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2012年4月

2012年4月29日 (日)

暁の明星 宵の流星 #174

おびただしいほどの意識の中に、アムイは放り出されていた。

それはあまりにも膨大に目まぐるしく展開していくので、これが自分のものか他人のものなのかを把握できずに彼は困惑していた。

これは、多分、この大地に生まれ生きてきた人間の多大な記憶の坩堝(るつぼ)。
それがもの凄い速さでアムイを通り抜け、消えていく。

中には自分自身のものと思われる記憶もあった。

生きてきたと思われる記憶の一部が鮮明に現れる時に、アムイの心をかき乱し、魂が激しく反応するものがある。
そして、アムイは腑に落ち、納得するのだ。

ああ、これは、自分が昔、この地で生きてきた証だ……、と。
ただ、それでも中には他の人間の意識と混ざり合ってるような曖昧な記憶もあり、自分で判断できないものだってある。


今も真っ暗な闇の中で、閃光が表れては消え、アムイの頭の中を遠慮なく浸食していく。
所々にその瞬く光には、“人”の生き様が詰まっている。その光に取り込まれるたびに、様々な意識がアムイを襲った。

それは。
誰のものなのか。知らないようで知っているようで。
……はたまた自分の意識か、記憶か。
それは自分で知る限りに素早い展開で、アムイを翻弄していくのだ。

“アムイ=メイ”、という人間の意識はずっと軸にあって、それが闇のをどこかに吸い寄せられるがごとくにあちらこちら猛スピードで飛んでいき、その都度、閃光にぶち当たれば、“アムイではない意識”が怒涛のごとく押し寄せてくる。
その一方、それを抜けると不思議な事に、その中のどれかが自分の経験してきた人生であったかが、何となくわかる自分がいる。

その繰り返しが、ここ数日、アムイの身に起きていた。

今もまた、アムイはぐるぐると意識の海を旋回しながら、再び闇に吸い込まれ、赤い閃光に引きずり込まれた。

《いつまで!》
その赤い光に詰まっていた意識は怒り狂っていた。
《こうして奴隷として足枷をつけていなくてはならぬのか。男の慰み者として生きなければならないのか!》
それは戦利品として勝戦国に連れてこられた、負戦国の女の怒りだった。
他の女達はすでに自分を失くし諦めきっている。負けた国の人間は、勝った国の人間のものであるというのが、慣わしだからだ。
女は怒っている。そして泣いている。その記憶が、アムイの気持ちを揺さぶった。

息つく暇もなく、次の閃光に“アムイの意識”は飛ばされる。

ある時は、美しい着物で着飾られた、高位の者を相手とする娼婦の意識とぶつかった。
完全に娼婦との意識が自分と同調していた為、すぐにそれは自分の過去世のひとつだと悟る。それもまだ最近の。
娼婦には愛しい人がいた。
だが、その相手は何と聖職者で、“彼女”は生涯、彼と添い遂げる事も触れ合う事も許されない、虚しくも悲しみの人生を送った。この時彼女は叶わぬ恋の悲哀を学んだ。

またそうかと思うと、反対に自分が聖職者として高潔に生きていた意識とぶつかった。
“彼女”は捨て子で、幼い頃から神と共に生きる事を余儀なくされた。
育ててくれた尼僧達(聖職者でもこのように称する事もある)に、恋など汚らわしい、人を堕落させる罪深き事と教え込まれ育った“彼女”は潔癖に成長した。
だが、一度だけ、神を裏切ろうとまで思い込んだ出会いがあった。
戦いで傷ついたある国の戦士を介抱した事がきっかけで、その戦士と恋に落ちた。
だが、“彼女”は聖職者であって神の妻だった。戦士は幾度となく求婚してくれたが、罪を恐れる自分にはその垣根を越えるほどの情熱がなかった。“神”の教えにがんじがらめだった人生を、結局送った。


またある時は普通の農夫の妻だった人生もあった。
その時の“彼女”は沢山の子供に恵まれて、大層幸せだった。
かと思うと、流行り病で幼い時に死んだ女の子の意識にもぶつかった。ずっと“彼女”は褥の上で親を恋しがっていた。


アムイが思うに、前にカァラが言っていたように女の意識が確かに多い。
それに注意深く見れば、何となくどんどん時代を逆行していくような感じがする。
見えている情景も、服装も、どんどん古い形になっていくからだ。

もちろん、女の意識だけではない、男の意識にもぶつかる時がある。
ただ、女であるよりも少ないだけで、それはかなりインパクトを持ってアムイを襲った。


《お願いだ!村の人間だけは助けてくれ!!》
“彼”は拘束され、自分達を襲った海賊の前にひれ伏していた。
この辺りを、貪欲獰猛に襲って奪いつくしてきた大海賊が、自分が治める村を襲撃したようだ。
《私の命…首をやるから、どうか、どうか皆を助けてくれ》
“彼”は懇願し、そして自分の力のなさを呪った。だから、最後の願いだったのだ。
海賊の頭はにやりと笑って見下ろしていた。
小さいが、村は平和で豊かだった。若くして長となり、最近結婚したばかりだった。
彼女を、そして優しい村人の命をを何とか護りたい、救いたい。ならば、この自分の命など…。
“彼”はそう決意して、自らの命を差し出し首をはねられた。
だが、魂となった“彼”は見てしまったのだ。結局彼らは“彼”の最後の願いを踏みにじった。
村は全滅させられた。
その時の、村人の恐怖を、無念を、怒りを、悲しみを、魂であった“彼”は見てしまったのだ。
怒涛の後悔。
もっと、自分にできる事はなかったのだろうか。早々に命を投げ出さず、負けるを承知で、もっと抵抗していた方がよかったのではないか?ただ、その時の情勢としては、結局戦ったとしても犠牲を余儀なくされただろうが…。
自分だけ、先に、死して楽になって…。
その思いばかりが“彼”を苦しめる。
そして自分の思いをいとも簡単に踏みにじった海賊たちに、怒り以上に憐憫な思いが湧き起こる。もっと、人間として慈悲を持って欲しかった…。
その無念が、アムイの気持ちとシンクロする。
平和を愛し、平和を護りたかった。だが、それができなかった。
自分の力不足に、自分の不甲斐なさに、“彼”……いや、アムイは泣いた。
次に生まれてくるときは、正面から戦える人間に、悪に強い自分として生まれたい…!
次こそは力のある屈強な男として…!

こういう“願い”を抱えていた事に、自分は何故、忘れていたのだろう…。

だが勿論、いい人間だったばかりではない。
賊に身を貶め、沢山の人を脅かした事もあったし、大義名分を掲げて、謀反を起こした臣下だった時もある。
時には高慢な豪族の娘として生まれ、わがまま振る舞いに人生を送った事もあった。

交互に現れ、消えていく。
その様々な事象に、アムイはこの世の無常を感じていた。

気が付くと、今度はいつの間にか、うんと古い時代に自分はいるようだった。
あまり鮮明ではない、意識、記憶。
それはあまりにも朧げ過ぎて、自分の過去世なのかそれとも別の人間の記憶であるのか、判別できない。
ただ、そのもどかしさの中で、艶やかな輝石だけが印象にある。それがきらきらと目の前で揺れている。
あれは、そう、どこかで見た事が、ある。
それは何とも豪奢な耳飾りで、長めの鎖の先には、掌に収まるくらいの金のメダルのような物が付いている。その黄金に輝くその中央には、飾り物として埋め込まれた輝石。あれは…。
《私はこの国を》
誰…?他の誰か、それとも自分か…?それすらも鮮明でないほどの、本当に古い、古い記憶…。
《私の時代で、きっと、まとめ上げてみせる》
《意のままに》
《いいか?それで》
《意のままに。我が君》
目の前に揺れる輝石を白い可憐な指が弄ぶ。
凛、としたその声が、これからの決意を物語る。
《我がする事、これが未来の雛形となる。だからこそ、必ずや成功させなくてはならぬ。
死して全てを忘れても、この経験は魂に刻まれ、それが次の宝となる。
それは未来に投資する事。我は今生にこの目標を掲げるぞ!》
《……私は、ただ、ついて行くことのみです、我が君。思いのままにいたしませ。
何故なら貴女は…》
どちらが自分の意識だかもわからないくらいに混沌とした記憶。
ただ、揺れる耳飾りを弄んでいた、白くて細い、華奢な指だけが印象に残る。
ああ…この指は…。
そう、だ。それにあの輝石には見覚えがある。……あれは女神の…。
すると突然、華奢な指から骨太な男の指がその耳飾りをやさしく取り上げた。そして男らしい手つきで耳飾りを相手の耳につける。
ゆらゆらと揺れる輝石。
《耳飾りがよくお似合いだ、我が君。
そうです、これを代々伝えませんか……?次を継ぐ者に…》

