思惑……か。
何の思うところなく、どうしてわざわざ内乱の起きた国に足を向けるだろう。
今頃当たり前のことを尋ねられては、どう答えてよいか苦笑がもれるだけだ。
「いけませんね、“宵の君”。恩人である昂極(こうきょく)大法師殿の事をおっさん呼ばわりするとは」
「ふざけんじゃねぇよ、誰が昂じいちゃんのことを言ったよ。……わかってんだろ?あんた達聖職者が一番敬っている立場のあのおっさんのことだよ!」
怒りの滲む目を向けられて、クライス天花大天司(てんかだいてんし)は困ったように笑うだけだったが、皆はキイの言わんとする人物を推察して眉間に皺を寄せる。だが驚きで顔が青ざめたのはハロルド達の方だった。
やはり、大聖堂とセド王家は何かしら確執があったのか──。
そうでなければ、生き残りのセドの王子が、何故に大聖堂の最高位神官の存在を匂わせるような事を言う?
特に今の最高大天司長(さいこうだいてんしちょう)サーディオは、セドを攻め入った時の最高司令官でもあった。
彼らの怪訝な表情をちらりと盗み見しながら、クライスは変な笑いがこみ上げてくるのを無理やり自制した。
我ら大聖堂の頂点として、最高位の神官であるあの方を軽々しくおっさん呼ばわり……。これが彼以外の人間が言うのならば、問答無用に制裁を加えなければいけない事だが。
ああ、しかし。
彼の険しい顔立ちは、若き頃のあの方をこんなにも髣髴させ、いや、それ以上に優美に弧を描くふくよかな唇、大き目な切れ長の美しい瞳はどちらかというとあの方よりも彼を産んだ生母の方によく似ている……。
大陸一、美しいと称賛された女神のごときあの女性に。
+ + +
『あなた方に神託が許されたました。異名を私が授ける事を、了承してくれますか?』
まだ遊び盛りでもある8歳の少年少女だった3人の子供達は、昨年聖職に入った幼子の中でも取り分けて優秀な子達だった。
遊びよりも熱心に聖職の道を学び始めた彼らに、突然、雲の上と思う人より声がかかる。
突如として連れて行かれた神殿の中で、一際光彩を放つ美しい巫女にそう言われた彼らは驚きで目をきょときょとさせた。
緊張している子達に、彼女はにっこりと天女のごとき笑みを向けてそう言ったのだ……。
それがどんなに名誉なことか、まだ入ったばかりのひよっこ達でも十分すぎるほどに理解できていた。
そう、目の前で微笑んでいる美貌の乙女は、この神殿の頂点である姫巫女だと知っていたから。
幼い頃から神殿入りをした姫巫女は、世俗の辛酸も知らず無垢そのものに成長した。
歌う事や花が好きで、特に子供が大好きな彼女は、聖職ゆえに自らの子を持てないことを残念に思いつつ、こうして10歳以下の聖職者である天空童子たちと戯れるのが楽しみだった。
特に今年、入ってきた天空童子の中でこの3人は、極めてそれぞれの分野でかなりの優秀さを見せ、神童という称号を与えられて然るべき、と大聖堂に認定されたのだった。そのために、彼らに神殿から異名を与えられることになった。
それがまさか、神殿の姫巫女直々から名を賜るとは。
その時の彼らの驚きは半端ではなかっただろう。
『あなた達に私が好きなお花に関する名前をつけてもいい?一目見た時からそう感じたの。……私が異名の名付け親となるわけだから、緊張しないで今日は一日私と過ごしましょうね』
本人に合う異名をつけるため、天啓だけでない納得できる名を付けたがった神殿の姫巫女は、本人たちと一日過ごすことを希望したのだ。
後から、ただ単に子供達と遊びたかっただけのようですよ、とクスクス笑いながら彼女の警護をしていた月光天司という名の中級天司にそうこっそり教わったけれど。
3人の少年少女にとって夢のような時間だったのは間違いない。
『大人しそうに見えて激しいものを持っているあなたは花影(かえい)。知ってる?月の光などによってできる花の影のことをいうの。特に桜の花の影なんですって。あなたのその姿は愛らしいだけじゃない……本質は月が照らす花の影にあると感じたわ。だからあなたの異名は花影』
