暁の明星 宵の流星 #174
おびただしいほどの意識の中に、アムイは放り出されていた。
それはあまりにも膨大に目まぐるしく展開していくので、これが自分のものか他人のものなのかを把握できずに彼は困惑していた。
これは、多分、この大地に生まれ生きてきた人間の多大な記憶の坩堝(るつぼ)。
それがもの凄い速さでアムイを通り抜け、消えていく。
中には自分自身のものと思われる記憶もあった。
生きてきたと思われる記憶の一部が鮮明に現れる時に、アムイの心をかき乱し、魂が激しく反応するものがある。
そして、アムイは腑に落ち、納得するのだ。
ああ、これは、自分が昔、この地で生きてきた証だ……、と。
ただ、それでも中には他の人間の意識と混ざり合ってるような曖昧な記憶もあり、自分で判断できないものだってある。
今も真っ暗な闇の中で、閃光が表れては消え、アムイの頭の中を遠慮なく浸食していく。
所々にその瞬く光には、“人”の生き様が詰まっている。その光に取り込まれるたびに、様々な意識がアムイを襲った。
それは。
誰のものなのか。知らないようで知っているようで。
……はたまた自分の意識か、記憶か。
それは自分で知る限りに素早い展開で、アムイを翻弄していくのだ。
“アムイ=メイ”、という人間の意識はずっと軸にあって、それが闇のをどこかに吸い寄せられるがごとくにあちらこちら猛スピードで飛んでいき、その都度、閃光にぶち当たれば、“アムイではない意識”が怒涛のごとく押し寄せてくる。
その一方、それを抜けると不思議な事に、その中のどれかが自分の経験してきた人生であったかが、何となくわかる自分がいる。
その繰り返しが、ここ数日、アムイの身に起きていた。
今もまた、アムイはぐるぐると意識の海を旋回しながら、再び闇に吸い込まれ、赤い閃光に引きずり込まれた。
《いつまで!》
その赤い光に詰まっていた意識は怒り狂っていた。
《こうして奴隷として足枷をつけていなくてはならぬのか。男の慰み者として生きなければならないのか!》
それは戦利品として勝戦国に連れてこられた、負戦国の女の怒りだった。
他の女達はすでに自分を失くし諦めきっている。負けた国の人間は、勝った国の人間のものであるというのが、慣わしだからだ。
女は怒っている。そして泣いている。その記憶が、アムイの気持ちを揺さぶった。
息つく暇もなく、次の閃光に“アムイの意識”は飛ばされる。
ある時は、美しい着物で着飾られた、高位の者を相手とする娼婦の意識とぶつかった。
完全に娼婦との意識が自分と同調していた為、すぐにそれは自分の過去世のひとつだと悟る。それもまだ最近の。
娼婦には愛しい人がいた。
だが、その相手は何と聖職者で、“彼女”は生涯、彼と添い遂げる事も触れ合う事も許されない、虚しくも悲しみの人生を送った。この時彼女は叶わぬ恋の悲哀を学んだ。
またそうかと思うと、反対に自分が聖職者として高潔に生きていた意識とぶつかった。
“彼女”は捨て子で、幼い頃から神と共に生きる事を余儀なくされた。
育ててくれた尼僧達(聖職者でもこのように称する事もある)に、恋など汚らわしい、人を堕落させる罪深き事と教え込まれ育った“彼女”は潔癖に成長した。
だが、一度だけ、神を裏切ろうとまで思い込んだ出会いがあった。
戦いで傷ついたある国の戦士を介抱した事がきっかけで、その戦士と恋に落ちた。
だが、“彼女”は聖職者であって神の妻だった。戦士は幾度となく求婚してくれたが、罪を恐れる自分にはその垣根を越えるほどの情熱がなかった。“神”の教えにがんじがらめだった人生を、結局送った。
またある時は普通の農夫の妻だった人生もあった。
その時の“彼女”は沢山の子供に恵まれて、大層幸せだった。
かと思うと、流行り病で幼い時に死んだ女の子の意識にもぶつかった。ずっと“彼女”は褥の上で親を恋しがっていた。
アムイが思うに、前にカァラが言っていたように女の意識が確かに多い。
それに注意深く見れば、何となくどんどん時代を逆行していくような感じがする。
見えている情景も、服装も、どんどん古い形になっていくからだ。
もちろん、女の意識だけではない、男の意識にもぶつかる時がある。
ただ、女であるよりも少ないだけで、それはかなりインパクトを持ってアムイを襲った。
《お願いだ!村の人間だけは助けてくれ!!》
