幕間2~旧友~
「なんでも屋」の爽(そう)はその総轄責任者である魁(かい)の跡取り息子だ。本名(ほんな)はディズ=クライシス。27歳のキイよりも確か4歳くらい年上だったと記憶している。
実は彼はキイと同じ聖天風来寺で修行した、同期門下生だった男だ。同期とはいえ幅広い年齢層が学ぶ為、一々相手の年齢にこだわらないが、だから多分、爽…ディズは軽く30を越えてると思う。
それでも彼の男らしく凛々しい風貌は年齢を感じさせない若々しさに満ちている。まぁ、ある意味老け顔ではない、と言った所か。だからキイの仲間内で一番の年長だったとはいえ、そう感じさせない友人であった。栗色の髪に鳶色の目は東によくある色なので、多分彼は東のどこかの州の出だろう。
彼はキイを恋愛の対象で見ない稀有な男友達でもある。尋常ではない美貌を持つキイに、不本意ながら懸想する(普通は異性に対して使う言葉だが、ここでは…察して欲しい)男達が絶えない彼を、ごく普通の男として当たり前に扱える数少ない同性の仲間の一人でもある。
ま、簡単に言えばキイと同様、単なる女好きだという事だ。ただそれだけでは、この麗しい外見に似合わない、根っからの侠気溢れる一筋縄ではいかない男と付き合うにも、並大抵の事ではないのであるが。
「お前、ずっとアーシュラのところにいたんだってな」
突如として暗い瞳でディズが言った。
「ああ…」
キイの落ち込んだ顔に、ディズも堪らず下を向いた。アーシュラ=クラウは彼にとっても親しい友人だったからだ。
「あいつの気持ちにお前は気付いていたか?」
「……薄々は…。でも、俺はあいつを親友としか思えなかった。あいつもそれ以上俺に何も要求しなかった。だからいい関係を築けたんだと思う……だけどな」
キイは苦笑して手にした杯を煽った。
「最期にはっきり言われてしまったよ、"友達じゃない”……って」
「そうか」
ディズはもういない旧友を思って空を仰いだ。満天の星空。冷え込んでいる空気のお陰できらきらと夜空を飾っている。
そう言われたキイも、哀しかったのかそれとも“やはり”という感情だったのか、内心は複雑に乱れてなんとも形容しがたかった。
「それでもやっぱりさ、俺は奴にたくさんのものを教わったし、貰ったんだよ。……奴にとっては違う別のものだったとしても、俺にとっては……たっくさんの友情をさ……」
共通の友人としてディズは無言で相槌を打つ。多分仲間内では、アーシュラという男の本心を見抜いていたのはきっと自分だけだろう。
彼の秘めた熱い視線がキイの姿を追いかけていた事に気がついていても、ディズは彼のために一生言わないつもりだった。ディズもまた、アーシュラという男が好きだった。寡黙で悠然と構えてて。自分にはない、秘めた鋼の精神力──。その精神力で揺るがない愛情を惜しみなく秘めて…彼は逝った。いや、最期に吐露したというあの言葉が彼の全てだ。──世間で言う愛の言葉でなかったとしても。
彼の話が出て、しばらくしんみりとした雰囲気が漂っていたが、久々に会った懐かしい顔に、キイはいつになく饒舌だった。まぁ、ほどよく酒も回ってきたのだろう、互いに積もる昔話の後は、お約束の近況報告だ。
しばらく当たり障りのない近況を話し終えた後、唐突にキイがこう言った。
「ああ、そうだ。俺、お前に礼を言おうと思ってたんだ」
「礼?何だ、改まって」
怪訝そうなディズに、キイは深々と頭を下げた。
「お前の大事な部下を、アムイに回してくれたことをだよ」
「ああ……凪(なぎ)ね」
「聖天風来寺を去る時に頼んでいた事を……守ってくれてありがとう……」
「いやいや。友情の部分もあったけど、行動費用に上乗せして料金を先払いしてくれたんだ。……当たり前だろ、商売だからな」
ディズはにやっと笑って片目を瞑ると、キイの杯に酒を注いだ。
