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2012年3月23日 (金)

暁の明星 宵の流星 #171


ライルは【姫胡蝶】を刃物に例えていたが、以前のアベルだって相当なものだった。
もちろん、身内にはとことん情が厚くて頼りにはなる。が、その実、誰にも心から気を許していないのでは?と思うような節があった。始終緊張感の中にわざと自分の身を置いて、心からリラックスして笑う事など忘れてしまっているのではないかと心配するくらいに。
幼い頃のアベルを知っているからこそ、レザーはここ十年のアベルの様子を懸念していたのだ。

それだけアベルの様相が、昔とはかなり違って見えていたのである。
軍で久々に再会したアベルは、確かに様々な武勇伝に伴う激務によって、全体的に厳しくて冷酷な印象が拭えなかった。
少年の頃の、屈託のない、明るい少年時代しか知らなかったレザーは、軽いショックを受けたのものだ。
元々、律儀で誠実なお人柄の方であった。
奔放な親を持つ故の、自己抑制が人並み以上に働いていたのだろう。本人はいたって計算されたような言動を好む傾向があったが、冷淡と言えるようなものではなかった。
その反面、ある意味、人に対して愛情深い割りに不器用なところがあり、滅多に人に入れ込む事がないからこそ、これだと思う人間にはとことん一途であった。
意外と融通の利かない無骨な性格が、彼を益々ストイックな青年にしたのだとも思う。
それを楽しんでいた時も、少なからず少年時代にはあったように見えたのだが、大人になった彼は、完全に自分を抑制する事に固執すらしているように見えた。
それも人らしい感情の全てすらを禁じているような…。

アベルとハウル二人の間に何かあったということは、薄々は感じていたけれど、それをおくびに出さずに見守ってきた。ライルについても同様だ。
今回こうしてアベルの補佐として任務につき、この悪名高い男【姫胡蝶】との関係だって、直接本人に向かって何かを言う事はしなかった。
だが、ずっと傍で見てきたレザーは、当事者よりもよく見えていたのは事実だ。
例えば、アベルが【姫胡蝶】と出会ってからの、今までの変化。
刺々しい茨のような壁が、彼の前ではいつの間にかほとんど消え去っている事に、レザーは気がついていた。
二人が親密になればなるほど、アベルに笑顔が増えていった。
本人はあまり気がついていないようだが、昔馴染みであるレザーにはその変化が手に取るようにわかった。
時折、耳にする事が多くなった、アベルの笑い声。
まるで心の底から無防備に笑い、合間に聞こえてくる楽しそうな声が、レザーを事の他驚かせた。
それが一回や二回ではない。そして気がつくと、必ずやその笑い声の傍にはあの【姫胡蝶】がいるのだ。
もちろん、人の心を意図も簡単に操れるであろう美貌の愛人ならば、このようにして主人を楽しませる術を心得ているのは当たり前であろうと思っていたレザーであったが、二人がプライベートで過ごす姿を見れば、本当に純粋に二人でいるのを楽しんでいるように映った。
まるで、そこだけが違う時間が流れているかのような二人。
本人達はそれに気がついているのであろうか?それだけ親密で自然な感じなのだ。
緊迫した公務の中、たまに訪れる穏やかな時間は、レザーや配下の兵達にとって一時の清涼剤でもある。
だが、こうした隙間の時間でさえも、いつものアベルならば緊張した時間の下に、休む、などという事すらも忘れているのが常であった。
それが【姫胡蝶】の愛人となった頃から、アベルは進んで彼のために時間を取るようになった。
傍から見ても、あの冷徹な男が、愛人に夢中になっているのがわかるくらいに、任務に支障がない限り彼を傍から離さなかった。
だからこそ、スキャンダルな噂に拍車をかけた結果となったのだろうが、レザーにはそれは普通に恋に落ちた者の振舞いのように感じていた。
それをことさら強く感じたのは、ある日偶然に見た、一時の休息の中での二人の様子からである。

