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2014年5月16日 (金)

暁の明星 宵の流星 #199-②

「結局、乱暴を働いた奴らはどうなったんだ」

キイの憤りを抑えたような低い声が皆を緊張に走らせた。今まで何も話さず、ただ黙してじっと耳を傾けてばかりいた彼の初めての言葉に、その場の空気が張りつめたようになった。それほどキイの美声はいつもより低音で掠れていた。声色に怒りが含んでいるのは、誰の耳にも明らかだ。
一瞬、戸惑うような空気の後、言いにくそうにシュンメイが答えた。
「……結局、何もありません……。複数の男達はすぐにどこかへ逃げてしまったし、主犯の男は……」
言いよどむシュンメイに引き継いで、夫のハロルドが無念そうに口を開く。
「この国の大事な第一王子だからね。……王子の母親の実家が上手く裏から手を回して……聖職者を凌辱した主犯だという事は抹消された。父親であるこの国の王ですら、その事は耳に入っていない。当時、彼の母親の実家の力が強くて、我々も…王に訴えるような状況じゃなかった。そうすればシュンメイも…ステラも、もっと危険な目にあわされていたから。────それでなくとも、この大陸では男が女を奪う事に関して、何の法の規制もない。…暴行が罪という意識がない。俺はそれこそ問題だと思う。傷つけられた女たちは…すべてが泣き寝入りだ」
「……そんな…!」
イェンランの言葉に、悔しそうに顔を歪めたシュンメイは、ふるふると頭を横に振る。
「これが今の大陸の現実なのです。事実、ステラの場合、異国で野党に襲われた事になっていました。大聖堂の方にも、そのような報告がなされていたと思います…。私、悔しくて」
「シュンメイ」
ハロルドは妻の震える肩をそっと撫でた。
本来ならば、傷を受けていたのは自分の妻だった。ステラへの申し訳なさと、救ってやれなかった後悔が、ずっとハロルドを苛んでいた。自分達の幸せはステラの犠牲によって成り立っている。一生、自分達夫婦は彼女を、彼女の子供を守る…そう決意して共に暮らしてきたのだ。この、オーンの教会で。
「一番、怒り狂っていたのは第三王子のシャイエィ様でした。あの方は普段温厚で、気の弱いところがある御方なのですけれど、…あの方が面と向かって長兄である第一王子に立ち向かったのは初めてだったんではないでしょうか…。あの方が二度とミャオロゥ王子と接触できないように図ってくれたのです。ステラの事は元聖職者という事で、世間の悪意から守るために完全に隠してくださいました。その代り、私を取り合い、シャイエィ様の愛人となったという話が世間に広まって驚きましたが、その方が都合がいいと思って、否定しませんでした。ミャオロゥ王子から私を守るためにシャイエィ様が異母兄(あに)のマオハン王子に頼まれて、身柄を隠したという事はミンガン王もご存知です。私はその後、二度と王宮を訪れるなと遺言され、その異母兄(あに)が亡くなっても、葬儀にも参列を許されなかった。…どこでミャオロゥ王子と顔を合わせるかわかりませんから」

シュンメイはそっと息を吐いた。
生きる屍同然だったステラを皆で支え、無事にセイオンを産んだ後、ひっそりと教会の協力を得て共に暮らしてきた。シュンメイは異母兄(あに)の残してくれた軍事基地と教会に身を隠しながら、リザベル妃と共に北の国にやって来たハロルドと密かに逢瀬を重ね、人知れずに教会で結婚の誓いを立てた。その時に証人となってくれたステラと、祝辞を授けてくれた教会の主であるフォウ天司には感謝してもしきれない。そのあとすぐに双子を身籠り、そして間もなくリザベル妃も懐妊されて、夫のハロルドとは長い間別居婚になってしまったが、産後の肥立ちがあまりよくなかったリザベル妃の療養のため、教会の近くの離宮にしばらく住まう事となって、ようやく夫とも暮らせるようになった。その縁でシュンメイは(一応)名を変えてリザベル妃の世話と姫君の乳母としてひと時暮らすことになる。
あの好色な第一王子のリザベル妃を見る視線に懸念した王が、一時期妃を王宮から遠ざけたという理由もある。──そして彼女の死後、ハロルドは妻子のためにオーンには戻らず、ただの一市民としてこの国に残った────。