当時のディズはまだ修業の身だった。早々に追い出されたキイとは違い、まだしっかりと6年も課程が残っていた。卒門したのは実は今年に入ってからだ。その間の調査などの諸々の事は、幼い頃から弟分でもあった、部下である凪に頼んでいた。
それでも修業も終わり近くになると割りと自由行動が取れるので、もちろんできる限りディズは友人のために自分でも動いた。ただキイが行方知れずになってからは、ほとんど凪にまかせていたが。
「俺に何かあったら、アムイを頼めるのはお前しかいなかったからな…」
「っていうか、俺はほとんど何もしていないがな。お前の言うとおり、下手な手出しはしなかった。アムイの奴が頼ってきた時に親身になっただけだ」
「それでも先回りして信用できる男を近づけてくれた。それだけでもありがたいことだよ。アムイはこの事を知らないけど、凪には随分と世話になったと本人から聞いた」
「そうかい、あのアムイがね」
愛好崩したディズは、友人の大切にしている仏頂面で愛想のない男の姿を思い浮かべる。昔から二人の関係性が不思議だった。ただの幼馴染ではない、濃厚な絆。それがやっと本人の口から語られた二人の関係。昔からキイのアムイに対する態度を知っていた彼にとって、聞けばなるほどやはり、という感じではあった。本当に(半分でも)血が繋がっていたとは。アムイを溺愛するのに充分すぎるほどの理由だ、ディズにとっては。──真実はどうであれ、この男は自分と同じ、異性にしか欲情しない事を知っているからだ。
「お前もアムイには甘いって思ってるんだろ?」
「"も”?……ああ、アーシュラね。まぁ、奴ほどではないが、ちょっとは思うな。……だってアムイは知らないんだろ?お前がこうやって裏から手を回している…なんてよ」
ディズは目の前の男に苦笑いした。昔からそうだった。ことアムイの事となると、過保護か、というほどに手をかけ過ぎると思う。
「できればそれを本人には知られたくない。……今はまだ」
キイはそう呟いて目を伏せた。長い睫が陰影を作って微かに震えている。
この4年。人と接する事が下手なアムイが自分と離れ、たった一人で乗り越えた、という事が肝心なのだ。今はまだ、自分の力でやって来れたと思っていて欲しい。今、そうやって自分が裏から手を回している事が知れたら……アムイは怒る事はないにしろ、絶対に再び自信喪失する。──結局、自分では何もできない無能な人間だと……自分を追い詰める。
「お前さ…」
「お前の言いたいことはわかる。だが俺だって何も考えていないわけじゃない。
アーシュラにも言われた。…甘やかすのも度を越すと相手のためにならないってさ。
でも違うんだよ。
……今までのアムイには必要だったから」
「必要…?」
「おお。あまり詳しくは話せないが、あいつの人に対する闇は恐ろしいほどに底が深かったんだよ。──それをどうにかできるまで、本当に長い時間を必要としたんだ。傍から見れば異様に俺が干渉して、あいつは黙って受け入れていたようだったろ?」
「そうだな」
珍しい事もあるものだ、とディズは友人の顔を眺める。彼が相棒である【暁の明星】の事を詳しく話すなんて滅多にないことだからだ。かなり酔いが回り始めたのかもしれない。
「お前には信じられない事かもしれないが、俺とアムイは表裏一体だ」
「……」
「多分、生まれたときから互いを支え合ってきた。その片方が不調な時は好調な方がフォローするのは当たり前なんだよ。そうでなければ互いが自滅してしまうから。……理想は互いが高見を臨む状態だ」
キイが何を言わんとしているのか、長年の友人であるディズにもよく把握しきれないでいた。ただ、キイがアムイに対して行っている事は、世間一般が思う単純なものとは訳が違うようである。
「そこまで引っ張れば、後はアムイが自分で何でもやる。─たとえ今、俺が根回しした人間関係があろうと、同等と並んだ奴は勝手に自分で人脈を作り広げていく。多分俺よりも……自分を取り戻したらあいつは凄い」