その日はうららかな日が柔らかく、北の国の初冬には珍しいくらいの暖かい陽気であった。
偶然通りかかった宿の中庭で、二人は日差しを心地よく浴びて肩を寄せてベンチに座り、はるか彼方、うっすらと木々の合間から覗く水平線に面差しを向けていた。
何かを互いに話すこともなく、ただ、本当にぼんやりと座っているだけに見えたのだが、時折アベルの楽しげな笑い声で、二人が和やかに会話して過ごしている事に気がつく。
というよりも、アベル自身がゆったりとした面持ちで、完全に寛いでるようで、それが全体をこのような緩やかな空気にさせているようだ。
それに呼応するように、隣にはいつもとは違う魔性の男の表情(かお)があった。
いつもは仮面を被っているような、どこか不自然に映る美貌が、この時だけは表情豊かにくるくると変わっていた。
たまに交わす会話は、自然と口から出ているようであり、何の気負いもない、そこには他人が入り込めない、二人だけの世界が形成されていた。時には喧嘩らしく言い争っている場面もあるが、それすらもただじゃれ合っているしか見えない。
普通に見れば、それは他愛のない、どこにでもある恋人同士の風景である。
だが、それがアベル提督となれば別だ。
レザーはともすれば少年の頃以来に見たことのなかった彼の完全に寛いだ様子を、そこで発見したのに驚いたのである。

あの方が…このように無防備な様相で、他人と過ごしているとは…。

この時、レザーは言い知れぬ感動を覚えたものだ。
  
(お互いに、まだお気づきではないかもしれないが…。
アベル様を変えられる事ができるのは、【姫胡蝶】殿なのかもしれないな…。
いや、本来のあの方を引き出してくれるのは…)

そう感じるからこそ、ライルの言動が痛々しくてかなわない。
(私は…。できればアベル様もライル様も…幸せになっていただきたいが…)

無意識のうちに溜息が出ていたのであろう、突然、アベルに肩を叩かれた。
「色々と迷惑をかけてすまなかったな、レザー。もう戻って休もう」
「あ、はい。ぼんやりしていて申し訳ありませんでした」
「いや…、謝るのはこっちの方で…。その、あなたには恥ずかしい所を見られてしまったし…」
言いにくそうに顔を赤らめ、普段とはらしからぬ有様で口ごもるアベルに、レザーは安心させるように微笑んだ。
「私はこのくらいの事、気にはしておりませんよ」
普段とかわらないレザーに、アベルはホッとした顔をした。その表情を見て、レザーは眩しそうに目を細めた。彼が自分の前ではこのような顔をしたのは、果たして、幾年ぶりであろうか。

