止められそうにもない所まで来ている。

「ああ、そうだ。偉そうに愛を語るお前こそわからないだろうよ!
温かな人の庇護を受けるのが当たり前に育った、恵まれている奴になんか!
父は極悪人、母は狂人だ!養い親だって名ばかりで俺を毎日弄んだ。
守ってくれる大人なんて、俺にはいやしなかった。皆が俺を物扱いした。
皆、俺を人間として扱った奴なんていやしねぇ!!
だから俺は一人で生きていくって決めたんだ」

《やめろ…。やめてくれ…!!》

カァラは暴走する自分に頼み込んだ。
これではまるで、自分が恵まれなかった恨み辛みを、他人に暴露しているみたいじゃないか。
…そう、あの、暁と。あいつと対峙して感じた…あの、惨めな小さい頃の自分の感情が、今。
ずっと、ずっと埋もれていた、自分でさえ知らなかった幼い頃の自分が、今、扉を開けて出てこようとしていた。

それは…己の弱さを、自分が忌み嫌っていた己の弱さを目の当たりにする瞬間でもあった。

「愛だって?そんなもので腹が膨れるのか!
恋?そんなもの、生きていくのには邪魔なだけじゃねぇか。
俺はな、今まで単にお気楽に生きて来たんじゃねぇ!!
毎日が必死だった!
生きるか死ぬか、毎日が戦いだったんだよ!!」

カァラの言葉に、ライルの血の気がみるみるうちに引いていった。
まさかの【姫胡蝶】に、己の身の上をぶつけられるとは思ってもみなかったという顔だ。
人を煙に撒いて、涼しい顔でその場を去っていくものだと思っていたライルは、異様に取り乱すカァラをただ唖然と見るしかなかった。

「あんたにわかるか?
ガキが、自分の力だけで生きていく為には、どんだけの事をしてきたか。
その日の食いもんを手にする為に、どんだけ手を汚さなくちゃならねぇか!!」
「お前…」
「そんな事に比べりゃ、人の愛人になって何が悪い?
そりゃただ身体を売るだけなら誰だってできるさ。
だが知らないだろう?
高位の相手の寵愛を一身に受けるには、並大抵の事じゃいかないんだよ。
それ相応の対価だって支払うんだ。
それが出来ない奴は、ただ単に相手に犯られて、飽きられたら捨てられるだけ。
しかも相手に恋なんてしたら、自分の身を滅ぼすだけだ。
俺がそんな事もわからない間抜けだと思っているのかよ。
ちやほやされて面白おかしく生きているだけだって?
あのなぁ、そういう奴もいるかもしれないけど、そんなの若いうちだけだ。
本物の高級娼婦だって、相手に釣り合うくらいの知識と教養、世渡りを身につけているもんだ。
この世の裏もよく知らない世間知らずのお坊ちゃんが、能天気にこの俺様に文句言うとはちゃんちゃら可笑しいぜ」
一気にまくし立てたカァラの息は上がり、目を野生の猫のようにぎらぎらとさせている。

「いくらあんたが俺を蔑もうが、非難しようが、現実ではあんたの大事なアベルは、この俺を選んだんだよ。
あの時、あいつだって形式だけの愛人契約でよかった筈なんだ。
だけどな」
意地悪い思いがカァラの歯止めを利かせなくし、自虐的な思いも込めて、思い切り相手を蔑むように笑ってみせた。
「組み伏せてきたのは、アベルの方だ。
アベルが激しく求めたのは、あんたなんかじゃない。この俺だ!」
「言うなっっ!!」
その言葉に我を忘れたライルが、カァラに掴みかかってきた。
大きく揺さぶられても、何故かカァラは抵抗する気になれなかった。
(殴るなら、殴ればいいさ)
もうやけくそだ。
今までこんな風に自分の感情を相手にぶつけた事なんてなかった。
いや、そうじゃない。
こんな感情があるなんて事を、自分は今まで封じて、なかった事にしていただけだ。

あの【暁の明星】…アムイとの邂逅が、己にもたらしたもの。
それは押し隠してきた小さな自分の解放だ。

苦しかった事。
辛かった事。
罪悪感も嫌悪感も。
惨めだった子供時代。
己に対する憐憫。
……誰も自分を本当に愛してくれやしない。その、絶望。

誰もが自分を心のない人形として扱った。
研究の為とか、もしくは情欲の対象としか触れてこなかった。
抱きしめられたって、いつも相手からは吐き気がするほどの欲望しか感じ取れない。
なのにその口から放たれる言葉はいつだって…。
好きだ?愛している?俺のモノになれ?

