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2014年5月

2014年5月22日 (木)

暁の明星 宵の流星 #200

時は多少遡(さかのぼ)る。

まだ王宮がミャオロゥ王子側に占拠され、息のかかった中央軍が国境封鎖を遂行している頃である。
アムイとキイ達がシュンメイに匿われ、教会に大人しく潜んでいる時、彼らの知らない所で周囲は目まぐるしく動いていた──。

◇◆◇◇◆◇

「本当にご協力を感謝します、ティアン殿。ミャオロゥ殿下はそれはそれはもう、心から貴殿に感謝しております。
──もちろん、殿下が即位し、この北のモウラを治めた暁には、ティアン殿を最高の待遇でお迎えするように、と仰せられております……」
「いや、有難い事ですがそのようなお気遣いは結構です。
私はただ、北の国の国境全ての封鎖と港の閉鎖、それを望んで今回はミャオロゥ王子にご協力したに過ぎない。
……まぁ、南の大帝が出てくるまでは、私達は良好な関係を結んでいたのですから、王子のお味方をするのは当たり前の事ですよ」

内面の焦燥を押し隠すように口元だけ微笑んだ鋭い眼差しの男は、南の国リドンと決別したその国の宰相だった。
実際、この男が南の国で宰相の仕事をきちんとしていたかどうかは定かではない。
元々南のガーフィン大帝には前大帝時代からの有能な宰相がついていた。だが彼は高齢で、その補佐としてこの男を呼び込んだに過ぎなかったのだが、滅亡したセド王国の秘宝の鍵を握る者として大帝に優遇され、いつの間にかよそ者のこの男が宰相の地位にどっかりと居座っていた、というのが真相だ。
現在、彼が大帝の怒りを買い、捕らえられたが逃亡。元々持っていた自分の組織に戻って早数ヶ月。南の国の宰相には前々の有能だった宰相の孫が今は納まっているらしいが、当の男にはどうでもいい事だ。

そう。この男──ティアンにとって南の大帝は自分の野望のための踏み台にしかならなかった。

北の国第一王子ミャオロゥの使者だという軍部の男(話によると親戚だとか言っていた)が帰っていった後、ティアンは先程と違って険しくも鋭い目を窓の外に向けた。
視界には悠々と灰色に染まる冬の海が広がっている。本格的な冬の訪れだ。
他の国に比べ、北に一番近いこの国の冬は厳しい。この国が凍りつく前に、何としても目当てのものを手にする必要がある。

「……この国から出すものか、キイ……」

この男が″彼“の事を異名ではなく、本名(ほんな)で呼ぶのはここ久方ぶりだ。″彼”がこの世に生まれた落ちた時から知っているという事を世間から誤魔化すため、異名で呼んで何年経ったのか。……もう少しで。ようやく追い求め続けていものが手に入る。

ギリギリと口元をゆがめた後、無意識のうちにティアンは呟いていた。
「誰が何と言おうとも、お前はこの私のモノなのだ。──この世に現れた時から」

"神の気を持つ子供”の話を師匠であったマダキから聞いてから、そしてこの目で本人を一目見てから、セドの王子であるキイ・ルセイをティアン欲した。
キイがセドの王子だからではない。
性別がどうであれ、純粋に彼の美貌と持って生まれたその力に引き寄せられた。
まるで、自分のためにだけ生まれてきたような人間──。
気術を極めようとする自分にとって、神の気"光輪”を持つキイは絶対になくてはならない存在なのだ。

ティアンにとって、元養い子だったカァラの取った所業は、皆が思っているよりもかなり手痛い事だった。
よりのよってよくもこのタイミングで、キイの素性を証明する王家の名簿が刻まれた石板が、あのカァラの手に渡り、公表されてしまうとは。
あと、もう一息だったのに。
できればキイがセドの王子だということを世間に認識されたくなかった。彼が王子と認められてしまったら、自分が思うように動けなくなる。絶対に各国が大騒ぎするに違いない。実際、ほら見ろと彼らはキイを保護する方向に話が進んだではないか。

(早めに察知してミャオロゥの奴を利用させてもらって正解だった。国内の紛争という事でこの国を封鎖すれば、簡単に他の国の奴らが入り込んでくる可能性も少なくなるし、それにキイをこの国に閉じ込めておける)
もちろんティアンだってこの状態が長く続くとは思ってはいない。なにせ指揮を取っているのがあの愚鈍なミャオロゥだ。いつ形勢逆転されるかわからない。この好機に一気に彼を見つけ出し、全てを己のものにするのだ。

そう、キイの真の価値を知られてしまう前に、早急に彼を見つけ出し、この手にしなくてはならない。

特にあの執拗なゼムカのザイゼムが、こうしている間にもキイの行方を突き止めているかもしれないと思うと、焦燥に身が焦がれる。
それ以上にキイの傍にくっついている余計な人間達を早く排除したい。特に相方と豪語している"金環の気”の使い手であるアムイをも。

"金環の気”がキイの持つ"光輪の気”に呼応するのを知った時から、ティアンは着々と準備を進めていた。
己の"金環の気”をキイの"光輪”と同調させる研究のために、吸気士であったカァラの実父シヴァを使って、大陸に10人といない"金環の気”の持ち主からサンプルを収集し、その後こっそりと刺客を放って彼ら次々と抹殺した。
全ては己が"光輪”を制する唯一の"金環”の持ち主になりたいが為である。

──そして残った"金環の気”の持ち主は、とうとうあの忌々しい昂極大法師(こうきょくだいほうし)とアムイだけになった。

だが、キイの相方と名乗るアムイの抹殺はことごとく不発に終わり、二人が離れていた好機も逃し、今のティアンは精神的に追い込まれていると言ってもよい。そんな時にキイの素性の暴露だ。
これ以上、不利な種を増やしたくないティアンは、こうして強硬な手段に出たのだった。

「ティアン様っ!ティアンさまぁ!」

物思いに耽っていると、側近であり己の研究助手でもあるチモンが、興奮した様子でティアンのいる部屋に飛び込んできた。今まで客人をもてなすために傍に待機していた、護衛を任されているティアンの甥、ロディはあからさまに嫌な表情を浮かべる。ロディはチモンが嫌いだからだ。

「おお、どうしたチモン」

叔父でもあり、この組織の頂点であるティアンの優しげで甘ったるい声に、ロディは内心舌打ちした。
この叔父の二面性は昔から知ってはいるが、こうまでしてこの研究助手を手懐けたいのかと、悪態をつく。
ほら、言わんこっちゃない。──急いで飛び込んできて息も上がっているこの男は、その声に益々息を荒げ、茹でたこのように真っ赤になっている。相手を心酔しきっているあの目。
滑稽だ、とロディは思う。
叔父は確かに気術に関してはもの凄い才能を持っている人間だ。だが、人間性に関して言えば首を捻らざるを得ない。そんなの、幼い頃からわかりきっている。気術の才能があっただけで、実の姉から幼かった甥を略奪するような男だ。
己の野望のためには手段を選ばない、自分にとって役に立たない他人には心底冷酷になれる。そんな面を近くで嫌というほど見てきた。
ロディはやはり幼い頃から共にこの男に仕えてきた青年を苦々しい思いで眺める。ほとんど無表情であるロディだから、彼が内心自分を疎ましく思っているとは全く気付かないチモンは、ちらりと彼を見ると得意そうに笑った。

