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2013年4月

2013年4月28日 (日)

暁の明星 宵の流星 #190の③

#190-③

彼は、自分を愛しているからそう言うのではない。いや、家族としての愛情を彼はたくさん与えてくれた。──こんな自分のために全てを捨てて……。
でも、それは絶対しちゃいけないことなの。
あなたにこんな裏の人生を……、命を完全に狙われるような暗い選択をさせてはいけないの。
私のせいで、あなたが落ちていくなんて、絶対に嫌!!

ああ、レツ。

同情でもそう言ってくれて、嬉しかった。

最後に夢を見せてくれてありがとう。

だからって、私はあなたの申し出を受け入れる事は絶対にできない。 

……あなたを子供の頃から愛している、という思いを抱いたまま……伝えずに私はこの世を去った方がいい。
これ以上、あなたを巻き込みたくない。
だから……だから……。


+ + +

レツは呆然と流れ出る血を見ていた。

『触らないで!』

確かに、最後、……ロータスははっきりと言った。
レツに対してはっきりと……。

『もう、私に触らないで!あなたに触れられたくない!』

まるで自分を汚いものでも見るように、顔を嫌悪で歪め、自分の腕から抜け出すロータス。
まるで自分のことを夫ではなく、彼女を無理矢理陵辱しようとしている男に対するような……侮蔑と激しい、拒否。

今まで彼女からこんな態度をされた事のなかったレツは怯んだ。だから反応が遅くなった。その一瞬の隙で、彼女が机に置いてあった護身用の剣を取り上げたのを許してしまった。
『ロー……』
『来ないでぇぇっ!!』

それはロータスの最大の強がりで、演技で。彼を完全拒否する為には自分が彼を嫌わなければならないほどに。そうでもしなければまた再び、レツの温もりを求めてしまう。彼に触れてしまえば、その逞しい胸に抱かれたくて何も考えたくなくなる。……それが、怖かった。
これはレツのためだから……、と何度も自分を奮い立たせる。だから私のできる事は。

『もう、私に触れないで!もう、私のことは忘れて!!』
『何を?──っ、ロータス!』

『もう、誰も私に触れて欲しくない!』

 怖かったから。ただ怖かったから。あなたの存在が私の決心を鈍らせる事が恐ろしかったから。
 だから酷い事を言った。そして酷い仕打ちをした。
 あなたの目の前で、私は完全にあなたを拒否した。──己の胸を一思いに、躊躇なく突いて。
  
それが、あなたのためだと……私は本当に思っていたのよ……。

+ + +

崩れ落ちた彼女の死体を、レツはそっと仰向けに寝かせ直した。その目の色に何の色も見えない。
剣を握り締めていた彼女の手を、硬直する前にはずしてやる。血はその胸からじわじわと流れ、彼女の身体の下に血溜まりを作っていく。
もう何も言わない唇に、レツは最後の口付けを落とした。

触らないで、と言われたが、レツはその最期の彼女の叫びを無視した。
男として愛されているなどとは思ってはいなかったが、最後の彼女の態度にレツは何かが砕け散った気分だった。
それでも彼女を愛しているという事実は消えてはなくならない。それ以上に──。

彼女の胸元をまさぐると、扉の鍵が手に触れた。血糊のついたその鍵を、レツは無言で自分の懐に忍ばせた。

そして彼は無表情のまま、先程自分が破った彼女の遺書を握りつぶしながら"外界への扉”のある部屋を後にした。
これで。彼女が何者かに襲われ、殺されたと思われるだろうと確信して。

それで彼女の一番庇い続けた男が真っ先に疑われようが、レツにはどうでもよかった。
遺書にはその男の行く末と処遇に心を砕き、命乞いの部分では相手への思いが溢れていた。だから破った。
長と、大樹の管理官に宛てたその正規の遺書は、宮仕えの長いレツにはどのくらい重要なものか熟知していた。だけど、あえて無視する。
──彼女は……夫である自分ではなく…よそ者の男を取ったというその事実に打ちのめされていたから。
あの男に、そんなに操を立てていたのか。夫である自分を死ぬまで拒むほどに。
男に愛された身体を、そこまでして自分に触れて欲しくなかったのか…。そうとしか思えなかったレツは暗い眼差しのまま森を抜け、海に出た。夜が明けるまでに血のついた服を処分し、海水で簡単に身体を洗う。
波止場につけていた小船には、自分の荷物が置いたままだった。彼はその小船で必死の思いでこの砦に帰ってきたのだった。
レツは薄明かりに変わりそうになる水平線を感情のない目で眺めながら、新しい服に着替えた。そして無表情のまま自分の部屋に戻る。──何もなかったような顔をして。


本当は絶望と怒りと虚無感がないまぜに混ざり合い、レツの心を徐々に蝕んでいた。
彼女の存在が彼の様々な真っ黒な感情を今まで抑えていてくれた。だが、もうその彼女はこの世にはいない。
誰も、レツの心の闇を抑える者がいない。唯一の、彼の良心は死んでしまった。──もう、涙さえ出ない。

彼を動かしているのは、ただ一つ、彼女を死まで誘ったよそ者の男をこの手にかける望みだけだ。

許せない、とレツは思った。彼女は死んだ。なのに彼女が命をかけて救った男が何食わない顔でのうのうと生きている事が許せなかった。彼女の思いを知っているのなら、何故共に死ななかった、と。
それよりも何故彼女をユナに戻した。何故……どうして彼女と共に生きてくれなかった……。

だからレツは自分の目的を実行するまで、この世にいようと思った。彼女のいないこんな世界にいたくもなかったが、何もせずに死にたくなかった。
レツにとって、死に方なんてどうでもよかった。ガラムが危惧していた自殺を避ける為に謀反人となって咎を受けるという事は気持ちの中に少ししかない。ガラムがどう感じていようが、レツの最終目的はアムイの死だ。それさえ叶えれば後はどのような形で死んでもよかったのだ 。──ユナにとって屈辱的で─大樹からしては反逆的行為とされる自殺でも、何でも。例えそれでユナの源に戻れない魂となっても、彼女の魂に会えなくても、それでもいいとレツは思った。彼女だって、約束を守らなかった自分を軽蔑するだろうから。
──彼女に嫌悪の目で再び見られたくない───。


+ + +

レツはゆっくりと微笑を口元に浮かべた。

先ほどまで何も見ていなかった目は、今、じっとアムイの顔にしっかりと焦点が定まっている。

誰もが息を呑んだ。この静寂が何故だか恐ろしい。二人の間にある緊迫した空気は、恐ろしいほどに膨れ上がり、今にでも破裂しそうだった。

「なあ、暁よ。真実がどうであれ、俺は何も感じない──」

それを破ったのはレツの言葉だった。その声は、まるで血の通った人間のものではない。ただ淡々と自分の心情を告げている。
一方、アムイの悲痛な表情は変わらない。彼はこの場から逃げる様子もなく、ただ黙ってレツの言葉を受け止めていた。もう、何もレツに対して反論するつもりも言い訳するつもりもないようだった。

「お前がどこの誰であれ、神王の直系だろうが、──お前がロータスを死に追いやった事実は消せないだろう…?」
「レツ!それはっ」
反論しようとするセツカを、アムイは手で制した。何を言ってもそれは言い訳に過ぎない。直接手を下してなくても、そのつもりがなかったとしても、アムイが彼女を窮地に追い詰めたのは……確かだから。
「お前が砦に現れなければ、ロータスはお前を助けずに済んだ」
「ああ」
「お前を庇って……罪人として……卑怯な男に辱めを受けずに済んだし、自決することもなかった……」
「そうだ」
「お前が彼女の目の前に現れた事、いくら彼女と周りがお前を守ろうとしても、俺は許せない……。それが……」
レツは言葉を飲み込んだ。
(……運命だったとしても──)
アムイは目を閉じた。
ひしひしと、レツの悲しみが迫ってくる。
彼だって、アムイ自身が彼女を殺したのではないとわかっている。ユナ人として立派な事をしたという事だってわかっている。
彼自身、ユナの人間として誇りを持って生きてきたのだから、彼女がアムイに対してした事が結局は正当だと言う事も理解していた。
だが、感情はそれを許さなかった。──結果、彼女は死んでしまった。その事がレツを狂気に向かわせた。
レツには、真実を知ったからといって、皆の様に彼女の行動を受け止める事ができない。

「お前がロータスの前に現れなければ!!」
悲鳴にも似た叫びと共に、レツは握っていた剣をアムイに向けて振り下ろした。
それはあまりにも突然な事で、周囲の反応が遅れ、その剣先は微動だにしないアムイの左のこめかみに見事に命中した。
ばぁっと血飛沫が周囲に舞い、剣の衝撃でアムイは頭を斜め横に俯けた。
だらりとアムイの左側の顔から血が溢れ、ぽたりとその血は地面に落ちた。

