暁の明星 宵の流星 #204
気がつけば、秋口だったあの頃からひとつ季節を越え、寒さの凍みいる冬を迎えていた。
初めは意気込んで想い人の影をひたすらに追った。必ず彼の傍に行くんだという熱意の元で。
だが、しばらくしてそれが無謀な事だったという考えが自分を苛め始めた。
ルランは自嘲する。
自分は幼い頃からずっと、ゼムカの、一族の守護の下に生きてきた人間ではないか。ゼムカは身内の人間にはとても甘い。特に強さを持たない庇護を要する自分のような男には。
その庇護の下を飛び出し、世間の荒波に飛び込むなんて無謀であると、あんなに幼馴染のシモンが言っていたのに。
それでもルランは自分の行動に後悔など微塵も感じてはいない。ただ、世間知らずで経験不足の自分に呆れ、苛立つばかりだった。
思えばルランの父親は前々王ジリオンの命知らずの特攻隊長とも言われたほどの猛者だった。過激で獰猛、繊細なルランとは全く似ていない厳つい風貌。
そんな父に似ていれば、ルランは小姓などしていなかっただろう。ザイゼムの隣で彼を全力で護っていたはず。……あの美しくも強い宵の君みたいにザイゼムと並び、共に戦い、共に生きれる唯一にだってなれたかもしれないのだ。だが、見た目も力も弱い自分にはそれは無理だった。
ルランは完全に母親似であった。それは小姓になる前、11歳の頃、生き別れた双子の姉に母の絵姿を見せられてわかった。
姉も自分と同じ顔をしていて、その造形は絵の中の母親にそっくりで、ただ姉は父親と同じ黒い瞳だったが、自分は母親の真っ青な瞳を受け継いでいた。母の髪は柔らかな薄い茶色の巻き毛で、若かりし頃に描かれたと思われるその絵では、少し幼さの残る容貌で微笑んでいた。
姉のディディは女の子なのにまるで自分と同じ男の格好で現れた。母親が亡くなったので、父親である男に会いに来たと、群がる屈強な男達に臆することなくはっきりとした声で告げた。
同じ姿なのに、性別が違うのに、姉はルランとは違い意志の強そうな力のある眼差しを持っていた。……後にルランの父が、姉のディディが男であったら…と嘆く姿を見るに、女だてらに逞しく世間を歩いて来ていたようだ。姉の束の間の滞在の時にも、自分が男であったら弟や父と離れなくても良かった、ゼムカの人間になりたかったと繰り返し言っていた。
今は女狩人として生計を立てている姉の様子を風の便りで聞くたびに、自分と性別を入れ替えた方がよかったのではないかという思いが湧いてくる。だが、それだとゼムカに拒絶され、心酔するザイゼムの傍にだって近寄れなかった。
しかも姉の、『女という性がこの世界では生きにくい』という嘆きも聞いて、つくづく自分は男でよかったと思う。
だけど、こうして自分だけの身で世間に飛び出して、現実の厳しさを味わうと、もう少し父や姉のような逞しさが己にあったら、などという焦燥に駆られてしまう。もちろん、そんな自分が嫌だった。
それからしばらくしてルランは南の国の王女一行を見つけた。意外と彼女達は姿を隠す事もなく、堂々と滞在していたので、宵の君やザイゼムを捜すよりも簡単に辿り着けた。
これ幸い、とルランはつかず離れず彼女らの後を追った。何故なら彼女らの目的もまた、人物は違えど同じだったからだ。
そうすればきっと彼女らは目当ての人間の元へ行く。そうすればその近くにいる宵の君を見つけられる。……そうなれば、同じく宵を追ってくるザイゼムと会える、筈、だった。
ところがそんなに甘くないとルランが悟ったのは、そのリンガ王女一行が【姫胡蝶】という東の荒波州提督の愛人を追って行ったのを、自分も馬で懸命に追いかけていた時の事。
突然、ルランは馬を一人の男に止められた。しかも、彼はルランを殺そうとする勢いで馬から引きずりおろし、首に刃を充てた。
「お前は何者だ。何故あの方々を追いかける」
小柄で若い男はどうやら南の大帝の隠密だったようだ。確かに高貴な人間には見えない護衛はつきものだが、ルランはその事を全く失念していた。きっと拙い彼の尾行なんて全てお見通しであったろう。だが、これでもルランはひ弱な部類とはいえ狩猟民族を祖とする戦士の一族の人間である。攻撃は駄目でも防御は身内から嫌というほど叩き込まれていた。無我夢中で相手の刃先を逃れ、必死に闇の森の中を走った。
だが、さすが敵は隠密。あっという間にルランは追い付かれ、崖の近くでもみ合いとなった。隠密の手を振り祓ったその結果、ルランは足を滑らせ崖から転落してしまった。
もちろん、隠密も使命を抱えていて暇じゃない。落ちたルランを一瞥すると執拗には追わず、そのまま放って去って行った。
暗闇でわからなかったが、幸いにも落ちた場所は鬱蒼と柔らかい苔が生えていた。お蔭でルランは軽い打撲で済んだが、夜が明けるまでその場から動けなかった。獰猛な獣のいる森でなくてよかったとルランはしみじみ思ったが、結局彼は王女一行を見失ってしまった。
不思議と彼女らは何処へ行ったのか、何の情報もないままルランはその後数週間も彷徨う事となる。
そして今。
彼は偶然立ち寄った小さな村で出会った二人の男と共にいる。