もう二十歳(はたち)を越えているだろうに、童顔と小柄な体躯のせいでチモンは今でも見た目は幼さい感じが抜けない。そういうところもティアンのお気に入りなのだろうが、それ以上に気術研究者としての才はロディよりもはるかに上だった。チモン本人はある程度の"気”を使えても、実践するにはお粗末な程度だ。が、理論や扱いに関してはティアンと肩を並べるくらいと言っていい。
だからあの叔父が何年もこのチモンを傍に置きたがるのだ。単純で、研究以外は愚鈍なチモンには甘すぎるほどのエサを与えればいい。あの鬼畜な叔父が、チモンに対してだけは非道な扱いをした事がない。褒めて伸び、萎縮させると潰れるという繊細なチモンの性質を見抜いているのか、とかく甘く甘くなりがちな叔父に、ロディはやり切れなさを感じている。
あの南の大帝に捕らえられたときも、拷問の恐怖に耐え切れず早々に内情を暴露したにも関わらず、ティアンはあっさりと彼を許した。ティアンにとってはそれ以上にチモンの助手としての働きの方が大事だったと言うわけだが、ロディは今でも釈然としない……。

──気術の実践に関しては、まるで兵士のように厳しく訓練され、泣いてもすがっても突き放され、それなのに第二次成長期までは夜伽を強要させられた。叔父としてさえの愛情を微塵にも与えられず、苦渋を舐めさせられてきた自分を思うと、目の前に繰り広げられる(ある意味)師匠と弟子の馴れ合いが空々しい。

「そうか!やっとそこまで融合したか!」
ティアンはチモンの持ってきたデーターを食い入るように見ると、先程までの鬱屈さを払拭したかのように満面の笑みを浮かべた。
「はい!これでティアン様の思うとおりに事が運ぶことでしょう」
対するチモンも誇らしげに胸を張っている。ああ、褒めて褒めてと尻尾を振っているのが目に見えるようだ。
「でかしたぞ、チモン。さすが私の弟子だ。……おお、これでようやく…」
「ティアン様!」
何やらティアンの究極の研究が形になったようだ。……彼の目的である【宵の流星】に関しての。
うんざりしたロディは、手を取り合ってはしゃぎあっている二人を残して部屋を出た。

「…馬鹿馬鹿しい…」

ぼそりと零した言葉に、ロディはハッとすると辺りを見回した。
鉄仮面、と周囲から言われるほどの無表情の自分。いつから表に己の感情を映す事ができなくなったのだろう。……顔に出ていなくても、ロディの心は雄弁だ。
見た目がこうだから、自分の事を冷静で何も感情がないティアンの人形と称されているが、実際の内面は激しいくらいにドロドロとしている。──それを表に出さないよう、必死で抑え込んで来た。出せば叔父の激昂に触れる。
幼い頃から己の保身を貫くために、叔父の人形と化して生きてきた。従順な僕(しもべ)──そうしていれば叔父はすこぶる機嫌がいい。こうして生きてきたロディは、今更叔父に逆らう気概はなく、今の境遇も敢えて反発するつもりもない。……が。
どうもチモンと己の格差を見せつけられると、今まで奥底にしまって蓋をしていたドロドロとした蠢くものが外に出ようと暴れ出す。だからロディはこういう時、チモンを無視するか傍を離れるのだ。いくら彼の、自分に対する思慕に気がついていても。いや、だからこそロディはチモンを排除するのだ。徹底的に。それが自分の加虐性を刺激し、悦に導くと自覚しつつ。

「俺って結構屈折してる」
誰もいないと確認してから忍び笑いし、本音を漏らす自分は、本当に歪んでいる。
ロディは再び能面のような顔に戻ると、誰もいない廊下を機敏に歩き始めた。

国境の封鎖、研究の成功──。
こうして意気揚々としていたティアンが再び焦燥を味わうのはわずか数日後の事である。

◇◆◇◇◆◇


ミャオロゥ第一王子が、父王であるミンガンの不在に謀反を起こし、王宮と王都を占拠した。
もちろん、それと同時に国境封鎖のために郊外各地にも中央軍の手が伸びた。もちろん、北の国一番大きい港街、水甲(すいこう)もまた然り。
特にこの水甲は、ミンガン王の異母弟であるイアン公が領地している場所だ。しかも北の玄関とも言われ、貿易が盛んで、外国からの船の出入りが激しい。
ミャオロゥ率いる中央軍が一番初めに占拠の動きをするのは当たり前だろう。
あっという間にイアン公の屋敷諸共、港町は占拠されてしまった。
だが、幸か不幸か、イアン公の屋敷には奥方と息子たち数名しかいなかった。一番拘束し、協力を仰ぎたい当のイアン公が不在では、中央軍を新たに率いる事となったミャオロゥ王子の母方の実家、ハクオウ家縁者である中央軍准将ミンチェも一瞬、頭を悩ませた。
中央軍が水甲を占拠したとき、イアン公は二人の息子を連れて、隣町周辺の会合に出掛けてしまっていたのだ。イアン達は思いのほか議論が生じて、本当なら夕刻には戻る算段が翌朝にまで延びてしまったという。それを知ったミンチェ准将はすぐさま、屋敷の人間(主に妻子)を人質にし、すぐさま戻るようにと使者を出した。もちろん、こちらに協力するのなら何も手荒な事はしない、と丁重に文書をしたためて。
ミンチェもとよりミャオロゥの最大の恐れはイアン公が自分達の敵になる事だ。身分の低い妃が生んだとはいえ、先代王の血を引く人間であり、しかも王家を出た身でありながら水甲を豊かに治め、近隣の町や村からも尊重され絶大な人望がある人物である。──ミャオロゥが北の国の王になるためには、この叔父を味方に引き込むのが一番安泰なのである。ただ痛いところだが、ミャオロゥとて、この叔父に嫌われていると知っていた。だからこそ、無理やりでも意に沿ってもらうため、安易に武力を行使する道を選んだのだった。


「……はっ!まったく脅してくるとは、この私も舐められたものだな」
と、イアン公はつい先ほど隣町で宿泊中の宿に乗り込んできた中央軍兵士から渡された手紙の内容を、一目見るなり無造作に投げ捨てた。
兵士たちはこのままイアン公を連行する勢いで宿の玄関で待機している。さすがに元王弟には手荒な真似をするのは忍びないらしい。手紙は兵士自らの手渡しではなく、まずはイアン公の従者に渡された。そこはやはり、高貴な人物を迎えるという事なので、罪人を捕えるような荒っぽい真似は上官から固く禁じられているからだ。まず最初に、悪い印象を与えないよう、真摯に丁寧に、恭しく、目当ての人物を手中にしたい。手荒くするのは本人が抵抗してからだ。と、上官は部下に言い含めていた。まあ、すでに妻子を人質に取っておいて何を言っているのか、と傍で思うが。

「父上、兵士はあと5分で支度をしなければ、強制的に連れていくと宣言していますが…どうしますか?」
イアン公は、自分の数名の従者の他に、三男と末の息子を連れて来ていた。屋敷には妻と、今は自分の代理を任されている長男、そして4人の息子達が残っている。
末の息子であるシーランは、父親に尋ねる兄とその父の顔を不安そうな面持ちで交互に見やった。
しばらくして、父であるイアン公はこう口を開く。
「行くしかあるまい。……家族が取られてしまっては」
「父上!」
「だが、行くのは私とラオ(三男の名)だけだ」
その言葉に、え?と二人の息子は顔を見合わせた。
イアンはニヤリと笑うと、声を落としてシーランにこう言った。
「後はラオに任せて、お前は昨日からそのまま友人の家に行ったと誤魔化す。いいな、シーラン、時間がないから手短に指示するぞ」
ごくり、とシーランの喉が鳴る。父は一体、何を自分にさせようというのか。