「へぇ…。お前がそこまで言い切るなんてな」
「そこまで到達すれば、俺の手はいらなくなる。本来のアムイは保護を受けたまま依存しているだけの男じゃねぇ。
目覚めるまではえらく時間と手間がかかるが、葛藤しながらもきちんとわかっている、魂で。それに気付くか気付かないかの問題で…」
そこまで言ってキイは大きな溜息を吐いた。
「──同じ目線となって初めて双璧となる……か。親らしい事言うじゃん、アマトも」
アムイから聞いていた父アマトの霊の言葉がふっとキイの脳裏に浮かんで、つい言葉に出てしまった。
「は?」
「いや、何でもねぇよ。こっちの話」
何か照れくさくなってキイは酒を喉に流し込む。じわゎっと熱い液体が喉を刺激していく。
この時点でアムイが自分の異母の弟で、神王の直系である事実を知っているのは限られた人間だけだ。
その事実を堂々と公にするにはまだ早い。──隠しているのは今のアムイの身を守る必要があるという事であり、真実の意味での双璧となっていないからである。
時間の許す限り──キイは本当の意味でアムイと肩を並べる日を待つ。だが、それで終わりではない事をキイは嫌と言うほど知っている。二人のこの先にあるもの──。それを思うとキイは自分の身体が震えるのを止められない。
自分に課せられたこの世での許された時間……。だからこそ出来る限りの手を尽くす。その最後の最後に笑ってこの地から、アムイから去っていけるように……。
「ところで宵様よ、妹がお前に会いたがっていたぜ。ったく、数年行方くらましてても女はお前を放っとかねぇなぁ。まぁ、落ち着いたらまた本部にでも寄ってくれ。艶(つや)の奴、全身を使ってあれやこれやと大歓待しそうだが」
段々重苦しい空気になり始めた事を察知したディズは、明るい調子で話題を変えた。そういう時は女の話。変な持論がディズにはある。
「艶(つや)…シェリ、か。あれから数年経って、益々色っぽくなってるんだろうなぁ」
「ああ、昨年また子供産んだ」
ピゥっと思わずキイの口から口笛が出た。
「今度は南の高官が種らしい」
「それはそれは、お盛んで」
ディズの妹であるシェリ、通称・艶(つや)は主に組織の情報部員といってもよかった。それも男相手の、つまり閨で情報収集する娼館(もちろん客は知らないが)を取り仕切っている。もちろんその店は「なんでも屋」が影で経営している店の一つだ。
若かりし頃のキイや仲間達は休みとなるとゲウラ国境近くにある東の国の小さな町にお忍びで遊びに行った。そこには年長であるディズの実家がある。東でもある程度自治権を持つシュウラという小国は、いわくありげな人間が多く流れ着く所。その為に東の国では珍しく繁華街が賑わっている。それらを影で牛耳っているのが「なんでも屋」を生業にしているディズの父親である。他所の国ではそれをやくざと称するかもしれないが……まぁ、とにかく裏家業で顔の効く一家だ。ただ、そこら辺の賊と一緒にされたくないのか、割と古風なディズの一家は法を破る事はあっても、素人には絶対に手を出さない、人を殺めない、またはそういう悪行の片棒を取らない、いくら金を積まれても非道な事は絶対に依頼を受けない、という事で有名だ。
だからたまに行く彼の実家は、遊び盛りの少年には刺激的で、もちろん、いけない遊びもその時にすべて教わったと言ってもいいだろう。もちろん、その同行に人見知りの酷いアムイが参加した試しがない。キイがそういう所で羽目を外している間、アムイの相手をシータがしていたのは周知の事実である。
その当時からディズの妹であるシェリは色気満々の美女で(もちろん、キイよりも少し年上)彼女に気に入られたキイは、もう何年も割り切った大人の関係を結んでいる。キイは特定の女を作るつもりはない。彼女もまた職業柄多情な所があって、一人に絞れない。二人は似た者同士といえよう。