“彼”は拘束され、自分達を襲った海賊の前にひれ伏していた。
この辺りを、貪欲獰猛に襲って奪いつくしてきた大海賊が、自分が治める村を襲撃したようだ。
《私の命…首をやるから、どうか、どうか皆を助けてくれ》
“彼”は懇願し、そして自分の力のなさを呪った。だから、最後の願いだったのだ。
海賊の頭はにやりと笑って見下ろしていた。
小さいが、村は平和で豊かだった。若くして長となり、最近結婚したばかりだった。
彼女を、そして優しい村人の命をを何とか護りたい、救いたい。ならば、この自分の命など…。
“彼”はそう決意して、自らの命を差し出し首をはねられた。
だが、魂となった“彼”は見てしまったのだ。結局彼らは“彼”の最後の願いを踏みにじった。
村は全滅させられた。
その時の、村人の恐怖を、無念を、怒りを、悲しみを、魂であった“彼”は見てしまったのだ。
怒涛の後悔。
もっと、自分にできる事はなかったのだろうか。早々に命を投げ出さず、負けるを承知で、もっと抵抗していた方がよかったのではないか?ただ、その時の情勢としては、結局戦ったとしても犠牲を余儀なくされただろうが…。
自分だけ、先に、死して楽になって…。
その思いばかりが“彼”を苦しめる。
そして自分の思いをいとも簡単に踏みにじった海賊たちに、怒り以上に憐憫な思いが湧き起こる。もっと、人間として慈悲を持って欲しかった…。
その無念が、アムイの気持ちとシンクロする。
平和を愛し、平和を護りたかった。だが、それができなかった。
自分の力不足に、自分の不甲斐なさに、“彼”……いや、アムイは泣いた。
次に生まれてくるときは、正面から戦える人間に、悪に強い自分として生まれたい…!
次こそは力のある屈強な男として…!
こういう“願い”を抱えていた事に、自分は何故、忘れていたのだろう…。
だが勿論、いい人間だったばかりではない。
賊に身を貶め、沢山の人を脅かした事もあったし、大義名分を掲げて、謀反を起こした臣下だった時もある。
時には高慢な豪族の娘として生まれ、わがまま振る舞いに人生を送った事もあった。
交互に現れ、消えていく。
その様々な事象に、アムイはこの世の無常を感じていた。
気が付くと、今度はいつの間にか、うんと古い時代に自分はいるようだった。
あまり鮮明ではない、意識、記憶。
それはあまりにも朧げ過ぎて、自分の過去世なのかそれとも別の人間の記憶であるのか、判別できない。
ただ、そのもどかしさの中で、艶やかな輝石だけが印象にある。それがきらきらと目の前で揺れている。
あれは、そう、どこかで見た事が、ある。
それは何とも豪奢な耳飾りで、長めの鎖の先には、掌に収まるくらいの金のメダルのような物が付いている。その黄金に輝くその中央には、飾り物として埋め込まれた輝石。あれは…。
《私はこの国を》
誰…?他の誰か、それとも自分か…?それすらも鮮明でないほどの、本当に古い、古い記憶…。
《私の時代で、きっと、まとめ上げてみせる》
《意のままに》
《いいか?それで》
《意のままに。我が君》
目の前に揺れる輝石を白い可憐な指が弄ぶ。
凛、としたその声が、これからの決意を物語る。
《我がする事、これが未来の雛形となる。だからこそ、必ずや成功させなくてはならぬ。
死して全てを忘れても、この経験は魂に刻まれ、それが次の宝となる。
それは未来に投資する事。我は今生にこの目標を掲げるぞ!》
《……私は、ただ、ついて行くことのみです、我が君。思いのままにいたしませ。
何故なら貴女は…》
どちらが自分の意識だかもわからないくらいに混沌とした記憶。
ただ、揺れる耳飾りを弄んでいた、白くて細い、華奢な指だけが印象に残る。
ああ…この指は…。
そう、だ。それにあの輝石には見覚えがある。……あれは女神の…。
すると突然、華奢な指から骨太な男の指がその耳飾りをやさしく取り上げた。そして男らしい手つきで耳飾りを相手の耳につける。
ゆらゆらと揺れる輝石。
《耳飾りがよくお似合いだ、我が君。
そうです、これを代々伝えませんか……?次を継ぐ者に…》
「アムイ!!」
はっと目を開けると、そこには沈痛な顔をしたキイが自分を覗き込んでいた。
じっとりと寝汗をかいていた所を見ると、また、例の夢の狭間に落ちていたようだ。
「おい、大丈夫か?かなりうなされていたぞ」