「今すぐこの裏手にある隠し扉から脱出し、急いでオウク村に行き、オウ・チューンの協力を仰げ」
「まさか、オウ・チューン家を頼る、と?」
二人の息子は驚いた。オウ・チューン家といえば、北の御三家として有名な一族の一つだ。確かにミャオロゥの母方の実家であるシウ・ハクオウ家と並ぶ有力貴族であるが、最近は北東地域に引きこもって、王都や王宮から遠ざかっている。理由はハクオウ家の娘が正妃に納まり王子を産み、ハクオウ家の実権が強くなったからと言われている。
ここ数年、影が薄いくらいに大人しくなったというオウ・チューン家に、父は何を考えているのか。
「いや、単純な話だよ、シーラン。ここ数年、土地柄にも近いという事もあって、私はオウ・チューンの当主と懇意にしていてな。……それはお前だってわかっているだろう?当主の後継者であるジンとお前は学友で、かなり親しくしてもらっていたしな。で、……彼の持っているものは何だ?」
シーランは自分の学友でもあり、幼馴染でもある、ジン=オウ・チューンの姿を思い浮かべた。
少年の頃から武芸に秀で、鍛え抜かれた体をしているが、決して屈強というわけでもなく、細身の、竹のようにしなやかな肉体を持つ青年。そして一番記憶に残るのは、彼の整った怜悧な顔。切れ長の鋭い目は、敵ならば絶対に容赦しないと物語っている。いつも、どこかしら緊張を孕んだオーラを持つ青年だ。 
彼の持つもの……それは…。
「ジン、というよりも、彼の父が自警団を持っています。……あ、そういえば二十歳(はたち)の誕生日にそれらを父親から譲られたと……まさか、父上!」
「ふふ、面白くなってきたなぁ」
イアン公は不敵に笑い、懐から小さな袋を取り出すとシーランに持たせる。「これは」
「これを当主のワンに渡しなさい。そうすれば全て彼が上手く動いてくれる」
「父上」
「さ、早く行け。いいな、誰にも見つからないように。これはお前の力量と運を試す第一歩だ。わかったな」
イアン公は彼に従者の一人をつけさせ、二人を隠し扉の方に誘導するよう近くの者に支持をする。少しばかりの不安と、戸惑いの表情をのせて、シーランは父親の言うとおりに急いで外に出て行った。父親の、″私達は大丈夫”という言葉を耳に。

「父上……、私設軍をオウ・チューン家と共に作っているというのは…本当でしたか」
「これで私はミンガンに恩を売る」
「!」
はっと顔を上げる三男のラオに、イアン公は厳しい眼を前方の扉に向けた。時間が迫ったのだろう、扉の向こう側でざわざわと慌ただしい物音が大きくなっていく。
これから拘束されるだろうに、イアン公の瞳には愉悦すら浮かんでいる。これから起こすことは、強いて言えばこの北の国…モウラのためである。
イアン公は密やかな声で、目の前に佇む息子に意気揚々としてこう宣言する。
「あのミャオロゥなんぞにこの国を任せられるわけないじゃないか。……こういう時のために、私はワン=オウ・チューンと共に自分達で動かせる軍隊を密かに作り、強化させたのだ。今、この時にこの切り札を使わなくてどうする?しかもその先導するのはワンの子息であり……同じく私の息子のシーランだ。
今、弱っている王宮とミンガンを救ってに恩を売り、ゆくゆく将来はシーランを次代の王にする」
「まさか!」
驚く息子にイアン公は声を出すなと手で制しながら、彼にしか聞こえないほどの声で自分の考えを暴露した。
「こうなって私も覚悟を決めた。そう、私はシーランをこの国の王にする。今ではないぞ。もう少し外堀を埋めていく必要があるが……。とにかく、当分はまだミンガンに王位を死守してもらおう。何せ、もうあれには跡を継ぐ息子がいない。ミャオロゥは運よくこれで終わるだろうし、シャイエイは……はっ、お前も事情を知っていると思うが話にもならん。という事は、王家の血を引く男子というのは、結局私の息子達だけだ。……そして、ミンガンの一人娘とかろうじて年も近い方、優秀で誰もが認める人間といったら、シーランしかいないだろう?そのシーランが、伯父である王を救うんだ。王家の血を引き、将来は王家の姫君と縁組めば……誰も文句ないだろう!これはなラオ、シーランを次代の王にするための布石なのだ。……ふふふ、あの馬鹿王子め、いい所で失態をかましてくれたものだ」


そして数日後、イアン公の思惑通りに挙兵した私設軍は、オウ・チューン家の御曹司ジンとイアン公の末息子であるシーランが指揮を取り、瞬く間に王都になだれ込み、王宮を中央軍から取り戻した。

その激しい戦いの中、色々なことがあったが、ミャオロゥが実弟シャイエイを斬って逃亡した時点で、私設軍の勝利となったのだった。

ただ、中央軍の残党が意外にも抵抗が激しく、王都の戦闘が鎮まったのは、王宮からミャオロゥが逃げ出してから丸二日もかかってしまい、王都の復興が懸念された。
しかし、それもミンガン王を助けた異母弟イアン公の好意で、全ての復興の手助けを受ける事となった結果、イアン公とその子息への絶大なる人気が高まったのは言うまでもない。

そしてイアン公の思惑通り、彼の息子シーランがこの北の国を治めるには、それから8年ほどの歳月が必要となる──。もちろん、彼の隣には西の国から奪うようにして取り戻した従兄弟姫、アイリンが妃として迎えられる。だが、それはまだもっと先の、別の話となる──。 


* * *

「それで、動くならこの混乱した時がいいのではと思い、こうして急いでやってきました。もう中央軍から私設軍……の方に実権が移っていますので、この地方も私設軍が中央軍を制しにやってきます。中央の話ではミャオロゥ王が港側に逃亡したという情報もありますので、それまでに行動した方がいいかと提案をしにきました」

西の王子リシュオンの声が部屋に響く。彼はアムイ達をシュンメイに託した後、再び船の整備のために小さな漁港に舞い戻っていた。だが、昂老人の一報で、急きょこうしてアムイ達の前にやって来たのだ。
そして今、彼はキイにいくつかの選択を促している。

この北の国の混乱に乗じ、一気にこの国を出るか、それとも────。

これからの彼らの動き──それは。

全てはセド王家生き残りと認定されてしまった、最後の王子キイ・ルセイ=セドナダ、彼の考えひとつにあるのだ。


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2014年5月16日 (金)

暁の明星 宵の流星 #199-②

「結局、乱暴を働いた奴らはどうなったんだ」

キイの憤りを抑えたような低い声が皆を緊張に走らせた。今まで何も話さず、ただ黙してじっと耳を傾けてばかりいた彼の初めての言葉に、その場の空気が張りつめたようになった。それほどキイの美声はいつもより低音で掠れていた。声色に怒りが含んでいるのは、誰の耳にも明らかだ。
一瞬、戸惑うような空気の後、言いにくそうにシュンメイが答えた。
「……結局、何もありません……。複数の男達はすぐにどこかへ逃げてしまったし、主犯の男は……」
言いよどむシュンメイに引き継いで、夫のハロルドが無念そうに口を開く。
「この国の大事な第一王子だからね。……王子の母親の実家が上手く裏から手を回して……聖職者を凌辱した主犯だという事は抹消された。父親であるこの国の王ですら、その事は耳に入っていない。当時、彼の母親の実家の力が強くて、我々も…王に訴えるような状況じゃなかった。そうすればシュンメイも…ステラも、もっと危険な目にあわされていたから。────それでなくとも、この大陸では男が女を奪う事に関して、何の法の規制もない。…暴行が罪という意識がない。俺はそれこそ問題だと思う。傷つけられた女たちは…すべてが泣き寝入りだ」
「……そんな…!」
イェンランの言葉に、悔しそうに顔を歪めたシュンメイは、ふるふると頭を横に振る。
「これが今の大陸の現実なのです。事実、ステラの場合、異国で野党に襲われた事になっていました。大聖堂の方にも、そのような報告がなされていたと思います…。私、悔しくて」
「シュンメイ」
ハロルドは妻の震える肩をそっと撫でた。
本来ならば、傷を受けていたのは自分の妻だった。ステラへの申し訳なさと、救ってやれなかった後悔が、ずっとハロルドを苛んでいた。自分達の幸せはステラの犠牲によって成り立っている。一生、自分達夫婦は彼女を、彼女の子供を守る…そう決意して共に暮らしてきたのだ。この、オーンの教会で。
「一番、怒り狂っていたのは第三王子のシャイエィ様でした。あの方は普段温厚で、気の弱いところがある御方なのですけれど、…あの方が面と向かって長兄である第一王子に立ち向かったのは初めてだったんではないでしょうか…。あの方が二度とミャオロゥ王子と接触できないように図ってくれたのです。ステラの事は元聖職者という事で、世間の悪意から守るために完全に隠してくださいました。その代り、私を取り合い、シャイエィ様の愛人となったという話が世間に広まって驚きましたが、その方が都合がいいと思って、否定しませんでした。ミャオロゥ王子から私を守るためにシャイエィ様が異母兄(あに)のマオハン王子に頼まれて、身柄を隠したという事はミンガン王もご存知です。私はその後、二度と王宮を訪れるなと遺言され、その異母兄(あに)が亡くなっても、葬儀にも参列を許されなかった。…どこでミャオロゥ王子と顔を合わせるかわかりませんから」