「アムイ!!」
はっと目を開けると、そこには沈痛な顔をしたキイが自分を覗き込んでいた。
じっとりと寝汗をかいていた所を見ると、また、例の夢の狭間に落ちていたようだ。
「おい、大丈夫か?かなりうなされていたぞ」
心配そうなキイの声に、アムイは苦笑いしながら上半身を褥から起こした。 
「すまん。心配かけて」
「また例の?…まだ見続けているのか」
キイは無意識のうちに、汗で湿っているアムイの前髪を自分の手で払いのけた。
「はは。やっと不眠症が治ったかと思ったのにな」
自嘲するアムイを安心させるかのように、キイは無理矢理笑顔を繕った。
「…いや、それよりも現れる意識というのは、その、断片的なのか?」
キイの質問に、アムイはこっくりと頷いた。


地獄からの帰還から、しばらくしてアムイに異変が起こり始めた。
いや、もうすでにその予兆はあったのだ。
一度、死の国を見た人間は、通常の者よりも、向こう側の世界に通じてしまう能力に目覚めてしまう者が多いと聞く。実際、アムイもそのようであった。そのひとつが最近眠ると襲われる、多勢の意識の発露だった。
昂老人(こうろうじん)に言わせると、それは魂の蓋が開いた状態ではないか、という。
それが眠リに就いて潜在意識が他の次元と繋がると、否応なしに本人から溢れ出てしまっている状態らしいのだ。
全ての意識は深いところでは繋がっている、と昂老人は説明した。そのあらゆる混沌とした記憶の坩堝(るつぼ)である、繋がりの深海のような流れに放り込まれてしまえば、魂の蓋の開いた状態では多大な記憶に襲われても仕方がないと渋い顔をした。
つまりここ最近のアムイは、巨大な意識のプールに眠るたびに繋がってしまい、投げ出されている状態であるらしいというのだ。そのような無防備な状態で、大丈夫なのかというキイの不安に、昂老人はこう答えた。
現在、悪しきものを遮断するために、世の境目で霊体となったサクヤが奮闘しているというアムイの話から、《悪霊のような負の意識がアムイを脅かす可能性は少ないであろうから、その点については心配ないだろう》という見解を下した。
そうではあっても結局、アムイの内側では押さえ切れないものがある。それは自分の過去生の記憶。自分が培ってきた《業》というものである。
それが獄界に中途半端な霊体という形で触れてしまった為に、それがきっかけとなり、本来安全装置とも言える、多大な過去世の記憶なるものを封じている魂の機能が決壊したと考えられる。
はっきりと言ってしまえば、今生が初めての転生と言っていいキイには到底計り知れない。今、キイの理解の範疇を超える状態に、アムイは陥っているわけなのだ。

それをを知ったキイは、深い溜息を漏らした。
次々と現れ、徐々に明白となるアムイの姿。
どれだけの生を、彼はこの地で受けてきたのか…。
それを今生目の当たりにし、キイは天の計画に畏怖を感じざるを得なかった。
だが、当のアムイはただ苦笑するだけで、魂の片割れであるキイには詳しい事を語らない。というよりも、キイにすらどう説明したらいいのか、アムイにだってわからないのだ。
数多の感情の追体験に、実の所、アムイはかなり“気”を消耗している様子であった。
これも何かアムイにとっては必要な事なのだろう、過去世を出し切ればいつかは治まる筈だ、という昂老人の言葉にも、キイは憂いを払拭できない。
でもそれが“魂のアク出し”なのではないか、と言われてしまえば、キイとしては、いつものごとく黙って見守るしか手はないのだ。


そしてもうひとつ、微かな変化がアムイに起こっている事を、周囲の人間も薄々と気がついていた。
感情の涙の解放と共に、涙によって彼の目が清められたのか、彼の瞳に映るものの中には、別の次元のものを捕らえているのでは?と思われる節がよくあった。

「やめてよ、アムイ。また変な所を見てる」
ぷぅっと頬を膨らませて、イェンランが朝食の時、耐え切れなくてそう言った。
「え?ああ、そうだったか?すまない、気をつけるよ」
「本当に、やめてよね。私、そういう類は苦手なのよ」
自分を抱き締めながらイェンランはぶるっと身震いした。
「お化け、とか、実は苦手?イェン」
からかうようなリシュオンの言葉に、うっすらと頬を染め、イェンランはまた頬を膨らませた。
実際、たまにアムイは、皆が見ても何もないと思うような所を、じっと見詰めていたりする事が多かった。

「まるで猫みたい」
できればそういう現実離れした事象と関わりたくないイェンランは、そんなアムイに気持ち穏やかではいられない。
「ほら、よく猫って変な所をじっと見ている事が多いじゃない?
子供の頃、兄さんが猫飼っていたからわかるのよ。
気が付くと何もない空間とか、景色とか、一点とか見ててさ。兄さんに聞いたら猫はそういうの敏感だから、我々の見えないものが見えるんだろうよ、って…。それって、この世のものじゃないって事でしょ?
……なんか、アムイを見ているとその言葉を思い出すのよ…。ああ、やだ」
シータもキイも、それはまだ生還して間もないその名残だから、と言ってイェンランを宥めたが、アムイ本人はあまり治まっているとは思えない感じだ。
ただ、自分の瞳に何が映っているのかだけは、アムイは決して口にはしなかった。
それだけがイェンランの救いであったが、裏を返せばかえって不気味に感じる事でもある。

だが最近アムイはキイに一度だけ、己の瞳に映っているものの存在を、ポツリと言葉にした。
それは…。

茶色の巻き毛がちらちらと踊る。
振り向く緑色の瞳は何かを言いたげに哀しく揺れる…。
それは恐ろしいというよりも、まるで妖精のように儚げで可憐で…。

「アムイ?俺の肩越しに誰かいるのか」
堪りかねたキイが、思い切って問いかけたある日の事だ。
アムイはこの時だけ、つい、素直にその存在の事を口にした。
「いる。彼女が」
「彼女?」
「…最近…よく、俺の前に姿を見せる…」
「何?お前の女?」
いつもの調子で軽口を叩いたキイに、アムイは真面目な顔で静かに首を振った。
それからしばらく言葉にしようかと躊躇した後で、アムイはキイにだけ打ち明けた。
「ユナのロータスだ。…間違いない…」
「ユナ族の?ロータスって、その…お前が殺したと思われている…?何でまた」
驚きの眼でアムイを見たキイは、そのまま押し黙って何かを考え込んでいたが、再びアムイに問いかけた。
「……ということは彼女の霊が、お前の傍にいるって事か?
なあ、その理由を尋ねてみたか?」
「いいや」
「どうして」
「……彼女は何か言いたいようなのだけど…。
ただ姿を見せるだけで…俺にはわからないんだ、まだ」
キイはふぅっと溜息を付いた。
「じゃ、まだ通じていないって事か…。
彼女は何かお前に伝えたい事があるんだろうよ。……殺されたと聞いたが、きっとその事じゃないのか?
ということは、彼女の魂はまだこの世をさすらっているわけだ」
「俺もそう思う」
アムイはそう呟くと、再びキイの背後に目を走らせた。
「ま、いっか!
お前の話だと生前はかなりの美人だったって言うし。
そういう若い女の霊なら、俺様はいつでも大歓迎さ」
わざと冗談めかしてキイは笑うと、ちょっと困ったように頭をぼりぼりと掻いた。
「あ!ああ…。ごめん、キイ。
なるべく皆を怖がらせないように気をつけていたんだが、やはり駄目だな」
アムイも困ったように笑みを浮かべて首の後ろを揉んだ。
「なぁ、アムイ、……多分、お前も気が付いていると思うけど。
彼女はお前に助けを求めているんじゃないのか?それとも真犯人の事を告げようとしているのかも。
お前が向こうの世界と通じやすくなった事もあって、彼女がお前の傍に来たんだろう。
…いや、本当はずっと前から傍にいて、彼女の存在が見えるようになったのか」
キイは心配そうにアムイを見た。
「……彼女の様子は…確かに俺に何かを訴えている。
もう少し、彼女と交信できれば、その理由がわかるんだが…」
焦れたようなアムイの言葉に、キイは慈愛を込めて彼の肩をぽんぽんと叩くと、本来生真面目で誠実な相方をねぎらうようにこう言った。
「あまり思い悩まない方がいいぞ、アムイ。
そのうち時期がくればおのずと明白になるんじゃないか?
そんな事よりも、今までみたいに周りに迷惑かけるからと、己自身で全てを背負い込むな。
……そのための仲間が…特にこの俺がいるだろう?」
キイはするりとアムイの横に並ぶと、片腕をアムイの肩に回し、ぐいっと抱き寄せた。
「なあ、アムイ」
キイの呼びかけに、アムイは彼の端正な横顔に視線を走らせた。
アムイの視線を感じながら、キイは静かにこう言った。

「詳しく教えてくれないか?…大体のいきさつは聞いたが…。
ユナ族と…その、ロータスとお前の間に何があったのかを……」

....................................................................................................................................................................