「女が少ないというのに、何故、皆大事にしない?──このままでは本当にこの大陸の未来はない」
大きな声ではなかった。先程よりも怒りを抑えたような声で、抑揚なく言い切ったキイに、皆は苦渋の面持ちで目線を下げるしかなかった。
「……男は暴走すると手がつけれなくなる事もあるからね。特にその攻撃的な気の流れが多すぎるのよ、この大陸は。だから誰かが何とかしないといけないんでしょ…。やり方はどうかと思うけど、中央のゲウラが秩序を持たせるためにと苦肉の策で国営娼館…今はほとんど自治区だけど…を作ったのも、女に対する仕打ちが酷くなったため。──それでも男性本位のやり方だと思うけど、当時はそれしか女を守れる手段はなかったというのだから、世も末よね」
「そうだったんだ…」
シータの言葉にイェンランはそっと呟く。彼女は桜花楼という世界を忌み嫌っていたから、そういう事情でできたとは知らなかった。というか知ろうとする気持ちすらなかった。
女を守るといっても、男を満足させ、暴走させないために作った男による男のための秩序だ。その守り方は金銭と肉欲が絡み、決して女の人権を尊重したものではない。
「数が多い方が支配色が強くなる。特に陽の気を持つ外向気質の男はそれによって殊更支配欲が増す。……それが勘違いを生むんだ。女は自分達と同じ感情を持つ人間ではなく、道具であり支配し庇護される存在で、だから何をしてもどんな風に扱ってもいい……と」
キイはそこまで言うと、何かを振り祓うように頭をぶんぶんと振った。
そのうちもっと数が減れば、絶命危惧種の扱いを女は受けるだろう。完全な男の支配と管理下に置かれ、情もない交配、欲を解消するためだけの扱い……。闇だ。考えただけでも吐き気がする。きっとそれを彼らは何の疑いもなく、世のためだと慢心して行い続けるだろう…。そんな世界が近いうちにやって来そうで、キイも、いやこの場にいる女性達もぞくりと身を震え上がらせた。

「とにかくわかった。この国の第一王子が糞だっていう事がね」と、大げさにフン、と偉そうにふんぞり返るキイ。それを受けて、首を捻りながらクライス大天司がおもむろに口を開く。
「それでも因果応報……。巡り巡って己で放ったものは己に返る。善を放てば善が返り、悪行を為せば悪行の報いを受ける──。確か、聖天風来寺での教えにそういうのがあったはず……。ですよね?」
彼の意を含んだような眼差しを受けて、キイは押し黙った。
「そうよ。だからきっとあの王子にはそれ相応の報いはあるわ。──人は善行を天に貯金しているというから、その貯蓄を失い、マイナスとなった時に、それを戻そうと報いがくるのよ。……そう考えると天はある意味公平なの。それを意識して人は生きるべきなのよ」
キイの代わりにすらすらと説くシータを、クライスは面白そうに見やると、にやっと小さく笑った。
「ずいぶん、お詳しいのですねぇ?なるほど、貴方は聖天教(しょうてんきょう)にかなり精通しているとお見受けしました。今度二人で互いの教義に対する見解を述べてみませんか?」
「ご遠慮します」
「即答かよ」
思わずぷぷっと噴出したキイを、シータは横目でぎろりと睨む。その様子に笑いをこらえながらキイはクライス大天司に視線を向けた。
「聖天教なら、俺もそのシータも門下で学んだからな。こいつがダメなら、この俺があんたの相手、してやってもいいぜ」
「キイ!……じゃない、ルー……」
「シータ、今更だろ?この大天司さんの顔、見てみ。俺らの事情を知っているという顔だ。……どこまでご存じかは……これからの話次第だけどな」
「キイ、アンタ」
シータは眉根をぎゅっと寄せた。その二人の様子にクライスはふっと気を緩めた。
「……では、あとで。夕食後にお伺いします。──もちろん、貴方の″大切な相棒″もぜひご一緒に」
その言葉にキイはひくりと頬を歪ませ、シータは溜息を吐くと、もう勝手にして、と言うように片手を左右に振った。

しばらくして、シュンメイがステラを落ち着かせるために、皆にお茶を淹れようとその場を離れ、それをきっかけにシータとイェンランも子供達の世話をするとして、彼女と共に部屋を出た。
二人はすぐに廊下でシュンメイとは別れ、子供達のいる場所に向かう途中、ステラの息子を黙って連れ出したアムイが気にかかり、ついでとばかりに彼らの姿を探し始めた。