シュンメイはそっと息を吐いた。
生きる屍同然だったステラを皆で支え、無事にセイオンを産んだ後、ひっそりと教会の協力を得て共に暮らしてきた。シュンメイは異母兄(あに)の残してくれた軍事基地と教会に身を隠しながら、リザベル妃と共に北の国にやって来たハロルドと密かに逢瀬を重ね、人知れずに教会で結婚の誓いを立てた。その時に証人となってくれたステラと、祝辞を授けてくれた教会の主であるフォウ天司には感謝してもしきれない。そのあとすぐに双子を身籠り、そして間もなくリザベル妃も懐妊されて、夫のハロルドとは長い間別居婚になってしまったが、産後の肥立ちがあまりよくなかったリザベル妃の療養のため、教会の近くの離宮にしばらく住まう事となって、ようやく夫とも暮らせるようになった。その縁でシュンメイは(一応)名を変えてリザベル妃の世話と姫君の乳母としてひと時暮らすことになる。
あの好色な第一王子のリザベル妃を見る視線に懸念した王が、一時期妃を王宮から遠ざけたという理由もある。──そして彼女の死後、ハロルドは妻子のためにオーンには戻らず、ただの一市民としてこの国に残った────。

「女が少ないというのに、何故、皆大事にしない?──このままでは本当にこの大陸の未来はない」
大きな声ではなかった。先程よりも怒りを抑えたような声で、抑揚なく言い切ったキイに、皆は苦渋の面持ちで目線を下げるしかなかった。
「……男は暴走すると手がつけれなくなる事もあるからね。特にその攻撃的な気の流れが多すぎるのよ、この大陸は。だから誰かが何とかしないといけないんでしょ…。やり方はどうかと思うけど、中央のゲウラが秩序を持たせるためにと苦肉の策で国営娼館…今はほとんど自治区だけど…を作ったのも、女に対する仕打ちが酷くなったため。──それでも男性本位のやり方だと思うけど、当時はそれしか女を守れる手段はなかったというのだから、世も末よね」
「そうだったんだ…」
シータの言葉にイェンランはそっと呟く。彼女は桜花楼という世界を忌み嫌っていたから、そういう事情でできたとは知らなかった。というか知ろうとする気持ちすらなかった。
女を守るといっても、男を満足させ、暴走させないために作った男による男のための秩序だ。その守り方は金銭と肉欲が絡み、決して女の人権を尊重したものではない。
「数が多い方が支配色が強くなる。特に陽の気を持つ外向気質の男はそれによって殊更支配欲が増す。……それが勘違いを生むんだ。女は自分達と同じ感情を持つ人間ではなく、道具であり支配し庇護される存在で、だから何をしてもどんな風に扱ってもいい……と」
キイはそこまで言うと、何かを振り祓うように頭をぶんぶんと振った。
そのうちもっと数が減れば、絶命危惧種の扱いを女は受けるだろう。完全な男の支配と管理下に置かれ、情もない交配、欲を解消するためだけの扱い……。闇だ。考えただけでも吐き気がする。きっとそれを彼らは何の疑いもなく、世のためだと慢心して行い続けるだろう…。そんな世界が近いうちにやって来そうで、キイも、いやこの場にいる女性達もぞくりと身を震え上がらせた。

「とにかくわかった。この国の第一王子が糞だっていう事がね」と、大げさにフン、と偉そうにふんぞり返るキイ。それを受けて、首を捻りながらクライス大天司がおもむろに口を開く。
「それでも因果応報……。巡り巡って己で放ったものは己に返る。善を放てば善が返り、悪行を為せば悪行の報いを受ける──。確か、聖天風来寺での教えにそういうのがあったはず……。ですよね?」
彼の意を含んだような眼差しを受けて、キイは押し黙った。
「そうよ。だからきっとあの王子にはそれ相応の報いはあるわ。──人は善行を天に貯金しているというから、その貯蓄を失い、マイナスとなった時に、それを戻そうと報いがくるのよ。……そう考えると天はある意味公平なの。それを意識して人は生きるべきなのよ」
キイの代わりにすらすらと説くシータを、クライスは面白そうに見やると、にやっと小さく笑った。
「ずいぶん、お詳しいのですねぇ?なるほど、貴方は聖天教(しょうてんきょう)にかなり精通しているとお見受けしました。今度二人で互いの教義に対する見解を述べてみませんか?」
「ご遠慮します」
「即答かよ」
思わずぷぷっと噴出したキイを、シータは横目でぎろりと睨む。その様子に笑いをこらえながらキイはクライス大天司に視線を向けた。
「聖天教なら、俺もそのシータも門下で学んだからな。こいつがダメなら、この俺があんたの相手、してやってもいいぜ」
「キイ!……じゃない、ルー……」
「シータ、今更だろ?この大天司さんの顔、見てみ。俺らの事情を知っているという顔だ。……どこまでご存じかは……これからの話次第だけどな」
「キイ、アンタ」
シータは眉根をぎゅっと寄せた。その二人の様子にクライスはふっと気を緩めた。
「……では、あとで。夕食後にお伺いします。──もちろん、貴方の″大切な相棒″もぜひご一緒に」
その言葉にキイはひくりと頬を歪ませ、シータは溜息を吐くと、もう勝手にして、と言うように片手を左右に振った。

しばらくして、シュンメイがステラを落ち着かせるために、皆にお茶を淹れようとその場を離れ、それをきっかけにシータとイェンランも子供達の世話をするとして、彼女と共に部屋を出た。
二人はすぐに廊下でシュンメイとは別れ、子供達のいる場所に向かう途中、ステラの息子を黙って連れ出したアムイが気にかかり、ついでとばかりに彼らの姿を探し始めた。

教会内にいる気配がないので、彼らは庭にいるのではないかというシータの言葉を受けて、イェンランは彼と共に教会の裏手にあるテラスから外に出る。
いつの間にかどんよりと曇っていた空は晴れ渡り、清々しい空気が肌を潤していく。
「雨、酷くならないうちに止んだみたいね。庭のお花に水滴がついてキラキラしてる」
庭に咲く花の美しさに心から感動しているイェンランを斜め後ろで眺めていたシータは、憂いた顔でそっと彼女に近づくと、「大丈夫?」と囁いた。
イェンランは驚きながら振り向き、シータの瞳に心痛な色を見つけると、困ったような笑みを反した。
「……うん。ちょっとあの時の事、思い出しちゃったけどね……」
「そっか」
「けど、あのステラさんって素晴らしい人だよね。心にどれだけ傷を負ったんだろう…。でも芯の部分は綺麗なままで…子供に愛情を持って…」
「……そうね、彼女は立派たわ。悪いのはその彼女を表面だけ見て糾弾した馬鹿だけどね。それが神に仕える身だなんて、まったくの笑止!」
シータはリンチ-天司の暴言暴挙を思い出したのか、美麗な顔を思いっきり顰めている。イェンランはふふっと小さく笑った。きっとステラに対するだけではなく、自分にも投げかけられた科白を思い出しているのだろう。
「でも、あの時のシータ、かっこよかった!やっぱりシータも男の人なんだな、って思ったよ。大天司様じゃないけど、あの啖呵、身震いするほどしびれちゃった」
途端、シータの顔がみるみる赤くなる。おや、珍しいとイェンランはにやにやとする。滅多に見られない彼の姿に、何か彼の素を垣間見たようで嬉しくなった。
「そ、そぉ?……ちょっとガラが悪かったかしら…?」
気まずいのか照れているのか、戸惑っているシータに、イェンランはううん、と首を振った。
「とんでもない、言ってくれてスッとしたし…。ただ、いつもレディなシータが男言葉だったのが新鮮だっただけ」
「もぉっ!イェンったらやめて!お願いだからもう忘れてちょうだいっ」
自分の頬を両手で押さえ、いやいやと首を振るシータのしぐさが異様に可愛らしくて、イェンランは男前だったあの時の彼とのギャップに、我慢できずに声を出して笑った。 