一瞬、皆は驚愕で動けなかった。

斬られた当のアムイでさえも、そのまま動かず、じっと滴る自分の血が地面に吸い込まれていくのを見つめていた。

「レツ!!」
その状態で一番最初に動いたのはセツカだった。
再びレツが抵抗しようともしないアムイに剣を突きつけようとしたのを真っ先に感知したから。
セツカはレツを止めようと、自分の武器を手に走る。

彼の上司として、親しい仲間として、……そして、長の側近として。セツカはレツを手にかけてでも阻止しなければならないと覚悟を決めた。神王の、大事な生き残りに傷を負わせ、尚且つ長の勅令を無視した謀反人として。


だが、セツカはレツの傍まで行く事ができなかった。

何故なら、セツカは行く手を遮られた。

大きな決意を固めた表情のガラムに。


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※※つぶやき※

更新が遅れて申し訳ありません。
次回でロータスの話は終わります。(やっと)
なるべく近いうちに更新します。
その後、簡単なまとめをしてから次の話に移行します。これから正念場なので、気合を入れます(苦笑)
実は今まで忙しすぎて、じっくり物語と向き合えなくなって、現実逃避をしていました……_| ̄|○
これが終われば暁と宵中心の話に戻ります。カァラやロータスの話はいつか番外編として書こうと思っています。アムイに影響受けた二つのカップル、ということで、本編の流れでもどうしても必要な部分でした。ただ、自分の欲目でそれぞれを詳しく書きすぎてしまった……。だから時間が掛かりすぎました。
本当に長きに渡り、申し訳ありませんでした。
これからはラストまで、二人の話が中心です。
やっと、最後まで行けそう。……なるべく早く更新できるよう、頑張ります。
                                 kayan(此花かやん) 

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2013年4月20日 (土)

暁の明星 宵の流星 #190の②

#190-②

レツが家族に何も言わず流刑地に通っていたのは、ちゃんとした理由があっての事だった。

流刑地には自分の実親である第三父ラキの愛人が住んでいる。そこには彼の娘もいた。結局ラキが彼女達の元へ移り住んでからしばらくして彼は亡くなってしまった。もちろん、ラキの子だという事は隠して育てられているので、父親で可能性ある男達が彼女らを養ってはいたが。ただ、娘が大きくなるにつれ、父親達は顔を出すのが減ってきたという。何故なら、まだ成人前の娘が難病にかかったからだ。確実ではないが娘かもしれないという繋がりの中で、成人を迎える娘は彼らにとって本島では優遇に値する価値があった。だが、成人前に病に倒れたとなると、治療費もかかるしその世話などで厄介な事が多くなる。彼らは他にも家庭を持っている男達が多かった。娘だからという理由で自分の家庭では目を瞑ってもらっていたのに、その娘が成人前に厄介な状態となったのをきっかけに、彼らの家族が愛人の面倒を見る事を許可しなくなったというのが一番多い理由だった。
中枢部の援助で細々と暮らすだけでは娘の病を治す事が難しい。
──それを知ったのは偶然、レツが本島でミシルと出会ったからだ。彼女が今診ている患者がその娘だったのである。今何を?という他愛のない会話から飛び出したその話にレツは驚いた。まだラキ父さんが存命中に実はこっそりと彼の様子を見に行って、レツは彼の愛人と娘──つまり自分にとっては半分血の繋がった妹──には会っていた。しかも妹とはかなり仲良くなって懐かれていたから、話を聞いていたレツの動揺にミシルも驚いていた。
確かにすでにラキ父さんは亡くなり、彼が家を追い出された事情も知っている愛人にすれば、カルアツヤの家には絶対に頼らないであろう。事実、レツがその話を家族に言っても、彼らは取り合わなかった。それもそうだ、いくらラキが子供を認知しているとはいえ、他にも認知している男は何人かいるわけだから、本当にカルアツヤの血を引く娘か疑わしく、しかもラキは家を捨てている。そんなわけもわからない娘を援助する義務はない、と冷たくあしらわれた。
しかし確実にラキの血を引き、完全に半分でも実の妹と知っているレツにとって、自分を無邪気に慕ってくれる妹を見捨てられるわけがない。
事実を公にする事は、ユナの掟に反する事もあって、レツは主治医の一人である友人のミシルにだけ事情を打ち明け、妹を援助し見舞うためにしばらくそちらへと通っていたのである。当時、自分の留守の間にいつの間にか妊娠していたロータスと、やけに彼女を独占する弟のシキを見たくなかったという理由も重なり、半分は妹の看病と言う理由で逃げていたのかもしれない。
ミシルとレツの間には彼の妹という存在があったわけだが、妊娠中の彼女を独占するシキに遠慮して何も言わないレツに、ロータスが不安を募らせるのも無理もなかった。

《ねぇ、レツ、私あなたの妻でしょう?……何かあるのなら言って欲しいの、あの…》
《いや、何もない》

いつしかこういう会話ばかりが目立ち、ロータスは他からの噂で、ますます彼とミシルの関係を疑うようになっていった。

そういうのが重なったロータスは、自分を維持するために諦めるという事を選んだ。
もし自分に何かあっても、彼には彼女がいる。──だから、彼が自分との事で何を言ってもそれは自分に対する幼馴染としての家族としての情であることを忘れてはならない…。そう、彼が何を言っても、それは身内としての情だけだと。これ以上期待してはいけないと。

ロータスは虚ろな気持ちでぼんやりと辺りを見回し、自分の護身用の剣を目で探す。
先程あのいやらしいリガル長官に襲われた時に奪われどこかに投げ捨てられた、小さな、それでもナイフよりも大きな自分の剣を。
それは彼女のいる机よりも入り口の近くに転がっていた。
ふらふらと立ち上がると、彼女はそれを取りに行った。正規の遺書には血判がいる。ロータスは剣を手にして机上へと戻ると、その刃先でぷつりと親指の先を傷つけた。
ぽとっと赤い血が少しだけ書面に落ちる。それを呆然と見ながら自分が記したサインの最後に押し付けた。

いいのだ。何も、レツには自分の気持ちを告げなくて…、その方が、いい。
あの優しい彼の事だ、妹のように可愛がっていた妻という名の女が、こうなってしまった事に責任を感じているだろう。その上ロータスが愛の告白などしたら、益々自分のせいだと責めるだろう。
自分亡き後、レツには今度こそ本当に愛する人と幸せになって欲しい。……そのためにもかえって他の人間を愛していると思わせていた方が…彼のためかもしれない……。
などと、その時のロータスは愚かにも思い込んでしまっていた。
だから最後の最後まで、遺書にでさえも、その自分の真実を押し隠した。

ロータスは大きく溜息を吐くと、手にした短剣に力を込めた。

まさかその後にレツが再び戻ってくるとは彼女は全く思ってなくて────。

* * *

「……遺書…は」

長い沈黙の後、レツがぼそりと口を開く。
「…………処分…した」

皆、はっとしてレツに視線を集中させる。

「処分…した、だと?」
苦虫を潰した顔でセツカが唸った。
「…本当に…あったんだ…姉さんの遺書…」
ガラムも無意識のうちにそう呟いていた。
処分したという事は、彼女の遺書は確かにあったということだ。だが、それでは…。
そう、処分してしまったのならロータスの…
「…名誉が守れないではないか……。
お前はその行為が彼女を貶める事をわかっていて……。
彼女の誇りを踏みにじる結果になると知っていてそのような事をしたのか!?」
セツカの声は怒りで震えていた。
彼女の誇りゆえの自害を、正規の遺書というものがあって初めて証明できる大事なものを…。それを処分してしまうだなんて。

「レツ、どうして」
セツカは苦悶の表情を無表情に佇んでいる己の優秀な部下に向けた。
「お前は扉の鍵すら持っていた。……なのにどうして?…いくら何でも、一番の証拠を…どうして処分してしまったんだ。
その彼女直筆の遺書さえあれば、彼女の名誉も誇りも守れた。……お前も、いや誰も彼女を殺めたという疑いもかからなかった。
──そんなにしてまで─お前は……自分を含め誰かを犯人に仕立てたかったのか……?」
セツカの顔にはありありと信じられないという感情が剥き出していた。
彼はそれ以上言わなかったが、その仕立てたかった犯人、というのがアムイを指しているのは明白だった。
でもそれは扉の鍵を持参していたという事で、レツ本人にも彼女を殺したという嫌疑がかかるのを計算してるようにも見える。

嫌な汗が背中を伝っていくのをガラムは感じていた。
(──何でこんな……。)
ガラムは自暴自棄になって破滅したがっている義兄の本心を垣間見たような気がした。
彼の、心の置く不覚に漂う深い闇を覗き見してしまったような……そんな嫌な…感じを。