それぞれの部屋に帰る途中、しばらく無言で廊下を肩を並べて歩いていた二人であったっが、突然、アベルが前を向いたまま口を開いた。
「ありがとう」
レザーは軽く驚いて、思わず隣の背の高い男を振り仰いだ。
「一体、何のことですかな?」
アベルは気恥ずかしそうに俯くと、ポツリと言った。
「いや、貴方が二人の会話を止めなかったら、俺は何をしでかすかわからなかった」
「アベル様…」
それは先程、ライルとカァラが言い争っていた時の事を指していた。
「あなただけは気がついていたんだろう?俺が爆発寸前だったって事を」
「……ええ。そうですね」
レザーはあっさりと認めた。他の二人は自分らの事だけで気が付いていなかったようだが、真正面から見ていたレザーには、アベルの感情の波が手に取るように理解できていた。
「止めてくれてよかった。…そうでなかったら、俺は…」
アベルはそう言いかけると、一瞬押し黙り、しばらくしてから吐き出すように言った。
「ライルを危うく殺してしまう所だった」
「ア、アベル様!」
ぎょっとしてレザーはアベルの顔を見た。まさかここまではっきりと本音を吐露するとは思っても見なかったからだ。
アベルは自嘲気味に唇を歪めて、軽くレザーのほうを見下ろした。
「俺は何という酷(むご)い男だろうか。
あの時、俺の怒りの矛先は確かに二人にあったけれども、その二人が何をしていたか何て事は、聞きたくなかった。…聞いて…我を忘れそうだった。その瞬間、両方とも憎んだよ。
二人の間に、どのようないきさつがあったかはよくわからない。
だけど、その事実だけが、俺を愚かにさせた。
あの胡蝶の白い肌に、俺以外の男が触れたなどと。
それが自分を慕ってくれているライルであれ、他の誰だろうが、俺は…」
アベルは苦しそうに顔をしかめた。
「俺は…一瞬でもあのライルに殺意を抱いてしまった…」
「ああ…!」
レザーの声にアベルは緊張の面持ちを緩めると、ふうっと大きな溜息を零した。
「一瞬でも、だよ。それがどんなに自分を愕然とさせたかわかるか?レザー。
後の半分の激しい怒りは自分自身にだ。
醜い嫉妬に駆られ、自分を慕ってくれている青年に殺意を抱くなんて…。
…このようにして俺を愚かな男にさせる…。
笑ってくれよ。
この時になって、完全に気がつくなんて。
俺は確かに、胡蝶にいかれてしまっているんだよ、我を忘れるくらいに」
自責の念で一杯一杯という風情のアベルに、年季を思わせるレザーの優しい手が彼の肩を叩いた。
「いやはや。
鬼神、軍神と言われるほどの御方に、このような思いをさせるとは、さすが悪名高き天下の【姫胡蝶】殿ですなぁ。
…貴方からこのような人間臭い感情を引き出すとは、恐れ入りましたよ、このレザー」
思っても見なかった返答に、アベルが目を白黒させていると、レザーはハハハッと軽く笑った。
「半分冗談ですけどね、でももう半分は、本当にそう思っているのですよ」
様子を窺うように、レザーの顔をじっと見ていたアベルだったが、つい自分もつられて笑ってしまった。でもそれはレザーとは違って、かなり情けない笑いであったが。
「本当に笑われるとはね」
明るいレザーの態度は、アベルの気持ちをかなり軽くしてくれた。今更ながらに、彼が今ここにいてくれる事を、心底天に感謝した。
それと共に、カァラにはこういう大人が近くにいたのだろうか?などという、先程懸念していた思いに、また囚われてしまう。
それだけ今のアベルの心の中はカァラで一杯だった。
だが、彼の悪名高いほどの魔性の魅力に、単に虜にされてしまっただけかもしれないという思いも、完全に拭い切れはしなかった。いい年齢(とし)して、若くて綺麗な恋人に入れ込んでいるだけの、ただの色ボケた親父かもしれないとまで、己を卑下してしまう自分に呆れる。
レザーに気を許していたアベルは、思わずその事をポロッと口に出してしまった。
それを聞いたレザーは驚きながら、愉快そうに笑った。
「アベル様がいい年齢(とし)の親父なら、この私はどうなんですか?
これでもまだまだ、老いぼれてはいないと思っているのですがねぇ」
と、面白がるような口調から、一変して真面目な表情でこう続けた。
「まぁ普通に世間では、天下の海軍提督が、悪い男娼の色香に惑わされて、我を失っているように見えてるでしょう。
何しろ、沈着冷静、自己抑制の賜物、ある意味堅物。
まぁ、浮いた話はあるにしろ、相手に夢中になった姿すら見せた事がない…というのが普段の貴方ですからな。
そのように隙のない御方の、その余裕のない顔が見れただけでも、私は得した気分になります」
「言ってくれるなぁ、レザーは」
アベルは苦笑しながら頭をかいた。
でも事実、【姫胡蝶】との関係を罵倒されても仕方ないと思っていたアベルは、少々拍子抜けした。
それよりも今の自分の状況を面白がっているような、そんな彼の懐の深さにただ敬服するばかりだ。
「……貴方様は良識のある大人の男なのですから、これからどうするかは、私が口を挟む筋合いはございませんでしょう。
ただ老婆心ながら、己の感情を素直に認め、本心に従う事も長い人生には必要ですよ。
そうやって心に沿って生きていく、というのも悪くないと思いますがね」