心配そうなキイの声に、アムイは苦笑いしながら上半身を褥から起こした。
「すまん。心配かけて」
「また例の?…まだ見続けているのか」
キイは無意識のうちに、汗で湿っているアムイの前髪を自分の手で払いのけた。
「はは。やっと不眠症が治ったかと思ったのにな」
自嘲するアムイを安心させるかのように、キイは無理矢理笑顔を繕った。
「…いや、それよりも現れる意識というのは、その、断片的なのか?」
キイの質問に、アムイはこっくりと頷いた。
地獄からの帰還から、しばらくしてアムイに異変が起こり始めた。
いや、もうすでにその予兆はあったのだ。
一度、死の国を見た人間は、通常の者よりも、向こう側の世界に通じてしまう能力に目覚めてしまう者が多いと聞く。実際、アムイもそのようであった。そのひとつが最近眠ると襲われる、多勢の意識の発露だった。
昂老人(こうろうじん)に言わせると、それは魂の蓋が開いた状態ではないか、という。
それが眠リに就いて潜在意識が他の次元と繋がると、否応なしに本人から溢れ出てしまっている状態らしいのだ。
全ての意識は深いところでは繋がっている、と昂老人は説明した。そのあらゆる混沌とした記憶の坩堝(るつぼ)である、繋がりの深海のような流れに放り込まれてしまえば、魂の蓋の開いた状態では多大な記憶に襲われても仕方がないと渋い顔をした。
つまりここ最近のアムイは、巨大な意識のプールに眠るたびに繋がってしまい、投げ出されている状態であるらしいというのだ。そのような無防備な状態で、大丈夫なのかというキイの不安に、昂老人はこう答えた。
現在、悪しきものを遮断するために、世の境目で霊体となったサクヤが奮闘しているというアムイの話から、《悪霊のような負の意識がアムイを脅かす可能性は少ないであろうから、その点については心配ないだろう》という見解を下した。
そうではあっても結局、アムイの内側では押さえ切れないものがある。それは自分の過去生の記憶。自分が培ってきた《業》というものである。
それが獄界に中途半端な霊体という形で触れてしまった為に、それがきっかけとなり、本来安全装置とも言える、多大な過去世の記憶なるものを封じている魂の機能が決壊したと考えられる。
はっきりと言ってしまえば、今生が初めての転生と言っていいキイには到底計り知れない。今、キイの理解の範疇を超える状態に、アムイは陥っているわけなのだ。
それをを知ったキイは、深い溜息を漏らした。
次々と現れ、徐々に明白となるアムイの姿。
どれだけの生を、彼はこの地で受けてきたのか…。
それを今生目の当たりにし、キイは天の計画に畏怖を感じざるを得なかった。
だが、当のアムイはただ苦笑するだけで、魂の片割れであるキイには詳しい事を語らない。というよりも、キイにすらどう説明したらいいのか、アムイにだってわからないのだ。
数多の感情の追体験に、実の所、アムイはかなり“気”を消耗している様子であった。
これも何かアムイにとっては必要な事なのだろう、過去世を出し切ればいつかは治まる筈だ、という昂老人の言葉にも、キイは憂いを払拭できない。
でもそれが“魂のアク出し”なのではないか、と言われてしまえば、キイとしては、いつものごとく黙って見守るしか手はないのだ。
そしてもうひとつ、微かな変化がアムイに起こっている事を、周囲の人間も薄々と気がついていた。
感情の涙の解放と共に、涙によって彼の目が清められたのか、彼の瞳に映るものの中には、別の次元のものを捕らえているのでは?と思われる節がよくあった。
「やめてよ、アムイ。また変な所を見てる」
ぷぅっと頬を膨らませて、イェンランが朝食の時、耐え切れなくてそう言った。
「え?ああ、そうだったか?すまない、気をつけるよ」
「本当に、やめてよね。私、そういう類は苦手なのよ」
自分を抱き締めながらイェンランはぶるっと身震いした。
「お化け、とか、実は苦手?イェン」
からかうようなリシュオンの言葉に、うっすらと頬を染め、イェンランはまた頬を膨らませた。
実際、たまにアムイは、皆が見ても何もないと思うような所を、じっと見詰めていたりする事が多かった。
「まるで猫みたい」
できればそういう現実離れした事象と関わりたくないイェンランは、そんなアムイに気持ち穏やかではいられない。
「ほら、よく猫って変な所をじっと見ている事が多いじゃない?