教会内にいる気配がないので、彼らは庭にいるのではないかというシータの言葉を受けて、イェンランは彼と共に教会の裏手にあるテラスから外に出る。
いつの間にかどんよりと曇っていた空は晴れ渡り、清々しい空気が肌を潤していく。
「雨、酷くならないうちに止んだみたいね。庭のお花に水滴がついてキラキラしてる」
庭に咲く花の美しさに心から感動しているイェンランを斜め後ろで眺めていたシータは、憂いた顔でそっと彼女に近づくと、「大丈夫?」と囁いた。
イェンランは驚きながら振り向き、シータの瞳に心痛な色を見つけると、困ったような笑みを反した。
「……うん。ちょっとあの時の事、思い出しちゃったけどね……」
「そっか」
「けど、あのステラさんって素晴らしい人だよね。心にどれだけ傷を負ったんだろう…。でも芯の部分は綺麗なままで…子供に愛情を持って…」
「……そうね、彼女は立派たわ。悪いのはその彼女を表面だけ見て糾弾した馬鹿だけどね。それが神に仕える身だなんて、まったくの笑止!」
シータはリンチ-天司の暴言暴挙を思い出したのか、美麗な顔を思いっきり顰めている。イェンランはふふっと小さく笑った。きっとステラに対するだけではなく、自分にも投げかけられた科白を思い出しているのだろう。
「でも、あの時のシータ、かっこよかった!やっぱりシータも男の人なんだな、って思ったよ。大天司様じゃないけど、あの啖呵、身震いするほどしびれちゃった」
途端、シータの顔がみるみる赤くなる。おや、珍しいとイェンランはにやにやとする。滅多に見られない彼の姿に、何か彼の素を垣間見たようで嬉しくなった。
「そ、そぉ?……ちょっとガラが悪かったかしら…?」
気まずいのか照れているのか、戸惑っているシータに、イェンランはううん、と首を振った。
「とんでもない、言ってくれてスッとしたし…。ただ、いつもレディなシータが男言葉だったのが新鮮だっただけ」
「もぉっ!イェンったらやめて!お願いだからもう忘れてちょうだいっ」
自分の頬を両手で押さえ、いやいやと首を振るシータのしぐさが異様に可愛らしくて、イェンランは男前だったあの時の彼とのギャップに、我慢できずに声を出して笑った。 


* * *

教会はなだらかな丘の上にあって、門を出ると広々とした草原が目の前に広がる。
アムイはその門から数歩出たところの大きな木に背を預けるようにして景色を眺めていた。胡坐をかいている足の間には小柄な少年がすっぽりと収まっている。

あの時何も言わず、この子を抱き上げ連れてきてしまった。

我慢できなかったのだ。酷い事を言われ、そして母親を庇おうと泣きじゃくる彼に、いつしかアムイは己の姿を重ねていた。

《忌み子(いみご)》

その蔑みの言葉はオーン神教独特のもので、堕天者(だてんもの)もまた然り。アムイはオーン教と関わりなく育てられたので、今のセイオンと同じで、その言葉がどういう意味を持っているのかは幼い自分は知らなかった。
……だが、アムイの人生の中でその言葉が数回、自分の心を切り裂いたことがあったのを、あのリンチ-天司によって思い出したのだ。

+++

『この子が堕天者が産んだという、忌み子ですか』

十八年前──。
ちょうどミカ神王大妃(しんおうたいひ)に些細なことで殴られて、必死に逃げていた時の頃だった。あの運命の日が近いある日の事で、すでにいわれのない虐待を幼い身に受けていたアムイは、何故黙っていたのかとキイに叱られ、キイの伯母(この時はそう教えられていたが、アムイにとってもれっきとした義理の伯母だ)の自分に対する扱いに不信を持ち始めていた。
──しかも、自分の父親の大罪を知ってしまった矢先の事でもある。
確かに幼いながらも、伯母であるミカ大妃の口から、最近自分に対して父親の名前が出る事が多くなって、尋常ではない何かを感じていたのだろう。
彼女を避け始めたアムイに苛立ちを募らせたミカ大妃の、自分への扱いがエスカレートしていく現実に耐えられなくなって逃げ出したアムイは、キイを捜していたその時、偶然宮中に参じていた聖職者と出会う。彼は神王代理として政(まつりごと)をしていたシロン摂政の客だった。
この当時、オーンとセド王国は緊迫した関係にあった。もちろん、それはアムイの父が起こした大罪が要因である。それでもまだこの頃は、真実を隠し持っていたのはセド王家だけで、オーンの方は疑惑の目だけを向けていた時であった。だからたまにこうして視察という名目で、オーンが聖職者をセドに寄越すのだ。その時だけ、摂政シロンはキイを隠す。だからアムイが懸命にキイを捜しても、見つからないのは当たり前である。青痣を作っているアムイの顔を一瞥すると、その聖職者はまるで汚物をみるような目でそう吐き捨てたのだ。
言われたアムイはもちろん意味も分からずきょとん、とした。だが、その次の瞬間、シロンがアムイの小さな体を突き飛ばしたのだ。
『そうですよ。さっき話していた身持ちの悪い女聖職者の子どもです。──どうなのですかね?大聖堂ではこういう忌み嫌われた汚らわしい子に対し、どういう制裁を加えてらっしゃるのか』
『堕天した者は悪魔に身も心も売ったも同然、その証である子も当然悪魔の子ですよ。一番、神に毛嫌いされる存在だ。こんな子供をどうしてセドの王宮に住まわせているのか……我らとて信じられません』