「そんなもの、必要ない」
レツの抑揚のない声。
「ロータスが死んだ事実に変わりない」
まるでこの世の終わりかとも思えるような冷たい声。
「……なあ、反対に訊きたい。何故俺が彼女を殺めていないなどと…断言できるんだ?」
そう言ったレツの眼差しは限りなく暗かった。
「確かに、彼女の最期に俺は近くにいた」
淡々とした何の感情もこもらないその声に、周囲は圧倒されていた。
「遺書もあった。──けど、誰もその場を見ていたわけでもないのに、俺が怒りのあまりに彼女を殺していないなどと……どうして思うのか」
「レツ、だからそれは」
「……愛してるから?この俺を?……そんなの、後付けだろう?あの時、俺はそんなこと知らなかったのだから」
ははっとレツは嘲るように笑った。
そんな彼にセツカは、一語一語言い含めるようにきっぱりと言い切る。
「そうだ、だから、ロータスは、絶対、お前を─女殺しの罪人にはさせない」
そうだ、彼女なら絶対…抗ってまでも彼を犯罪者になどさせないだろう。
レツの瞳が哀しげに揺らいだ。

「だからって……もう、どうにもならないじゃないか……」

レツの発したその言葉は、絶望という意味と同等に響いた。


─だって─もう、─彼女はこの世に、いない。

その思いの全てが彼を支配している。アムイは心臓を握られたような疼きを感じてたまらなくなった。
しかも、心の壊れかけたレツの足元で、ロータスの霊が蹲って泣き崩れている。それが見えているのはアムイだけだという事も辛さを増長させた。

後悔──後悔──後悔──……

だけど、生前どうすることもできなかった二人の関係……互いに素直に愛を打ち明けられない環境で、今更後悔しても仕方のない問題だと二人はわかっている。わかっていても、気持ちに制御が効かないだけ…。

それを全て見、知ってしまったアムイに出来る事は……ただ受け止める事だけなのかもしれない、とふと思う。
彼女の後悔を、悲しみを、切なさを──そして彼の行き場を求めている怒りの矛先を。

彼らを救える、などと思うほど自惚れてなどいない。それよりも全てが遅かった事に項垂れた。
それでもアムイは、周りが、彼が、どう思おうか関係なく……自分の出来る事をしたい、と切実に思った。
だから、皆が信じられない事を今から話してもいいだろうと思った。目の前の彼にだけわかればいい事だから。
ロータスの最期にいた彼だけが、わかる事を。

 だから、ロータス。そんなに後悔しているのなら、もう君は彼から逃げてはいけない。君は彼の心を、魂を、今度こそ離してはならないのだ。たとえ、彼の心が壊れ、君から逃れようとしても。本当に、彼を愛しているのなら。

アムイは薄く笑うレツに憂いの籠もった眼差しを向け、おもむろに口を開く。
「……あなたは、逃げようと」
言葉使いも丁寧で真摯なものになっていく。少しでも、彼の心に届けばいいなと思いながら。

アムイの声に、レツの肩が無意識にピクリと動く。
他の者はアムイが何を言い出したのだろうかと不思議そうな眼差しを向け、言葉の続きを待った。

一瞬、ぴりりとした緊張がその場を凍らせたが、それを破るかのようにアムイは静かに言葉を放った。


「レツ、あなたは逃げようと、一緒に逃げようと……ロータスに言った。
──だから、彼女は……あなたから逃げる為に自分の胸を咄嗟に突いた」

皆、思わぬアムイの言葉で一斉に息を呑む。

無表情だったレツの顔に変化があった。彼の、ひび割れた心の軋む音が、周囲に響くような錯覚を覚えるほどに。

「あなたは必死で懇願した。──全てを捨ててまで、彼女を取る、と。二人でユナを捨てようと」

驚愕の目が、アムイに集中していた。
まるで、その場を見ていたかのように話すアムイに、周囲はある種の畏怖を感じていた。
何故なら、アムイの言葉が戯言ではなく、またいい加減な事でもなく、核心を突いていたというのを、レツの表情が証明していたからだ。

「だけど、彼女から返ってきたのは──拒絶、だった。
死という名の。
だから、あなたは絶望した。
彼女はあなたの愛を信じず、勝手に命を絶ってしまったことを……」「ふっ…」
最後まで言わないうちにレツの皮肉めいた笑いがアムイの話を遮る。
「ふ……ふ、ふ…、は、はは…」
レツは小刻みに身体を揺らすと、片手で額を押さえ、顔を天に向けた。笑っているけれど、本当は泣いているのかと思うような、表情で。

「……どうして…それを?」
眼差しはどこか遠くを向いている。そして、虚脱したような声が辺りに虚しく響く。
まだ会話ができるのなら、彼の心は完全に壊れてはいない。いないけれど、沢山の傷から欠片がポロポロと崩れ落ちていく危うさに、アムイはこの先を言うか迷った。──何かの刺激で、ガラガラと完全に崩壊するのではないか、という恐れで。
「いや、そんな事、もうどうでもいいか。
彼女は俺ではなく、暁、お前の安全を優先した…。それは疑いようもない事実だ。
遺書が全てを証明していたよ。だから…破り捨てた。……勝手に死んだ、彼女と……そうさせたお前を俺は許せなかった──」
きらり、と手で隠されたレツの目元から光るものが零れた。
「生きようと…全てを捨てて俺と生きる事よりも、あいつはお前のために死を選んだのだから」

+++

遺書には処刑決定されたよそ者の男への、身の安全を嘆願する内容が主に占めていた。もちろんロータスとしては、最後まで忠誠をユナと神王の直系に向けたていたから、この項目が必然となったのは仕方がない。また、アムイへの詳細を公に書く事ができなかったロータスの、中枢部へのメッセージでもあった。どうか、この青年を敵として追わないように、この青年の身元を確認してもらいたいという……彼女の切望。それは幼い頃初恋の君と交わした……小さな約束もあったから。
それに時間もなかった。できれば祈願夜が終わるまでに決行しないと、と焦っていた。
急いで書面に、家族への配慮、そして自分の身の上に起こっていた不貞の事実があったとしても、心は潔白である事をを簡素に書き、署名血判した後、剣を自分に向けながら、リガル長官との事を詳細に書いた方がいいのかと思い直して、自分の格好に気付いて苦笑した。
自決するのに、あまりにも酷い格好……。何をされていたか一目で見てわかるような。
少しでも身奇麗にしようとすれば、きっと時間がなくなる。ロータスはどちらを優先するか少し躊躇した。
もし、正直にリガルの事を書いて、それを彼が目にしたら、己を守るために遺書を処分してしまうのではないか?とふと危惧する。
ならば、とロータスは考えた。己の心の潔白は嫌というほど簡素ではあるが主張してある。ならばかえって不穏な事実をあえて書かない方が得策ではないか?多分リガル長官が先に自分の死体を発見するはずだ。ならば……。

ロータスはそうして自分の身形を整える方を選び、剣をテーブルに一時置く。
その時彼女の頭にはレツの事は不思議となかった。嫌われたと思って、無意識のうちに彼の存在を自分の中から追い出していたから。

──だから、その直後、思いつめた顔で、まさか彼が戻ってくるとは思わなかった彼女は激しく動揺した。
しかも、驚愕するような言葉が彼から飛び出て、ロータスは完全にパニックを起こしてしまったのだ。

+++


レツはその時を思い浮かべる。彼女の最後の瞬間を。

アムイは言うべきであろう言葉を呑み込んだ。彼女のその時の心情を。今のレツに対してそれはあまりにも酷ではないかと思ったからだ。

すでにこの世にいないロータス。
今、彼女の切なる思いは、あの世と通じられるアムイにとって鮮明に理解できる。
だが、それを知らない者にとっては信じられない世界でもある。
それを軽々しく他者の自分が口にしていいのか、と迷う。使者の言葉。神や天に仕える者でもないのに、神聖でもある“それ”を伝える資格が自分にあるのだろうか。
それにその内容は……。結局彼女は最後まで、彼だけを思って行動していた。様々な理由はその時存在していただろうが、結局、最後の後押しをしたのが、アムイ自身ではなく、レツ本人だったという事実に、その真実に彼は耐えられるのだろうか……。

その迷いにアムイは俯く。
人の気持ちというのは思ったよりも難しい。それが誤解なく分かり合い、理解しあうという事は、何と多くの障害があるのだろう。
それが本人からでも、他者からの障害であっても……。完璧に相互理解する道は険しい。
自分とキイ、魂を分けて生まれたとする自分達でさえ、肉体が分かれたばかりに、迷い、不安になり、葛藤する。それに疑うという気持ちが追加してまったら自分達は終わりのような気がする。
互いを信じる事、これこそが互いを強く結びつける絆なのではないか、とアムイは思った。

 ごめん、ロータス。結局は俺は何もできない。
 他人である俺が何を言ったとしても、きっと彼の心の崩壊は止まらず進行するだろう。
 君自身が、彼と正面からぶつからない限り。君が後悔しているのなら尚更に。……だから、だからロータス、俺は。