何それ……。
愛?愛って何だよ。

ただ、あんた達は俺の中に欲望を放ちたいだけなんだろう??
ただ俺の肉体に執着しているだけなんだろう?

それを愛というならば、俺はそれでもいいよ。

求められないよりは、求められた方がいい。
男である俺を欲しいというなら身体だけくれてやる。
女の中に精を放ち、望まない子供をつくるよりは。

……俺と同じ……不幸な子供を増やすよりは。


小さな自分の本音を、カァラはまるで人事のように感じていた。
それは、アムイに指摘されたとおり、全ての生への呪いだ。

もう、いい。
もう潔く認めるしかない。


カァラはライルの拳を受ける覚悟で目を閉じた。

自分は、嫉妬したんだ。
この男の、アベルへの一途な思いに。

自分にはない、いや、認めようとしなかった、純粋に相手を恋うる気持ち。
長く、ただ一人を深く想うその心に、激しい妬みと羨望を覚えた……そんな自分が許せなかった。
そんな自分が酷く惨めで、消してしまいたかった。
どんなに数多の男を傅かせたとしても、自分には手に入らない…その純粋な想いを。

それどころか、どこかで恐れている。
この封印していた気持ちを知ってしまったが最後、今までの自分が崩れてしまいそうだから。

だが、……もう、認めなくては…いけないのだろうか?
どんなに……自分が幼い頃から、不確かな愛、というものを切望し、本当は求めていたという事実を。

その己の弱さを認めたら、もう自分には邪眼の効力は無くなるかもしれない。
何故ならその力は多分、己の憎悪と悪意から生み出され、外敵から身を守るために発動したに違いない力だからだ。
……愛、というものを知らず、“信じない”“不要だ”、と決めた自分に与えられた、この世で生き抜くために必要な魔の力…。

カァラの頭にふっとアベルの姿が浮かんだ。

(それを失うという事は、俺はただの惨めで無力な人間に戻る、という事だ。
アベルだって、この俺の能力があるからこそ、俺に利用価値を見出しているというのに…。
きっと力のない俺の事など、簡単に切り捨てる筈だ。
そうなったら、…俺は?

俺はこの先、どうやって生きていったら、いい?)

カァラの心の葛藤を知らないライルは、激情のまま彼を殴ろうと拳を宙に掲げた。
相手が一切の力を抜いて、されるがままになっているなど、全く気がつかないままに。

ライルの手が振り下ろされた。
その風を頬に感じたカァラは、初めの衝撃を大人しく待つ。

が、その刹那。

「やめろ!ライル!!」
いきなり扉が乱暴に開く音がし、叫びながら走り寄ったかと思うと、二人の間に誰かが強引に割って入って来た。
その聞き慣れた声にはっとして、カァラは目をあけて喉を詰まらせる。
目の前には見慣れた広い背中があった。

(アベル…)
アベルが、二人の間を遮るように身を滑らし、殴りかかろうとするライルの腕を左手で遮りながら、右腕を使ってカァラの華奢な身体を己の背に収めようとしていた。
それは傍から見れば、どう見ても、身を挺してカァラを庇おうとする行動だった。

「おやめ下さい!!ライル様っ!!」
いつの間にかライルの背後にはレザー大尉がいて、興奮状態のライルを必死に止めようと羽交い絞めにしていた。
「アベル!」
ライルの叫びに、絶望の色が濃くなった。
「こいつは貴方を、ただの色欲の対象にしかしてない!
貴方の事など、露ほども愛してなんかいやしないっ!!
なのにどうして!
どうしてこの僕を止める?どうしてこいつを庇うんだ、アベル!!」
アベルに食って掛かろうとするライルを、レザーは必死で押さえ込んだ。
「どうか、どうか落ち着いて下さい、ラ、ライル様…」
「こんな奴と一緒にいて、貴方が幸せになるわけがない!
僕は、僕は…認めない。
絶対に認めるもんか!!」
レザーの制止の言葉すらも、興奮しているライルには届く筈もない。しかも、目の前で愛する男が恋敵を庇うような素振りをしているのだ。誰だって怒りで我を忘れていても仕方ないだろう。
自暴自棄にすらなっているライルは、言いたくもない事を、結局アベルにぶちまけた。
それが、アベルにどんな影響をもたらせるかも知らずに。