緊迫した空気が流れていた。
それを破ったのは悲痛なまでのセツカの激昂だった。

「レツ!!お前どこへ行く!」
滅多に聞いた事のないセツカの怒声に、傍にいたガラムは縮み上がった。
長(おさ)である父親直属の側近であると共に、ジース(次期長候補者・じきおさこうほ)教育係官でもあるセツカは、幼い頃から色々と厳しく教育・指導された事はあっても、この様にして感情のままに怒鳴り散らした所を見た事がなかった。厳しいけれども、普段は温厚で礼儀正しく、人当たりのよいセツカしか知らないガラムは、驚きで身動きできないほどだった。
「暁の所だとしたら、私はお前を阻止しなければならん」
確固たるセツカの叫びに、二人に背を向け扉から外へと出て行こうとするレツは、一瞬、歩みを止めた。
「何故、そのようにしてあのよそ者を庇う?セツカ」
彼の低い声は、完全に抑揚がなく、それがかえって不気味さを増長させていた。
「長(おさ)の命令ゆえか。
では何故、長は我々に関わったよそ者であるあの男の、命を護るような命(めい)を下したのだ。
……ユナが仕える神王の血筋でもない、我らに何も恩恵を与えたわけでもない。
ただ、単にあの男が神王の王子の守護者であるらしい、というのが理由なら、俺は納得できん」
その言葉に、思わずセツカはぐっと言葉に詰まった。
「守秘義務か。
お前は一体、何を知っている?」
レツは顔だけをセツカに向けてこうも言った。
「いや、どこまでわかっている?」
「レツ…?」
自嘲気味にそう吐き捨てたレツに、ガラムは困惑して眉を顰めた。
不思議な事に、セツカは押し黙ったまま目を逸らしている。
そんなセツカを一瞥すると、レツは再び顔を正面に向け、扉を開けた。
「レツ!!」
セツカはもの凄い勢いでレツに駆け寄るなり、自分よりも大柄で頑丈な彼の肩を掴んだ。
「お前は俺に武器を向けさせたいのか!」
悲鳴のようなセツカの叫びに、レツがふっと口の端で笑ったような気がした。
「レツ…」
ガラムはただ呆然と、二人の成り行きを見ているだけだった。
(何故?それはこっちが聞きたいよ、レツ。
どうしちゃったんだよ…。いつもは冷静で、客観的で公平な人間なのに…どうして…)
事実、己の感情を自制する事には長け、第一級の戦士らしく誇り高く正義感に溢れ、言葉は少なくてもその懐の大きさから、民の信頼と憧れを一身に受けていたような男だった。ガラムは幼い頃からレツに憧れ、いつかは彼と並ぶほどの男になりたい、とも思っていたくらいだ。
なのに…。こんなにも頑なで冷たい、人の話も聞かないような、我を通すような男だったであろうか。
そう思った瞬間、脳裏に自分の姉、レツの妻であるロータスの面影が浮かび、ガラムの胸を切ないほどまでに掻き毟った。
(…レツが…レツがおかしくなったのは、やはり姉さんが殺されてから…?
ううん、そうじゃない…、あれは暁が…。姉さんがよそ者のあいつを救ってからだ。
では暁と何かあった?仇という次元以前に、暁はレツを…狂わしている…?)
ぞっとした戦慄と共に、ガラムはサクヤとの最後の会話を思い出していた。

《…なあ、ガラム。君が仇を追ってここまで来たのもわかる…。オレも同じ思いをしてきたから。
でも、ずっとあの人と一緒にいたオレには、あの人がそんな酷い事をしたなんて、どうしても信じられないんだ。
だから聞かせて欲しい、ガラム。
…この先どうするつもりかを。
…オレの件が片付いたら、やはりオレの兄貴を討つつもりなのかを》
《…レツの気持ちはわからないけど…。
俺は…やはりアムイに直接会おうと思う》
《…ガラム…》
《会って、その当時の事を確かめる。一体何があったのか。アムイの話を客観的に聞いて…そして、判断する》
《ガラム!》
《……ずっとアムイの事を考えると、頭に血が昇って仕方がなかったんだけど…。
感情としては割り切れないものがまだあるんだけど…。
…でも、サクヤが信じている人で、…サクヤの事を大事にしている人ならば、…もう少し言い分くらい、聞いてからでも遅くはないかな…なんて》

はっきりとは言わなかったけれど、あれは確かに互いの約束だった。

残念な事に、サクヤの『解決したら自分の方からガラムに会いに行く』という約束は叶わなかったけれど。
だからこそ、もうひとつの約束(と、ガラム自身信じている)を、暁を護って無念の死を遂げたサクヤのためにも守りたかった。

《……そうか…。さすが長候補。ジースの称号は確かだね》
サクヤの、からかうようなあの時の言葉が、今でもガラムの心に鮮明に甦り、いつも泣きそうになるのだ。
その思い出のためにも、ガラムは自分がレツを止めなければ、と決意した。

そう、俺は必ず次期長(じきおさ)になるって、サクヤの前できっぱりと言ったんだ。
サクヤだって、俺ならなれる、って言ってくれた。
……だから、だから…。

まだ少年のガラムの心に、将来は長として一族を背負う、という自覚が芽生えてきていた。
それまではただ単に、憧れだけで父親の跡目を継ぐという意識しかなかったような気がする。
母親違いの兄達への競争心もあったかもしれない。
だが、初めての他国への旅と出会いは、思った以上にガラムの心に影響を与え、将来についての意識を変えるきっかけとなっていた。

自分は将来、どのような長となるべきか。
ユナ、という閉鎖的な民をまとめ、全てを背負える人間になり得るのか。
そのためにはどうしたらいいか。
自分が頂点となるための視点と行動は、帝王学として身につけているとばかり思っていたのが、幻想に過ぎなかったと、この旅で身に染みてよくわかったのだった。
井の中の蛙、とよく言ったもので、狭いユナの地だけでは知り得ない事が、この外の世界には沢山あった。
自分で様々な経験を通して学んだ事。
それが全て己の血肉となり得ると言う事を、ガラムは学んだ気がするのだ。

だからこそ、次期長(じきおさ)候補ジースとして、自分はレツの暴走を止めなければならない。
このままでは長(おさ)の命に逆らった謀反人としてレツは裁きを受ける事になる。
それだけは亡くなった姉のためにも、ガラムはさせたくなかった。
その切ないまでの思いを、ガラムはレツにぶつけた。
「レツ!俺はジースとして長の命令を破らせるわけにはいかない!
どうしても聞かないとするならば、それは謀反として俺はお前を…」
「斬る、とでも?この俺を?」
小馬鹿にしたような笑みが口元に浮かび、それがガラムの神経を逆撫でした。
「俺ができないとでも!!俺がお前を斬れないとでも!!」
かっとして自分の剣を抜いたガラムに、セツカはぎょっとした。
かえってそれが、あれだけ血が昇っていたセツカを冷静に引き戻した。
「ジース!お待ち下さい!」
いくら次期長候補であるとて、戦力ではまだまだ一族の英雄の足元にも及ばない。
そんな事はセツカだけなく、本人だってよくわかっている事ではないか。しかもまかりなりにも彼は義理の兄。
セツカはガラムを制しようとして、レツの傍を離れた。
それを見計らったかのように、レツは脱兎のごとく外に飛び出した。

「レツ!!」

取り残されたガラムとセツカは、慌ててレツの後を追った。

外は静かな闇が広がっている。
それでも夜目の利くユナの二人は、すぐにレツの姿を見つけ、その一族の特徴である俊足で一気に追いついた。

「レツ!!どうしてもというなら、力ずくでも阻止してやる!!」
そう叫ぶと、ガラムは軽々と跳躍し、近場の木の枝に飛び乗ると、そのまま剣を振りかざしレツめがけて身を投じた。
「ジースガラム!」
共に追いかけていたセツカは焦って止めようと走り込む。
当のレツは無表情のまま、上空から襲ってくるガラムを見上げていた。


ガキーン!! 