いつの間にやら二人は、レザーの部屋の前まで辿り着いていた。
カァラのいるアベル達の部屋へは、まだこの廊下の先、奥まった所にある。
扉の前でレザーは軽く敬礼すると、改まってこう言った。
「では、提督、明日は早めに準備をし、船の移動を遂行致します」
「うん、よろしく頼む。世話をかけるな」
「いいえ、それよりも、後はしっかりと【姫胡蝶】殿と話し合われて下さい。
……色々と、お有りようみたいですから……」
レザーの言葉に、アベルは目を見開いた。
「胡蝶がか?」
レザーも気がついているのか。
まぁ、最近ずっと荒れているから仕方のない事だが、彼にまでも心配されているのかと思うと、これは益々、カァラと話し合う方がいいように思えた。今までのように、腫れ物に触るような扱いだけでは、きっと駄目なんだろう。
その思いが顔に出ていたのか、レザーは扉の中に入る手前で、ふっと微笑むとこう言った。
「客観的に物事を捉えられる貴方の事だ。そうやって今のご自分を色々と分析されているんでしたら、私が心配するような事はありませんな。たとえ感情が先走っても、すぐに貴方はそうして最善を求めて一歩引き、己を客観に見る事ができる。
それは素晴らしい才能で、……きっと、貴方のそういうところが、今の【姫胡蝶】殿には必要だと思うのです」
「レザー…」
「では、お休みなさいませ、提督閣下」
アベルが何かを言う前に、穏やかな物腰で軽く会釈をすると、レザーはそのまま部屋に入って行った。
(客観的…か)
カァラを前にすると、今の自分には一番難しい事だと思うのに、レザーはどうしてあんな事を…。
心の中で呟いたアベルは、次の瞬間思わずクスリとした。
結局、こうしていつも自分の中で色々と思い巡らしている事を言っているのだとしたら、それは買いかぶり過ぎだ、とアベルは思った。


しんと静まった廊下をゆっくりと歩きながら、アベルは様々な事を思い巡らし、己の気持ちを整理する。
今日は色んな事がありすぎて、自分の感情が追いつかないほど翻弄されていたように思う。
船の事、セドの王子の事、これからの事。
ライルの事、カァラの事、そして…自分自身の事。

思い巡らすほど、はっきりしてくるのは、自分のカァラへの感情(きもち)だ。

愛と呼ぶにはまだ遠いかもしれぬ。でもこの激しい思いは確かに恋だ。
【姫胡蝶】の毒牙にかかって堕ちていった数多の男達同様、彼の色香や淫らな肉体にのめり込んで、自分を見失っているのかと思っていた。
だが、いつからか、それだけではないものを彼に感じていた。
その正体を、皮肉にもライルによってはっきりと知ってしまうとは。

溜息とともに自室に戻ったアベルは、胸を詰まらせて仕事場兼応接間である部屋を横切り、奥にある寝室へと向かう。
アベルは自分がどうしたいのか、自問自答した末に出した答えを胸に、その奥まった寝室の扉を開けた。

これからどうなろうとも、ましてや皆の気持ちがどうであろうが、自分に正直に行動しようと固く決心して。

うっすらとほのかな灯りを頼りに、アベルは自分達の寝台に向かいながら息を潜めた。
天蓋つきの豪奢で広い寝台の上、ふかふかとした褥の端っこで、背中を向け、赤ん坊のように丸まって寝入る彼の姿が目に入る。
薄い毛布を肩まで引き上げ、柔らかな長い髪は、自分を守るかのように毛布と共に身体に纏わり付いていた。
まるで己を外敵から護るような風情であるのに、それでも自分ひとり分の空間を褥に空けてくれていた事に、アベルは胸が締め付けられた。

アベルはそっと唇を噛むと、ゆっくりと彼のいる寝台にあがった。


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