暁の明星 宵の流星 ♯181
それからの数日間は、美貌のミシル=カイト嬢の結婚の話題で持ちきりだった。
元々の美貌に加え、良妻賢母としての知識や実践力も女舎(にょしゃ)で一番だった彼女に、男達からの熱い要望が集中するのは当たり前の事であった。女舎で最高の成績で成人となったミシルには、途端に多くの“家”からの求婚が殺到した。
だが、実家の計らいかそれとも本人の意思か、速攻して彼女は嫁に行く気配がなかった。
それも周囲の人間達の間では、彼女は英雄と名高いカルアツヤ家に嫁ぐ為に、時を待っているのではないか、と囁かれていた。
カルアツヤ家には五人の息子達がいる。そのうちの三人が成人になれば妻を娶れる事から、三男のシキが成人するのを待ってミシルに求婚するものと思われていた。
だから今度の婚儀決定も、周囲の少女達には半ば予想通りのことであって、きっとミシルはレツのいるカルアツヤに嫁ぐのが決定したものだとばかり思い込んでいた。
事実、その話を聞いたロータスは、眩暈がするほどショックを受けたのだから、噂も相当に信憑性を持って流れていたといえる。
だが、話がはっきりとするにつれ、噂は単なる噂だったという事が判明した。
彼女の嫁ぎ先は、医者の中でも名門中の名門であるシリファ家である事が伝わったからだ。
冷静に考えれば、宮中医師の家柄であるカイト家のお嬢様が、同じ医師関係の家に嫁ぐのは当たり前の話である。
だがあまりにもお似合いといえる、妖精のようなミシルと凛々しい戦士であるレツの二人がくっつく事を、彼らをよく知る者達は信じて疑っていなかった。ある意味、少女達には憧れのカップリングでもあったといえよう。
しかも、ミシルとレツは互いを思いあっている二人、と噂が広まっていたので、彼女達の中ではミシルの心中を慮(おもんばか)っては彼女に対して腫れ物に触るような態度を取った。もしくはかえって同情を隠してミシルに祝辞を述べる少女らもいたが、ほぼ全員、ミシルの婚家先については、レツとの事も含め、何やら微妙な雰囲気が流れていた。
当のミシルといえば、周囲の思惑など我関せず、にこやかに対応していた。
そして仲の良い友人達と、婚礼の話や身につける衣装の事、そしてその後に夫達と住む豪華な新居の事で楽しそうに話している姿を見かけるようになっていた。
しばらくすると、彼女の幸せそうな笑顔で、やはりレツとの事は周りが勝手に噂していた事ではないか、と皆思い始めていた。
彼女は幸せな結婚を掴んだのだと、ほとんどの者は彼女を見てそう感じた。
ロータスも一時は本当にレツの家と婚姻が決まったのかと目の前が真っ暗になったが、本当の事が明るみになるにつれ、二人の事はそれは根も葉もないただの噂だったんじゃないか、と思うようになっていた。
そう、あれはただの噂。
ミシルがレツと只ならぬ関係とか、成人の儀式での相手だったとか…。
それは人伝に耳に入っただけの事。真実は違うのかもしれない、とロータスは気持ちが明るくなった。
その日ロータスは久々に宮中に行こうと管理人に許可をもらい、まだ日も高い明るいうちに女舎を出た。
かの噂の主、ミシルが婚礼のために女舎(にょしゃ)を出て行く事になったその前日の事だ。
今朝は準備のために実家に戻るミシルの話題で持ちきりだった。ロータスはその中心で皆の質問に穏やかに微笑んで答えているミシルを思い出し、複雑な気持ちながら彼女はお嫁に行く事に満足しているのだな、と普通に思った。
噂は噂…。その考えがロータスの心に平常をもたらしたが、やはり引っかかるものはあった。
ミシルの様子は直接見ることはあっても、噂の相手であるレツの様子がわからないからである。
もしかしたらレツは本当にミシルに恋していて、彼女の結婚が決まったと知ってショックを受けているのではないか?
失恋して寡黙な彼が、益々内に籠もっているのではないだろうか…。
そんな考えが現れては消え、今のレツがどんな状態か気にしてしまってじっとしていられなくなったのだ。
だから彼女は今日、母を見舞い、弟に会いたいからなどという理由をつけて宮中に向ったのだ。
もしかしたらそれとなく母から、または運がよければ長の方(おさのかた)やセツカからレツの様子をさりげなく聞けるかもしれない、と思って。
逸(はや)る気持ちを抑えつつ、ロータスは大股で女舎の裏庭をつっきていた。
実はこの方が宮中へ行くには近道だった。
本来は正門からの出入りが普通なので、いつもは遠回りしてそのようにしているが、とにかく急ぎたかったロータスはお行儀悪いと思われようが裏門の方へと向かった。勿論、裏門には鍵がかかっている。
それを門番に気付かれないように、少し手前の塀を乗り越えていくのが彼女流であった。……人が滅多に来ない裏庭ということもあって、今までばれた事はない。それだからといって油断は禁物だ。見つかったら最後、延々とお小言を食らうかもしれない。
あと少しで塀に…というところで、ロータスはどこからか人の気配を察知した。
なぜかというと、まるで嗚咽を堪えるような、でも上手くいかないような、そんな感じの泣き声が彼女の耳に伝わったからだ。
そのあまりにも悲痛な雰囲気に、思わずロータスの足が止まった。
余計な事かもしれない。だけど人を放ってはおけない彼女の性分がそうさせた。
ロータスはそっとその声がする方に向かった。
塀の近くの茂みの向こう側に、蹲った少女の背中が見える。
声をかけようとしてロータスは、はっとしてその場に立ち尽くした。
「ひ…っぅ…く…」
懸命に声を殺そうとして、だけどどうしても洩れてしまう泣き声…。
見たことのあるその後姿に、ロータスはどうしたらいいかわからなくなってしまった。
戸惑うロータスの気配を感じたのか、彼女はビクッと肩を震わせると、恐る恐るロータスの方を振り向いた。
(ミシル…!)
その小さな白い顔。泣き腫らして目が赤くても彼女の美しさに遜色はない。
彼女はロータスの姿に一瞬目を瞬かせた。
そして小首を傾げると、小さな声で呟いた。「……もしかして……ロータス…?」
ロータスは頷くと、自分のハンカチを彼女に無言で差し出し、そのまま隣に並んで腰を下ろした。
何て声をかけたらいいかロータスは困っていた。
……このような誰も来ない所で、隠れるようにして泣いている…なんて…。思い当たるとしたら、自分が想像していることしかない。だけど、ロータスはどうしても怖くて口に出せないでいた。だって…それは…。
すると、そんな彼女の動揺を知ってか知らないか、涙を拭きながらミシルの方から話し始めた。
「ごめんね…。変な所を見せてしまって…」
ミシルは自嘲気味にそう言った。ロータスはふるふると首を振る。
「……ハンカチ、ありがとう…。でも、見られたのがあなたでよかった」
どうしてそんな事を言うのか、ロータスは疑問の目を彼女に向けた。ミシルは無理矢理笑顔を見せると、俯いてポツリと言った。
「小さい頃、たまによく遊んだわね?…宮中の託児所って女が少なかったから、私、妹ができたみたいでとても嬉しかったのよ」
ああ…と、ロータスは頷いた。自分は男の格好してよく男の子達に混じってはいたが、彼女や他の女の子が来ると、率先して彼女達の輪に入った。やはり同性だからか、彼女達の傍にいる方が気を張らずにほっとできた。……あの当時のロータスには、たまに来る少数の女の子達と、レツだけが気の許せる存在だった。…そう、レツ…。
ロータスはっぎゅっと膝の上で拳を作り、握り締めた。
「……幼馴染のあなたの前だからかしら…。何か隠してもしょうがないって気持ちになるのよ。
それに泣いている所も見られてしまったし」
もじもじしながらミシルは俯いて呟くように言った。
「…結婚…嫌なの…?」
とうとう言ってしまった!ロータスは思わず口を開いてしまって後悔した。ミシルの本当の気持ち、彼女自身から本当は聞くのが怖い。怖いけど、気になるのは確かで…。
その問いにミシルはぶるっと震えると、美しい瞳から再びつうっと涙が零れ落ちた。
「…私はユナの女だから」
そう顔を真っすぐにして凛とした態度で言い放ったミシルは、女のロータスから見てもとても美しかった。
「…カイト家の人間だから、この結婚は当たり前で…そう、もうすでに決まっていた事なのよ」
ミシルの話によると、医者の家に生まれた娘は、やはり医師同士の横の繋がりを強くする為に、同じ医者の家に嫁ぐ事が決められているという。たまに医者以外にも嫁ぐものはいるらしいが、それでも医療に携わる家柄が多かった。だがそれでも家に医者になっている者が一人だけ、という家には普通嫁がないようだ。彼女らが嫁ぐのは一家全員が医師や医療関係の仕事を担っている“家”だけだ。
それが、名門の家に生まれた女子の定めという事か。
「公にはされていなかったけれど、シリファ家の彼らは私の許婚同然だった…。もう、最初から決められた事なのよ、だから」
毅然としようとしても、それが堪えきれなくなったか、ミシルは震える両手で顔を覆いつくし沈痛な思いで本音を吐露した。
「私は最初から、諦めなければならなかったの…!欲しいものがあっても、飛び込みたい胸があっても!」
ロータスは彼女の悲鳴にも似た叫びに、ビクッと身体を震わせた。
(……レツのことだ…)
思ったとおり、ミシルはこう続けた。
「……私、知ってた。レツとの事、皆が噂していたのを。
…彼はどう思っているのかはわからない。
……もし好き合っていたとしても、もうすでに相手が決まっている女には…言えないでしょ?普通…。
でも私は…!」
ミシルの想いがロータスの胸に棘のように刺さる。
「あの人が好きなの!小さい頃から、ずっと。でも…でも…そんな事、言えない…言えないの…。
掟を、破る事はできない…。だって、私はユナの女なのよ。
親が決めようが、家の男性が私を選ぼうが、女に嫁ぎ先の決定権はないのだから。
でも、ね、ロータス。私はそれでも少しは期待していたの。
彼が弟の成人を迎えたら、すぐに私に求婚してくれるかもって…」
その言葉にロータスの胸は締め付けられた。
「親が決めたといっても、競争者が出れば競技か何かで女を勝ち取るのがユナの掟よ。
話し合いで折り合いがつかない場合、戦ってでも決着をつける…。だから戦士の家柄である彼の家が、もしかしたら私を獲得してくれるのではないかと、夢に見たことはあったわ…でも…」
ミシルの嫁ぎ先であるシリファ家は腕力がない代わりに知識だけはどこの家にも負けないくらいで、医学博士を何人も輩出してきた名門中の名門だった。そのような家柄に嫁ぐ事はユナにとっても実家にとっても名誉な事だ。彼らの意向に口を出す人間は長の方くらいではないか、と言われているくらいだった。いくら英雄ベン=カルアツヤの一家でも、親交のあるシリファ家に逆らう感覚は無きにも等しいようだ。その証拠に三男のシキが成人したのに、一向に結婚の意向を公にしていない。
皆はミシルが今まで多くの求婚を退けてきたのは、カルアツヤ家の求婚の表明を待っているからだと噂していた。
事実はそうじゃない。彼女は親が決めた家、医師の妻になるための準備をこっそりとしていたからであった。
今まで嫁ぎ先が決まっているという事を公にしてこなかったのは、まだシリファ家の末の息子が、医師試験に合格していなかったからだ。何事も完璧を有するシリファ家は、全て綺麗にお膳立てしてからユナで最高の花嫁を迎え入れるつもりだった。そのためには他からの求婚の数も多ければ多いほど花嫁に箔がつく。その数多の中から自分達が名乗りを上げれば、多分話し合いの段階で周りは手を引くだろう。無理をしてまで自分達と戦おうとは思わない、と踏んでいた。
頭脳派の多いシリファ家ではあるが、武道はユナの必須技術のひとつ。彼らとてちゃんと戦う術を身につけている。ただ、それが代々近衛隊長などを輩出してきたカルアツヤ家が出てきてしまえば逆転される恐れもある。
だから彼らはすでにカルアツヤ家には手を回していた。ミシルには内緒で…。
ミシルはそんな事も露知らず、いつかレツが自分を迎えに来てくれるかも、という淡い希望を抱いていた。
だが、それも無理だという事がシキの成人後にわかってしまった。覚悟はしていた事だけど、実際そうなると身を切られるほど辛かった。
延々とレツへの想いを吐き出すミシルに、ロータスはいつの間にか自分と重ねていた。
レツへの激しい思慕が、二人の共通点だった。ただしミシルはロータスの胸の内は知らないけど。
「でも…最近はこれでもいいのではないか、と思うようになったの」
ミシルは薄く微笑んで遠い所をぼんやりと眺めた。
「結局彼の元へ嫁ぐといっても、夫は彼一人じゃない…。彼と同等に彼の兄弟も愛さなくてはならないって事…。
勿論、愛する彼の家族だもの。同じように愛そうと思うわ、でもね…」
ミシルはそこで一瞬口を閉ざした。結んだ唇が微かに震えている。
そして大きく息を吐くと、まるで自分に言い聞かせるように話し出した。
「……私、男として…レツを愛しすぎてしまうのが怖いの…」
「え?」
「…私、自信がない…。彼を愛しすぎて…その愛が同じように他の人に回せるという…自信が」
「ミシル…」
「きっと彼の妻になって、彼と肌を重ね合ってしまったら、私、彼以外の人とそうなる事を拒んでしまう…。それじゃ駄目なのよね?ユナの女は…同じように夫を愛する…それが掟なのよね?」
ロータスはミシルが言わんとする事を何となく理解した。
まだ成人も迎えていないロータスではあったが、…そう、何となく想像でわかる。自分だって…好きな人以外に…触れられて我慢できるか…本当は…わからない……。
「だったらまだ決められた人達のところにお嫁にいく方がいいみたい。……そうすればきっと、自分を見失う事もないかも…」
ロータスは何と言ったらいいか、困惑していた。
まだ彼女にはわからない世界だ。
だが、それも一年後には成人になり、そして彼女と同じように結婚という競(せ)りに出されるのだ。……そう、それが…ユナの掟。
ユナに子孫を残す為の…大事な女の仕事…。
「それに私には一生の思い出もあるから」
「思い出?」
突然明るく言い放ったミシルにロータスは怪訝な目を向ける。
先程の諦めに憂いだ表情ではない、何かを思い出してうっとりとしている彼女の顔は、女の顔そのものだった。
「そう、思い出」
ミシルは弱々しく笑うと、スカートについた葉を払いながらゆっくりと立ち上がった。
「ありがとうロータス…」
「え?私は何も」
戸惑うロータスに手を貸しながら、ミシルは彼女を立たせると同じようにスカートの汚れを手で払ってくれた。
「私の話を聞いてくれてありがとう…。昔馴染みのあなただから話せたのね…それに…今の話は、内緒、ね?」
優しい声は昔のままだ。ロータスは思わず頷いた。…誰にも話せない…心の内を自分に話してくれた…彼女のために。
「自分の勝手で…話したのに…本当にありがとう…。これで私も踏ん切りがついたわ」
「そんな…」
「ハンカチ、洗って返すわね。…婚礼が終わってからになってしまうけど」
「いいえっ!いいです。そんな…捨てちゃっても」
「そうはいかないわ」
「本当にいいんです。…だって…結婚してしまったら色々と大変でしょう?…」
「でも…」
「では、いつでもいいです。私がここにいる間に…覚えていたらで…」
じっと見詰めていたミシルが、ふっと笑った。
まるで本当に妖精のように儚げで、男なら誰でも彼女を愛し、守ろうとするだろうなぁと、ロータスは感嘆な思いで見つめ返した。
「綺麗になったわね、ロータス」
「へ?」
いきなりそう言われてびっくりして目を見開いた。…きれい?私??
そういえばセツカも同じ事を言っていたっけ。でもあれは社交辞令みたいなものだし。
「……私の話を聞いてくれたお礼に、いい事を教えてあげる」
彼女はそう言ってきょろきょろと辺りを見回し、誰もいないのを確認すると、ロータスの耳に口を近づけた。
「もし、あなたに意中の人がいるのなら」
小さな声だったが、ロータスにははっきり聞こえた。
「成人の儀式で最優良を取りなさい」
ロータスは意味がわからなくてぽかんとしたままミシルを見やった。
「いい?これは本当に内緒の内緒なんだから…。
私が恋に悩んでいたのを知った年上の友人が教えてくれたのよ」
そして彼女はもったいぶったような感じでこう続ける。
「儀式について、詳しく習ったわよね?」
「ええ…、あ、はい」
「儀式まで一年あるわ。だからまだ充分間に合う。
…儀式は大人の女になる為の過程であり、女としての課題が出るのは知っているわよね?」
ロータスはコクコクと頷いた。何だろう、何かとてつもない事を聞かされるような気がする。
確かに女…というよりも良き妻、良き母としての心得や生活などの実技、今まで女舎で学んできた事全てを試されると聞いている。
つまり女の成人の儀は花嫁学校の最終試験のようなものだ。…そう、試験と同じで…。
「平均点よりも上が良で、その上が優良…そうやって点数をいただくのよ。勿論中には落第点の子もいるけど、それは何とかできるまで成人の儀はお預けになるけど、まぁ、今まで習ったことだから大丈夫よ。
……私が言いたかったのは、優良の更なる上、最優良を取る、という事。
つまり、最優良ライン以上の点数を取れば、恩恵が賜るの」
「恩…恵?って?」
「………これは儀式の相手を決める時に教わると思うけど、相手の決定権は女にある、って知らないでしょう?」
「え!そうなの!?」
「しっ!声を落として」
ミシルは自分の口に指を1本押し当てるとまた周りの様子を窺った。
「そうよ。……女は嫁ぎ先については決定権はない。だからこその恩恵よ。
それでも段階があって、これはその成績を取った者しか伝えられないのだけど、例えば普通の成績ならば自分の好みを申請する事ができて、それを機関に提出すればそれに見合う男性があてがわれるわ。
相手は勿論、後腐れのない自分と関係性のない男性。本当に名前も素性もしれない、その場限りの人。ただし、ちゃんと機関は把握しているけどね。…どうしてかというと、15の誕生日を迎えて機関が計算する“子供のできない時期”を選んで儀式をするのだけど、それでも女の身体はデリケートだから、できちゃう事だってある。…まぁ、あまりないみたいだけど」
「結婚前に赤ちゃんができちゃうってこと?…その子はどうなるの?」
「ちゃんと産むようよ。…でも、その子は共同養護施設で育てられるらしいわ。よく知らないけど」
「……そうだったんだ…」
確かにそういう細かい事は授業ではやらなかった。
「そして優良を取った場合は、もっと選択肢があるの」
「選択肢?」
「そうよ。好みのタイプを申請すると、候補者が数人選ばれるの。その中からいいな、と思う人を選べるのよ」
「はぁ…」
「男性は女性がそうやって初めての男を選ぶとは全く知らされていないわ。…その方が、何かと気持ちのトラブルが少なくて済むから、って…言っていたけど…。
中央もよく考えてこの制度にしたようよ。……だってユナでは女が少なくて…男を選ぶ事は許されないのだから。
だったら初めての相手だけは、女性の好みを優先させたい…と、そんな所だと思うわ」
「でも、どうして成績の違いで…選択肢が変わるの?」
「……ユナの女は妻となり母となったら、その責務を全うしなければならない。
…だから尚更、その意向に沿えない女性は中枢部(政府)が信用できないからじゃないかしら…」
ミシルは含んだような言い方をした。ロータスにはよくわからない、と思った。…信用できない、ということは、成績の低い女は…ユナの女として失格だというのだろうか?
「…だから最優良を取ると、更なる恩恵をいただけるのよ」
「更なる…って?」
ミシルは一呼吸すると、ゆっくりと言葉を噛み締めるように言った。
「…最優良を取った女性は…この先“家”の妻として道を外さないだろうという、中枢部からの特別の恩恵なのよ。
それは…」
ロータスは息を詰めた。
「…そう、儀式の相手に個人を選んでもいいのよ!」
ロータスはつい先程聞いたミシルの話が頭から離れなくて、ふらふらとそのまま宮中に向かった。
宮中に通じる道に差し掛かると、奥の庭園の方から団体が綺麗な列を伴ってやってくるのが見えた。
彼らはロータスとは別の方向に行くようで、彼女の姿に気がつかず、そのまま反対方向に歩を進めていく。
それは長の方の近衛隊だった。
ぼうっとその姿を見送るロータスの目に、見慣れた横顔が飛び込んできた。
(レツ…!)
彼はいつもと変わりない表情で、隣の同僚らしき青年と話しながら歩いて行く。
その姿に彼女の胸は激しく高鳴り、ただ、ただ彼の凛々しい姿を見つめるばかりだ。
《……そう、将来間違いを犯さない、という契約書を書かされるけど…。
もう結婚したら夫達以外の男性とは姦通してはならないでしょ?
だからこそ、最優良を取った者には最後にこう聞かれるのよ。
“…成人を迎えている男の中で、誰か指名する人はいませんか”……って》
ミシルの言葉がぐるぐると頭を駆け巡る。
《いなければそれはそれで。…でも、いるのだったら…そして成人している男の人だったら…。
自分の初めての人を、最優良を取れば、自分で指名できるのよ!
…もちろん、相手の人はそんな事知らされない…。
それでも…。
思い出だけは…残るわ。…痛みと共に…。切なさと共に…》
ミシルの切なげな艶やかな声。
彼女は思い出している。その相手との一夜を。
生涯で一度だけになるかもしれぬ、その夜の事を。
その相手を……わかっていたからこそ、ロータスは声に出して聞けない。怖くて、苦るしくて。
《……いっそのこと、彼との子を身ごもりたかった。……でも、残念だけど、叶わなかったわ》
ロータスは自分の視界から離れて行くレツの背中をただ呆然と見ていた。
……まるで、自分の知らない男の人がそこに存在しているようで。
この張り裂けそうな思い、どうしたらいいの!?
その叫びが届いたのだろうか。突然レツが後ろを振り向いた。
ロータスはびっくりして目を見開く。
──彼が、レツが─…ロータスの姿を見つけて……笑いかけて手を振った。
口元が、 あ と で ね ──と、言っている様に動く。
そしてそのまま彼は前を向くと、仲間達と何事もなく去って行った。
残されたロータスは彼の姿が見えなくなると、耐え切れなくてその場にしゃがみ込んだ。
好きだ───。
私はレツの事が…大好きだ──。
それは一人の男として。ロータスにとってただ一人の異性として──。
(私…)
自分の意に反して奮える身体を、ぎゅっと自分自身で抱き締める。
(私、絶対最優良を取る)
それは彼女がユナの女として生きる覚悟を決めた瞬間だった。
女が好きな人の元へ嫁ぐことの可能性が少ないのなら、せめて私だって一度でいい、そのチャンスがあるのなら…私は…。
怖い気持ちがない、とは言えない。
もしかしたら一度彼とそうなって、彼を忘れられなくて一生地獄の苦しみを味わうかもしれない。
それでもしないよりはした方が数倍後悔しないだろう。
こうして彼女はユナの模範的な妻になるという事を心に誓ったのだった。
今まで外に向けていた情熱を、これからは女として妻として母として完璧になるために注ごうと決めた。
…………たった一人の男のために。
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