そんな彼女だが、気に入って惚れ込んだ相手の種…つまり子供を欲しがるという変わった傾向があった。
不特定多数の男とそうなるのに意外と嫌悪を感じない恋多き彼女が、唯一表す独占欲ではないか、と兄のディズは分析する。
何せ、好ましい男は皆家庭持ちか、かなり身分の高い人間ばかり。しかも彼女は男に対する愛が持続する事が難しいタイプだ。それなのに母性は溢れていて、惚れた相手との子であれば無条件に愛し抜く。実際彼女は二十代後半ですでに父親の違う子供を5人産んでいた。キイは彼女と接する度にその大らかさと、奔放にも女を謳歌している所に崇敬を感じている。
「それにほら、聖天山(しょうてんざん)の麓の町にいた……あの店の子。何ていったっけかなぁ、お前が追い出されてから寂しい寂しいってさ。恨み言、言ってたぞぉ。罪な男だ、お前は」
ニヤニヤと笑ってデイズはキイの背を叩くが、「お前はどうよ?」という問いかけに苦虫を潰すような顔をする。
「俺?……聞くなよ、妻帯者に」
「はは。そりゃ失敬」
むすっとした顔を眺めながら、キイは愉快そうに笑う。そんな友にディズは面白くない。
「それにしても驚いたぜ。──お前の素性。だからなんだな、あれだけ女と絡んでも、絶対お前は子供を作るようなヘマをしなかった」
さらりとしたディズの言葉にキイは、んむぅ、と言葉に詰まった。
「若いのにさ、すげぇな、と思ったよ。恥ずかしい話、俺なんて若かりしの失敗で何人か子供産ませちゃったけどさ。──俺よりもモテモテだった宵様には浮いた話はあれどスキャンダルはなかった……。それってお前自身の血筋に関係していたんだろ?」
全くこの男ときたら、とキイは苦笑する。職業上洞察力が鋭いというのか、よく見ているというか。簡単に俺様の内情を暴くな、と抗議したくなる。だが、それをぐっと堪えてキイは答える。これでも大事な旧友だ、争いたくはない。
「お前も知ったんだな……って、当たり前か。その為にお前にその辺を探ってきてもらったんだっけ。俺の事、派手に公表してくれたからね、【姫胡蝶】さんは。
まぁ、子供ね……欲しいと思った事もあるけど、仰る通り確かに俺だけの問題じゃなくなるからな、それって」
ぐいっとキイは杯に残った酒を飲み干した。本能のままの生殖行為。キイの欲情の基本はそれなのに、実際は思うように行かない。
神王の血筋。それは意外とこの大陸では思ったよりも重い。当時のセドナダ王家では、血筋の濃さを優先している所があったけれど、自分達以外に血が絶えてしまった今では……今の状況下で安易に同じ血を引く人間を作るのは阻まれた。その子と産んだ女にどれだけの負担や重荷を背負わせるかわからない。しかも片割れのアムイが不安定な状態で、他に守るべきものを作るのが怖かった。それがキイを躊躇させ自制させた。
避妊薬もなかなか手に入らなく、避妊の仕方のわからない若造の頃は、無闇に女の中に出した事が無いし、大人になった今は、避妊薬がない時は熟練した気術士に教わった方法で避妊を心がけていた。これは密やかに気術者達の間で知られている暗黙な気術応用の話である。高度な気術の習得者となると、女の子宮口に対し凝縮した"気"を膜のように張って蓋をする技ができる。これは本当に裏の裏技で、正式に習うようなものじゃない。だから奥手で女の苦手なアムイが知るはずもない術。というよりも男のたしなみとして教えようとしたキイに、アムイは聞き耳持たなかっただけだったが。
「そーだなぁ。お前の場合、責任が大きすぎるのかもな、この時点では。
今は外大陸から高価だが品質のいい薬も出回っているし、気術の裏技もある──回数はできないけど(※実は凝固にけっこう精神力を使う)。昔と違って随分子作りも計画的に出来るようになったからな。