闇夜に金属の交わる、鈍い音が響き渡った。


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2012年4月25日 (水)

遅れております

こちらに覗きにきていただいて、本当にありがとうございます。

更新がまたかなり遅れていますこと、真に申し訳ありません。

私事に振り回され、その中で現在、ラストまでの詳細、構成の練り直しを行なっております。

もうしばらく…。

今週中には次のお話をアップできると思います


ここにきて、またペースが落ちています
あともう少し、なんだけどな…。


すみませんっ!もうしばらくお待ちくださいませ…。


Itigo
いちごが…実をつけた♥

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2012年4月15日 (日)

告知・期間限定の話 その2(ありがとうございました)

私事に追われて、更新が遅れております…。


ありがとうございました。

期間限定での公開、昨日で終了しました。

一応、個人的な楽しみで、期間限定での(FC2で)公開でしたが
171(多少、確認の為に自分で再生したのもありますが)も再生していただきました。

あとはひっそりと(笑)自分の懐で楽しもうと思います。
(本当は他にもう一曲あるのですが、それはこの物語が終わってから作ろうかなと…)

覗いてくださった方々、お付き合い頂きまして本当にありがとうございました。

で、こちらからはいつもの呟き。
(興味ない方はスルーしてくださいねー)

満開の桜の花の、見事な散りっぷりで
この自作小説の場面を思い出してしまい、ああ、ひとつの作品で、こんなに長く続けている、と感無量になりました。

……いえ…。本当は早く終わらせたいのが山々なのですが…。

集中して作品に向かえる時間が本当に欲しいと、切に思う日々が来るとは思いませんでした。
(あー、環境も欲しい…)

単に思いつきで(でも切羽詰って←このまま何もしないのかという)勢いで書き始めたこの作品。
今になって、もっとこうしたら、とか、行き当たりばったりでなくてちゃんと考えてから…などと、今更ながら欲が出てきたというか。いえ、これはこれで、自分にとっては必要なやり方だと、後悔はしていないのですが。

それほど、いつも自分の頭で育成していた他の物語よりも、一番大事な作品になっていました。

でも。
ほんっとうに初期の頃はこんなに長くなるとは思ってもみなくて。
もっと簡単に、単純に考えていて。
話だってもっとシンプルで、ぐだぐだとなってません(と思う)でした。自分の中で。

で、結局どうしてこんなになったのかという事に気がついたのは、『初めて書いた小説』だったから、と。

自分の悪い癖で。
実験的作品、と自分で思った時点で。
今まで自分が持っているすべてのものを取り込みたくなったというのが。
……結局、作品として見せる、ということよりも、これしたい、あれしたい、という自分の満足の方に偏ったからだと思うのです…。

で、うまい具合にそれができる作品が、この『暁と宵』の設定でした。

この話を構築するにあたり、自分が今まで育成してきた物語たちの一部が反映されているだけでなく、主人公達の物語よりも、彼らにまつわる脇の人間模様を重点的に置いてしまったのも、この自分の《欲》のせいでした。

本来ならば。
きっと表題がそうであるように、主人公を中心にがっつりと描くものが基本だと。

多分、いつか改稿するであろう時は、この点も考え直さなくてはならないと思いますが、そのためには脇の(が中心となっている)エピは、かなりカットする覚悟で臨まなくてはならないでしょう。
詳細のエピは、スピンオフ、として自分の中で構築するつもりです。

……などと。
まだ最後(ラスト)までいっていないのに、こんなことをグダグダ考えている自分も困ったものです。


やっと、次回から話がアムイ達に戻ります

これからのエピはさくさくっと…。
できるかしら…。ちょっと不安ですけれど。

この章、『光輪発動』なのに、ちっとも発動までいってないというのが……。
寄り道してすみません。
とにかく、頑張りますので、欲をいえば最後までお付き合いくださると、本当に嬉しいです…。
(勿論、当たり前ですが強要ではありません…

Cherryblossom_beizjp_m08152jpg_bフリー画像からいただきました♥


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2012年4月 8日 (日)

告知・期間限定の話 その1(ちょっと緊急なのですが)

すみません

変なタイトルで、驚かれたかと思いますが…。


いえ、個人的なことなので、スルーしていただいても構わないのですが、ちょっくら別館の方へ飛んでいただきますと、理由がわかると思います…。

その別館での記事

すみません…。
本当に自分の趣味の話でごめんなさい。

別館のお知らせでも書いたように、実は、この小説のイメージスライドショウを作って遊んでおりまして…。

そのきっかけ、というのは、ただ単に自分がこのお話を書くにあたって、多分、お話を書く方ほとんどがそうだと思うのですが、書くときに流す音楽ってあると思うのです。
で、最初からこのブログに遊びに来ていただいている方ならおわかりだと思うのですが、この作品はある曲がメインにあって、それを元にイメージを膨らませ、今でも執筆の時には常に流している…という、完全に自己満足で勝手に自分の小説のメインテーマにしてしまっている曲があります。
もう、足かけ3年ほど、この曲ともう一曲あるのですが、もう何万回と聴いたことでしょうか…。

で…どうしてもですね…(これも完全な自分の満足のためですが…)こういう曲が、この物語にメインで流れてます~~ということを、知って欲しいなぁ、と、勝手なことを思っちゃった訳です…
自分の中で、こういうイメージで書いているんです…ということを、自作のイラストよりも、もしかしたらきっとダイレクトに伝わるのではないかなぁ…と……。
はい…それも勝手な思い込みかとも思いますです…。

ただ、昔から自分は活字世界よりも映像世界の方が好きだったもので、たまにこうして音と画像(腕があれば映像なら最高ですが)で世界を表現したくなってしまうのです…。
問題は、その才能がなかったことで、自分の趣味範囲で楽しんでいたわけですが…。

いつか、この曲聴いてもらいたいなぁと、でもそんな簡単にネット上に載せられない…、どうしたものか、と思って、ふと何かのきっかけで自分のパソコンにムービーメーカーが搭載されていたと知り!!(今更なのですがね…。ほとんどのパソコンには入っているというのを…後から知りました…お馬鹿)
で、使い方わからぬまま、ちょこちょこと作って遊んでおりました…。
で、ならば、スライドムービーにしてついでに曲もどういうのか知ってもらえるのでは??と、無謀な事を考えてしまいまして…。
しかも、せっかく作ったのだから、身内にだけでも見てもらいたい…という欲も出まして…。


ということで、今回、期間限定で公開に踏み切ったのですが!

現在、FC2ブログにあります別館にて、プレーヤーを設置しましたのですぐにご覧になれます…。

で、おこがましいと思ったのですが、このココログでも、別館へのリンクはこちらの方にプレーヤーを期日まで設置しようと思っています。(本日中にでも…)

もし、ご興味がありましたら、覗いてみてください

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2012年4月 7日 (土)

暁の明星 宵の流星 #173

今宵は風もない、本当に静かな夜だ。
シン、と静まり返った部屋に、今しがた部屋に入ってきた人物の、近づいてくる足音だがやけに耳に響く。
カァラは、その足音が自分の近くで止まり、次の瞬間、ぎしりと音を軋ませて、自分が寝ている寝台に上がってきた事に、思わず身構えた。

アベルが自分の寝ている場所に戻ってきたという、微かな喜びと共に、カァラは珍しく不安に陥っていた。
数多の男達の愛人として生計を立ててきたカァラである。
愛人達…ここでいう自分の主人達は、こぞってカァラを独占したがった。もちろん、初めは自分を支配しようと挑んできた輩もいた。だが、そんな彼らに従順な振りをしながらも、実際彼らを操るのはカァラだった。
愛人となったとしても、彼らはカァラが生きる為の手段であり、資金源でもあり、ある意味踏み台と言ってもよかった。
だからこそ簡単に支配されるなんて真っ平ごめんだった。
傍からは主人に尽くす愛人風情ではあったが、その実、主導権は全てカァラが握っていた。
もちろん、愛人家業の仕事の一つと割り切っている身体の関係でもそうだ。
彼らを喜ばす事にかけては、カァラとて徹底的に手を抜かずにサービスはする。が、他の愛人同様に、主人の寵愛欲しさに、求めに応じて身を開くような愚かな真似はしない主義だった。彼らがお預けをくらって、怒ったり他のところへ行ったりしようが、カァラには関係ない。結局はカァラを手放すことなどできず、自分の足元に跪く事を、カァラ自身知っているからである。
だから、今夜みたいに苛立つほどに気分の悪い時は、いくら相手が求めてきたって応じるつもりはないし、その気にだってなれないから、やんわりと拒否するのが常だ。