当時、オーンの疑惑を何とか誤魔化そうとしていた王家の者のあがきが子供のアムイにわかるわけもなかった。当時のアムイは、昔の父アマト同様、王家の利益のために生贄と捧げられたようなものだ。
『この子はお恥ずかしながら身内の血を引いてましてね…。昨今の女聖職者は己の利のために我が王家の血を欲するのも構わないようですね。王家の血を引いた子を産めば、罪が軽くなるかとも思ったのでしょうかね。騙された身内が不憫ですよ』
『……それは…恥ずかしい事です…。やはり女聖職者を廃止するべきかもしれません。そうすれば、このような不幸な子は生まれないですむ』
その時向けられた刃物のような鋭い眼差し。内容はわからなくても、大人になった時にその意味を知り、怒りが噴出したが。
結局気まずくなった聖職者は、セド王家の思惑通り早々と帰って行った。もちろん、ご丁寧にそういう忌み子の処遇の相談をいつでも乗ると言って。
アムイが不憫だったのは実はそれ以降だった。それを見聞きしていた亡くなった先代神王の妾腹腹である王子達が、面白おかしくアムイを貶めるために好んで使ったからだ。
『忌み子!』『堕天の子』……と。

《知っているかアムイ、忌み子ってなぁ、本来はオーンの国に行ったら、一生牢獄から出られないらしいぜ》
《そうそう、何せ禁忌の…悪魔の子だからなぁー。穢れるのを恐れてるんじゃないの?オーンはさ》
《つまりお前も生まれながら罪を背負っているってことだ。畜生よりも下ってことだよ!ほら、服脱げよ。悪魔の子なんだから、人間様の格好するなんて図々しい》

事実、オーン神教によって大陸の数か所にそのような子供を集めた施設があるとは聞いたことがある。それも周囲からの差別や敵視から子供を守るために大聖堂が率先して作ったというのが発端らしいが、中には一部の潔癖すぎるともいえる聖職者の、制裁という名の虐待の場と化しているところもあるという。その実情は大聖堂でも完全に把握できていないらしいが、それが元でオーンには忌み子を隔離し、無料奉仕する人材として一生拘束するという噂が流れている。
当時のセドの王子達は、それを聞きかじっての発言かと思うが、何も知らないアムイを恐怖に陥れるには十分すぎるほどだった。