「その証拠に、こいつがこの僕に何をしたか教えてやるっ。
色目を使ったんだ、アベル。
貴方に囲われながら、この僕を簡単に誘惑しようとした。
自分から僕の胸にすがり付いて、一度寝てみないかと誘ってきたんだ!
甘えた声を出して。その汚らわしい手で僕に触れてきた」
ライルはただ、相手の男がどれだけ不実であるかを訴えたかった。
今入れ込んでいる相手の本性に気付き、どうにか目を覚まして欲しかった…。本当にただ、それだけの気持ちで、自分がどれだけ思慮に欠ける言葉を放っているのか、わかってなどいなかった。
「あのまま僕が正気に戻らなかったら、こいつは僕を床に押し倒して…」
アベルが目を険しく眇めたのに、レザー大尉は大きく息を呑んだ。
「ふん、何言ってんだ。押し倒す勢いはあんたの方だったろう?
夢中で俺の首にむしゃぶりついてきたくせに」
「ひ、【姫胡蝶】殿!!」
売り言葉に買い言葉、だ。
アベルの背後で応戦するカァラに、ぎょっとしたレザーが慌ててカァラの名を叫んだ。
「なっ、何だと!この淫売めが!」
「ライル様!!」
今度はライルの言葉を遮らざるを得なかったレザーだけが、目の前のアベルの危険な様相に気がついていた。
当の二人が互いの牽制で全く気が付いていない、今にでも爆発しそうなそのアベルの凍りつくような波動を、まざまざと感じ取っていたレザーは、もうこれ以上彼を刺激しては危険だと察知した。
「お願いです、ライル様も【姫胡蝶】殿も!もうこれ以上口を開けてくださるな!
ああどうか、冷静になってくだされ!このレザーに免じてどうか…」
レザーの尋常ではない必死な嘆願に、やっと我に戻った二人は、同時に出掛かった言葉を引っ込めた。

「……わかった…」
しばらくして、アベルの感情を抑えたような声が、重苦しく部屋に響いた。

レザーだけにはわかっていた。
彼が、どれほどの自制心を働かせ、今にでも爆発しそうな危険な波動を押さえ込んだのかを。

「お前達が争っている事は、よくわかった。
だが、いい加減に落ち着いてくれないか、二人とも」
底冷えするような冷たい声に、ピン、と張り詰めた空気がその場を包んだ。
「…ライル、君は俺の優秀な佐官であるという立場を、もはや忘れているのではないだろうな?
私事ではなく、君に頼みたい事がある。
俺に対する話は、機会があったら後でゆっくりと聞いてやる。……ただし、今は私情は抜きだ」
ライルはびくっとして、アベルの顔を見た。そして、自分が私情に走って、愚かな醜態を晒していた事に気が付いて、顔を赤らめた。

「じゃ、俺はもう行っていいだろ?」
気まずい沈黙の後、最初に言葉を発したのはカァラであった。
「いや、カァラ。お前にも用がある」
この場を離れようとするカァラの腕を掴むと、アベルは有無を言わせないほどの強い力で引き戻した。
「何の用だよ!痛っ、ちょっと離せよ、この馬鹿っ」
もうすでに言葉使いからして、あの優美な【姫胡蝶】らしくない。それだけ今のカァラには、己を華美に演出する力が残っていなかった。

とにかく、疲れた。頭がガンガンする。もう休みたい…。

そんな心情がモロに顔に出ていたのか。それにすぐさま気付いたアベルの眼差しが、一瞬、緩んだ。

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2012年2月11日 (土)

暁の明星 宵の流星 #167 その③

宿主の説明は、簡単に言うとこうだ。


若くして病死した第二王子というのが、実はミンガン王が外で生ませた子供であり、その王子を産んだのが、宿主の言う姪の母親であるというのだ。
その王子は病弱ながら王と共に国の行く末をを憂い、いつか国の為になると信じて、チガン村に軍事基地を内密に作らせていた。北の国一番の要塞にするつもりで。
だが、志半ばで彼は流行り病に倒れ、その数年後に亡くなり、その第二王子の未完の要塞は、王と関係者以外、誰にも知らされずに何年も放置されているという。