──まぁ、あれだけ妹がお前の種を欲しがっても却下してきた理由(わけ)がはっきりしたよ」
「確かにそれが一番大きいけれど、それだけじゃない部分もあるかな。
……こんな事、兄のお前の手前言うことじゃないのかもしれないが……。産んでもらいたい、という女に会った事がないからだろう、単純に」
そう言う彼の瞳はどこか遠い所を見ている。昔、アムイとの噂が激しくて、嫌がらせを受けていた頃、他の者と同じように二人を疑ったのをアーシュラに咎められて、次の日彼に謝った時にふと見せた表情に似ていた。だが、長い付き合いのディズはそれ以上突っ込まず、何も言わない。いくら親しくても踏み入っていいものといけないものがある。彼はそれをわきまえている大人だった。
「アンタ達、そんな所で何話してんの。こんな夜更けにこそこそと……怪しい」
突然、二人の頭上でハスキーな声がした。
お!と慌てて立ち上がったのはキイではなく、ディズだった。
「ったく、盗み聞きかよ、恥ずかしい奴」
けっと悪態吐くキイだったが、その声の主の背後にいる小さな人影を見て、慌てて手で口を覆った。
そこにはシータに隠れるようにしてバツの悪そうに縮こまっているイェンランの姿があった。
「随分ね!悪いけどそこは通り道なの。密談だったらもっと別の所でやって。──それにしても、懐かしい顔じゃない、ディズ。久しぶり」
「お久しぶりです、シータさん」
「いやぁねぇ。同期なんだから敬語止めてっていってるのに、水臭いわよねディズって」
やけに笑顔をきらきらさせてシータはディズに顔を向けた。庭が薄暗くてよかったとディズは冷や汗をかく。そうでなければ年甲斐もなく真っ赤な顔した自分を相手に晒してしまっているだろうから。
「どうしてお嬢ちゃんと一緒に?何処へ行くんだ」
むすっとしたキイの声に、シータは薄笑いを浮かべた。
「ううん、今戻るとこ。さっきまでこの屋敷のご主人に用があったの。で、庭から抜けた方が早いからって教わったらアンタ達がいるんだもの」
「悪かったな。邪魔で」
実は今まで不順だった月のものが始まって、うっかり緊急の用意しかしていなかったイェンランを伴い、先程まで、現在世話になっているこの屋敷の女主人の所に行っていたのだった。その理由を男共に言いにくい(ここでもシータだけは別)二人は、笑って誤魔化す。
元々生理不順だった彼女は、この旅の疲れと様々に起きたショックな出来事のせいで、少ない出血はあれどもほぼない状態が続いていたのだ。だからイェンランはうっかり忘れていた。自分が女である事を。
で、結局この屋敷に辿り着き、この屋敷の主が女性だと知って、イェンランは安心したのかどっと疲れが出たのか、突然始まってしまって一瞬パニックを起した。緊急に備えてしか用意してなかった彼女は、慌ててしまって同室のシータに泣きついたのだ。男でもさすが年の功、冷静な判断でシータは彼女を唯一屋敷の中で女性である主の元へと連れて行ったという訳だ。
しばらく激しく動けないなぁ、早く終わってほしいなぁ、と思いながらイェンランが庭に歩き進めた時にキイの話声が聞こえてどきりとしたのだった。
それもあって少々気まずい思いを抱えながらも、イェンランは小さく「お休みなさい」と男二人に言うと、そそくさと先に駆けって行ってしまった。
「あ、お嬢!」
呼び止めたものの、シータは小さい溜息を吐くと彼女をそれ以上追わず、くるりと二人に振り向いた。
「何だよ」
怪訝そうなキイに、シータはぞんざいに右手を差し出した。
「だから何」
攣りあがった目に睨まれてもシータはまったく怖くない。
「酒」
「はっ?」
「だからお酒!アタシにも頂戴よ。アンタ達だけずるい」
なんやかんやと結局、旧友のよしみで酒盛りが始まり、三人がに思い思いにその場を立ち去ったのは明け方近くであった。