アムイはさっきまで泣いていたセイオンが落ち着きを取り戻し、話ができるまで気分が上向きになったことに心底ほっとしていた。

産まれる時のトラブルで脳に小さな障害を持つセイオンは、年齢よりも幼くて大人の込み入った難しい話を理解できないでいる。今回はそれが彼にとってよかった。素直で心根の優しいこの子に、自分と同じような思いをさせたくない。あんな人を貶める意味など一生知らなくていい。
アムイは溢れそうになる思いを胸に、セイオンに「もう平気か」と、ぽつりと話しかけた。
「うん、もう平気。だってぶつかっちゃったボクが悪いんだもん。……お母さんも怒られちゃった…。お母さん、大丈夫かなぁ……」
セイオンの母を心配する声に、アムイは居たたまれなくなって、そっと彼の頭を撫でた。嬉しそうに目を細める彼は、まるで子猫が喉を鳴らしているような愛らしさがある。
「お前は優しいな。……もう少ししたらお母さんの所に戻ろう。きっと心配している」
「へへ。それにボク、ああいうの慣れてるの。だから平気」
「慣れてるって……。お前いじめられてるのか?」
「うん。でもね、リー(シュンメイの末の息子)みたいにいつも優しくしてくれる子はいるよ。だけど、仕方ないんだ。きっとボクにはお父さんっていう人がいないから」
親がいないのはセイオンだけじゃないだろう。どうしてか彼の頭の中では、他人が自分に冷たくする理由を、そのように解釈しているようだった。
「どうしてそう思うんだ?」
「……だって、施設の子たちがみんなゆってた。親に捨てられたから、いらない子だから、嫌われるんだって。……この教会お父さんお母さんがいるのはリーだけだもん、誰もがリーには優しいし」
複雑な人の思惑を読み取れない彼は、思うままを受け止め、簡単に納得してしまうのだろう。だからといってその境遇を怨むわけでなく、ありのままに受け入れている。自分が思っている理由がまがっていると理解しないままに。
「でも、ね。ボクはまだいい方なんだよ!だってお母さんがいるもん。だから何を言われても大丈夫。それに、いつもシャイ王子様が言うもん。気にするな、ここにはお前のお父さんの代わりはたくさんいるって……。リーのお父さんや天司さまや……それに、シャイ王子様だって」
「シャイ王子?」
それはきっと北の国の第三王子シャイエィの事だろう。
「うんっ!とっても優しいの!お母さんにも優しいよ。ううん、誰にも優しい」
シャイエィ王子の話になると、セイオンの顔がぱぁっと明るくなる。
「この国の王子様だけど、えばったところなんてないんだよ?いつも来るとボクを優しく抱っこしてくれるの。レイさんみたいにいい子いい子してくれるんだぁー」
「そうか!それはよかったな。いい人なんだね」
「…うんっ。王子様がボクのお父さんだったらいいなって…いつも思ってるんだけど、そう言うとお母さんが泣くんだ。だから…」

その時だった。
丘の下方から地響きがし、不穏な気を察したアムイはセイオンを抱きかかえたまま反射的に立ち上がった。
「レイさん?」
「しっ」
アムイは目を眇めて下方を見やると、そこから土煙を立てて、勢いよく教会目指して駆けあがってくる馬の集団が目に入った。
「誰か来る」
怯えるセイオンをぎゅっと抱きしめると、その場を去ろうと踵を反そうとしたアムイは、先頭を走る馬上の人物の声で引き止められた。

「アムイ!」
その馬上の人物は大声を張り裂けながら、スピードをあげ、あっという間に彼らの前に滑り込むようにして近寄ると、さっと馬から飛び降りた。
「リシュオン!」
目の前に現れた人物、それは西の国の第五王子リシュオンであった。
彼ははぁはぁと息を切らしてアムイの目の前にいる。彼の後方からは従者と思われる者の馬が数頭追いかけるようにやってくる。
「……どうした。何かあったか」
尋常でない顔色のリシュオンに、アムイは嫌なものを感じたが、それは珍しくリシュオンが焦っているせいだと気が付いた。彼が若干取り乱しているのは、余程の事だと察知したアムイに緊張が走る。
「ええ。宵さ…いえ、キイは中ですか?緊急です。王宮での状況が急変しました」
「急変?」
「はい!王都は現在戦闘状態です。先程、王宮も多大な被害が出て──」


* * *

「おかあさぁぁぁーん!!」

子どもの悲痛な泣き声が庭を劈(つんざ)き、のんびりとしていた空気が破られたイェンランとシータは何事かと声の方を振り向いた。
わぁぁーと大泣きしながらセイオンが教会に駆け込んでいく。その後を慌てた様子でアムイらが追いかける。
「……え?リシュオン?」
アムイの後ろにいた人物に気が付いたイェンランは目を見開いた。尋常ではないと悟ったシータの表情がきつくなる。
「何かあったみたいね。イェン、行きましょう」
「う、うん…」
イェンランは促されるようにして彼らを追って教会の中に入った。