アムイは心の中でロータスに詫びながら、目の前の男の全てを受け入れる覚悟を決めた。
それが彼女が愛する男の魂の崩壊を止める術となるのなら。

  喜んで、俺は……。彼の刃(やいば)でも──…何でも受け止めよう。


* * *

『逃げよう、ロータス』
突然戻ってきたレツに両肩を捕まれ、頭が混乱したロータスは、彼が今何を叫んだのか理解できなかった。
レツは呆然としている彼女を激しく抱き締める。
『俺と、逃げよう…今すぐに』
『ど、ういうこ…と?』
やっと頭が回り始めたロータスは、今のが聞き間違えかと思った。
レツの力強い腕が、まるで逃がさないとばかりにロータスの柔らかな身体を締め付け、次の言葉で彼がとんでもない事を言っているのを理解する。
『二人で、ユナを捨てて……どこか知らない土地へ。俺と共に…』
『何言ってるの!何でそんな事を言うの!』
ロータスは愕然とした。逃げる?捨てる?そんな事をしたらどうなるか、レツだってわかっているはずだ。
いつも冷静で良識のあるレツの言葉とも思えない。何故?
彼女は戸惑っていた。けれどそれ以上に、まるで愛の告白を受けているような錯覚を起こした自分を恥じる。
『今なら間に合う。ロータス、鍵を、扉の鍵をくれ。外に出たら夜明け前までに村までいけば……』
『馬鹿言わないで!あなた、自分が何を言っているかわかっているの?』
『わかっている!だからこうして』
『わかっていないわよ!』
ロータスはいつもと違う彼の様子に恐れを感じた。そんなの、許されるべきではない。常識で考えるならば。
『あなたがそうしてどうするの?家は?兄弟は?子供達は!』
『捨てる』
迷いのない断言に、ロータスは怯んだ。
彼は、何でそんな事を言うのだろう?せっかく……せっかく自分が覚悟を決めたというのに。
『…駄目…いけない、そんなこと』
声が震える。どうして?どうして彼はそんな事を言うの?あなたはミシルが好きなんでしょう?なのにどうして彼女のいるこの世界を捨てる、なんて……。
ロータスははっとした。レツ、は。いつだってそうだった。小さい時から優しい人だった。
その彼が妻である自分の失態を知って、責任や同情を感じないわけがないのだ。
じわり、と涙が込み上げてくる。
本当は彼と、ずっと一緒にいたい。逃げ出して、何もかもしがらみのない、二人だけの世界へ。
でも、それは出来ない。現実を見るのよ、とロータスは自分に言い聞かせる。
ロータス=カルアツヤ、あなたが、彼にしなければならない事は、──何?

それは……何?

『離して!』
ロータスは彼から逃れようと身をよじった。

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2013年4月16日 (火)

暁の明星 宵の流星 #190の①

#190-①


《後悔してる……》


そう

私が後悔している事は

あなたに愛していると、生きているうちに告げなかった事だ───


死んで魂となって初めて知ったあの人の気持ち。 死んだらそこで全て終わるんだと思っていた自分が愚かしい。

見たくなかった。  あの人の悲しみを。
聞きたくなかった。  あの人の激情を。

壊れていくあの人に……私はもう、この手を差し伸べる事すら出来ない。どんなに叫んでも、声すら届かない。

その原因を、自分で作ってしまったのであればなおさらに。

もの凄い後悔の念が  肉体を失ってしまった自分に襲い掛かる。

どうしたら、いい、の?

どうしたら、あの人の闇を……私が作ってしまった闇を……解放する事ができるの??

誰か、ああ、誰か。

この言葉を、思いを、 ──誰か……気付いて!

* * * ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,  * * *


祈願夜はもうすぐ明けようとしてる。

彼女を叩いた後、俺は気が狂ったようにその場を逃げ出した。──まだ仄暗い森の中、俺は走った。 ただ闇雲に走った。
彼女から逃げるようにして。

哀しかった。悔しかった。苦しかった。ありとあらゆる感情に翻弄され、吐き出し──それでも彼女への想いが募っていくばかりで。

もちろん、彼女の言葉に絶望した。嫉妬で怒りで我を忘れた。暴走する激情を自分自身に吐き出すだけ吐き出して。

しばらくしてから、自分が発した激しい息遣いをまるでひと事のように感じていた。…いつの間にかその場に立ち竦んでいた事にふと気付く。

「戻ろう……」

もうどうでもよくなった。ユナでの名声も家族への配慮も。──そんなもの、彼女の存在に比べればなんでもない──。彼女がいなければ何の意味もない事だ。

俺は。……こうなってみて初めて自分がどれほど我慢を重ねていたのかを知る。抗う事に笑うしかないほどに。

今も昔も。──自分の中で何一つ、変わらないものがあるじゃないか……。俺にはロータスだけいてくれればいい、と。

そう思うと、覚悟ができた。どんなに彼女が俺を拒否しようとも。他の男を愛していようが───俺は──俺は……。

もう自分の気持ちを曝け出してもいいんじゃないか?
もう充分すぎるほど自分を誤魔化してきたのだから。

ゆっくりと空を仰ぐと、再び正面を見据える。もう迷いはなかった。

そのまま俺は引き返す。夜が明ける前に。──彼女の元へ。


* * * ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,  * * *
                                                                                                                                                                                       

「最優良を取った女は、成人の儀式で個人を指名できるという事を……どこからか彼女は聞いたんだろう…。今まで花嫁修業のような事に無頓着だった彼女が…たった一年で、難しいとされる最優良を取った。……そして誰を彼女が指名したかは……レツ、お前がよく知っているはずだ」

遠くでセツカが切ない声で説明しているのが聞こえる。
だけど、おかしなことに何も感じない。──まるで心が麻痺してしまっているようだとレツはぼんやりと思う。
あの初めて彼女と触れ合った夜。自制が飛んだ自分の腕の中で子供のように震えていたロータス。
苦しむような痛がる声が甘い吐息に変わっていくのを、自分はどんなに愛しく感じたか。
あの夜を、彼女が、自分から望んだという事ならば……!

きっと。彼女が生きていた時に聞いていたのなら、レツはきっと喜びと幸せに打ち震えていたに違いない。─だけど。

様々に明かされる彼女の真実。

今となっては、だからどうなのだ?という気持ちにしかならない。──彼女のいない、今となっては。

虚しい気持ちでレツはセツカの話を聞いていた。ただ虚ろに。何の感慨も浮かばないのが哀しかった。

無言で大人しく耳を傾けるレツに、セツカは少し安堵していた。彼が話を聞いてくれている事、その姿が冷静さを取り戻したと思ったからだ。
だが、アムイは違った。彼にまとう闇の影に益々神経を尖らせていた。その恐ろしいほどの静寂が、彼が普通の状態ではない事をアムイに知らせていた。それはロータスの悲痛の叫びが自分の耳に響くのを、アムイは成す術もなく感じていたから。

──彼は、壊れている。──それは、ロータスが……自分で……。


レツの異常さを感じていたのはアムイだけではなかった。真実を見ようとするガラムの目にも、今のレツが計り知れなく恐ろしいものに映って見えていた。
レツは、本当は、真実を知らずに暴走して自滅したかったのではないか?
もしかしたら義兄にとってその方がよかったのではないか…?
ガラムは不本意にもそう思ってしまった。──妻を寝取ったと信じ、その相手の男を手にかけようとする名分で。その男が長の保護下の人間であればさらに。……彼はそのまま自滅できる。己の手で自分を殺めずとも。その方が。……その方が彼にとって幸せだったのではないか。怒りのままに自滅したほうが。
まかりなりにもユナの英雄として長い間鎮座していたほどの男である。謀反人として処罰された方が、まだ、ユナの戦士として死んでいける。──亡くなった姉は生前、ユナの戦士であるレツを誇りにしていた。そんなレツを影ながら支えている事に喜びを感じていた。
ガラムは幼い頃からこの二人を見てきたから。英雄である義兄を尊敬を持って見詰める幸せそうな姉。その姉がよくガラムに誇らしげに語っていたレツの活躍。
若いガラムには男女の深いところまでわからなかったけれども、その見える部分だけが二人を繫ぐ唯一のものであったという感じがしてならない。
その唯一のものが、真実を知ってぷっつりと切れたように感じるのは……自分の思い過ごしだろうか。
今のレツには、ユナ族の、宇宙の大樹(そらのたいじゅ)が説く倫理観などどうでもよくなっているように見える。
大樹の教えに背き、長の命令にも背き……死後、自分の魂がどうなってもいい、大樹のもとに戻れなくてもいいと思っているのなら……!

杞憂であればいい、とガラムは願った。
今自分が思いついた事が、ただの思い過ごしであれば、と。


「……わかってくれたか?レツ。
暁の君はロータスと男女の関係でも何でもない。そう判断したから長も勅令を出した。いや、彼が神王の直系の可能性があってこその勅令だったが、ロータスが純粋にこの方を救おうとした事実が見えてきたためでもあると言ってもいい。
……だから、暁の君に危害を加えないで欲しい。そうでなければ、ロータスの死は報われない」
その言葉に、今まで何の感情も見えないレツの表情に変化が見えた。
セツカはそれでも何の返事もしないレツに溜息を吐くと、言い難そうにこう言った。
「なぁ、レツ。頼むから本当のことを言ってくれ。……私が推測した真相──」
そこで一旦呼吸を整えると、意を決して再び口を開いた。
「……ロータスは遺書を残していた。そうなんだろう?」

遺書!

