ちりり、と肌が粟立つ感覚にアムイは思わず息を詰めた。
目の前でセツカが説明をしている。その言葉を耳にしながら、もう一つの意識は他のところに囚われていた。
じりじりと這い上がってくるその感覚に……アムイは浮遊するロータスの霊魂に問いかけながら、隣の相方に視線だけを走らせた。
「私が島に着いた時、すでに祈願夜(きがんや)は終わっておりました。
そのまま私は彼女の姿を捜そうとしたのですが……。
もうすでに砦内では、彼女の姿が見えないと大騒ぎで、ガラムや彼女の夫達があちこちに捜し回っていた最中でした。用事で島に来たと言った私は彼らと合流し……」
キイもアムイの視線で、今、彼に起こっている現象に気がついた。ちりっと粟立つその感覚がシンクロし、何を訴えているかを如実に訴えている。だが、表は真摯にセツカの話に耳を傾けている。
「結局彼女は外に出たのかと、くまなく捜しましたが見つからず、とうとう最後に残った外界の扉に向かい、そこで彼女の無残な亡骸を発見した、というわけです」
その毛穴が沸き立つような感覚がどんどん濃く、激しくなってきた事にアムイは“気”を集中させる。
近くにいるはずのロータスの霊魂が動揺している波動を強く感じた瞬間、確信した。
「……来る」
それは本当にささやかな独り言、多分近くにいたシータも目の前にいるセツカ達すら届かないほどのささやきだったが、アムイの波動を感知しているキイにははっきりと聞こえた。
────その刹那、
「アムイ!」
振り絞った悲鳴のような少女の声が静まっている館内に響き、それを合図にするかのように二人の男は瞬時に動いた。
それは阿吽の呼吸とも言える、まるで示し合わせた俊敏かつ無駄のない動きだった。
キイは電光石火のごとく全く躊躇のない動作で、叫んだ少女に一身に向かい、アムイは己自身に向かう殺気と対峙するべく、剣の鞘に手をかける。
少女──イェンランを目指して走るキイは途中で大柄で黒髪の男とかち合うが、そんな事には目もくれず軽々とその男を飛び越えた。顔面を蒼白としている彼女の元へと突っ込むと、そのまま全身で庇うように覆い被さるように抱きかかえる。
──それも一瞬でのできごと。
当の彼女は唐突に揺さぶられ、すっぽりと鍛えて弾力のあるキイの腕に収まって、驚きで声にならない声を上げた。思いもしなかった彼の優しい花の香りにすっぽりと包まれたイェンランの小さな胸は、これ以上ないくらい大きな鼓動を打つ。
かたやアムイに向かってくる殺気の主は、初めのゆっくりとした足取りが、イェンランの叫びで弾かれる様にスピードを上げ、突進してきた。途中で自身の上を飛び越えたキイを掻い潜り、男は余所見もせずに一点に突っ込む。
無論、彼の目標は暁の明星。
青白い彼の刃(やいば)が宙を舞い、対象に向けて激しく振り下ろされた。
ガキン、と鈍い音を立てて、男の刃が阻止される。寸でのところでアムイの抜いた剣が男の攻撃を食い止めたからだ。
その刃(は)の下でアムイが男を見上げていた。闇夜のような男の双眸と底知れない色を湛えたアムイの黒い瞳が交差する。
「レツ。レツ=カルアツヤ」
食いしばった口元から、相手の男の名が放たれた。それは潰れてまるで唸るような声だった。
「暁、決着をつけに来た」
焼け付くような眼差しと打って変わって彼の声は淡々としていた。
「話をしたい、と言ってもあんたは聞いてくれなさそうだ」
アムイはレツの暗い目に宿る憎悪を認めて眉間に皺を寄せる。
「ない。話すようなことなど、何も」
即答だ。
次の瞬間くるりとレツは剣を回しアムイの剣を器用に外すと、間髪入れずに横腹に斬りかかる。それを絶妙なタイミングで回避したアムイもまた、隙のない動作で彼の剣を受けながら斬り込んでいく。