なのに…。

カァラはその、自分の今までの信条が、崩れてしまいそうな不安に陥っていたのである。
 
らしくもなく、カァラは後悔していた。
感情的になって、何であの時、ライルに挑発的な言葉を投げてしまったのだろう。
いつもの自分なら、相手の誹謗中傷には冷ややかに対応できた筈なのだ。
それなのに。

《ふん、何言ってんだ。押し倒す勢いはあんたの方だったろう?
夢中で俺の首にむしゃぶりついてきたくせに》

あれは完全に、売り言葉に買い言葉、だった。
だってあいつが…あの男がアベルにさも自分が被害者みたいに訴えるから…。
その時の、アベルの蒼白になった顔を思い出し、カァラは泣きたくなった。
感情に任せ、勢いで応戦してしまった言葉に、みるみる蒼ざめていくアベルの横顔に気づいて、自分も血の気が引く思いになった。
彼の、あんなに傷ついたような、怖い顔は初めてだった。
その反応に衝撃を受けた自分も初めてだった。それは彼にそういう顔をさせてしまったという激しい罪悪感。絶対に認めたくなかった良心の呵責(かしゃく)というもの。
こんな事態になって、カァラはやっと気が付いたのだ。今までどれだけ自分達が穏やかで、良好な関係を築いていたのかを。こんなにもアベルとの居心地のいい関係が崩れるのを無意識のうちに恐れていたのかと。

傍で息づくアベルを意識して、カァラは懸命に平静を保とうとした。
今、彼はどんな顔をしているんだろう。…絶対に、怒っているに違いない。
自分の愛人が、自分の情人(こいびと)を誘惑したのだ。まかり間違えば、淫らな状態を彼に見られていたかもしれないのだ。
今までのカァラなら、そんなことは大した事もない、鼻先で笑うような振る舞いだった。…いや、違う。アベル以外の男だからそんなマネをしても平気だったのだ。

だからこそ怖い。隣で沈黙している彼が怖い。彼が、今何を考えているのか、自分の事をどう思っているのかが怖かった。
他人(ひと)が自分の事をどう思うかなんて、今まで気にもしなかったのに…。
こんなに千々に気持ちが乱れているからこそ、彼と肌を合わせるのが辛い。できれば自分の存在を無視して欲しいとも自虐的に思った。だって、今の自分ならば、今までの自分らしくない振る舞いをしてしまいそうだったから。
あれほど睦言の最中に、“相手の男を殺す”とまで刹那的な独占欲を丸出しにしていたのだ。
もし、まだ自分に興味があるのなら、彼は完全に怒り心頭に決まっている。
怒りにまかせてアベルが自分を求めてきても、きっと拒めない。むしろ自分を欲してくれている事に喜びを感じてしまうかもしれない。自分らしくなく、初めて他人(ひと)に屈服してしまうかもしれない。

そう考えると、自分が壊れてしまいそうで、恐ろしかった。

だがその反面、もし、彼が自分に指一本でも触れなかったら…と思うと、気力を失くすくらいに落胆しそうだった。
もしかしたら自分にとっとと愛想を尽かして、今しがた任務のために飛び立った、あの一途で健気な情人(こいびと)に情を戻したかもしれない。彼が寝室(ここ)に戻るまでの間、よりを戻して別れを惜しみ、熱い抱擁をしてきたかもしれないのだ。『やはりお前が一番大事だった。お陰で目が覚めたよ』とか言って…。

カァラは嗚咽しそうになるのを、ぐっと堪えた。
相反する感情と戦って、翻弄されている自分を知られたくなくて、カァラは身じろぎもせず、じっと目を閉じていた。
隣に横たわっているであろう男の存在を、嫌というほど背中で意識しながら。

「カァラ?寝ているのか」
アベルが自分の顔を覗き込み、耳元で囁くようにして名前を口にした途端、心臓がぎゅうっと締め付けられ、胃がよじれるように痛んだ。
こうなったら捨て鉢の気持ちで、カァラは最悪な事態を想定して覚悟を決める。

そう、肝が座っていると、泣く子も黙るほどの悪党に賞賛された自分ではないか。アベルが何と言ってこようとも、または何をしてこようとも、受け止められるはずだ!と。

だが、不思議な事にそのまま沈黙が続いた。
息を潜め身動ぎもしないアベルの気配だけがやけに大きくなっていく。
何故、彼は何も言ってこないのだろう?文句の一つや二つ、あまつさえ戒めの為に、乱暴な振る舞いをされても仕方のない事を自分は彼にしてしまった筈だ。…なのに、どうして?
どうしてアベルは自分に何もしてこない?何故叩き起さない!

ぞわ…と、カァラの肌が焼け付くように粟立った。
……まさか…まさか本当にアベルは自分を見限った?…呆れるほど、いや、触れたくないほどに自分に愛想を尽かしたのでは…。
すぅっとカァラの肌から熱が引いていく。震えが足から上がってきそうなのを、なけなしのプライドで抑え込んだ。惨めな気持ちになりそうになるのを必死で堪え、カァラは心の中で悲鳴を上げていた。

ああ…お願いだ…!何とか言ってくれよ、アベル…。何でもいいから。

実はこの時、アベルはカァラに対し、どうしたらいいかと途方に暮れていた。
目の前に横たわる華奢な身体が儚げに見え、覗き込んだ白い顔は、頼りなげな子供にも見えた。
褥に横たわる彼に対し、欲望以外のこんな気持ちを持つのは、初めてかもしれない。
本当の事を言えば、彼を見ているだけで自分は欲情してしまう。だが今は、このような心許ない彼を目にして、どうして自分の欲望をぶつける気になれるだろうか。それよりも驚く事に、欲望の代わりに心の底から愛おしい気持ちが溢れてくる。
その事実に心を乱されながら、どこかで腑に落ちている自分がいた。
どうしてこんなに彼に惹かれたのか。
見た目や振る舞いは、断じて自分の好みとはかけ離れている。出会った時はそう思っていた。
だが、今ならわかる。
自分はカァラの意志の強い瞳の輝きに心を奪われたのだと。
あの時、カァラは自分の目を、まるで宝石のように欲しいとねだり、貢物はそれでいいと言って自分の懐に飛び込んできた。それと同様に、自分もまた彼の水鏡みたいな灰色の瞳に引き込まれ、気が付くと、彼の手に捕まっていた。
女のような甘い姿の裏に潜む、険しいほどの力強さ。それは数々の戦線や死線を乗り越えてきたアベルだからこそ、嗅ぎ分けられた同類の猛々しさ。自分が相手に求めるその理想的な雄々しさを、彼は砂糖をまぶした菓子のような様相でわざと押し隠していた。その相反するものを持つカァラに、アベルは強く惹かれたのだ。理屈ではなく本能で。

それがはっきりしたのは、カァラが珍しく自分をさらけ出した(と、アベルは思う)あの叫びだった。
くしくもアベルに向かって放たれた言葉ではなかったが、それを聞いた衝撃は、今でも尾を引いている。

だからずっとアベルの中で、この男の全てを知りたい、理解したい、という衝動に翻弄されていた。
できれば…、この自分に心を開いてくれたら…。
アベルはぐるぐるとその思いに突き当たり、心の中で情けなく笑った。自分がここまで彼にやられてしまっている事を、隠すのが馬鹿らしくなったほどに。
だから、つい、心で思ったことをそのまま口にしてしまったようだ。
静寂に包まれている部屋で、自分の切ない声だけが、やけに響く。

「……お前がどんな人生を歩んできたか…。俺には想像できない。
できないけど、理解したいと思っているんだ。…心の底から」

今更ながら、幼いカァラに惨い仕打ちをしてきたであろう大人たちの事を考えると、はらわたが煮えくり返るほどの憤りを感じる。
特にあのティアンめ。
カァラと出会う前から、あの男だけは胡散臭くて適わなかった。
生理的に受け付けない妖気を纏っていた男。噂に聞くと、奴の好みは幼くて綺麗な子供ばかりとか。
そのような不埒な男が、年端もいかないカァラに、どのような無体な事をしてきたかと考えただけでも殺意が湧いた。
(あの男だけは許してなるものか)
心の中で吐き捨てたアベルは、カァラの寝顔を覗き込むように確認すると、頬にかかっていた柔らかな髪を、優しく指ですくってそのまま撫で付けた。
その無防備な寝顔を改めて見ていると、再び抑え切れない愛しさが込み上げてくる。
衝動で、アベルはカァラに近づいた。