隣にいた友人の頭に触れながらそう言った姫巫女に驚きを隠せない。
確かに彼は見かけの愛らしさに反して中身はふわふわとしてはいない。複雑に絡み合った何かを彼の内面に感じていたのは事実だ。
闇夜を照らす月が作る花の影。まだ幼いクライスでも、意味がわからないままもそのイメージは友人と重なり、ストンと落ち着くものがあった。
その証拠に名を与えられた友人は、じっと何かを思いめぐらしながら俯いている。その表情は相手に対し隠し事のできない諦めにも見え、何だか神に観念した聖獣のようで、子供心に面白がったのは大人になった今でも本人には秘密だ。(何せ、怒らせると怖い親友である)
それよりもさすが神の声を聞く姫巫女の観点だ。
彼女の付ける名は相手の本質を突いている。
『あなたは花冠(かかん)。花びら全体の事だけど、花の冠という意味も持つの。女の子であるあなたの頭に、香しい花の冠が乗っているのが見えるわ。……天に愛されているという印ね。あなたと繋がりたくて天神がうずうずしている様子が私には見える。その象徴である名前をあなたに授けて欲しいと天から直々に言われたの。驚いた?』
そう言われたもう一人の友人である彼女はびっくりした表情のまま、ぽかんと姫巫女の顔を見ている。
華奢で年齢よりも小柄な彼女は、足先よりも長く垂らした銅色の髪をいつも引き摺って、まるで羽が生えれば妖精ではないかと思うくらいに不思議な感じのする子だった。つぶらな瞳は青みがかかった深い緑色のまるで森林を思い起こさせる色合いで、目立たぬ質素な顔立ちで普段は無表情なのが、笑うと花が綻ぶように愛らしくなる少女だった。
──花冠──…と異名を賜ったもう一人の親友は、それがきっかけでただの聖職から神殿の巫女へと位上がり、姫巫女の元でその能力を開花させた。巫女としての才能を姫巫女自身で見抜かれた彼女は、母とも慕う姫巫女の不幸後、その後釜として神殿の最高位に今はいる。
そして自分──クライス・グレイ=ヘイワードは最後にこの名を頂戴した。
《雪》という意味を持つこの異名を。
『──天花(てんか)』
『え?』
『あなたは天花ね。……物知りのあなたにはわかるでしょう?その意味を』
そう告げられた途端、クライスの脳裏に真っ白な雪景色が浮かんだ。
真っ白な世界に淡い水色を抱え込んだ雪がしんしんと降り積もっていく。
亡くなった母の故郷だ。
幼い頃何度も遊びに行ったことのある、懐かしい風景。
『どうして』
そうつぶやくクライスの声は震えて、眦には涙が浮かんでいた。
『あなたの本質は天界から降る雪よ。静かで、そして冷たいようで本当は温かい浄化の象徴……。天花はてんげとも言うわ。天界の花という意味でもある。見かけは大柄で屈強だけど、本当は繊細で知性的。穏やかで優しくて…天の雪は包み込むような慈愛もあれば、全てを凍らせる悲壮さも持つ。あなたそのものだと、私は思うわ』
姫巫女はそれ以上語らなかったが、クライスには十分だった。
白に近い銀髪、水のように爽やかな青い瞳は北西出身である母親から譲られたものだ。
今はもう西の国に吸収されてしまって地名の変わってしまった母の故郷。北と西の境にあった小さな領土は、結局北の国の経済破たんによりその余波を受け、裕福な西に取り込まれてなくなってしまった。
西でも北の方にある亡き母の故郷──その民族は、クライスと同様、美しい銀糸の髪と濃淡はあれど美しい青い瞳を持っていた。冬になると雪に埋もれるその地域に似合う、雪の精霊と呼ばれるほど色素の薄い一族として有名でもあった。
だが、クライスが聖職者になる直前に、その母の故郷は無くなってしまった。雪の精のように透明感があるとまで謳われた母の死と共に。
母を深く愛していた父は、きっと耐えきれなかったのであろう。彼女と同じ色を持つ幼い一人息子をすぐさま大聖堂に放り込み、自分はどこかへと消えてしまった。父の兄が家督を務めるヘイワード家に何も相談せずに。
伯父の考えでは、父は愛する女の面影を追って母の故郷だった土地に向かったのではないかという事だった。それでもクライスには真実を知りたい、父の行方を捜したいという気持ちはなかった。
幼いながらも聡かった彼は、父の多情さも知っていたからだ。
父は母を一筋に愛する夫ではあったが、それは心だけの話であって内情は貞操観念が呆れるほどにゆるい男であった。男でも女でも来るもの拒まず、またそれを悪い事だと全く思っていないその夫の態度が母を追い詰めていたのを幼いクライスは知っていた。
何度も嫉妬で泣く母を、嬉しそうに抱きしめている父の姿が、子供ながらに吐き気がするほど嫌だった。
《愛しているのは君だけだ、他はただの体だけの付き合いで気持ちはない。ばかだね、やきもち焼いたの?そんなに僕が好きなんだ。僕も君が好きだよ》
大人になった今なら想像つく。父は愛していると言いながら他の人間と体の関係をもって、それを母に見せつけ、母の気持ちを試していた。それは愛ゆえからの不安からか、それとも嫉妬が愛の証と思っていたのか…。父は間違った方向で母を愛した。それが母を壊していったとも気づかずに。
年に数回、親戚がいる母の故郷に遊びに行っていたのも、全て父の浮気が原因で気持ちの整理をするための自分を連れての帰省だった。その心の拠り所であった故郷が無くなったと知ったと同時に、父と母の友人との情事を目の当たりにした母は完全に壊れてしまった。
様子がおかしい母を追った自分の目の前で、彼女は衝動的に崖から海へと身を投じた。まだ小さかったクライスにはどうしようもなかった。同じように母を追いかけてきて間に合わなかった父が傍らで慟哭しながら地面に額をこすり付けていようと、クライスの気持ちは父への怒りでいっぱいだったのだ。
それを境に、クライスと父の親子関係も切れた。
幼い気持ちに傷を負いながら、クライスは自ら進んで大聖堂入りした。それは生前の母と約束したからだ。
敬虔なオーン信徒の家に生まれた父は、それに反発するように信徒らしかぬ振る舞いをして本家に疎まれていた。その父を助けるために母はクライスを立派な聖職者としたかったのだ。父のためというのが気に食わないクライスだったが、博識な本家の伯父と根は真面目な従兄弟のハロルドの影響で、いつしか経典に興味を持っていた。それ以上にどこか歪んでいる自分の家から逃げ出すためにオーン教にのめり込んだと言ってもいい。最終的にはクライスは自分の意志で聖職者になる道を選んだのだ。
雪。それは母のイメージそのものだった。
まるで見透かしたような天空姫巫女のもの柔らかい琥珀色の瞳が、母と同じく慈愛に揺れる。
(お母さん)
今でもクライスは鮮明に思い出す。母と母の故郷で雪と戯れ、何もかも忘れて二人で夢中になって遊んだことを。彼にとって唯一の癒しだったあの日々を。
姫巫女はそれを知らないはずなのに、自分に天界の雪という異名を与えてくれた。
そしてそれ以降、名付け親だからと彼女は時間のある時に自分達3人を呼んで、彼女が愛でている天空の神殿の外に広がる花園へと招き、親子のように過ごしてくれた。時には教師のように教義に話しを深め、またある時には子供のようになって彼女は皆と花園で遊んだ。
『あなた達は私の癒しなの』
そう言ってほほ笑む彼女は本当に聖母と無垢な童女を併せ持つ天空の女神だった。
+ + +
その女神と同じ顔立ちで、だけど眼差しは男の力強い鋭さを放って自分の目の前に母とも姉とも慕った女性の忘れ形見が立っている。
聖職だから自分の子は持てないの、と屈託なく笑っていた……彼女が背徳を抱えて産み落とした運命の王子。巫女が産んだ……神の御子。
複雑な胸中を隠しつつ、クライスはゆっくりと息を吐き、今まで浮かべていた笑みを全て取り去った。
突然硬い表情を見せたクライス天花大天司の変貌に、キイ以外の周囲は驚いて息を呑んだ。
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