「なるほど。海側に要塞を作ろうとしたということは、その第二王子は海軍を強化するつもりだったのだな。
ということは、軍艦を保管できる場所も設備もあるということか」

とにかくそこは、ミンガン王と第二王子の関係者しか知らない事で、今は宿主の兄とその娘である第二王子の異父妹である姪が管理しているという、世間には知られていない秘密の場所でもあった。
宿主のかいつまんだ話によると(これは王家の内情を晒す事になるので、詳しくは語らなかったが)、ミンガン王の最初の后と第一王子の、第二王子への確執はかなり陰湿なものであって、それにいつも巻き込まれていたのが第三王子だったそうなのだ。
例の娘を取り合ったという話だが、実際は第二王子へのあてつけと、彼の異父妹の美貌に目が眩んだ第一王子の手から彼女を守る為、もうすでに容態の悪かった第二王子が第三王子に彼女を託し、このチガンの場所を教えたというのが真相だった。
元々、第三王子は、実の兄である第一王子よりも、異母兄である第二王子と仲が良かった。良かったというよりも、第三王子はこの優しい異母兄を敬愛していた。実の第一王子よりも、この第二王子の言う事が全てだったらしい。
だから、表面的には王の補佐として協力しあっている第一王子と第三王子の仲は、実の兄弟であるが、はっきり言っていいものではなかった。
まあ、そのような詳細は、他国の者に言うべきことではないので、宿主はほのめかしただけであったが、聡いアベル達には容易に理解できた。

さて、そういうわけで、本来なら他国の船などにその場を提供できないのであるが、これから始まる極寒の季節を里が乗り越えるには、どうしたって多額な収入が必要であった。
だから宿主は、この時期にかなりの金を落としてくれる団体を、いくら他国の者であれ、むざむざ逃したくなかったのだ。だから思い切った事を提案する事にした。
素性を隠し、この宿主個人の客人と偽ってくれれば、その要塞に停泊できるように手配する、と。

アベル達には願ったり叶ったりの提案だった。宿主の決断に感謝し、一つ返事で手配を頼む事にした。
そうすれば、表向きには帰国したと見せかける事ができ、他国や他の組織を欺く事だってできよう。そうなればセドの王子の件で動くのも有利になる。
アベルは洲知事長に相談しようという考えを変更し、独断であれ、ここに残る事を決意した。

「なぁ、レザー。この事をハウル(荒波州知事長)は容認してくれるだろうか」
宿主との話が終わって、部屋に向かおうとするアベルの声に、少々の懸念が混じっているのを、長く彼を個人的に見守ってきたレザーはすぐに気がついた。
「ハウル様…というよりも、先にライル様に納得していただくようですね…」
溜息混じりのその声に、アベルも力ない笑いを浮かべた。

........................................................................................................................................................................