驚いて目を見開いたのはガラムだけだった。
初めはセツカが何を言っているのかわからなかった。だが、ぐるぐると頭に回るその言葉の意味はちゃんと理解している。
姉は……姉の死因は……自殺だというのか?殺されたのではなく。……そんな…。

「隠さないで正直に答えてくれ。──最優良を持つ女である彼女の最後の切り札を……。彼女は“それ”を使ったんだろう?
お前はそれを知っていてどこかに正規の遺書を隠した。──まるで、彼女が誰かに殺されたかのように見せかけて。鍵を手にして。
何故その様にしたかは何となくこの私でもわかる。だが……。
レツ、お前にもわかるだろう?……その遺書があれば、お前の罪は軽くて済む。真実を隠蔽したという罪だけで済むんだ。
──ロータスは、お前に遺書を託したんじゃないのか。お前の将来のために」

無言のままレツの眼差しがゆらゆらと揺らぐ。その様子に伴う無言が肯定していると同じだ。確信したセツカは再び口を開く。

「レツ、私の言っていることは間違っているか……?何故何も言わない?違うというのならば、声に出して答えてくれ!」

* * *       * * *


震えるペン先に涙の粒が落ち、それがインクを滲ませ染みになっていく。

レツが飛び出していった後、ロータスは机上で紙にペンを走らせていた。


《女として最優良を取った貴女には、ひとつ、許されている特別待遇があります。
──それは自決の自由、です。
だからといって、これは一度しか使えない事から、当たり前ですが、重要性がない事での使用は許されていません》

自分が最優良を取ったとき、大樹の神官が伝えてきた女としての唯一の切り札──。
その時の内容が再びロータスの記憶に甦る。


《もし、ユナの女としての誇りを穢されそうになった時。
そしてユナの女として自身の誇りと真実を訴える時に。
この恩恵を、自身の我が儘ではなく、生きることからの逃避でもなく、自身の高潔な思いを貫こうとする時にお使いくださる事を切に願います。
もちろん、貴女がどんな思いで自害されるかは、ちゃんとした正式な遺書なくては計り知れません。
ただ、真実は全て、宇宙の大樹(そらのたいじゅ)はご存知であります。
私が最後に言いたい事は、どうか大樹の御心に恥じないような人生を……》

「……大樹の御心に恥じない……人生……」

今までの自分の人生は恥じないものであっただろうか。様々な誤解はあれど、自分自身としては恥じる事など何一つない、とロータスは思い込む。そうでなければこれから実行する事に自分が萎えてしまいそうだった。

あの時、その事を告げた大樹の神官は自分と同じ女性だった。
彼女は恥じない人生を…とロータスに言ったと同時に俯いた。そして視線を下に向けたまま、憂いた声で話を続ける。

《……何故、自殺を良しとしない大樹の教えに唯一、しかも最優良を持つ女だけが死ぬ自由を与えられているのか──疑問に思いましたか?》

そう、ユナの大樹の教えは自殺を認めていない。また再びユナ族として復活するために、祖先である星人(ほしびと)の輪廻の輪から外れないように、魂の転生を大樹の管理に置くためにこの教えを守ってきた。それはこの大地に降りた星人である祖先が自分達の故郷に思いを馳せて、いつしかこの地を離れ、本来の星に帰る時のために、この大地に取り込まれその魂の記憶が薄れてしまわぬように彼らは自分達の子孫に色々な教えを大樹に施した。──彼らは魂にも記憶以外に刻印となるものがあると信じていた。自分達の魂の刻印を忘れていなければまた故郷に戻れると固く信じて。その星人である証の刻印さえあれば、肉体が滅んでも魂だけはその刻印を記憶する大樹の元に帰ることができ、再びユナとして生まれ出ることができると。
ただ、そのシステムは自らを殺めるという行為だけが誤作動を起こしやすいということを祖先は知っていた。

それでも長い年月が過ぎてしまえば本来の内容も正確に伝わるのも難しい。
だから大樹と繋がれる人間が必要だったのだ。もとは星の船だったとされる大樹と通じる人間──それはもとの姿であった船を作った人間だったとされる。その話は神官クラスの大樹管理官しか知らない事実だが、その直系子孫が長の家系だ。その頂天に立つ人物こそ、初代同様の能力を持つと大樹に認識され、ユナの長となる。後は大樹が認めた有能な人物達が神官となって長をサポートする。
長は大樹とやりとりをしながらユナを守ってきた。ユナの民の心の拠り所として大樹を崇め、本来の場所にいつしか戻る時のために。


《本来は、死後魂が宇宙の大樹(そらのたいじゅ)の元に還るために、自らを殺すという行為を禁止しています……。それは最優良を取った女とて同じことです。ですが。
こうして女が少なくなり、体力的にも敵わない女が男社会の下に追いやられているという近年では……様々な不自由、我慢を強いられるのは仕方ありません。そのために壊され狂い死んでいく女が多くなったことは……事実なのです。だからこその多夫一妻制で女を守ろうとしたのです。それでも女は虐げられやすい。道具のように扱われるのも少なくありません……。もちろん、それを悲観して自殺なんて決してしてはならないこと。どんなに今生が苦しく辛くても、それだけはユナであれば許されない。
……最優良を取るということは、並大抵のことではなかったでしょう?
妻として母として、そしてユナの女としての能力を完璧に満たした者など滅多に出ない。
──だからこその大樹の恩恵です。初めての相手を指定できるのはほんの贈り物。本当の恩恵は自決の自由なのです。これから己を殺し、ユナの模範的な女として生きる事を余儀なくされる……そのあなた達に与えられる唯一の自由、です。
女として生きるということは色んな誘惑や陰謀や犯罪に巻き込まれる可能性が多い。
だからこそ最後の切り札として……自決を許すのです。最優良のユナの女の誇りを守るそのために。
──ええ、だからこれからあなたを大樹の元へとお連れします。少しでも、どのような死に方をしても、再び我々の元へ戻れるように……あなたの魂に印を刻むのです。そのような事は大変難しく、かつ大量の力を必要としますので、施せる人間は限られているのですが…》

彼女の説明で先代の長の方(おさのかた)が自決した話を思い出した。
とても立派な最期だったと聞く。

そうして自分は今、自身の潔白と嘆願のためにこの切り札を使おうとしている。
最優良を取ってよかったとも、この時心底思った。実際、模範的な女して過ごすのはかなりの忍耐を強いられていたが。


ああ、もうすぐ祈願夜が終わる。早く書き上げなければ、もう時間がない。
ロータスは簡潔に今の自分の心情を書き綴っていく。
何故、死を選ぶのか。これからの残していく家族への恩情。……そして逃がした男と自分の潔白と、罪もない人間を救いたかったと嘆願し、自分は恥じる事で自決するわけではない、と書き綴る。
自分の心にはやましい事は一切ない。身は穢れたとしても自分の気持ちは潔白である、と。
それを証明する為に自分は自ら死を選んだと。……この遺書をもって証明すると最後に書き記し、ピタリと書く手が止まる。

レツ、に……。

この後に及んでレツに何か言葉を残したいと思う自分が哀しかった。
今更……嫌われた自分が何を残そうというのか。
“愛している”なんて。“昔も、今も……それから死しても、ずっとあなたを愛している”なんて……。
ぱたっと涙が紙の上に落ち、すっと吸い込まれていく。
ばかね、ロータス。そんな事を残してどうなるというの。
彼にとって迷惑でも何でもないじゃない。
……あの人には、他に好きな相手がいるのだから……。

ねぇ、レツ?私が気がついてないとでも思っていた?……あなたには昔から好きで好きで愛しい女がいるって事……シキから聞いて、やっぱりって…私すぐに納得したの。
あなたは昔も今も、ミシルが好きだった……。そんな事、考えなくてもわかっていた事なのに…。
幼い頃からお似合いと皆に噂されていたミシルは、医者の家に嫁いだがそれも5年もしないで離縁となり、身体を壊して流刑島へと渡った。──彼女が身体を壊して…子供を産めない身体になった末の離縁だったからという事を、後から風の便りで知った。でも…彼女が倒れた時、その場にレツがいたというのに…彼は妻である私に何も話してくれなかった──。
それに、とロータスは心に痛みを感じながら思う。……ミシルが、彼女が離縁した後、流刑地に居を構え、女だてらに薬士や助産婦の資格を取り活躍しているのも知っていた。……レツの口から何も聞かされていなかったが、自分が第二子を妊娠した頃から彼が度々流刑地へ赴いている事も……薄々感づいていた。
きっと、彼女の力になりたくて、彼は流刑地に行くのだろう。何も言ってくれないのがロータスには辛かった。夫婦なのに、もちろん口数の少ない夫とわかっても、自分としては本人が何も疚しい事がなければ話してくれると思っていたから尚更だった。
妖精のように華奢で儚げなミシル……。自分は彼女が見せた涙を思い出すたび、敵わないと泣きたくなる。……彼は彼女を…結婚できないまでも一人身になった彼女を放っておけないほど…きっと愛しているのだ。