日が昇る前にここを出たがったディズのために、気を利かしたキイがまず先に「眠い」と言ってその場を去り、残された二人は、ディズを屋敷の外まで送る事にしたシータと、共に並んで暗い庭先を歩いていた。
まだ星が綺麗に瞬いている時間。ディズの心はまるで昔に戻ったみたいな初心(うぶ)な少年のように舞い上がっていた。
「何か訊きたい事があるんでしょう?」
そうでなければ、この隣の美しい人は自分のような不埒者と二人っきりになってくれないと思っていた。そんな気持ちが大人になった今でも残っているとは、とディズは苦笑する。
「そうねぇ。それよりも卒門してすぐに結婚したんだって?知らなかったわ。おめでとう!」
「はは。ありがとうございます」
照れながらディズは頭をかいた。
「さっきのキイの話だと、もうすでにお子さんがいるんでしょ?……じゃぁ、彼女はアナタが卒門するまで待っていてくれていた…って訳よねぇ。素敵だわ」
「ま、こんな事言ったらシータさんに軽蔑されてしまうかもしれませんが、若い頃無茶をしていた時に付き合っていた女のうちの一人で…。こいつだけがこんな俺に愛想をつかさなかった珍しい女でして。まぁ、女手一つで息子を育ててくれてましたしね。……他に隠し子がいても自分の子のように接してくれる、よく出来た奴なんですよ…」
「そうね!やんちゃしてたアナタにはもったいない人ね」
と軽口を言いつつ、シータの眼差しは優しい。
「本当にそうです。本来なら家業があるから特待生として入門しろと親から言われていたのを、本格的に修行したくて無理を通した訳でして、ほんと、完全な自分の我が儘だったんですよ。…結果待たせてしまったと同じなんでね、まぁ、尚更です」
もちろん修業中の妻帯は禁止で、既婚者は入門前に離縁を条件とされる。それだけ修行に専念しろ、という寺での教えなのだろう。まぁ、長い修業時代、こっそりと羽目を外す輩は絶えないけれど。
「あのねぇ。……もう、いくらアタシが一番年長だからって、同期だったんだからタメ口にしてよ。いつも敬語はよして、って言ってるのに」
「すみません…。どうもね、貴方を前にすると調子狂ってしまうんですよ。実は今だから白状すると、貴方は俺にとって昔から憧れで、初恋の人なんで」
初めて本人を前にして告げる自分の甘酸っぱい思いに、多分、自分の顔は真っ赤だろうとディズは思う。
「ええ?そうなの??だってディズ、アナタ女の方が好きでしょ?誰かさんと一緒で。だってアタシ、こんな成りしてても男よ?」
きょとん、とした顔も綺麗だなぁ、と思わずディズはうっとりする。
「ですからね。初恋は実らないって言うでしょ?…本当に惜しいんですよ。貴方が女性なら、俺の理想そのままだし、絶対口説き落としてる」
その言葉にシータはアハハと笑う。
「そりゃ残念だったわねぇ」
「で、いつかは訊こうかと思ったんですけど、シータさんには……そのう、お姉さんか妹さんかいます?」
「何を訊くかと思えば!はっきり言えば二人ともいるわ。特に末の妹はアタシと顔だけはそっくりって言われる。顔だけね!」
と悪戯っぽくニヤリとする。
「じゃぁ、いつか紹介…」
「なに言ってんの、妻帯者が!それにうちの妹はアタシと違って問題児でねぇ。普通の男には手に負えないじゃじゃ馬よ。止めた方が無難、無難」
からかうようにそう言うと、突然シータは真顔になった。
「ごめんね。……実はあの時、少し立ち聞きしちゃったのよ…」
「え?ああ…。キイとの話ですか?」
シータの硬い表情に、ディズは少し緊張した。
「アタシ、あそこまでちゃんとアイツが考えていたなんて思っていなかった」
「……は?」
「ずっと近くにいたのにね。……アイツの立場もわからないでもないし、きっとアタシ達が思う以上に厳しいものがあるんだと思う。……でも、ね。
わかっていてても、つい、普通に幸せになって欲しいって思ってしまう時もあるのよ。昔から知っていると。