ここで少々補足をしよう。

今の舞台である北の国の、モ・ラウ王家の内情である。

昔から北の国では、王には何人もの妻を娶るのが当たり前とされてきた。(後宮制度があった)
だが、いささか女が少ない今の世では、余程の権力と唸るほどの財産がない限り、そのような贅沢はどの国も自重されている。(だが、かえって一夫多妻を誇る君主は、己に力があるという事を世に誇示し、他国を牽制しているともいえよう)
もちろん、財政難に喘ぐ北の王家も例外ではなく、ミンガン王は后を一人持てばよい、という考えの持ち主だった。
ところが、長きに亘り栄華を誇り北を治めてきたモ・ラウ家は、今にでも血筋が絶えてしまいそうな、一族の危機に瀕していた。
百年前に起こった大飢饉のために、沢山の人が死に、また子を産む女が減り、しかも国を立て直す為に一気に国の財も底をついてしまった事から、北の国の受難が始まったとされる。
その為に、昔は数多の后を迎えていた王宮ではあったが、ほとんどが死に絶えてしまい、その上、何かの呪いか、とまで囁かれるほどに、王家には跡継ぎがなかなかできない、育たない、という状況にすら追い込まれた。
それだというのに、昔からプライドだけが高かったモ・ラウ王家は、他国の君主のように遊び女や、桜花楼などの高級でも娼婦のような女の血を入れるのに躊躇(ためら)うどころか、完全に拒否していた。
そこのところは、血筋を重んじる東のセドラン王家に影響されていると見る者もいたが、それは定かではない。
なので他と同じく、嫁いだ后の身分が一番尊んじられているのは、この王家でも同じだ。
ミンガン王の父である先代の王は、それでも血を絶やさぬ為にと何人もの后や妾を作ったのだが、結局、第一后と、自分が一番寵愛した妃の間に生まれた二人の王子だけしか恵まれなかった。
身分の高い家出身の母を持つミンガンが、王に即位するのは至極当たり前の事ではあったが、子に恵まれないという不幸も受け継いでしまったかのように、なかなか世継ぎに恵まれなかった。
しかも皮肉な事に、反対に妾腹の弟であるイアン公は多産系の妻のお陰か、すでに何人もの息子が生まれていた。
このままでは、弟であるイアン公の息子に王位を譲らなければならなくなる…。
焦った若きミンガン王は、先の后には内密に外で女を作った。この際、自分が惹かれる女であれば誰でも良かった。今思えば、それは若かりしの傲慢さにも似て、ミンガンは一目で虜になった農民の娘と関係を結んだ。
それが第二王子の母親であり、宿主の姪の母親である女だった。
彼女はミンガンとの間に王子を儲けた。だが、それを后が知ってしまった事から、后の実家や王宮内の中枢を巻き込んでの修羅場となってしまった。
その理由の一つに、身分の高い者を尊んじる王家であったが、跡継ぎ不足のこのご時世、王の血を引くならば、いくら平民の女が産んだ子でも初子であるに変わりないと、その子を嫡男にしようとした事だ。
怒ったのは、ミンガン王の先の后と、長年王家を支えてきた后の実家だ。
それが収まったのは、運良く、すぐに后にも王子を授かったからだった。
后はこの自分が産んだ王子を嫡男(第一王子)とするならば、先に生まれた愛人の子供を王宮に引き取っても良いと、渋々と承諾した。少しでも王家の血を絶やしてはならない、との周囲の声に説得され、折れた結果であったが。
そうやって内密に、先に生まれた王子の誕生月日を偽らせ、第二王子として迎えたのだ。
もちろん平民だった王子の母親は、王宮に入る事も許されず、しかも后の怒りの矛先を受け、彼女の身を案じたミンガン王は、涙を飲んで彼女と別れた。
その後、彼女は同郷の地主の息子と結婚し、そうして生まれたのが宿主の姪である。

様々な思惑の中、先の后が亡くなった事をきっかけとして、離れていた兄と妹を会わせてやりたい(この時、すでに第二王子は病気で床に伏せっていた)という、ミンガン王の慈悲が裏目となり、それがきっかけで異父妹の存在を第一王子に知られてしまった。あまつさえ彼女の美貌に目をつけた第一王子は、彼女を手篭めにしようと執拗に追い掛け回した。その異常なまでの執念に恐怖を感じた彼女は、精神的にかなり追い詰められてしまった。
それを知った病床に臥せっていた第二王子は、信頼できる第三王子に涙ながらに彼女の安全を懇願し、託したのだった。
異母兄の最初で最後の頼みを、ずっと彼を愛してきた第三王子が断れるわけがない。
第三王子は一念発起して、最愛の異母兄の為に、いつも恐れを感じていた実の兄に初めて立ち向かった。それが世間の目には、一人の女を争った、と映ったのだ。
結果、表では彼女は第三王子の愛人として身を隠す事になった。
ただ、その込み入った事情は、身内といえども、王と彼女の父親しか真実は知られていない。
それも全て、第二王子の異父妹を守る為に、第三王子が決めた事であった。

それは、アイリン姫の母親が後妻として王宮に入る直前の話である。
大陸でも数本の指にでも入るという美貌の持ち主だったアイリン姫の母親が、このような王家に嫁いで平穏であったわけがない。彼女に様々な波乱が待ち受けていた事は、誰にでも容易に想像がつくであろう。
その為、姫を産んだ数年後に心労で命を縮め、まだ20代の若さで早世してしまったのは、悲劇だったとしか言いようがない。