ロータスはそう思い込んでいたが、レツに問いただせばそんな事はまるっきり彼女の誤解だと彼は憤っただろう。
確かにミシルは医者の家に嫁いで、何度かの流産死産を繰り返し、体を壊して子供が産めないと判断された上での離縁だった。裕福な、由緒正しい医者の家の跡継ぎはどうしても必要だったから、結局彼女は5年も待たずにこういう結果となってしまった。
実は彼女が決定的に子が望めないと診断された流産の最中に、彼女の当時の夫であるリファンからの要請でレツが彼女を助けただけだ。その時自殺しかねない彼女の状態を危惧して、レツはそのままリファンの家にいて彼らを見守っていた。このような他人の家の内情を他所に話すようなレツではなかったから、自分の家族にさえ詳細を語らなかった。
レツにとってミシルは大事な幼馴染の一人だ。恋愛感情もなければもちろん身体の関係なんてありはしない。成人の儀式の相手を務めたただ一回だけ。そう、まるで義務を果たすような一夜だったあの時だけ。
離縁して立ち直るまで、レツは純粋に友人として彼女の傍に居ただけだ。たまに彼女はそういう関係を彼に望んだが、自分はロータス以外の女を抱くつもりなど毛頭なかった。それよりも彼女の元夫だった友人が、離縁してもずっと彼女を思っている事に、心を砕いていた。だからミシルとはレツにとってはただの友人、それだけだった。
ただ、妻の妊娠中にしょっちゅう家を離れ流刑地に行っていたのは、ミシルが少なからず関係あるにしろ、全く違う件でレツは通っていた。
その話こそ、妻であるロータスに話しておけば、妻は不安にならずミシルとの仲を疑う事などなかったのに──。

二人はこのようにして互いの心の内を見せないまま、長い年月を暮らしてきたのだった。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

お詫び。

取り急ぎの投稿で申し訳ございません。


とにかく更新が遅れております。このような形になってすみません。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、一時投稿したものを大きな修正のために引っ込め、再投稿するなどバタバタして申し訳ありませんでした(滝汗)

しかも、もうすでに目次へのリンク貼りが滞っています。重ね重ねお詫びいたします。

もちろん、この3-4日で#190を終えたいと思っています……。
やっとこの章の後半の詳細ができました。後は一気に書くのみ!ですが、まだまだ光輪発動までお時間がかかるかもしれません……(-_-;)

それではまた近いうちに!


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2013年4月 7日 (日)

暁の明星 宵の流星 ♯189

草原のような緑の瞳からみるみると涙が溢れ、彼女の頬に伝っていく。
『……ロータス…』
彼女の首には今しがた自分がつけた手の跡がある。
その乱れた姿にレツは、今まで抑え付けてきた真っ黒な感情が自身から湧きあがってくるのを感じていた。
それは怒り、などという生易しい単純なものではない、絶望を含んだ凶悪な感情だった。

妻は、自分以外の男と、それもよそ者と……!

何をしていたかが歴然としている彼女の姿。その彼女の手に握られている扉の鍵。消えた男。

『あいつを逃がしたのか』
いつも自分が敵を追い詰めるような声を、愛する女に発してしまっている己の醜さ。
びく、と全身を震わす彼女に、自分はかつてないほどの汚い感情を晒してしまっている。
『……それで何故お前は戻ってきた?』
ロータスの目が苦痛に揺らぐ。
『あの男と逃げずに、……なぜユナの地に戻ってきた?しかもそんな淫らな格好で』
ぐ!と彼女の喉が詰まったような音を立てる。
『……何故、帰れば罪人扱いを受けるとわかってて、この地に戻ってきたんだ!』

それは、罪人になる覚悟で戻ってきたという他、考えられないのもレツはわかりきっていた。
女はどんな罪を犯しても死は免れる。免れるけれどその行き着く先は生きた地獄が待っている。
それを覚悟で戻るという事は、……男と逃げて刺客を動かされるよりも、死罪のない女だけが戻れば相手の男の死は免れるから……。
そう思い当たったと同時に、レツは深い絶望の海に突き落とされた。

彼女は、自分の身よりも、相手の命を取ったのだ────。

それは相手の男への深い愛情を見せ付けられたと同意である。レツにとって。自分よりも、男の命を優先させたという事実。
もちろん刺客がついて男が死に、彼女が連れ戻されたとしても罪は罪だが、……それを選ばなかったという時点で彼女の男への愛の深さを思い知らされた。

ただ、この時他の理由があるなどとは、レツは全く考えも思いもしなかった。
怒りと相手の男への憎悪と嫉妬でおかしくなっていたから。
もう少し、いつもの冷静さが残っていたのなら…彼女を責めずに事情を問いただせていたら…。
いや、それでもロータスは隠すだろう。
目の前にいる男と、逃がした男のために。

この時ロータスは己の運命を覚悟した。
……誰でもない、愛する男にこの酷い姿を見られてしまった。いくら無理矢理された行為とはいえ、夫達以外の男とそういう関係になったという事が明白なのだから。……もう、完全に流刑送りは避けられない。

自分が戻ってきた理由も、全ては長の方や中枢部にこの件を報告するためと、恩情を請う為もある。もちろんアムイに刺客をつけられるのも困る以上に、残される家族が心配だったからだ。
名門でもあるカルアツヤ家の嫁が、このような醜聞を晒し、男と、それもよそ者と逃げたとされたら、それは婚家にも育ててくれた祖母にまでも多大な迷惑をかける。かけるどころじゃない、逃亡の罪は家族にまでも及ぶ。監督不行き届きとして。
まだ潔く本人が罪人として残る方が、その罪は個人だけとされ家族は切り離して考えてもらえる。罪状決定前に離縁すれば、もちろん醜聞は残るだろうが罪は犯した者だけで、他人は関係ないとされる。──ロータスは、カルアツヤの家を守りたかった。
自分を受け入れてくれた夫達、可愛い二人の小さな息子、……そして、そして自分が一番愛する目の前の男。
守りたかった。本当に守りたかったのは、……彼らだった。

『鍵を渡せ』
もう止まらない。この激しくも真っ黒な感情は、今に始まった事じゃない。知らないうちに少しづつ積もっていき、気がつかないうちに溢れ出そうになっていた。
自覚は、あった。それをずっと、理性が、常識が、良心が。全てを総動員して抑え込んできたものだ。
自分は、本当は、こんな激情に駆られるただの男、だ……。目の前の女が絡むと。
レツの瞳が狂気に揺らぐ。
いつの間にか。自分を蝕んでいた悋気(りんき)、執着。この浅ましい独占欲を、今まで自分は見てみない振りをし続けた。
何故なら、それが彼女を妻にすると決定した時に覚悟し、妻となった彼女との生活を維持するために封印した感情だから。
兄のルォウの決定に、歓喜以上に支配した恐れ。
《僕はロータス以外、妻に迎えたくない》
あの女に対して淡白なルォウが珍しく欲したのが…ロータス。
もし彼女が妻となったら、自分以外の男と同じ屋根の下で抱かれるのを、自分は我慢できるのだろうか…?
その葛藤にあえて目を瞑ればいい。そうすれば、事実上彼女は自分の妻となる。例え他に夫がいても、それは自分の兄弟だから。赤の他人ではないから。それさえ考えなければ……この手で、再び彼女をこの手にする事ができる……。
その誘惑に抗えない自分も確かにいたわけで。
自分のこの彼女に対する激しい思いに蓋をすれば、きっとみんなと上手くいく。──そう自分に言い聞かせてきて…。

『なぜ……?』
か細い声。自分の耳朶にいつも優しく絡む彼女の声は、緊張のために今は掠れ、それが男に劣情を抱かせるとは知らない。レツの嗜虐心がじりじりと燃え燻っていく。
『何故、だって?当たり前だ。あの男を追う。追ってここに連れ戻す……抵抗するならその場で斬って首だけを持ち帰れば砦も納得するだろう。……お前は何も言わなくていい。いや、すぐに部屋に戻れ。お前は何も知らなかった、それで済む』
『……できないわ……もう…』
そう、だってもうすでにロータスのした事は砦の最高責任者に知れている……。
あの男は自分が家族を捨てられないのもわかっている。だから事が済んで彼女にこのままでいろと言ったのだ。
大事な家族に逃亡者を出した責を取らさせたくないだろう?まだお前の不貞で流刑地送りになった方が、お前の家族は傷を被らない。ま、しばらくは醜聞に晒されるだろうが、罪はお前一人で背負う事になるのだから、新しい嫁がくればそんな噂も表立つ事もなくなるだろう。カルアツヤほどの名家なら、後妻を斡旋するくらい簡単だ。なんなら自分が口添えするぞ、とまで言って……。
もうすぐ祈願夜が終わる。そうすればロータスと男が部屋にいないのもすぐに知れる。……何もかも把握している長官は、嬉々としてこの外界への扉の部屋にやってくるだろう。幾人かの部下を引き連れて。自分に罪状を突きつけるために。
婚家や実家に…特に母は奥の方であり…迷惑かけたくなかったら逃げるなよ、と薄笑いして出て行った男。
でもまさか、さすがの砦の長官も、自分と同じく祈願夜に行動する者がいたとは思ってみなったのだろう。カルアツヤは戦士の家系。その家の者である彼らが、全ての福恩を受けるとされる祈願夜をないがしろにするとは微塵にも考えなかったはずだ。