「やめなさいっ!」
セツカもまた、レツの存在を感じていたのだろう、いつの間にか後ろ手に回ってレツの背後に棒を突き立てていた。
「レツっ!」
この状況に動転しているのはガラムだけだった。取り乱して駆けつけようとした彼を、シータが静かに肩を掴んで引き止めていた。焦れるガラムは懸命にその手を払おうとするが、驚いたことに彼の力でさえ、シータの手は微動だにしなかった。
この見た目は女性と見間違うほど華奢な人の、どこにそんな力があるのだろう。とても信じられない。
「離して……」
頭を左右に振りながら情けない声を出すガラムに、シータは普段とは違うやけに丁寧な口調で語りかけた。
「落ち着いてください、ユナの未来の長よ。
どうかこの状況をよくご覧になり、ご自分自身の目で見、確かめ、冷静なるご判断を」
高くもなく、低くもないその朗々たる淀みない声に、不思議とガラムの心の揺れが静まっていく。少しづつ冷静な自分を取り戻し、そのわずかに戻った客観的な自分が己自身の心の分析を始めた。
そう、ガラムにとって自分自身の観念が覆してばかりの出来事が重なっていた。
何年も仇と信じて復讐しようとしていた相手が違うということも、自分が盲目的に信じてきたことに対して隠されていた事実が存在していたことも、信頼しきっていた身内にも見えない闇が存在しているということも……。
自分自身の価値観や考えがガラガラと音を立てて崩れていく。その恐怖と自分自身の軸への喪失感。本当を言えば、何を信じていいのかわからなかった。だから錯乱した。
自分はずっと、一族の者を信じ切っていた。それは基本だからだ。身内を信じないで誰が信じる。
またそうでなくては、一族の頂点とはなれないのではないか。ガラムはそう頑なに思っていた。
だが。
事実は違っているようだった。
どのくらいの真実が判明したのか、まだセツカの報告は途中だったために不明ではあるが、その結果にガラムは裏切られた思いを感じていた。……よそ者ではなく、犯人は身内に……。
「ガラム様」
自分の思考を遮るかのように、彼は突然名前を呼ばれた。
ぎくっとしてその声の主に顔を向ける。艶やかな化粧のために、間近で見ても女性と違わない美しい顔、琥珀のような茶色の瞳がじっと彼を見つめている。
その瞳は有無を言わせない鋼の強さが見て取れる。だが、反して彼の言葉は無理強いなどしない、とても柔らかなものだった。
「この世の中に、絶対、はありません。
大切なのは、何が真実でそうではないか。
起こってしまったことに対して、どう向かっていくか、ということだと思います。
信じることはとても大事です。それでも世の中は思ってもみないところへ流れていくことのほうが多い。裏切られることもあるでしょう。こんなはずではなかったと思うこともあるでしょう。
その時に長を頂く者として、どのように見、判断し、対処するか。
将来、一族の長にと願うのなら、どうか冷静に、自分がどういう態度をとればいいかをお考えください。
……もし自分が今、ユナの長であったならどうするか、を」
ガラムはまるで金縛りにあったように動けなかった。
自分は。
個人的な復讐のために……この四年間、何をしてきたんだろう。
ユナの長になる……その夢は初めからあった。
でも、姉が無残な死に方をしてから、ずっと己の心を占めていたのは憎悪だった。
長になると言いつつも、自分の優先順位はいつもどす黒い復讐心。長になるための鍛錬も、その延長線上には姉の仇を打つ、という感情が占めていた。
ならば姉の夫であるレツ、は?
ガラムは気が付いた。そう、まだ真相は解明していない。
もしレツが姉を殺めたのならば、暁に対するあの執念は何だ……。
若いガラムには到底想像もつかない、大人の事情というものがあるのだろうか。
「はっきりさせないと」
ガラムの呟きにシータの片眉が微かに動いた。
「……真実を……知らなければ……俺は判断できない」
「真実を」
「そうだ。……レツに聞かなければ……なぜ、扉の鍵を持っていたのか、あの夜何があったのかを」
その声には、先ほどの情けなさを微塵にも感じさせない、力強いものだった。
シータはそっと安堵の溜息を洩らす。そして唇の端をゆるりと上げると落ち着いた声でガラムに言った。
「ならばお確かめください。貴方の目と耳で、そして心で。個人ではなく、上に立つ者として。
……それが将来、貴方にとって一族の頂点となるための礎となりましょう」
そう言い切ると、シータはゆっくりとガラムの肩から手を離した。
..........................................................................................................................
とにかく。
この状況はどう考えていいのか。
全身で自分を守るかのようにすっぽりと彼の腕に抱かれているイェンランはかなり動揺していた。
頭を抱えられるようにしてキイの胸元に押し付けられている彼女の頬に、どくどくと彼の心臓の音が伝わってくる。
そろりとキイの顔を見上げると、キッとした眼差しで前方を睨む美しい横顔がある。
ズキン、ともドキンともいえる大きな躍動が全身を駆け巡る。それに伴い、彼女の全身はかぁっと燃えるように熱くなった。
(どうしてっ)
イェンランは真っ赤になって俯いた。
(どうして、どうして??何でこうなってるの?)
思いを寄せる相手と密着していることもそうだが、それ以上に彼女は腑に落ちない。
何故キイがここにいるのかを。自分の傍になぜに?
いや、頭の片隅ではわかっている。彼は自分の悲鳴を聞いて駆けつけて来てくれた。
自分を助けに来たのだとも理解できる。
……でも。
あの侵入者は確実にアムイを狙っていた。
アムイに危害を及ぼそうとしているのは明白で、部外にいた自分よりも彼を第一に守るのが普通だと思う。
事実敵は自分なんかにも目もくれていなかった。(冷静に今ならわかる)
もしもっと早く叫んでいたら、邪魔だとして斬り捨てられていた可能性もあるだろう。でもあの時点では自分よりもアムイの方が確実に危険に晒されていた。
だからそれを教えるために自分はアムイの名を叫んだのだ。その叫びの中には、アムイを助けてという意味だって含んでいた。
……それなのに。
イェンランはときめいてしまう自分に悪態をついた。
自惚れてはいけないと思いつつ、それでも嬉しいと思ってしまう自分が浅ましい。
あんなに男に触れられると恐怖のあまり身が竦み、気分が悪くなる自分が、彼の腕の中で蕩けるような気分で安堵しているということも──、いや、それ以上にアムイを第一に考えてる筈のキイが躊躇なく自分を守りに来てくれた、という……喜びが勝る。
頭の片隅では、女に甘くて優しいというキイなら自分でなくてもそうしたかも……という考えもあるにはあるが、まるで大事なものを守るような彼の行動に、イェンランは眩暈を感じるほどの愉悦に襲われた。
イェンランの理性がその時ぷつりと切れた。
もう、勘違いでも何でもいい、────素直に……嬉しいっ!
舞い上がったイェンランは身を震わし、気持ちがふわふわしてくるのに抗えなかった。
その彼女の様子にふと気づいたキイは、彼女がぷるぷると震えているのを、恐怖からと思って険しく眉をひそめた。
「大丈夫か?お嬢ちゃん」
労わるようなキイの声に、イェンランはぼうっとしてしまう。
それがキイには恐怖のあまり声が出ないと目に映り、そう判断した。
いや、もう、女扱いに慣れているはずの天下の【宵の流星】も、乙女心にはいささか疎いようである。
キイは苛つくような重い溜息を吐くと、鋭い目で室内で戦い始めた男達を睨みつける。
ちょうどその時、セツカの制止を払うレツの姿がキイの目に映った。
鬼気迫るレツはそのまま再びアムイに襲いかかり、凶器を振り回した。アムイはそれを受け、自衛を取れども自分から攻撃をしかけない。それにレツが憤ったようだ。
「戦え、暁!この期に及んで逃げるんじゃない!四年前同様、お前はまたしても逃げるつもりか!!」
その言葉にセツカがはっとする。「何を……」
アムイは冷静にその言葉を受け止める。事実、アムイは逃げた。あの四年前、いくらロータスの願いだったとはいえ、彼女が亡くなった今、それは言い訳にしか過ぎない。だがそれ以上にアムイにはレツに伝えなければならないことがある。逃げるなど、今はそのような気持ちはない。
「違う、レツ=カルアツヤ!俺はお前と話がしたい。いや話したいことがある。だから──レツっ!」
「話すことなど何もない、暁。俺はお前の命をロータスの元へと送りたいだけだ」
「!」
レツの燻るような狂気の眼差しに一瞬悲哀が揺れて消えた。その言葉にセツカの慄くような声が割って入る。
「レツ……レツ!何てことを……。この方がどういう方か」
「知っている」
きっぱりとセツカの言葉を遮ったレツの口角がゆっくりと上がる。セツカはその彼の様子に一瞬言葉を失った。
「さっきお前たちの話を聞いていた」
「ならその重要性はお前だってわかっているはず……」
「それが何だ?」
有無を言わせないほどの硬質な声。セツカの瞳に絶望の色が浮かぶ。
「神王の血筋だからどうなのだ?こいつはロータスの慈悲につけこんで生きながらえてきた。……この男の命は彼女のものだ。だから俺は……」
ガキン、と金属の音が交差する。「お前を許すわけにはいかない」
再び激しい攻防が繰り広げられた。アムイはレツの剣をかわし、何とか会話しようと試みる。セツカもアムイを守ろうと暴走始めるレツに食らいつく。
それを少し離れたところでじっと見守る形のガラムとシータ。
ガシャン、と宿の装飾品が割れ、その音にイェンランが無意識のうちにびくっと身体を竦める。
その様子を間近で感じ取ったキイの目が吊り上がる。
憤怒が頂点に達したようだ。
「いい加減にしろ!」
まるで地鳴りを起こすかのような怒声。
はっとしたのはアムイを守ろうとレツに食らいついているセツカだ。
怒鳴ったにも関わらず、まだ剣を交えている二人に、まるで地獄の魔王のような形相で厳かにキイは言い放った。
「おい、出て行け!ここに迷惑かけんじゃねぇ。争いは外でやれ」
「宵の君!」
セツカはぎょっとした。てっきりこの争いを止めてくれるものと思っていたのに、彼はただ出ていけ、と。
つまり喧嘩は外でやれ、ということだ。
セツカは信じられないような目でキイを見た。だが【宵の流星】がこの事態を止めるつもりがないことを彼の表情でセツカは悟った。
「出よう、外に。心配しなくても俺は逃げるつもりもない」
キイの言葉を受けて、アムイは静かにレツの目を見つめながら言った。もちろん、レツの剣を受け止めて。
憎悪の表情でアムイを睨んでいたレツは、しばらくして「出ろ」とぼそりというと、急に身をひるがえして玄関の扉から、そのまま闇夜に姿を消した。
「暁の君……」
不安そうなセツカに、アムイは片手を軽く上げると、意を決したようにレツの後に続いた。
「宵の君!よろしいのですか?暁の君は……」
珍しく慌てているセツカに、キイは気難しい顔でこう言った。
「心配しなくていい。俺はアムイを信じている。
ただ、真実を明かす人間として、君はこの戦いを見守って欲しい。
ただし、手出し無用。
どうか……あの狂気に走っている男に、真実を伝えてやってくれ」
はっとしてセツカは何か言おうと口を開いた。だが、それを遮るようにキイは確信めいた言葉を続けた。
「もう一人、真実を必要としている人間と共に、な」
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