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ライル大佐がいるであろう部屋の前にたどり着いたアベルは、気を引き締めて息ひとつ吸うと、扉を開けようとノブに手をかけた。
が、予想に反して鍵が掛かっている。
「どういたしました?」
「いや、おかしいな…。まだライルはこの部屋に来ていないようだぞ」
「そんな…。あれから随分と時間が経っている筈ですよ?
では、ライル様は一体どこへ…」
レザーが呟くと同時に、アベルははっとした。
「…まさか、まだ…」
嫌な予感がアベルを襲った。
その表情に、レザーもはっとする。
アベルは慌てて振り返ると、向かい側の自分の部屋に急いで向かった。
「て、提督…」
慌てて追いかけたレザーが、アベルにそう声をかけた時だった。

アベルの部屋の扉の向こう側から、激しく言い争う怒鳴り声が廊下まで響き渡り、その殺伐とした様子に、アベルは息を呑んで立ち竦んだ。

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2012年2月 7日 (火)

暁の明星 宵の流星 #167 その②

どうしてこんなに、心がかき乱されるのだろう。
今までだって、散々、恋敵たちに罵倒され続けてきた。
いつだって笑って相手になんかしなかったのに。
……傷つく事だって…。

傷つく?

カァラは、はん、と心の中で嘲った。
この魔性といわれた自分に、そんな感情があるわけがない。
そんな感情…。

カァラは近くにあるライルの端正な顔をじっと見詰めた。
…自分とは違う、精悍な男の顔だ。
自分なんかよりも、ずっと男性的な姿。
アベルはこの男を抱いたのだろうか。女のように装った自分と同じように…。
ざわざわする感情を、カァラは押し込もうとした。
今まで噛み付いてくるのは大抵が女だったから、きっといつもと調子が違うだけ…。
そう思い直して、カァラはそのままライルから離れ、ツン、と顎を突き出して、扉の向こうへと行こうとした。
が、完全に頭に血が昇っているライルは、そんな事させるかという勢いで、カァラの肩を掴んで吐き捨てるように言い放つ。

「…お前、いい気になるなよ!」
ライルは尊大な顔でカァラを見下ろし、その言葉にカァラの目が怪しげに光った。
「そんな色気でアベルを虜にしていると思ったら、大間違いなんだからな!」
「へぇ、何だ、あんたアベルの男かよ」
わかり切った事を、カァラはわざと相手にぶつけた。
「そ、そうだ…」
ライルは一瞬口ごもったが、カァラの目を見てはっきりと言った。
「そうだ!僕は彼の伴侶になる男だ!お前ごときの下賤な妾男とは違う!!」
「ふぅん、じゃ、あんたとアベルを共有するってことかい」
そのカァラの言葉に、ライルはかぁっとなった。
「共有、だ?」ライルは怒鳴った。
「共有も何も、お前なんてそのうち用済みになるに決まっている。
愛人契約が切れたら、それこそお前などアベルには不要な人間だ。
お前だってそうなったら、また他の下衆な金持ちの所に尻尾振って行くんだろうし。
男を食いものにして生きているんだろう?
ならいいじゃないか、今すぐ契約を反故して、早く別の男に囲われればいい。
何も好き好んで海軍提督と火遊びしたって、思ったほど贅沢できないだろうよ」
「ふぅん、だから?」
相手の馬鹿にしたような目線に、ライルはむかっとした。
「だから!
言っておくが、アベルは元々お前のような女みたいな男は好みじゃないんだ。
特にその化粧。
アべルが一番嫌っているのを知らないのか?
まぁ、だからこそあの人が飽きるのも早いだろうから、別に僕は何とも思わないけどね」
カァラの片眉が上がった。
「そう」
「そうだとも。だからお前はあの人の一時の気の迷いに過ぎない。
だから早くあの人の目の前から…。
僕達の目の前から消えてくれ!!」

(ふーん…。つまり、男らしい自分の方がアベルの好みだと…言いたいわけか…)
険しいライルの目を見ながら、カァラの心にドロドロした感情が湧きあがってくるのを感じていた。
それは、目の前の相手に対する……。

何の返答もないカァラにしびれを切らしたのか、カァラの肩を掴むライルの手が怒りで震え始めた。
そのライルの激情をまざまざと感じ取ったカァラは、衝動的に彼のその手を握った。
「な!」
驚いて目を剥くライルにカァラは素早く反転し、わざと彼の胸元に飛び込んだ。
「な、なに…」
激しく動揺するライルに、カァラの嗜虐心が膨れ上がった。
傷つけたい、屈服させてやる…。
どうしてそんな激情に支配されてしまったのか…。当のカァラもよくわからない。
ただ、この目の前の男に一泡吹かせないと、この感情の矛先が収まりそうにもなかった。