寝た振りをしていたカァラは、アベルの独り言のような囁きと、突如触れられたアベルの指先のせいで、狂ったように心臓が早まり、思わず目を開けそうになった事に慌てていた。
何とかそれを止(とど)めたカァラが硬直していると、突然、アベルが背中から自分をすくい上げながら、ふわりと覆うように抱き締めてきた。すっぽりと、カァラはアベルの長身に納まり、背中越しに彼の体温を直接肌で感じた途端、カァラは内心飛び上がらんばかりに驚き、次の瞬間、震えだしそうになるのを懸命に堪えた。
当のアベルは自分の考えに気を取られていたため、カァラが起きているとは気が付いていないようだ。
一方、突然のこの行動に、正直怒り狂っているのでは、という自分の思い込みで身構えていたカァラは、完全に混乱していた。
後ろから包み込むように優しく抱いてくるなんて、まったく思いもしなかった事だった。
アベルは切なげに溜息をひとつ付くと、まるで幼子を宥めるような仕草で、カァラの頭を大きな手で撫で始めた。
カァラは愕然とした。
こんな自分には欲望滾った扱いをされても当然だ、と想定していたのを、裏切るような優しい感触。
しかもその感じに覚えがあったからだ。

まるで純粋に慈しむように、アベルの手指はカァラの髪を緩やかに愛撫する。
時折、優しい口付けを頭部に落とされ、ゾクリ、とカァラの肌が粟立った。
(…どうして…)
カァラは心の中で呟いていた。アベルの純粋な思いが息苦しいほど背中から伝わってくる。
(お前も…何で…何でこんな風に俺に触れるんだ…)
じわり、と目の奥で熱いものが込み上げてくる。
この感触なら、カァラはすでに知っている。
それは【暁の明星】がカァラの人生で初めて教えてくれた……無欲で何の見返りも持たない手──。

「なぁ、カァラ」
アベルはカァラが耳を傍立てている事に気が付かないでとつとつと語りかけた。
まだ、面と向かって言うのは気恥ずかしかったアベルは、自分の思いの丈を、独り言のように口にするのが精一杯だったのだ。
「お前が俺に心を開いてくれたらと思うよ。
俺を信じて欲しいと思うよ。
……もし、今まで歩んできた人生が、どれだけ辛く、厳しいものだったとしても、俺はお前を受け入れたい」
彼の反応が怖くて、はっきりと本人を前にして言えないかもしれない、正直な気持ちだった。
「もちろん、嫌なことは言わなくてもいい。
ただ、俺はお前に知って欲しいだけなんだ。
俺は…」
アベルはカァラを撫でていた手をゆっくりとはずすと、彼の身体にその手を巻きつけ、ぎゅっと抱き締めた。
カァラは息苦しさに声が出そうになった。だが、今更気恥ずかしくて、自分が起きている事を言い出せるわけもない。
ぐっと堪えたカァラの耳朶に、アベルの優しくて甘い声が追い討ちをかけるように降ってきた。
「お前の身体だけではなくて、心も欲しいんだ、カァラ。
……俺の全てを、お前にやってもいいくらいに、俺もお前の全てが欲しい。
これからの人生を……俺と……」
狂おしいほどの感情が、カァラの全身を駆け巡った。
鼻の奥がツンと刺激され、気を抜くと涙が溢れてきてしまいそうだった。
「人は誰も、今までの軌跡を背負って生きている。それが時には過ちでも。そうやって誰もが自分の誇りや愚かさを抱えているんだ。
それが人を強くもするし、弱くもする。時には不安が自信を失わせる事もあるだろう。だけど人は希望を見出した時には強くなるんだよ。ならば、俺は強くなりたいと思う。
……俺は長い間、戦場に身を置いた生活をしていたから、特にそう思うんだ。多分、お前だってずっと戦ってきたんだろう?……あらゆる修羅場と」
とうとうカァラは思わず目を見開いてしまった。それでも背を向けているためにアベルはカァラの様子には気付かない。
アベルはそのまま言葉を続けた。
「そしてきっと俺は、同じように戦って生き抜いてきた人間が好きなんだ。
そういう人間と、共に未来を切り開いていきたいと思う男だ。
……だから……」
アベルの熱い唇が、カァラの白い首筋に押し付けられ、カァラの全身に震えが走った。
くぐもった声が、カァラの肌を焼き尽くす。
「期限付きの契約なんて、糞食らえ、だ!
そんなもの破棄してやる。
どうしても契約が必要なら、お前が嫌がっても無期限に更新し直してやるからな」
その物言いに、カァラは可笑しくなって笑い出しそうになった。
笑いを喉で押し込みながら、自分の胸に歓喜の渦が広がっていくのを感じていた。
瞳から、真珠のような粒がほろりと頬を伝って零れ落ちた。

羨望。
そう、暁と宵に感じていた、まさにその羨望を、カァラは再び思い起こしていた。
そして益々、二人の結びつきを、この目で見たいという欲求が出てきた。

ゆったりと身体を預け、カァラはアベルのぬくもりに陶酔していた。
願わくば。
まだ、このまま彼の温かさに包まれていたい。

快楽だけではない、この充足した心地よさを、カァラは振りほどく気にも、失う気にもなれなかった。

……朝になったら。

そう、朝になったらアベルに本心で向かい合おう。
そして、これからの事、宵と暁の二人に対する自分の真の見解を話そう。
本来の自分らしく。
彼の前では気負う事も、誤魔化す事も……、演技する必要もない。
素のままの自分で、アベルにぶつかろう。

彼は、それに値するだけの男なのだから……。


.............................................................................................................................

 
いつの間にか、あのまま寝入ってしまっていたらしい。
鳥のさえずりで目を覚ましたアベルは、隣にいるであろう人物を無意識のうちに捜していた。
(カァラ?)
はっとして起き上がると、隣で寝ていた筈の愛しい人間の姿がない。
まだ夜が明けて間もないと思われる微かな光が、かえってアベルを焦らせた。
(どこに行ってしまったんだ?あいつは…。
しかもまだ薄暗い時間なのに…)
と、勢いよく起き上がって着替えに手を通した途端、突如として悪い考えが浮かんだ。
「まさか、あいつ…」
俺に断りもなく出て行ったのでは?と、契約がある限り有り得ない考えに囚われて、アベルはちっと舌打ちした。
彼が傍にいない事実が、急に自分を不安に陥れた。
もしかしたら浴室や化粧室にいるかもしれないと、普段では到底しないほどの取り乱しようで、部屋の隅々までカァラを捜し回った。
だが、カァラの姿は寝室にも応接間にもどこにもなかった。
やはり自分達の部屋を出て行ったとしか考えられない。
では、一体どこへ?
もしかして本当に宿を出て行った?
まさか…今度は無断で宵の君や暁の所へ向かったのでは…。
嫌な予感を払拭するように、アベルは慌てて部屋の外に出て、宿の玄関の方へと走り出した。
宿には準服(正式な軍隊服ではなく、身元がわからないように行動する為に支給されている服)で警護に当たっている者達が下にいる筈だ。彼らに聞けば、あの目立つ【姫胡蝶】が宿から出たかどうかわかるだろう。そう踏んでアベルは階段を二段跳びで駆け下りて行った。

階段を下り切った所で、アベルは玄関に続くエントラスホールが騒がしい事に気が付いた。
何事かと思って慌てて近づいてみると、数名の兵士達がある場所を向いてざわついている。
アベルは手前にいる兵士達に近づいた。
「おい…うちの隊にあんなヤツ、いたか?」
「あ…ああ、しっかし随分と男前だなぁ…。あれほどの容姿なら記憶にない筈ないんだが…」
「まさか、新入り?」
兵士達の会話で胸騒ぎしたアベルは、驚く兵達にも厭わず、彼らを掻き分けて前方に出た。
数名の野次馬の先に、玄関近くに置いてある休憩用のソファがあり、その周りを、これまた数名の兵達が群がっていた。彼らは感嘆な面持ちで、ソファの傍らに立つ男に見入っている。
だがその人物よりも先に、アベルの目には、その隣でなにやら道具を片付けているレザー大尉の姿が入ってきた。「レ…」
アベルは思わずレザーが何をしているかを問いただそうとして、次の瞬間、言葉を引っ込めた。
レザーが片付けている手許から、見慣れた長い髪が目に入ったからだ。
絶句しながら、おそるおそるアベルは視線をレザーから、彼の隣に佇む男へと走らせた。
やけにほっそりとした体躯に、準服をきっちりと包み、すっとした佇まいは気品を感じさせる。
背は高くはないが、低くもない。一見するとまるで十代くらいの青年将校のようだ。
だがそれよりもアベルの目が吸い寄せられたのは、彼の白いうなじであった。
ばっさりと切った短めの柔らかな髪は、前髪だけ長く残し、後は潔く首筋を際立たせるほど短く刈り込まれていた。
その髪に自分は覚えがある。だって、その絹のように細い薄茶の髪を、自分は先程までこの指ですくっていたのだから。