子供の頃、兄さんが猫飼っていたからわかるのよ。
気が付くと何もない空間とか、景色とか、一点とか見ててさ。兄さんに聞いたら猫はそういうの敏感だから、我々の見えないものが見えるんだろうよ、って…。それって、この世のものじゃないって事でしょ?
……なんか、アムイを見ているとその言葉を思い出すのよ…。ああ、やだ」
シータもキイも、それはまだ生還して間もないその名残だから、と言ってイェンランを宥めたが、アムイ本人はあまり治まっているとは思えない感じだ。
ただ、自分の瞳に何が映っているのかだけは、アムイは決して口にはしなかった。
それだけがイェンランの救いであったが、裏を返せばかえって不気味に感じる事でもある。
だが最近アムイはキイに一度だけ、己の瞳に映っているものの存在を、ポツリと言葉にした。
それは…。
茶色の巻き毛がちらちらと踊る。
振り向く緑色の瞳は何かを言いたげに哀しく揺れる…。
それは恐ろしいというよりも、まるで妖精のように儚げで可憐で…。
「アムイ?俺の肩越しに誰かいるのか」
堪りかねたキイが、思い切って問いかけたある日の事だ。
アムイはこの時だけ、つい、素直にその存在の事を口にした。
「いる。彼女が」
「彼女?」
「…最近…よく、俺の前に姿を見せる…」
「何?お前の女?」
いつもの調子で軽口を叩いたキイに、アムイは真面目な顔で静かに首を振った。
それからしばらく言葉にしようかと躊躇した後で、アムイはキイにだけ打ち明けた。
「ユナのロータスだ。…間違いない…」
「ユナ族の?ロータスって、その…お前が殺したと思われている…?何でまた」
驚きの眼でアムイを見たキイは、そのまま押し黙って何かを考え込んでいたが、再びアムイに問いかけた。
「……ということは彼女の霊が、お前の傍にいるって事か?
なあ、その理由を尋ねてみたか?」
「いいや」
「どうして」
「……彼女は何か言いたいようなのだけど…。
ただ姿を見せるだけで…俺にはわからないんだ、まだ」
キイはふぅっと溜息を付いた。
「じゃ、まだ通じていないって事か…。
彼女は何かお前に伝えたい事があるんだろうよ。……殺されたと聞いたが、きっとその事じゃないのか?
ということは、彼女の魂はまだこの世をさすらっているわけだ」
「俺もそう思う」
アムイはそう呟くと、再びキイの背後に目を走らせた。
「ま、いっか!
お前の話だと生前はかなりの美人だったって言うし。
そういう若い女の霊なら、俺様はいつでも大歓迎さ」
わざと冗談めかしてキイは笑うと、ちょっと困ったように頭をぼりぼりと掻いた。
「あ!ああ…。ごめん、キイ。
なるべく皆を怖がらせないように気をつけていたんだが、やはり駄目だな」
アムイも困ったように笑みを浮かべて首の後ろを揉んだ。
「なぁ、アムイ、……多分、お前も気が付いていると思うけど。
彼女はお前に助けを求めているんじゃないのか?それとも真犯人の事を告げようとしているのかも。
お前が向こうの世界と通じやすくなった事もあって、彼女がお前の傍に来たんだろう。
…いや、本当はずっと前から傍にいて、彼女の存在が見えるようになったのか」
キイは心配そうにアムイを見た。
「……彼女の様子は…確かに俺に何かを訴えている。
もう少し、彼女と交信できれば、その理由がわかるんだが…」
焦れたようなアムイの言葉に、キイは慈愛を込めて彼の肩をぽんぽんと叩くと、本来生真面目で誠実な相方をねぎらうようにこう言った。
「あまり思い悩まない方がいいぞ、アムイ。
そのうち時期がくればおのずと明白になるんじゃないか?