* * *

教会はなだらかな丘の上にあって、門を出ると広々とした草原が目の前に広がる。
アムイはその門から数歩出たところの大きな木に背を預けるようにして景色を眺めていた。胡坐をかいている足の間には小柄な少年がすっぽりと収まっている。

あの時何も言わず、この子を抱き上げ連れてきてしまった。

我慢できなかったのだ。酷い事を言われ、そして母親を庇おうと泣きじゃくる彼に、いつしかアムイは己の姿を重ねていた。

《忌み子(いみご)》

その蔑みの言葉はオーン神教独特のもので、堕天者(だてんもの)もまた然り。アムイはオーン教と関わりなく育てられたので、今のセイオンと同じで、その言葉がどういう意味を持っているのかは幼い自分は知らなかった。
……だが、アムイの人生の中でその言葉が数回、自分の心を切り裂いたことがあったのを、あのリンチ-天司によって思い出したのだ。

+++

『この子が堕天者が産んだという、忌み子ですか』

十八年前──。
ちょうどミカ神王大妃(しんおうたいひ)に些細なことで殴られて、必死に逃げていた時の頃だった。あの運命の日が近いある日の事で、すでにいわれのない虐待を幼い身に受けていたアムイは、何故黙っていたのかとキイに叱られ、キイの伯母(この時はそう教えられていたが、アムイにとってもれっきとした義理の伯母だ)の自分に対する扱いに不信を持ち始めていた。
──しかも、自分の父親の大罪を知ってしまった矢先の事でもある。
確かに幼いながらも、伯母であるミカ大妃の口から、最近自分に対して父親の名前が出る事が多くなって、尋常ではない何かを感じていたのだろう。
彼女を避け始めたアムイに苛立ちを募らせたミカ大妃の、自分への扱いがエスカレートしていく現実に耐えられなくなって逃げ出したアムイは、キイを捜していたその時、偶然宮中に参じていた聖職者と出会う。彼は神王代理として政(まつりごと)をしていたシロン摂政の客だった。
この当時、オーンとセド王国は緊迫した関係にあった。もちろん、それはアムイの父が起こした大罪が要因である。それでもまだこの頃は、真実を隠し持っていたのはセド王家だけで、オーンの方は疑惑の目だけを向けていた時であった。だからたまにこうして視察という名目で、オーンが聖職者をセドに寄越すのだ。その時だけ、摂政シロンはキイを隠す。だからアムイが懸命にキイを捜しても、見つからないのは当たり前である。青痣を作っているアムイの顔を一瞥すると、その聖職者はまるで汚物をみるような目でそう吐き捨てたのだ。
言われたアムイはもちろん意味も分からずきょとん、とした。だが、その次の瞬間、シロンがアムイの小さな体を突き飛ばしたのだ。
『そうですよ。さっき話していた身持ちの悪い女聖職者の子どもです。──どうなのですかね?大聖堂ではこういう忌み嫌われた汚らわしい子に対し、どういう制裁を加えてらっしゃるのか』
『堕天した者は悪魔に身も心も売ったも同然、その証である子も当然悪魔の子ですよ。一番、神に毛嫌いされる存在だ。こんな子供をどうしてセドの王宮に住まわせているのか……我らとて信じられません』

当時、オーンの疑惑を何とか誤魔化そうとしていた王家の者のあがきが子供のアムイにわかるわけもなかった。当時のアムイは、昔の父アマト同様、王家の利益のために生贄と捧げられたようなものだ。
『この子はお恥ずかしながら身内の血を引いてましてね…。昨今の女聖職者は己の利のために我が王家の血を欲するのも構わないようですね。王家の血を引いた子を産めば、罪が軽くなるかとも思ったのでしょうかね。騙された身内が不憫ですよ』
『……それは…恥ずかしい事です…。やはり女聖職者を廃止するべきかもしれません。そうすれば、このような不幸な子は生まれないですむ』
その時向けられた刃物のような鋭い眼差し。内容はわからなくても、大人になった時にその意味を知り、怒りが噴出したが。
結局気まずくなった聖職者は、セド王家の思惑通り早々と帰って行った。もちろん、ご丁寧にそういう忌み子の処遇の相談をいつでも乗ると言って。
アムイが不憫だったのは実はそれ以降だった。それを見聞きしていた亡くなった先代神王の妾腹腹である王子達が、面白おかしくアムイを貶めるために好んで使ったからだ。
『忌み子!』『堕天の子』……と。

《知っているかアムイ、忌み子ってなぁ、本来はオーンの国に行ったら、一生牢獄から出られないらしいぜ》
《そうそう、何せ禁忌の…悪魔の子だからなぁー。穢れるのを恐れてるんじゃないの?オーンはさ》
《つまりお前も生まれながら罪を背負っているってことだ。畜生よりも下ってことだよ!ほら、服脱げよ。悪魔の子なんだから、人間様の格好するなんて図々しい》

事実、オーン神教によって大陸の数か所にそのような子供を集めた施設があるとは聞いたことがある。それも周囲からの差別や敵視から子供を守るために大聖堂が率先して作ったというのが発端らしいが、中には一部の潔癖すぎるともいえる聖職者の、制裁という名の虐待の場と化しているところもあるという。その実情は大聖堂でも完全に把握できていないらしいが、それが元でオーンには忌み子を隔離し、無料奉仕する人材として一生拘束するという噂が流れている。
当時のセドの王子達は、それを聞きかじっての発言かと思うが、何も知らないアムイを恐怖に陥れるには十分すぎるほどだった。