だが、こうして今その家で一番戦士として優秀な男が大事な祈願夜にここにいた。妻を捜して外界の扉の部屋に。

『できない!?』
妻の言葉に彼は激昂した。どす黒い感情はこの聖なる夜に似合わずに飛散していく。止められない、もう。
『……わ、私、いいの。罪を甘んじて受ける……覚悟はできてるから』
バシッ!
静寂を引き裂くように高らかな音を立ててロータスの頬はレツの手で叩かれた。
『…お前は!』
頬を手で押さえたロータスは決意を込めた瞳でレツを振り仰ぐ。叩かれた衝撃で、彼女の心にまだ巣食っていた迷いが完全に吹っ切れた。もう、皆に……彼に迷惑をかけてはいけない。最悪な状況を見られたくない人に見られ、侮蔑されたなら、もう、いいではないか。ただ、彼が…英雄とまで讃えられた彼が、大事な夜ではなく自分を優先したという事に、彼女は仄暗い喜びを感じていたのも事実。それが例え家のための責任感からだとしても、……形だけの妻を守るためだろうとしても。妹のように可愛がっていた幼馴染みの為だとしても。

──レツは……自分を捜しに来てくれた……。

『これ以上、皆に迷惑をかけるつもりか』
思ったとおりの言葉を聞かせれて、ロータスは心の中で苦笑する。そんなの、わかっている。だから私は決めたのだ。──最後の切り札を使う事に。
『俺の言う事を聞け。今ならまだ間に合う。……鍵を寄こせ、ロータス』
『お、お願い、そ、そんなことしたら』
貴方が……!という言葉を飲み込む。彼を共犯にしていけない。こんな事が生涯隠し通せるわけがない。特にあの卑劣なリガル長官がもうすでに知っている。もう、自分にできる事は、皆の名誉と…セドナダ王家の直系の存在と…目の前にいる愛しい男の輝かしい未来を、守るだけだ。

この時、すでにロータスは、最優良の特権である恩情にすがる覚悟を決めていた。

それを知らないレツの激昂が部屋に轟く。
『あの男がそんなに大事か!』
『レツ!』
『お前が戻ってきたのも鍵を俺に渡さないのも、全てあの男のためなんだな!』
ロータスは震えた。こんなレツは初めて見る。……そう、初めて彼を恐ろしいと思った。
『……なおさらあいつをこのまま無事に逃がすわけには…』
『お願い、やめて!』
戦士として勇敢で、敵に対しては非情に冷酷になると聞いていたその姿が今目の前にある。やると決めたら絶対やり遂げようとする……目。怯んだロータスは自分がなにを言っているのかわからないほど動揺した。レツに、レツに彼を殺させてはならない!
『どうか、レツ、あの人を追わないで。このまま見逃して。最初で最後のお願いだから!』
目の前が怒りで真っ赤になった。
聞きたくなかった、そんな言葉。願って欲しくなかった、自分に。……お前をこんなに愛している自分に。
本当は心が泣き叫んでいた。その心がぱっくりと傷が開いてどくどくと血が流れる感覚に眩暈がする。
『私は、いい、の、…か、覚悟を決めている……からっ』
ロータスは泣きながらすがりつく。本当に死に物狂いで。
『か、彼を殺さないでっ。追わないで…』
それがレツの手を汚さない為に必死だったとしても、そんなのはレツ本人にわかるはずもない。彼にはアムイの命を乞うための訴えとしか受け取れなず、完全に火に油を注いでしまった。
『お前はっ…!』
すがりつくロータスの肩を両手でがしっと掴むと、レツは怒鳴った。
『罪人になるという事を!こうして他の男と通じたお前は、もう完全に流刑地送りだと、良妻のお前はわかってやった事なんだろう!?流刑送りの暁には、どういう処遇となる事も、全てわかってお前はそう言うんだな!』
レツは震えていた。男を救うために、愛する女は生き地獄を選んだ。その事に対してもレツは愕然とし、絶望した。
罪人になる覚悟……という事は、不特定多数……いや一度に何人もの素性の知れぬ男達に強姦されても文句の言えない環境に身を置く、という事だ。
ユナの女は死罪はない。だが、命を保障されるとしても、刑は過酷だ。もちろん死ぬまで、男達の慰み者として生き続けなければならない。もちろんそれだけではなく、過酷な労働もついてまわるが、その延長上にそれらの行為が入っていると思っていい。
──そんな恐ろしい所に愛する女を向かわせて、誰が正気でいられるか?
『お願い、聞いてレツ……。私、わたしは…』
ロータスは泣きながらレツの手に自分の手を重ねた。その柔らかさに、レツははっとする。
この手は、いつも自分を慰め労わってくれた。夫婦だけの時間、愛しそうに自分をまさぐるこの手に、もしかして自分は男として愛されているのかもという、わずかな望みにすがっていた愚かな日々が甦る。

……もう、何も聞きたくない…!!!

その瞬間、レツは彼女を突き放し、部屋を飛び出していた。

 

***


ガラムは汗でじっとりとした手を何回か握り締めては広げた。
そう、姉の死の事実を義兄である彼から聞かないとならない。
本来、それは自分の仕事ではないか、とこの時点でやっと思いつく。
ある程度の真実は、長である父の側近であるセツカが手にしているようだが、姉が死んだ夜に義兄である彼がいたという疑惑に、ガラムはジース……長候補として、自ら率先し立ち向かわなければいけない立場ではないかと冷静に考える。
どうも今まで気がつかないうちにできのいい彼らに甘えていたようだ。こうなってやっと気がついた自分は何て愚かなのか。
頂点に立つ覚悟すら、姉の死に囚われて自分は全く持ってなどいなかったのである。何度セツカ達に苦言をもたらされていても、わかったわかったと返していた自分に苦笑する。それは頭で納得していた事で、本当は心まで染みてはいなかった。魂までわかってはいなかった。──本当に一族の長になるという立場の覚悟を。
成人を迎えたからといって、本当の大人になったわけではなかった。今までの子供じみた己の考えや行動に、ガラムはもの凄い羞恥を覚えた。……こんな自分が、敬愛する父の跡を継げるのか。まだ沈着冷静で余裕のある兄達の方が適任ではないか。
そんな自嘲が湧き上がってくるのを、ガラムは瞬時に戒めた。
ここで自分が変わらなければ、ジースとして恥じぬ行動をしなければ……将来、次期長という地位を勝ち取る事はできないだろう。
やっと現実を見る事ができたのかもしれない。今まで夢を見ているだけの自分ではユナの頂点には立つことはできない、という現実を。

《ならばお確かめください。貴方の目と耳で、そして心で。個人ではなく、上に立つ者として。
……それが将来、貴方にとって一族の頂点となるための礎となりましょう》

先程シータに諭された言葉がガラムの胸に染み渡っていく。

覚悟。

自分に足りなかったのは覚悟、だ。

長になる、その覚悟。島の一族全員をまとめ、宇宙の大樹(そらのたいじゅ)の示す場所へと大勢の人間を導く。背負うものの大きさをしっかりと把握し、上に立つものとしての覚悟を軸として……自分は将来、長となる。
ならば。ならば今自分がするべき事は……。

***


「レツ……お願いだ。どうか剣を…セドナダの王子に向ける刃を収めてくれ。……もし、このままお前がセドナダの直系に傷をつけてしまったら、もう、取り返しのつかない事になる。……長の命に背いた謀反人として…お前を処罰しなければならない…。
わかってくれるよな?レツ。お前はユナの英雄なんだ。ユナの民の希望の星でもあるんだ。──もし、私が推測した事が正しければ、お前は重い罪には問われない。
今ならまだ引き返せる。──多分、ロータスもそう願っているはずだ。……違うか?」

セツカの口から放たれたロータスの名に、レツはびくりと肩を揺らした。
「……何だ、推測って…。ロータスの願いって…。
──はっきり言ったらどうだ?俺は扉の鍵を持っていた。しかも血まみれの、あの夜になくなった鍵を、だ。
俺が彼女を殺した犯人だとどうして思わない?」
セツカはその言葉に苦悶の表情になる。
「……それは…お前はロータスを殺せないと…いや、ロータスがそうさせないと…確信してるからだ」
ガラムは弾かれたようにセツカを見た。姉を殺したのが義兄ではない?そのはっきりとした考えはどこからくるものなのか。
「何故」
「……彼女がお前を愛しているからだ」