初めは全身緑色の布で覆われた、見るからに感染患者とおぼしき男とそれを支える若い男に、正直関わりたくないと思った。だが、村人達から恐れられ、疎まれ、暴言を吐かれている姿に、元々心根の優しいルランは放っておけなくなったのだ。つい、彼らに持っていた食料を分けようと声をかけようとした時、感染患者の男から漏れた言葉に耳を疑った。
『宵の君』──と。
────それから互いの事情を話して、双方とも驚愕したのは他でもない。
何故だか、ほとんど正気を失っている緑色の男…南軍のミカエル少将を支える彼の直属の部下だという青年ラファの誠実で真摯な態度に接していると、他国の人間に警戒しがちな自分が素直になっていくのにルランは驚く。
そんな魅力のある青年…ラファから【宵の流星】に関する話と、どうしてこうなってしまったかの事情を聞いて、ルランも隠さず自分がゼムカの人間で、宵の君を追うある人物を捜しているという事を説明した。
互いに感情の種類に違いはあれど、慕っている相手を大切に思う気持ちは一緒で、それが二人の共感を生んだ。
しかもこの穢れ人(けがれびと)であるミカエルという人物は、このような状態となっていても優れた気術士であり、【暁の明星】の“気”を僅かでも感じる事ができるらしい。しかもその執念は、彼の五感をも研ぎ澄まし、相手が“気”を封印していたとしても、感情開放や出血などで微量に漏れる“気”を察知できるようになったらしい。
まるで発作のようにその暁の微量の“気”に反応し、彼は取り乱す。そして無意識のうちにそれを求めて徘徊するのだ。
ミカエルが本当に求めているのは、その近くに存在する【宵の流星】の神気であるという事実に、ルランはとても驚いた。そして、その事を知っているのか、知っていたとしてザイゼムの胸中を思うと居たたまれない思いが駆け巡った。
神の力を持つ、セド神王の血を引く者。
その重い存在にルランは眩暈がした。まさかあの宵の君が……。
最初から敵わぬ相手であったのだ。一介の小姓と神王の王子と。
それでも、とルランは思う。見届けなければ、そして自分の想いを全うしなくては……。それがどのような結果になろうとも、自分はもう、元の場所には戻る事はないだろう。
それほどルランにはザイゼムしかいないのだ。
他の誰かでは駄目なのだ。
肉体的に結ばれた夜、ルランは嫌というほど思い知らされてしまった。
思い出になんてできるはずもない。今でも彼の人の体温を思い出しては焦がれ、求めている自分がここにいるのだから。
結局、ルランはミカエルの“鼻”に賭ける事にした。
暁の傍に必ず宵の君はいる。……宵の君に辿り着けば必ずザイゼムに会える。
そう確信して。
ルランは海の方角を気にするミカエルを眺めながら、大きく息を吐いた。
* * *
「で、どういう事よ!見失うなんて!」
「王女、声が大きいですぞ?少し落ち着き……」
「これが落ち着けって?お兄様の隠密は優秀じゃなかったの?何でいきなり足跡が途絶えるのよ。おかしいわよ」
「仕方ないですよ……突然第一王子が王都を占拠したと思ったら、私設軍の反撃とかで大きな戦闘になってしまって……王都が滅茶苦茶です。幸いなことに大帝が国にお戻りになった後で本当によかったですが…ま、その余波で周辺の村が巻き添え食って大変な事になりましたが」
南の国大将ドワーニはそう言って肩を竦めた。その横では頭を抱えている王女付きのモンゴネウラがいる。そして彼らの目の前には真っ赤な髪と同じく怒りで頬を紅潮させて仁王立ちしている南の王女、リー・リンガがいた。
彼ら3人は中央王都から急いで隠密のいる村に無事辿り着き、彼らから暁達のいる場所を確認し、その目当ての村へと急いだ筈、なのだ。ところが辿り着いた村にはもうすでに彼らの姿はなく、別の所へ移動したと報告を受けた。
その時点ですでに王都は混乱の渦にあり、地方ながらも中央軍の介入が始まったせいでリンガ達もその場を動けなくなってしまったのだ。それに加えて優秀な筈の隠密が暁達一行を途中で見失うという失態を犯した。
何分、ぷっつりとある村で彼らの消息が絶ってしまった。その村は公表こそされてはいなかったが、北の王家に関係する土地だったようだ。簡単に探るのが難しいほど、謎の多い村でもあった。
そしてやっと中央軍の縛りが解放されて、ようやくその場から動けるようになった彼女らは、消息を絶ってしまった暁一行を思って憔悴した。
特にリンガは始終機嫌が悪く、ちょっとしたことで癇癪を起す。慣れているモンゴネウラでさえも、すでにお手上げ状態である。
「とにかく王女、今隠密も色々と当たっています。だから我々もようやく中央軍の戒厳令が解けて動けるようになったのですから、冷静に対処していかないとなりません。すぐにでも動けるように、準備だけはいたしましょう」
モンゴネウラは痛むこめかみを手で押さえながら溜息交じりにそう言った。
「そうです!苛立つのはわかりますが、ここが正念場です。諦めて帰るわけにはいかんでしょう?」
ドワーニも眉間に皺を寄せながら大げさに両手を広げた。
「……う、うう。わかってるわよっ。……諦めるわけないじゃない」
リンガも顔をしかめて拳を震わせる。
まだまだ前途多難な予感がするのを、そうして彼女はその拳で思いっきり握りつぶした。
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