カァラは淫靡な声色で、ライルの耳元に囁いた。
「あんたさぁ、どっち?」
「は?」
「だから、どっちなんだよ。男役?女役?」
カァラの言わんとすることに、ライルの顔が真っ赤になった。
「そ、それは…」
「……俺にはわかるよ、あんただってアベルに抱かれたんだろ?」
「それが一体、なんだっていう…」
するり、と、カァラの細い指がライルの胸元に触れ、卑猥な曲線を描きながら彼の腰に伸びた。
その艶かしい動きに、ライルは息を詰めた。
「女役で男に抱かれていようが、あんたは立派な男だ」
カァラの扇情的な吐息が、誘うようにライルの耳元に吹き込まれる。
ライルの全身が燃えるように熱くなり、たとえようもない快感に支配され始めた。
(く…こ、これは…)
頭ががぼうっとして、身動きが取れない。
「いくら女役でも、男は男。ちゃんとついているんでしょ?
男は皆、俺の事を抱きたくなるんだよ。
特にあんたのようなどちらでも大丈夫な男なら、俺の事、拒めない筈だよ?
そしたら2度と、男に抱かれたいなんて思わなくなるだろうねぇ。
ねぇ、一度試してみない?……俺と…」
カァラは囁くと、するりとライルの下肢に手を這わせた。
「や、やめ…ろ…」

これが、悪名高い【姫胡蝶】の魔性の色か…。
ライルは懸命に流されそうになる自分と戦っていた。
だが予想以上に、この男の肌と手の動きが激しい快感の渦を呼び起こした。
(…ああ…だめだ、持って行かれてしまう…)
お己の理性を引き止めようと、何度もライルは身をよじった。
だが、それも刺激となって、益々快感を増長させる事となリ、そのつどカァラの含み笑いが鼓膜を刺激した。
「やっぱり、男だねぇ…ほら、もうこんなに…」
(ああ、くそう…こ、この僕が…!堕ちてしまう…)

悔しい。
身体が思うようにならない。

こうもいとも簡単にこの男の毒牙にかかってしまうものなのか!
その飛ばされそうな最後の理性で、ライルはふと思った。
アベルも…。アベルもこうしてこの男に簡単に陥落したのだろうか………。
今の…自分のように…。

心に反して、もう身体の方が悲鳴を上げていた。
目の前の快楽に溺れそうだ…。
朦朧とする意識の中、ライルは無意識にカァラの身体に擦り寄り、彼の白い喉元に唇を落とした。
カァラの中で、意地悪い笑いが沸き起こった。

ホラね…。男なんて、みぃんな、おんなじ……

カァラは半ばやけくそな気分で、ライルの唇を首筋に受けた。


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「とにかく、これからの事を話し合わないと…」
アベルとレザー大尉は客人を庭先まで見送った後、そのままライルがいるであろう部屋に向かおうとして、再び宿に戻った。
「そうですな…。
とにかく船を預かってくれる所を探さないと、このままですと船だけを荒波に帰すようになってしまいますな」
「そうだな…」
アベルが玄関の扉を閉めて、大きな溜息をしたときだった。
「提督!」
奥の廊下の方から、先ほどまで共に客人を接待していたもう一人の部下が、慌ててアベル達に走り寄ってきた。
「どうした」
「はい、実は、この宿の主人に話しましたところ、停船できそうな港があるという情報を…」
「本当か?」
気がつくと、部下の肩越しに宿の主人の白い顔が覗いた。
アベルとレザーは、その部下についてきたであろう、この宿の主(あるじ)の顔を一斉に見る。
しかし、部下の返答は、少々困惑気味であった。
「ええ、そうなのですが……」


アベル達はずっと、大きな港町から数里離れた、こじんまりとした一つの宿を貸しきって滞在していた。
そこを拠点として色々と北の国を移動するに、都合が良かった位置にこの宿があったからだ。
宿をずっと貸している当の主(あるじ)の本音としては、いつもなら観光シーズンでないこの時期に、ずっと宿に滞在してくれている団体客を逃したくなかった、というものであった。が、そんなのはお互い様である。