そんな事よりも、今までみたいに周りに迷惑かけるからと、己自身で全てを背負い込むな。
……そのための仲間が…特にこの俺がいるだろう?」
キイはするりとアムイの横に並ぶと、片腕をアムイの肩に回し、ぐいっと抱き寄せた。
「なあ、アムイ」
キイの呼びかけに、アムイは彼の端正な横顔に視線を走らせた。
アムイの視線を感じながら、キイは静かにこう言った。
「詳しく教えてくれないか?…大体のいきさつは聞いたが…。
ユナ族と…その、ロータスとお前の間に何があったのかを……」
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緊迫した空気が流れていた。
それを破ったのは悲痛なまでのセツカの激昂だった。
「レツ!!お前どこへ行く!」
滅多に聞いた事のないセツカの怒声に、傍にいたガラムは縮み上がった。
長(おさ)である父親直属の側近であると共に、ジース(次期長候補者・じきおさこうほ)教育係官でもあるセツカは、幼い頃から色々と厳しく教育・指導された事はあっても、この様にして感情のままに怒鳴り散らした所を見た事がなかった。厳しいけれども、普段は温厚で礼儀正しく、人当たりのよいセツカしか知らないガラムは、驚きで身動きできないほどだった。
「暁の所だとしたら、私はお前を阻止しなければならん」
確固たるセツカの叫びに、二人に背を向け扉から外へと出て行こうとするレツは、一瞬、歩みを止めた。
「何故、そのようにしてあのよそ者を庇う?セツカ」
彼の低い声は、完全に抑揚がなく、それがかえって不気味さを増長させていた。
「長(おさ)の命令ゆえか。
では何故、長は我々に関わったよそ者であるあの男の、命を護るような命(めい)を下したのだ。
……ユナが仕える神王の血筋でもない、我らに何も恩恵を与えたわけでもない。
ただ、単にあの男が神王の王子の守護者であるらしい、というのが理由なら、俺は納得できん」
その言葉に、思わずセツカはぐっと言葉に詰まった。
「守秘義務か。
お前は一体、何を知っている?」
レツは顔だけをセツカに向けてこうも言った。
「いや、どこまでわかっている?」
「レツ…?」
自嘲気味にそう吐き捨てたレツに、ガラムは困惑して眉を顰めた。
不思議な事に、セツカは押し黙ったまま目を逸らしている。
そんなセツカを一瞥すると、レツは再び顔を正面に向け、扉を開けた。
「レツ!!」
セツカはもの凄い勢いでレツに駆け寄るなり、自分よりも大柄で頑丈な彼の肩を掴んだ。
「お前は俺に武器を向けさせたいのか!」
悲鳴のようなセツカの叫びに、レツがふっと口の端で笑ったような気がした。
「レツ…」
ガラムはただ呆然と、二人の成り行きを見ているだけだった。
(何故?それはこっちが聞きたいよ、レツ。
どうしちゃったんだよ…。いつもは冷静で、客観的で公平な人間なのに…どうして…)
事実、己の感情を自制する事には長け、第一級の戦士らしく誇り高く正義感に溢れ、言葉は少なくてもその懐の大きさから、民の信頼と憧れを一身に受けていたような男だった。ガラムは幼い頃からレツに憧れ、いつかは彼と並ぶほどの男になりたい、とも思っていたくらいだ。
なのに…。こんなにも頑なで冷たい、人の話も聞かないような、我を通すような男だったであろうか。
そう思った瞬間、脳裏に自分の姉、レツの妻であるロータスの面影が浮かび、ガラムの胸を切ないほどまでに掻き毟った。
(…レツが…レツがおかしくなったのは、やはり姉さんが殺されてから…?
ううん、そうじゃない…、あれは暁が…。姉さんがよそ者のあいつを救ってからだ。
では暁と何かあった?仇という次元以前に、暁はレツを…狂わしている…?)
ぞっとした戦慄と共に、ガラムはサクヤとの最後の会話を思い出していた。
《…なあ、ガラム。君が仇を追ってここまで来たのもわかる…。オレも同じ思いをしてきたから。
でも、ずっとあの人と一緒にいたオレには、あの人がそんな酷い事をしたなんて、どうしても信じられないんだ。
だから聞かせて欲しい、ガラム。
…この先どうするつもりかを。
…オレの件が片付いたら、やはりオレの兄貴を討つつもりなのかを》
《…レツの気持ちはわからないけど…。
俺は…やはりアムイに直接会おうと思う》
《…ガラム…》
《会って、その当時の事を確かめる。一体何があったのか。アムイの話を客観的に聞いて…そして、判断する》
《ガラム!》
《……ずっとアムイの事を考えると、頭に血が昇って仕方がなかったんだけど…。
感情としては割り切れないものがまだあるんだけど…。
…でも、サクヤが信じている人で、…サクヤの事を大事にしている人ならば、…もう少し言い分くらい、聞いてからでも遅くはないかな…なんて》
はっきりとは言わなかったけれど、あれは確かに互いの約束だった。
残念な事に、サクヤの『解決したら自分の方からガラムに会いに行く』という約束は叶わなかったけれど。
だからこそ、もうひとつの約束(と、ガラム自身信じている)を、暁を護って無念の死を遂げたサクヤのためにも守りたかった。
《……そうか…。さすが長候補。ジースの称号は確かだね》
サクヤの、からかうようなあの時の言葉が、今でもガラムの心に鮮明に甦り、いつも泣きそうになるのだ。
その思い出のためにも、ガラムは自分がレツを止めなければ、と決意した。
そう、俺は必ず次期長(じきおさ)になるって、サクヤの前できっぱりと言ったんだ。
サクヤだって、俺ならなれる、って言ってくれた。
……だから、だから…。
まだ少年のガラムの心に、将来は長として一族を背負う、という自覚が芽生えてきていた。
それまではただ単に、憧れだけで父親の跡目を継ぐという意識しかなかったような気がする。
母親違いの兄達への競争心もあったかもしれない。
だが、初めての他国への旅と出会いは、思った以上にガラムの心に影響を与え、将来についての意識を変えるきっかけとなっていた。
自分は将来、どのような長となるべきか。
ユナ、という閉鎖的な民をまとめ、全てを背負える人間になり得るのか。
そのためにはどうしたらいいか。
自分が頂点となるための視点と行動は、帝王学として身につけているとばかり思っていたのが、幻想に過ぎなかったと、この旅で身に染みてよくわかったのだった。
井の中の蛙、とよく言ったもので、狭いユナの地だけでは知り得ない事が、この外の世界には沢山あった。
自分で様々な経験を通して学んだ事。
それが全て己の血肉となり得ると言う事を、ガラムは学んだ気がするのだ。
だからこそ、次期長(じきおさ)候補ジースとして、自分はレツの暴走を止めなければならない。
このままでは長(おさ)の命に逆らった謀反人としてレツは裁きを受ける事になる。
それだけは亡くなった姉のためにも、ガラムはさせたくなかった。
その切ないまでの思いを、ガラムはレツにぶつけた。
「レツ!俺はジースとして長の命令を破らせるわけにはいかない!
どうしても聞かないとするならば、それは謀反として俺はお前を…」
「斬る、とでも?この俺を?」
小馬鹿にしたような笑みが口元に浮かび、それがガラムの神経を逆撫でした。
「俺ができないとでも!!俺がお前を斬れないとでも!!」
かっとして自分の剣を抜いたガラムに、セツカはぎょっとした。
かえってそれが、あれだけ血が昇っていたセツカを冷静に引き戻した。
「ジース!お待ち下さい!」
いくら次期長候補であるとて、戦力ではまだまだ一族の英雄の足元にも及ばない。
そんな事はセツカだけなく、本人だってよくわかっている事ではないか。しかもまかりなりにも彼は義理の兄。
セツカはガラムを制しようとして、レツの傍を離れた。
それを見計らったかのように、レツは脱兎のごとく外に飛び出した。
「レツ!!」
取り残されたガラムとセツカは、慌ててレツの後を追った。
外は静かな闇が広がっている。
それでも夜目の利くユナの二人は、すぐにレツの姿を見つけ、その一族の特徴である俊足で一気に追いついた。
「レツ!!どうしてもというなら、力ずくでも阻止してやる!!」
そう叫ぶと、ガラムは軽々と跳躍し、近場の木の枝に飛び乗ると、そのまま剣を振りかざしレツめがけて身を投じた。
「ジースガラム!」
共に追いかけていたセツカは焦って止めようと走り込む。
当のレツは無表情のまま、上空から襲ってくるガラムを見上げていた。
ガキーン!!
闇夜に金属の交わる、鈍い音が響き渡った。
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