「カ、カァラ…?」
アベルはからからに渇いた口の中で呟いた。
くぐもっているだろうその声に相手が気が付いて、こちらを振り向く。
水鏡のような灰色の目が、自分の青い瞳とぶつかった。
「おはよう、アベル」
吹っ切れたような晴れやかな笑顔で、彼──【姫胡蝶】は言った。
そう、今の姿は、全く【姫胡蝶】というには、全然別の違うものになってはいたが。
アベルはあんぐりと大きな口を開けて、数秒、彼の姿を凝視した。

信じられない…。

今立っている凛々しい青年将校が、あの【姫胡蝶】と呼ばれた妖艶な美姫だったというのか。
確かに全体的には男装した麗人のように見えなくもないが、化粧気のない白い顔に短い髪が、余計に素のままの彼の美しさを際立たせ、意思の強そうな口元が彼の男っぷりを上げているのは確かだ。
「お、お前…どうして…」
アベルがあたふたしながら、ようやく声を出したその直後に、一人の兵士がうっとりとした声を上げた。
「本当に、よく似合っておいでです!【姫胡蝶】様。よかったぁ、サイズもほとんど直す必要なかったですねっ」
それは隊の中でも最年少である、まだ二十歳(はたち)になったばかりの新米兵士だった。
「おい、この姿の時には【姫】はいらねぇよ。“胡蝶”でいい」
そうやって不敵に笑うカァラに、周りの兵達の賞賛の声が上がる。
「いやぁ、【胡蝶】殿と同じ寸法の兵が見つかってよかった」
レザーの安堵する言葉に、先程の青年兵もこくこくと頷いている。
「悪かったな。しばらくこの服、借りるぞ。すぐに代わりの物を頼むから」
「いいえっ!替えはまだありますので、お気遣いなくっ。ぼっ僕は貴方に喜んでいただけたらそれで…」
「はははっ。遠目の者は貴方が何者かわからないで目を白黒させておりますぞ。
ほら、我が提督も。まるで鳩が豆鉄砲を食らっているような顔で、貴方様を穴が開くほど見て…」
「レザー!」
アベルはこれ以上言わせまいと躍起になって、ずんずんとレザーに詰め寄った。
「一体、これはどうした事だ?説明しろ、レザー。
それから、カァ…胡蝶!」
アベルは咳払いするとカァラのほうに向き直った。
「……どうして…俺に何も言わずにそんな格好を…」
少々情けない声になってしまったアベルは、慌てて皆の手前、威厳を保とうと口を厳つく結んだ。
アベルの様子をじっと見ていたカァラは、小首をかしげて微笑むと、こう説明した。
「これからの事を考えて、この方がいいと思ったんだよ」
「これからの事?」
「そう。これから宵の君を追うに従って、俺自身が動くには長い髪は鬱陶しくて邪魔だし、ちゃらちゃらした女の格好だと目立つだろうし。で、明け方レザー大尉を叩き起こして、手伝ってもらったんだ」
そう言ってカァラは悪戯っぽい目線をレザーに送った。
「いやぁ、私も【胡蝶】殿には驚かされましたよ…」
頭を掻きながら、困ったように レザーは、アベルに照れた笑いを見せた。

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「頼む!俺を男にしてくれないか!」

夜も明けきらない暗闇の中、突如叩き起こされたレザーの耳に入ってきたのは、この第一声だった。
一瞬、何の冗談かと耳を疑ったレザーは、彼の真摯な表情に、出てこようとした笑いを引っ込めた。
「大尉は子供の面倒も見ていた、って聞いた。なら、髪を切るくらいお手の物だろう?それから、服!俺の持ち物には男物がないんだ。誰か俺と同じ寸法のヤツ、いないか?ぜひ動きやすい服が必要なんだが…」
「お、落ち着いて下さい、【姫胡蝶】殿!一体、どうなさったんです?そんないきなり…」
すると、カァラはじっとレザーの顔を見詰めると、こう宣言した。
「もう、俺は【姫】を捨てる!」
「はいっ?」
突然の事にレザーが目を泳がせていると、カァラは深々と彼に頭を下げた。
「今更異名の変更は許されない事だともわかっている。だけど。
これから俺がアベルと共に行動する為には、【姫】の部分を捨てなきゃいけないんだよ。
お願いだ。お願いします。
どうか、この俺に力を貸して下さい」


その潔い彼の態度に、レザーは小さな歓喜を覚えていた。
レザーには、それが彼の、アベルに対する気持ちの表れに映ったからだ。
彼の灰色の大きな瞳には、何の迷いも躊躇もない。力強い意思の光が輝いている。
レザーは快く、カァラの申し出を受けた。
そうして、レザーはカァラのために、彼と同じ体型の兵士を見つけ出し、玄関先の広間でカァラの断髪式を執り行った。
気が付くと、沢山の野次馬たちがいた。
でも、カァラはその方が気持ちに迷いがなくなる、と言って、大勢の目の前で、腰まであった見事な髪に鋏を入れさせた。
重い髪が床にバサバサと落ちていくたびに、カァラの表情も軽くなっていく。
まるで、今までのしがらみを手放すように、今まで自分を覆っていた衣を脱ぎ捨てていくかのように。

.........................................................................................................................................

「と、いう事でさ。アベル、これからの事や、宵の君についての俺の正直な見解を話し合いたいと思う。
……あんたにひとつ、俺からの提案があるんだ。
何故、俺がそう考えているのかは、これから包み隠さず本当の事を言う。
だから…」
カァラはちらっと周りの人間達を横見した。
「人払いしてくれる?いや、二人きりになる所に行こう。
…俺は、あんたと二人だけで話したいんだ」

アベルはごくりと唾を呑み込んだ。
彼に対し、賞賛に値する感情が、心の底から湧きあがってくる。
「ああ…わかった…。では、部屋に戻ろうか…」
掠れたような声でそういうと、アベルは慣れないものを見るような目で、カァラの全身を眺めた。
「だが…本当に…何て言ったらいいのか。
その、随分と思い切った事をしたなぁ、お前。
いや、かなり似合っていて驚いたけども…」
少し皆と離れ、歩き始めたカァラは、む、と口を曲げた。
「言ったじゃん。この方がこれから行動するのに都合がいいからって。
…それに…」
カァラは口の中で言いにくそうにごにょごにょと呟いた。
「だって、あんたはこういう方が好みだろ?」
思わずアベルは驚いてカァラの顔を見下ろした。
彼は口を尖らせながら、頬を染め、不機嫌な様子でぷいっと横を向いた。まるで照れた子供のように。
その愛らしい様子に、アベルの心も蕩けていく。
その言葉の真意を突き詰めたい衝動に駆られながらも、アベルは自分が先程の不安から解放され、浮ついている自分に気恥ずかしさを感じながら、照れた咳払いをひとつした。

........................................................................................................................................

二人きりとなったカァラとアベルは、時間も気にせずに話し込んでいた。
それは、先程話した通り、カァラの包み隠さない本音の披露でもあったのだ。
さすがに自分の生い立ちを語るには躊躇したけれども、これを話さないと、自分が宵の君に対する感情を説明できないと思い、断腸の思いで告白した。
その時のアベルの表情に、苦悶の色が浮かんだけれども、それは自分ではなく、自分の周囲に対する怒りだったようだ。
カァラはアベルを信頼し、全て話した。勿論、自分が考えるこれからの提案についても、暁と何があったのかを包み隠さず説明しないと、きっと理解しづらいと踏んで、カァラは感情を交えずに冷静に話を進めた。

気が付くと、いつの間にか昼を過ぎてしまっていた。
ぐう、と喋りつかれたカァラの腹が鳴ったと同時に、アベルが大声で笑って「食事にしよう」と片目を瞑った。

「お前の提案はわかった。俺はお前の指示通り動くよ」
しばらくして宿の者が昼食を運び終わり、入れ替わりに二人が食卓に着いたとき、アベルは真面目な顔でそう言った。
「いいのか?一州の海軍提督が、こんな極悪人の息子をたやすく信じちゃって」
目の前で立ち昇る、スープの芳醇で美味しそうな香りを堪能しながら、カァラは上目遣いでアベルを見る。
「信じるさ」食前酒を片手に掲げると、アベルは事も無げに言った。 
「お前という人間を愛しているからな」
直球を投げつけられて、カァラの全身が燃えるように熱くなった。
こういう事に慣れないカァラが、居心地悪そうにわざとらしく咳をすると、アベルはにやり、と余裕の笑みを浮かべた。
カァラは動揺を隠すように無理矢理平静な態度に戻って再び口を開いた。
「…という事で、俺はしばらくアベルの隊と行動を共にするよ。
で、機会が来たら、俺の言う通りにしてもらう。
その時は、あんた一人だけ…。つまり、俺と二人きりで行動してもらう事になるけど、承知してくれるか?」
「ああ、大丈夫。レザーや今付いてきてくれている提督補佐官にも、俺が抜けた後の指示を綿密に検討させる」
その言葉に、カァラはゆっくりと頷いた。
しばらく、二人は黙々と食べ物を口にしていたが、ふ、とカァラが思い出すように顔を上げてこう言った。