* * *

ちょうどその時、キイ達はシュンメイの淹れてくれたお茶を堪能していたところだった。涙が止まらなかったステラもようやく落ち着いて、和やかに話ができる状態になった時、突然バタバタと子供の足音と共に、「お母さん!」と泣きじゃくる子供が部屋に突入してきて一同は驚いた。セイオンは母親の姿を見つけると、大泣きしながらその胸に飛び込んだ。
「まあ、どうしたのセイオン」
我が子を宥めようとしたステラは、その後から勢いよく飛び込んできた男二人の表情を見て絶句した。
「どうした」
キイの声もいささか固い。それほど部屋に入ってきたアムイ達の顔が緊張で強張っていたのだ。
「キイ、王都の情勢が変わった」
「何?」
「今、王宮は戦火に見舞われて半壊滅状態らしい。──形勢逆転だ。私設軍がミャオロゥ率いる中央軍から王宮を奪還した。だが、かなりやり合って酷い状況らしい」
「なんだって?」
「ええ。昂極大法師のお伝えでは、私設軍が王宮に攻め込んで、シャイエィ王子を救出。そこまではよかったんですが、かなり中央軍が抵抗して、多大な被害が出た模様です。ただ、残念ながら肝心のミャオロゥ王子を逃してしまったようですが……」
「お母さん!どうしよう、シャイ様が死んじゃったらどうしよう!」
リシュオンの説明を遮って、セイオンが泣き叫んだ。
「どういうこと?」
「けっ、怪我って……シャイ様……」
「えっ!ちゃんと説明してセイオン!王宮ではシャイエィ様の身柄は安全だって……それがどうして!」
ステラの顔色が変わった。縋る息子を引き離して話を促そうとするが、彼は嫌々と頭を振って益々彼女にしがみつく。
「セイオン!」「うわぁぁーん」
泣きじゃくってばかりのセイオンに代わってリシュオンが痛ましそうに答えた。
「シャイエィ王子がミャオロゥ王子と対峙されたそうです。その時、かなりの戦闘となったらしく……。結果、ミャオロゥ王子は実の弟君を切り捨て、王宮を従者と共に脱出したと」
「本当か!それでシャイエィ王子の様子は」
ハロルドが蒼白となってリシュオンに問いただすが、彼はふるりと頭を振る。
「とにかく混乱していて、現状はそれしか情報がきていないのです。昂極様も今渦中におられて…。ただ、今の情報では負傷したということなので、お命には別状ないかと。ただ、かなり激しくやり合ったそうで、その程度は計り知れません」
「シャイエィ様……何てことだ!」
数日前に幽閉されたシャイエィ王子を思いながら何とか王都を抜け出たというハロルドは苦悶し、シュンメイは今にも崩れそうなステラ親子を支えるために傍に寄った。
「ああ…どうしましょう、シュンメイ。あの人が…あの人が」
(死んでしまったら)という不吉な言葉をステラは飲み込む。あってはならない。あの優しい人が、この世を去る何てこと。

《すまない。本当にすまない。君を助けてあげられなかった。もっと早く、間に合っていたら、君をこんな目にあわせなくて済んだ。君を神から遠ざけさせてしまったのは、私が不甲斐ないせいだ》
そう言って、汚されて茫然自失だった自分をきつく抱きしめ、泣いてくれたあの人。

──ああ、どうかご自分を責めないで。貴方のせいじゃない。貴方は何も──

《どうか自分を卑下しないでほしい。貴女はとても立派だ。新たな命をこの世に送り出した偉大な人だ。オーンではどうか私は知らないが、北星天では命がけでこの世に命を産み出す母という存在は天神に等しいのだよ。これからはひとりの母として、北の国で胸を張って生きて欲しい』

──貴方がいてくれたから……息子を実の子のように慈しんでくれたから……私はこうしてちゃんと2本の足で大地を立っていられたの……貴方が…支えてくれたから……──

「しっかりして、ステラ。まだそうとは決まっていないのよ。貴女がしっかりしなくてどうするの!シャイエィ様は大丈夫。絶対貴女たち親子を残して死ぬ何てこと、絶対ないから」
シュンメイは二人に覆いかぶさると、ぎゅっと抱きしめた。シャイエィ王子には昔から、彼が不在の時にはステラ親子を守るように頼まれている。
本当に彼が隠したかったもの。世間の謂れのない目や偏見や、そして自分の兄の脅威から、本当に彼が守りたかったのは、元聖職者であったこの女性だ。

「とにかくわかった。もっと詳しい話を聞かせてくれ、リシュオン。それと、どういう見解かも」
厳しい顔つきでキイがそう言い、場所を変えようと提案した。
確かにまだ教会の食堂に彼らはいた。ここでは誰が入って来てもおかしくないし、落ち着かない。甥の事で沈んでいたフォウ天司を促して、キイ達は教会の応接間の方に場所を移動したのである。

これからの事を話し合うために。


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