秋の短い北の国は、すぐに厳しい冬が来てしまうため、この時期は客足も遠のくのが通常であった。
特に貧しさの厳しい北の人々には、この時期にどのような目的であれ(極端な話、それがやくざでも、だ)客人がいる事だけでもかなり潤いが違うのだ。

できれば帰って欲しくない…なるべく長く滞在して貰いたい…。
宿の者達の切羽詰った気持ちは、彼らとしてはかなり強引なツテを使う事となった。

この場ですぐさま、この宿の主人から詳細を聞いたアベルは、その港の事を聞いて驚いた。
「いや、これは本当に内密にしていただかないと…。その、王家に関わる事でして」
声を潜める宿主(やどぬし)に、アベルは苦笑しながら頷いた。
「もちろん、守秘義務は守る。
ま、自分達もあまりおおっぴらにしたくない、というのが本音だからね。
ひっそりと停船できるのなら、その方がいいんだ。…しかし、なぁ…」
アベルはふうっと溜息を漏らした。
「今空いていて、紹介してくれるという港が…あの、チガン、とはね…」
アベルも傍にいたレザー大尉も複雑そうな表情で宿主を見やった。
「おお、チガンをご存知でしたか!…それが…何か、不都合でも…?」
不安そうな宿主の声に、アベルはいやいやと手を目の前で振った。
「いや、実は前に入港した事があってね。…いや…、ちょっとした偵察だったんだが…。
その時、ちょっとそこに入港していた他国の船と、しかも無断でこちらがやって来たものだから、そこの港の責任者とも、気まずい思いをしてね」
入港していた船とは、西の国ルジャンの王子、リシュオンの中型船の事である。
西の国のリシュオン王子と、北の鎮守、北天星の昂極大法師(こうきょくだいほうし)との関わりを調べに行ったとき、かなり西の兵士ともめてしまったのだ。
その時は西の兵士が有能であったか、感心するほど何も出てこなかったのには驚きもしたが、それで西の船とは気まずくなっているのは事実だ。
肝心の噂の第四王子リシュオンには会えなかったのが残念ではあったが、再び自分達が入港してきたらどうなるのだろうか…。
しかも、そこはある御方の隠れ里であり、秘密の港であった。
アベル達は、カァラの邪眼から導き出された方角を進んでいただけであったが、西の船が隠れた港に入港していたとは思わなかったのである。もちろん、無断に入港したということで、自分達がそこの管理者の心象を悪くしてしまったのは言うまでもない。
「そうでしたか…。そのような事が。
……実は、私の姪が王族の愛人をしておりまして…」
困った顔をしたアベル達に、宿主は突然、言いにくそうにそう告白した。
「何しろ姪…兄の娘なのですが…、第一王子と第三王子が取り合いになったほどの器量良しでしてね…。
う、ゴホン、いや、そんな事はいいのですが、とにかくその姪を第三王子が匿う為にお作りになった秘密の里なのですよ。向こうも姪の存在が明らかになるのを恐れておりますので、咎められてしまったのは仕方がありません…。
ですが、ここは私が姪に直に談判いたしましょう。
本当はあの好色な…失礼しました…第一王子にさえ、姪がそこにいるというのがばれなければ良いので…。
ですから何とぞ内密にしていただき、私個人の大事な客人の船という事であれば…私の口利きでその港に停船できるかと思います」
「それはありがたい!しかし…」
アベルの憂いた顔をちらりと見ると、レザーが言った。
「西の船はまだ停泊しておるのでしょう?そうであれば、いささか困った事にはならないでしょうかね。
我が船は西の船と接触しており、向こうが気がつけば、何かとトラブルとなってしまう恐れもあるのでは…」
「ですからそこは、 入港するときに素性をお隠しいただきたいのです」
「隠す?」
アベルとレザーは顔を見合わせた。
「はい。そうしていただければ、こちらでもう一つの入港場所にご案内致しますので」
「もう一つの入港場所?他に波止場があるというのか?」
「はあ…」
宿主は、もうこうなったら仕方がない、という風情で天を仰ぐと、一際声を落としてこう言った。
「身内の内情を、他国の方に話すのは…いささか忍びないのですけれど」
宿主はこう前置きしてから、説明を始めた。

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