しん、と一瞬その場が静まり返り、何とも言えない重い空気が漂った。
だがそれもレツの乾いた笑いで破られる。

「はは、馬鹿な事を」
嘲るように言い放つレツに、セツカは何の意も返さずに淡々とこう告げる。
「昔からロータスは、、レツ、お前ただ一人を愛していた」
驚愕に目が見開かれる。レツのその目に、動揺の影が揺らいだ。
「そんな…何故、そんな嘘を言う?お前も…暁も…そんなに俺を謀りたいのか」
「嘘でこんな事を言うものか。もちろん……暁の君の先程の言葉だって真実だ」
はっきりそう断言した事で、セツカがその証拠となるものを掌握しているという事実が判明する。
「何故そう断言……」
「断言できるかって?……それは様々な証言が取れた結果だ。
彼女を助けられなかった我々ができるせめてもの事だった。よそ者と通じたのではないか、という不名誉をかけられたままの彼女の真実を取り戻す。──だから、人の家庭でのプライバシーに関わる問題だからこそ、こんなにも時間がかかってしまったのだが」
「……証言?家庭でのプライバシー……?どういう意味だ、それは」
セツカは哀しげにこう言った。
「レツ、どうか本当に剣を収めてくれ。そして、我々が知った真実をちゃんと聞いて欲しい。──その後で、外界の扉の部屋でお前とロータスの間に何があったのかを知りたい」

彼の直属の上司でもあり、公私共に信頼していた男であるセツカの真摯な言葉は、普段の冷静なレツを呼び戻すのに功を成した。ただ、それは一時的なものかもしれない。聞く内容によっては、レツの感情が再び荒れ、乱心する可能性がないとは言い切れない。

セツカは慎重に言葉を選びながら、自分が知っている全ての情報を彼に伝えようと、重くなりがちな口を開いた。

「……まず初めにお前に謝らなければならない……お前の兄の、ルォウの事で」

***


ロータスは耳を疑った。
いきなり、彼の長兄であるルォウの言葉に。

『……君をお嫁さんにしてあげるよ』

それは、それって……。

『レツの事が好きなんでしょう?だから協力するって言っているんだ。……わからないとでも思った?君のレツを見る目…。僕と同じだから。……だから、だからお願いだロータス。君をカルアツヤの嫁にするから…この事を誰にも言わないで』

そう言って目を伏せるルォウの艶かしさに、ロータスは口を噤んだ。……これは…互いの協定だ。そう、この結婚は互いの秘密を守る為の。
ロータスは気がつくと肯定の頷きを返していた。そして彼女と兄のルォウは秘密の恋という共通点でこの結婚を決めたのだ。

彼女が偶然見てしまったのは、誰もいない森の奥での……ルォウとある青年戦士との決定的な逢引の現場だった。


***

「…謝る?何を?」
眉をしかめるレツは、結局剣を収める事もなく、それを握ったままだらんと手を下に下ろしている。それを内心苦笑して見ながら、セツカは言いにくそうにこう告白した。
「……ルォウがロータスを妻に希望したのは、純粋に彼女が気に入ったからじゃない」
「え?」
「彼女に、自分がある人間と恋仲になっている現場を目撃されたからだ」
「……まさか…兄が…?」
解せないという表情でレツは頭を振った。…何で…?ルォウはロータスを好きだから結婚相手に所望したのではなかったのか?しかも兄には別に恋仲になっている相手がいると。ならどうしてその相手と…?いや、そんなの聞いて明白じゃないか。“結婚できない”相手だからだ。……という事は。
「……相手は私の息子のケリーだ。すまない、レツ。そういう事で彼らから事情を訊くのにかなりの時間がかかってしまった」
セツカの息子、と言っても、名ばかりの息子だというのは誰もが知っている事実だ。彼はまだセツカが未成年の時に生まれている。つまり生物学的には甥である。
その話にはガラムも驚きを隠せない。
確かに、女の数が減って、男性同士が恋仲になる話は少なからずあるのはガラムだって知っている。……性的欲求の激しい時期に男だけの集団にいるわけだから、そういう事は普通にガラムの身近にもあった。けれど、それはやはりユナとしては公に認められていないというか、同性愛なるものを頭に置いていないというか、大陸のように表に出さないだけで…。
……特に長男であるルォウの立場は絶対に知られてはならない関係、という事になる。
「彼女が亡くなって、……ルォウもシキも……お前の状態が変だと…。それで我々が大陸へ出る前に彼らが私に相談した事で…事情が明るみになった」
セツカは疲れたような溜息を吐いた。
「特にルォウはお前の狂気を感じ取って、追い詰められていた。……ケリーと一緒に、今まで隠していた関係と共に自分達の結婚の真実を告白しに来たんだ。もしかしたら自分達が平穏に暮らす為に隠していた事実を知らないお前が、彼女の気持ちを推し量れずに暴走しているのではないか、と」
「…まさか…そんな…」
「その時はっきりとルォウはロータスの気持ちを聞いている。お前の事を、幼い頃から愛してきた事を」
「違う…そんな筈は」
「それからシキ。……あいつも彼女が死んで、そしてお前がこうなって後悔しているみたいだった」
「シキが?何で」
「お前がロータスを愛していると知っていて、彼女を独占しようとした事をだ」


***

『そうか、やはりそうだったんだ。ロータスはレツ兄貴が好きで、結婚したいからルォウ兄さんを利用したわけだ』
随分意地の悪い言い方をしている、とシキは自嘲した。だが、もう抑える事はできそうにもない。蒼白となって、小刻みに震える彼女に、自分の被虐心が煽られる。……この時になって、またレツ、だ。優等生のレツ。人気者のレツ。ベン親父のお気に入りのレツ。
レツ、レツ、レツ……。
ああ、もううんざりだ。

目の前の幼馴染の彼女は、驚くほど魅力的に成長していた。結婚したのにしばらく遠方に行っていた自分が、彼女をこの手に抱く事を凄く待ち望んでいたほどに。
──すでに兄のルォウとレツ、二人と新婚の契りを交わしているであろう愛らしい新妻は、シキを夢中にさせるほどに具合がよかった。それに、とシキは思い浮かべる。自分との初夜の時に微妙に揺れていたあのレツの瞳。懸命に自分の気持ちを隠せていると思っているだろうが、だてに何年も兄弟をしていたわけじゃない。甘いんだよ、レツ。
──そう、あの時、シキ自身気がついてしまった。
レツの、ロータスへの激しい思いを。
そして諜報部員としての自分の勘が働いて、ロータスとルォウの秘密も手にする事ができた。
シキは彼らを支配できる優越に酔っていたといってもいい。
(かき回してやる)
それからシキの、あからさまな態度が横行した。レツの前でロータスを弄り甘やかす。もちろん彼女を脅して自分の言う事を聞かせる。その度にあの男の崩れない顔で、唯一揺らぐ目の奥の炎を確認しては暗い喜びを感じた。
最初は当て付けているだけだった。
……それがいつしか彼女のレツへの思いの強さを感じて、それに対して焦燥を感じるようになっていた。……純粋に彼女を手に入れたいと思い始めたのはこの頃かもしれない。
だから、彼女に酷い事をした。他の夫よりも自分を優先させるように仕向け、……計画的に自分だけの子を欲しがった。そう、彼女と自分の。
……だって知ってしまった。ルォウは女を抱けない。だから自分が長期出張で家にいない間に出来た子供は……必然的にレツの子だ。弟達はまだ成人になっていないのだから可能性はない。
それが悔しかった。自分と彼女の繋がりの証を求めたとしても悪くはないだろう。そう傲慢に考えて、わざとレツを仕事で遠ざけさせている間に、シキは彼女を独占した。長兄と弟を薬で毎晩眠らせて、嫌がる彼女と無理矢理夜毎繋がった。……その甲斐あって彼女はほどなく妊娠した。──自分の子供を。
もちろん良妻であるロータスは、この事実を隠し通し、子供は分け隔てなく育てるという条件を突きつけたけれど、自分は満足だった。

──彼女の苦しみを知らないで。いや、知っていた。
なのに自分は無理に目を瞑って。耳を塞いで。
あの最中に、無意識に彼女が憐れに呟くレツの名前に気がつかないフリをして。
   

だからシキはこの事件について確信していることがあった。──それは助けた男との間に男女の情はなかった、と。
いや、男と女の間の事だ、恋に落ちるのだって時間は関係ないだろう。
もしそうだとしても、あのロータスが簡単に兄のレツを(気持ち的に)捨てられる筈がないとシキは思った

同時にあの事件以来、危険なものを感じさせる兄に脅威を感じたのは否定できない。
何かのきっかけで脆くも崩れそうな、そんな危うい状態……。ガラムと共に【暁の明星】を追うと知って、シキはやっと自分の気持ちを奮い立たした。──自分なりにこの件を調べよう、と。

***

「シキは私がジースとお前のお目付けで同行する代わりに彼女の調査を続行してくれた。……この報告書も、お前の弟自ら作ったものだ、レツ」
セツカは、無言のままこちらを見ているレツの瞳に戸惑いの色を見つけ、最後の後押しをした。


「……お前や一般の男は知らない事だが、彼女がお前の最初の男であったのは、覚えているだろう?成人の儀式の相手として選んだんだよレツ。彼女の意思で。──彼女はそのためだけに必死になって勉強し、最優良を取ったんだよ」

                                                                                                                                                                                       


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