いつかは愛の溢れる家庭を持って欲しいって思うのは、アタシの感傷なのかしらね…」
「シータさん…?」
「ああ、ごめん、こっちの話。
──まぁ、そうね。もし、もしもあのキイが子供を作ろうと思わせる、そういう女ができればいつかは現れて欲しいかな、って思うわ」
「ああ…子供の話ですか…。そうですね。話を聞いてると、無意識のうちに自分でセーブしているところがありますね、キイは。だからそのあいつが相手の女に子供を持つのを許したとしたら、相手はアイツにとって特別な女だという事なんだろうな、って思いますよ」
「特別…」
そう。男であるアムイでなく、キイが心から委ねられるような、現実の世界であの男の全て受け入れてくれる女が現れれば。
シータは、今生寿命を決められている男(キイ)のこれからを思った。尋常ではない生まれを背負った彼に、このような理想を押し付けてはいけないのでは、という考えもある。
まるで親のような心境ね、とシータは苦笑いする。
初めて見る聖天風来寺の門をくぐろうと決意した、傷ついた目の、闇を漂う色を纏った大人びた少年──。
今でもシータの脳裏には、その時の情景がまざまざと甦るのだ。
子供のくせに、もうすでに人生の大半を過ごしたかのように達観した小生意気な顔……。
だからこそ、普通の人間(ひと)としての幸福を味わって欲しい、特に彼の生まれを知ってからはそう感じてしまっている自分がいる。
時が経ち、大役を担って生まれた人物であると確信しても、なお。
──ああ、やだ。
こういう風に思ってしまうのは、歳を取ったからなのかしらねぇ…?
物憂げに口を噤んだシータに、ディズは深く追求できなかった。
「……じゃあ、そろそろここで」
名残惜しそうなディズの声に、シータは我に返る。
「ああ、そうね。………。
じゃ、元気で。これからもキイの力になってあげて。奥さんとお子さんによろしくね」
「貴方も。……まだ聖天風来寺で用心棒を?」
「そうねぇ…実はここだけの話、もうそろろ故郷に戻ろうかと考えているの。──あの二人が落ち着いたら、だけど。
それだけ長くあそこ(衝天風来寺)に居過ぎてしまったわ」
艶やかに笑うシータの姿を眩しく見やると、ディズは「そうですか」と小声で呟いた。
「そうなったら連絡くらいくださいよ。もし、迷惑じゃなかったら」
自分の生業を考慮して、少し遠慮がちなディズに、シータは彼の背を思いっきり叩いてから首を振った。
「迷惑ですって?──なに言ってるの。
アタシ達卒門しても同期門下生じゃない。苦楽を共に、辛い修業を何年も一緒に越えた仲間じゃない。たとえ卒門してバラバラになったとしても、アタシ達はずーっと友人でしょ」
「その言葉、嬉しいですね」
キイとシータ、二人の旧友であり、【宵の流星】の情報網であった「なんでも屋」の爽(そう)は、結局最後に再び現在進行形の友人ディズ=クライシスとして、明け方と共に故郷を目指した。
だが、国境にある通用門から東へ抜けようとして彼は頭を抱える事になる。もうすでに厳重な警戒態勢が敷かれていて、何と足止めを3日も食わされたからだ。
これだったら無理にでもシャン山脈経由で国境越えすりゃ良かった、と嘆いても後の祭り。
結局、キイに現在の国境の様子を簡単な暗号で記したものを、部下にこっそり届けさせる事になってしまった。
彼の友人達がどうやって北を抜け出し、東に行けるか…。
多分今現在の【宵の流星】の状況を知っている者であれば……必ずや聖天風来寺を目指すであろう事が容易に想像付くに違いない。そう。今現在、稀有な"気”を封じられ、その"気”が何であるかがわかっている者であれば……。
前途多難である。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント