暁の明星 宵の流星 #188の①
#188-①
禍々しい、どす黒い闇が相手の魂から立ち上っていくのを、アムイは悲痛な思いで感じていた。
ユナの、最高の使い手と英雄視されている男だ。その男が本気を通り越して狂ったように自分に向かってくるのを、アムイは必死で応戦するしかない。もちろん、“気”を使う事はこの場ではできない。リシュオン王子が密かに北の要人に頼んで匿ってくれている場所を波動攻撃で滅茶苦茶にするわけにはいかない。
それよりも相手の男がそれを防ぐ結界を扱える事は、前の対戦でよくわかってる。
キン、と鋭い音を立てたレツの剣の勢いはアムイを圧倒する。そう、彼とは本当に腕ひとつだけで立ち向かうしかないのだ。
だが、とアムイは奥歯を噛み締める。どうしたらよいものか。どうやってこの正気をなくしている男に、真実を伝えるか……。ありのままぶつけて彼が信じてくれるのか。この不器用な、そして互いを思いやり過ぎてすれ違ってきた夫婦の、哀しい真実を。妻の……本当の気持ちを。
《……後悔……してる》
哀しいほどの彼女の思い。最後の最後で、たったひとつこの世に残してしまった未練。
その彼女の気持ちを、アムイはどうしてもこの男に伝えたい。
「レツ=カルアツヤ、聞いてくれ!」
とにかく、とアムイは剣を交わしながら叫んだ。自分に対する憎しみで溢れているこの男が聞く耳を持つ可能性は……ほぼないであろうが。その話を信じてくれる可能性も……。
いや、とアムイは心の中で頭を振る。だが知ってもらわなくてはいけないのだ。この男のためにも、彼女のためにも。
「何を聞けというのか!この期に及んで戯言など聞きたくない」
顔を近づけるようにガキッと剣を交差させ、レツは唸るように吐き捨てた。
「あんたがこうまでして俺を憎む気持ちはわかる!もちろんロータスの死も……俺が関係していた事は、重々受け止めている。
だがどうしてここまで俺を憎むのか、俺をどうしたらあんたの気が済むのか、今一度はっきりと教えてくれ、レツ!」
耳障りな金属音が闇夜に響き渡ると同時に、戦う二人の影が弾かれるように離れた。
「……教えろと?お前が一番よく知っているだろう?……」レツは怒りで目を眇める。
「よそ者のお前がロータスと通じていたのを、夫の俺が知らないとでも!!」
そう激昂し、レツはもの凄い速さでアムイに向かって来た。
キィィィーン!と鳥肌立つほどの音を立て、彼らの剣は火花を散らし、何度も何度も叩き込まれていく。
「違う!それは誤解だ!」
その金属音に混じってアムイの叫びが辺りを引き裂く。
「しらばっくれるな!!」
「俺はロータスと何もない」
「嘘をつくな!」
レツの脳裏にあの時の言葉と、彼女のしどけない姿が鮮明に甦る。
***
まさか、と思った。
警備が手薄になるだろう祈願夜(きがんや)に何か起こすかもしれないとは考えついていたが、ユナの模範的な妻という彼女がまさか本当に実行するとは思わなかった。
彼女を──葛藤すらあれ、幼い頃から知っている愛する女を、レツはずっと信じていた。
それが。
レツは今、外界への扉に通じる部屋で、今しがた男と情を交わしたようなあられもない姿の自分の妻を、ただただ声もなく見下ろしていた。
服は乱れ、胸元は引き裂かれて彼女の豊かな胸がきわどい所まで覗き、髪を乱し、怯えるような緑の瞳は濡れて周りが赤くなっている。唇は何度も口付けを交わした証のように赤く腫れ、その首隙に男が残していったと思われる赤い花が咲いている。
決定的だったのは、彼女の足に伝う情事の名残りだった。
妻の足元に小さく広がる白液の溜まりを見た瞬間、レツの何かが音を立てて崩壊した。
『レツ…』
どうしてここに?という彼女の怯えた表情にレツは絶望し、気が付くと、彼女の細い首を絞めていた。
***
「俺は知っている。お前が彼女と深い関係だったと。あの祈願夜の夜も、お前と情事にふけっていたんだろう?お前を逃がすために扉を開け、最後の情を交わしてお前は逃げた。……まさか夫である俺がその事後に現れるとは、彼女も思っていなかったんだろう、酷く動揺していた」
あの夜、何故か長官に押し付けられた仕事で砦を出たレツは、どうしても嫌な予感に苛まれ、普段よりも数倍の早さで仕事を終えると、急遽休まず砦に戻ったのだ。
さすがに祈願夜の最中で、皆、祈りに集中していて砦内はひっそりとしていた。嫌な予感そのままに、レツは妻が軟禁されていた部屋を覗き、そして処刑されるであろうよそ者が監禁されている部屋を見て、予想が的中した事を知ったのだ。
妻と男の姿がない。
という事は、おそらく二人はこの機会に砦を脱出するつもりだろう。
海か、山か。……船で出ようとするならば、今自分が入り江に侵入した時に確認したが、その気配はなかった。ならば山側の…外界の扉しかないだろう。もちろん、彼女がその扉の鍵を持っているならば、だ。
レツはさっと確認した。弟のシキが外界から戻ってきて祈りの最中だという事を知る。ならば鍵の行方は内情を知る者だったら容易くわかる場所に一時保管されている。
……誰も、二人が抜け出ていた事に気が付かなかったのか。いや、これが祈願夜というユナ独特で特殊な夜なのだ。
その重要性を知っている自分が、祈りもしないでこうして自由に動き回っている事に自嘲する。大樹の恩恵など、今はどうとでもよかった。とにかく、妻と相手の男の行方を追わなければ、とレツは焦った。もしかしたら、ロータスは男と逃げたのではという、恐ろしい考えに気が狂いそうで。
「だから!俺は彼女とは何でもない!純粋に逃がしてくれただけだ」
「言い逃れするつもりか!」
「違う!聞いてくれ、レツ。彼女は俺の事、ただ元神王太子の子息ではないかと疑っていた。俺には言わなかったが、その疑いがある種の確信となる前に俺の処刑が決まってしまったから……」
アムイは顔を歪めた。
「ただ俺の命を救いたくて、彼女は無謀な行動をしたんだ。だが、それだけだ。俺は彼女とは何も」
レツの目がぎらつく。それだけ、と?充分ではないか。あの彼女が罪を覚悟して救おうとした男。
「命を救われるだけでも充分。ただ命を救いたいからと罪人覚悟で彼女はお前を……。これ以上の愛があるか?夫も子も捨て、名誉も平安な暮らしも捨て……あのような生き地獄が待っているのを承知で処刑されるお前を逃がした。……その意味を」
大きな感情のうねりがアムイを圧倒する。
「お前はわかっているのか」と激しい嘆きがレツの口から放たれた。
その深い闇に、アムイも、そしてそれを聞いたガラムも氷の塊をぶつけられたかのような、心が抉られる痛みに怯んだ。
「お前はユナの女である俺の妻を穢した。それだけでも死に値するというのに、何故、神王の直系だからと許されるのだ。
ロータスがお前の命を乞いで死んだとしても、俺はそれを許す事はできない!」
***
彼女の緑の瞳が苦痛に揺らぎ、嫉妬と絶望に歪む男の顔を映す。
段々と顔色を失っていく彼女は一瞬、観念したかのように目を閉じた。だが、すぐに気力を振り絞ると、男の腕を自分の手で掴んで激しく抵抗した。
彼女を衝動的に殺そうとしてしまった彼女の夫は、その瞬間に我に返る。
その隙を突いて妻は夫の手から逃れ、その反動で地面に転がった。
『駄目…っ』
夫を見上げた妻の頬は濡れていた。
『私を手にかけては駄目』
どのような事情があっても、ユナの女を殺めれば、それは最大の罪に問われる───。
希少な一族の血を残す存在である女を、誰であろう殺める事は許されない。その女が凶悪な罪人であろうと、女は寿命が訪れるまで他人の手で殺してはならないのだ。ユナの女を殺した果ては残酷な責め苦の後、言葉にできないほどの恐ろしい極刑が待つ。
希少な一族ゆえ、掟を守れない者や裏切り者への制裁は他国よりも厳しい。
妻は、その事実を優先した。
目の前の、最も愛する夫のために。
怒りの為に女である自分を衝動的に殺めてしまえば、彼の輝かしい功績と未来が失われる。それだけは嫌だった。もちろん極刑に従う彼の姿も想像したくない。
こんな穢れた自分のために、彼の手を汚させるわけにはいかないのだ。
……一瞬、愛する者の手にかかって死ぬ、という喜びを感じてしまったおのれの浅はかで弱い心を恥じた。
私は、ユナの、模範的な、妻で、この夫の、最高の、妻で、彼を、幸せに、したいから、…………今まで、生きて、きた、のに。
ロータスは本当に自分の浅はかさを呪った。
結局、自分の独断で先走ってしまった結果、このような事態に……彼女が一番巻き込みたくなかった最愛の男に、このような顔をさせ、人を怒りで殺させるような行動を取らせてしまった……この自分が、憎い。
だが、もうすでに遅い。
家族を、特に彼を巻き込みたくなくて──……もちろん、これはユナの中枢の極秘機密に触る部分だとしても──自分一人で行動してしまった結果だ。
自分が撒いた種は自分で刈り取るものではないか?
ロータスは、覚悟を決めた。これ以上、レツを苦しめてはならない。ならばカルアツヤ家の妻として、自分は胸を張って最後まで存在しなくてはならないのだ。だから……──。
***
「それは違う!」
突然後方から闇を引き裂くような叫びが二人に割って入った。
「違うんだ、レツ……」
悲痛な顔でそう呟くセツカを、ガラムは驚きの表情で振り返った。ちょうどガラムとシータのいる場所の少し離れた後方から、緊張した面持ちのセツカがやって来る。
セツカの言葉にひと時剣の交わりが途絶える。両者は剣を突きつけながら駆け寄るセツカに意識を集中させた。
「違う?」
最初に答えたのはレツだった。
「ええ」
セツカは険しい顔でレツを見据えた。
「何が違うというのだ」
そういえば、とガラムは思い出した。今までショックな事が多すぎてうっかりしていたが、セツカ達は姉の死の調査をしていたと言っていた。しかも、つい最近その調査結果が届いたと……。ということは、事件について何らかの真相が暴かれた…ということなのではないか?義兄も、世間も、知らない事実……。
実にガラムの思ったとおり、セツカは皆が知らない真実を持っていた。……ロータスの霊から真相を教えられていたアムイ以外、知らなかった真実を。
セツカは意を決するようにきつくレツに目を向けると、こう爆弾を落とした。
「ロータスはあの夜、ユナの人間に陵辱された。……砦の最高司令官であったリガル=ゾアに」
レツの、ひゅっと息を吸い込む音が闇に紛れた。
***
『いけない娘(こ)だねぇ、ロータスは』
この男の自分を嘗め回すような視線を、気にしてはならない、といつも心に言い聞かせていた。
砦の最高責任者で、自分と父親ほども歳が離れているリガル長官だ。それもそのはず、彼は義父ベン=カルアツヤと同期であり、親友といってもおかしくない男だったから。
だからこの男の事は結婚してから知っていた。いつも会うたび、人の事を厭らしい目付きで見ていく。それも他の人間にわからないように。
義父達や夫達の前では、清廉潔癖な紳士然としているのだが、二人きりになるとすぐに怪しげな視線を不躾に送ってくる。
……この男は…要注意だと、ロータスは常に身の危険を感じていたのだ。
それが……何の因果か、この男が砦を支配する独裁者だという事に、砦に来て自分が罠にかかった獲物のような気がしてならなかった。
その不安は的中した。
この男は、自分を従わせるために様々な罠をしかけていたのだという事を、そしてその罠に簡単に飛び込んでしまった事を、ロータスは悟り、凍りついた。
だから、アムイの事を知らせようとして様々に当たってみた事がことごとく潰されていたのが、今になってわかった。女は政治的な様々な事の関与は許されていない。だから正統な理由もなく勝手に通信機関を使えない。アムイの件を中枢部以外に公表するわけにもいかない。かといって普通に手紙を出そうとしても、長の方に届くまでかなりの時間を有する。ならば自分が本島に戻ろうかとも考えたが、手負いのアムイを残してく事に不安が残る。……そう思って焦れていた所で彼を匿っていた事がばれてしまった。
もちろんロータスは軟禁された。アムイは監禁されてしまった。
その軟禁状態になって、ロータスは背に腹を代えられなくなる。夫であるトルビィが見張りとしてくっついていたが、隙を見てロータスは色々と掛け合った。だが、ことごとく駄目だった。それはどう考えても無駄な事だったろう。
何故なら今囚われているよそ者が、実は滅んだセドナダ王家の生き残りであるという可能性が高い、という事を誰も知らないのだ。いや、知ったとしても簡単に信じるわけなどないだろう。特にこの本島から離れた大陸の一部で暮らしている砦の者達は、中枢部への忠誠よりも自分達の利益の方を優先する傾向があった。
側近から裏切り者が出た、という事実から、よそ者に対し厳しく冷酷になったのはやはりこの男、リガルが長官になってからだ。
『処刑が決まったよ、ロータス』
下卑た笑いを口元に滲ませ、この男はそう言ってのけた。
『でも、ね。もうすぐ祈願夜が来るから血なまぐさい事はできないからね。……その後に執行する事にした。すごい恩情だろ?もちろん可愛い君に免じてだけどね』
男の甘えたような声が癇に障る。気持ちが悪い。
『いい、ね?祈願夜が終わるまで、いい子にしてなければならないよ?……まぁ、最優良で嫁いだ君の事だ、そんな愚かな真似はしないと思うケド……。もし、悪い事をしたら、この私も君に罰を与えなければならないからね』
そう言って嬉しそうに去っていくリガルに悪態を付くと、ロータスは急いでトルビィの元へ急ぐ。ちょうどその時軟禁されている部屋の隣にある談話室で、彼と話をしていたのが妻の出産に立ち会うために急遽本島に戻るという男だった。しかも長の方に提出するという書類も持って。
そこで閃いたロータスは最後の賭けに出た。
急いで部屋に戻ると完結に嘆願書をしたため、そっと隣の談話室を覗く。夫と男は話に夢中になっている。その時天は彼女に味方した。彼らの背を向けている方向、自分から見てすぐ傍にあるテーブルの上に、その書類があったのだ。
男はそのまま船に乗るつもりだったのだろう、書類の近くには鞄に詰めようとしただろう私物も置いてあった。
ロータスは急いで自分の書簡を書類の間に滑り込ませる事に成功し、そしてまるで忍びのごとく、その場を音も立てずに立ち去った。
これで、書簡が長の目に触れてくれれば、処刑の日までに間に合ってくれれば……。
そう、その一縷の希望を持っていたが、とうとう間に合わなかったのだ。
祈願夜しか、彼を逃がす機会はない。そう踏んだ彼女は……思い切った行動に移す。
上手い具合に、まだ砦でのゴタゴタを知らない第三夫のシキが急に帰ってきた。彼はすぐに祈りを始めるために自室にこもった。すれば外界への扉の鍵が、まだ一時置き場にある可能性が高い。その思惑通りロータスは鍵を見つけ、そして……。
『言っただろう?悪いコには罰を与えるって』
好色そうなその男の舌がべろりと唇を嘗め回す様を、ロータスは震えながら見ていた。まるで蛇に睨まれた蛙のように動けない。
『貞淑な妻である君が、外の男のために大事な夜を冒涜してまでこんな事をしてしまうなんて』
男はくすっと楽しげに笑う。そういう男こそ、まだ大事な祈願夜が終わらないこの時間に、何故ここにいる?
『わかっているね、可愛いロータス。君はこれから罪人となる。お前の祖母と同じに。
ならばその罪人をどうしようか、最初に罪を見止めた私が実行してもよいという事だよな?』
ああ、この男の目的はやはり“それ”だったのか……。
罪人、となる事を覚悟して事に及んだのを、この男は見抜いていた。
自分が再びユナの懐に戻るだろうと、よそ者と逃げる事はしないだろうと、この男はわざとアムイを逃がす自分を見逃した。
己の欲望を遂げる為に。
ここから先は誰にも知られたくない、恥辱と絶望と恐怖の時間(とき)だった。
あの卑劣で横暴な男は嬉々として彼女を蹂躙した。恐ろしい、呪いの言葉を吐きながら。
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※すいません!再び途中ですが、急遽更新します。続きの②は明日あたりにでも!訂正は夜行う予定です。長く更新が空いて申し訳ありませ~ん(涙) ……3/18・すぴばるにてのつぶやき
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