「なぁ、アベル。そういえば、一緒に北の国に同行したユナの人間達は、どうしただろうか」
脈絡のない話題に、アベルは片眉を上げてカァラを見た。
「いや。俺も彼らの消息はわからん。ただ、ちらちらと姿が見え隠れしている。
最後に確認したのは、ティアンと宵の君の攻防の時かな。
……はっきりとはわからんが、彼らは宵の君に手を貸している節がある」
「本当に?」
カァラは信じられない、といった様相で目を見開いた。
「邪眼を持つお前でも見えない事があるのか…」
「だから前にも言った。邪眼は万能じゃないんだ。
俺が波動を合わせないと、見えないもんは見えないし…。
いや、……というか、あの民族は謎が多くて普通じゃないからな…。自分達を悟られないよう、何かで隠しているような…そんな感じがする。
とにかくよくわからない人種なんだよ、ユナって」
「確かにな。…昔から東の国でも異端扱いの民族だ」
そういうと、アベルはくいっと水を煽った。その男らしい飲みっぷりに見惚れながら、カァラはぼんやりと口を開いた。
「…まぁ、だからこそ、彼らの動向を聞いてみたんだけどさ。
だってほら、あいつらすげぇ復讐心に満ちてたじゃん。
……暁にさ」
ポツリ、と呟くその名に、アベルは少しやきもちを焼きながら、黙って頷いた。
(ま、暁なら何も心配ないと思うけどね)
自分を変えたほどの力を持つ今のアムイならば、自分が懸念する事もないだろう。
「そうだ!そんな事よりもさ」
突然ころりと話題が変わった事に、アベルは怪訝そうな面持ちでカァラを見やった。
「何だ?」
「俺、随分と素直に自分の事、話したぜ」
「だから?」
得意げに胸を張るカァラに、益々眉根を寄せる。
カァラはニヤリ、と口の端で笑うと、意地の悪い視線を投げつけた。
「次はアベルの番だからね」
「は?」
「今夜、包み隠さず話してもらいましょうか。
……特に、あの一途で健気な部下に対するあんたの気持ちを…」
カァラの目に、今まで見たこともない嫉妬の色が浮かんでいるのを見て取って、アベルはむせた。
「それから、あんたの今までの事、全部」
カァラは腕を組んで、わざとそっくり返って尊大に言った。
「カァラ…」
実はアベルの彼への気持ちは、所々に告白したつもりだった。
だが、カァラの話の方が膨大だった為、結局アベルの本心を語るまでいかなかったのだ。
昨夜、切ないまでのアベルの本心を聞いていたカァラの心中は、実は完全に余裕だった。だがもう一度、彼から言葉が欲しかった。今度はあの深い青い瞳に自分の姿をちゃんと映しながら…。
そう想像してにやけそうになるのを必死に堪え、しれっとした顔でカァラは続ける。
「俺だって,あんたの事、知りたいんだからね。
これから二人でやっていくためには、俺の話だけじゃなく、あんたも正直に話せよな。
これが相互理解への一歩、ってゆーやつだ」
「偉そうに」

これは今夜、完全に寝かさないつもりだな、とアベルはふぅっと息を吐いた。
それは困っているんだか嬉しいんだか、何とも言い難い、甘い溜息となった。

まるで猫のように舌なめずりしながら、満足そうに目の前の皿と格闘しているこの青年が、すました作法を完璧にこなす、昨日までの淑女然とした人間と、同一人物だったとは到底思えない。
その気取りのなさに、アベルは微笑ましい気分で見惚れ、揺るがない自信に満ちていく気分を味わった。


大丈夫だ。
きっと。

この男がここまで素直になってくれたのだ。

次は自分が素直になれば、俺達の未来はきっと……。

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そして今、カァラがふと思い出したという、当のユナの三人は緊迫した空気の中にいた。
まるで凍りついたような空気を破ったのは、一番年上で、ユナの長の側近であるセツカだ。
「……お前は…この私の、いや、長の命令が聞けぬ、というのか」
その鋭い視線の先には、ユナ族きっての勇者、レツが冷たい表情で立っている。
「……何とでも言え」
吐き捨てるように言うレツに、長の息子であるガラムが慌ててすがり付いた。
「ねぇ、レツ!どうしたんだよ。長の命令は絶対じゃなかったのか?
背いたらそれ相応の処分が下るんだよ!長直属の第一級戦士であるレツなら、よくわかっている事じゃないか!」
そう、少数民族であるユナは、自分達の存続のために課せられた重い戒律がある。
そのひとつが、長の命には絶対服従しなければならない、という事だ。
民族の頂点である長の下、例え小さな不協和音でも、そこから他族のつけ入る隙となって壊滅しそうになった歴史から、現在は厳しい掟となっていた。
最悪の場合は死…。
嫌な考えが浮かんで、ガラムは身震いした。
ガラムの考えが顔に出ていたのであろう。レツは昔、幼い彼にいつもしていたように、大きな手でくしゃっと彼の髪を乱すと、一瞬、哀しそうな顔を覗かせた。が、それはガラムの見間違いかと思うほどに、素早くレツは感情の読めない固い表情に戻り、こう言った。
「俺の考えは変わらぬ。
ガラム、お前だって俺と同じ気持ちだった筈だ。
なのに何故、今になって気が変わった」
「レツ!」
ガラムは大きな緑色の目を瞬かせた。
冷たい。まるで背筋が凍るくらいに、この男はこんなに冷たい“気”を放つ人間だっただろうか…?
いや、違う。少なくとも昔はこんな人間じゃなかった。……そう、自分の姉、そして彼の妻であるロータスが生きていた頃は。
「俺だって、まだあいつの事、許せないよ。
だけどさ、だからこそ俺はあいつに直接会って、真偽の程を…」
「真偽の程…?」
レツは冷笑した。ガアラはその表情に気負わされて言葉を呑み込んだ。
「そんなもの、必要ない」
ピシャリと言い放ったレツは、ガラムの手を振り解くと、背を向け、その場を立ち去ろうとした。
「レツ!!」
ガラムが叫んだと同時に、セツカが彼の足止めをするかのように、己の持っている棒を彼の背に突き立てた。
「セツカ」
半分顔をセツカに向けて、レツは迷惑そうな目で、じろりと睨んだ。
「どうしても」
セツカの目も険しく光っている。
「長の命令に背くか、レツ!」
その言葉に、レツは含み笑いをし、再び正面を向いた。彼の表情はまるでわからないが、背中全体で、己の意志の固さを主張していた。
「何故だ?」
「は?」
レツは突然、口を開いた。
「何故、長は暁を護るような命令を出したのか」
その問いにセツカは答えなかった。長の胸中など、他の者には話せない、守秘義務があるからだ。
セツカの答えがない事に、レツは嘲るように笑うと、こう続けた。
「…折角、あの人殺しが目覚めたというのに…。
奴が意識不明だったと、何故教えてくれなかった?教えれば、この俺が何かすると思ってか。
目覚めた奴に、あの事件の事を喋らすために、お前達は俺に何も知らせないでいた。
大方お前は長に報告して、こうやって俺が絶対に動けないよう手を回したんだろう?
なぁ、そうだろう?セツカ」
その言葉に、セツカの顔が険しくなった。
セツカは震える唇で、今度は反対にレツに問いかけた。

「それほどまでに…!
お前はそれほどまでに【暁の明星】を憎んでいるのか。
彼が、真の犯人ではないかも知れぬ可能性があっても、か?」
そして息を吸い込むと、悲痛な目でレツを見詰め、はっきりと言った。
「どうしても彼と決着をつけないと気が済まないというのか!」

その叫びにレツはふっと口元を歪めると、緊迫している二人に向かってきっぱりと宣言した。

「そうだ。当たり前の事を聞かないでくれ。
奴が真犯人だろうか、そうじゃないかなんて、俺にはどうでもいい事だ。
……奴は我ら一族の大事な女を惑わした。
その罪は死をもって購(あがな)うに値する事実だ。
この俺の手で、暁を討つ。…それが俺の、ロータスへの弔いだ」

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