アムイはさっきまで泣いていたセイオンが落ち着きを取り戻し、話ができるまで気分が上向きになったことに心底ほっとしていた。

産まれる時のトラブルで脳に小さな障害を持つセイオンは、年齢よりも幼くて大人の込み入った難しい話を理解できないでいる。今回はそれが彼にとってよかった。素直で心根の優しいこの子に、自分と同じような思いをさせたくない。あんな人を貶める意味など一生知らなくていい。
アムイは溢れそうになる思いを胸に、セイオンに「もう平気か」と、ぽつりと話しかけた。
「うん、もう平気。だってぶつかっちゃったボクが悪いんだもん。……お母さんも怒られちゃった…。お母さん、大丈夫かなぁ……」
セイオンの母を心配する声に、アムイは居たたまれなくなって、そっと彼の頭を撫でた。嬉しそうに目を細める彼は、まるで子猫が喉を鳴らしているような愛らしさがある。
「お前は優しいな。……もう少ししたらお母さんの所に戻ろう。きっと心配している」
「へへ。それにボク、ああいうの慣れてるの。だから平気」
「慣れてるって……。お前いじめられてるのか?」
「うん。でもね、リー(シュンメイの末の息子)みたいにいつも優しくしてくれる子はいるよ。だけど、仕方ないんだ。きっとボクにはお父さんっていう人がいないから」
親がいないのはセイオンだけじゃないだろう。どうしてか彼の頭の中では、他人が自分に冷たくする理由を、そのように解釈しているようだった。
「どうしてそう思うんだ?」
「……だって、施設の子たちがみんなゆってた。親に捨てられたから、いらない子だから、嫌われるんだって。……この教会お父さんお母さんがいるのはリーだけだもん、誰もがリーには優しいし」
複雑な人の思惑を読み取れない彼は、思うままを受け止め、簡単に納得してしまうのだろう。だからといってその境遇を怨むわけでなく、ありのままに受け入れている。自分が思っている理由がまがっていると理解しないままに。
「でも、ね。ボクはまだいい方なんだよ!だってお母さんがいるもん。だから何を言われても大丈夫。それに、いつもシャイ王子様が言うもん。気にするな、ここにはお前のお父さんの代わりはたくさんいるって……。リーのお父さんや天司さまや……それに、シャイ王子様だって」
「シャイ王子?」
それはきっと北の国の第三王子シャイエィの事だろう。
「うんっ!とっても優しいの!お母さんにも優しいよ。ううん、誰にも優しい」
シャイエィ王子の話になると、セイオンの顔がぱぁっと明るくなる。
「この国の王子様だけど、えばったところなんてないんだよ?いつも来るとボクを優しく抱っこしてくれるの。レイさんみたいにいい子いい子してくれるんだぁー」
「そうか!それはよかったな。いい人なんだね」
「…うんっ。王子様がボクのお父さんだったらいいなって…いつも思ってるんだけど、そう言うとお母さんが泣くんだ。だから…」

その時だった。
丘の下方から地響きがし、不穏な気を察したアムイはセイオンを抱きかかえたまま反射的に立ち上がった。
「レイさん?」
「しっ」
アムイは目を眇めて下方を見やると、そこから土煙を立てて、勢いよく教会目指して駆けあがってくる馬の集団が目に入った。
「誰か来る」
怯えるセイオンをぎゅっと抱きしめると、その場を去ろうと踵を反そうとしたアムイは、先頭を走る馬上の人物の声で引き止められた。

「アムイ!」
その馬上の人物は大声を張り裂けながら、スピードをあげ、あっという間に彼らの前に滑り込むようにして近寄ると、さっと馬から飛び降りた。
「リシュオン!」
目の前に現れた人物、それは西の国の第五王子リシュオンであった。
彼ははぁはぁと息を切らしてアムイの目の前にいる。彼の後方からは従者と思われる者の馬が数頭追いかけるようにやってくる。
「……どうした。何かあったか」
尋常でない顔色のリシュオンに、アムイは嫌なものを感じたが、それは珍しくリシュオンが焦っているせいだと気が付いた。彼が若干取り乱しているのは、余程の事だと察知したアムイに緊張が走る。
「ええ。宵さ…いえ、キイは中ですか?緊急です。王宮での状況が急変しました」
「急変?」
「はい!王都は現在戦闘状態です。先程、王宮も多大な被害が出て──」


* * *

「おかあさぁぁぁーん!!」

子どもの悲痛な泣き声が庭を劈(つんざ)き、のんびりとしていた空気が破られたイェンランとシータは何事かと声の方を振り向いた。
わぁぁーと大泣きしながらセイオンが教会に駆け込んでいく。その後を慌てた様子でアムイらが追いかける。
「……え?リシュオン?」
アムイの後ろにいた人物に気が付いたイェンランは目を見開いた。尋常ではないと悟ったシータの表情がきつくなる。
「何かあったみたいね。イェン、行きましょう」
「う、うん…」
イェンランは促されるようにして彼らを追って教会の中に入った。

* * *

ちょうどその時、キイ達はシュンメイの淹れてくれたお茶を堪能していたところだった。涙が止まらなかったステラもようやく落ち着いて、和やかに話ができる状態になった時、突然バタバタと子供の足音と共に、「お母さん!」と泣きじゃくる子供が部屋に突入してきて一同は驚いた。セイオンは母親の姿を見つけると、大泣きしながらその胸に飛び込んだ。
「まあ、どうしたのセイオン」
我が子を宥めようとしたステラは、その後から勢いよく飛び込んできた男二人の表情を見て絶句した。
「どうした」
キイの声もいささか固い。それほど部屋に入ってきたアムイ達の顔が緊張で強張っていたのだ。
「キイ、王都の情勢が変わった」
「何?」
「今、王宮は戦火に見舞われて半壊滅状態らしい。──形勢逆転だ。私設軍がミャオロゥ率いる中央軍から王宮を奪還した。だが、かなりやり合って酷い状況らしい」
「なんだって?」
「ええ。昂極大法師のお伝えでは、私設軍が王宮に攻め込んで、シャイエィ王子を救出。そこまではよかったんですが、かなり中央軍が抵抗して、多大な被害が出た模様です。ただ、残念ながら肝心のミャオロゥ王子を逃してしまったようですが……」
「お母さん!どうしよう、シャイ様が死んじゃったらどうしよう!」
リシュオンの説明を遮って、セイオンが泣き叫んだ。
「どういうこと?」
「けっ、怪我って……シャイ様……」
「えっ!ちゃんと説明してセイオン!王宮ではシャイエィ様の身柄は安全だって……それがどうして!」
ステラの顔色が変わった。縋る息子を引き離して話を促そうとするが、彼は嫌々と頭を振って益々彼女にしがみつく。
「セイオン!」「うわぁぁーん」
泣きじゃくってばかりのセイオンに代わってリシュオンが痛ましそうに答えた。
「シャイエィ王子がミャオロゥ王子と対峙されたそうです。その時、かなりの戦闘となったらしく……。結果、ミャオロゥ王子は実の弟君を切り捨て、王宮を従者と共に脱出したと」
「本当か!それでシャイエィ王子の様子は」
ハロルドが蒼白となってリシュオンに問いただすが、彼はふるりと頭を振る。
「とにかく混乱していて、現状はそれしか情報がきていないのです。昂極様も今渦中におられて…。ただ、今の情報では負傷したということなので、お命には別状ないかと。ただ、かなり激しくやり合ったそうで、その程度は計り知れません」
「シャイエィ様……何てことだ!」
数日前に幽閉されたシャイエィ王子を思いながら何とか王都を抜け出たというハロルドは苦悶し、シュンメイは今にも崩れそうなステラ親子を支えるために傍に寄った。
「ああ…どうしましょう、シュンメイ。あの人が…あの人が」
(死んでしまったら)という不吉な言葉をステラは飲み込む。あってはならない。あの優しい人が、この世を去る何てこと。

《すまない。本当にすまない。君を助けてあげられなかった。もっと早く、間に合っていたら、君をこんな目にあわせなくて済んだ。君を神から遠ざけさせてしまったのは、私が不甲斐ないせいだ》
そう言って、汚されて茫然自失だった自分をきつく抱きしめ、泣いてくれたあの人。

──ああ、どうかご自分を責めないで。貴方のせいじゃない。貴方は何も──

《どうか自分を卑下しないでほしい。貴女はとても立派だ。新たな命をこの世に送り出した偉大な人だ。オーンではどうか私は知らないが、北星天では命がけでこの世に命を産み出す母という存在は天神に等しいのだよ。これからはひとりの母として、北の国で胸を張って生きて欲しい』

──貴方がいてくれたから……息子を実の子のように慈しんでくれたから……私はこうしてちゃんと2本の足で大地を立っていられたの……貴方が…支えてくれたから……──

「しっかりして、ステラ。まだそうとは決まっていないのよ。貴女がしっかりしなくてどうするの!シャイエィ様は大丈夫。絶対貴女たち親子を残して死ぬ何てこと、絶対ないから」
シュンメイは二人に覆いかぶさると、ぎゅっと抱きしめた。シャイエィ王子には昔から、彼が不在の時にはステラ親子を守るように頼まれている。
本当に彼が隠したかったもの。世間の謂れのない目や偏見や、そして自分の兄の脅威から、本当に彼が守りたかったのは、元聖職者であったこの女性だ。

「とにかくわかった。もっと詳しい話を聞かせてくれ、リシュオン。それと、どういう見解かも」
厳しい顔つきでキイがそう言い、場所を変えようと提案した。
確かにまだ教会の食堂に彼らはいた。ここでは誰が入って来てもおかしくないし、落ち着かない。甥の事で沈んでいたフォウ天司を促して、キイ達は教会の応接間の方に場所を移動したのである。

これからの事を話し合うために。


◇◆◇

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2014年5月 8日 (木)

暁の明星 宵の流星 #199-①

今でもあの時の事を思い出すと恐怖で自分が壊れてしまいそうになる──。
女だというだけで、ああも人格も肉体も傷つけられ、全てを一瞬で粉々にされてしまうとは。

あの日をもって、聖職者ステラ=リードは破壊された。
男たちは本能のままに彼女を虐げ、弄んだ。それはあたかも清純なものに自分の跡をつけ、汚して遊ぶ子供のように。

だが、しかし、彼女の心までは壊れはしなかった。
聖職を失ったとしても、確かに心に深い傷は残ったかもしれないが、命は残った。しかも幸か不幸か、彼女は真の敬虔なオーン信徒であった。
彼女を救ったのは、このような地獄を見てもなお、揺るがなかった絶大なる神への信仰心と、新たな命、──それを心から支えてくれた人々のお蔭だ──。

+++

ステラ=リードは最高大天司長の末の妹であるリザベル姫に仕える騎士、ハロルド=ヘイワードと共に北の国モウラに出向いた天空代理司(聖職者)の一人である。ハロルドは天司ではないが、敬虔な神教徒であり、リザベルが北の国に輿入れするために必要なオーン教会の体制を整えるという目的もあって数名の聖職者に混じって北の国入りした。
元々異教徒にオーンの貴族の姫君が嫁ぐ、などというのはかつてなかった事で、この婚儀を整えるいくつかの取り決めの中に、リザベル姫の改宗を認めない、というのがあったためである。
宗教戦争後、宗教の自由が認められ、宗教間の垣根が低くなったこともあり、夫婦それぞれが違う信仰を持つ事も当たり前としてなっていた昨今、由緒正しいオーン神教徒の一族は当たり前のようにそれを求めてきた。
北の王家は北天星寺院が国教でもあって、王家は始祖からもちろんそれを信仰としてきたから、輿入れの相手が異教徒であるというのは前代未聞でもあったわけで、周囲も戸惑い、拒否感もあった。しかし、今の世の中の流れに逆らえない、と最終的には渋々認めたのである。
リザベルに恋をしていた当のミンガン王は、彼女のためなら何でもするという勢いで、北に嫁いで不憫な思いをしないようにと、オーン教を国教の次に厚遇することに決めていた。そのために彼女の近しいオーンの人間を呼び寄せ、より良い環境を整えようとしていたのだ。

ステラは当時、初級から中級に上がったばかりで、リザベルと年齢も近いという事もあり、彼女の生家からの要望でリザベル付きの聖職者となった。その時に彼女の護衛でもある騎士ハロルドと親しくなる。
そして自然にその流れでシュンメイとも知り合った。
あの堅物で、リザベル姫以外の女性に笑顔すら見せたことのない男が、異国の美しい女性を気にかけている姿を見て、ステラは微笑ましく思っていた。傍から見て二人が惹かれ合っているのもわかっていた。シュンメイも気持ちのよい娘で、彼女よりも年上のステラは、いつしか妹のように思うようになっていた。
だから、どうしても輿入れの準備で一時ハロルドが帰国しなければならなくなった時、ステラは快く彼の代わりに北の国に残ったのだ。シュンメイは王宮の第一王子に狙われていて、それを心配しているハロルドの代わりに彼女を守ると誓ったのだ。ハロルドは『感謝するが、決して無理するな。すぐに戻る』という言葉を残して後ろ髪を引かれる思いで帰国した。
だが、やはりというか、姑息な第一王子はハロルドの一時帰国という隙をついてきたのだ。
同じくシュンメイを守ろうと動いている第二王子マオハンは床に伏していたし、第三王子シャイエィの力は弱い。それでも彼女を守ろうという計画はうまくいっていたのだ。だが。

シュンメイの身を安全な場所に隠そうとする直前に事は起こってしまった。
彼女が目的地に向かうために宮殿の外に出た途端、多勢の男たちに襲われあっという間に拉致されてしまった。表向きは盗賊の仕業と思わせて、実は第一王子が雇ったゴロツキが金に目がくらんでやった事だった。それはあまりにも手際よすぎて、彼女につけられた護衛が間に合わなかったほどだ。
シュンメイは第一王子の隠れ家の一室に監禁された。
もちろん、ミャオロゥ第一王子は念願の女を手に入れたと、上機嫌で部屋に入った。だが、彼がそこで見たのは、目当ての女と似ても似つかない、痩せた地味な女だった。


念のために。
と、ステラは地毛である金茶の長い髪をきつく一つに纏め、上からすっぽりとシュンメイが異母兄から贈られたベールをかぶった。彼女の今の姿は、北の国の一般女性の出で立ちで、灰色の目を伏せれば、どこを見てもこの国の女に見れる。しかもシュンメイよりも華奢ではあるが、ステラは異国の女で、ある程度背丈はあった。この国の一般男性くらいの身長は。だからすんなりとシュンメイの代わりになろうと思ったのだ。
『私が彼らの目を引くから、貴女はその隙に目的の場所へ行って』
『だめよ、ステラ。そんな危険なこと、させられないわ!』
シュンメイはものすごく反対した。実はその前にも自分が囮になる…という計画を第二王子達の前で提案したのだが却下されていたのだった。理由はシュンメイと同じ。いくら護衛がついていても危険すぎる、と。特に第三王子シャイエィが一番に立って。
だけど、彼女は譲らなった。彼らに内緒でシュンメイと服を交換したのだ。彼女に聖職者の振りをしてと言い含めて。

自分は崇高なる聖職者だと、ステラは自負していたのだ。どのような相手であろうがそれを曲げられないし、屈伏するわけもいかない。中級となった自分はそれまで経典を司る教育司官(きょういくしかん)という聖職者教育・教典管理を担う機関に属していた。だから彼女は何かあった場合、神の道を説いて相手を導く覚悟をしていた。
だが、話の通じない相手もいるんだという事を、まだ年若かった彼女には計り知れず、特に神の庇護のもと、大聖堂という安穏とした箱庭で育った彼女は、ある意味世間の恐ろしさを知らなかったともいえる。
シュンメイ本人ではない、と知ったミャオロゥの怒りは半端でなく、彼の激昂にステラは恐怖に支配された。しかも、女一人に多勢の男。ざっと五-六人はいたであろう。
その異様な空気に、ステラの女としての防衛本能が沸き起こったが、もうすでに遅かった。
『お前が代わりになれ』
と、ミャオロゥはこともなげに言い放った。
彼には相手が聖職者であろうと、所詮異教徒であるために、何の躊躇もない。神の怒りなどどこ吹く風だ。
まさか、と。ステラはまさか神に仕える自分に、このような暴挙に出るとは思いもしていなかった。いや、そういう事例があるとは知っていたし、堕天した聖職者も目の当たりしていた。だが、これは彼女の傲慢さゆえか、自分はならないという変な根拠が常にあったのは否めない。自分は神に庇護されている。だから、大丈夫なのだ……という、驕り…が。

『なあ、オーンの女聖職者は生娘だというじゃないか。本当かどうか試してみよう』
そう嘲笑って、男達は彼女を欲望のはけ口にしたのだ。

そこには愛も何もない。ただ暴力だけがあった。

+++


────── 一度堕天してしまうと、二度と普通の世界に戻れなくなるのよ。 ──────

慰安のために訪れた町で、彼女はかつての仲間に会った。しかも場末の酒場で。
自分よりも年上の彼女は、数年前まで聖職者としてオーンの島にいた。
明るくて誰よりも奉仕熱心で、島民らからも慕われていた模範的な中級天司。神に近い位置にいる事を、あんなに誇りにしていたのに。
それがあっけなく崩れてしまったのは、奉仕の一環として行われていた一般人との相談日に、遠方から訪れた男のせいだった。男は彼女の優しさや同情心に付け込み、縋り、誘惑した。言葉通り、悪魔の誘(いざない)い、だ。
無垢だった乙女は知らないうちに心を絡め取られ、一線を越えてしまった。聖職者としての禁忌を犯してしまった。そして彼女はそのまま男の手管に翻弄され、肉欲の渦に捕えられて……堕落した。罪人、として聖域を追放されたのだ。
彼女のその後を知らなかったステラは、偶然の再開に愕然とした。
あれだけ神の御許で輝かしい日々を送っていた清らかだった彼女が、目の前で男を誘うような胸元の開いた服を纏い、真っ赤に爪を染め、派手な化粧、乱れた髪を気怠くかき上げている。信じられなかった。彼女の廃れた現状を。
結局彼女を陥れた男はあきたのか重かったのか、すぐに彼女を捨てた。堕天し、罪人となった彼女の行く末は惨めなものだった。彼女も男との快楽が忘れられず、しかも自分を堕天させボロボロに捨てた男への憎しみに支配されている。
『下界の男なんてみな悪魔よ。女を欲の対象としか見ていないの。まんまと食われるだけなんて割に合わないわ。私が男を食い物にしてやるのよ』と彼女は鼻で笑う。
そこには神を崇め、平穏で愛に溢れた昔の彼女の姿はない。植えつけられた快楽と全ての男達への憤りを、己を身売りするという事でぶつけているのだ。それは無意識にも自分自身に罰を与えているように見える。本人は気が付いていないようだが……。
『一度堕ちたら、底辺から這い上がるなんて、どれだけ厳しいものか。……ううん、違うわ。一度穢れたら上に行くのは出来ないのよ。……無意味よ、無意味!堕天した女に信仰心なんて無意味なの。神は正直だし冷たいわ…。それがわかったのよ、心底』
そう口元を歪める彼女の瞳は底のない沼のようにどんよりと濁り、暗闇に揺れていた。
その痛烈な表情に、ステラは恐怖を感じたものだった──。


+++

だから純潔を失う事は、ステラにとって恐怖以外のものではない。聖職者としての自分の死を意味する。 
下肢の激しい痛みと共に、堕天した彼女の言葉がぐるぐると回り続ける。

────一度堕天してしまうと、二度と……

それがたとえ、不可抗力だったとしても。
神の加護が無くなった時点で自分は敬愛する神に見捨てられたのだ。
…………救いはなかった。その時はそう思い込んでいた。
全てが終わったその時に、ステラは絶望の海に沈んでいた。いっそこのまま命を絶てば、神の慈悲が貰えるのではないか……という考えに支配されながら。

だが、それすらも天は許さなかった。生きる、という事を彼女に突き付けた。

それは茫然自失していた彼女を救い出してくれた友人達や…自分を泣きながら抱きしめてくれたあの人が…底なし沼から自分を引きずり出し、今生に留まるように心を尽くしてくれたからだ。
それでもまだ神への罪悪を感じていた自分に、気を取り直させる事態が起こる。
自分の中に小さな命が芽生えていた。その事を知ったあの人が黙って手を握り締めてくれたあの時に、ステラは生きようと思ったのだ。
彼女の絶望は、底辺ではなかった。凌辱の果ての結果だったとしても、子供は神の贈り物である。不思議なことに、ステラはそれが神からの啓示のように思えたのだ。この命は神の意志。この命を授かったという事は、自決を神から拒否されたと解釈した。

授かれし尊きものを守り、産み育てよ────それがお前の贖罪でもあり一条の光であるのだ────

我が子を苦しみぬいて難産で迎えた時、ステラはその言葉を聞いた気がした。
それは出産を終えて朦朧としていた時に目に映った、あの人の微笑みがそう思わせたのかもしれない。

ステラは思う。確かにあの時自分は地獄に突き落とされた。だけど、周囲の愛で心だけは死なずに済んだ。どれだけ体は穢れていようが、信仰を忘れなかった自分は幸せだったと思う。

────そう言ったら怒られたけど、あの人に。

《貴女は穢れていません。その純粋な心と同様に──。傷つけられたとしても、何ら変わりはない────。》

+++


ステラは締め付けられる胸を押さえ俯いた。全てを話し終えたその時に、彼女の頬を伝って一粒の雫が床に落ちた。
シュンメイは目元を真っ赤にして泣いている。それを隣にいた夫のハロルドが鎮痛の思いで彼女の肩を抱いていた。キイは目を瞑り、天を仰いだ。クライスは憂いた顔でそっと目を伏せた。イェンランは壮絶な話に己を重ね、憤怒の胸中にいた。

……許せない…。イェンランは唇を噛んだ。
わかっている。自分もキイやアムイ、リシュオン達のお蔭で、そういう男ばかりではないという事を知っている。だからここ最近は彼ら限定で接近しても、拒否反応は出ないくらいには立ち直っている。それでも、ステラの話を聞いて、イェンランは多勢の男に襲われた事をまざまざと思い出してしまい、吐き気を覚えた。欲望でぎらぎらとした目。荒い息遣い。気持ち悪い手と舌の感触────。

震えそうになる指を、いつの間にか隣に来ていたシータの手にそっと包まれてはっとしたイェンランは、反射的に彼の顔を振り仰いだ。そこには心配そうに見下ろす茶色の瞳がある。
ふっとイェンランは力を抜いた。指先から伝わるシータの優しさに、徐々に心が落ち着いていく。
彼はいつもそうだ。
華やかで派手な出で立ちと、ちょっと上から目線な女言葉で、人当たりがきつそうな印象を与えるが…事実本当に怖い所のある人だけど(だってあの華奢で柔に見える姿で複数の男らをあっさりと蹴散らすくらい強いし)、でもその内情は本当に優しい人だと思うのだ。特に弱い者に対する庇護欲は半端ないとイェンランは感じたことがある。母性……に近い父性というのか、文字通り強きを挫き弱きを助ける、それをさりげなくやってのける。
彼の持つ中性的な透明感と気さくな人柄にどれだけ助けられてきたことだろう。
その彼が、たまに見せる意外な一面──。彼もキイと同じく捉えどころのない男(ひと)だ。

「……真の信仰心をお持ちの貴女を、誰が責められようか……。悲しくも不幸な出来事に見舞われたにも拘らず、貴女の心に灯る愛の火は消える事はなかった…。聖職を負われたとしても、それでも神の御心にそって日常を懸命に生きている貴女を私は尊敬します」
そうクライス大天司はステラに向かってはっきり言うと、深々とお辞儀した。慌てたのは当の本人である。
「大天司様!おやめください、こんな私に頭をさげるなどと!」
「こんな…とは?貴女は人としても女性としても素晴らしい人ですよ。きっと神もそう思っておられる。恥じることなど何もない……お辛かったでしょうが、その分心に深みが増した。お会いしてなおさら確信しました。だから大丈夫、正々堂々と前を向いて生きなさい」
「天花(てんか)大天司様……」
ステラはその言葉に思わず両手で顔を覆った。信じられなかった。まさか上級大天司にこのような言葉をかけてもらえるなんて。

嗚咽を堪えるステラを見下ろすクライス大天司はまるで聖堂に飾られた聖人そのものであった。
崇高で、この慈悲深い表情……話しには聞いていた、これが真の聖職者の姿なのだろうと、イェンランは思った。


* * *

申し訳ありません。今回長くなりまして、このままだとなかなか更新できないと踏んで、前半だけ先に投稿させていただきました(汗)近いうちに②を更新します。予定では、その後の#200(おお!)でこの章を終わらせるつもりです。いつも間隔を空けすぎてすみません。詳細は活動報告にて!

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